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第五十一話 死線
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地図にも載っていない、平穏で小さな村は、今や戦場と変わっていた。凄惨な殺戮が行なわれ、一人、また一人と命を奪われていく。今やこの村は、生者の数より死者の数の方が多い。争いのないあの静かな村の風景は、たった数時間の内に奪われてしまった。
ミッター率いる暗殺部隊は、各自分かれて行動している。陽動担当の二人は現在戦闘中だが、残り三人は村へと侵入し、分かれてリクトビアの捜索を行なっていた。
そして、捜索担当になっていた一人が、リクトビアが潜伏している場所を嗅ぎ付けた。
「ぐはっ⋯⋯⋯!」
アングハルトの家を防衛していた彼女の部下達は、たった一人の青年相手に全滅させられた。今、奮戦していた最後の一人が青年の手にかかり、背中を圧し折られて息絶えた。
ただその青年は、家を守っていた四人の兵士を、指一本たりとも触れずに始末して見せた。今殺された兵士は、見えない力で背骨を無理に曲げられ、身体をくの字形にされて死んでいる。他の兵士達も同様に、首が逆方向にまで曲げられてしまっていたり、身体を捻じ曲げられたりして殺されていた。
「守ってる兵士が四人と、噂の鉄の車か⋯⋯⋯。オレっちの勘が当たったってわけね」
青年の名はゲッベ。紫色をした髪が特徴的な、ミッター達暗殺部隊の一人である。彼もまた特殊魔法兵の一人で、自在に念力を操る事が出来る。相手が人であろうが物であろうが、対象に触れずに物理的な作用を与えられるのだ。
「出てこいよ狂犬! あんたの可愛い護衛連中はみんな死んじまった!」
隠れているであろうリクトビアに向けて、ゲッベは彼に聞こえるよう大声で挑発する。ミッターから聞かされている情報で、リクトビアが兵を大切にする将だと知っている彼は、この挑発で誘き出そうと考えていた。
情報が本当なら、兵を皆殺しにされたリクトビアは怒り狂い、隠れている場所から姿を現すに違いない。だがリクトビアが姿を見せる様子はなく、周囲は人気のない静けさに包まれていた。
「面倒じゃんこれ。全然現れないでやんの」
リクトビアが息を潜めて何処かに隠れているなら、隠れていそうな場所を地道に探すしかなくなる。そういうのは性に合わないと、捜し出すのが面倒で堪らないゲッベは、少し周囲を見回してある物を見つめた。
ゲッベの視線の先には、アングハルトの命令でいつでも動かせるよう準備されていた、護衛部隊の輸送車輌があった。閃いたゲッベは魔法を発動すると、車輛に向けて念力をかけ、人力ではとても持ち上がらない鉄製の車を、ゆっくりと宙に浮かせる。
リクトビアが一番隠れていそうな場所は、この車輛の傍にある家屋だ。護衛の兵士達も、この家を守るように展開していたのだから、この近くにいるのは間違いないだろう。そう考えたゲッベは、邪悪な笑みを浮かべて念力を操って、車輛を家屋の真上まで移動させた。
「出てこない方が悪いんだ」
ゲッベが念力を解除する。宙に浮いていた車輌は重力に逆らえず、真下の家に目掛けて落下を始めた。逃げ出す暇も与えず、車輌はアングハルトの家に落下する。車輌は屋根を突き破り、一瞬の内に家を崩壊させた。
爆発のような衝撃音が轟き、周囲の地面が揺れ、崩壊した家屋を中心に土煙が舞い上がる。これを引き起こした本人が、思った以上の衝撃に少し驚いている中、破壊した家を覆う土煙が晴れるのを待った。
「⋯⋯⋯もしかして、今ので死んだ?」
こうでもすれば、悲鳴を上げ慌てて飛び出してくるかと思っていた。実際は悲鳴どころか声一つ上がらず、落下した車輌に家が押し潰され破壊されただけである。
最悪殺しても構わないと言われているが、生きたまま捕まえなければならない。生け捕りに出来れば、その功績によって自由を手に入れ、また好き勝手に暴れまわれるかもしれないからだ。
調子に乗り過ぎたと反省しつつ、「ここに隠れていませんように」と祈りながら、ゲッベは崩壊した家屋の残骸を調べようと近付いていく。もし本当に殺してしまったなら、リクトビアの死体を発見する必要があるためだ。
「⋯⋯⋯誰が死んだって?」
「!?」
家に近付いたゲッベは、家の残骸の中から微かな声を耳にした。驚いた彼が身構えた次の瞬間、残骸の一部が何者かの足で蹴り上げられる。邪魔な残骸を蹴りで弾き飛ばし、その中から目覚めたばかりの狂犬が牙を剥いた。
「⋯⋯⋯ったく、過去最悪の目覚めだ。起きたら真っ暗だし、銃声が聞こえるし、家はぶっ壊されるし。随分好き勝手してくれたみたいだな」
あの破壊と衝撃の中でも、彼は無傷だった。寧ろ、眠っていた彼を叩き起こし、戦闘態勢に入らせたのだ。軍服の上着を羽織り、ホルスターを装備しながら、彼は周囲を見回して状況を把握する。
「帝国の狂犬」という異名を持つ、ヴァスティナ帝国国防軍将軍。目覚めた彼、リクトビア・フローレンスことリックは、瞳に怒り炎を燃え上がらせゲッベを見据えた。
「あんたが狂犬か? 今ので死んでなくて安心した」
「そっちは誰だ? どうせジエーデルの殺し屋ってのはわかるが⋯⋯⋯」
「まあそんなところ。オレっちは―――」
「ああ、別に名乗らなくていいんだよ蛆虫野郎」
「あん?」
「どうせお前は、今ここでぶっ殺す」
圧倒的な殺意と怒気が場を支配し、その余りの迫力にゲッベが後退る。完全に怒り狂ったリックは、相手の能力などの事も考えず、その場から駆け出した。一気にゲッベとの距離を詰め、握り締めた右の拳に怒りを込め、リックは彼を殴り殺す事だけを考え拳を放つ。
防御は間に合わない。躱す事も間に合わない。ゲッベの身体能力では、敵との距離を瞬時に詰めて接近戦を仕掛けるリックから、逃れる術はない。だがゲッベは、リックの一撃を回避する必要などなかった。
「嘗めんなよ、狂犬」
「!」
拳がゲッベの顔面に届く直前、リックの動きは止まった。念力を発動したゲッベが彼の動きを拘束し、攻撃を封じたのだ。
ゲッベの能力を知らないリックは、自らの体が突然動かせなくなり驚いた。その顔を見たゲッベは、下卑た笑みをリックへと向けた。その悪しき顔は、如何にこの男を玩具にしてやろうかと企む、邪悪な怪物の顔だった。
「そんじゃあ先ずは、その右腕を念力で圧し折って―――」
「嘗めてんのはどっちだぼけええええええええええっ!!!」
念力など関係ない。ただ、目の前の気に入らない敵を、力の限りぶん殴る。その一点だけに全力を発揮し、空気を震わす程の雄叫びを上げたリックが、気合と殺意と怒りで念力の拘束に抗った。
常人を超えたリックの力が、ゲッベの念力に逆らって無理矢理拘束を解こうとする。一切の身動きができないはずのリックの拳が、拘束に抗い徐々に前に進んでいく。
「おい嘘だろ!? ギャビットの奴でなきゃこんな真似⋯⋯⋯!」
身体能力強化の特殊魔法を操るギャビットなら、力技でゲッベの念力に抗う事もできる。この念力に抗うためには、人間業とは思えないレベルの力が必要だ。
その力がリックにはある。人間業ではない身体能力を持ち、竜すらも素手で殴って怯ませた彼の力は、ギャビットの力の比ではない。
驚愕したゲッベが慌てて本気を発揮し、念力の拘束を最大まで高めるが、それでも尚リックの拳は止まろうとはしなかった。迫る拳にゲッベの顔が恐怖に歪み、やがて彼の魔法は限界を迎える。
念力に抗い続けたリックの力に、先にゲッベが根を上げて精神力が持たなくなる。強力な能力である分、使用には集中力を要する魔法であるのが仇となり、集中が続かなかったゲッベは念力を維持できない。
「ぶっ飛べえええええええええええええええっ!!!」
集中力が切れた瞬間、念力が解除されてリックの身体は自由になる。放たれた拳は今度こそゲッベの顔面に直撃し、勢いのまま彼の身体を殴り飛ばした。
宙を高く舞ったゲッベの身体は、受け身も取れず地面に叩き付けられる。激痛と衝撃に悶え苦しみ、身体が痺れて動かなくなる感覚の中で、ゲッベは悟る。ここで逃げなければ、確実に殺されると⋯⋯⋯。
「くっ、くそっ!! こんなところでオレっちが⋯⋯⋯!」
「逃がすわけないだろ」
リックの一撃によって前歯と鼻を圧し折られ、顔面を血塗れで崩壊させたゲッベが、地面を這いずって必死に逃げようとする。それを止めたのは、ゲッベの腹に強烈な踏み蹴りを叩き込むリックだった。
内臓をやられて大量に吐血したゲッベを見下ろし、リックは両の拳を握り締め、剥き出しの殺意を露わにしながら拳を振るう。
「こいつは、お前に殺された四人の分だ」
左右の拳で計四発、棍棒のような威力を持つリックの拳が、ゲッベの顔をこれでもかと殴り付けた。ゲッベの身体に馬乗りとなったリックが一発、二発と殴り、三発目には歯をほとんど折り、四発目には顎の骨を砕く。顔中血だらけとなり、原形を留めぬ程にぐちゃぐちゃにされ、最早ゲッベは痛みに悲鳴を上げる事さえできない。
それでもリックの怒りは収まらず、最後の一撃を叩き込むべく拳を構えた。喋る事さえできなくなったゲッベの目が、恐怖に負けて必死に命乞いをしているのが分かる。だがリックは、そんな彼の命乞いを無視した。
「死ね」
全力で放ったリックの一撃が、再びゲッベの顔面に直撃する。頭蓋を砕かれ、脳味噌を潰され、潰れた苫とのようになったゲッベの頭だったが。暫く身体の方は痙攣を起こし、頭を失った身体が、まるで生きているかのようにぴくぴくと動き続けた。
息絶えたゲッベの身体から立ち上がったリックは、死体を一瞥した後に、改めて周囲を確認する。自分が眠ってしまっていた間に、一体どれだけ人間が犠牲になってしまったのか。そして何よりも、彼女は無事なのか。皆の無事を確かめるために周囲を見回すも、殺された四人の兵士以外、ここには誰もいなかった。
(あいつ、俺をあんなところに閉じ込めて⋯⋯⋯。一人で無茶してたら許さないからな)
襲撃者の規模や被害状況を含め、目覚めたばかりのリックはまだ状況が分かっていない。分かっているのは攻撃を受けている事実と、自分が特殊魔法兵の一人を殴り殺した事だけだ。
何とか力技で片付けられたが、リックの体調はまだ回復し切っていない。新手が現れる前にアングハルト達と合流し、ここから脱出しなければ、次の戦闘で最悪倒れる可能性もある。今は敵との戦闘より、一刻も早い脱出が求められるだろう。
脱出を判断したリックは、ホルスターから愛銃たる自動拳銃を抜き、弾倉を確認した後にスライドを引いて、薬室に初弾を送り込む。他に武器を調達しようと思い、戦死した仲間の銃器を集めようと考えたが、殺気を感じ取ったリックは急いで拳銃を構えた。
「あーあ、紫頭秒殺じゃん。かっこわるー」
「口の割に使えん奴だったな。だがまあ、狂犬を見つけた事だけは誉めてやろう」
リックの前に現れた、殺気を放つ男と少年。彼らの前には五体のアンデッドが、二人を守る盾代わりとして並び立っている。
現れた敵の登場に驚いたリックだが、もっと驚いたのはアンデッドの存在だった。生ける屍と変えられてしまった村人の姿に、驚愕を隠し切れなかった。そんな驚く彼の反応が面白かったのか、少年の方は楽しそうに笑って口を開く。
「僕の姉さんはね、ネクロマンサーなんだ。結界の中で死者を生き返らせ、人の肉を求めて彷徨うアンデッドに変えちゃう魔法。アンデッドは姉さんと、姉さんが許可した人間の言う事だけしか聞かない。どう? 摩訶不思議なすっごい魔法だろ」
「⋯⋯⋯聞いてもないのにお姉ちゃんの自慢話かよ。そこのおっさん、子供の躾がなってないんじゃないの?」
「おいおい、狂犬までも俺をおっさん扱いか。元アーレンツ国家保安情報局のミッターって言ったら、お前も話くらいは聞いてるんじゃないのか?」
アーレンツ国家保安情報局。その言葉が出た瞬間、リックの脳裏に最悪の記憶が蘇る。そしてミッターという名は、アーレンツ攻防戦の報告書を確認した際、レイナが戦ったという情報局員の名であった。
生き残りの情報局員が襲撃者の正体。一体どういう状況なのか、リックの頭の中であらゆる可能性が生まれる。唯一つだけ確かなのは、対ジエーデル戦とミッターの襲撃が、決して無関係ではないという事だけだ。
「⋯⋯⋯レイナに両手斬り落とされて逃げた奴が今更何の用だ。お前達が忠誠を誓ってた組織はもう何処にもないんだぞ?」
「そっちの烈火式使いのせいで、今じゃこの通り両手は義手だ。この義手をくれたのが新しい雇い主でな。俺の仕事はお前さんを捕らえることってわけだ」
「へえ、生かして捕まえるのが仕事なのか。てっきり復讐で殺しに来たんだと思ったけど、また捕まって酷い目に遭うくらいなら死んだ方がマシだ」
「楽な死に方などさせんさ。お前とあの娘だけは、永遠の生き地獄に叩き込んでやる」
復讐に燃えるミッターが、リックを捕らえるべくアンデッドに命令を出す。彼の命令を聞いた五体のアンデッドは、一斉にリックへと襲い掛かっていった。
相手はアンデッドだけでなく、元情報局の手練れに加え、恐らく特殊魔法使いの少年である。簡単には逃げられないと悟り、戦うしかないと決意したリックは、構えた自動拳銃の引き金を引いた。
リックの正確な射撃で放たれたのは、全部で五発。五体のアンデッドの頭にそれぞれ一発ずつ命中させ、アンデッド達の活動を停止させる。頭を撃ち抜かれて力を失ったアンデッドは、リックの目の前で倒れ伏して二度と動かない。
これに驚愕していたのは、ネクロマンサー能力を姉を持つ少年だった。大抵の人間がアンデッドに遭遇すると、倒すための弱点が分からず、そのまま食い殺される例がほとんどだ。それなのにリックは、まるで知っているかのように一発で弱点を見抜き、冷静に対処してしまったのである。
「なっ⋯⋯⋯!? こいつなんでアンデッドの弱点を⋯⋯⋯!」
「どうせゾンビと原理は一緒なんだろと思ったら、やっぱりって感じだな。大方、死体の脳味噌操って電気信号身体に流させてるから、頭ってか脳をやられると今度こそ死ぬんだろ?」
「えっ、なに? 意味わかんない」
「何だ、そこまでは知らないのか? 弟のお前に仕組みも教えてくれないなんて、お前の姉ちゃん酷い女だな」
リックの挑発は、姉自慢する少年を怒らせるのに十分だった。愛する姉の悪口は、この少年に対して最大の禁句なのである。
「取り消せよ、さっきの言葉。でないと―――」
「でないと何だガキンチョ。お前の姉ちゃんが悪口にショック受けて自殺でもすんのか?」
「俺は知らないぞリクトビア。チャムは姉のことで頭に血が上ると、味方ですら虐殺する利かん坊と評判らしい」
チャムという名のこの少年はもまた、特殊魔法使いの一人である。ミッターがリックに言った通り、姉の事となると見境がなくなって、敵も味方も関係なく殺しまわる。ジエーデルの収容施設に入れられたのも、カラミティルナ隊で仲間を惨殺したからだ。
「おじさん、僕もう我慢できないよ。こいつ殺すね」
リックへの殺意を剥き出しにしたチャムが、自身の特殊魔法を発動させる。チャムの目の前の地面に魔法陣が出現し、中から得体の知れない何かが生み出される。
先ず腕らしきもの、次には頭らしきものが魔法陣から出現し、彼らの前にその悍ましき姿を現していく。腕は筋組織と骨を剥き出しにして、頭は三つの眼球を持ち、人を丸のみにしてしまいそうな巨大な口に、鋭く尖った牙が並ぶ。人の形をしていなくもないが耳はなく、鼻のようなものもない。皮膚は腐って爛れ、頭蓋のようなものが所々丸見えとなり、後頭部から髪の代わりに触手のようなものが無数に生えている。
ゆっくりと姿を現す身体も、凡そ生きているとは思えない姿だった。剥き出しの内臓と骨。爛れた皮膚。どういう訳か植物が内側から蔓を伸ばして生えており、身体の中から伸びる多数の蔓の先端は、毒々しい色をした花を咲かせているものもあれば、鋭い針をから怪しい体液を垂らしているものもある。
最終的に下半身らしく部分も出現したが、足は蜘蛛と同じ八本脚で、膨らみを持つ下腹部から生えている。この世界にいるどの魔物とも似付かわしくない、不気味で不快な見た目の化け物。こんな見た目をしている怪物を、リックはこの世界で一度だけ見た事があった。
「⋯⋯⋯ボーゼアス教の魔導具にそっくりだ。また化け物退治かよ」
まさにそれは、リック達がボーゼアスの乱で遭遇した、伝説の魔導具によって生み出されし怪物に酷似していた。あれよりも更に不気味な見た目で、おまけに肉の腐る酷い臭いまで撒き散らしている。大きさは魔導具の怪物よりずっと小さく、三から四メートル程しかないが、その悍ましさは魔導具のものと何一つ変わらない。
魔法によって出現した怪物は、手始めにその三つの眼球で五体のアンデッドの死骸を捉えた。すると、身体から伸びていた植物の蔓が、もう動かなくなったアンデッドへと伸びていって、その身体に巻き付いて持ち上げる。
持ち上げられた死骸は五体とも、怪物の口へと運ばれていく。待ってましたと言わんばかりに大きく開かれた怪物の口内に、次々と死骸が放り込まれる。五体とも全て呑み込み終えると、あれだけでは食い足らないのか、今度はリックの姿をその眼に捉えるのだった。
「死体でもなんでも腹に入れば一緒って言いたいのかよ。とんだ食いしん坊だな」
「これが僕の僕《しもべ》、合成魔獣ギガントウーズだ。人も魔物も食い漁って取り込み強くなる、最強無敵の怪物さ」
闇属性魔法の魔物召喚似た力を持っているが、生き物を合成して新たな生物を創り上げる力は、闇魔法には存在しない。これこそチャムだけが操る特殊魔法、合成魔獣召喚能力である。
ギガントウーズと呼ばれた合成魔獣は、召喚者であるチャム命令にのみ従う。チャムが命じれば、例えどんな相手であろうと殺し、どんな危険で凶悪な魔物だろうと戦う。そうして殺してきた相手を喰らう事で、己の血肉とし、その能力を奪う事も出来る。
「こんな化け物と仲良く戯れてられっかよ!」
闇魔法の召喚に近い能力ならば、術者を倒せば消えるはず。そう考えたリックが、拳銃の弾倉に残った弾を、全弾チャムに目掛けて発砲する。しかし、大きさの割に俊敏な怪物が、弾道の前に自らの身体を割り込ませ、身体を盾にしてチャムを守る。
拳銃とは言えリックの銃は、高威力の弾丸を放つ自動拳銃である。だが、この怪物にダメージを与えるには威力不足で、弾丸が命中しても怪物はびくともしなかった。
弾切れとなった拳銃の弾倉を交換するリックに、今度は合成魔獣とミッターが仕掛ける。魔獣は巨大な口を開け、口内に光魔法の光球を生み出し発射する。リックがそれを右に飛んで躱すと、今度は一気に距離を詰めてきたミッターのナイフが迫り来る。
「観念するんだな、リクトビア!」
「くっ!!」
振るわれたナイフの斬撃を銃で受け止め、距離を詰めたミッター目掛け、リックが膝蹴りを喰らわせようとする。攻撃を読んでいたミッターは、片方の義手でその膝蹴りを受け止めた。
格闘戦となった二人の間に、無理やり割って入ったのは魔獣の蔓だった。鞭のように扱われた蔓が振り下ろされ、間一髪のところで二人は同時に離れ、その攻撃を回避する。連携など一切考えていないチャムは、攻撃先に味方がいようが関係ないのである。
「チャム。少しは味方のことも考えて欲しいもんだ」
「あの程度じゃ、どうせおじさん死なないでしょ? 死にたくなかったら上手く避けてよね」
「ふんっ。これだから餓鬼は苦手なんだ⋯⋯⋯」
得体の知れない怪物を操るチャムと、実戦慣れしたミッター。二対一という数的不利の中、リックは脱出のための活路を開かなくてはならない。
リックに残された武器は、自動拳銃と予備の弾倉くらいだ。後は彼の拳と足が武器ではあるが、この二人を倒すにも、何とか隙を作って逃げ出すにも、圧倒的に武器が不足している。他に残された手段は、恐らく敵の迎撃に向かったであろうアングハルト達が、無事に敵を撃破し戻って来るまでの間、時間を稼ぐ事くらいだ。
絶望的な窮地に立たされたリックは、兎に角戦うしかなかった。敵を倒すにも時間を稼ぐにも、戦わなければ生き残れない。自分を守るため、命懸けで戦ってくれているアングハルトや、殺されてしまった兵士達の為にも、生きる事を諦めるわけにはいかなかった。
「情報局の残党に不細工な化け物⋯⋯⋯。両方まとめて地獄に送ってやる」
決断したリックは駆け出し、ミッターに狙いを定めて襲い掛かった。実戦経験豊富で接近戦に強く、おまけに冷静沈着な指揮官であるこの男こそ、真っ先に倒すべき敵と考えたからだ。それにチャムは、同士討ちの危険を全く考えていない。上手くいけばチャムの攻撃にミッターを巻き込ませ、楽に排除する事も可能だろう。
接近戦を仕掛けようと距離を詰めるリックに、ミッターは構えていたナイフを投げた。顔面目掛けて投げられたナイフをリックが躱すと、今度はミッターが指弾の構えを取り、鉄製の丸球を連続で撃ち出した。
リックは指弾を間一髪で避け切るが、これによって動きが止まってしまう。その隙を見逃さなかったのは、ミッターではなく魔獣の方だった。魔獣は再び口を開き、今度は緑色の体液を吹き出してリックに浴びせようとする。
直感で危険液だと分かり、後ろに飛んで吹き出された体液を躱す。回避したのは正解で、体液の正体は強力な溶解液であり、液が撒き散らされた地面に生えていた草は、全てが一瞬で溶かされてしまった。
「危ねぇ! 暴竜と同じ攻撃か!?」
「余所見している暇はないぞ!」
反撃に出たミッターが再びリックに接近し、拳銃を向けようとしたリックの腕を掴んで、無理やり銃口を逸らさせる。銃を封じられたリックに向かって、ミッター義手の拳を彼の腹部に打ち込む。苦痛に呻くリックだったが、直ぐにやり返しに掛かって、もう片方の腕で殴ろうとするも、その腕もミッターの義手に捕まってしまう。
抵抗できないリックに、ミッターは両の目を見開いた。攻撃を封じたミッターは、リックを捕まえるべく自らの魔法を発動しようとする。
「さあリクトビア。俺の目を―――」
「うおらああああああああああああっ!!!」
危険を悟ったリックは渾身の力で暴れ、ミッターの腹部に前蹴りを叩き込んだ。蹴りの衝撃で吹っ飛んだミッタの身体は宙を舞い、地面に叩き付けられるかに思われたが、身体を捻らせる事で上手く着地し、左手の義手の掌を見せて構える。
次の瞬間、義手の掌から隠しナイフの刃が現れ、火薬の炸裂音と共に義手が放たれた。この義手には武器としての仕掛けが施されており、義手を発射する機能が備え付けられていたのだ。義手から現れた刃は、真っ直ぐリックの顔面目掛けて突き進む。最早回避は間に合わない。
義手はリックに直撃し、刃は彼の顔面を貫いたかに思われた。だが彼の顔からは一滴の血も滴る事はなく、刃は彼を貫いてすらいなかった。
「どっちが化け物だ⋯⋯⋯」
ミッターの驚愕は当然だった。発射された義手のナイフを、リックは間一髪歯で噛んで受け止めていたのだ。
刃を吐き出して捨てたリックが、いつもの悪い癖で邪悪な笑みを浮かべて見せる。帝国の狂犬の異名は、戦場で狂ったように暴れまわる、帝国女王の飼い犬である事がその所以だが、ミッターは今初めて、この異名が伊達ではないと知った。
抜群の身体能力に反射神経。戦い方は喧嘩殺法だが、戦闘の勘は冴えている。たった一人の敵将を拿捕するなど、正直楽な仕事だと考えていたが、考えが甘かった。自分達が捕まえようとしているのは、獰猛な獣と同じなのだと、ようやくミッターは理解したのである。
「殺す気でいかなければ、こっちがやられるな。チャム、奴の動きを封じられるか?」
「封じるより殺す方が早いよ?」
「簡単に殺してしまったら、お前の姉を馬鹿にしたあいつを痛めつけられないだろう? あの糞生意気な顔を苦痛と恐怖に歪ませたくないか?」
「⋯⋯⋯おじさん、それとっても見たいかも!」
今度は三人が同時に動く。リックは片方の義手を失ったミッターへと向かって行き、チャムに操られた魔獣はまたも蔓を伸ばして鞭の如く振るう。
片手を喪失しているミッターを倒す好機だが、魔獣の蔓がリックへと襲い掛かる。振るわれる蔓の連続攻撃を躱すのに精一杯で、ミッターのもとに辿り着けない。
これでは埒が明かないと考え、リックは強引な手段で反撃に出る。振り下ろされた蔓の一撃を躱した彼は、一旦拳銃をホルスターに収めると、その蔓を両手で掴んで逃さない。全身に力を入れ、引き千切れんばかりの勢いで力の限り蔓を引っ張った。
力技で蔓を引っ張られた事で、体勢を崩した魔獣が咄嗟に地面に両手を付く。この瞬間無防備となるのは、術者であるチャムだった。今ならばチャムを仕留められると、リックが再び拳銃に手をかけようとするも、それを妨害したのはやはりミッターである。
「馬鹿めっ!」
「ちっ⋯⋯⋯!」
距離を詰めたミッターが格闘戦を仕掛け、片方の拳でストレートを放つ。寸前で拳を躱したリックだが、追撃に出たミッターが強烈な回し蹴り振るう。リックは腕を盾にして蹴りを防ぐが、邪魔が入ったせいでチャムを撃つ機会を失い、体勢を立て直した魔獣の反撃を受ける。
魔獣が操る蔓の内、先端に花を咲かせた蔓が魔獣の前に並ぶ。すると花の中心部から一斉に、鋭く細い針のようなものが飛び出した。リックはそれを躱そうとするが、突然脚に激痛が奔ったせいで体勢を崩し、その場に膝を付いてしまった。おまけに視界が霞み、意識が朦朧としてしまう。
(こんな時に、俺の体は⋯⋯⋯!)
前回の戦闘でリックは両脚を負傷している。しかも今日は万全の体調ではなく、とても戦える身体ではなかった。それでも無理をして戦い続けた結果、このタイミングで負傷した脚の傷が開き、高熱が彼の体を襲ったのだ。
限界を迎えて悲鳴を上げたリックの体に、この攻撃を躱せる体力は残っていない。腕を盾にして防御するが、放たれた針の数本が彼に突き刺さる。盾に使った腕や肩。膝を付いた脚。何本かは彼の身を掠めて傷を作りはしたが、防御のお陰で急所は避けられた。
鋭い針だったが、あまり痛みはない。大した攻撃なかったと思い、体に刺さった針を抜いていくリックだったが、突如彼は全身が痺れる感覚を覚え、手足を動かせなくなってしまう。
「どう? 僕の魔獣特製の毒の味は? こいつは毒性の植物も喰らって取り込めるんだ」
「くっ⋯⋯⋯、体が痺れて⋯⋯⋯!」
捕まえるのには打って付けの攻撃である。対象を殺さない程度の、即効性の高い毒の効果によって、リックは身動きを封じられてしまった。
毒の効果で動けなくなったリックに、油断せず警戒を続けたミッターが接近する。痺れる手で如何にかホルスターに収めた拳銃を抜こうとするが、構えようとした銃はミッターの蹴りで弾き飛ばされた。
「立てリクトビア。そんな風に膝を付いていると後悔するぞ?」
リックの髪を義手で鷲掴みにし、彼を無理矢理立ち上がらせたミッターが、容赦なく膝蹴りを鳩尾に叩き込む。苦痛に悶え、呼吸ができず激しく咳き込み続けるリックに、もう一度膝蹴りを打ち込んで苦しめる。
血反吐を吐き出し苦痛に呻くリックの姿に、ミッターもチャムも御機嫌だった。毒が効いているせいで無抵抗なリックを、どう料理してやろうかと考える余裕すらある。
脚から血を流していた事で、リックが両脚を負傷していた事にミッターが気付く。すると彼は下卑た笑みを見せ、リックを地面に向かって投げ捨てる。無様にうつ伏せで倒れたリックを見下ろすと、ミッターは彼の脚の傷口を踏み付けた。
「ぐあああああああああっ!!!」
「いい悲鳴だ。泣き叫ぶ時間はたっぷりあるぞ」
復讐の対象であるリックを痛め付け、愉悦に浸ってはいるものの、ミッターはこの先の事を考えていた。陽動は生死不明。ゲッベは戦死。最終的な損害はまだ分からないが、目的のリクトビアは拿捕できた。作戦が成功した今、目撃者が残らないよう他は皆殺しに、ここを離れて別の任務へと向かわなければならない。
その移動の道中、この狂犬がまた暴れ出しては任務に支障をきたす。それを防ぐために、ここで両の腕と脚を使えないようにするべきかと思案する。ただ、依頼主であるハイドリヒが、リクトビアをどのような交渉材料として利用するか分からない以上、四肢の切断は可能であれば避けたい手段だった。
「毒が効いたなら俺の力は必要ないと思ったが、念のためかけておくか」
危険な獣の捕獲を任されたものだと、内心ハイドリヒに騙されたとさえ思っていたが、作戦が成功した以上恨みはない。寧ろ、リクトビアを運ぶ道中、死んでいった仲間達の復讐を存分に果たせるかと思うと、興奮のあまり感謝すら覚える。
この時のミッターの誤算は、勝利の美酒に酔っていた事でも、いたぶって楽しんでいた事でもない。ただ一点、リックの身体に宿る常識外れの能力を、まだ知らなかった事だ。
「⋯⋯⋯そ⋯⋯や⋯⋯⋯⋯う」
「なんだ?」
「⋯⋯⋯くそ野郎って、そう言ってんだ」
動けないはずの身体を振り返らせたリックが、手に掴んだ砂をミッターの目に叩き付ける。突然視界を封じられたミッターが後退し、慌てて両腕で目を擦って砂を払う。如何にか目を開けられたが、回復した視界の先には、ナイフが飛び出た義手を持つリックの姿があった。砂で相手の視界を一時的に奪った隙に、さっき吐き捨てた義手を回収したのだ。
「悪いな。俺、怪我と毒の治りが早いのが取り柄なんだ」
「ばっ、馬鹿なっ!?」
驚愕するミッターに向け、リックは義手から飛び出ているナイフの刃を突き立てた。刃はミッターの首に深く突き刺され、一気に引き抜かれる。首の血管をナイフで切断され、傷口から鮮血を噴き出させたミッターが、逆流した血を口から溢れさせてよろめいていく。
「ぐぼあっ!! まっ、まだだ⋯⋯⋯!!」
「!?」
リックの身体が持つ驚異的な回復能力と、毒や薬に対する強力な耐性は、ミッターもチャムも知り得ない情報だった。もしこれを知っていたなら、殺す気の猛毒を使うか、さっさと四肢を斬り落としていただろう。
だがリックもまた、ミッターの能力を失念していた。この男が相手と至近距離で眼を合わせた時、強力な特殊魔法が発動する事を⋯⋯⋯。
「狂い壊れろおおおおおっ!! リクトビア!!」
ミッターが操る特殊魔法の能力。それは、精神操作魔法である。
気付いた瞬間には時既に遅く、リックはミッターの精神操作魔法の魔の手にかかった。絶望と苦痛の記憶が増幅され、幻覚となって蘇り、彼に想像を絶する苦しみを与えるのだった。
「ああああああああっ!!! メシア⋯⋯⋯、ユリーシア⋯⋯⋯!! 俺のせいで二人が⋯⋯⋯、うわあああああああああああああっ!!!!」
「はははははははっ!!! 狂い壊れて死ぬがいい! ゲオルグ達の仇は―――」
精神が破壊されようとしているリックと、死にかけながらも狂い笑うミッター。その笑いを止めたのは、背中から彼の左胸を貫く魔獣の蔓だった。そしてその蔓の針のように尖った先端は、幻覚に絶叫したリックの右胸に突き刺さっていた。
「もう死んじゃうでしょ、おじさん。僕が今楽にしてあげるよ」
「ごほっ⋯⋯⋯。だから⋯⋯⋯、餓鬼は嫌い⋯⋯なんだ⋯⋯⋯⋯」
魔獣の蔓が引き抜かれ、背後から左胸を心臓ごと貫かれたミッターは、遂に息絶えた。放っておいても出血多量で死んでいたが、彼の最後は背後から仲間に討たれるという、惨めな最後となった。
止めを刺されたミッターは地面に倒れ伏し、蔓の先端に刺されてしまったリックは、全身から力が抜ける感覚を覚え、一気に高熱に襲われて倒れそうになる。そんなリックの両腕と両脚、首や胸に蔓がきつく巻き付いて、彼の身動きが封じられてしまう。
即効性の猛毒を蔓の先端から流し込まれ、毒に犯されたリックは身体の力を奪われてしまった。おまけに呼吸が苦しくなる程の高熱に全身を襲われ、真面な思考もできなくなる。ただでさえ精神操作の魔法に犯されている中で、この猛毒は地獄の苦しみをリックに与えていた。
「はあ⋯⋯⋯はあ⋯⋯⋯はあ⋯⋯⋯! メシア⋯⋯⋯、俺は⋯⋯ユリーシアを守れなかった⋯⋯⋯」
身体を蝕む猛毒と、心を破壊する幻覚。心も体も相手の攻撃に犯され、リックは敵の術中に落ちた。
ミッターの魔法は、最終的に相手の精神を崩壊させて自殺に追いやるが、猛毒と蔓の拘束で身動きを封じられたリックは、まさに生き地獄の中に捕らわれている。ミッターの能力を聞かされていたチャムは、リックを死なせないために毒を使ったのだ。
生かした理由は簡単である。捕らえたリックをハインリヒのもとに届ければ、大好きな姉と共に自由を手にする事ができる。勿論これも理由の一つだが、死なせてしまうより生かしておく方が、この後の楽しみが増えるからだ。
「姉さんは今頃他を皆殺しにしてる頃だとして、僕はこいつが逃げないように捕まえておかなきゃいけないのか⋯⋯⋯。姉さんが来るまで退屈だなあ~⋯⋯⋯」
「ユリーシア⋯⋯⋯、ごめん⋯⋯⋯、許してくれ⋯⋯⋯⋯」
「さっきから女の名前ばっかで女々しい奴。どんな幻覚見てるか知らないけどさ、喋るんならもっと面白い声を聞かせてよ」
魔獣の蔓でリックを拘束しているチャムは、毒と幻覚に苦しみ半ば意識を失いかけている彼を見て、悪戯っぽく笑って魔獣に指示を出す。
リックに巻き付いた蔓の内、右腕を拘束する蔓に力が込められる。チャムが魔獣に指を鳴らして合図した瞬間、蔓はリックの右腕を圧し折った。
「があああああああああああああっ!!!」
「きゃははははははっ!! そうそう、それそれ!! そういう声が聞きたいんだ!!」
毒と幻覚に犯され、想像を絶する痛みまでもがリックを襲う。骨を折られた激痛に悶え苦しむ彼の姿を、心底楽しそうにチャムは眺めている。
「それじゃあ次は⋯⋯⋯、左脚♪」
情けも容赦もない、ただ子供が面白がって虫を虐めるようなものだ。歳相応に燥ぐチャムが今遊んでいるのは、そう簡単には壊れない人間の玩具である。
チャムの命令を受け、今度はリックの左脚が圧し折られた。身体中に奔った激痛に、リックは言葉にならない絶叫を上げる。目を背けたくなる残酷な光景だが、冷酷な悪魔のようなこの少年は、お腹抱えて笑い転げていた。
「きゃはははっ!! もう最高!!」
「うっ⋯⋯⋯、ううっ⋯⋯⋯⋯⋯」
「あ~、お腹痛い。流石に喋る気力すら残ってないって感じか。残りの腕と脚は姉さんとのお楽しみのために取っておくとして、これでもう絶対逃げられないでしょ」
右腕と左脚の骨を折られ、リックの敗北は完全に決した。戦う術も逃げる術も失われ、狂気に支配されたこの少年の玩具にされながら、ジエーデル国に捕らわれる未来。ヴァスティナ帝国を敗北に導く最悪の結末が、絶望的状況のリックを待ち受けている。
「やっぱり僕のギガントウーズは最強だ! 狂犬を偉い人達に渡したら自由にして貰って、また姉さんと一緒にたくさん人を殺そう! 殺して殺して殺しまくって、今度こそ僕と姉さんの楽園を作るんだ!」
大量虐殺の果てに求める楽園。ジエーデル軍として戦い、敵を殺し続けた果てに手に入れる、絶対的な地位と権力。その力で作り出すものこそ、愛する姉と共に幸せになるための世界。チャムはそれを楽園と呼ぶ。
誰にも汚される事のない、血の繋がった姉弟だけが暮らす幸福な世界。もう誰にも苦しめられず、汚される事のない、二人だけの楽園。それを手に入れるためならば、他のどんな命にも価値はない。
「ありがとう狂犬。これで僕と姉さんはやっと幸せを手に入れられる。だから僕が、いっぱいいっぱいお礼してあげるからね」
「⋯⋯⋯」
狂気が宿る少年の満面の笑みは、リックの瞳に映っていない。
幻覚に囚われる今の彼の目に映るものは、自分だけを残し闇の中へと去っていく、失われし愛した者達の姿だけだった。
ミッター率いる暗殺部隊は、各自分かれて行動している。陽動担当の二人は現在戦闘中だが、残り三人は村へと侵入し、分かれてリクトビアの捜索を行なっていた。
そして、捜索担当になっていた一人が、リクトビアが潜伏している場所を嗅ぎ付けた。
「ぐはっ⋯⋯⋯!」
アングハルトの家を防衛していた彼女の部下達は、たった一人の青年相手に全滅させられた。今、奮戦していた最後の一人が青年の手にかかり、背中を圧し折られて息絶えた。
ただその青年は、家を守っていた四人の兵士を、指一本たりとも触れずに始末して見せた。今殺された兵士は、見えない力で背骨を無理に曲げられ、身体をくの字形にされて死んでいる。他の兵士達も同様に、首が逆方向にまで曲げられてしまっていたり、身体を捻じ曲げられたりして殺されていた。
「守ってる兵士が四人と、噂の鉄の車か⋯⋯⋯。オレっちの勘が当たったってわけね」
青年の名はゲッベ。紫色をした髪が特徴的な、ミッター達暗殺部隊の一人である。彼もまた特殊魔法兵の一人で、自在に念力を操る事が出来る。相手が人であろうが物であろうが、対象に触れずに物理的な作用を与えられるのだ。
「出てこいよ狂犬! あんたの可愛い護衛連中はみんな死んじまった!」
隠れているであろうリクトビアに向けて、ゲッベは彼に聞こえるよう大声で挑発する。ミッターから聞かされている情報で、リクトビアが兵を大切にする将だと知っている彼は、この挑発で誘き出そうと考えていた。
情報が本当なら、兵を皆殺しにされたリクトビアは怒り狂い、隠れている場所から姿を現すに違いない。だがリクトビアが姿を見せる様子はなく、周囲は人気のない静けさに包まれていた。
「面倒じゃんこれ。全然現れないでやんの」
リクトビアが息を潜めて何処かに隠れているなら、隠れていそうな場所を地道に探すしかなくなる。そういうのは性に合わないと、捜し出すのが面倒で堪らないゲッベは、少し周囲を見回してある物を見つめた。
ゲッベの視線の先には、アングハルトの命令でいつでも動かせるよう準備されていた、護衛部隊の輸送車輌があった。閃いたゲッベは魔法を発動すると、車輛に向けて念力をかけ、人力ではとても持ち上がらない鉄製の車を、ゆっくりと宙に浮かせる。
リクトビアが一番隠れていそうな場所は、この車輛の傍にある家屋だ。護衛の兵士達も、この家を守るように展開していたのだから、この近くにいるのは間違いないだろう。そう考えたゲッベは、邪悪な笑みを浮かべて念力を操って、車輛を家屋の真上まで移動させた。
「出てこない方が悪いんだ」
ゲッベが念力を解除する。宙に浮いていた車輌は重力に逆らえず、真下の家に目掛けて落下を始めた。逃げ出す暇も与えず、車輌はアングハルトの家に落下する。車輌は屋根を突き破り、一瞬の内に家を崩壊させた。
爆発のような衝撃音が轟き、周囲の地面が揺れ、崩壊した家屋を中心に土煙が舞い上がる。これを引き起こした本人が、思った以上の衝撃に少し驚いている中、破壊した家を覆う土煙が晴れるのを待った。
「⋯⋯⋯もしかして、今ので死んだ?」
こうでもすれば、悲鳴を上げ慌てて飛び出してくるかと思っていた。実際は悲鳴どころか声一つ上がらず、落下した車輌に家が押し潰され破壊されただけである。
最悪殺しても構わないと言われているが、生きたまま捕まえなければならない。生け捕りに出来れば、その功績によって自由を手に入れ、また好き勝手に暴れまわれるかもしれないからだ。
調子に乗り過ぎたと反省しつつ、「ここに隠れていませんように」と祈りながら、ゲッベは崩壊した家屋の残骸を調べようと近付いていく。もし本当に殺してしまったなら、リクトビアの死体を発見する必要があるためだ。
「⋯⋯⋯誰が死んだって?」
「!?」
家に近付いたゲッベは、家の残骸の中から微かな声を耳にした。驚いた彼が身構えた次の瞬間、残骸の一部が何者かの足で蹴り上げられる。邪魔な残骸を蹴りで弾き飛ばし、その中から目覚めたばかりの狂犬が牙を剥いた。
「⋯⋯⋯ったく、過去最悪の目覚めだ。起きたら真っ暗だし、銃声が聞こえるし、家はぶっ壊されるし。随分好き勝手してくれたみたいだな」
あの破壊と衝撃の中でも、彼は無傷だった。寧ろ、眠っていた彼を叩き起こし、戦闘態勢に入らせたのだ。軍服の上着を羽織り、ホルスターを装備しながら、彼は周囲を見回して状況を把握する。
「帝国の狂犬」という異名を持つ、ヴァスティナ帝国国防軍将軍。目覚めた彼、リクトビア・フローレンスことリックは、瞳に怒り炎を燃え上がらせゲッベを見据えた。
「あんたが狂犬か? 今ので死んでなくて安心した」
「そっちは誰だ? どうせジエーデルの殺し屋ってのはわかるが⋯⋯⋯」
「まあそんなところ。オレっちは―――」
「ああ、別に名乗らなくていいんだよ蛆虫野郎」
「あん?」
「どうせお前は、今ここでぶっ殺す」
圧倒的な殺意と怒気が場を支配し、その余りの迫力にゲッベが後退る。完全に怒り狂ったリックは、相手の能力などの事も考えず、その場から駆け出した。一気にゲッベとの距離を詰め、握り締めた右の拳に怒りを込め、リックは彼を殴り殺す事だけを考え拳を放つ。
防御は間に合わない。躱す事も間に合わない。ゲッベの身体能力では、敵との距離を瞬時に詰めて接近戦を仕掛けるリックから、逃れる術はない。だがゲッベは、リックの一撃を回避する必要などなかった。
「嘗めんなよ、狂犬」
「!」
拳がゲッベの顔面に届く直前、リックの動きは止まった。念力を発動したゲッベが彼の動きを拘束し、攻撃を封じたのだ。
ゲッベの能力を知らないリックは、自らの体が突然動かせなくなり驚いた。その顔を見たゲッベは、下卑た笑みをリックへと向けた。その悪しき顔は、如何にこの男を玩具にしてやろうかと企む、邪悪な怪物の顔だった。
「そんじゃあ先ずは、その右腕を念力で圧し折って―――」
「嘗めてんのはどっちだぼけええええええええええっ!!!」
念力など関係ない。ただ、目の前の気に入らない敵を、力の限りぶん殴る。その一点だけに全力を発揮し、空気を震わす程の雄叫びを上げたリックが、気合と殺意と怒りで念力の拘束に抗った。
常人を超えたリックの力が、ゲッベの念力に逆らって無理矢理拘束を解こうとする。一切の身動きができないはずのリックの拳が、拘束に抗い徐々に前に進んでいく。
「おい嘘だろ!? ギャビットの奴でなきゃこんな真似⋯⋯⋯!」
身体能力強化の特殊魔法を操るギャビットなら、力技でゲッベの念力に抗う事もできる。この念力に抗うためには、人間業とは思えないレベルの力が必要だ。
その力がリックにはある。人間業ではない身体能力を持ち、竜すらも素手で殴って怯ませた彼の力は、ギャビットの力の比ではない。
驚愕したゲッベが慌てて本気を発揮し、念力の拘束を最大まで高めるが、それでも尚リックの拳は止まろうとはしなかった。迫る拳にゲッベの顔が恐怖に歪み、やがて彼の魔法は限界を迎える。
念力に抗い続けたリックの力に、先にゲッベが根を上げて精神力が持たなくなる。強力な能力である分、使用には集中力を要する魔法であるのが仇となり、集中が続かなかったゲッベは念力を維持できない。
「ぶっ飛べえええええええええええええええっ!!!」
集中力が切れた瞬間、念力が解除されてリックの身体は自由になる。放たれた拳は今度こそゲッベの顔面に直撃し、勢いのまま彼の身体を殴り飛ばした。
宙を高く舞ったゲッベの身体は、受け身も取れず地面に叩き付けられる。激痛と衝撃に悶え苦しみ、身体が痺れて動かなくなる感覚の中で、ゲッベは悟る。ここで逃げなければ、確実に殺されると⋯⋯⋯。
「くっ、くそっ!! こんなところでオレっちが⋯⋯⋯!」
「逃がすわけないだろ」
リックの一撃によって前歯と鼻を圧し折られ、顔面を血塗れで崩壊させたゲッベが、地面を這いずって必死に逃げようとする。それを止めたのは、ゲッベの腹に強烈な踏み蹴りを叩き込むリックだった。
内臓をやられて大量に吐血したゲッベを見下ろし、リックは両の拳を握り締め、剥き出しの殺意を露わにしながら拳を振るう。
「こいつは、お前に殺された四人の分だ」
左右の拳で計四発、棍棒のような威力を持つリックの拳が、ゲッベの顔をこれでもかと殴り付けた。ゲッベの身体に馬乗りとなったリックが一発、二発と殴り、三発目には歯をほとんど折り、四発目には顎の骨を砕く。顔中血だらけとなり、原形を留めぬ程にぐちゃぐちゃにされ、最早ゲッベは痛みに悲鳴を上げる事さえできない。
それでもリックの怒りは収まらず、最後の一撃を叩き込むべく拳を構えた。喋る事さえできなくなったゲッベの目が、恐怖に負けて必死に命乞いをしているのが分かる。だがリックは、そんな彼の命乞いを無視した。
「死ね」
全力で放ったリックの一撃が、再びゲッベの顔面に直撃する。頭蓋を砕かれ、脳味噌を潰され、潰れた苫とのようになったゲッベの頭だったが。暫く身体の方は痙攣を起こし、頭を失った身体が、まるで生きているかのようにぴくぴくと動き続けた。
息絶えたゲッベの身体から立ち上がったリックは、死体を一瞥した後に、改めて周囲を確認する。自分が眠ってしまっていた間に、一体どれだけ人間が犠牲になってしまったのか。そして何よりも、彼女は無事なのか。皆の無事を確かめるために周囲を見回すも、殺された四人の兵士以外、ここには誰もいなかった。
(あいつ、俺をあんなところに閉じ込めて⋯⋯⋯。一人で無茶してたら許さないからな)
襲撃者の規模や被害状況を含め、目覚めたばかりのリックはまだ状況が分かっていない。分かっているのは攻撃を受けている事実と、自分が特殊魔法兵の一人を殴り殺した事だけだ。
何とか力技で片付けられたが、リックの体調はまだ回復し切っていない。新手が現れる前にアングハルト達と合流し、ここから脱出しなければ、次の戦闘で最悪倒れる可能性もある。今は敵との戦闘より、一刻も早い脱出が求められるだろう。
脱出を判断したリックは、ホルスターから愛銃たる自動拳銃を抜き、弾倉を確認した後にスライドを引いて、薬室に初弾を送り込む。他に武器を調達しようと思い、戦死した仲間の銃器を集めようと考えたが、殺気を感じ取ったリックは急いで拳銃を構えた。
「あーあ、紫頭秒殺じゃん。かっこわるー」
「口の割に使えん奴だったな。だがまあ、狂犬を見つけた事だけは誉めてやろう」
リックの前に現れた、殺気を放つ男と少年。彼らの前には五体のアンデッドが、二人を守る盾代わりとして並び立っている。
現れた敵の登場に驚いたリックだが、もっと驚いたのはアンデッドの存在だった。生ける屍と変えられてしまった村人の姿に、驚愕を隠し切れなかった。そんな驚く彼の反応が面白かったのか、少年の方は楽しそうに笑って口を開く。
「僕の姉さんはね、ネクロマンサーなんだ。結界の中で死者を生き返らせ、人の肉を求めて彷徨うアンデッドに変えちゃう魔法。アンデッドは姉さんと、姉さんが許可した人間の言う事だけしか聞かない。どう? 摩訶不思議なすっごい魔法だろ」
「⋯⋯⋯聞いてもないのにお姉ちゃんの自慢話かよ。そこのおっさん、子供の躾がなってないんじゃないの?」
「おいおい、狂犬までも俺をおっさん扱いか。元アーレンツ国家保安情報局のミッターって言ったら、お前も話くらいは聞いてるんじゃないのか?」
アーレンツ国家保安情報局。その言葉が出た瞬間、リックの脳裏に最悪の記憶が蘇る。そしてミッターという名は、アーレンツ攻防戦の報告書を確認した際、レイナが戦ったという情報局員の名であった。
生き残りの情報局員が襲撃者の正体。一体どういう状況なのか、リックの頭の中であらゆる可能性が生まれる。唯一つだけ確かなのは、対ジエーデル戦とミッターの襲撃が、決して無関係ではないという事だけだ。
「⋯⋯⋯レイナに両手斬り落とされて逃げた奴が今更何の用だ。お前達が忠誠を誓ってた組織はもう何処にもないんだぞ?」
「そっちの烈火式使いのせいで、今じゃこの通り両手は義手だ。この義手をくれたのが新しい雇い主でな。俺の仕事はお前さんを捕らえることってわけだ」
「へえ、生かして捕まえるのが仕事なのか。てっきり復讐で殺しに来たんだと思ったけど、また捕まって酷い目に遭うくらいなら死んだ方がマシだ」
「楽な死に方などさせんさ。お前とあの娘だけは、永遠の生き地獄に叩き込んでやる」
復讐に燃えるミッターが、リックを捕らえるべくアンデッドに命令を出す。彼の命令を聞いた五体のアンデッドは、一斉にリックへと襲い掛かっていった。
相手はアンデッドだけでなく、元情報局の手練れに加え、恐らく特殊魔法使いの少年である。簡単には逃げられないと悟り、戦うしかないと決意したリックは、構えた自動拳銃の引き金を引いた。
リックの正確な射撃で放たれたのは、全部で五発。五体のアンデッドの頭にそれぞれ一発ずつ命中させ、アンデッド達の活動を停止させる。頭を撃ち抜かれて力を失ったアンデッドは、リックの目の前で倒れ伏して二度と動かない。
これに驚愕していたのは、ネクロマンサー能力を姉を持つ少年だった。大抵の人間がアンデッドに遭遇すると、倒すための弱点が分からず、そのまま食い殺される例がほとんどだ。それなのにリックは、まるで知っているかのように一発で弱点を見抜き、冷静に対処してしまったのである。
「なっ⋯⋯⋯!? こいつなんでアンデッドの弱点を⋯⋯⋯!」
「どうせゾンビと原理は一緒なんだろと思ったら、やっぱりって感じだな。大方、死体の脳味噌操って電気信号身体に流させてるから、頭ってか脳をやられると今度こそ死ぬんだろ?」
「えっ、なに? 意味わかんない」
「何だ、そこまでは知らないのか? 弟のお前に仕組みも教えてくれないなんて、お前の姉ちゃん酷い女だな」
リックの挑発は、姉自慢する少年を怒らせるのに十分だった。愛する姉の悪口は、この少年に対して最大の禁句なのである。
「取り消せよ、さっきの言葉。でないと―――」
「でないと何だガキンチョ。お前の姉ちゃんが悪口にショック受けて自殺でもすんのか?」
「俺は知らないぞリクトビア。チャムは姉のことで頭に血が上ると、味方ですら虐殺する利かん坊と評判らしい」
チャムという名のこの少年はもまた、特殊魔法使いの一人である。ミッターがリックに言った通り、姉の事となると見境がなくなって、敵も味方も関係なく殺しまわる。ジエーデルの収容施設に入れられたのも、カラミティルナ隊で仲間を惨殺したからだ。
「おじさん、僕もう我慢できないよ。こいつ殺すね」
リックへの殺意を剥き出しにしたチャムが、自身の特殊魔法を発動させる。チャムの目の前の地面に魔法陣が出現し、中から得体の知れない何かが生み出される。
先ず腕らしきもの、次には頭らしきものが魔法陣から出現し、彼らの前にその悍ましき姿を現していく。腕は筋組織と骨を剥き出しにして、頭は三つの眼球を持ち、人を丸のみにしてしまいそうな巨大な口に、鋭く尖った牙が並ぶ。人の形をしていなくもないが耳はなく、鼻のようなものもない。皮膚は腐って爛れ、頭蓋のようなものが所々丸見えとなり、後頭部から髪の代わりに触手のようなものが無数に生えている。
ゆっくりと姿を現す身体も、凡そ生きているとは思えない姿だった。剥き出しの内臓と骨。爛れた皮膚。どういう訳か植物が内側から蔓を伸ばして生えており、身体の中から伸びる多数の蔓の先端は、毒々しい色をした花を咲かせているものもあれば、鋭い針をから怪しい体液を垂らしているものもある。
最終的に下半身らしく部分も出現したが、足は蜘蛛と同じ八本脚で、膨らみを持つ下腹部から生えている。この世界にいるどの魔物とも似付かわしくない、不気味で不快な見た目の化け物。こんな見た目をしている怪物を、リックはこの世界で一度だけ見た事があった。
「⋯⋯⋯ボーゼアス教の魔導具にそっくりだ。また化け物退治かよ」
まさにそれは、リック達がボーゼアスの乱で遭遇した、伝説の魔導具によって生み出されし怪物に酷似していた。あれよりも更に不気味な見た目で、おまけに肉の腐る酷い臭いまで撒き散らしている。大きさは魔導具の怪物よりずっと小さく、三から四メートル程しかないが、その悍ましさは魔導具のものと何一つ変わらない。
魔法によって出現した怪物は、手始めにその三つの眼球で五体のアンデッドの死骸を捉えた。すると、身体から伸びていた植物の蔓が、もう動かなくなったアンデッドへと伸びていって、その身体に巻き付いて持ち上げる。
持ち上げられた死骸は五体とも、怪物の口へと運ばれていく。待ってましたと言わんばかりに大きく開かれた怪物の口内に、次々と死骸が放り込まれる。五体とも全て呑み込み終えると、あれだけでは食い足らないのか、今度はリックの姿をその眼に捉えるのだった。
「死体でもなんでも腹に入れば一緒って言いたいのかよ。とんだ食いしん坊だな」
「これが僕の僕《しもべ》、合成魔獣ギガントウーズだ。人も魔物も食い漁って取り込み強くなる、最強無敵の怪物さ」
闇属性魔法の魔物召喚似た力を持っているが、生き物を合成して新たな生物を創り上げる力は、闇魔法には存在しない。これこそチャムだけが操る特殊魔法、合成魔獣召喚能力である。
ギガントウーズと呼ばれた合成魔獣は、召喚者であるチャム命令にのみ従う。チャムが命じれば、例えどんな相手であろうと殺し、どんな危険で凶悪な魔物だろうと戦う。そうして殺してきた相手を喰らう事で、己の血肉とし、その能力を奪う事も出来る。
「こんな化け物と仲良く戯れてられっかよ!」
闇魔法の召喚に近い能力ならば、術者を倒せば消えるはず。そう考えたリックが、拳銃の弾倉に残った弾を、全弾チャムに目掛けて発砲する。しかし、大きさの割に俊敏な怪物が、弾道の前に自らの身体を割り込ませ、身体を盾にしてチャムを守る。
拳銃とは言えリックの銃は、高威力の弾丸を放つ自動拳銃である。だが、この怪物にダメージを与えるには威力不足で、弾丸が命中しても怪物はびくともしなかった。
弾切れとなった拳銃の弾倉を交換するリックに、今度は合成魔獣とミッターが仕掛ける。魔獣は巨大な口を開け、口内に光魔法の光球を生み出し発射する。リックがそれを右に飛んで躱すと、今度は一気に距離を詰めてきたミッターのナイフが迫り来る。
「観念するんだな、リクトビア!」
「くっ!!」
振るわれたナイフの斬撃を銃で受け止め、距離を詰めたミッター目掛け、リックが膝蹴りを喰らわせようとする。攻撃を読んでいたミッターは、片方の義手でその膝蹴りを受け止めた。
格闘戦となった二人の間に、無理やり割って入ったのは魔獣の蔓だった。鞭のように扱われた蔓が振り下ろされ、間一髪のところで二人は同時に離れ、その攻撃を回避する。連携など一切考えていないチャムは、攻撃先に味方がいようが関係ないのである。
「チャム。少しは味方のことも考えて欲しいもんだ」
「あの程度じゃ、どうせおじさん死なないでしょ? 死にたくなかったら上手く避けてよね」
「ふんっ。これだから餓鬼は苦手なんだ⋯⋯⋯」
得体の知れない怪物を操るチャムと、実戦慣れしたミッター。二対一という数的不利の中、リックは脱出のための活路を開かなくてはならない。
リックに残された武器は、自動拳銃と予備の弾倉くらいだ。後は彼の拳と足が武器ではあるが、この二人を倒すにも、何とか隙を作って逃げ出すにも、圧倒的に武器が不足している。他に残された手段は、恐らく敵の迎撃に向かったであろうアングハルト達が、無事に敵を撃破し戻って来るまでの間、時間を稼ぐ事くらいだ。
絶望的な窮地に立たされたリックは、兎に角戦うしかなかった。敵を倒すにも時間を稼ぐにも、戦わなければ生き残れない。自分を守るため、命懸けで戦ってくれているアングハルトや、殺されてしまった兵士達の為にも、生きる事を諦めるわけにはいかなかった。
「情報局の残党に不細工な化け物⋯⋯⋯。両方まとめて地獄に送ってやる」
決断したリックは駆け出し、ミッターに狙いを定めて襲い掛かった。実戦経験豊富で接近戦に強く、おまけに冷静沈着な指揮官であるこの男こそ、真っ先に倒すべき敵と考えたからだ。それにチャムは、同士討ちの危険を全く考えていない。上手くいけばチャムの攻撃にミッターを巻き込ませ、楽に排除する事も可能だろう。
接近戦を仕掛けようと距離を詰めるリックに、ミッターは構えていたナイフを投げた。顔面目掛けて投げられたナイフをリックが躱すと、今度はミッターが指弾の構えを取り、鉄製の丸球を連続で撃ち出した。
リックは指弾を間一髪で避け切るが、これによって動きが止まってしまう。その隙を見逃さなかったのは、ミッターではなく魔獣の方だった。魔獣は再び口を開き、今度は緑色の体液を吹き出してリックに浴びせようとする。
直感で危険液だと分かり、後ろに飛んで吹き出された体液を躱す。回避したのは正解で、体液の正体は強力な溶解液であり、液が撒き散らされた地面に生えていた草は、全てが一瞬で溶かされてしまった。
「危ねぇ! 暴竜と同じ攻撃か!?」
「余所見している暇はないぞ!」
反撃に出たミッターが再びリックに接近し、拳銃を向けようとしたリックの腕を掴んで、無理やり銃口を逸らさせる。銃を封じられたリックに向かって、ミッター義手の拳を彼の腹部に打ち込む。苦痛に呻くリックだったが、直ぐにやり返しに掛かって、もう片方の腕で殴ろうとするも、その腕もミッターの義手に捕まってしまう。
抵抗できないリックに、ミッターは両の目を見開いた。攻撃を封じたミッターは、リックを捕まえるべく自らの魔法を発動しようとする。
「さあリクトビア。俺の目を―――」
「うおらああああああああああああっ!!!」
危険を悟ったリックは渾身の力で暴れ、ミッターの腹部に前蹴りを叩き込んだ。蹴りの衝撃で吹っ飛んだミッタの身体は宙を舞い、地面に叩き付けられるかに思われたが、身体を捻らせる事で上手く着地し、左手の義手の掌を見せて構える。
次の瞬間、義手の掌から隠しナイフの刃が現れ、火薬の炸裂音と共に義手が放たれた。この義手には武器としての仕掛けが施されており、義手を発射する機能が備え付けられていたのだ。義手から現れた刃は、真っ直ぐリックの顔面目掛けて突き進む。最早回避は間に合わない。
義手はリックに直撃し、刃は彼の顔面を貫いたかに思われた。だが彼の顔からは一滴の血も滴る事はなく、刃は彼を貫いてすらいなかった。
「どっちが化け物だ⋯⋯⋯」
ミッターの驚愕は当然だった。発射された義手のナイフを、リックは間一髪歯で噛んで受け止めていたのだ。
刃を吐き出して捨てたリックが、いつもの悪い癖で邪悪な笑みを浮かべて見せる。帝国の狂犬の異名は、戦場で狂ったように暴れまわる、帝国女王の飼い犬である事がその所以だが、ミッターは今初めて、この異名が伊達ではないと知った。
抜群の身体能力に反射神経。戦い方は喧嘩殺法だが、戦闘の勘は冴えている。たった一人の敵将を拿捕するなど、正直楽な仕事だと考えていたが、考えが甘かった。自分達が捕まえようとしているのは、獰猛な獣と同じなのだと、ようやくミッターは理解したのである。
「殺す気でいかなければ、こっちがやられるな。チャム、奴の動きを封じられるか?」
「封じるより殺す方が早いよ?」
「簡単に殺してしまったら、お前の姉を馬鹿にしたあいつを痛めつけられないだろう? あの糞生意気な顔を苦痛と恐怖に歪ませたくないか?」
「⋯⋯⋯おじさん、それとっても見たいかも!」
今度は三人が同時に動く。リックは片方の義手を失ったミッターへと向かって行き、チャムに操られた魔獣はまたも蔓を伸ばして鞭の如く振るう。
片手を喪失しているミッターを倒す好機だが、魔獣の蔓がリックへと襲い掛かる。振るわれる蔓の連続攻撃を躱すのに精一杯で、ミッターのもとに辿り着けない。
これでは埒が明かないと考え、リックは強引な手段で反撃に出る。振り下ろされた蔓の一撃を躱した彼は、一旦拳銃をホルスターに収めると、その蔓を両手で掴んで逃さない。全身に力を入れ、引き千切れんばかりの勢いで力の限り蔓を引っ張った。
力技で蔓を引っ張られた事で、体勢を崩した魔獣が咄嗟に地面に両手を付く。この瞬間無防備となるのは、術者であるチャムだった。今ならばチャムを仕留められると、リックが再び拳銃に手をかけようとするも、それを妨害したのはやはりミッターである。
「馬鹿めっ!」
「ちっ⋯⋯⋯!」
距離を詰めたミッターが格闘戦を仕掛け、片方の拳でストレートを放つ。寸前で拳を躱したリックだが、追撃に出たミッターが強烈な回し蹴り振るう。リックは腕を盾にして蹴りを防ぐが、邪魔が入ったせいでチャムを撃つ機会を失い、体勢を立て直した魔獣の反撃を受ける。
魔獣が操る蔓の内、先端に花を咲かせた蔓が魔獣の前に並ぶ。すると花の中心部から一斉に、鋭く細い針のようなものが飛び出した。リックはそれを躱そうとするが、突然脚に激痛が奔ったせいで体勢を崩し、その場に膝を付いてしまった。おまけに視界が霞み、意識が朦朧としてしまう。
(こんな時に、俺の体は⋯⋯⋯!)
前回の戦闘でリックは両脚を負傷している。しかも今日は万全の体調ではなく、とても戦える身体ではなかった。それでも無理をして戦い続けた結果、このタイミングで負傷した脚の傷が開き、高熱が彼の体を襲ったのだ。
限界を迎えて悲鳴を上げたリックの体に、この攻撃を躱せる体力は残っていない。腕を盾にして防御するが、放たれた針の数本が彼に突き刺さる。盾に使った腕や肩。膝を付いた脚。何本かは彼の身を掠めて傷を作りはしたが、防御のお陰で急所は避けられた。
鋭い針だったが、あまり痛みはない。大した攻撃なかったと思い、体に刺さった針を抜いていくリックだったが、突如彼は全身が痺れる感覚を覚え、手足を動かせなくなってしまう。
「どう? 僕の魔獣特製の毒の味は? こいつは毒性の植物も喰らって取り込めるんだ」
「くっ⋯⋯⋯、体が痺れて⋯⋯⋯!」
捕まえるのには打って付けの攻撃である。対象を殺さない程度の、即効性の高い毒の効果によって、リックは身動きを封じられてしまった。
毒の効果で動けなくなったリックに、油断せず警戒を続けたミッターが接近する。痺れる手で如何にかホルスターに収めた拳銃を抜こうとするが、構えようとした銃はミッターの蹴りで弾き飛ばされた。
「立てリクトビア。そんな風に膝を付いていると後悔するぞ?」
リックの髪を義手で鷲掴みにし、彼を無理矢理立ち上がらせたミッターが、容赦なく膝蹴りを鳩尾に叩き込む。苦痛に悶え、呼吸ができず激しく咳き込み続けるリックに、もう一度膝蹴りを打ち込んで苦しめる。
血反吐を吐き出し苦痛に呻くリックの姿に、ミッターもチャムも御機嫌だった。毒が効いているせいで無抵抗なリックを、どう料理してやろうかと考える余裕すらある。
脚から血を流していた事で、リックが両脚を負傷していた事にミッターが気付く。すると彼は下卑た笑みを見せ、リックを地面に向かって投げ捨てる。無様にうつ伏せで倒れたリックを見下ろすと、ミッターは彼の脚の傷口を踏み付けた。
「ぐあああああああああっ!!!」
「いい悲鳴だ。泣き叫ぶ時間はたっぷりあるぞ」
復讐の対象であるリックを痛め付け、愉悦に浸ってはいるものの、ミッターはこの先の事を考えていた。陽動は生死不明。ゲッベは戦死。最終的な損害はまだ分からないが、目的のリクトビアは拿捕できた。作戦が成功した今、目撃者が残らないよう他は皆殺しに、ここを離れて別の任務へと向かわなければならない。
その移動の道中、この狂犬がまた暴れ出しては任務に支障をきたす。それを防ぐために、ここで両の腕と脚を使えないようにするべきかと思案する。ただ、依頼主であるハイドリヒが、リクトビアをどのような交渉材料として利用するか分からない以上、四肢の切断は可能であれば避けたい手段だった。
「毒が効いたなら俺の力は必要ないと思ったが、念のためかけておくか」
危険な獣の捕獲を任されたものだと、内心ハイドリヒに騙されたとさえ思っていたが、作戦が成功した以上恨みはない。寧ろ、リクトビアを運ぶ道中、死んでいった仲間達の復讐を存分に果たせるかと思うと、興奮のあまり感謝すら覚える。
この時のミッターの誤算は、勝利の美酒に酔っていた事でも、いたぶって楽しんでいた事でもない。ただ一点、リックの身体に宿る常識外れの能力を、まだ知らなかった事だ。
「⋯⋯⋯そ⋯⋯や⋯⋯⋯⋯う」
「なんだ?」
「⋯⋯⋯くそ野郎って、そう言ってんだ」
動けないはずの身体を振り返らせたリックが、手に掴んだ砂をミッターの目に叩き付ける。突然視界を封じられたミッターが後退し、慌てて両腕で目を擦って砂を払う。如何にか目を開けられたが、回復した視界の先には、ナイフが飛び出た義手を持つリックの姿があった。砂で相手の視界を一時的に奪った隙に、さっき吐き捨てた義手を回収したのだ。
「悪いな。俺、怪我と毒の治りが早いのが取り柄なんだ」
「ばっ、馬鹿なっ!?」
驚愕するミッターに向け、リックは義手から飛び出ているナイフの刃を突き立てた。刃はミッターの首に深く突き刺され、一気に引き抜かれる。首の血管をナイフで切断され、傷口から鮮血を噴き出させたミッターが、逆流した血を口から溢れさせてよろめいていく。
「ぐぼあっ!! まっ、まだだ⋯⋯⋯!!」
「!?」
リックの身体が持つ驚異的な回復能力と、毒や薬に対する強力な耐性は、ミッターもチャムも知り得ない情報だった。もしこれを知っていたなら、殺す気の猛毒を使うか、さっさと四肢を斬り落としていただろう。
だがリックもまた、ミッターの能力を失念していた。この男が相手と至近距離で眼を合わせた時、強力な特殊魔法が発動する事を⋯⋯⋯。
「狂い壊れろおおおおおっ!! リクトビア!!」
ミッターが操る特殊魔法の能力。それは、精神操作魔法である。
気付いた瞬間には時既に遅く、リックはミッターの精神操作魔法の魔の手にかかった。絶望と苦痛の記憶が増幅され、幻覚となって蘇り、彼に想像を絶する苦しみを与えるのだった。
「ああああああああっ!!! メシア⋯⋯⋯、ユリーシア⋯⋯⋯!! 俺のせいで二人が⋯⋯⋯、うわあああああああああああああっ!!!!」
「はははははははっ!!! 狂い壊れて死ぬがいい! ゲオルグ達の仇は―――」
精神が破壊されようとしているリックと、死にかけながらも狂い笑うミッター。その笑いを止めたのは、背中から彼の左胸を貫く魔獣の蔓だった。そしてその蔓の針のように尖った先端は、幻覚に絶叫したリックの右胸に突き刺さっていた。
「もう死んじゃうでしょ、おじさん。僕が今楽にしてあげるよ」
「ごほっ⋯⋯⋯。だから⋯⋯⋯、餓鬼は嫌い⋯⋯なんだ⋯⋯⋯⋯」
魔獣の蔓が引き抜かれ、背後から左胸を心臓ごと貫かれたミッターは、遂に息絶えた。放っておいても出血多量で死んでいたが、彼の最後は背後から仲間に討たれるという、惨めな最後となった。
止めを刺されたミッターは地面に倒れ伏し、蔓の先端に刺されてしまったリックは、全身から力が抜ける感覚を覚え、一気に高熱に襲われて倒れそうになる。そんなリックの両腕と両脚、首や胸に蔓がきつく巻き付いて、彼の身動きが封じられてしまう。
即効性の猛毒を蔓の先端から流し込まれ、毒に犯されたリックは身体の力を奪われてしまった。おまけに呼吸が苦しくなる程の高熱に全身を襲われ、真面な思考もできなくなる。ただでさえ精神操作の魔法に犯されている中で、この猛毒は地獄の苦しみをリックに与えていた。
「はあ⋯⋯⋯はあ⋯⋯⋯はあ⋯⋯⋯! メシア⋯⋯⋯、俺は⋯⋯ユリーシアを守れなかった⋯⋯⋯」
身体を蝕む猛毒と、心を破壊する幻覚。心も体も相手の攻撃に犯され、リックは敵の術中に落ちた。
ミッターの魔法は、最終的に相手の精神を崩壊させて自殺に追いやるが、猛毒と蔓の拘束で身動きを封じられたリックは、まさに生き地獄の中に捕らわれている。ミッターの能力を聞かされていたチャムは、リックを死なせないために毒を使ったのだ。
生かした理由は簡単である。捕らえたリックをハインリヒのもとに届ければ、大好きな姉と共に自由を手にする事ができる。勿論これも理由の一つだが、死なせてしまうより生かしておく方が、この後の楽しみが増えるからだ。
「姉さんは今頃他を皆殺しにしてる頃だとして、僕はこいつが逃げないように捕まえておかなきゃいけないのか⋯⋯⋯。姉さんが来るまで退屈だなあ~⋯⋯⋯」
「ユリーシア⋯⋯⋯、ごめん⋯⋯⋯、許してくれ⋯⋯⋯⋯」
「さっきから女の名前ばっかで女々しい奴。どんな幻覚見てるか知らないけどさ、喋るんならもっと面白い声を聞かせてよ」
魔獣の蔓でリックを拘束しているチャムは、毒と幻覚に苦しみ半ば意識を失いかけている彼を見て、悪戯っぽく笑って魔獣に指示を出す。
リックに巻き付いた蔓の内、右腕を拘束する蔓に力が込められる。チャムが魔獣に指を鳴らして合図した瞬間、蔓はリックの右腕を圧し折った。
「があああああああああああああっ!!!」
「きゃははははははっ!! そうそう、それそれ!! そういう声が聞きたいんだ!!」
毒と幻覚に犯され、想像を絶する痛みまでもがリックを襲う。骨を折られた激痛に悶え苦しむ彼の姿を、心底楽しそうにチャムは眺めている。
「それじゃあ次は⋯⋯⋯、左脚♪」
情けも容赦もない、ただ子供が面白がって虫を虐めるようなものだ。歳相応に燥ぐチャムが今遊んでいるのは、そう簡単には壊れない人間の玩具である。
チャムの命令を受け、今度はリックの左脚が圧し折られた。身体中に奔った激痛に、リックは言葉にならない絶叫を上げる。目を背けたくなる残酷な光景だが、冷酷な悪魔のようなこの少年は、お腹抱えて笑い転げていた。
「きゃはははっ!! もう最高!!」
「うっ⋯⋯⋯、ううっ⋯⋯⋯⋯⋯」
「あ~、お腹痛い。流石に喋る気力すら残ってないって感じか。残りの腕と脚は姉さんとのお楽しみのために取っておくとして、これでもう絶対逃げられないでしょ」
右腕と左脚の骨を折られ、リックの敗北は完全に決した。戦う術も逃げる術も失われ、狂気に支配されたこの少年の玩具にされながら、ジエーデル国に捕らわれる未来。ヴァスティナ帝国を敗北に導く最悪の結末が、絶望的状況のリックを待ち受けている。
「やっぱり僕のギガントウーズは最強だ! 狂犬を偉い人達に渡したら自由にして貰って、また姉さんと一緒にたくさん人を殺そう! 殺して殺して殺しまくって、今度こそ僕と姉さんの楽園を作るんだ!」
大量虐殺の果てに求める楽園。ジエーデル軍として戦い、敵を殺し続けた果てに手に入れる、絶対的な地位と権力。その力で作り出すものこそ、愛する姉と共に幸せになるための世界。チャムはそれを楽園と呼ぶ。
誰にも汚される事のない、血の繋がった姉弟だけが暮らす幸福な世界。もう誰にも苦しめられず、汚される事のない、二人だけの楽園。それを手に入れるためならば、他のどんな命にも価値はない。
「ありがとう狂犬。これで僕と姉さんはやっと幸せを手に入れられる。だから僕が、いっぱいいっぱいお礼してあげるからね」
「⋯⋯⋯」
狂気が宿る少年の満面の笑みは、リックの瞳に映っていない。
幻覚に囚われる今の彼の目に映るものは、自分だけを残し闇の中へと去っていく、失われし愛した者達の姿だけだった。
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