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第59.5話 ヴァスティナからの物体X
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その日は酷い大雨で、旧王城の修復作業は一時中断となり、予定されていた軍事訓練も中止になった。嵐の如く吹き荒れる雨風に、城の者達や城下の民達も皆、建物の中から出る事ができず、不安な一日を過ごしている。
雨雲に覆われた空からは、激しい雨と共に雷まで鳴り響く。止みそうもない雷雨の中、城内にある改装途中の大浴場にて、南ローミリアの地図を広げて議論を交わす二人の人物がいる。
湯船に浸かるわけでもなく、まだ未完成の浴場内で二人は床に座り込み、広げた地図を見下ろしてチェスの駒を並べる。地図に配置された駒は、自軍の戦力と、仮想敵国の戦力を表すものだ。
片方は、胡坐をかいて座る猫目の少女。彼女に向かい合う形で座るのは、座布団を敷いて正座する小柄の老婆だった。少女の名はナツル、老婆の名はべラムと言い、どちらもリクトビアのもとで働く軍師である。
ナツルは頭をかきながら、地図上の駒の配置を見下ろし、思考を働かせながらも、投げ出したくなる気持ちを込めて口を開く。
「む~り~! リーちゃん無しで勝つの絶対無理!」
二人が行なっているのは、仮想敵国をゼロリアス帝国と定めた場合における、防衛計画の立案である。この作戦には、今までと同じような、一個の武力に頼らないものが求められた。
簡単に言えば、リクトビアがいなくとも、ゼロリアス帝国軍に勝てる作戦が必要なのである。敵を迎え撃つ立場であるから、地形の有利はこちらに働くが、兵の数と質で帝国に対しては不利となる。おまけに敵は多くの魔法兵部隊を保有し、特殊魔法を操る戦闘部隊も投入できると予想できた。
本当にゼロリアス帝国の軍隊と戦うというならば、リクトビアを含む猛将達が全力を尽くしたとしても、苦戦は必至である。勝利はおろか、五分の戦いに持ち込む事すら難しいだろう。
だからこそ、リクトビア達の力に頼るだけではない、必勝の策が求められている。誰もいない改装中の大浴場などで、二人の軍師が議論を交わし合っている理由は、作戦が外部に漏れるのを避けるためだ。
「っていうか、こんなとこで集中なんてできないって! お婆なんで平気なの!?」
「やれやれ、こんくらいでだらしないねぇ」
「床固いのいや~だ。秘密にすんのめんど~」
「文句はお嬢に言いな。人のせいにするんじゃないよ」
老練なる軍師べラムは、ナツルの文句など全く気にする素振りがない。正座も一切苦ではなく、何時間でも同じ姿勢のまま軍議を続けられる。
対して、才能あふれる若き軍師ナツルは、良い策が思い付かないのもあって、我慢の限界を迎えていた。しかし、べラムからすれば彼女の限界など、「堪え性がない」の一言で片付けられてしまう。これはナツルに特別厳しいわけでなく、誰に対しても変わりはない。
「裏切り者がいるなんてリーちゃんが言うから、どこもギスギスしちゃってさ。それっぽく振る舞うこっちの苦労なんて、リーちゃんは考えてないんだろうな~」
「もうちょっとお嬢のお遊びに付き合えば、その内気にしなくてよくなる」
「⋯⋯⋯やっぱりお婆も分かってたんだ。これでお婆が帝国に寝返ってたなら、面白くなるんだけどな~」
「そうかい? あんたの方がよっぽど胡散臭い顔をしてるよ」
仲が悪いわけではないが、師弟のような間柄である故か、互いを敵視するような言動は、二人の平常運転となっている。付け加えると、未だナツルはべラムに軍略で勝った事がなく、チェスの勝負でも連敗しているため、ライバル意識が非常に強い。
「どうせ僕は胡散臭くて怪しい奴だよ。僕は常に強い者の味方なんだから」
「拗ねなさんな。だからレン嬢ちゃんに疑われたりするんだよ」
「あんな激重変態糞女のことはいいから、そろそろお婆の考え聞かせてよ」
急かすナツルの言葉に従い、べラムは地図のある一点を指差して答える。べラムが指差す場所を見たナツルは、特徴的な猫目を細めて正気かと疑った。
指差された地図上には、南ローミリア最大の大森林が描かれている。未だかつてそこは、軍隊による進軍が不可能と考えられ、一軍事侵攻が行なわれた試しはない。
攻めの軍略を得意とするナツルでさえ、そこからの侵攻はあり得ないと考えている。だが守勢を得意とするべラムの考えは、「攻めのナツル」の異名で呼ばれる彼女が、無いと否定した場所からの侵攻だった。
「この森を抜けるのは無理。道なんかない酷い場所だし、一度迷ったら魔物に食われるか餓死で終了。まあ僕達にとっては天然の防衛線だけどね」
「しかし、森林を抜ければここまで最短距離。短期決戦も狙えて、相手の油断もつける。帝国軍からすれば一石二鳥さね」
「そりゃあ、この大森林を突破する前提の侵攻計画を組めば、最も手薄な方面から進軍もできるし、森を突破さえできるなら良いことだらけだよ? 阿保ほど博打だけど」
老将べラムは、「鉄壁べラム」の二つ名で呼ばれる程の、守勢に強い軍師である。守りに関しては右に出者がいないべラムが、ナツルの言う博打を理解していないはずがない。
南ローミリア防衛を考えるにあたって、話題に出たこの大森林の存在は、軍事的に大きな意味を持つ。人間が通るには険し過ぎるこの森から、敵国の侵攻がないと考えられているからこそ、他方面へ戦力をまわす事ができる。
大森林を抜ける侵攻計画こそ、敵からすれば最も手薄なところを攻める、意表を突いた作戦となる。抜けさえすれば侵攻を阻むものはなく、防衛側を大混乱に陥れた後、各個撃破も可能だろう。
だがこれは、大森林を抜ける事ができればの話であり、危険な賭けである。他方面から攻める方が、これより時間は掛かるが、より安全で確実と言えた。
他方面から来るならば、ナツルとべラムはその方面に戦力を集中し、敵が限界を迎えるまで徹底抗戦の構えを取る。敵が短期での攻略を狙うならば、時間稼ぎこそ、敵が最も嫌がる作戦だからだ。
べラムの考えは、こうした自軍の配置や、敵の思惑を考慮した上である。攻勢を得意とするナツルも、自らが敵側だと仮定し、ここからの侵攻を考えた結果、やはり無いと判断したのにもまた、大きな理由があった。
「仮にここを抜けられる手段があったとしても、抜けた後で足が止まれば――――」
「それがお嬢の企みさね。勘の鈍いお前さんでも、そろそろ分かったんじゃないのかい?」
「⋯⋯⋯!」
べラムの言葉を受け、今この瞬間ナツルの頭の中にあった全ての線が、一本に繋がった。自分がリクトビアの目的を半分しか理解できていなかった事に気付き、騙されたと知って頭を掻きむしったナツルは、胡坐を解いて床に寝転んだ。
大の字になって天井を見上げ、軍議へのやる気を完全に失くしたナツルは、べラムの言う通り勘の鈍い自分へと苛立ち、その怒りをべラムにぶつけた。
「ああくっそ、最悪! お婆分かってて黙ってたよね!? 答え出てるのに考えさせたんだよね!?」
「答えを伏せた方が勉強になる。お前さんはもっと騙し方を学ぶんだね」
「ここで軍議してた時間、ほんと無駄じゃん。あ~、やってらんない⋯⋯⋯」
正解が分かると、途端にやる気をなくしてしまうのが、ナツルの悪い癖である。既に答えが出た事について、彼是と考えるのは意味のない行為であり、何より面白くないと考えているからだ。
「じゃあこれって、最初から全部リーちゃんの策ってことでしょ。軍師の必要性ないじゃん」
「必要とされたいなら精進しな。あたしに勝てないへなちょこの分際で、自惚れるんじゃないよ」
「っんあ~、やめたやめたやめた! 雨でじめじめするし、お風呂で気分転換し~た~い~」
「見て分かる通り改装中さね。男湯と女湯は分けるなんてお嬢がごねるから、余計な工事が増えちまったのさ」
「なんでさ?」
「坊やに裸を見られたくないんだと」
「乙女か!?」
後にナツルは自身の著作に、「恐れ知らずの武神も、男の前では生娘と同じ」と記している。
この二人の軍師が後進育成のために書いた兵法書は、大陸中央や北方にまで流れ、後世に生まれる名軍師達の隠れた教科書となった。
後の世では、名将ドレビン・ルヒテンドルクはべラム著作「守勢の法典」を、紳士将軍ギルバート・チェンバレンはナツル著作「攻撃、連撃、追撃」を愛読書としている。
外は土砂降りの大雨という事で、兵達の休息には丁度良いと考えたリクトビアから、今日の訓練は全て中止と言い渡されている。多くの兵が喜んで体を休める中、休息を命じた本人は元気を持て余しているのだった。
身体を動かさないと落ち着けなかったリクトビアは、仕事中のラングを無理矢理連れ出し、城内の宝物庫で二人きりの時間を過ごしていた。
二人きりと言っても、元気が有り余る彼女のために、護身術の訓練に付き合わせられているのだから、ムードも何もあったものではない。身を守る術をラングが覚えるためだと、上機嫌にリクトビアは語るが、完全に暇潰しのためである。
旧王城を攻め落とした際に、財宝が収められた宝物庫もそのまま制圧された。金銀財宝、宝石類、名画や彫刻に至るまで、宝として価値ある物は、全てこの部屋に保管されている。
薄暗い部屋を照らすのは、空気の入れ替えを行なうための小窓から差す、僅かな外の光のみ。天気が悪いせいで普段よりも暗いが、リクトビアが持参したランプの明かりのお陰で、お互いの姿を見る事ができる。
壁や台の上に飾られるか、或いは木箱などに保管された宝の数々。それらをどけて確保した面積を使い、リクトビアはラングに素手での戦い方を教えていた。
「相手がこう殴ってきたら、すかさずこうして腕を取って⋯⋯⋯。それからこうやって腕を背中にまわせば―――」
「こう、かな⋯⋯⋯?」
「うん、そうそう。それで相手に背中向けさせながら、膝をかっくんさせれば姿勢が崩れるから―――」
「いっ、痛くない?」
「大丈夫、大丈夫。これできる自信なかったら、猫騙しからの金的か目潰しでもいいわよ。好きな方使ってね」
「ぼっ、暴力的だ⋯⋯⋯」
リクトビアが相手役となり、ラングに技をかけさせながら教えている。喧嘩はおろか、虫一匹殺せない優しい男であるが故に、護身術すらぎこちないラングの姿を、愛らしいとリクトビアは思っていた。
一方ラングの方は、自らを相手役とさせながら、敵の撃退方法や壊し方、或いは殺し方を教えてくれるリクトビアの事が、改めて恐ろしいと感じていた。やはり自分に暴力は向かないなと思い、溜め息を吐いてやめてしまったラングを、笑ってリクトビアが慰める。
「安心して。これを今日中に覚えろなんて、そんな無茶は言わないから。明日からも頑張ろうね」
「せめて時々教える程度にして欲しいよ。殴り合いは苦手なんだから」
「え~、つまんなーい」
「暇ならレンでも誘って稽古すればいいじゃないか」
「レンは色々めんどくさいから、こんな場所で隠れてやってるの。ラング君と二人きりの時間邪魔されたくないし」
「二人きりの時間でやることじゃないよね、これ⋯⋯⋯」
「そう? 年頃の男と女が二人きりでやることって言ったら、やっぱり運動でしょ?」
揶揄ってやるつもりで言ったリクトビアだが、意味を理解しながらも落ち着き払ったラングに、逆に驚かされる。顔を赤くするラングが見られると、内心期待していたリクトビアだが、頬を赤らめるのは彼女の方になった。
「戦場なら無敗の女神も、ベッドでは怯えた子猫。初夜の時、緊張し過ぎて気絶した女の子は誰だったっけ?」
「あっ、あれはほら⋯⋯⋯、あれよ! 疲れてたから急に眠くなっただけで―――」
「次の夜では泣き出しちゃって、三度目でやっと―――」
「私が悪かったから! 三回目より前の話はいい加減忘れて!」
無敵の様に見えるリクトビア最大の弱点は、彼女の目の前で意地悪く笑うこの男である。人前で裸になる事に何の抵抗も示さない彼女だが、ラングの前だけでは、生娘の様に恥じらいを覚えてしまうのだ。
むくれてそっぽを向いたリクトビアの姿が愛らしくて、ラングは微笑を浮かべて彼女を見つめる。それがまた恥ずかしくなって、背を向けた彼女は拗ねた子供の様に、膝を抱えて座り込んだ。
そんなリクトビアと背中を合わせ、ラングもまた床に座ると、背中越しから彼女の温もりが伝わった。互いの汗の匂いが混じりながらも、柔らかで甘い彼女の匂いが、ラングの胸の鼓動を早める。
背中越しから、リクトビアの鼓動が早まっているのも伝わる。緊張と沈黙が堪え切れなくなり、先に口を開いたのはリクトビアだった。
「あっ、あのさ⋯⋯⋯。帝国軍撃退作戦のことなんだけど⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯好きにやればいいよ。最初から兵の中に裏切り者なんていないことも、帝国に情報を漏らしてるのが君だってことは、もうわかってるから」
「あれ? バレた?」
二人きりでなければ到底口にはできない、衝撃的なラングの言葉に、リクトビアは少し驚いて見せる程度の反応しか示さなかった。いつかは気付かれると分かっていた事だが、思った以上に早かった為に驚いたのである。
だが彼女は直ぐに、きっとべラムが教えたのだろうと察した。童顔で子供っぽいせいか、ラングにだけは鉄壁べラムも甘いため、彼の情報源になる事が多いのだ。
「君の考えはこうだ。全軍の結束を高めるために、君は裏切り者がいるという嘘を伝え、わざと皆を動揺させた。そんな君こそが情報を漏らしている裏切り者だなんて、誰一人として疑わない」
「嘘なんか言ってないよ? 情報が漏れてる可能性があるって言っただけ」
「⋯⋯⋯言葉巧みに混乱を与えた君は、兵士達が互いを疑い合った先に、固い信頼関係を築くのを期待していた。信頼が最も築き易いのは実戦だから、魔物討伐にも積極的に取り組んだ。同時に君は国外に情報を流して、自分が思い描く帝国軍撃退作戦の策に帝国を嵌めようとしている。これが君の真意だ」
老将べラムの知恵を借りたラングの言葉に、間違いはなかった。背中を合わせたまま、不敵に笑うリクトビアは頷いて答えて見せる。
語られた通り、兵の中に本当は裏切り者など存在しない。仮にもしいたとしても、裏切り者への牽制になり、寧ろ丁度良いとさえ彼女は考えていた。
リクトビアの狙いは、兵達から甘さを取り除く事と、より強固な結束を生む事にあった。
自軍の兵の多くは軍人ではなく、元はただの農民である。それがリクトビアという武神の力で、戦いで勝利を得ながら経験を積み、今日に至る強さを得たに過ぎない。
徹底した規律管理も、兵士としての教育もなされないままだった。そんな彼らを、これから自国の防衛を担う強靭な軍隊とするためには、様々な試練を乗り越えさせなければならかい。裏切り者の存在は、彼ら一人一人に自国防衛の責任感を抱かせ、軍事機密というものを認識させるに、丁度良い試練となる。
事実彼らはリクトビアの宣言以降、疑心暗鬼に囚われ裏切り者を捜し合うだけでなく、情報漏れを強く意識するようになった。兵士達の間だけでなく、家族や友人にうっかり話してしまわないようにも努め、外部への情報漏洩防止を徹底した。
後は、兵士達同士の信頼関係を、より強固なものにするための工作である。兵士が互いを疑い合い、互いを信頼し合えるようにできる、たった一つの方法。それは、戦場で共に戦う以外にない。
極限状態の戦場において兵士達が考えているのは、愛する家族や故郷の事ではなく、共に戦っている戦友の事だけだ。本来であれば、命を預け合う戦友同士に疑心を抱かせる真似は、許されざる愚行だろう。
そこでリクトビアは、魔物討伐という手頃な塩梅の実戦を利用した。肩を並べる戦友を疑っていても、いざ戦闘が始まれば、嫌でも疑心より戦いの方が優先になる。
戦闘の中で、互いに命を懸けて戦い、リクトビアへの忠誠心を示し合い、勝利の美酒を酌み交わす。こうして「信用できる仲間」だと思わせるわけだが、この時重要なのがリクトビアの存在だ。
リクトビアに忠誠を誓い、彼女と共に戦場を駆け、彼女の命令のためには命をも投げ出す。武神リクトビアの存在に魅了された彼らにとって、戦場で彼女への忠誠心を証明する事が、最も信用できる証となるのだ。
「そこまで分かってるなら、帝国軍を潰そうとしてる私の策も説明いらないよね」
「そこから先はべラムも教えてくれなかったんだ⋯⋯⋯」
「やっぱりべラム婆の知恵か。そこは私がちゃんと話せってことね」
自らの意思でラングを裏切るような真似をした、リクトビアの真意。彼を本当に愛しているなら、それは自分の口から話せという、べラムからのメッセージだと理解した彼女は、裏切りの理由を語り始める。
「情報を漏らしたのは本当よ。偽物じゃなく、本物の情報をね。南ローミリアの防衛能力と、防御がもっとも手薄な場所を帝国に教えたのよ」
「どうしてそんなことを?」
「どこから敵が攻めて来るか分かれば、そこに戦力を一点集中できるでしょ? 帝国軍を例の大森林から侵攻させて、苦労して森を抜けたところを、滅多めたに叩き潰してやるのが作戦なわけ」
意気揚々と語られたリクトビアの作戦は、補給困難になる方面から敵を侵攻させ、物資切れを待って一気に殲滅するのが狙いだ。兵力の数でも質でも劣る彼女達が勝つには、全戦力を集中し、頑強に抵抗する他に術が無いのである。
情報を信じれば、敵はあの険しい大森林を侵攻ルートに選び、防衛側の意表を突こうとするだろう。勿論敵側も、この情報が罠ではないかと疑うだろうが、本当に戦力が手薄なのだから、情報を信じざる負えない。
短期決戦を望む帝国軍は、情報が事実だと分かれば、大森林からの奇襲作戦を仕掛けて来る。しかし森を抜けられたとしても、人を喰らっていると恐れられる程の、険し過ぎるこの森林に補給路を敷く事は、如何にゼロリアス帝国軍と言えども不可能だ。
持てる戦力を結集して待ち構え、後は森の突破で疲労した敵軍相手に、一歩も譲らず抵抗し続ければいい。この際の指揮は、守勢において右に出る者がいないべラムが執る。べラムならば、仮に自分が討たれたとしても、敵軍が武器や食料を消費し切るまで、必ず侵攻を阻止できるからだ。
満足に補給ができず、援軍も見込めなくなったところで、指揮をナツルに代わり、一気に攻勢へと転ずる。士気を大きく低下させた敵は総崩れとなり、攻撃戦を得意とするナツルの指揮の前に、確実に殲滅されていくだろう。
軍略に疎いラングは、リクトビアが思い描く作戦の詳細については分からなかった。だがラングは一つだけ、自分の知りたかった事が分かり、一人安堵している。
やはり彼女は、自分達のために裏切りの汚名を被り、敵に内通していたのだと知れた。これだけで分かれば、彼とっては十分だった。
「やっぱり君は、僕達を裏切ってなんかいなかった。それさえ教えてくれれば満足だよ」
「さてはラング君、私のこと信用してなかった?」
「信じてはいたけど、いつも君は僕の想像を遥かに超える大胆な行動をするから、とても心配なんだ。君を失うことだけは、堪えられそうにない⋯⋯⋯」
愛する者を失って堪えられなくなるのは、リクトビアも同じだ。愛する彼を失わないためなら、どんな危険も厭わず、命だっていくらでも懸けられる。
「⋯⋯⋯私ってさ、不器用だから。ラング君のことを想うと、色んな無茶をやれちゃうんだ」
「リクトビア⋯⋯⋯」
「けれどこんなのは、これで最後になると思う。天下のゼロリアス帝国を倒したら、もう誰も私達に喧嘩なんて売ろうと思わなくなる」
振り返ったリクトビアが、ラングの背に抱き付いて、彼の首筋に口付けする。そうしてラングの顔を振り向かせ、二人の目が合った。
互いの息遣いが聞こえる近さで、二人はお互いを見つめ合う。無意識に指を絡め合いながら、二人の唇がゆっくり近付いていく。
「待って」
「んっ?」
「キスの前に、話しておきたいことがあるの」
「なに?」
「この国の名前の話。いつまでも仮の名前じゃ、ラング君に悪いなと思ってさ」
軽く咳払いしたリクトビアは、微笑みと共に、この南ローミリアに新たに誕生した、彼女達の楽園の名を口にする。
「ヴァスティナ帝国。今日からこれが、君と私の国の名よ」
新しいこの国の名が、後の世で南ローミリアのみならず、大陸中央までをも支配する大国に変わる事など、この時の二人は夢にも思わなかった。
先の未来を思い描くより、その名の正体を知るラングにとっては、「それでいいのか」という思いの方が勝っていたからである。
「ヴァスティナって⋯⋯⋯。それ君の飼ってた犬の名前―――」
「かっこいいでしょ」
「⋯⋯⋯ラング国よりはね」
「はい決定。ラング君は今日からラング・ヴァスティナと名乗ること。ラング君が王様で私が王妃ってことで、これからもよろしく」
相談も何もなく、有無を言わせず国の名を決められた。王様であるはずのラングに、全く決定権がないのもおかしな話ではあるが、これくらいの事を許容できない様では、彼女の夫は到底務まらない。
いつも通り受け入れて反論しなかったラングと、話を終えたリクトビアとの間に沈黙が流れる。この場を支配する音は、外の激しい雨音と、顔を近付け合った二人の息遣いだけだった。
少しの沈黙を経て、再び二人の唇の距離が縮まるが⋯⋯⋯。
「待って」
「⋯⋯⋯」
「なっ、なによその不満顔は⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯もしかして、面と向かったキスが恐いの? 何度もしてるのに?」
「そっ、そっ、そっ、そんなわけないじゃない⋯⋯⋯! いっ、今更唇にキスくらいで誰がびび―――」
取り乱すリクトビアの唇をラングが塞ぎ、金色に輝く彼女の瞳が見開かれる。顔を真っ赤にした彼女は逃げようとしたが、結局唇を重ね合い続け、ラングの身を押し倒すのだった。
長い口付けを経て、二人の唇が離れる。他の誰にも見せる事のない、蕩け切ったお互いの顔を確かめ合い、この幸福な時間が永遠であればいいのにと願う。
「リクトビア。僕と一緒に、ヴァスティナを良い国にしよう」
「ええ、そうしましょう。私達と、そして私達の子が、いつまでも平和に暮らせるように⋯⋯⋯」
それから時が流れ、ローミリ大戦末期、ゼロリアス帝国による南ローミリア侵攻が開始された。
誰もが疑わなかったゼロリアス帝国の勝利は、戦妃リクトビア率いるヴァスティナ帝国の力によって裏切られる。ヴァスティナ帝国軍の策に嵌り、ゼロリアス帝国軍は前代未聞の大敗北を喫し、両国は停戦交渉の席へ付く事になった。
この衝撃の勝利が、ヴァスティナという国の力を大陸中に知らしめ、オーデル王国による侵攻が行なわれるまでの長い年月、他国による侵攻を許さなかった。
リクトビア・フローレンスはこの戦で、千の兵を斬り伏せ、多くの敵将を討ち取ったという。リクトビアの武勇は伝説となり、南ローミリアだけでなく、敵であるゼロリアス帝国でもまた、最強の武神として語り継がれていくのだった。
「ところでリクトビア、なんでヴァスティナ帝国って名前にしたの? 帝国って何か知ってる?」
「知らない。帝国にした方がかっこいいし強そうだからそうした」
「ええ⋯⋯⋯」
「強そうな名前の方が、他の国も恐がって攻めて来なくなるでしょ。帝国ってほら、強いの象徴みたいな響きがあるじゃない?」
「この国を守っていくの、とっても不安になってきたよ⋯⋯⋯」
雨雲に覆われた空からは、激しい雨と共に雷まで鳴り響く。止みそうもない雷雨の中、城内にある改装途中の大浴場にて、南ローミリアの地図を広げて議論を交わす二人の人物がいる。
湯船に浸かるわけでもなく、まだ未完成の浴場内で二人は床に座り込み、広げた地図を見下ろしてチェスの駒を並べる。地図に配置された駒は、自軍の戦力と、仮想敵国の戦力を表すものだ。
片方は、胡坐をかいて座る猫目の少女。彼女に向かい合う形で座るのは、座布団を敷いて正座する小柄の老婆だった。少女の名はナツル、老婆の名はべラムと言い、どちらもリクトビアのもとで働く軍師である。
ナツルは頭をかきながら、地図上の駒の配置を見下ろし、思考を働かせながらも、投げ出したくなる気持ちを込めて口を開く。
「む~り~! リーちゃん無しで勝つの絶対無理!」
二人が行なっているのは、仮想敵国をゼロリアス帝国と定めた場合における、防衛計画の立案である。この作戦には、今までと同じような、一個の武力に頼らないものが求められた。
簡単に言えば、リクトビアがいなくとも、ゼロリアス帝国軍に勝てる作戦が必要なのである。敵を迎え撃つ立場であるから、地形の有利はこちらに働くが、兵の数と質で帝国に対しては不利となる。おまけに敵は多くの魔法兵部隊を保有し、特殊魔法を操る戦闘部隊も投入できると予想できた。
本当にゼロリアス帝国の軍隊と戦うというならば、リクトビアを含む猛将達が全力を尽くしたとしても、苦戦は必至である。勝利はおろか、五分の戦いに持ち込む事すら難しいだろう。
だからこそ、リクトビア達の力に頼るだけではない、必勝の策が求められている。誰もいない改装中の大浴場などで、二人の軍師が議論を交わし合っている理由は、作戦が外部に漏れるのを避けるためだ。
「っていうか、こんなとこで集中なんてできないって! お婆なんで平気なの!?」
「やれやれ、こんくらいでだらしないねぇ」
「床固いのいや~だ。秘密にすんのめんど~」
「文句はお嬢に言いな。人のせいにするんじゃないよ」
老練なる軍師べラムは、ナツルの文句など全く気にする素振りがない。正座も一切苦ではなく、何時間でも同じ姿勢のまま軍議を続けられる。
対して、才能あふれる若き軍師ナツルは、良い策が思い付かないのもあって、我慢の限界を迎えていた。しかし、べラムからすれば彼女の限界など、「堪え性がない」の一言で片付けられてしまう。これはナツルに特別厳しいわけでなく、誰に対しても変わりはない。
「裏切り者がいるなんてリーちゃんが言うから、どこもギスギスしちゃってさ。それっぽく振る舞うこっちの苦労なんて、リーちゃんは考えてないんだろうな~」
「もうちょっとお嬢のお遊びに付き合えば、その内気にしなくてよくなる」
「⋯⋯⋯やっぱりお婆も分かってたんだ。これでお婆が帝国に寝返ってたなら、面白くなるんだけどな~」
「そうかい? あんたの方がよっぽど胡散臭い顔をしてるよ」
仲が悪いわけではないが、師弟のような間柄である故か、互いを敵視するような言動は、二人の平常運転となっている。付け加えると、未だナツルはべラムに軍略で勝った事がなく、チェスの勝負でも連敗しているため、ライバル意識が非常に強い。
「どうせ僕は胡散臭くて怪しい奴だよ。僕は常に強い者の味方なんだから」
「拗ねなさんな。だからレン嬢ちゃんに疑われたりするんだよ」
「あんな激重変態糞女のことはいいから、そろそろお婆の考え聞かせてよ」
急かすナツルの言葉に従い、べラムは地図のある一点を指差して答える。べラムが指差す場所を見たナツルは、特徴的な猫目を細めて正気かと疑った。
指差された地図上には、南ローミリア最大の大森林が描かれている。未だかつてそこは、軍隊による進軍が不可能と考えられ、一軍事侵攻が行なわれた試しはない。
攻めの軍略を得意とするナツルでさえ、そこからの侵攻はあり得ないと考えている。だが守勢を得意とするべラムの考えは、「攻めのナツル」の異名で呼ばれる彼女が、無いと否定した場所からの侵攻だった。
「この森を抜けるのは無理。道なんかない酷い場所だし、一度迷ったら魔物に食われるか餓死で終了。まあ僕達にとっては天然の防衛線だけどね」
「しかし、森林を抜ければここまで最短距離。短期決戦も狙えて、相手の油断もつける。帝国軍からすれば一石二鳥さね」
「そりゃあ、この大森林を突破する前提の侵攻計画を組めば、最も手薄な方面から進軍もできるし、森を突破さえできるなら良いことだらけだよ? 阿保ほど博打だけど」
老将べラムは、「鉄壁べラム」の二つ名で呼ばれる程の、守勢に強い軍師である。守りに関しては右に出者がいないべラムが、ナツルの言う博打を理解していないはずがない。
南ローミリア防衛を考えるにあたって、話題に出たこの大森林の存在は、軍事的に大きな意味を持つ。人間が通るには険し過ぎるこの森から、敵国の侵攻がないと考えられているからこそ、他方面へ戦力をまわす事ができる。
大森林を抜ける侵攻計画こそ、敵からすれば最も手薄なところを攻める、意表を突いた作戦となる。抜けさえすれば侵攻を阻むものはなく、防衛側を大混乱に陥れた後、各個撃破も可能だろう。
だがこれは、大森林を抜ける事ができればの話であり、危険な賭けである。他方面から攻める方が、これより時間は掛かるが、より安全で確実と言えた。
他方面から来るならば、ナツルとべラムはその方面に戦力を集中し、敵が限界を迎えるまで徹底抗戦の構えを取る。敵が短期での攻略を狙うならば、時間稼ぎこそ、敵が最も嫌がる作戦だからだ。
べラムの考えは、こうした自軍の配置や、敵の思惑を考慮した上である。攻勢を得意とするナツルも、自らが敵側だと仮定し、ここからの侵攻を考えた結果、やはり無いと判断したのにもまた、大きな理由があった。
「仮にここを抜けられる手段があったとしても、抜けた後で足が止まれば――――」
「それがお嬢の企みさね。勘の鈍いお前さんでも、そろそろ分かったんじゃないのかい?」
「⋯⋯⋯!」
べラムの言葉を受け、今この瞬間ナツルの頭の中にあった全ての線が、一本に繋がった。自分がリクトビアの目的を半分しか理解できていなかった事に気付き、騙されたと知って頭を掻きむしったナツルは、胡坐を解いて床に寝転んだ。
大の字になって天井を見上げ、軍議へのやる気を完全に失くしたナツルは、べラムの言う通り勘の鈍い自分へと苛立ち、その怒りをべラムにぶつけた。
「ああくっそ、最悪! お婆分かってて黙ってたよね!? 答え出てるのに考えさせたんだよね!?」
「答えを伏せた方が勉強になる。お前さんはもっと騙し方を学ぶんだね」
「ここで軍議してた時間、ほんと無駄じゃん。あ~、やってらんない⋯⋯⋯」
正解が分かると、途端にやる気をなくしてしまうのが、ナツルの悪い癖である。既に答えが出た事について、彼是と考えるのは意味のない行為であり、何より面白くないと考えているからだ。
「じゃあこれって、最初から全部リーちゃんの策ってことでしょ。軍師の必要性ないじゃん」
「必要とされたいなら精進しな。あたしに勝てないへなちょこの分際で、自惚れるんじゃないよ」
「っんあ~、やめたやめたやめた! 雨でじめじめするし、お風呂で気分転換し~た~い~」
「見て分かる通り改装中さね。男湯と女湯は分けるなんてお嬢がごねるから、余計な工事が増えちまったのさ」
「なんでさ?」
「坊やに裸を見られたくないんだと」
「乙女か!?」
後にナツルは自身の著作に、「恐れ知らずの武神も、男の前では生娘と同じ」と記している。
この二人の軍師が後進育成のために書いた兵法書は、大陸中央や北方にまで流れ、後世に生まれる名軍師達の隠れた教科書となった。
後の世では、名将ドレビン・ルヒテンドルクはべラム著作「守勢の法典」を、紳士将軍ギルバート・チェンバレンはナツル著作「攻撃、連撃、追撃」を愛読書としている。
外は土砂降りの大雨という事で、兵達の休息には丁度良いと考えたリクトビアから、今日の訓練は全て中止と言い渡されている。多くの兵が喜んで体を休める中、休息を命じた本人は元気を持て余しているのだった。
身体を動かさないと落ち着けなかったリクトビアは、仕事中のラングを無理矢理連れ出し、城内の宝物庫で二人きりの時間を過ごしていた。
二人きりと言っても、元気が有り余る彼女のために、護身術の訓練に付き合わせられているのだから、ムードも何もあったものではない。身を守る術をラングが覚えるためだと、上機嫌にリクトビアは語るが、完全に暇潰しのためである。
旧王城を攻め落とした際に、財宝が収められた宝物庫もそのまま制圧された。金銀財宝、宝石類、名画や彫刻に至るまで、宝として価値ある物は、全てこの部屋に保管されている。
薄暗い部屋を照らすのは、空気の入れ替えを行なうための小窓から差す、僅かな外の光のみ。天気が悪いせいで普段よりも暗いが、リクトビアが持参したランプの明かりのお陰で、お互いの姿を見る事ができる。
壁や台の上に飾られるか、或いは木箱などに保管された宝の数々。それらをどけて確保した面積を使い、リクトビアはラングに素手での戦い方を教えていた。
「相手がこう殴ってきたら、すかさずこうして腕を取って⋯⋯⋯。それからこうやって腕を背中にまわせば―――」
「こう、かな⋯⋯⋯?」
「うん、そうそう。それで相手に背中向けさせながら、膝をかっくんさせれば姿勢が崩れるから―――」
「いっ、痛くない?」
「大丈夫、大丈夫。これできる自信なかったら、猫騙しからの金的か目潰しでもいいわよ。好きな方使ってね」
「ぼっ、暴力的だ⋯⋯⋯」
リクトビアが相手役となり、ラングに技をかけさせながら教えている。喧嘩はおろか、虫一匹殺せない優しい男であるが故に、護身術すらぎこちないラングの姿を、愛らしいとリクトビアは思っていた。
一方ラングの方は、自らを相手役とさせながら、敵の撃退方法や壊し方、或いは殺し方を教えてくれるリクトビアの事が、改めて恐ろしいと感じていた。やはり自分に暴力は向かないなと思い、溜め息を吐いてやめてしまったラングを、笑ってリクトビアが慰める。
「安心して。これを今日中に覚えろなんて、そんな無茶は言わないから。明日からも頑張ろうね」
「せめて時々教える程度にして欲しいよ。殴り合いは苦手なんだから」
「え~、つまんなーい」
「暇ならレンでも誘って稽古すればいいじゃないか」
「レンは色々めんどくさいから、こんな場所で隠れてやってるの。ラング君と二人きりの時間邪魔されたくないし」
「二人きりの時間でやることじゃないよね、これ⋯⋯⋯」
「そう? 年頃の男と女が二人きりでやることって言ったら、やっぱり運動でしょ?」
揶揄ってやるつもりで言ったリクトビアだが、意味を理解しながらも落ち着き払ったラングに、逆に驚かされる。顔を赤くするラングが見られると、内心期待していたリクトビアだが、頬を赤らめるのは彼女の方になった。
「戦場なら無敗の女神も、ベッドでは怯えた子猫。初夜の時、緊張し過ぎて気絶した女の子は誰だったっけ?」
「あっ、あれはほら⋯⋯⋯、あれよ! 疲れてたから急に眠くなっただけで―――」
「次の夜では泣き出しちゃって、三度目でやっと―――」
「私が悪かったから! 三回目より前の話はいい加減忘れて!」
無敵の様に見えるリクトビア最大の弱点は、彼女の目の前で意地悪く笑うこの男である。人前で裸になる事に何の抵抗も示さない彼女だが、ラングの前だけでは、生娘の様に恥じらいを覚えてしまうのだ。
むくれてそっぽを向いたリクトビアの姿が愛らしくて、ラングは微笑を浮かべて彼女を見つめる。それがまた恥ずかしくなって、背を向けた彼女は拗ねた子供の様に、膝を抱えて座り込んだ。
そんなリクトビアと背中を合わせ、ラングもまた床に座ると、背中越しから彼女の温もりが伝わった。互いの汗の匂いが混じりながらも、柔らかで甘い彼女の匂いが、ラングの胸の鼓動を早める。
背中越しから、リクトビアの鼓動が早まっているのも伝わる。緊張と沈黙が堪え切れなくなり、先に口を開いたのはリクトビアだった。
「あっ、あのさ⋯⋯⋯。帝国軍撃退作戦のことなんだけど⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯好きにやればいいよ。最初から兵の中に裏切り者なんていないことも、帝国に情報を漏らしてるのが君だってことは、もうわかってるから」
「あれ? バレた?」
二人きりでなければ到底口にはできない、衝撃的なラングの言葉に、リクトビアは少し驚いて見せる程度の反応しか示さなかった。いつかは気付かれると分かっていた事だが、思った以上に早かった為に驚いたのである。
だが彼女は直ぐに、きっとべラムが教えたのだろうと察した。童顔で子供っぽいせいか、ラングにだけは鉄壁べラムも甘いため、彼の情報源になる事が多いのだ。
「君の考えはこうだ。全軍の結束を高めるために、君は裏切り者がいるという嘘を伝え、わざと皆を動揺させた。そんな君こそが情報を漏らしている裏切り者だなんて、誰一人として疑わない」
「嘘なんか言ってないよ? 情報が漏れてる可能性があるって言っただけ」
「⋯⋯⋯言葉巧みに混乱を与えた君は、兵士達が互いを疑い合った先に、固い信頼関係を築くのを期待していた。信頼が最も築き易いのは実戦だから、魔物討伐にも積極的に取り組んだ。同時に君は国外に情報を流して、自分が思い描く帝国軍撃退作戦の策に帝国を嵌めようとしている。これが君の真意だ」
老将べラムの知恵を借りたラングの言葉に、間違いはなかった。背中を合わせたまま、不敵に笑うリクトビアは頷いて答えて見せる。
語られた通り、兵の中に本当は裏切り者など存在しない。仮にもしいたとしても、裏切り者への牽制になり、寧ろ丁度良いとさえ彼女は考えていた。
リクトビアの狙いは、兵達から甘さを取り除く事と、より強固な結束を生む事にあった。
自軍の兵の多くは軍人ではなく、元はただの農民である。それがリクトビアという武神の力で、戦いで勝利を得ながら経験を積み、今日に至る強さを得たに過ぎない。
徹底した規律管理も、兵士としての教育もなされないままだった。そんな彼らを、これから自国の防衛を担う強靭な軍隊とするためには、様々な試練を乗り越えさせなければならかい。裏切り者の存在は、彼ら一人一人に自国防衛の責任感を抱かせ、軍事機密というものを認識させるに、丁度良い試練となる。
事実彼らはリクトビアの宣言以降、疑心暗鬼に囚われ裏切り者を捜し合うだけでなく、情報漏れを強く意識するようになった。兵士達の間だけでなく、家族や友人にうっかり話してしまわないようにも努め、外部への情報漏洩防止を徹底した。
後は、兵士達同士の信頼関係を、より強固なものにするための工作である。兵士が互いを疑い合い、互いを信頼し合えるようにできる、たった一つの方法。それは、戦場で共に戦う以外にない。
極限状態の戦場において兵士達が考えているのは、愛する家族や故郷の事ではなく、共に戦っている戦友の事だけだ。本来であれば、命を預け合う戦友同士に疑心を抱かせる真似は、許されざる愚行だろう。
そこでリクトビアは、魔物討伐という手頃な塩梅の実戦を利用した。肩を並べる戦友を疑っていても、いざ戦闘が始まれば、嫌でも疑心より戦いの方が優先になる。
戦闘の中で、互いに命を懸けて戦い、リクトビアへの忠誠心を示し合い、勝利の美酒を酌み交わす。こうして「信用できる仲間」だと思わせるわけだが、この時重要なのがリクトビアの存在だ。
リクトビアに忠誠を誓い、彼女と共に戦場を駆け、彼女の命令のためには命をも投げ出す。武神リクトビアの存在に魅了された彼らにとって、戦場で彼女への忠誠心を証明する事が、最も信用できる証となるのだ。
「そこまで分かってるなら、帝国軍を潰そうとしてる私の策も説明いらないよね」
「そこから先はべラムも教えてくれなかったんだ⋯⋯⋯」
「やっぱりべラム婆の知恵か。そこは私がちゃんと話せってことね」
自らの意思でラングを裏切るような真似をした、リクトビアの真意。彼を本当に愛しているなら、それは自分の口から話せという、べラムからのメッセージだと理解した彼女は、裏切りの理由を語り始める。
「情報を漏らしたのは本当よ。偽物じゃなく、本物の情報をね。南ローミリアの防衛能力と、防御がもっとも手薄な場所を帝国に教えたのよ」
「どうしてそんなことを?」
「どこから敵が攻めて来るか分かれば、そこに戦力を一点集中できるでしょ? 帝国軍を例の大森林から侵攻させて、苦労して森を抜けたところを、滅多めたに叩き潰してやるのが作戦なわけ」
意気揚々と語られたリクトビアの作戦は、補給困難になる方面から敵を侵攻させ、物資切れを待って一気に殲滅するのが狙いだ。兵力の数でも質でも劣る彼女達が勝つには、全戦力を集中し、頑強に抵抗する他に術が無いのである。
情報を信じれば、敵はあの険しい大森林を侵攻ルートに選び、防衛側の意表を突こうとするだろう。勿論敵側も、この情報が罠ではないかと疑うだろうが、本当に戦力が手薄なのだから、情報を信じざる負えない。
短期決戦を望む帝国軍は、情報が事実だと分かれば、大森林からの奇襲作戦を仕掛けて来る。しかし森を抜けられたとしても、人を喰らっていると恐れられる程の、険し過ぎるこの森林に補給路を敷く事は、如何にゼロリアス帝国軍と言えども不可能だ。
持てる戦力を結集して待ち構え、後は森の突破で疲労した敵軍相手に、一歩も譲らず抵抗し続ければいい。この際の指揮は、守勢において右に出る者がいないべラムが執る。べラムならば、仮に自分が討たれたとしても、敵軍が武器や食料を消費し切るまで、必ず侵攻を阻止できるからだ。
満足に補給ができず、援軍も見込めなくなったところで、指揮をナツルに代わり、一気に攻勢へと転ずる。士気を大きく低下させた敵は総崩れとなり、攻撃戦を得意とするナツルの指揮の前に、確実に殲滅されていくだろう。
軍略に疎いラングは、リクトビアが思い描く作戦の詳細については分からなかった。だがラングは一つだけ、自分の知りたかった事が分かり、一人安堵している。
やはり彼女は、自分達のために裏切りの汚名を被り、敵に内通していたのだと知れた。これだけで分かれば、彼とっては十分だった。
「やっぱり君は、僕達を裏切ってなんかいなかった。それさえ教えてくれれば満足だよ」
「さてはラング君、私のこと信用してなかった?」
「信じてはいたけど、いつも君は僕の想像を遥かに超える大胆な行動をするから、とても心配なんだ。君を失うことだけは、堪えられそうにない⋯⋯⋯」
愛する者を失って堪えられなくなるのは、リクトビアも同じだ。愛する彼を失わないためなら、どんな危険も厭わず、命だっていくらでも懸けられる。
「⋯⋯⋯私ってさ、不器用だから。ラング君のことを想うと、色んな無茶をやれちゃうんだ」
「リクトビア⋯⋯⋯」
「けれどこんなのは、これで最後になると思う。天下のゼロリアス帝国を倒したら、もう誰も私達に喧嘩なんて売ろうと思わなくなる」
振り返ったリクトビアが、ラングの背に抱き付いて、彼の首筋に口付けする。そうしてラングの顔を振り向かせ、二人の目が合った。
互いの息遣いが聞こえる近さで、二人はお互いを見つめ合う。無意識に指を絡め合いながら、二人の唇がゆっくり近付いていく。
「待って」
「んっ?」
「キスの前に、話しておきたいことがあるの」
「なに?」
「この国の名前の話。いつまでも仮の名前じゃ、ラング君に悪いなと思ってさ」
軽く咳払いしたリクトビアは、微笑みと共に、この南ローミリアに新たに誕生した、彼女達の楽園の名を口にする。
「ヴァスティナ帝国。今日からこれが、君と私の国の名よ」
新しいこの国の名が、後の世で南ローミリアのみならず、大陸中央までをも支配する大国に変わる事など、この時の二人は夢にも思わなかった。
先の未来を思い描くより、その名の正体を知るラングにとっては、「それでいいのか」という思いの方が勝っていたからである。
「ヴァスティナって⋯⋯⋯。それ君の飼ってた犬の名前―――」
「かっこいいでしょ」
「⋯⋯⋯ラング国よりはね」
「はい決定。ラング君は今日からラング・ヴァスティナと名乗ること。ラング君が王様で私が王妃ってことで、これからもよろしく」
相談も何もなく、有無を言わせず国の名を決められた。王様であるはずのラングに、全く決定権がないのもおかしな話ではあるが、これくらいの事を許容できない様では、彼女の夫は到底務まらない。
いつも通り受け入れて反論しなかったラングと、話を終えたリクトビアとの間に沈黙が流れる。この場を支配する音は、外の激しい雨音と、顔を近付け合った二人の息遣いだけだった。
少しの沈黙を経て、再び二人の唇の距離が縮まるが⋯⋯⋯。
「待って」
「⋯⋯⋯」
「なっ、なによその不満顔は⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯もしかして、面と向かったキスが恐いの? 何度もしてるのに?」
「そっ、そっ、そっ、そんなわけないじゃない⋯⋯⋯! いっ、今更唇にキスくらいで誰がびび―――」
取り乱すリクトビアの唇をラングが塞ぎ、金色に輝く彼女の瞳が見開かれる。顔を真っ赤にした彼女は逃げようとしたが、結局唇を重ね合い続け、ラングの身を押し倒すのだった。
長い口付けを経て、二人の唇が離れる。他の誰にも見せる事のない、蕩け切ったお互いの顔を確かめ合い、この幸福な時間が永遠であればいいのにと願う。
「リクトビア。僕と一緒に、ヴァスティナを良い国にしよう」
「ええ、そうしましょう。私達と、そして私達の子が、いつまでも平和に暮らせるように⋯⋯⋯」
それから時が流れ、ローミリ大戦末期、ゼロリアス帝国による南ローミリア侵攻が開始された。
誰もが疑わなかったゼロリアス帝国の勝利は、戦妃リクトビア率いるヴァスティナ帝国の力によって裏切られる。ヴァスティナ帝国軍の策に嵌り、ゼロリアス帝国軍は前代未聞の大敗北を喫し、両国は停戦交渉の席へ付く事になった。
この衝撃の勝利が、ヴァスティナという国の力を大陸中に知らしめ、オーデル王国による侵攻が行なわれるまでの長い年月、他国による侵攻を許さなかった。
リクトビア・フローレンスはこの戦で、千の兵を斬り伏せ、多くの敵将を討ち取ったという。リクトビアの武勇は伝説となり、南ローミリアだけでなく、敵であるゼロリアス帝国でもまた、最強の武神として語り継がれていくのだった。
「ところでリクトビア、なんでヴァスティナ帝国って名前にしたの? 帝国って何か知ってる?」
「知らない。帝国にした方がかっこいいし強そうだからそうした」
「ええ⋯⋯⋯」
「強そうな名前の方が、他の国も恐がって攻めて来なくなるでしょ。帝国ってほら、強いの象徴みたいな響きがあるじゃない?」
「この国を守っていくの、とっても不安になってきたよ⋯⋯⋯」
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