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第59.5話 ヴァスティナからの物体X
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山のような軍務から解放されたリックを待っていたのは、我慢できない空腹感であった。書類を片付け終わり、今後の計画をエミリオと話し合い、専属メイドに殺気の込められた視線で見張られた環境から解放され、リックはようやく休息を得る事ができた。
疲れ果てて机に突っ伏していた間に、エミリオもメイファも執務室を後にしており、リック一人が残されていた。疲労が溜まっているため、今すぐ寝室に行って寝たいと思うも、腹の底から響き渡る猛烈な空腹感が、眠気など吹き飛ばしてしまう。
仕方なくリックは、腹の虫を鳴らしながら執務室を出て行く。すると目の前を、一匹の犬が何事も無かったかのように通り過ぎて行った。
何故犬がこんなところにという疑問より先に、食べ物を求める彼の空腹が疑問に勝る。犬など見なかった事にして、ふら付きながらもリックは食堂を目指して歩いた。
食堂に到着したリックだが、既に夕食の時間が終わったのは分かっている。何か食べ物をと思い足を運んだのだが、食堂内はいつもの酔っ払い達が宴会を終えた後だった。
其処ら中に転がっている空き瓶を見るに、随分度数の高い酒を飲んでいたらしい。酔い潰れているヘルベルト達の周りに余り物でもないかと探すが、食べ物は全部彼らの胃袋に消えていた。
仕方なくリックは、誰もいない厨房を確認する。そこで食べ物を探すが、出てくるのは食材の残りばかり。トマトを使ったソースの余りはあるが、米やパンなどの主食はない。発見できたのは乾麺と、調理に使われたであろう具材の残骸である。
「こっちは一刻も早く何か食いたいってのに⋯⋯⋯。面倒だけど料理するしかないな」
料理がなければ作るより他ない。普段調理などほとんどしないが、火を起こして具材を炒め、麺を茹でるくらいは自分でもできる。
残り物となった哀れな食材達を見て、麺類しか選択肢のないリックは、ある料理を思い付いて早速調理に取り掛かる。腹も空いているし、何より可哀想なこの残り物達を、自分の手で救ってやれるならと思うと、調理の気分も上がる。
「これぞ男の料理ってやつにしてやるからな。哀れな食材に魂の救済をってか」
残り物達の救世主気取りで、一人勝手に盛り上がって調理道具を集め、湯を沸かす用意を始める。そうして一人準備を進めていると、食堂に誰か入って来る気配を感じて、一旦調理の手を止める。
気配を察したリックが誰が来たのかを確認しに行くと、そこには傍に誰も連れていないユリーシアがいた。
「⋯⋯⋯というわけで、今夜の夜食はリクトビア式ナポリタン風パスタです」
調理を終えたリックと、料理を待っていたユリーシアが、食堂の席で隣同士に腰かける。テーブルの上に並べられた二人分の皿には、トマトソースと具材が絡められたパスタ料理が、香ばしい匂いと共に湯気を立ち昇らせている。
「美味しそうな匂い⋯⋯⋯」
「陛下の口に入れて大丈夫か、まずは俺が毒見しますね」
久しぶりの料理で失敗していないか心配であるため、最初の一口はリックからいった。毒見など良いから早く食べさせろと、お腹を空かせたユリーシアがリックの服の裾を引っ張るが、もし不味かったらと考えると恐ろしくて食べさせられない。
いや、不味いだけで終われば問題はないだろう。自分の作った料理で彼女が腹を壊したともなれば、メイド長ウルスラが般若と変わってリックのもとに現れる。そうなれば最後、リックに明日はない。
果たしてリックの料理は、ユリーシアの舌を満足させ、彼女の健康に害を与えないか否か。それはリックの毒見の結果次第なわけだが、たかが夜食とは言え、一国の女王が料理を口にするという事は、細心の注意を払うべき大事なのである。
大変な夜食なってしまったと思うも、リックはフォークを使い、恐る恐る自分の作った料理を口に運んだ。しかし、ユリーシアのための毒見とは言っても、今すぐにでも食べ物を欲する彼の胃が、味などという些末な問題で拒否反応を示すはずがない。
「美味い⋯⋯⋯、美味すぎる」
「毒見は済みましたよね? では私も――――」
「待った。陛下の分は俺が食べさせます」
料理自体に問題はない。寧ろ、あまりの美味さに自画自賛したくなる程、空腹の体には殺人的な美味さと言える。
だがリックは、目の見えないその身故に、手探りでテーブルの上のフォークを探すユリーシアのもとから、彼女用のフォークを手に取ってしまう。
「リック様。私をいくつだと思っているのですか? 目が見えなくとも、食事くらい自分でできます」
「恐れながら陛下。これはトマトのソースで作ったパスタです。自分で言うのも何ですが、トマトの甘酸っぱい風味と具材が絶妙に調和した最高の夜食と言えるでしょう」
「だからすぐ食べたいと――――」
「陛下のその純白のドレスに誤ってソースが付いてしまったら、俺はきっとメイド長だけでなく、洗濯担当のリンドウさんに殺されます。陛下は俺に死ねと仰るんですか?」
リックの言う通り、ただでさえ汚れたら目立つこの服に、もしソースの染みなど作りようものなら、彼のみならずユリーシアも確実に説教される。女王が夜食で服を汚すとは何事ですかと、五月蠅く言われるのは目に見えていた。
何よりも、本当は一人で夜食を取るはずだったリックが、自分のせいでウルスラとリンドウに叱られるのは、申し訳ない話である。ソースで服を一切汚さないという覚悟が持てず、ユリーシアはリックの提案を了承した。
「はい陛下、口を開けて下さい」
「恥ずかしいです⋯⋯⋯」
「あなたは我らが女王陛下様なんですから、人に食べさせてもらうくらいで丁度いいんです。恥ずかしがらずに、どうぞ召し上がれ」
頬を少し朱に染めたユリーシアの小さな口に、最初の一口が運ばれる。口に合ったかと一瞬心配したリックだが、そんな不安はユリーシアの笑顔で消え去った。
「美味しいです。こんなに美味しいもの、生まれて初めて⋯⋯⋯」
「褒め過ぎです。これくらい、その辺に寝転がってる飲んだくれ共でも作れますよ」
「いいえ、私にとってはこれが一番なんです。だって、貴方が私に作ってくれたものなんですから」
面と向かってそこまで言われると、照れる気持ちをリックは隠せない。ユリーシアが、嘘偽りない正直な心で言ってくれていると分かるからこそ、尚更照れてしまう。
「煽てじゃなく俺を褒めてくれる優しい人は、陛下とメシア団長くらいです」
「そんなことはないでしょう。皆様、リック様に優しい方ばかりですよ」
「優しくないですよ。今日だってエミリオとメイファに執務室で監禁されて、そのお陰でメシア団長との訓練の予定が無しにされちゃって⋯⋯⋯。俺はメシア団長との時間を――――」
続けようとしたリックだが、ユリーシアの顔を見て言葉が止まる。メシアの話が続くと分かった瞬間から、ユリーシアの笑顔が消え、眉を曇らせてしまったからだ。
「いつもメシアの話ばっかり⋯⋯⋯。私だって、嫉妬の一つも覚えるんですよ」
「ごめん⋯⋯⋯」
「謝らないで下さい。少し意地悪をしたくなっただけです」
再び笑みが戻るユリーシアの顔を、リックは真面に見られなかった。一方ユリーシアも、顔では微笑んで見せるも、内心は複雑だった。
彼を独り占めにしたいわけでもないのに、ユリーシアは本当に嫉妬してしまったのだ。刹那でも彼を、メシアから奪いたいとさえ考えた。その時ユリーシアは、自分が何も知らない少女ではなく、一人の女になりつつある事に気付く。
「おかしいですよね。恋人同士でもないのに、メシアに嫉妬してしまうなんて」
「⋯⋯⋯飼い犬が飼い主以外に懐いてたら、嫉妬するのも無理ないでしょう」
「言われてみたら納得です。リック様は私の忠犬ですものね」
「でもメシア団長の前で尻尾を振るのは許してもらえると、俺としては大変嬉しく――――」
「メシア以外にも簡単に懐いてしまう癖に」
「うぐっ⋯⋯⋯、否定できない」
「ふふっ、本当に正直な人。そんな貴方だからこそ、私は好きになってしまった」
「俺も陛下が大好きです。だからこそ――――」
ユリーシアを真っ直ぐ見つめ、華奢な彼女の手にそっと触れたリックは、力を入れずに優しく彼女の手を握る。その手で感じ取った温もりが、二人の運命を決定付けた、交わした約束の記憶を蘇らせる。
「君が望むなら、どんな敵とも戦うし、誰だって守ってみせるし、手作りの夜食だって振る舞う。望めば世界平和を実現するし、大陸中の紅茶葉を君に献上もできる」
「⋯⋯⋯ならば一つ、私の望みを聞いて下さい」
いつになく真剣な表情をリックに向けるユリーシア。彼女の事だから、無茶をするなとか、命を粗末にしないで欲しいとか、きっとそんな言葉が出るものだとリックは考えていた。
予想した彼女の言葉を待ち構えていると、ユリーシアはそれを悟り、表情を和らげて微笑を浮かべる。
「早く次を食べさせて下さい。せっかくの夜食が冷めてしまいます」
「⋯⋯⋯!」
小さな口を開け、ユリーシアはリックが食べさせてくれるのを待っている。瞳から光を失おうと、彼女は己が心の瞳で相手を捉え、思いを悟れるだけの鋭さを持つ。
この少女の前では、どうやっても自分は敵わない。女神の如く微笑む彼女の前では、何もかも見透かされてしまう。そんな彼女の優しさと強さに、初めて出会った頃から、リックは魅かれているのだ。
「何でも望んでいいと仰ったのはリック様ですよ? さあ、私に夜食を食べさせて」
「仰せのままに、女王陛下⋯⋯⋯」
ユリーシアの口に再び料理を運ぶと、花開いたような笑顔が満ち溢れた。その笑顔を見れるだけで、リックの胸は優しさに包まれる。
自分が守り抜きたいと願う、最愛の少女が見せる幸福。この時間が永遠のものであればいいのにと、そう願うリックの胸の内には、焦りと不安と、彼女を失ってしまったらと考えてしまう恐怖があった。
「ラフレシア、そしてナノとハナ。今日という今日は慈悲などないものと思いなさい。ただでさえお前達は宰相のダイヤを犬に食わせるなどという大失態を犯しておきながら、この私の目の前にあの悍ましい虫を出して見せた。軍法会議にかけるまでもなく、お前達は極刑に処す」
激怒状態のウルスラを前に、ラフレシア達は土下座して許しを請う。とてもではないが、鬼と化した今のウルスラの顔を見上げる勇気はなく、三人は額を床に擦り付けながら死を覚悟していた。
彼女の怒りは尋常ではなかった。本気で怒ると、元軍人時代の言葉遣いが出る癖があるため、怒りのレベルが分かり易い。ラフレシア達が察した通り、ウルスラの怒りは天井に到達している。
逃げようかとも考えた。三人で一斉に逃げ出せば、誰か一人は運良く逃げ切れるかもしれない。だがそんな逃亡をウルスラが許すはずもなく、彼女は一切の隙を見せなかった。
一人も逃がさず、この場で刑を執行する。あの虫を見れば気絶するんじゃなかったのかと、内心ベニバナを恨む三人だが、彼女達を擁護できる点は皆無である。
「ではまず、ナノとハナから。お前達は当分の間、お小遣いとおやつ抜き。玩具は没収。自由時間は自室で勉強を命じます。それと尻叩き百回です」
「「うわああああああああんっ!! あんまりだあああああああっ!!!」
「えっ、ちょっと! いくら子供だからって罰が甘過ぎ―――」
「ラフレシアは監督不行き届きで減給。ベッドの下に隠してある官能小説は没収します。休日も無しとし、その有り余った元気は私が考案した特別訓練にぶつけて貰いましょう。それから尻叩き二百回と関節技フルコースです」
「いやああああああああっ!! 私のコレクションがあああああああっ!!!」
物理的な罰は覚悟できていたものの、それ以外の罰は想定外であった三人。城全体に響き渡りそうな悲鳴を上げ、発狂する三人を前にしても、ウルスラの顔に情け容赦はない。
手始めに、三人への尻叩きが執行されようとしていた時、ウルスラの背後から彼女を呼ぶ声が発せられる。振り向いた先にウルスラが見たものは、右手で犬を抱きかかえ、左手には酒瓶を持って歩いてくるメシアであった。
「騎士団長? どうかなさいましたか?」
「今夜飲もうと誘ったのはそちらだろう。忘れたのか?」
「失礼致しました。この三馬鹿のせいで記憶が飛んでおりまして。ですがその犬は?」
「ダイヤの件は私も聞いている。この犬がメイド長の部屋の前にいたから、貴女を探すついでに捕まえておいた」
実はウルスラは、以前からベニバナやメシア、最近ではリリカなどと酒を酌み交わし、彼女達と女同士の付き合いをしている。気心が知れた者達と相談をしたり、愚痴を零したりできる、多忙な彼女にとっては貴重な息抜きの場である。
メシアとは、特にユリーシアの事でよく相談し合っていた。今夜もその予定だったのだが、天井に達した怒りのせいで、ウルスラはすっかり忘れてしまっていたのである。
「何故その犬が、私の部屋の前に?」
「それは――――」
言いかけたメシアが、土下座状態で恐る恐る顔を上げている三人と、部屋の隅で死んでいるウルスラが苦手とする虫の死骸を瞬時に目にして、状況を把握する。「しまった」と思い、訳を口にしようとしたメシアが言葉を詰まらせるが、彼女の恐ろしく速い状況把握を、ウルスラは見逃さなかった
がっしりとメシアの肩を掴み、ウルスラは彼女を逃さない。メシアが、「これを口にしたらラフレシア達が本当に殺される」というのを察して、気を遣い言葉を止めたのを、ウルスラは直感で見抜いたのである。
帝国最強たるメシアも、怒りで鬼と化したウルスラを前にしては、命の危機を感じた。恐怖した彼女は表情こそ変わらなかったが、ウルスラから顔を逸らしてしまう。
「騎士団長、説明をお願い致します」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯この犬が、メイド長の部屋の前でダイヤを出した」
「は?」
ウルスラから、聞いた事もないすっとんきょうな声が上がり、一同凍り付く。言葉を選んだつもりのメシアであったが、どう言葉にしようが、ラフレシア達の死は確定した。
ナノとハナは遅れて理解したが、最初に意味を理解したのはラフレシアである。ダイヤが犬の何処から出てきたにせよ、今現在ウルスラの部屋の前には、ダイヤと最悪の物体が産み落とされているだろう。現状ですら放火された火薬庫たる状況に、今まさにメシアの手によって、追加の火薬が放り込まれた。
全てを理解したウルスラが、今どんな気持ちで、どんな顔をしているのか、想像もしたくない。管理を言い渡されていたナノとハナが犬を放置し、それがウルスラの部屋の前でダイヤを出したとなれば、責任者たるラフレシアが最も重い罰を受ける。
怒りのレベルが天元突破したウルスラの、その鬼神すら裸足で逃げ出しそうな覇気を受け、ラフレシアの体から冷や汗と鳥肌が止まらない。怒りで阿修羅すら凌駕した存在を前に、震えが止まらなくなったラフレシアは最後の言葉を口にした。
「一体何の冗談よ⋯⋯⋯」
その夜、城内にはラフレシア及びナノとハナの悲鳴と絶叫、更には激しく引っ叩かれる尻の音が絶え間なく響き渡り、ヴァスティナ城を震撼させた。
後にこの惨事は、「長いダイヤの夜」と呼ばれるようになり、帝国メイド部隊にとっての戒めとなった。
疲れ果てて机に突っ伏していた間に、エミリオもメイファも執務室を後にしており、リック一人が残されていた。疲労が溜まっているため、今すぐ寝室に行って寝たいと思うも、腹の底から響き渡る猛烈な空腹感が、眠気など吹き飛ばしてしまう。
仕方なくリックは、腹の虫を鳴らしながら執務室を出て行く。すると目の前を、一匹の犬が何事も無かったかのように通り過ぎて行った。
何故犬がこんなところにという疑問より先に、食べ物を求める彼の空腹が疑問に勝る。犬など見なかった事にして、ふら付きながらもリックは食堂を目指して歩いた。
食堂に到着したリックだが、既に夕食の時間が終わったのは分かっている。何か食べ物をと思い足を運んだのだが、食堂内はいつもの酔っ払い達が宴会を終えた後だった。
其処ら中に転がっている空き瓶を見るに、随分度数の高い酒を飲んでいたらしい。酔い潰れているヘルベルト達の周りに余り物でもないかと探すが、食べ物は全部彼らの胃袋に消えていた。
仕方なくリックは、誰もいない厨房を確認する。そこで食べ物を探すが、出てくるのは食材の残りばかり。トマトを使ったソースの余りはあるが、米やパンなどの主食はない。発見できたのは乾麺と、調理に使われたであろう具材の残骸である。
「こっちは一刻も早く何か食いたいってのに⋯⋯⋯。面倒だけど料理するしかないな」
料理がなければ作るより他ない。普段調理などほとんどしないが、火を起こして具材を炒め、麺を茹でるくらいは自分でもできる。
残り物となった哀れな食材達を見て、麺類しか選択肢のないリックは、ある料理を思い付いて早速調理に取り掛かる。腹も空いているし、何より可哀想なこの残り物達を、自分の手で救ってやれるならと思うと、調理の気分も上がる。
「これぞ男の料理ってやつにしてやるからな。哀れな食材に魂の救済をってか」
残り物達の救世主気取りで、一人勝手に盛り上がって調理道具を集め、湯を沸かす用意を始める。そうして一人準備を進めていると、食堂に誰か入って来る気配を感じて、一旦調理の手を止める。
気配を察したリックが誰が来たのかを確認しに行くと、そこには傍に誰も連れていないユリーシアがいた。
「⋯⋯⋯というわけで、今夜の夜食はリクトビア式ナポリタン風パスタです」
調理を終えたリックと、料理を待っていたユリーシアが、食堂の席で隣同士に腰かける。テーブルの上に並べられた二人分の皿には、トマトソースと具材が絡められたパスタ料理が、香ばしい匂いと共に湯気を立ち昇らせている。
「美味しそうな匂い⋯⋯⋯」
「陛下の口に入れて大丈夫か、まずは俺が毒見しますね」
久しぶりの料理で失敗していないか心配であるため、最初の一口はリックからいった。毒見など良いから早く食べさせろと、お腹を空かせたユリーシアがリックの服の裾を引っ張るが、もし不味かったらと考えると恐ろしくて食べさせられない。
いや、不味いだけで終われば問題はないだろう。自分の作った料理で彼女が腹を壊したともなれば、メイド長ウルスラが般若と変わってリックのもとに現れる。そうなれば最後、リックに明日はない。
果たしてリックの料理は、ユリーシアの舌を満足させ、彼女の健康に害を与えないか否か。それはリックの毒見の結果次第なわけだが、たかが夜食とは言え、一国の女王が料理を口にするという事は、細心の注意を払うべき大事なのである。
大変な夜食なってしまったと思うも、リックはフォークを使い、恐る恐る自分の作った料理を口に運んだ。しかし、ユリーシアのための毒見とは言っても、今すぐにでも食べ物を欲する彼の胃が、味などという些末な問題で拒否反応を示すはずがない。
「美味い⋯⋯⋯、美味すぎる」
「毒見は済みましたよね? では私も――――」
「待った。陛下の分は俺が食べさせます」
料理自体に問題はない。寧ろ、あまりの美味さに自画自賛したくなる程、空腹の体には殺人的な美味さと言える。
だがリックは、目の見えないその身故に、手探りでテーブルの上のフォークを探すユリーシアのもとから、彼女用のフォークを手に取ってしまう。
「リック様。私をいくつだと思っているのですか? 目が見えなくとも、食事くらい自分でできます」
「恐れながら陛下。これはトマトのソースで作ったパスタです。自分で言うのも何ですが、トマトの甘酸っぱい風味と具材が絶妙に調和した最高の夜食と言えるでしょう」
「だからすぐ食べたいと――――」
「陛下のその純白のドレスに誤ってソースが付いてしまったら、俺はきっとメイド長だけでなく、洗濯担当のリンドウさんに殺されます。陛下は俺に死ねと仰るんですか?」
リックの言う通り、ただでさえ汚れたら目立つこの服に、もしソースの染みなど作りようものなら、彼のみならずユリーシアも確実に説教される。女王が夜食で服を汚すとは何事ですかと、五月蠅く言われるのは目に見えていた。
何よりも、本当は一人で夜食を取るはずだったリックが、自分のせいでウルスラとリンドウに叱られるのは、申し訳ない話である。ソースで服を一切汚さないという覚悟が持てず、ユリーシアはリックの提案を了承した。
「はい陛下、口を開けて下さい」
「恥ずかしいです⋯⋯⋯」
「あなたは我らが女王陛下様なんですから、人に食べさせてもらうくらいで丁度いいんです。恥ずかしがらずに、どうぞ召し上がれ」
頬を少し朱に染めたユリーシアの小さな口に、最初の一口が運ばれる。口に合ったかと一瞬心配したリックだが、そんな不安はユリーシアの笑顔で消え去った。
「美味しいです。こんなに美味しいもの、生まれて初めて⋯⋯⋯」
「褒め過ぎです。これくらい、その辺に寝転がってる飲んだくれ共でも作れますよ」
「いいえ、私にとってはこれが一番なんです。だって、貴方が私に作ってくれたものなんですから」
面と向かってそこまで言われると、照れる気持ちをリックは隠せない。ユリーシアが、嘘偽りない正直な心で言ってくれていると分かるからこそ、尚更照れてしまう。
「煽てじゃなく俺を褒めてくれる優しい人は、陛下とメシア団長くらいです」
「そんなことはないでしょう。皆様、リック様に優しい方ばかりですよ」
「優しくないですよ。今日だってエミリオとメイファに執務室で監禁されて、そのお陰でメシア団長との訓練の予定が無しにされちゃって⋯⋯⋯。俺はメシア団長との時間を――――」
続けようとしたリックだが、ユリーシアの顔を見て言葉が止まる。メシアの話が続くと分かった瞬間から、ユリーシアの笑顔が消え、眉を曇らせてしまったからだ。
「いつもメシアの話ばっかり⋯⋯⋯。私だって、嫉妬の一つも覚えるんですよ」
「ごめん⋯⋯⋯」
「謝らないで下さい。少し意地悪をしたくなっただけです」
再び笑みが戻るユリーシアの顔を、リックは真面に見られなかった。一方ユリーシアも、顔では微笑んで見せるも、内心は複雑だった。
彼を独り占めにしたいわけでもないのに、ユリーシアは本当に嫉妬してしまったのだ。刹那でも彼を、メシアから奪いたいとさえ考えた。その時ユリーシアは、自分が何も知らない少女ではなく、一人の女になりつつある事に気付く。
「おかしいですよね。恋人同士でもないのに、メシアに嫉妬してしまうなんて」
「⋯⋯⋯飼い犬が飼い主以外に懐いてたら、嫉妬するのも無理ないでしょう」
「言われてみたら納得です。リック様は私の忠犬ですものね」
「でもメシア団長の前で尻尾を振るのは許してもらえると、俺としては大変嬉しく――――」
「メシア以外にも簡単に懐いてしまう癖に」
「うぐっ⋯⋯⋯、否定できない」
「ふふっ、本当に正直な人。そんな貴方だからこそ、私は好きになってしまった」
「俺も陛下が大好きです。だからこそ――――」
ユリーシアを真っ直ぐ見つめ、華奢な彼女の手にそっと触れたリックは、力を入れずに優しく彼女の手を握る。その手で感じ取った温もりが、二人の運命を決定付けた、交わした約束の記憶を蘇らせる。
「君が望むなら、どんな敵とも戦うし、誰だって守ってみせるし、手作りの夜食だって振る舞う。望めば世界平和を実現するし、大陸中の紅茶葉を君に献上もできる」
「⋯⋯⋯ならば一つ、私の望みを聞いて下さい」
いつになく真剣な表情をリックに向けるユリーシア。彼女の事だから、無茶をするなとか、命を粗末にしないで欲しいとか、きっとそんな言葉が出るものだとリックは考えていた。
予想した彼女の言葉を待ち構えていると、ユリーシアはそれを悟り、表情を和らげて微笑を浮かべる。
「早く次を食べさせて下さい。せっかくの夜食が冷めてしまいます」
「⋯⋯⋯!」
小さな口を開け、ユリーシアはリックが食べさせてくれるのを待っている。瞳から光を失おうと、彼女は己が心の瞳で相手を捉え、思いを悟れるだけの鋭さを持つ。
この少女の前では、どうやっても自分は敵わない。女神の如く微笑む彼女の前では、何もかも見透かされてしまう。そんな彼女の優しさと強さに、初めて出会った頃から、リックは魅かれているのだ。
「何でも望んでいいと仰ったのはリック様ですよ? さあ、私に夜食を食べさせて」
「仰せのままに、女王陛下⋯⋯⋯」
ユリーシアの口に再び料理を運ぶと、花開いたような笑顔が満ち溢れた。その笑顔を見れるだけで、リックの胸は優しさに包まれる。
自分が守り抜きたいと願う、最愛の少女が見せる幸福。この時間が永遠のものであればいいのにと、そう願うリックの胸の内には、焦りと不安と、彼女を失ってしまったらと考えてしまう恐怖があった。
「ラフレシア、そしてナノとハナ。今日という今日は慈悲などないものと思いなさい。ただでさえお前達は宰相のダイヤを犬に食わせるなどという大失態を犯しておきながら、この私の目の前にあの悍ましい虫を出して見せた。軍法会議にかけるまでもなく、お前達は極刑に処す」
激怒状態のウルスラを前に、ラフレシア達は土下座して許しを請う。とてもではないが、鬼と化した今のウルスラの顔を見上げる勇気はなく、三人は額を床に擦り付けながら死を覚悟していた。
彼女の怒りは尋常ではなかった。本気で怒ると、元軍人時代の言葉遣いが出る癖があるため、怒りのレベルが分かり易い。ラフレシア達が察した通り、ウルスラの怒りは天井に到達している。
逃げようかとも考えた。三人で一斉に逃げ出せば、誰か一人は運良く逃げ切れるかもしれない。だがそんな逃亡をウルスラが許すはずもなく、彼女は一切の隙を見せなかった。
一人も逃がさず、この場で刑を執行する。あの虫を見れば気絶するんじゃなかったのかと、内心ベニバナを恨む三人だが、彼女達を擁護できる点は皆無である。
「ではまず、ナノとハナから。お前達は当分の間、お小遣いとおやつ抜き。玩具は没収。自由時間は自室で勉強を命じます。それと尻叩き百回です」
「「うわああああああああんっ!! あんまりだあああああああっ!!!」
「えっ、ちょっと! いくら子供だからって罰が甘過ぎ―――」
「ラフレシアは監督不行き届きで減給。ベッドの下に隠してある官能小説は没収します。休日も無しとし、その有り余った元気は私が考案した特別訓練にぶつけて貰いましょう。それから尻叩き二百回と関節技フルコースです」
「いやああああああああっ!! 私のコレクションがあああああああっ!!!」
物理的な罰は覚悟できていたものの、それ以外の罰は想定外であった三人。城全体に響き渡りそうな悲鳴を上げ、発狂する三人を前にしても、ウルスラの顔に情け容赦はない。
手始めに、三人への尻叩きが執行されようとしていた時、ウルスラの背後から彼女を呼ぶ声が発せられる。振り向いた先にウルスラが見たものは、右手で犬を抱きかかえ、左手には酒瓶を持って歩いてくるメシアであった。
「騎士団長? どうかなさいましたか?」
「今夜飲もうと誘ったのはそちらだろう。忘れたのか?」
「失礼致しました。この三馬鹿のせいで記憶が飛んでおりまして。ですがその犬は?」
「ダイヤの件は私も聞いている。この犬がメイド長の部屋の前にいたから、貴女を探すついでに捕まえておいた」
実はウルスラは、以前からベニバナやメシア、最近ではリリカなどと酒を酌み交わし、彼女達と女同士の付き合いをしている。気心が知れた者達と相談をしたり、愚痴を零したりできる、多忙な彼女にとっては貴重な息抜きの場である。
メシアとは、特にユリーシアの事でよく相談し合っていた。今夜もその予定だったのだが、天井に達した怒りのせいで、ウルスラはすっかり忘れてしまっていたのである。
「何故その犬が、私の部屋の前に?」
「それは――――」
言いかけたメシアが、土下座状態で恐る恐る顔を上げている三人と、部屋の隅で死んでいるウルスラが苦手とする虫の死骸を瞬時に目にして、状況を把握する。「しまった」と思い、訳を口にしようとしたメシアが言葉を詰まらせるが、彼女の恐ろしく速い状況把握を、ウルスラは見逃さなかった
がっしりとメシアの肩を掴み、ウルスラは彼女を逃さない。メシアが、「これを口にしたらラフレシア達が本当に殺される」というのを察して、気を遣い言葉を止めたのを、ウルスラは直感で見抜いたのである。
帝国最強たるメシアも、怒りで鬼と化したウルスラを前にしては、命の危機を感じた。恐怖した彼女は表情こそ変わらなかったが、ウルスラから顔を逸らしてしまう。
「騎士団長、説明をお願い致します」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯この犬が、メイド長の部屋の前でダイヤを出した」
「は?」
ウルスラから、聞いた事もないすっとんきょうな声が上がり、一同凍り付く。言葉を選んだつもりのメシアであったが、どう言葉にしようが、ラフレシア達の死は確定した。
ナノとハナは遅れて理解したが、最初に意味を理解したのはラフレシアである。ダイヤが犬の何処から出てきたにせよ、今現在ウルスラの部屋の前には、ダイヤと最悪の物体が産み落とされているだろう。現状ですら放火された火薬庫たる状況に、今まさにメシアの手によって、追加の火薬が放り込まれた。
全てを理解したウルスラが、今どんな気持ちで、どんな顔をしているのか、想像もしたくない。管理を言い渡されていたナノとハナが犬を放置し、それがウルスラの部屋の前でダイヤを出したとなれば、責任者たるラフレシアが最も重い罰を受ける。
怒りのレベルが天元突破したウルスラの、その鬼神すら裸足で逃げ出しそうな覇気を受け、ラフレシアの体から冷や汗と鳥肌が止まらない。怒りで阿修羅すら凌駕した存在を前に、震えが止まらなくなったラフレシアは最後の言葉を口にした。
「一体何の冗談よ⋯⋯⋯」
その夜、城内にはラフレシア及びナノとハナの悲鳴と絶叫、更には激しく引っ叩かれる尻の音が絶え間なく響き渡り、ヴァスティナ城を震撼させた。
後にこの惨事は、「長いダイヤの夜」と呼ばれるようになり、帝国メイド部隊にとっての戒めとなった。
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