贖罪の救世主

水野アヤト

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第六十話 女王の決断

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 アマリリスが⋯⋯⋯、もとい、もう一人のアマリリスがユリーシアを殺そうとした夜。
 今は裏リリスなどと呼ばれている彼女は、かつて名無しの悪魔と呼ばれた、伝説の殺人鬼である。普段はその人格を隠しているお陰で、ウルスラ達に勘付かれずに、ヴァスティナ城へ潜り込む事ができた。
 ユリーシアを殺す理由は、金で雇われたからである。大好きな人殺しで金を得られるという、彼女にとってはこの上ない素晴らしい仕事と言えた。

 暗殺決行の日。女王の寝室に窓から忍び込んだ彼女は、ユリーシアを絞殺しようと考えていた。決行の日まで、あの可愛らしい少女を如何にして芸術的に殺すか、悩み抜いた末に決めた殺し方である。
 眠っている相手をばらばらに解体してしまうだけでは、少々勿体ない。華奢な彼女の身体だと、刺殺や殴殺では直ぐに死んでしまうため、つまらない。そこで絞殺を選んだ。
 首を折ってしまわないように注意しながら、両手で首を絞め上げる。そうすれば、相手は苦しくなって飛び起き、息ができず悶え苦しむ事だろう。その苦しむ様と、死の恐怖に怯える顔と、自分の手で命を奪う感触を堪能するために、彼女はベッドで眠るユリーシアの首に手を掛けようとした。

 その時、人の気配を感じ取ったユリーシアが、目を覚ましてしまった。目の見えぬユリーシアは、物音や匂いに敏感で、寝ている時でもそれは変わらない。
 ユリーシアは、自分を殺そうとする彼女が纏うメイド服に付いた、微かに香るお菓子の甘い匂いで目を覚ました。目の前にいるのが彼女だと気付いたユリーシアは、自身へと向けられる殺気と、彼女が纏う空気の違いから、彼女が自分の知る彼女ではないのだと悟る。
 目覚めたユリーシアに少し驚いた彼女だが、絞殺を続けようとした。するとユリーシアは、天使のように純粋な微笑みを浮かべ、「せめて、痛くない方法にして下さい」と彼女に頼んだ。
 
 ユリーシアは死を恐れていなかった。彼女が見たユリーシアは、自らの死期が近いと悟り、既に死を覚悟している者の姿だった。ユリーシアが望んだのは生への執着ではなく、安らかなる死であったのだ。
 彼女が殺してきた人間で、ユリーシアのような人間がいなかったわけではない。狂信者が神の祝福を信じて喜んで殺されたり、死に救済を求めて笑って殺された者もいる。ユリーシアのように、自らの死を覚悟して殺された者も、一人や二人ではない。
 だが彼女は、微笑んで死を求めるユリーシアが殺せなかった。ユリーシアは自分のためにではなく、彼女のためにと思い、死のうとしていたからだ。
 
 今まで殺してきた者達で、彼女のために死を選ぶ者はいなかった。ユリーシアは、殺す事でしか心の渇きを癒せない彼女の苦しみを憂い、自分の命を差し出した。
 それが彼女は恐ろしかった。自分の眼前にいるこのか弱い少女が、化け物と恐れられた彼女を、心の底から恐怖させたのだ。
 誰かを殺すという行為に、彼女は罪悪感を覚えない。罪の意識を覚えるような殺しを、一度も経験した事がないのである。だから彼女は、「死ぬのが恐ろしくないのか」と、初めて殺す相手に問うてしまった。
 そうしたらユリーシアは、「本当に恐ろしいのは、貴女が苦しんでしまうこと」だと答えた。その異常なまでの慈愛と覚悟が、殺しが恐いと彼女に感じさせた。

 人殺しに恐怖したのは、後にも先にもこれが初めてだった。初めての感情に戸惑い、混乱して何もできなくなった彼女の手に、細く色白いユリーシアの手が触れた。
 壊してしまいそうな柔らかで華奢な手が、ユリーシアの温もりを彼女に教えてくれた。そしてユリーシアの手は、止まっていた彼女の手を、ゆっくりと自分の首筋に持って来させ、力を入れるように促した。
 「やめろ」と言ってしまった。彼女は自分の口から、殺しを拒否してしまったのだ。ユリーシアへの恐怖と、自分の感情に負けた彼女は、堪らず心の奥に引っ込んでしまった。

 そして気弱で優しい彼女へ戻り、彼女はユリーシアに抱き付いて泣いた。「殺せない、殺したくない」と言って泣き続け、ユリーシアの胸元で大泣きしたのである。それから先は、彼女がアマリリスの名を与えられ、ユリーシアへの忠誠を誓い、今に至る。
 以来、もう一人のアマリリスは、ユリーシアの命令だけには従った。この世で初めて自分を恐怖させ、自分のような悪魔すらも愛そうとする。そんなところに惚れたからだと、後に彼女は語るのだった。









「絞め殺すくらいなら、いっそ私の首を折って見せろ」
「⋯⋯⋯!」

 自分の首筋に当てられた両手の感触。その感触が自分を簡単に殺せるのだと知りながら、アンジェリカは裏リリスを挑発する。恐ろしいはずなのに、逃げず堂々しているアンジェリカの姿に敬意を表したのか、裏リリスの手は止まった。
 
「そんなに誰か殺したければ、私を好きにすればいい。但し、ベルトーチカには手を出すな」

 力強く真っ直ぐな瞳が、裏リリスに見つめて離さない。死を覚悟するアンジェリカの姿が、裏リリスにとって忘れる事ができない日の夜に見た、あの儚き少女の姿と重なった。
 アンジェリカの腹違いの姉、ユリーシア。裏リリスがユリーシアの命を奪おうとした時も、彼女は同じ殺し方をしようとした。命を差し出したユリーシアの姿と、今のアンジェリカの姿が重なり合い、まるでユリーシアが生きているかのように錯覚させる。

「⋯⋯⋯やっぱお前は、ユリーシアと違うな」
「!?」

 化け物である自分を前にして、ユリーシアと同じように、己の命を差し出すアンジェリカ。亡きユリーシアと重なってしまうが、所詮、錯覚は錯覚でしかないのだと裏リリスは分かっている。

「お前もユリーシアも、あたし様に自分を殺させようとしやがる。でもお前は、あたし様のためじゃなく、そこにいる男のために死のうとしてる。そんなに大事なら捨てようなんて考えんなよ」
「アマリリス、お前⋯⋯⋯」
「屑メイド共が幻影に囚われてるせいで、いつまで経ってもお前はユリーシアの身代りだと思ってたが、ちょっとは自我に目覚めたってか? まあ囚われてんのは、お前自身も同じだがな」

 裏リリスの言う通りであった。アンジェリカ自身も、彼女を守ろうとするメイド達も、皆ユリーシアの影を追って今日まで生きてきた。
 裏リリスの放った言葉は、ノイチゴ達の胸に突き刺さった。自分達はアンジェリカにユリーシアを重ね、彼女に依存しているばかりであると思い知らされる。

「⋯⋯⋯構わない」
「ああ⋯⋯⋯?」
「姉様への忠誠で私に命を捧げるというなら、それでも構わない。私の贖罪のために力を貸してくれるなら、理由なんて何だっていい」

 アンジェリカもまた、裏リリスの言葉によって、自分がユリーシアに囚われているのだと思い知った。そうだとしても彼女には、果たしたいただ一つの望みがある。

「私、アンジェリカ・ヴァスティナの望みは、亡きユリーシアの願いを叶えることだ。そのために姉様が必要だと言うなら、いくらでも私を慰みものにすればいい」
「笑わせてくれるぜ! お前にユリーシアの代わりが務まるもんかよ!?」
「気に入らないなら、お前の手で私を殺せ。だがベルトーチカは⋯⋯⋯、私の贖罪に関係ない。ベルトーチカだけは巻き込むな。それと――――」

 一瞬だけアンジェリカは言葉を躊躇った。ただそれは、恐怖によるものではない。どちらかと言えば、少し照れ臭かったからである。

「お前と、そしてアマリリスが⋯⋯⋯。私を姉様の妹ではなく、アンジェリカとして扱ってくれたことが、とても嬉しかった⋯⋯⋯」

 裏リリスへの感謝を口にしたアンジェリカが、言葉を終えて目を伏せる。死を覚悟したアンジェリカが、皆の悲鳴を受けながら己の死を待っていると、裏リリスの手が自分の首筋から離れていくのを感じた。
 アンジェリカが目を開けると、裏リリスはまたも狂気な笑みを浮かべていた。しかしその笑みは何処か柔らかく、殺意が感じられない。その裏リリスの瞳から、一筋の涙が頬を伝って流れ落ちる。

「⋯⋯⋯眠っているこいつにも、お前の声が届いたらしい。あ~あ⋯⋯⋯、白けちまったぜ」
 
 裏リリスから殺意は完全に消え失せた。彼女が誰も襲わないのだと、アンジェリカが安堵した刹那、突如現れた二人の人物が裏リリスに飛び掛かり、体重をかけて彼女を地面に押し倒す。
 裏リリスを取り押さえたのは、先程までの彼女以上に殺気を帯びた、リンドウとラフレシアであった。それぞれの得物を手に、裏リリスの自由を奪った二人は、今にも彼女を殺してしまいそうな程、怒りに満ち溢れている。
 あまりの恐ろしさに、アンジェリカやイヴ、それにノイチゴ達も息を呑む。裏リリスはもう大丈夫だと、とても言葉にできる空気ではない。

「誰が出てきて良いと許可した? 殺人中毒の屑女が陛下に触れるんじゃない」
「ぶち殺すじゃ済ませないわよ塵糞殺人鬼。腸全部抉り出してやるわ」
「ぎゃはっ⋯⋯⋯! おっかねぇ馬鹿女共のご登場かよ。こいつら面倒だし、今日はこの辺で勘弁しといてやんぜ」

 殺意も無ければ、二人への戦意もない。怒りが最高潮に達しているリンドウとラフレシアと、今日は殺し合うのをやめた裏リリスが、地面に身体を押し付けられながらも、アンジェリカへ向け顔を上げた。

「アンジェリカ、用があったらまた呼びな。お前のための殺しなら大歓迎だぜ♪」

 怒りに震えるリンドウとラフレシアが、最大級の警戒を向ける中で、裏リリスはゆっくりと目を伏せていき、静かに眠りへと付いた。
 この場の全員、心の底から安堵の息が漏れる。ワイヤーの拘束も力を失い、イヴ達は自然と解放されていく。リンドウとラフレシアも、押し倒した彼女への拘束を解いた。
 誰一人として死者は出なかったが、この緊迫した大事件の張本人は、我関せずとでも言うかのように、静かな寝息を立て、気持ち良さそうに眠っているのだった。
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