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第五十三話 忘却の世界
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最高司令官たるリクトビア・フローレンス不在の中、現在のヴァスティナ帝国国防軍を指揮しているのは、参謀長エミリオ・メンフィスである。
エミリオに課せられたのは、旧ジエーデル軍残党の掃討に加え、帝国国防軍戦力の再編成である。更には、来るべき次の戦いに向けた準備と、新しく得た勢力範囲の防衛線構築であった。これは主に、大陸北方の二大大国に対する備えである。
南ローミリアの統べるヴァスティナ帝国は、僅かな期間で急速に勢力範囲を広げた。かつてはエステラン国やジエーデル国が敵国であり、それに対する防衛態勢を構築していたが、宿敵たる二国を下した今、次なる帝国の脅威はホーリスローネ王国とゼロリアス帝国となる。
ヴァスティナ帝国と二大大国は、今まで敵対関係になった事はない。しかし今後は、ヴァスティナ帝国を脅威と感じた両国が、突如国境線を越えて軍を進める事すらあり得る。ヴァスティナ帝国の次なる仮想敵国は、北の二大大国と変わったのだ。
既にホーリスローネ王国もゼロリアス帝国も、ヴァスティナ帝国側の狙いを察知し、秘かに軍を動かし対ヴァスティナ戦への防衛力を強化している。ヴァスティナの目的が大陸全土の支配である事は、最早周知の事実だからだ。
対してヴァスティナ帝国は、これまで数々の激戦を勝ち抜くも、大きく傷付き消耗している。ここに至るまでに膨大な戦費をかけ、多くの犠牲を払ってきた。無敵を誇る帝国国防陸軍と空軍も、対ジエーデル戦で大量の物資を消費し、工場を全力稼働して生産を行なっている最中だ。
帝国国防軍の要となる戦力が使えぬ今、ホーリスローネやゼロリアスに侵攻されれば、ヴァスティナにそれを防ぐ手立てはない。この絶好の機会に両国が動かないのは、勿論理由がある。
ヴァスティナ帝国はこれまでの戦争で、エステラン国、アーレンツ、オーデル王国、そしてジエーデル国と軍事同盟を結んでいる。かつてのジエーデル国のように、占領した国家を自国の植民地とせず、国体の護持を許し、同盟関係とする事で勢力範囲を広げた。
大陸中央に存在する全ての主要国家と同盟を結び、南ローミリアと中央にまで同盟による勢力を広げたヴァスティナ帝国は、大陸に最大規模の同盟勢力を誕生させた。かつて南ローミリアで、対ジエーデル戦のために結成された連合軍の規模を遥かに超える、ヴァスティナ連合と呼べる一大勢力だ。
つまり、今ヴァスティナ帝国に手を出せば、連合と同盟関係にある国家までもが軍を動かし、ヴァスティナだけでなく多くの国と戦争状態に突入する。如何に二大大国であろうと、苦戦は必至となるだろう。ましてやホーリスローネは、先の戦争で受けた傷がまだ癒えてはいない。戦いを挑む可能性がある国は、ゼロリアス帝国だけと言える状況だった。
連合の存在により、ヴァスティナ帝国は同盟国という戦力のお陰で、傷付いたその身を癒す事ができる。だが、急速に拡大した勢力内は、大中小数多くの国家の集まりであり、それらをまとめる必要に迫られた。
連合の盟主はヴァスティナ帝国だが、ジエーデルのような植民地支配でないとはいえ、それを快く思わない者は大勢いる。先の戦争でヴァスティナに協力した国家の中には、共通の敵だったジエーデル打倒のために、一時的に手を組んだに過ぎないと考えている国もある。
様々な思惑や野心を持つ国家群と、これからどう手を取り合い勢力を維持していくのか。それこそが、現状のヴァスティナ帝国が抱える最大の課題となっている。
大陸中央部に存在する、サザランドという名の街がある。ここはかつて、マンチリー国とダミア国という国同士が、泥沼の戦いを繰り広げていた地である。
その戦いは、アーレンツとの戦いに勝利したヴァスティナ帝国が、後に二度目の軍事介入を行なって両国を打倒し、戦いを終結させていた。戦闘後、マンチリー国とダミア国は帝国の手によって併合され、ダミア・マンチリー国という一つの国家となった。
戦争終結後、戦いで荒れ果てたサザランドは、人々の奮闘により復興を果たした。そのサザランドの街で今日、ヴァスティナ連合の代表者達による会議が開かれる。正午、会議の場となったのは、サザランドの街中心部にあるグラーフ教の教会であった。
各国から集まった代表者達のほとんどは、既に教会内の円卓に集まっている。この地は遥か昔、異教徒を討ち滅ぼすべくグラーフ教を守護する戦士達が集まり、異教徒討伐の軍議を行なったとされており、その時使用された円卓会議場が今も残されているのだ。
天井に巨大なシャンデリアが吊るされた、二十人以上が座れる大きな円卓に、各国から集まった代表者達が、到着が遅れている一人の人物を待っている。集まっているのは、大陸中央主要国家の外交官や、中小国家の文官や軍人であった。その中には、ジエーデル国外交官セドリック・ホーキンスの姿もある。
一時はジエーデル国軍警察に逮捕され、国家反逆罪で投獄されていたが、軍警察の崩壊によって釈放された。その後、独裁者打倒のきっかけを生んだ英雄的行動と、元々の高い能力を買われ、新しいジエーデルの外交官に任じられたのである。
独裁政治による悲劇を繰り返さぬため、新しい祖国の繁栄と平和のために、セドリックは再び自らの戦場に立った。彼の胸には、国のため散った者達や、死なせてしまった英雄ドレビン・ルヒテンドルクと、彼の妻ルクレアの意志が生きている。失った命に報いるためにも、彼は再び戦う事を選んだのである。
そして今、セドリックを始めとした代表者達が到着を待っているのは、盟主ヴァスティナ帝国の代表者である。最も重要な存在が未だ現れず、不満を漏らす者達も少なくはなかった。
セドリックの隣に座る代表者達も、周りに構わずヴァスティナ側への文句を口にしている。盗み聞くまでもなく、よく通る彼らの声はセドリックの耳にも届いた。
「到着の遅れは残党討伐の影響らしいが、実際のところはどうなのだろうな?」
「やはり、あの噂は本当なのでは⋯⋯⋯?」
「狂犬は先の戦争で深手を負ったそうだが、もしや⋯⋯⋯」
「そうであったなら、今頃ヴァスティナは大混乱か。こんな地で会議どころではないだろう」
狂犬とは、帝国の狂犬の異名を持つリクトビア・フローレンスの事を指す。先の戦争におけるリクトビアの負傷は、既に大陸全土に知れ渡ってしまっている。情報漏れと拡散を止める事はできず、帝国国防軍のリクトビア不在は、自軍を大きく動揺させるだけでなく、他国に弱点を晒す事になってしまった。
南ローミリアから快進撃を続け、鋼鉄の獅子を連れた最強の軍隊は、その力を弱体化させている。これを危機と捉える者もいれば、逆に好機と捉える者もいた。狂犬がいない今、自分達の選択や行動次第で、連合を大きく揺るがす事ができると、ここにいる全員が理解している。
(ヴァスティナへの不満が募っている中で、リクトビアがいないこの状況は非常に危険だ。帝国側の対応次第では、いつ反旗を翻す国が出てもおかしくはない)
今ならば、自分達を同盟という鎖で縛るヴァスティナ帝国を、自分達の力で打倒する事も可能かもしれない。もしそうなれば、真の意味で対等な関係になる事も、更に上手くいけば、大きな利を得る交渉を進める事も夢ではないだろう。
現在の連合軍は、力ある統率者を失ったに等しい状態である。連合にいる多くの国は、ヴァスティナに忠誠を誓っているわけでも、長年の友好国というわけでもない。統率者がいなくなれば、それらの国は好き勝手に行動してしまう。
それでも、連合の国家群が勝手な行動を起こさないのは、北の二大大国を恐れるが故である。仮に、今ここでヴァスティナ帝国に反旗を翻し、大陸中央部が大混乱に陥ったとする。その混乱に乗じて、特にゼロリアス帝国が侵攻を開始する可能性が高い。
先の戦争でゼロリアス帝国は、ジエーデル国に宣戦布告した後に電撃的な侵攻を行なった。この侵攻でゼロリアス帝国は、ジエーデル軍が占領していた大陸中央の一部を奪い取り、自国の支配領域としたのである。
ゼロリアス帝国が大陸中央を狙っているのは、調べるまでもない話である。今、大陸中央を混乱させる事態を発生させれば、最強無敵のゼロリアス帝国軍の侵攻を許し、自分達の破滅に繋がってしまう。それが分からぬ程の愚か者は、ここには一人もいなかった。
(幸い、各国はゼロリアスの力をよく理解しているようだ。先の異教徒討伐の話は、彼の国の力を大陸全土に知らしめていたか)
異教徒ボーゼアス討伐の戦争の際、グラーフ同盟軍に参加したゼロリアス帝国側の戦力は、第四皇女率いるアリステリア戦闘旅団であった。
たった数千の兵力であったにもかかわらず、万で押し寄せる異教徒の群れを蹴散らし、アリステリアを守る二代将軍は、無双の如し力で敵軍を屠った。その圧倒的な力によって、ほとんど損害を出さず、彼女達は同盟軍の勝利に大きく貢献した。
アリステリア戦闘旅団の力は、同盟に参加していた全ての軍を震え上がらせた。皇女が率いる数千で、他国の軍の数万人に匹敵する力を持っている。これがゼロリアス帝国の戦力の一部と聞けば、各国が恐れるのも無理はない。
第四皇女アリステリアは、異教徒討伐によって改めて、大陸最強の軍事力を持つとされるゼロリアス帝国の力を、大陸全土に知らしめる事に成功した。その力を恐れるが故に、ゼロリアス帝国侵攻を招く事態を避けたいというのが、各国暗黙の総意となっている。
(何かが起こるにしても、各国は慎重に行動するはず。我が国も、事を焦る様な行動だけは避けなければ⋯⋯)
セドリックの立場からすれば、ヴァスティナ帝国に反発する国家群は、自国を危険に陥れる存在と同義となる。現在のジエーデル国は、かつてのような強大な力はなく、国内の整理すらまだ終わっていない。相手の方が立場が上でも、同盟関係にあるヴァスティナの力が揺るげば、どんな事態を招くか想像するのは容易だ。
(それにしても、思っていた以上にヴァスティナへの不満は大きい⋯⋯⋯)
ヴァスティナ帝国がどのようにしてジエーデル国に勝利したか、多くの人間がその方法を知っている。ヴァスティナは自国が誇る機甲戦力を駆使するだけでなく、様々な工作を仕掛けてジエーデル軍を苦しめ、情報操作によって反乱などを起こさせた。
ジエーデル軍の仕業と見せかけ、各地で暗殺や破壊活動を行なった、帝国国防軍親衛隊の存在。親衛隊の活躍で短期での勝利を得たヴァスティナ帝国だったが、数々の謀略は多くの国家からの信用を失った。
親衛隊の活動が、連合の国家群にヴァスティナ帝国への不信感を与えてしまった。自分達の国益のためならば、同盟を結んでいる国にすら謀略を仕掛けるのではないか。もし二大大国と戦争になったら、使い潰され、切り捨てられるのではないかと、各国はヴァスティナを警戒している。
各国が募らせる不信感は、この場にいる代表者達が纏う空気から、容易に察する事ができた。無論、セドリックも彼らと同じ考えだ。自国が二大大国に対する防波堤として扱われているのは、何処から見ても明白なのである。
(きっかけがあれば⋯⋯⋯、不満を持つ国が何かを仕掛けるのは止められない。しかし、我々にそれを止める術はないだろう)
独裁者を打倒し、自国の解放と平和を手にしたにも関わらず、未だ多くの問題を抱えている。問題を解決できる力は低下しており、何もかもが不足している状況ではあるが、それらを含めて何とかするのが、外交官としてのセドリックの使命だ。
山積みの問題に頭を悩ませていたセドリックだが、会議場に急ぎ入室した兵士に気付き、そちらに視線を移す。見ると、その兵士は帝国国防軍の軍服を着ており、会議場で待つ代表者達に向け声を張り上げる。
「御静粛に願います! たった今、我がヴァスティナ帝国の代表が到着致しました」
到着が遅れていたヴァスティナ側の代表が、いよいよここに姿を現す。全員の視線が報告に来た兵に集中し、彼らは暫し口を閉ざしてその登場を待つ。
それから程なくして、流れるような長髪を持つ眼鏡をかけた若い美男子が、緊張感漂う円卓会議場に足を踏み入れる。面識はないが、セドリックも話には聞いている人物の登場だった。
「お待たせ致しまして、誠に申し訳ありません。我が軍の作戦指揮に時間を取られ、到着が遅れてしまいました」
現れた代表者は、帝国国防軍参謀長エミリオ・メンフィス。リクトビア不在の中、帝国国防軍の全戦力を指揮している男である。
到着の遅れを丁寧に詫びたエミリオが、円卓にたった一つだけ空いた席へと付いた。会議に全員が揃い、早速エミリオが代表して話を進めようとすると、各国代表者の一人である将軍が挑発気味に口を出す。
「会議の前に、一つ確かめておきたい。そちらの英雄たるフローレンス将軍殿は、先の戦で手傷を負ったと聞く。以来、参謀長殿が軍をまとめていると聞くが、将軍殿のお加減は如何かな?」
直球的な発言だが、表向きは飽くまでもリクトビアを心配したものである。リクトビアが今も健在であるか否か、この場の全員が確かめたい事だ。この将軍だけでなく、他の代表者達の視線もエミリオに集まって、彼に逃げ場はなかった。
「⋯⋯⋯そのようなことを気にしておられましたか」
しかしエミリオは、少し笑みを浮かべて眼鏡を外し、レンズの汚れを懐から出した布で拭う。緊張の汗一つ見せない、あまりにも余裕な彼の姿に、逆に代表者達の方が驚かされていた。
「不安にさせたようで申し訳ありません。将軍閣下は自らも戦場に立って暴れる困った方でして、死にかけるのはこれで何度目か分かりません。負傷などいつものこと過ぎて、あまり気にしてはいなかったもので」
嘘や誤魔化す為の話だと思いたいが、笑ってそう説明して見せたエミリオからは、余裕すら感じさせた。不安さえない瞳で代表者達を見回し、汚れを拭った眼鏡を掛け直すと、話を始めた将軍に向かって笑顔を浮かべた。
「御安心下さい。我が軍の将軍閣下は殺しても死なない男です。心配するだけ無駄でしてね、いっそ本当に死ぬのか試してみたいものですよ」
現れたばかりのこの会話で、セドリックはエミリオという男の恐ろしさを思い知る。こんな事ができるからこそ、ヴァスティナ帝国を勝利に導く奇跡を起こし続けてこれたのだと、ようやく理解した。
挑発を仕掛けた将軍は、あまりにもエミリオの余裕な様子に、それ以上何も言えなくなってしまった。寧ろ、殺してみたいと語って見せたエミリオの目から、冗談とは思えない本気さが窺えて、恐ろしくなって挑発を続けられなかったのだ。
(ドレビン将軍から聞いていた以上の男だ。私より若いというのに、度胸が違う)
この円卓でエミリオが一番若いが、彼が最も強い覚悟を胸にここにいる。代表者達を驚愕させるだけでなく、これ以上詮索をさせなくした事が、その覚悟の証拠だ。
「遅れてしまったのは私の方ですが、それでは円卓会議を始めさせて頂きます。皆様、我ら同盟の未来のため共に協力し合い、大陸中央に秩序と平和を取り戻しましょう」
斯くして、エミリオ主導の下、ヴァスティナ連合円卓会議は始まった。
正午過ぎに始まった円卓会議は、数多くの議題が上がって夕方までかかるも、如何にかその日の内に終了した。
現状に対する各国が抱える問題と、それによって発生する不平不満の感情。議題の全てはエミリオが予想していた通りのものだったが、どれも直ぐには解決できない問題ばかりであった。
異教徒の大反乱とジエーデルとの戦争で、大陸中央は数え切れぬ程の死者を生み、その傷痕は生き残った人々を今も苦しめている。エミリオが会議の場で最初に述べた通り、乱れた大陸中央に秩序と平和を取り戻す事が、各国にとって急務なのは間違いない。
ヴァスティナ帝国はまず、度重なる戦争によって荒れ果て、食料不足にまで陥っている大陸中央の現状に、南ローミリアからの食料支援を約束した。更には、戦渦に巻き込まれた地域の復興支援や、旧ジエーデル軍残党及び、大陸中央の混乱に乗じて再び反乱を起こした、異教徒ボーゼアス義勇軍残党の始末も、各国共同で当たる事になった。
因みに、エミリオが会議の場に遅れる事になったのは、このボーゼアス義勇軍残党への対応が原因だった。反乱の規模が大きかったせいと、残党を同盟軍が完全に駆逐する前に、ジエーデル軍が北侵を始めたため、未だボーゼアス教を信じる生き残りがいたのだ。
だが、所詮は指導者を失った残党でしかない。反乱の規模も大したものではなく、旧ジエーデル軍残党共々、駆逐されるのは時間の問題である。
それよりも問題は、今後のヴァスティナ帝国の対応次第では、連合同士で内乱に発展し兼ねない点だ。連合内で争いが勃発すれば、ゼロリアス帝国に攻める好機を与える事になる。破滅に繋がる選択肢は避けたいというのが、各国の総意ではあるものの、現状のヴァスティナ帝国支配に不満を持つ国は多い。
もしも、このような状況下で、各国の信頼をこれ以上裏切ってしまったら。もしも、リクトビア不在の理由が、彼の記憶喪失によるものだと知られてしまったら。想像するまでもなく、それは恐ろしい悲劇を生むだろう。
それを避けるべく、記憶を失ったリックに寄り添うリリカに代わり、参謀長であるエミリオが数多くの問題に対処している。今や彼の肩に、ヴァスティナ帝国の未来が懸かっていると言っても、過言ではなかった。
円卓会議を終え、後の事後処理をエミリオが終えた頃には、外はすっかり夜を迎えていた。会議場となった教会の客間を借り、疲れた体を椅子の背もたれに預けたエミリオは、部屋の天井を眺めて会議の場での事を思い出していた。
他国の将軍からリックの安否を聞かれた際、つい本音が零れてしまったと反省していた。一体何度心配させれば気が済むのかと、怒りの感情故にあんな事を口にしてしまったのだ。
「⋯⋯⋯君はいつもそうだ。こう何度も心配させられたら、心臓がいくつあっても足りないじゃないか」
実際、リックが死にかけたのはこれが初めてではない。死にかけた度合いで言えば、アーレンツ攻防戦時の方がもっと酷かった。その度に心臓が止まる思いで彼の無事を祈り、後で大いに説教したものだ。
人の気も知らないで、自分勝手な酷い男だと思う。ただ、そうやってリックが命を懸ける度、彼に救われた者達がいる。それがなければ、今のリックは、ヴァスティナ帝国は存在しなかっただろう。
「⋯⋯⋯こんな私の気持ちさえ、今は忘却の世界の中か」
今のリックの状態は、リリカから送られた密書によって、エミリオも文面では知っている。リックが目覚めた日、エミリオはブラド公国を離れ、各国との交渉事に当たっていた。その後も旧ジエーデル軍残党への対処や、各国との話し合いなどによってブラド公国に戻れず、彼はまだ記憶を失ったリックと会ってはいない。
既に密書は焼却処理しており、この事実を知るのはエミリオだけだ。彼の配下の兵は誰一人として、リックの記憶が失われた事を知らない。
リックが死にかける度、何度だって彼の身を案じて、何度だって彼の無茶を怒った。時にはその頬を引っ叩いた事もある。リックへとぶつけたエミリオの気持ちすらも、彼の心からは忘却されてしまっている。
エミリオが大切に想う、あの頃のリックは、忘却された己の世界の中を彷徨っている。もう二度と、自分が尽くしたいと、共に歩みたいと願ったリックは、自分のもとに戻って来ないかもしれない。そうなった時、自分は何のために生きていけばいいのか⋯⋯⋯。
「私も、レイナやヴィヴィアンヌのことは言えないな」
思わず笑いが出てしまう。改めて考えると、彼女達と同じようにエミリオ自身もまた、どうしようもない程にリックに依存してしまっている。果たして、本当に彼がいなくなってしまったら、自分はどうなってしまうのか、恐ろしくて想像もできない。
(帝国に迫る脅威は、リックの回復を待ってはくれない。彼の記憶が戻らなければ、その時私は⋯⋯)
いつもならこんな時、エミリオの気持ちを察したリックが、彼を励まそうとしてくれる。それに何度助けられ、共に苦難の道を乗り越えてきたか。リックがいてくれたからこそ、彼の下で存分に力を振るえたのだ。
しかし今、エミリオを支えてくれる者は誰もいない。この苦難を、彼は一人で乗り越えて行かなければならないのだ。
「これが私に課せられた試練というならば、務めを果たすまでだ」
今ここにはいない大切な友の分まで、その重責を一人背負って戦う。
それが自分にとっての、これまでにない最大の試練なのだと、エミリオは一人悟るのだった。
エミリオに課せられたのは、旧ジエーデル軍残党の掃討に加え、帝国国防軍戦力の再編成である。更には、来るべき次の戦いに向けた準備と、新しく得た勢力範囲の防衛線構築であった。これは主に、大陸北方の二大大国に対する備えである。
南ローミリアの統べるヴァスティナ帝国は、僅かな期間で急速に勢力範囲を広げた。かつてはエステラン国やジエーデル国が敵国であり、それに対する防衛態勢を構築していたが、宿敵たる二国を下した今、次なる帝国の脅威はホーリスローネ王国とゼロリアス帝国となる。
ヴァスティナ帝国と二大大国は、今まで敵対関係になった事はない。しかし今後は、ヴァスティナ帝国を脅威と感じた両国が、突如国境線を越えて軍を進める事すらあり得る。ヴァスティナ帝国の次なる仮想敵国は、北の二大大国と変わったのだ。
既にホーリスローネ王国もゼロリアス帝国も、ヴァスティナ帝国側の狙いを察知し、秘かに軍を動かし対ヴァスティナ戦への防衛力を強化している。ヴァスティナの目的が大陸全土の支配である事は、最早周知の事実だからだ。
対してヴァスティナ帝国は、これまで数々の激戦を勝ち抜くも、大きく傷付き消耗している。ここに至るまでに膨大な戦費をかけ、多くの犠牲を払ってきた。無敵を誇る帝国国防陸軍と空軍も、対ジエーデル戦で大量の物資を消費し、工場を全力稼働して生産を行なっている最中だ。
帝国国防軍の要となる戦力が使えぬ今、ホーリスローネやゼロリアスに侵攻されれば、ヴァスティナにそれを防ぐ手立てはない。この絶好の機会に両国が動かないのは、勿論理由がある。
ヴァスティナ帝国はこれまでの戦争で、エステラン国、アーレンツ、オーデル王国、そしてジエーデル国と軍事同盟を結んでいる。かつてのジエーデル国のように、占領した国家を自国の植民地とせず、国体の護持を許し、同盟関係とする事で勢力範囲を広げた。
大陸中央に存在する全ての主要国家と同盟を結び、南ローミリアと中央にまで同盟による勢力を広げたヴァスティナ帝国は、大陸に最大規模の同盟勢力を誕生させた。かつて南ローミリアで、対ジエーデル戦のために結成された連合軍の規模を遥かに超える、ヴァスティナ連合と呼べる一大勢力だ。
つまり、今ヴァスティナ帝国に手を出せば、連合と同盟関係にある国家までもが軍を動かし、ヴァスティナだけでなく多くの国と戦争状態に突入する。如何に二大大国であろうと、苦戦は必至となるだろう。ましてやホーリスローネは、先の戦争で受けた傷がまだ癒えてはいない。戦いを挑む可能性がある国は、ゼロリアス帝国だけと言える状況だった。
連合の存在により、ヴァスティナ帝国は同盟国という戦力のお陰で、傷付いたその身を癒す事ができる。だが、急速に拡大した勢力内は、大中小数多くの国家の集まりであり、それらをまとめる必要に迫られた。
連合の盟主はヴァスティナ帝国だが、ジエーデルのような植民地支配でないとはいえ、それを快く思わない者は大勢いる。先の戦争でヴァスティナに協力した国家の中には、共通の敵だったジエーデル打倒のために、一時的に手を組んだに過ぎないと考えている国もある。
様々な思惑や野心を持つ国家群と、これからどう手を取り合い勢力を維持していくのか。それこそが、現状のヴァスティナ帝国が抱える最大の課題となっている。
大陸中央部に存在する、サザランドという名の街がある。ここはかつて、マンチリー国とダミア国という国同士が、泥沼の戦いを繰り広げていた地である。
その戦いは、アーレンツとの戦いに勝利したヴァスティナ帝国が、後に二度目の軍事介入を行なって両国を打倒し、戦いを終結させていた。戦闘後、マンチリー国とダミア国は帝国の手によって併合され、ダミア・マンチリー国という一つの国家となった。
戦争終結後、戦いで荒れ果てたサザランドは、人々の奮闘により復興を果たした。そのサザランドの街で今日、ヴァスティナ連合の代表者達による会議が開かれる。正午、会議の場となったのは、サザランドの街中心部にあるグラーフ教の教会であった。
各国から集まった代表者達のほとんどは、既に教会内の円卓に集まっている。この地は遥か昔、異教徒を討ち滅ぼすべくグラーフ教を守護する戦士達が集まり、異教徒討伐の軍議を行なったとされており、その時使用された円卓会議場が今も残されているのだ。
天井に巨大なシャンデリアが吊るされた、二十人以上が座れる大きな円卓に、各国から集まった代表者達が、到着が遅れている一人の人物を待っている。集まっているのは、大陸中央主要国家の外交官や、中小国家の文官や軍人であった。その中には、ジエーデル国外交官セドリック・ホーキンスの姿もある。
一時はジエーデル国軍警察に逮捕され、国家反逆罪で投獄されていたが、軍警察の崩壊によって釈放された。その後、独裁者打倒のきっかけを生んだ英雄的行動と、元々の高い能力を買われ、新しいジエーデルの外交官に任じられたのである。
独裁政治による悲劇を繰り返さぬため、新しい祖国の繁栄と平和のために、セドリックは再び自らの戦場に立った。彼の胸には、国のため散った者達や、死なせてしまった英雄ドレビン・ルヒテンドルクと、彼の妻ルクレアの意志が生きている。失った命に報いるためにも、彼は再び戦う事を選んだのである。
そして今、セドリックを始めとした代表者達が到着を待っているのは、盟主ヴァスティナ帝国の代表者である。最も重要な存在が未だ現れず、不満を漏らす者達も少なくはなかった。
セドリックの隣に座る代表者達も、周りに構わずヴァスティナ側への文句を口にしている。盗み聞くまでもなく、よく通る彼らの声はセドリックの耳にも届いた。
「到着の遅れは残党討伐の影響らしいが、実際のところはどうなのだろうな?」
「やはり、あの噂は本当なのでは⋯⋯⋯?」
「狂犬は先の戦争で深手を負ったそうだが、もしや⋯⋯⋯」
「そうであったなら、今頃ヴァスティナは大混乱か。こんな地で会議どころではないだろう」
狂犬とは、帝国の狂犬の異名を持つリクトビア・フローレンスの事を指す。先の戦争におけるリクトビアの負傷は、既に大陸全土に知れ渡ってしまっている。情報漏れと拡散を止める事はできず、帝国国防軍のリクトビア不在は、自軍を大きく動揺させるだけでなく、他国に弱点を晒す事になってしまった。
南ローミリアから快進撃を続け、鋼鉄の獅子を連れた最強の軍隊は、その力を弱体化させている。これを危機と捉える者もいれば、逆に好機と捉える者もいた。狂犬がいない今、自分達の選択や行動次第で、連合を大きく揺るがす事ができると、ここにいる全員が理解している。
(ヴァスティナへの不満が募っている中で、リクトビアがいないこの状況は非常に危険だ。帝国側の対応次第では、いつ反旗を翻す国が出てもおかしくはない)
今ならば、自分達を同盟という鎖で縛るヴァスティナ帝国を、自分達の力で打倒する事も可能かもしれない。もしそうなれば、真の意味で対等な関係になる事も、更に上手くいけば、大きな利を得る交渉を進める事も夢ではないだろう。
現在の連合軍は、力ある統率者を失ったに等しい状態である。連合にいる多くの国は、ヴァスティナに忠誠を誓っているわけでも、長年の友好国というわけでもない。統率者がいなくなれば、それらの国は好き勝手に行動してしまう。
それでも、連合の国家群が勝手な行動を起こさないのは、北の二大大国を恐れるが故である。仮に、今ここでヴァスティナ帝国に反旗を翻し、大陸中央部が大混乱に陥ったとする。その混乱に乗じて、特にゼロリアス帝国が侵攻を開始する可能性が高い。
先の戦争でゼロリアス帝国は、ジエーデル国に宣戦布告した後に電撃的な侵攻を行なった。この侵攻でゼロリアス帝国は、ジエーデル軍が占領していた大陸中央の一部を奪い取り、自国の支配領域としたのである。
ゼロリアス帝国が大陸中央を狙っているのは、調べるまでもない話である。今、大陸中央を混乱させる事態を発生させれば、最強無敵のゼロリアス帝国軍の侵攻を許し、自分達の破滅に繋がってしまう。それが分からぬ程の愚か者は、ここには一人もいなかった。
(幸い、各国はゼロリアスの力をよく理解しているようだ。先の異教徒討伐の話は、彼の国の力を大陸全土に知らしめていたか)
異教徒ボーゼアス討伐の戦争の際、グラーフ同盟軍に参加したゼロリアス帝国側の戦力は、第四皇女率いるアリステリア戦闘旅団であった。
たった数千の兵力であったにもかかわらず、万で押し寄せる異教徒の群れを蹴散らし、アリステリアを守る二代将軍は、無双の如し力で敵軍を屠った。その圧倒的な力によって、ほとんど損害を出さず、彼女達は同盟軍の勝利に大きく貢献した。
アリステリア戦闘旅団の力は、同盟に参加していた全ての軍を震え上がらせた。皇女が率いる数千で、他国の軍の数万人に匹敵する力を持っている。これがゼロリアス帝国の戦力の一部と聞けば、各国が恐れるのも無理はない。
第四皇女アリステリアは、異教徒討伐によって改めて、大陸最強の軍事力を持つとされるゼロリアス帝国の力を、大陸全土に知らしめる事に成功した。その力を恐れるが故に、ゼロリアス帝国侵攻を招く事態を避けたいというのが、各国暗黙の総意となっている。
(何かが起こるにしても、各国は慎重に行動するはず。我が国も、事を焦る様な行動だけは避けなければ⋯⋯)
セドリックの立場からすれば、ヴァスティナ帝国に反発する国家群は、自国を危険に陥れる存在と同義となる。現在のジエーデル国は、かつてのような強大な力はなく、国内の整理すらまだ終わっていない。相手の方が立場が上でも、同盟関係にあるヴァスティナの力が揺るげば、どんな事態を招くか想像するのは容易だ。
(それにしても、思っていた以上にヴァスティナへの不満は大きい⋯⋯⋯)
ヴァスティナ帝国がどのようにしてジエーデル国に勝利したか、多くの人間がその方法を知っている。ヴァスティナは自国が誇る機甲戦力を駆使するだけでなく、様々な工作を仕掛けてジエーデル軍を苦しめ、情報操作によって反乱などを起こさせた。
ジエーデル軍の仕業と見せかけ、各地で暗殺や破壊活動を行なった、帝国国防軍親衛隊の存在。親衛隊の活躍で短期での勝利を得たヴァスティナ帝国だったが、数々の謀略は多くの国家からの信用を失った。
親衛隊の活動が、連合の国家群にヴァスティナ帝国への不信感を与えてしまった。自分達の国益のためならば、同盟を結んでいる国にすら謀略を仕掛けるのではないか。もし二大大国と戦争になったら、使い潰され、切り捨てられるのではないかと、各国はヴァスティナを警戒している。
各国が募らせる不信感は、この場にいる代表者達が纏う空気から、容易に察する事ができた。無論、セドリックも彼らと同じ考えだ。自国が二大大国に対する防波堤として扱われているのは、何処から見ても明白なのである。
(きっかけがあれば⋯⋯⋯、不満を持つ国が何かを仕掛けるのは止められない。しかし、我々にそれを止める術はないだろう)
独裁者を打倒し、自国の解放と平和を手にしたにも関わらず、未だ多くの問題を抱えている。問題を解決できる力は低下しており、何もかもが不足している状況ではあるが、それらを含めて何とかするのが、外交官としてのセドリックの使命だ。
山積みの問題に頭を悩ませていたセドリックだが、会議場に急ぎ入室した兵士に気付き、そちらに視線を移す。見ると、その兵士は帝国国防軍の軍服を着ており、会議場で待つ代表者達に向け声を張り上げる。
「御静粛に願います! たった今、我がヴァスティナ帝国の代表が到着致しました」
到着が遅れていたヴァスティナ側の代表が、いよいよここに姿を現す。全員の視線が報告に来た兵に集中し、彼らは暫し口を閉ざしてその登場を待つ。
それから程なくして、流れるような長髪を持つ眼鏡をかけた若い美男子が、緊張感漂う円卓会議場に足を踏み入れる。面識はないが、セドリックも話には聞いている人物の登場だった。
「お待たせ致しまして、誠に申し訳ありません。我が軍の作戦指揮に時間を取られ、到着が遅れてしまいました」
現れた代表者は、帝国国防軍参謀長エミリオ・メンフィス。リクトビア不在の中、帝国国防軍の全戦力を指揮している男である。
到着の遅れを丁寧に詫びたエミリオが、円卓にたった一つだけ空いた席へと付いた。会議に全員が揃い、早速エミリオが代表して話を進めようとすると、各国代表者の一人である将軍が挑発気味に口を出す。
「会議の前に、一つ確かめておきたい。そちらの英雄たるフローレンス将軍殿は、先の戦で手傷を負ったと聞く。以来、参謀長殿が軍をまとめていると聞くが、将軍殿のお加減は如何かな?」
直球的な発言だが、表向きは飽くまでもリクトビアを心配したものである。リクトビアが今も健在であるか否か、この場の全員が確かめたい事だ。この将軍だけでなく、他の代表者達の視線もエミリオに集まって、彼に逃げ場はなかった。
「⋯⋯⋯そのようなことを気にしておられましたか」
しかしエミリオは、少し笑みを浮かべて眼鏡を外し、レンズの汚れを懐から出した布で拭う。緊張の汗一つ見せない、あまりにも余裕な彼の姿に、逆に代表者達の方が驚かされていた。
「不安にさせたようで申し訳ありません。将軍閣下は自らも戦場に立って暴れる困った方でして、死にかけるのはこれで何度目か分かりません。負傷などいつものこと過ぎて、あまり気にしてはいなかったもので」
嘘や誤魔化す為の話だと思いたいが、笑ってそう説明して見せたエミリオからは、余裕すら感じさせた。不安さえない瞳で代表者達を見回し、汚れを拭った眼鏡を掛け直すと、話を始めた将軍に向かって笑顔を浮かべた。
「御安心下さい。我が軍の将軍閣下は殺しても死なない男です。心配するだけ無駄でしてね、いっそ本当に死ぬのか試してみたいものですよ」
現れたばかりのこの会話で、セドリックはエミリオという男の恐ろしさを思い知る。こんな事ができるからこそ、ヴァスティナ帝国を勝利に導く奇跡を起こし続けてこれたのだと、ようやく理解した。
挑発を仕掛けた将軍は、あまりにもエミリオの余裕な様子に、それ以上何も言えなくなってしまった。寧ろ、殺してみたいと語って見せたエミリオの目から、冗談とは思えない本気さが窺えて、恐ろしくなって挑発を続けられなかったのだ。
(ドレビン将軍から聞いていた以上の男だ。私より若いというのに、度胸が違う)
この円卓でエミリオが一番若いが、彼が最も強い覚悟を胸にここにいる。代表者達を驚愕させるだけでなく、これ以上詮索をさせなくした事が、その覚悟の証拠だ。
「遅れてしまったのは私の方ですが、それでは円卓会議を始めさせて頂きます。皆様、我ら同盟の未来のため共に協力し合い、大陸中央に秩序と平和を取り戻しましょう」
斯くして、エミリオ主導の下、ヴァスティナ連合円卓会議は始まった。
正午過ぎに始まった円卓会議は、数多くの議題が上がって夕方までかかるも、如何にかその日の内に終了した。
現状に対する各国が抱える問題と、それによって発生する不平不満の感情。議題の全てはエミリオが予想していた通りのものだったが、どれも直ぐには解決できない問題ばかりであった。
異教徒の大反乱とジエーデルとの戦争で、大陸中央は数え切れぬ程の死者を生み、その傷痕は生き残った人々を今も苦しめている。エミリオが会議の場で最初に述べた通り、乱れた大陸中央に秩序と平和を取り戻す事が、各国にとって急務なのは間違いない。
ヴァスティナ帝国はまず、度重なる戦争によって荒れ果て、食料不足にまで陥っている大陸中央の現状に、南ローミリアからの食料支援を約束した。更には、戦渦に巻き込まれた地域の復興支援や、旧ジエーデル軍残党及び、大陸中央の混乱に乗じて再び反乱を起こした、異教徒ボーゼアス義勇軍残党の始末も、各国共同で当たる事になった。
因みに、エミリオが会議の場に遅れる事になったのは、このボーゼアス義勇軍残党への対応が原因だった。反乱の規模が大きかったせいと、残党を同盟軍が完全に駆逐する前に、ジエーデル軍が北侵を始めたため、未だボーゼアス教を信じる生き残りがいたのだ。
だが、所詮は指導者を失った残党でしかない。反乱の規模も大したものではなく、旧ジエーデル軍残党共々、駆逐されるのは時間の問題である。
それよりも問題は、今後のヴァスティナ帝国の対応次第では、連合同士で内乱に発展し兼ねない点だ。連合内で争いが勃発すれば、ゼロリアス帝国に攻める好機を与える事になる。破滅に繋がる選択肢は避けたいというのが、各国の総意ではあるものの、現状のヴァスティナ帝国支配に不満を持つ国は多い。
もしも、このような状況下で、各国の信頼をこれ以上裏切ってしまったら。もしも、リクトビア不在の理由が、彼の記憶喪失によるものだと知られてしまったら。想像するまでもなく、それは恐ろしい悲劇を生むだろう。
それを避けるべく、記憶を失ったリックに寄り添うリリカに代わり、参謀長であるエミリオが数多くの問題に対処している。今や彼の肩に、ヴァスティナ帝国の未来が懸かっていると言っても、過言ではなかった。
円卓会議を終え、後の事後処理をエミリオが終えた頃には、外はすっかり夜を迎えていた。会議場となった教会の客間を借り、疲れた体を椅子の背もたれに預けたエミリオは、部屋の天井を眺めて会議の場での事を思い出していた。
他国の将軍からリックの安否を聞かれた際、つい本音が零れてしまったと反省していた。一体何度心配させれば気が済むのかと、怒りの感情故にあんな事を口にしてしまったのだ。
「⋯⋯⋯君はいつもそうだ。こう何度も心配させられたら、心臓がいくつあっても足りないじゃないか」
実際、リックが死にかけたのはこれが初めてではない。死にかけた度合いで言えば、アーレンツ攻防戦時の方がもっと酷かった。その度に心臓が止まる思いで彼の無事を祈り、後で大いに説教したものだ。
人の気も知らないで、自分勝手な酷い男だと思う。ただ、そうやってリックが命を懸ける度、彼に救われた者達がいる。それがなければ、今のリックは、ヴァスティナ帝国は存在しなかっただろう。
「⋯⋯⋯こんな私の気持ちさえ、今は忘却の世界の中か」
今のリックの状態は、リリカから送られた密書によって、エミリオも文面では知っている。リックが目覚めた日、エミリオはブラド公国を離れ、各国との交渉事に当たっていた。その後も旧ジエーデル軍残党への対処や、各国との話し合いなどによってブラド公国に戻れず、彼はまだ記憶を失ったリックと会ってはいない。
既に密書は焼却処理しており、この事実を知るのはエミリオだけだ。彼の配下の兵は誰一人として、リックの記憶が失われた事を知らない。
リックが死にかける度、何度だって彼の身を案じて、何度だって彼の無茶を怒った。時にはその頬を引っ叩いた事もある。リックへとぶつけたエミリオの気持ちすらも、彼の心からは忘却されてしまっている。
エミリオが大切に想う、あの頃のリックは、忘却された己の世界の中を彷徨っている。もう二度と、自分が尽くしたいと、共に歩みたいと願ったリックは、自分のもとに戻って来ないかもしれない。そうなった時、自分は何のために生きていけばいいのか⋯⋯⋯。
「私も、レイナやヴィヴィアンヌのことは言えないな」
思わず笑いが出てしまう。改めて考えると、彼女達と同じようにエミリオ自身もまた、どうしようもない程にリックに依存してしまっている。果たして、本当に彼がいなくなってしまったら、自分はどうなってしまうのか、恐ろしくて想像もできない。
(帝国に迫る脅威は、リックの回復を待ってはくれない。彼の記憶が戻らなければ、その時私は⋯⋯)
いつもならこんな時、エミリオの気持ちを察したリックが、彼を励まそうとしてくれる。それに何度助けられ、共に苦難の道を乗り越えてきたか。リックがいてくれたからこそ、彼の下で存分に力を振るえたのだ。
しかし今、エミリオを支えてくれる者は誰もいない。この苦難を、彼は一人で乗り越えて行かなければならないのだ。
「これが私に課せられた試練というならば、務めを果たすまでだ」
今ここにはいない大切な友の分まで、その重責を一人背負って戦う。
それが自分にとっての、これまでにない最大の試練なのだと、エミリオは一人悟るのだった。
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