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第五十四話 崩壊の序曲
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第五十四話 崩壊の序曲
大陸全土に戦乱の風が吹き荒れた年が明け、凍えるような冬が過ぎていき、暖かい春が近付くローミリア大陸。大国ジエーデル国との戦争終結から暫く経つが、その間、大国間同士による戦争は行われなかった。
軍隊を動かすには厳しい季節の到来が、大きな戦争を発生させなかった。各国は冬支度を整え、民を凍え死なせぬよう冬を越す事に努めたのである。こんな季節に戦争を仕掛けられるのは、極北の大地を生きるゼロリアス帝国くらいであるが、戦争終結以来、彼の国は一切の軍事行動を起こしてはいない。
人々は新たな戦乱を予感しながらも、束の間の平和を過ごしている。大陸に平和をもたらしたのが、毎年自分達を苦しめる冬の季節であったのは、まさに皮肉と言えるだろう。それでも、ボーゼアスの乱やジエーデル国の戦争の様な、数え切れない屍の山が築かれる戦争が起こるよりは、冬の寒さに耐える方が遥かに良かった。
しかし、大陸に一時の平和をもたらした冬の季節は、じきに終わる。春を迎えた瞬間、また大きな戦争の勃発が、今の大陸情勢にはあり得るのだ。
その時戦場となるのは、ローミリア大陸中央部となるだろう。南ローミリアからその支配領域を広げる一国に、北方の二大大国は警戒心を強めているからだ。
今や大陸中央にまで勢力を広げた、南ローミリアの盟主ヴァスティナ帝国。大陸最大の王政国家ホーリスローネ王国。大陸最強の軍事力を誇るゼロリアス帝国。
この三国が、ローミリア大陸全土の覇権を握るべく激突するのは、誰の目から見ても明らかである。そして、何れ来る大戦争の時は、最早秒読みであると誰もが予想していた。
その事件は、夜雲で月明かりが隠されたブラド公国宮殿で起きた。
ある夜、月明かりのない暗闇を利用して、宮殿へと侵入を図った賊が現れた。宮殿内に侵入した賊は七人で、何れも潜入や暗殺を得意とする、実戦経験豊富な手練れ達である。
彼らの目的は、可能な限りの情報収集と、好機があれば、一人の要人を暗殺する事であった。それが雇い主からの命であり、もし暗殺対象を仕留めた際は、成功報酬が上乗せされる。難しい仕事ではあるが、元々の報酬が高く、暗殺時の報酬に至っては大金が約束されているため、彼ら手練れの傭兵達は全力で仕事に当たっていた。
何もかも順調で、一切の隙も油断もなかった。そんな彼らのたった一つの誤算は、暗殺対象を守る護衛戦力の力量を、十分に理解していなかった事だ。
「この程度か? 薄汚い虫けら共め」
「!?」
宮殿内のとある通路に、侵入した傭兵六人の死体。最後の一人は、黒軍服姿で右眼を眼帯で隠した、一人の少女の手によって、たった今首を圧し折られた。
最後の一人を殺した少女は、生き残りがいないか周囲を確認する。雇い主等の情報を得るため、三人ほど生かしておこうと止めを刺さなかったのだが、息のあった者は既に服毒自殺をしていた。殺してしまわぬよう、刃物も銃器も使わず、素手のみで彼らを無力化したのだが、彼女の努力は結局無意味に終わった。
「閣下の御命を狙うなど、万死に値する。必ずや貴様らの主犯を暴き、嬲り殺しにしてやろう」
この傭兵達が自らの誇りに懸けて、情報を吐かぬよう死を選んだのか、もしくは拷問を恐れての事なのかは、この手の連中に詳しい彼女にも分からない。ただ一つ確かな事は、彼らを動かした黒幕に関する情報は、ここで得られなくなった。
兎も角、たった一人で静かに賊を片付けた、彼女の活躍によって事態は収拾した。しかし彼女は、月明かりのない深夜とは言え、簡単に賊の侵入を許した警備の兵や、同じく警護に当たっていた旗下の親衛隊員に対し、訓練を厳しくやり直させる必要があると感じていた。
自軍の兵達と、そして自分の部下達への不甲斐なさに、珍しく彼女が溜め息を吐く。するとそんな彼女のもとに、彼女の後を追ってきたのか、それとも戦闘の気配を頼りに来たのか、十文字槍片手に一人の槍士が駆け寄った。
「ヴィヴィアンヌ。すまない、賊の侵入に気付くのが遅れてしまった」
「同志か。今片付いたところだから、問題はない」
黒軍服を纏う眼帯の少女は、ヴァスティナ帝国国防軍親衛隊隊長ヴィヴィアンヌ・アイゼンリーゼ。彼女が同志と呼ぶ者の名は、同じく帝国国防軍烈火騎士団隊長のレイナ・ミカヅキである。
異変に気が付いたらしいレイナは、自らの得物を手に賊の討伐を行なうべく現れたが、既に賊はヴィヴィアンヌの手によって処理されていた。ヴィヴィアンヌの表情から、これ以上賊の存在が無いと悟ったレイナは安堵しつつ、緊張感を和らげる。
その時、夜雲に隠れていた月と星々が夜空に戻り、彼女達がいる空間に光を差し込ませる。夜目に慣れているヴィヴィアンヌは最初から気付いていたが、駆け付けたレイナはいつもの軍服姿ではなく、寝間着に槍を持った姿だったのである。
「⋯⋯⋯ところで同志、随分慌てていたようだな。賊への対処は私に任せ、ゆっくり眠っていてもよかったのだぞ?」
「こっ、これはその⋯⋯⋯。着替えている暇がなかっただけで⋯⋯⋯」
「恥ずかしがる同志はいつ見ても愛らしいな。しかし、寝間着姿で戦う同志の貴重な姿を見られなかったのは、実に惜しいことをした」
「⋯⋯⋯今日ほど、戦いに遅れたのをよかったと思えたことはない」
レイナに対しては相変わらずなヴィヴィアンヌに、いつものように彼女は赤面するばかりであった。顔を赤くするレイナを見て、ヴィヴィアンヌが愛おしそうに笑みを浮かべていると、そんな彼女達のもとに、剣を片手に携えた、もう一人の遅れた人物が駆け寄って来た。
「ちっ⋯⋯、片付いた後かよ」
現れた者の名は、帝国国防軍光龍騎士団隊長クリスティアーノ・レッドフォードである。親しい者は彼をクリスと呼ぶが、そう呼んでいいのは彼が許した人物だけだ。
遅れて二人に合流したクリスは、通路に転がる死体を一瞥し、状況を悟った。殺し方を見て、全員ヴィヴィアンヌが片付けたと理解したクリスが彼女を見る。するとヴィヴィアンヌは、笑みが消えうせた不愉快気な顔で鼻を鳴らし、レイナと同じように寝間着に得物な姿の彼へと不満を漏らす。
「遅いぞレッドフォード。貴様、そんな体たらくで閣下を御守りできると思っているのか?」
「おい眼帯女。お前、俺と槍女じゃ随分態度が違うんじゃねぇのか?」
「同志は良くても貴様は駄目だ」
「無茶苦茶な理屈を常識のように言うんじゃねぇよ。どいつもこいつも槍女に甘過ぎだろ」
うんざりしたクリスの言う通り、他には厳しくも、レイナにはベタ甘なのがヴィヴィアンヌである。このように、クリスだけが彼女の怒りを買うのは、最早日常茶飯事であった。
ただそうは言いつつも、レイナと同じくクリスもまた、優れた直感によって脅威を察知し、遅れながらも敵のもとに駆け付けた。口では散々ながら、クリスの優秀な能力については、感情抜きで彼女も認めている。
「ったく⋯⋯⋯、だからこいつらと一緒は嫌なんだよ。それで、お前がぶっ殺した連中は何者だったんだ?」
「吐かせる前に自殺したせいで確定はしていないが、王国が差し向けた賊と見て間違いない」
ヴィヴィアンヌが言った王国というのが、北方の大国ホーリスローネ王国を差していると、二人は直ぐに悟った。だがレイナもクリスも、幾らヴィヴィアンヌの分析がいつも正しいとはいえ、信じ難い心境ではあった。
かつての異教徒討伐で王国軍と行動を共にした際、王国側の王子や将兵がどんな者達であるかを、この三人は肌で感じていた。共に戦ったレイナやクリスからすれば、彼らがこのような謀略を使う人間には見えず、王国らしくないやり方だと思わざる負えなかった。
それはヴィヴィアンヌも同じ考えであったが、二つの点から、彼女はこれが王国による仕業だと確信していた。
「王国に不審な動き在りというのが、私が得た信頼性の高い情報だ。それに、交戦した連中の武装や戦闘技術には見覚えがある。私の記憶が正しければ、どれも大陸北方のものだ」
「⋯⋯⋯ヴィヴィアンヌがそこまで言うなら、きっとそれが正しいのだろう。でも私は、あの王子や紳士将軍がそんな手を使うとは思えない」
「同感だ。恐らくこれは、姑息な手段も平気な顔で使える、別の人間による仕業だろう」
流石の分析力だと思い、レイナとクリスは改めて、諜報員としてのヴィヴィアンヌの優秀さを知った。敵の戦技や武器の種類を瞬時に理解する洞察眼と、それらの正体を把握している情報力は、並大抵のものではない。
レイナは勿論の事だが、クリスもまた彼女の能力を、口には出さないが認めている。ヴァスティナ帝国がジエーデル国に勝利を収められたのも、ヴィヴィアンヌがもたらした情報の数々があったからこそである。彼女が導き出した答えに二人が異を唱えないのは、それだけ彼女の能力を信頼している証なのだ。
しかし、これがホーリスローネ王国による仕業となれば、王国の一体誰が、何のためにこんな真似を行なったのだろうか。その目的までは、ヴィヴィアンヌにもまだ分からない。
確かに今のヴァスティナ帝国は、王国にとって脅威となっている存在だ。王国側からすれば、帝国国防軍最高司令官リクトビア・フローレンスの排除は、将来の敵の排除に直結している。
だが今の王国は、先のジエーデル国との戦いで消耗しており、武力衝突は極力避けたいという状況である。リクトビア暗殺を企てたにしては、帝国に対する備えは全く整っておらず、謀略を使うには時期尚早と言えるだろう。
これは、王国首脳部による企てではなく、ある程度の地位と権力を持つ何者かの独断ではないか。それがヴィヴィアンヌの予想だった。
「同志、レッドフォード。少人数による襲撃とは言え、将軍閣下の御命が狙われたことに変わりはない。だが事を荒立てず、閣下にはこの国から早急に離れて頂くとしよう」
「わかった、私に異論はない。破廉恥剣士もそれでいいな?」
「リックの安全が最優先だろうが。良いも悪いもねぇよ」
ヴィヴィアンヌの考えに二人が賛成すると、改めて彼女は死体となった賊を見渡した。
今夜彼女が襲撃者を安全かつ穏便に処理できたのは、事前に得た情報があってこそである。彼女が説明した「信頼性の高い情報」が何処からもたらされたのかと言えば、それは彼女が指揮する親衛隊からではなく、参謀本部からの情報であった。
帝国国防軍参謀長エミリオ・メンフィス。彼の指揮下には、親衛隊とは別の命令系統で動く、参謀長直属の諜報組織が存在している。今回の襲撃情報は、この諜報組織から親衛隊に伝達されたものだった。
情報が伝えられた後、親衛隊の方でも調査が行われ、同じ情報を察知した事で、情報の信憑性は非常に高いものと判断された。各地での諜報任務を終え、今はリックの護衛に専念していたヴィヴィアンヌは、襲撃者に備えて今日まで警戒していたのである。
因みに、昼間の護衛担当はレイナとクリスで、夜の担当はヴィヴィアンヌという警備体制だった。敵が何処で暗殺に動こうが、帝国最強格の三人がこの地にいた以上、どの道彼らには死の運命しかなかったのである。
(やはりこの胸騒ぎ⋯⋯⋯、気のせいではないな)
今日まで警戒を厳にしていたレイナとクリスは、リックの身を敵から守れた事に安堵しているが、ヴィヴィアンヌは内心言葉にできない不安を覚えていた。
ヴァスティナ帝国を敵と考える何者かが、帝国を排除するための謀を考えているのは明白だ。それが何者であるかはまだ分からず、その真意も不明だが、今回の襲撃はまだ序章に過ぎないのだろうと予想できる。今夜の襲撃を事前に、そして容易く察知できた事が、何よりの証拠だ。
この後に、より大きな謀略がリックを待ち受けている。リックの身を守るためには、襲い掛かる火の粉を振り払うだけでは足りないだろう。ヴィヴィアンヌ達にはリックの護衛だけでなく、彼の命を狙う存在の排除が求められているのだ。
「閣下の護衛は引き続き二人に任せる。私はこれまで通り閣下に敵対しようと企む勢力の排除と、この賊共の黒幕を調べる」
「任せろ。破廉恥剣士と一緒なのは不服だが、将軍閣下は命に代えても守り通して見せる」
「不服なのはこっちの台詞だぜ。だがまあ、そうも言ってられる状況じゃねぇか」
レイナとクリスの了承を得て、ヴィヴィアンヌは早速行動を開始する。死体の始末は親衛隊員に任せ、思いの外長くいる事になったブラド公国を去るべく、彼女達は準備を進めた。
後に「リクトビア暗殺未遂事件」と呼ばれるこの事件は、一晩の内に静かに処理され、騒ぎ立てられる事なく幕を閉じた。
大陸全土に戦乱の風が吹き荒れた年が明け、凍えるような冬が過ぎていき、暖かい春が近付くローミリア大陸。大国ジエーデル国との戦争終結から暫く経つが、その間、大国間同士による戦争は行われなかった。
軍隊を動かすには厳しい季節の到来が、大きな戦争を発生させなかった。各国は冬支度を整え、民を凍え死なせぬよう冬を越す事に努めたのである。こんな季節に戦争を仕掛けられるのは、極北の大地を生きるゼロリアス帝国くらいであるが、戦争終結以来、彼の国は一切の軍事行動を起こしてはいない。
人々は新たな戦乱を予感しながらも、束の間の平和を過ごしている。大陸に平和をもたらしたのが、毎年自分達を苦しめる冬の季節であったのは、まさに皮肉と言えるだろう。それでも、ボーゼアスの乱やジエーデル国の戦争の様な、数え切れない屍の山が築かれる戦争が起こるよりは、冬の寒さに耐える方が遥かに良かった。
しかし、大陸に一時の平和をもたらした冬の季節は、じきに終わる。春を迎えた瞬間、また大きな戦争の勃発が、今の大陸情勢にはあり得るのだ。
その時戦場となるのは、ローミリア大陸中央部となるだろう。南ローミリアからその支配領域を広げる一国に、北方の二大大国は警戒心を強めているからだ。
今や大陸中央にまで勢力を広げた、南ローミリアの盟主ヴァスティナ帝国。大陸最大の王政国家ホーリスローネ王国。大陸最強の軍事力を誇るゼロリアス帝国。
この三国が、ローミリア大陸全土の覇権を握るべく激突するのは、誰の目から見ても明らかである。そして、何れ来る大戦争の時は、最早秒読みであると誰もが予想していた。
その事件は、夜雲で月明かりが隠されたブラド公国宮殿で起きた。
ある夜、月明かりのない暗闇を利用して、宮殿へと侵入を図った賊が現れた。宮殿内に侵入した賊は七人で、何れも潜入や暗殺を得意とする、実戦経験豊富な手練れ達である。
彼らの目的は、可能な限りの情報収集と、好機があれば、一人の要人を暗殺する事であった。それが雇い主からの命であり、もし暗殺対象を仕留めた際は、成功報酬が上乗せされる。難しい仕事ではあるが、元々の報酬が高く、暗殺時の報酬に至っては大金が約束されているため、彼ら手練れの傭兵達は全力で仕事に当たっていた。
何もかも順調で、一切の隙も油断もなかった。そんな彼らのたった一つの誤算は、暗殺対象を守る護衛戦力の力量を、十分に理解していなかった事だ。
「この程度か? 薄汚い虫けら共め」
「!?」
宮殿内のとある通路に、侵入した傭兵六人の死体。最後の一人は、黒軍服姿で右眼を眼帯で隠した、一人の少女の手によって、たった今首を圧し折られた。
最後の一人を殺した少女は、生き残りがいないか周囲を確認する。雇い主等の情報を得るため、三人ほど生かしておこうと止めを刺さなかったのだが、息のあった者は既に服毒自殺をしていた。殺してしまわぬよう、刃物も銃器も使わず、素手のみで彼らを無力化したのだが、彼女の努力は結局無意味に終わった。
「閣下の御命を狙うなど、万死に値する。必ずや貴様らの主犯を暴き、嬲り殺しにしてやろう」
この傭兵達が自らの誇りに懸けて、情報を吐かぬよう死を選んだのか、もしくは拷問を恐れての事なのかは、この手の連中に詳しい彼女にも分からない。ただ一つ確かな事は、彼らを動かした黒幕に関する情報は、ここで得られなくなった。
兎も角、たった一人で静かに賊を片付けた、彼女の活躍によって事態は収拾した。しかし彼女は、月明かりのない深夜とは言え、簡単に賊の侵入を許した警備の兵や、同じく警護に当たっていた旗下の親衛隊員に対し、訓練を厳しくやり直させる必要があると感じていた。
自軍の兵達と、そして自分の部下達への不甲斐なさに、珍しく彼女が溜め息を吐く。するとそんな彼女のもとに、彼女の後を追ってきたのか、それとも戦闘の気配を頼りに来たのか、十文字槍片手に一人の槍士が駆け寄った。
「ヴィヴィアンヌ。すまない、賊の侵入に気付くのが遅れてしまった」
「同志か。今片付いたところだから、問題はない」
黒軍服を纏う眼帯の少女は、ヴァスティナ帝国国防軍親衛隊隊長ヴィヴィアンヌ・アイゼンリーゼ。彼女が同志と呼ぶ者の名は、同じく帝国国防軍烈火騎士団隊長のレイナ・ミカヅキである。
異変に気が付いたらしいレイナは、自らの得物を手に賊の討伐を行なうべく現れたが、既に賊はヴィヴィアンヌの手によって処理されていた。ヴィヴィアンヌの表情から、これ以上賊の存在が無いと悟ったレイナは安堵しつつ、緊張感を和らげる。
その時、夜雲に隠れていた月と星々が夜空に戻り、彼女達がいる空間に光を差し込ませる。夜目に慣れているヴィヴィアンヌは最初から気付いていたが、駆け付けたレイナはいつもの軍服姿ではなく、寝間着に槍を持った姿だったのである。
「⋯⋯⋯ところで同志、随分慌てていたようだな。賊への対処は私に任せ、ゆっくり眠っていてもよかったのだぞ?」
「こっ、これはその⋯⋯⋯。着替えている暇がなかっただけで⋯⋯⋯」
「恥ずかしがる同志はいつ見ても愛らしいな。しかし、寝間着姿で戦う同志の貴重な姿を見られなかったのは、実に惜しいことをした」
「⋯⋯⋯今日ほど、戦いに遅れたのをよかったと思えたことはない」
レイナに対しては相変わらずなヴィヴィアンヌに、いつものように彼女は赤面するばかりであった。顔を赤くするレイナを見て、ヴィヴィアンヌが愛おしそうに笑みを浮かべていると、そんな彼女達のもとに、剣を片手に携えた、もう一人の遅れた人物が駆け寄って来た。
「ちっ⋯⋯、片付いた後かよ」
現れた者の名は、帝国国防軍光龍騎士団隊長クリスティアーノ・レッドフォードである。親しい者は彼をクリスと呼ぶが、そう呼んでいいのは彼が許した人物だけだ。
遅れて二人に合流したクリスは、通路に転がる死体を一瞥し、状況を悟った。殺し方を見て、全員ヴィヴィアンヌが片付けたと理解したクリスが彼女を見る。するとヴィヴィアンヌは、笑みが消えうせた不愉快気な顔で鼻を鳴らし、レイナと同じように寝間着に得物な姿の彼へと不満を漏らす。
「遅いぞレッドフォード。貴様、そんな体たらくで閣下を御守りできると思っているのか?」
「おい眼帯女。お前、俺と槍女じゃ随分態度が違うんじゃねぇのか?」
「同志は良くても貴様は駄目だ」
「無茶苦茶な理屈を常識のように言うんじゃねぇよ。どいつもこいつも槍女に甘過ぎだろ」
うんざりしたクリスの言う通り、他には厳しくも、レイナにはベタ甘なのがヴィヴィアンヌである。このように、クリスだけが彼女の怒りを買うのは、最早日常茶飯事であった。
ただそうは言いつつも、レイナと同じくクリスもまた、優れた直感によって脅威を察知し、遅れながらも敵のもとに駆け付けた。口では散々ながら、クリスの優秀な能力については、感情抜きで彼女も認めている。
「ったく⋯⋯⋯、だからこいつらと一緒は嫌なんだよ。それで、お前がぶっ殺した連中は何者だったんだ?」
「吐かせる前に自殺したせいで確定はしていないが、王国が差し向けた賊と見て間違いない」
ヴィヴィアンヌが言った王国というのが、北方の大国ホーリスローネ王国を差していると、二人は直ぐに悟った。だがレイナもクリスも、幾らヴィヴィアンヌの分析がいつも正しいとはいえ、信じ難い心境ではあった。
かつての異教徒討伐で王国軍と行動を共にした際、王国側の王子や将兵がどんな者達であるかを、この三人は肌で感じていた。共に戦ったレイナやクリスからすれば、彼らがこのような謀略を使う人間には見えず、王国らしくないやり方だと思わざる負えなかった。
それはヴィヴィアンヌも同じ考えであったが、二つの点から、彼女はこれが王国による仕業だと確信していた。
「王国に不審な動き在りというのが、私が得た信頼性の高い情報だ。それに、交戦した連中の武装や戦闘技術には見覚えがある。私の記憶が正しければ、どれも大陸北方のものだ」
「⋯⋯⋯ヴィヴィアンヌがそこまで言うなら、きっとそれが正しいのだろう。でも私は、あの王子や紳士将軍がそんな手を使うとは思えない」
「同感だ。恐らくこれは、姑息な手段も平気な顔で使える、別の人間による仕業だろう」
流石の分析力だと思い、レイナとクリスは改めて、諜報員としてのヴィヴィアンヌの優秀さを知った。敵の戦技や武器の種類を瞬時に理解する洞察眼と、それらの正体を把握している情報力は、並大抵のものではない。
レイナは勿論の事だが、クリスもまた彼女の能力を、口には出さないが認めている。ヴァスティナ帝国がジエーデル国に勝利を収められたのも、ヴィヴィアンヌがもたらした情報の数々があったからこそである。彼女が導き出した答えに二人が異を唱えないのは、それだけ彼女の能力を信頼している証なのだ。
しかし、これがホーリスローネ王国による仕業となれば、王国の一体誰が、何のためにこんな真似を行なったのだろうか。その目的までは、ヴィヴィアンヌにもまだ分からない。
確かに今のヴァスティナ帝国は、王国にとって脅威となっている存在だ。王国側からすれば、帝国国防軍最高司令官リクトビア・フローレンスの排除は、将来の敵の排除に直結している。
だが今の王国は、先のジエーデル国との戦いで消耗しており、武力衝突は極力避けたいという状況である。リクトビア暗殺を企てたにしては、帝国に対する備えは全く整っておらず、謀略を使うには時期尚早と言えるだろう。
これは、王国首脳部による企てではなく、ある程度の地位と権力を持つ何者かの独断ではないか。それがヴィヴィアンヌの予想だった。
「同志、レッドフォード。少人数による襲撃とは言え、将軍閣下の御命が狙われたことに変わりはない。だが事を荒立てず、閣下にはこの国から早急に離れて頂くとしよう」
「わかった、私に異論はない。破廉恥剣士もそれでいいな?」
「リックの安全が最優先だろうが。良いも悪いもねぇよ」
ヴィヴィアンヌの考えに二人が賛成すると、改めて彼女は死体となった賊を見渡した。
今夜彼女が襲撃者を安全かつ穏便に処理できたのは、事前に得た情報があってこそである。彼女が説明した「信頼性の高い情報」が何処からもたらされたのかと言えば、それは彼女が指揮する親衛隊からではなく、参謀本部からの情報であった。
帝国国防軍参謀長エミリオ・メンフィス。彼の指揮下には、親衛隊とは別の命令系統で動く、参謀長直属の諜報組織が存在している。今回の襲撃情報は、この諜報組織から親衛隊に伝達されたものだった。
情報が伝えられた後、親衛隊の方でも調査が行われ、同じ情報を察知した事で、情報の信憑性は非常に高いものと判断された。各地での諜報任務を終え、今はリックの護衛に専念していたヴィヴィアンヌは、襲撃者に備えて今日まで警戒していたのである。
因みに、昼間の護衛担当はレイナとクリスで、夜の担当はヴィヴィアンヌという警備体制だった。敵が何処で暗殺に動こうが、帝国最強格の三人がこの地にいた以上、どの道彼らには死の運命しかなかったのである。
(やはりこの胸騒ぎ⋯⋯⋯、気のせいではないな)
今日まで警戒を厳にしていたレイナとクリスは、リックの身を敵から守れた事に安堵しているが、ヴィヴィアンヌは内心言葉にできない不安を覚えていた。
ヴァスティナ帝国を敵と考える何者かが、帝国を排除するための謀を考えているのは明白だ。それが何者であるかはまだ分からず、その真意も不明だが、今回の襲撃はまだ序章に過ぎないのだろうと予想できる。今夜の襲撃を事前に、そして容易く察知できた事が、何よりの証拠だ。
この後に、より大きな謀略がリックを待ち受けている。リックの身を守るためには、襲い掛かる火の粉を振り払うだけでは足りないだろう。ヴィヴィアンヌ達にはリックの護衛だけでなく、彼の命を狙う存在の排除が求められているのだ。
「閣下の護衛は引き続き二人に任せる。私はこれまで通り閣下に敵対しようと企む勢力の排除と、この賊共の黒幕を調べる」
「任せろ。破廉恥剣士と一緒なのは不服だが、将軍閣下は命に代えても守り通して見せる」
「不服なのはこっちの台詞だぜ。だがまあ、そうも言ってられる状況じゃねぇか」
レイナとクリスの了承を得て、ヴィヴィアンヌは早速行動を開始する。死体の始末は親衛隊員に任せ、思いの外長くいる事になったブラド公国を去るべく、彼女達は準備を進めた。
後に「リクトビア暗殺未遂事件」と呼ばれるこの事件は、一晩の内に静かに処理され、騒ぎ立てられる事なく幕を閉じた。
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