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紅い嘆き
玖
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ファミレスでの食事と談話を終えた二人は、今日は何処にも寄らずこのまま八千穂の家に戻って共に休日を過ごす、という方向に決めた。
もうすでに正午を過ぎているとはいえ、この季節だとまだまだ日中の陽射しは強く、せっかく涼んだ身体がもうすでに汗ばんでいる。
「ふぇぇ…暑いね…」
「朝からバタバタしちゃったから天気予報見てないんだよね…八千穂見た?」
「ううん。けれどお天気アプリだと、ここの最高気温三十五度だって」
「三十五度!? そりゃ暑いわ…あー、カンベンしてぇー…」
と、人類では覆せない自然の猛暑に文句を呟きながら炎天下の中を仕方なく歩いている。
明希に関しては今朝のように自転車を颯爽と漕いでいく気力はもう無く、半ば杖代わりに自転車を押し転がして行く始末だ。
今日も遠くの景色が陽炎で揺らいでいる──途中歩道橋の下の日陰に入っても暑さはあまり緩和されない。
家に到着したらエアコンの涼しい風に当たりながら麦茶を飲みたいと、八千穂が思っていた時だ。
微かに啜り泣く声が後ろから聞こえた──。
「? …あれ!? ねぇ明希ちゃん!」
「んん? なぁにどうしたの?」
後ろを振り向くと、歩道橋の階段下で一人の子供が両膝を抱えて蹲っていた。
八千穂逹の声に反応して子供が顔を上げた──その子供はファミレスで八千穂にぶつかったあの少年だ。顎下、右腕と右膝に擦り傷があり、血が少し滲んでいる。
そんな様子に二人は真っ先に駆け寄った。
「キミっ! ママはどうしたの、もしかして迷子になっちゃった!?」
「…………れた…」
「え…?」
「…っ、ブーブ…から、っ、だされた……」
「だされた……ってまさか…!? うっそ、信じらんないッ!!」
明希は怒りを露わにした。
声には出さなかったが、これには八千穂も同じ気持ちである。
この子は車から放り捨てられたのだ。
「ね、ねぇ。お家どこか分かる? お姉ちゃん逹が送って行ってあげる」
「………わ、ぁんな、いっ……あぁぁーーーん!!」
不安を思い返してしまったらしく大声で泣き出し、俯いてしまった。
「ねぇ、こっから交番って何処かあったっけ?」
「えっと、たしか……あ! 向こうの交差点の信号を渡って左先の所! あの近くにあったはずだよ」
八千穂は【キヨサワ】と書かれたドラッグストアの看板を指差した。
「うわ、遠っ…」
そこはこれから向かう家路の通り道からは外れ、そこそこ離れた距離だ。
今いる場所からはおそらく十分程度掛かるだろう。
だが普段なら問題ない距離でも、この暑さではどうしてか遠く感じる。そんな状況に明希はジト目で看板を見つめた。
そんな彼女の憂鬱などおかまいなしに、泣き声は悪化していく一方──困った二人はお互いの顔を見合わせて暫し逡巡した後、明希が強く合掌する。
『行こう! それとこまめに水分補給ね!』
そう訴えかけているような力強い眼差しであった。
彼女がそうまで決めたのなら、八千穂もそれ以上迷うこともない。
「よし! パパとママが迎えにくるまでお姉ちゃん達が一緒にいてあげる!」
「─っ、っ……?」
「こんな所に一人でいたら寂しいもんね。とりあえず交番まで行って、涼しい所で一緒に待とう。ね?」
うっかり本音が漏れてしまったが、それはこの子も同じのはず。と、八千穂は根拠のない同意を勝手に思いつつ、手を差し伸べた。
一瞬戸惑ったが、少年はゆっくりと八千穂の手を取る。
立ち上がり、八千穂は少年のズボンに着いた砂を軽く払い落とす。
「歩ける?」
少年は首を横に振り「足いたい」と小さく呟いた。
「よし、明希お姉ちゃんの自転車に乗りな」
と、自転車のストッパーを下ろし、今度は明希が少年の脇下を抱え上げると荷台に乗せた。が、すぐに「あついっ!」と言って両脚を大きく開く。
明希は慌てて彼を荷台から下ろすと、片手でそこに手をやる。太陽光で焼かれた鉄の熱が彼女の掌を襲った。
「ウワちゃッ、ゴメンね! あー、八千穂タオルか何か持ってない?」
「タオルなら…はいどうぞ」
バッグから出した無地のタオルを荷台に敷き、明希が改めてそこに手を乗せて具合を確かめる。どうしても熱は感じるが、先程のような刺す痛みは無い。
少年も真似して確かめると「だいじょーぶ!」と言って両腕を広げ、明希は再び彼を抱え上げて荷台へ降ろす。
「しっかり掴まってるんだよ。暑いけど我慢できる?」
「うん!」
「よし、良い返事! …えっと、きみの名前は?」
「けんたろー」
「けんたろう君ね。アタシは明希お姉ちゃん。こっちは八千穂お姉ちゃん」
「よろしくね、けんたろう君」
「うん!」
「それじゃあ、しゅっぱーつ!!」
「おー!!」
意気込んでストッパーを戻し、歩き出した──は良いものの、猛暑の洗礼によって三人の元気はすぐに削がれた。
なるべく日陰を歩き、途中発見した自販機で飲み物を買って渇きを潤しながら目的地を目指す。
────そして、予想していた時間通りに二人は【キヨサワ】まで到着。
浴び続けてきた強い陽射しに気力が耐えられず、ひとまず小休憩にと駐輪場へ赴き、自転車を止めて明希が少年をおんぶで抱えると二人は少し早足で店内に逃げ込んだ。
真っ先に感じたエアコンの涼風──安息を得た三人は同時に回復の安堵を洩らした。
「あ~~…生き返る~」
「とりあえずあそこのベンチで休もう」
入り口付近の備え付けベンチを指差し、少年を先に座らせると二人も彼の両脇に座る。
湿った肌にひんやりとした木の感触を味わうとまた三人はひと息つく。
「…もうちょっとで着くけど、ここで少し休けーい」
「けんたろう君大丈夫?」
「うん……でも…」
と、弱々しい返事に元気が無いことは明白だった。
まさか熱射病になってしまったか、と二人が身を乗り出して焦りが生まれたその時──
きゅぅぅぅぅぅ……
彼の小さなお腹から可愛らしい音が鳴り漏れた。
「……おなかすいた…」
「あ、あはは…そうだったのね…びっくりした」
「ただこーゆートコって子供が好きそうな食べ物なん…あ、でも少しくらいなら何かあるか。ねぇけんたろう君、グミ好き?」
「うん」
「それじゃあ何味が好き?」
「ぶどう!」
「よーし、お姉ちゃんが買ってこよう!」
「ほんとー!?」
「もっちろん! 八千穂は?」
「私は大丈夫」
「おっけー。んじゃ待っててねー」
明希が食品売り場へ行く。
その背中を少年は目を輝かせながら見送った。
よほど嬉しかったのだろう。少し元気を取り戻したらしく、両脚を交互に揺らし始めた。
「よかったね」
「うん! おねーちゃんおなかすいてないの?」
「私はまだお昼食べた分があるから…」
と、八千穂は言葉を詰まらせた。
ファミレスで少年とぶつかったあの時間からそれなりに経っている。
別れたあの後、いったい何があったのか──歩道橋で偶然再開した時からずっとそれを確認したい気持ちはあったが、今ではない。
今は何より、この子を不安がらせない事が最優先だ。
「明希お姉ちゃんが来るまで一緒に遊んでよっか?」
「なにしてあそぶの?」
「一緒に《間違い探し》しよ」
と、八千穂はスマートフォンをバッグから取り出し、時折遊んでいるゲームアプリを立ち上げる。
少年の前に差し出すと、ちょうど画面に小さくて可愛いキャラクター達が忙しなく動いている時だった。その様子に彼の目は釘付けである。
ゲームの遊び方を教え、寄り添って次々にやってくる問題を一緒に解き明かしていく──。
彼の表情に自然と笑顔が浮かび、沈んでいた声も今は弾んでいる。
そんな年相応の可愛らしさに、八千穂も自然と笑みが浮かんだ。
「……明希ちゃんどうしたんだろう?」
二十問近くクリアしたところでふと呟く。少年はゲームに集中しているようで彼女の呟きは聞こえていなかったようだ。
「んんー……これどこだろ…? おねーちゃんどうしたの?」
「え? あ、ううん何でもないよ。ねぇ、けんたろう君はグミの他にはどんな食べ物が好き?」
「えっとね……ハンバーグとアイス!」
「アイスは何味が好き?」
「チョコレート! おねーちゃんは?」
「お姉ちゃんはストロベリー味が好き」
「ぼくチョコとストロベリーいっしょにたべたことあるよ! そうしたらもっとおいしかった!」
「けんたろう君もそう思う! あの組み合わせ美味しいよねー。けんたろう君は【ロックンロッジ】ってアイス屋さん行ったことある? あそこのアイス美味しいんだよー」
「それどこどこ!?」
「えっとねぇ………ちょっと待ってね」
熱中していたゲームを一旦止め、地図のアプリを開くと件のお店の名前を入力して検索。すると画面に写真と周辺地図が表示された。
「ここにあるよ。アイス屋さんはこの町にもあって、ここからだったらバスで──」
とカーソルを動かしている時【狭常神社】の文字が見えてしまった。
不意にまたあの少年脳裏に浮かび上がる。
突然固まってしまった彼女を少年は不思議そうに見ていた。
「おねーちゃんどうしたの?」
「っ、ううん何でもないよ。それでね──」
「アンタ達、何考えてんのッ!!?」
と、大きな声が店内に響き渡った。
声の主は、明希だ。
突然起きた状況に少年は不安そうに眉を顰めて身構えてしまった。
「だ、大丈夫だよ。お姉ちゃん様子見に行ってくるから、けんたろう君はここで待っててね。ここから動いちゃダメだよ!」
そう念押しをしながら八千穂は急いで声のした方向へ走った。
「アンタ達サイッテーね!! あの子をあんな所に放り出して何考えてんの!!」
「アン? うっせーな、何だテメェいきなり吠えてんじゃねーよッ!!」
再び彼女の怒鳴り声と知らぬ男性の声──化粧品売場から聞こえた。
そこに目をやるとすでに周りの人々も離れて売場を凝視している。
急いで合間を縫って駆けつけ、現場を覗くと明希は怒りの気配を全開にして若い男女と睨み合っていた。しかも女性には八千穂も見覚えがある──けんたろう君の母親だ。
男性の方は一見からして、いかにも“危ない”という見た目と雰囲気を醸し出しており、凄んだ眼差しで明希を睨みつけている。
そんな光景に八千穂は血の気が引いた。
「あ、明希ちゃん!? どうしたの!?」
「けんたろう君のお菓子選んでるところで何か聞き覚えのある声がするなと思って覗いたらこの人達がいたの。何を話してたと思う? 『あのガキがいなくなってせいせいする』だって…! このクソ暑い中、けんたろう君を外にほったらかして、呑気にバカ笑いしながら買い物に来てるアンタ達はサイッッテーだよッ!!」
周囲のざわめきが濃くなる。
「何言ってんだコイツ? これが終ったら迎えに行ってやろうって思ってたんだよ!」
「それ以前に置き去りにした事が問題でしょうがッ!! 万が一大変な事になってたらどうするつもりだったのよ!!」
「知るか!! ガキがくたばったところでテメェにゃカンケーねーだろ、あァ!?」
「そうよ! あの時もそうだったけど、うっぜェんだよテメェもアイツも!! 何なんのアンタ達、児童保護団体? そうじゃねぇだろ! 何良い子ぶってんのバッカじゃねーの?! いちいち突っかかって善人面ぶってんじゃねーよクソガキ共がッ!!」
母親もとうとう暴言を吐いて加わり、険呑な雰囲気が増した。
丁度そのタイミングで男性店員数名が場に駆けつけて事態を治めようと両者を宥め始めるが、夫婦側は「向こうがいきなり突っかかってきた!」「こっちは悪くない!」などと言いわけを喚き散らして挙句には店員達にも噛みつきだした。
明希も歯を剥き出しにして睨み続け、一歩も退かない。元来強気な明希は“ここで引き下がる”という選択肢は毛頭無いのだ。
「……………どうして」
ぽつりと八千穂が言葉を洩らした。
小声ながらもはっきりと聞こえた彼女の一言に怒号が止み、明希も含めて全員が注目する。
「どうして、あんな事をしたんですか? どうしてそんなひどいことを言うんですか…? あなた達は、けんたろう君のことを愛していないんですか?」
怒りはある。が、それ以上に只々胸が締め付けられるように痛かった。
その身勝手さに、その無責任さに──自然と言葉となって溢れ出る。
呆然と固まっていた夫婦だったが、それも一瞬だった。
すぐに男性が八千穂を嗤い、ニヤけた表情を張り付けながら近づく。
相変わらず威圧感のある眼差しに通常なら尻込みしてしまうほどだが、逸らさず懸命に向かい合った。
そして、目と鼻の先で──
「ぶぁーか」
と、侮蔑の一言を無情にも叩きつけられた。
「誰があんなクソガキを愛してるって? ワケわかんねー事言ってんじゃねーぞ、あ? いっそくたばって、死んで、いなくなってくれたほうが、こちとらすんげぇありがてぇんだよッ!!!」
煙草臭い息と唾が八千穂の顔に容赦なく降り掛かる──思わず顔を顰めた。
「ホントよ。なにダセェこと言ってんのよ。あんなの大っキライに決まってんでしょ! 言うこと聞かないし、面倒ごとばっか増やすし、ビービー泣き喚いてウッセーし…あんた達には子育てがどんだけ大変か分かんないっしょ? もうホンット嫌だ…あんなガキ産まなきゃよかったわよッ!!!」
ガチャンッ──…。物音がした方向に皆が視線を移す。
商品棚の陰から、今この場に来てほしくなかった子が、顔だけを覗かせてそこにいた。
「けんたろう、君…!?」
「うっそでしょ…」
いつからいたのだろうか、くしゃりと歪んでしまった顔にはすでに大粒の涙を垂れ流している状態だった。
それからはあっという間だ。彼はすぐに棚陰に消えると足音がどんどん遠ざかって行く様子が聞いて取れる。
「けんたろう君ッ!!」
八千穂は慌てて彼が去った後を追いかけるが、通行人達を避けながら進んで行ったが故に、外へ出た時にはすでに見失った後だった。
右を見ても左を見ても、それらしい姿は何処にも見えない。
焦燥感が不安をさらに掻き立ててくる。
「八千穂ーッ!!」
振り返ると明希が自転車に乗ってやって来た。
「けんたろう君は!?」
「見当たらない…! 何処に行ったか分かんない…!」
「落ち着いて!! いくら見失ったとしても短時間でそんな遠くへ行けるわけがない。アタシはここの周辺を捜してくるから、八千穂は交番へ!」
「うん、分かった…! そうだ、明希ちゃんこれ!」
八千穂はバッグから明希のスマートフォンを取り出して彼女に手渡す。
「おっとそうだった、何かあったらすぐに知らせるからッ!!」
そう言い残して颯爽と自転車を走らせて行く。
八千穂も当初の目的地だった交番へ急いで駆け込んだ。息も絶え絶えに駐在していた警察官達に矢継ぎ早で捜索応援を願うと、ベテランと思しき中年警察官の一人が状況の整理が出来ていない他の警察官達に次々と指示を繰り出す。
八千穂は先導してくれた警察官にお礼を簡潔に告げ、休む間も無く再び捜索を始めた。
──陽はどんどん沈んでいく──…。
普段運動をしていない彼女の両脚はすでに疲労で震え、息切れで喉も枯れ、自然の熱が彼女の体力を容赦無く奪っていく。
今はまだ明るいが、もし、暗くなっても──
「ダメっ、こんな時に弱気になっちゃ……!」
弱る己と気持ちに喝を入れ、一旦日陰で立ち止まるとバッグから飲みかけの飲料が入ったペットボトルのキャップを開け、天を仰いで中身を口一杯に含む。
「──、──っ…。今度は……こっ…!」
飲み物をバッグに入れて次はスマートフォンを取り出し、地図を表示して八千穂は再び駆け出した。
次こそ見つかる。と、胸に希望を抱いて──。
もうすでに正午を過ぎているとはいえ、この季節だとまだまだ日中の陽射しは強く、せっかく涼んだ身体がもうすでに汗ばんでいる。
「ふぇぇ…暑いね…」
「朝からバタバタしちゃったから天気予報見てないんだよね…八千穂見た?」
「ううん。けれどお天気アプリだと、ここの最高気温三十五度だって」
「三十五度!? そりゃ暑いわ…あー、カンベンしてぇー…」
と、人類では覆せない自然の猛暑に文句を呟きながら炎天下の中を仕方なく歩いている。
明希に関しては今朝のように自転車を颯爽と漕いでいく気力はもう無く、半ば杖代わりに自転車を押し転がして行く始末だ。
今日も遠くの景色が陽炎で揺らいでいる──途中歩道橋の下の日陰に入っても暑さはあまり緩和されない。
家に到着したらエアコンの涼しい風に当たりながら麦茶を飲みたいと、八千穂が思っていた時だ。
微かに啜り泣く声が後ろから聞こえた──。
「? …あれ!? ねぇ明希ちゃん!」
「んん? なぁにどうしたの?」
後ろを振り向くと、歩道橋の階段下で一人の子供が両膝を抱えて蹲っていた。
八千穂逹の声に反応して子供が顔を上げた──その子供はファミレスで八千穂にぶつかったあの少年だ。顎下、右腕と右膝に擦り傷があり、血が少し滲んでいる。
そんな様子に二人は真っ先に駆け寄った。
「キミっ! ママはどうしたの、もしかして迷子になっちゃった!?」
「…………れた…」
「え…?」
「…っ、ブーブ…から、っ、だされた……」
「だされた……ってまさか…!? うっそ、信じらんないッ!!」
明希は怒りを露わにした。
声には出さなかったが、これには八千穂も同じ気持ちである。
この子は車から放り捨てられたのだ。
「ね、ねぇ。お家どこか分かる? お姉ちゃん逹が送って行ってあげる」
「………わ、ぁんな、いっ……あぁぁーーーん!!」
不安を思い返してしまったらしく大声で泣き出し、俯いてしまった。
「ねぇ、こっから交番って何処かあったっけ?」
「えっと、たしか……あ! 向こうの交差点の信号を渡って左先の所! あの近くにあったはずだよ」
八千穂は【キヨサワ】と書かれたドラッグストアの看板を指差した。
「うわ、遠っ…」
そこはこれから向かう家路の通り道からは外れ、そこそこ離れた距離だ。
今いる場所からはおそらく十分程度掛かるだろう。
だが普段なら問題ない距離でも、この暑さではどうしてか遠く感じる。そんな状況に明希はジト目で看板を見つめた。
そんな彼女の憂鬱などおかまいなしに、泣き声は悪化していく一方──困った二人はお互いの顔を見合わせて暫し逡巡した後、明希が強く合掌する。
『行こう! それとこまめに水分補給ね!』
そう訴えかけているような力強い眼差しであった。
彼女がそうまで決めたのなら、八千穂もそれ以上迷うこともない。
「よし! パパとママが迎えにくるまでお姉ちゃん達が一緒にいてあげる!」
「─っ、っ……?」
「こんな所に一人でいたら寂しいもんね。とりあえず交番まで行って、涼しい所で一緒に待とう。ね?」
うっかり本音が漏れてしまったが、それはこの子も同じのはず。と、八千穂は根拠のない同意を勝手に思いつつ、手を差し伸べた。
一瞬戸惑ったが、少年はゆっくりと八千穂の手を取る。
立ち上がり、八千穂は少年のズボンに着いた砂を軽く払い落とす。
「歩ける?」
少年は首を横に振り「足いたい」と小さく呟いた。
「よし、明希お姉ちゃんの自転車に乗りな」
と、自転車のストッパーを下ろし、今度は明希が少年の脇下を抱え上げると荷台に乗せた。が、すぐに「あついっ!」と言って両脚を大きく開く。
明希は慌てて彼を荷台から下ろすと、片手でそこに手をやる。太陽光で焼かれた鉄の熱が彼女の掌を襲った。
「ウワちゃッ、ゴメンね! あー、八千穂タオルか何か持ってない?」
「タオルなら…はいどうぞ」
バッグから出した無地のタオルを荷台に敷き、明希が改めてそこに手を乗せて具合を確かめる。どうしても熱は感じるが、先程のような刺す痛みは無い。
少年も真似して確かめると「だいじょーぶ!」と言って両腕を広げ、明希は再び彼を抱え上げて荷台へ降ろす。
「しっかり掴まってるんだよ。暑いけど我慢できる?」
「うん!」
「よし、良い返事! …えっと、きみの名前は?」
「けんたろー」
「けんたろう君ね。アタシは明希お姉ちゃん。こっちは八千穂お姉ちゃん」
「よろしくね、けんたろう君」
「うん!」
「それじゃあ、しゅっぱーつ!!」
「おー!!」
意気込んでストッパーを戻し、歩き出した──は良いものの、猛暑の洗礼によって三人の元気はすぐに削がれた。
なるべく日陰を歩き、途中発見した自販機で飲み物を買って渇きを潤しながら目的地を目指す。
────そして、予想していた時間通りに二人は【キヨサワ】まで到着。
浴び続けてきた強い陽射しに気力が耐えられず、ひとまず小休憩にと駐輪場へ赴き、自転車を止めて明希が少年をおんぶで抱えると二人は少し早足で店内に逃げ込んだ。
真っ先に感じたエアコンの涼風──安息を得た三人は同時に回復の安堵を洩らした。
「あ~~…生き返る~」
「とりあえずあそこのベンチで休もう」
入り口付近の備え付けベンチを指差し、少年を先に座らせると二人も彼の両脇に座る。
湿った肌にひんやりとした木の感触を味わうとまた三人はひと息つく。
「…もうちょっとで着くけど、ここで少し休けーい」
「けんたろう君大丈夫?」
「うん……でも…」
と、弱々しい返事に元気が無いことは明白だった。
まさか熱射病になってしまったか、と二人が身を乗り出して焦りが生まれたその時──
きゅぅぅぅぅぅ……
彼の小さなお腹から可愛らしい音が鳴り漏れた。
「……おなかすいた…」
「あ、あはは…そうだったのね…びっくりした」
「ただこーゆートコって子供が好きそうな食べ物なん…あ、でも少しくらいなら何かあるか。ねぇけんたろう君、グミ好き?」
「うん」
「それじゃあ何味が好き?」
「ぶどう!」
「よーし、お姉ちゃんが買ってこよう!」
「ほんとー!?」
「もっちろん! 八千穂は?」
「私は大丈夫」
「おっけー。んじゃ待っててねー」
明希が食品売り場へ行く。
その背中を少年は目を輝かせながら見送った。
よほど嬉しかったのだろう。少し元気を取り戻したらしく、両脚を交互に揺らし始めた。
「よかったね」
「うん! おねーちゃんおなかすいてないの?」
「私はまだお昼食べた分があるから…」
と、八千穂は言葉を詰まらせた。
ファミレスで少年とぶつかったあの時間からそれなりに経っている。
別れたあの後、いったい何があったのか──歩道橋で偶然再開した時からずっとそれを確認したい気持ちはあったが、今ではない。
今は何より、この子を不安がらせない事が最優先だ。
「明希お姉ちゃんが来るまで一緒に遊んでよっか?」
「なにしてあそぶの?」
「一緒に《間違い探し》しよ」
と、八千穂はスマートフォンをバッグから取り出し、時折遊んでいるゲームアプリを立ち上げる。
少年の前に差し出すと、ちょうど画面に小さくて可愛いキャラクター達が忙しなく動いている時だった。その様子に彼の目は釘付けである。
ゲームの遊び方を教え、寄り添って次々にやってくる問題を一緒に解き明かしていく──。
彼の表情に自然と笑顔が浮かび、沈んでいた声も今は弾んでいる。
そんな年相応の可愛らしさに、八千穂も自然と笑みが浮かんだ。
「……明希ちゃんどうしたんだろう?」
二十問近くクリアしたところでふと呟く。少年はゲームに集中しているようで彼女の呟きは聞こえていなかったようだ。
「んんー……これどこだろ…? おねーちゃんどうしたの?」
「え? あ、ううん何でもないよ。ねぇ、けんたろう君はグミの他にはどんな食べ物が好き?」
「えっとね……ハンバーグとアイス!」
「アイスは何味が好き?」
「チョコレート! おねーちゃんは?」
「お姉ちゃんはストロベリー味が好き」
「ぼくチョコとストロベリーいっしょにたべたことあるよ! そうしたらもっとおいしかった!」
「けんたろう君もそう思う! あの組み合わせ美味しいよねー。けんたろう君は【ロックンロッジ】ってアイス屋さん行ったことある? あそこのアイス美味しいんだよー」
「それどこどこ!?」
「えっとねぇ………ちょっと待ってね」
熱中していたゲームを一旦止め、地図のアプリを開くと件のお店の名前を入力して検索。すると画面に写真と周辺地図が表示された。
「ここにあるよ。アイス屋さんはこの町にもあって、ここからだったらバスで──」
とカーソルを動かしている時【狭常神社】の文字が見えてしまった。
不意にまたあの少年脳裏に浮かび上がる。
突然固まってしまった彼女を少年は不思議そうに見ていた。
「おねーちゃんどうしたの?」
「っ、ううん何でもないよ。それでね──」
「アンタ達、何考えてんのッ!!?」
と、大きな声が店内に響き渡った。
声の主は、明希だ。
突然起きた状況に少年は不安そうに眉を顰めて身構えてしまった。
「だ、大丈夫だよ。お姉ちゃん様子見に行ってくるから、けんたろう君はここで待っててね。ここから動いちゃダメだよ!」
そう念押しをしながら八千穂は急いで声のした方向へ走った。
「アンタ達サイッテーね!! あの子をあんな所に放り出して何考えてんの!!」
「アン? うっせーな、何だテメェいきなり吠えてんじゃねーよッ!!」
再び彼女の怒鳴り声と知らぬ男性の声──化粧品売場から聞こえた。
そこに目をやるとすでに周りの人々も離れて売場を凝視している。
急いで合間を縫って駆けつけ、現場を覗くと明希は怒りの気配を全開にして若い男女と睨み合っていた。しかも女性には八千穂も見覚えがある──けんたろう君の母親だ。
男性の方は一見からして、いかにも“危ない”という見た目と雰囲気を醸し出しており、凄んだ眼差しで明希を睨みつけている。
そんな光景に八千穂は血の気が引いた。
「あ、明希ちゃん!? どうしたの!?」
「けんたろう君のお菓子選んでるところで何か聞き覚えのある声がするなと思って覗いたらこの人達がいたの。何を話してたと思う? 『あのガキがいなくなってせいせいする』だって…! このクソ暑い中、けんたろう君を外にほったらかして、呑気にバカ笑いしながら買い物に来てるアンタ達はサイッッテーだよッ!!」
周囲のざわめきが濃くなる。
「何言ってんだコイツ? これが終ったら迎えに行ってやろうって思ってたんだよ!」
「それ以前に置き去りにした事が問題でしょうがッ!! 万が一大変な事になってたらどうするつもりだったのよ!!」
「知るか!! ガキがくたばったところでテメェにゃカンケーねーだろ、あァ!?」
「そうよ! あの時もそうだったけど、うっぜェんだよテメェもアイツも!! 何なんのアンタ達、児童保護団体? そうじゃねぇだろ! 何良い子ぶってんのバッカじゃねーの?! いちいち突っかかって善人面ぶってんじゃねーよクソガキ共がッ!!」
母親もとうとう暴言を吐いて加わり、険呑な雰囲気が増した。
丁度そのタイミングで男性店員数名が場に駆けつけて事態を治めようと両者を宥め始めるが、夫婦側は「向こうがいきなり突っかかってきた!」「こっちは悪くない!」などと言いわけを喚き散らして挙句には店員達にも噛みつきだした。
明希も歯を剥き出しにして睨み続け、一歩も退かない。元来強気な明希は“ここで引き下がる”という選択肢は毛頭無いのだ。
「……………どうして」
ぽつりと八千穂が言葉を洩らした。
小声ながらもはっきりと聞こえた彼女の一言に怒号が止み、明希も含めて全員が注目する。
「どうして、あんな事をしたんですか? どうしてそんなひどいことを言うんですか…? あなた達は、けんたろう君のことを愛していないんですか?」
怒りはある。が、それ以上に只々胸が締め付けられるように痛かった。
その身勝手さに、その無責任さに──自然と言葉となって溢れ出る。
呆然と固まっていた夫婦だったが、それも一瞬だった。
すぐに男性が八千穂を嗤い、ニヤけた表情を張り付けながら近づく。
相変わらず威圧感のある眼差しに通常なら尻込みしてしまうほどだが、逸らさず懸命に向かい合った。
そして、目と鼻の先で──
「ぶぁーか」
と、侮蔑の一言を無情にも叩きつけられた。
「誰があんなクソガキを愛してるって? ワケわかんねー事言ってんじゃねーぞ、あ? いっそくたばって、死んで、いなくなってくれたほうが、こちとらすんげぇありがてぇんだよッ!!!」
煙草臭い息と唾が八千穂の顔に容赦なく降り掛かる──思わず顔を顰めた。
「ホントよ。なにダセェこと言ってんのよ。あんなの大っキライに決まってんでしょ! 言うこと聞かないし、面倒ごとばっか増やすし、ビービー泣き喚いてウッセーし…あんた達には子育てがどんだけ大変か分かんないっしょ? もうホンット嫌だ…あんなガキ産まなきゃよかったわよッ!!!」
ガチャンッ──…。物音がした方向に皆が視線を移す。
商品棚の陰から、今この場に来てほしくなかった子が、顔だけを覗かせてそこにいた。
「けんたろう、君…!?」
「うっそでしょ…」
いつからいたのだろうか、くしゃりと歪んでしまった顔にはすでに大粒の涙を垂れ流している状態だった。
それからはあっという間だ。彼はすぐに棚陰に消えると足音がどんどん遠ざかって行く様子が聞いて取れる。
「けんたろう君ッ!!」
八千穂は慌てて彼が去った後を追いかけるが、通行人達を避けながら進んで行ったが故に、外へ出た時にはすでに見失った後だった。
右を見ても左を見ても、それらしい姿は何処にも見えない。
焦燥感が不安をさらに掻き立ててくる。
「八千穂ーッ!!」
振り返ると明希が自転車に乗ってやって来た。
「けんたろう君は!?」
「見当たらない…! 何処に行ったか分かんない…!」
「落ち着いて!! いくら見失ったとしても短時間でそんな遠くへ行けるわけがない。アタシはここの周辺を捜してくるから、八千穂は交番へ!」
「うん、分かった…! そうだ、明希ちゃんこれ!」
八千穂はバッグから明希のスマートフォンを取り出して彼女に手渡す。
「おっとそうだった、何かあったらすぐに知らせるからッ!!」
そう言い残して颯爽と自転車を走らせて行く。
八千穂も当初の目的地だった交番へ急いで駆け込んだ。息も絶え絶えに駐在していた警察官達に矢継ぎ早で捜索応援を願うと、ベテランと思しき中年警察官の一人が状況の整理が出来ていない他の警察官達に次々と指示を繰り出す。
八千穂は先導してくれた警察官にお礼を簡潔に告げ、休む間も無く再び捜索を始めた。
──陽はどんどん沈んでいく──…。
普段運動をしていない彼女の両脚はすでに疲労で震え、息切れで喉も枯れ、自然の熱が彼女の体力を容赦無く奪っていく。
今はまだ明るいが、もし、暗くなっても──
「ダメっ、こんな時に弱気になっちゃ……!」
弱る己と気持ちに喝を入れ、一旦日陰で立ち止まるとバッグから飲みかけの飲料が入ったペットボトルのキャップを開け、天を仰いで中身を口一杯に含む。
「──、──っ…。今度は……こっ…!」
飲み物をバッグに入れて次はスマートフォンを取り出し、地図を表示して八千穂は再び駆け出した。
次こそ見つかる。と、胸に希望を抱いて──。
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