贖罪の救世主

水野アヤト

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第六十話 女王の決断

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第六十話 女王の決断






 ゼロリアス帝国グルーエンバーグ領内。
 そこは、帝国第四皇女アリステリア・レイ・サラス・ゼロリアスの臣下、「風将」ことクラリッサ・グルーエンバーグの治める小さな領地である。
 曇り空に覆われた午後、畑仕事に精を出す領民達の様子を、領主たるクラリッサは愛馬に跨り見回っていた。自身が治める領地にいる間は、雨の日も風の日も、雪が降り積もる日であろうと、田畑を視察するのが彼女の日課である。
 戦場の時と変わらぬ甲冑姿で、共も連れず、土を耕す領民達の作業の様子を、黙って彼女は見渡していた。するとそこへ、幼い男の子が老人の手を引いて彼女の傍に歩み寄り、愛馬の上にあるクラリッサの姿を見上げる。

「こんにちは、領主様!」
「うむ。変わりはないな?」
「うん! 領主様は元気?」
「無論だ」

 クラリッサは笑み一つ零さなかったが、その子供は満面の笑顔を彼女に向ける。領主に対して無礼だと、子供を叱ろうとした老人を、表情を変えずクラリッサは制した。

「良い。子供のすることだ」
「ありがとう御座います、クラリッサ様」

 孫の代わりに老人が頭を下げると、クラリッサは視線を再び田畑へ向ける。言葉にこそしなかったが、子供が向けた笑顔を見て、彼女は内心満足していた。

「⋯⋯⋯領民の様子はどうか?」
「クラリッサ様が手配して下さった新品の農具のお陰で、皆楽をさせて頂いております」
「食料の方は?」
「ご指示通り、十分な蓄えを用意しております。今年も飢える者は誰一人としておりません」
「そうか。食べ物に不足がなければ、それで良い⋯⋯⋯」

 極北の国、ゼロリアス帝国の冬は、人間が生きていくには厳しい大地である。作物を育てるのが難しい、この寒い乾燥した大地では、大陸南方と比べると、食料生産能力は高くない。その年がもし不作であったなら、厳しい冬を越すための食べ物が不足する。
 領主のクラリッサを含め、この大地に生まれた者であれば、誰しもが理解している現実だ。改めて確かめる必要がない程、食料備蓄は領民にとって当然の準備だが、特にクラリッサは領内の食料事情に力を入れていた。
 彼女が領主としての務めを果たしている際の口癖は、「我が領内では、一人として飢えさせん」である。この言葉通り、クラリッサがグルーエンバーグ領を治めるようになってから、飢えで死んだ者はいない。
 
「用あれば、いつでも私の屋敷を訪ねよ」

 特に問題はないと分かり、クラリッサは愛馬の手綱を引いて、自身の屋敷へと戻ろうとした。立ち去ろうとする彼女に向かい、子供が笑って大きく手を振って見送ると、笑みこそ浮かべなかったが、彼女もまた小さく手を振り返す。
 愛馬と共に屋敷へと向かう道中、畑仕事に精を出す男達や、通りすがる女子供が、クラリッサの名を呼んで笑顔を浮かべる。領民達から慕われるクラリッサだが、変わらぬ寡黙な振る舞いで、皆の前を通り過ぎていった。
 やがて、愛馬はクラリッサの屋敷に到着する。馬小屋に愛馬を帰し、屋敷へと戻った彼女を出迎えたのは、還暦を迎えた執事と若い侍従だった。

「今戻った」
「お帰りなさいませ。この後は如何なさいますか?」
「執務に戻る。夕食までに残りの仕事を片付けたい」
「久方振りに我が家へお戻りになられたのですから、お休みになられても宜しいのですよ」
「皆の顔を見て良い気分転換になった。案ずることはない」

 自分の治めるこの領地に、クラリッサが帰って来たのはつい最近の事である。それまではアリステリアに付き従い、彼女が皇都に戻るまで領地を留守にしていた。
 クラリッサが自分の領地に戻れたのも、皇都に帰ったアリステリアの許しが出たからである。寧ろ許可というより、領主としての務めを果たせという命令に近かった。だがそれは、クラリッサに無理を強いるわけではなく、彼女に与えた休息という意味合いが大きい。
 しかし、我が家に帰って来たクラリッサは、朝早くから夕暮れ時まで領主の務めに精を出し、体が休まる暇を自分に与えない。領地にいる間はいつも、あの暴風の如き猛将の姿は一切なくなり、領民から愛され尊敬される良き領主となっている。
 
 言っても聞かないと分かっているが、執事も侍従も、いつか無理が祟って、クラリッサが倒れてしまうのではないかと危惧している。仕事が無い日は鍛錬に打ち込むか、勉強と読書に時間を使うため、彼女が丸一日休む姿は誰も見た事がない。
 特に読書については、クラリッサの趣味などではなく、アリステリアから学びの一環として義務付けられている。これは氷将ジル・べアリットも同じであり、種類は問わないから一冊でも多くの本を読めとの第四皇女命令を受けている。
 
「すまないが、後で部屋に茶を持ってきてくれ。喉が渇いた」
「畏まりました」

 侍従の手を借りて甲冑を脱ぎながら、執事に茶の用意だけを頼むと、クラリッサは自分の部屋へと戻っていく。それから夕食までの間、彼女は部屋を一歩も出る事なく、自室にこもって黙々と仕事に片付けていった。









 仕事を終え、執事と侍従が傍に控える中、一人夕食を終えたクラリッサは、湯で身体を洗った後、寝室で自分の時間を過ごしていた。
 自分に厳しくある彼女が、自らに許した就寝前の余暇。この時間クラリッサは眼鏡をかけ、自室で一人趣味に没頭している。その趣味というのは占いであり、星やタロットに加え花占いまで、種類は多岐に渡る。
 蝋燭の明かりの下で、机の上に並べられる数枚のカード。右手で一枚手に取り、左手で本の頁をめくりながら、熱心に彼女は占った結果を調べていた。
 今占っているのは、彼女の主君アリステリアの行く末である。結果は何度やっても、クラリッサが喜べるようなものではなく、所詮占いだと思いながらも、彼女の心に影を落とす。

 武闘派の印象が強い彼女の意外な趣味は、多くの人間を驚かせる事だろう。事実アリステリアはこれを知って、本当かと三回聞いて確かめた程である。
 アリステリアをも驚かせた趣味に熱中している間と、執務に取り組む際には、クラリッサの眼鏡姿を目にする事ができる。この眼鏡はアリステリアが与えたのもので、曰く「品のないお前でも、眼鏡をかければ賢そうに見える」であった。
 眼鏡は伊達であり、目が良いクラリッサにとっては本来不要なものである。しかし、この眼鏡をとても気に入っているクラリッサは、視力に関係なく、執務や趣味の時間の際には、常にかけるようにしている。
 普段眼鏡をかけていないのは、戦闘で壊れてしまうのを恐れているからだ。平時に短気な自分が、誰かと揉めた際に誤って破壊しないよう、大切に保管しているという理由もある。

 気持ちを切り替え、今度は明日の天気でも占おうと思うクラリッサ。今日は曇り空で、陽の光がほとんど差さなかった。明日は晴れて欲しいと願いながら、カードを集めてまた机の上に並べていく。
 天気を占おうとしていた彼女の手を、寝室の扉を叩く音が止めてしまう。占いを中断したクラリッサが、ノックした人物に入室を許すと、寝室の扉が開かれて、彼女の執事が姿を現した。

「失礼致します。お邪魔してしまい申し訳ありません」
「良い。何があった?」
「皇女殿下より報せが参りました」
「⋯⋯⋯そうか。ならば明日の朝ここを発つ」

 報告を朝まで待たず、自らの執事がここへ現れた時点で、ほとんど予想は出来ていた。察した通り、戻って来いというアリステリアからの命令に、顔色を変えずクラリッサは了解した。
 何時でも、如何なる場合でも、戻れと命じられれば即時帰還する覚悟でいる。第四皇女の風将として、何より彼女の剣として、最優先となるのはアリステリアの存在なのだ。
 
「また暫くの間、ここを離れることになるだろう。許せ」
「我らのことはお気になさらず、どうぞ殿下の御傍へ⋯⋯⋯。出発の支度は済ませておきます」
「助かる」

 この老いた執事も若い侍従も、元はアリステリアに仕えていた者達である。クラリッサにグルーエンバーグ領が与えられた際、アリステリアの命令で彼女に仕えるようになった。
 当時クラリッサは、アリステリアの護衛の一人に過ぎず、領地はおろか、自分の姓すら持ってはいなかった。本来のグルーエンバーグ家当主が不慮の死を遂げ、跡継ぎのいなくなったこの家を、アリステリアの命でクラリッサが継いだのだ。
 グルーエンバーグ家は、既に夫人を病で亡くし、子供達は戦争で命を落としていた。「血の絶えた家だから好きにして良い」と言って、アリステリアはクラリッサに爵位を与えたのである。

 貴族になったとは言っても、急に領地を任されたクラリッサに、領主としての務めを果たすなど無茶な話である。未熟な彼女を補佐するために付けられたのが、この執事と侍従だった。
 彼らに支えられたクラリッサは、領主として若輩者でありながら、良くこの地を治められた。しかしそれは、彼らの支えがあったという理由だけでなく、彼女が良き領主となるべく勉学に励み、努力した賜物だ。
 一つだけ、まだ未熟な点が彼女にあるとするならば、彼らや領民達に対して、彼女が緊張してしまっている点だろう。自分が貴族となれたのが未だに信じられず、領民を前にすると表情が固まってしまう事を、皆知っている。
 勿論、領民達の前ではしたない姿を見せないため、自らを戒めているという理由もあった。ただ不器用な彼女は、幼い子を前にしても、どう接して良いか分からず、笑いかける事すらできないのである。

「せめてあと数日だけ、皆の生活を見守っていたかった⋯⋯⋯」
「クラリッサ様⋯⋯⋯」

 領民が彼女を慕う様に、彼女もまた領民達を愛し、このグルーエンバーグ領を愛している。許されるならば、もう少しここに留まっていたいという思いを、信頼している執事の前で吐露してしまう。
 自分がアリステリアの剣である以上、自らの願いではなく、彼女の命令が最優先でなければならない。アリステリアへの忠誠を誓ったクラリッサにとって、思わず口にしてしまった今の言葉は失言だった。
 自らに厳しく在り、どこまでも忠義を貫く彼女の姿に、執事は胸を痛めた。だが彼には、アリステリアに己の命を捧げたクラリッサの意志を、絶対に変える事は出来ない。彼にできるのは、クラリッサが安心して領地を離れられるよう、留守を預かる事だけだ。
 
 そして、夜が明けた翌日の朝。
 執事と侍従に見送られ、クラリッサは愛馬に跨り屋敷を発ち、自身の領地グルーエンバーグ領を後にした。
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