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紅い嘆き
捌
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光源まであと少し──それに連れ、瘴気もかなり濃い。
進み続け、お繚はやがて樹も無い、地表剥き出しの拓いた空間に足を踏み入れた。
その中心には池ほどの沼がある。見えていたあの紫光はそこから発せられていたものだ。
ここでは腐臭と瘴気がさらに肌に纏わり絡み付き、もしくは覆われている気分にひどく不快感を抱いた。
その中心に、一糸纏っていない年端もいかない少年が一人。塊を抱きながら「ヨシヨシ」と慰めて佇んでいる。
お繚の気配に感付いた少年が一瞥すると、塊を沼に下ろし、正面に向き合う。
『……ヘンナニオイ…ダレ?』
一人のはずなのに性別年齢様々な複数の声が少年の口から溢れた。
“思念の集合体”──
そうお繚は推測し、鍔に親指の腹を静かに乗せる。
「私はお繚。幽世路の番鬼よ。アナタはこんな所で何をしているのかしら?」
「……ナイテルカラ、ヨシヨシシテル」
そう告げたのは一人の少年だけ。
「泣いてる?」
「パパ…ママ…ジィジ…バァバ……イッパイ、ブタレタ…ケラレタ、ッテ…イタイ……イタイヨォ…ッテ、イッパイナイテル」
物静かで落ち着いた口調で、抑揚なく淡々と告げていく。
一見すれば大人しいと思えるだろう。しかし、彼女の本能は告げられた言葉の端々で危険を察し、密かに緊張感が高まっていた。
「そう…それだけ?」
「………タクサンブタレタ…ダカラ、ココデシカエシシテル」
『仕返ししてる』──その言葉から明確な殺意が感じ取れた。
「そうなの……どんなふうに? 私に教えてくれるかしら」
少年は首を横に振って「イヤダ」と語調を少し強くして拒否。
「どうして嫌なの?」
「オネエサン、シラナイヒト…ダカラ──」
と、その時だ。
沼の一部が盛り上がり──
「たっ…助けでぐれえぇぇぇぇぇぇ!!!」
そこから弾けて現れたのは、一人の老齢男性だった。
両腕をばたつかせて沈みゆく状態を必死にもがき、抗っている。
突然の闖入者にお繚は片眉を動かして僅かに驚いただけだったが、少年は違う。
丸い目を大きく見開き、笑えば可愛らしくなるはずの顔は怒りを露わにし、握り拳を震わせていた。
「──っ!? そ、そこのアンタ! 頼むっ、たずげ──ぶぐ…!!」
彼が喋っていた最中、少年は静かに滑るように近づいて老人の頭を鷲掴むと沼に押し付けた。
老人の抵抗は激しさを増しすが、まるっきり歯が立っていない。
そんな男の様子を、少年は憎しみを込めた眼差しで見下し──歪んだ笑みを浮かべていた。
「おやめなさい」
低い声音で冷ややかに告げる。
少年は腕を引き戻し、男を掴み上げたままお繚にも憎しみの眼差しを向けた。
「オネエサン、ジャマシナイデ…!!」
「いいえ。そのご老体は生者ですね? この幽世で生者を連れ込んでの殺生を見過ごすわけには参りません」
『…………オジイチャンノセイデ…ワタシ、シンジャッタ』
「え?」
少年の口調と声音が変わった。
発せられた声は少女のもの。
その姿からは似つかわしい、可愛らしい声だった。
『オジイチャンハ…アタシヲオシタオシテ…クビヲ、シメタノ……アンナニヤサシカッタオジイチャンガ、コワカッタ……』
聞き間違いかと思ったお繚だったが、間違いなく“少女の声”として発している。と──
『オレモ………イキナリ、ウシロカラナグラレタ。バットモッテ、イッパイナグラレタ……』
今度は“また別の少年”に切り替わった。
推測は正しかったようだ。
目に見える姿は一つでも、相手は複数の魂で形成されている。
ただその多くは自我が混濁と剥離を繰り返し、支離滅裂な言動を繰り返すだけの存在となりえるのだが、相手は違う。
一人の個を中心に、交ざり合う総てがしっかり融け合っているようだ。
『ヤメテッテイッテモ、ヤメテクレナカッタ……イタイ…イタイイタイィィ……!』
一つの口で複数の少年少女が入れ替わり立ち替わりで嘆いてはいるが、それは言葉だけ。
その小さな体から溢れ出る殺意は尋常ではなく、それによって放たれている重圧は段々と周囲の大気を震わせ、樹々をざわつかせていた。
お繚は鍔を載せていた親指に力を込め、刀を鞘からほんの僅かに抜き離す。
『──コワカッタ…コワカッタ、コワカ──…ア、アアア! ──ッッ』
「コロシタカッタッ!!」
一斉に憎悪が周囲に拡がった。
少年の眼が真紅に染まり、同じ色の涙が滝のように流れる。それは老人の頭頂から頬へ滴り、泥と一緒に流れるそれを吐き出しながら半狂乱に陥っていた彼は情けない声を上げ続けた。
「コロシタカッタ!! コロ、シ…ッ! コ、コロ─コロスコロスコロスゥゥゥ!!」
「ヒィィ、たしゅけ──! お…何故俺がこんな仕打ちを、受けなければならないんだ!? 俺は──っ、言うこと聞かないアイツが悪いんだぁ!! ちょっと冷たくしただけで俺を無視して……息子夫婦だけならまだしもだ! あんな、あんなガキにまぁでぇぇ…ッ!!」
などと喚き散らし、それを聞いた少年が「キイタデショ」と、最初の──おそらくは主人格である少年の声で呟き、自分の胸に手を当てた。
「コノコハ、コンナクダラナイリユウデシンダンダ。コンナヤツ、シンデトウゼンダヨ」
「ぃ…イヤだあぁ…死にたくなぃ……ゆるしてくれぇぇ」
「ソレ、アノコニイッテミテヨ」
表情こそ憎しみの色は消えたが、紅い涙は未だに流れ続けている。
少年は掴んでいる手で強引に老人と顔を向き合わせた。老人はみっともなく泣いて嗚咽を洩らすばかり。
お繚は成り行きを見守ることに徹し、その場から一歩も動こうとはしなかった。
「…………か、かなみぃ……おじいちゃんが悪かったぁぁぁ……このとおりだ、許じでぐれぇぇ…!」
掠れ切った声を絞り出し、重ねた掌を頭上に掲げて懇願する。
しかし、少年は冷たく見下すだけ。
効果が無いことを悟ったのか、今度は両手を少年の肩に乗せた。その間も男は許しを乞い続ける──が、すぐさま態度を豹変すると、あろうことか少年の細い首を強く締め始めた。
不意を打たれた少年の顔が徐々に苦悶の表情を浮かべていく。
「ヒャ、カッハハハヒャぁ…!! 死ねぇ…死ね死ねっじねぇぇェェッッ!!」
男は荒い息遣いで唾と泥を撒き散らして歓喜の笑みを浮かべている。
少年は苦しむ表情を濃くし、掴んでいた手を離して男の手首を掴んだ。
何とも醜い鬼畜の諸行に、お繚は男へ侮蔑の眼差しを向けて眉間を皺寄せた。
彼を助けようと一歩踏み出した時──
『シネ』
と、少女の声音で少年は言い放った。
先程まで苦しんでいた様子は嘘のように失せ、冷たい殺意を込めた眼差しで老人を見下ろす。
それを直視した彼は絶望の色を濃くしてわなついた。
刹那 。少年は掴んでいた両手に力を込めると、骨が砕けて肉の弾ける音が周囲に高らかと鳴り響き、男の悲痛な叫びが甲高く上がった。
支える骨を失った手が腕から垂れ下がり、握り潰された痕からは細かい骨の欠片が突き抜けて姿を現し、そこから夥しく血が流れ出ている。
その有り様に、今度は少年が愉悦の笑みを浮かべた。口元が大きく釣り上がり、鋭く尖った八重歯を覗かせる。
──抜刀一閃。
「!!」
お繚が抜き放った剣風が二人の間を割って裂く。
少年は咄嗟に手を離して退がり、握り潰されたショックによって気絶した男は沼底へ沈んでいく。
しかし沼の表面を滑るようにして素早く駆けつけたお繚により、沈みきる寸前で彼は救出された。
突然乱入した彼女に少年は敵意を向け、奥歯を噛み締めて睨む。
「…ドウシテ、ジャマスルノ……ソンナヤツ、シンデモイイジャン…!!」
「えぇ、それは同感です。あんな醜態を晒してまで生き永らえようなど、見るに堪えません。この男が死んだ後には地獄でその悪事は裁かれましょう」
淡々と述べ、刀を片手で鞘に収める。
「ダッタラ──」
「ですが、この男が死ぬのは今ではありません。それと裁くのは貴方達ではない。地獄の“閻魔王”です」
「ギギ……」
「それに……それ以上生者を殺めようならば──容赦無く斬らねばなりません」
鬼気迫る力強い視線と威圧に、少年は言葉を詰まらせた。
「この上に来たことで分かりました……貴方達は何人もの生者をここで殺めていますね? それはいずれも大人逹──親の身ばかり」
「…ボクラハ、パパヤママタチニコロサレタ。ダカラ、シカエシシタ」
「そうですか──晴れていますか?」
「?」
「沢山仕返しをして、貴方の気持ちは晴れていますか?」
「………」
少年は答えなかった。しかしその沈黙が答えでもある。
お繚は呆れたと言わんばかりのため息を吐いた。
「…言っておきましょう。貴方の周りに同じ怨みを抱えているモノが居るのですから、この先その気持ちが晴れることはありません。この景色と同じ、昏い時間がずうっと続きます。いずれは貴方も《鬼》に成れ果ててしまうでしょう」
「…ッ」
「今はまだ相手を選んでいるようですが、いずれは見境無くその渇きを癒そうとするでしょう。そうなれば……その時が貴方の最後です」
「…ルサィ」
「微かですが、まだ引き返せる猶予は残っています……もう、こんな惨いことはおやめなさい。貴方は──」
「ウルサァァァァァァァァァイッッ!!!」
少年の雄叫びに周囲がざわめき出す。
樹々が、大気が、幼子の嘆きと悲鳴が嵐のように吹き荒れる。
お繚が立っている場所からは沼が渦を巻いて立ち昇り、彼女を中心に取り囲んだ。
「くっ…!?」
取り巻く沼の中からは一緒に巻き上げられた塊達と、これまで殺されたであろう生者の成れの果てが姿を覗かせている。
──顔の半分や全身がが腐って爛れている者、全身が空気一杯の風船の如く膨れ上がった者、肉が残ったまま身体がバラバラとなった者──現れるモノはいずれも骨ばかりなのだが、中にはそういった死体も含まれていた。
肉の腐り果てた強烈な異臭が襲う。これにはお繚も片袖で鼻と口元を覆い隠す。
「──ぁ、ああァァァァァァ?!?!」
最悪にも男が目を覚ましてしまった。
その瞬間、渦から無数の小さな手が這い出ると男を鷲掴み、引きずり込む。
「いけない!!」とお繚が抵抗するも、引き寄せる力は強い。短い指逹によって男は肉をくい込まれ、どんどん渦の中へ入れていく。
「イヤダぁーー!! たずげデェェェ!!!」
男はお繚に涙ながらで必死に救いを求めた。
彼の身体は抉られ痕だらけのうえに血に塗れている。おそらく沼底からも同じように掴まれているのだろう。彼のいる周囲の色が僅かに黒く変色していく様子が見て取れた。
肉と筋が切れる生々しい音が内側から漏れてくる。
何とかしないと。と、打開策を思案している時だ──突如沼から現れた少年は二人の間に立ち、愉悦に満ち歪んだ笑顔をお繚に向けた。
「っ!!」
「バイバイ」
降り下ろした少年の手が男の腕を引き裂いた──激痛か、絶望か、はたまた両方か──悲痛に歪んだ表情を顔に貼り付けたまま男は渦の中へ飲み込まれていく。
そして迂闊にも呆然と立ち尽くしてしまったお繚も隙を突かれ、彼女も少年に強く突き飛ばされると同じく沼の渦に飲み込まれてあっという間にその姿が消えていった──。
殺ッタ。
そう確信した少年は片手を上げてすぐに下ろすと、渦はそれに反応して勢いを保ったまま元の状態へと戻っていく。
再び重々しい静寂が訪れ、少年は自らの勝利に酔い、沼の上で大きく笑い声を上げた。
その声はこの幽世に行き渡っていく────その声に、潜み居る幼子達の笑い声も呼応して響き轟かせた。
進み続け、お繚はやがて樹も無い、地表剥き出しの拓いた空間に足を踏み入れた。
その中心には池ほどの沼がある。見えていたあの紫光はそこから発せられていたものだ。
ここでは腐臭と瘴気がさらに肌に纏わり絡み付き、もしくは覆われている気分にひどく不快感を抱いた。
その中心に、一糸纏っていない年端もいかない少年が一人。塊を抱きながら「ヨシヨシ」と慰めて佇んでいる。
お繚の気配に感付いた少年が一瞥すると、塊を沼に下ろし、正面に向き合う。
『……ヘンナニオイ…ダレ?』
一人のはずなのに性別年齢様々な複数の声が少年の口から溢れた。
“思念の集合体”──
そうお繚は推測し、鍔に親指の腹を静かに乗せる。
「私はお繚。幽世路の番鬼よ。アナタはこんな所で何をしているのかしら?」
「……ナイテルカラ、ヨシヨシシテル」
そう告げたのは一人の少年だけ。
「泣いてる?」
「パパ…ママ…ジィジ…バァバ……イッパイ、ブタレタ…ケラレタ、ッテ…イタイ……イタイヨォ…ッテ、イッパイナイテル」
物静かで落ち着いた口調で、抑揚なく淡々と告げていく。
一見すれば大人しいと思えるだろう。しかし、彼女の本能は告げられた言葉の端々で危険を察し、密かに緊張感が高まっていた。
「そう…それだけ?」
「………タクサンブタレタ…ダカラ、ココデシカエシシテル」
『仕返ししてる』──その言葉から明確な殺意が感じ取れた。
「そうなの……どんなふうに? 私に教えてくれるかしら」
少年は首を横に振って「イヤダ」と語調を少し強くして拒否。
「どうして嫌なの?」
「オネエサン、シラナイヒト…ダカラ──」
と、その時だ。
沼の一部が盛り上がり──
「たっ…助けでぐれえぇぇぇぇぇぇ!!!」
そこから弾けて現れたのは、一人の老齢男性だった。
両腕をばたつかせて沈みゆく状態を必死にもがき、抗っている。
突然の闖入者にお繚は片眉を動かして僅かに驚いただけだったが、少年は違う。
丸い目を大きく見開き、笑えば可愛らしくなるはずの顔は怒りを露わにし、握り拳を震わせていた。
「──っ!? そ、そこのアンタ! 頼むっ、たずげ──ぶぐ…!!」
彼が喋っていた最中、少年は静かに滑るように近づいて老人の頭を鷲掴むと沼に押し付けた。
老人の抵抗は激しさを増しすが、まるっきり歯が立っていない。
そんな男の様子を、少年は憎しみを込めた眼差しで見下し──歪んだ笑みを浮かべていた。
「おやめなさい」
低い声音で冷ややかに告げる。
少年は腕を引き戻し、男を掴み上げたままお繚にも憎しみの眼差しを向けた。
「オネエサン、ジャマシナイデ…!!」
「いいえ。そのご老体は生者ですね? この幽世で生者を連れ込んでの殺生を見過ごすわけには参りません」
『…………オジイチャンノセイデ…ワタシ、シンジャッタ』
「え?」
少年の口調と声音が変わった。
発せられた声は少女のもの。
その姿からは似つかわしい、可愛らしい声だった。
『オジイチャンハ…アタシヲオシタオシテ…クビヲ、シメタノ……アンナニヤサシカッタオジイチャンガ、コワカッタ……』
聞き間違いかと思ったお繚だったが、間違いなく“少女の声”として発している。と──
『オレモ………イキナリ、ウシロカラナグラレタ。バットモッテ、イッパイナグラレタ……』
今度は“また別の少年”に切り替わった。
推測は正しかったようだ。
目に見える姿は一つでも、相手は複数の魂で形成されている。
ただその多くは自我が混濁と剥離を繰り返し、支離滅裂な言動を繰り返すだけの存在となりえるのだが、相手は違う。
一人の個を中心に、交ざり合う総てがしっかり融け合っているようだ。
『ヤメテッテイッテモ、ヤメテクレナカッタ……イタイ…イタイイタイィィ……!』
一つの口で複数の少年少女が入れ替わり立ち替わりで嘆いてはいるが、それは言葉だけ。
その小さな体から溢れ出る殺意は尋常ではなく、それによって放たれている重圧は段々と周囲の大気を震わせ、樹々をざわつかせていた。
お繚は鍔を載せていた親指に力を込め、刀を鞘からほんの僅かに抜き離す。
『──コワカッタ…コワカッタ、コワカ──…ア、アアア! ──ッッ』
「コロシタカッタッ!!」
一斉に憎悪が周囲に拡がった。
少年の眼が真紅に染まり、同じ色の涙が滝のように流れる。それは老人の頭頂から頬へ滴り、泥と一緒に流れるそれを吐き出しながら半狂乱に陥っていた彼は情けない声を上げ続けた。
「コロシタカッタ!! コロ、シ…ッ! コ、コロ─コロスコロスコロスゥゥゥ!!」
「ヒィィ、たしゅけ──! お…何故俺がこんな仕打ちを、受けなければならないんだ!? 俺は──っ、言うこと聞かないアイツが悪いんだぁ!! ちょっと冷たくしただけで俺を無視して……息子夫婦だけならまだしもだ! あんな、あんなガキにまぁでぇぇ…ッ!!」
などと喚き散らし、それを聞いた少年が「キイタデショ」と、最初の──おそらくは主人格である少年の声で呟き、自分の胸に手を当てた。
「コノコハ、コンナクダラナイリユウデシンダンダ。コンナヤツ、シンデトウゼンダヨ」
「ぃ…イヤだあぁ…死にたくなぃ……ゆるしてくれぇぇ」
「ソレ、アノコニイッテミテヨ」
表情こそ憎しみの色は消えたが、紅い涙は未だに流れ続けている。
少年は掴んでいる手で強引に老人と顔を向き合わせた。老人はみっともなく泣いて嗚咽を洩らすばかり。
お繚は成り行きを見守ることに徹し、その場から一歩も動こうとはしなかった。
「…………か、かなみぃ……おじいちゃんが悪かったぁぁぁ……このとおりだ、許じでぐれぇぇ…!」
掠れ切った声を絞り出し、重ねた掌を頭上に掲げて懇願する。
しかし、少年は冷たく見下すだけ。
効果が無いことを悟ったのか、今度は両手を少年の肩に乗せた。その間も男は許しを乞い続ける──が、すぐさま態度を豹変すると、あろうことか少年の細い首を強く締め始めた。
不意を打たれた少年の顔が徐々に苦悶の表情を浮かべていく。
「ヒャ、カッハハハヒャぁ…!! 死ねぇ…死ね死ねっじねぇぇェェッッ!!」
男は荒い息遣いで唾と泥を撒き散らして歓喜の笑みを浮かべている。
少年は苦しむ表情を濃くし、掴んでいた手を離して男の手首を掴んだ。
何とも醜い鬼畜の諸行に、お繚は男へ侮蔑の眼差しを向けて眉間を皺寄せた。
彼を助けようと一歩踏み出した時──
『シネ』
と、少女の声音で少年は言い放った。
先程まで苦しんでいた様子は嘘のように失せ、冷たい殺意を込めた眼差しで老人を見下ろす。
それを直視した彼は絶望の色を濃くしてわなついた。
刹那 。少年は掴んでいた両手に力を込めると、骨が砕けて肉の弾ける音が周囲に高らかと鳴り響き、男の悲痛な叫びが甲高く上がった。
支える骨を失った手が腕から垂れ下がり、握り潰された痕からは細かい骨の欠片が突き抜けて姿を現し、そこから夥しく血が流れ出ている。
その有り様に、今度は少年が愉悦の笑みを浮かべた。口元が大きく釣り上がり、鋭く尖った八重歯を覗かせる。
──抜刀一閃。
「!!」
お繚が抜き放った剣風が二人の間を割って裂く。
少年は咄嗟に手を離して退がり、握り潰されたショックによって気絶した男は沼底へ沈んでいく。
しかし沼の表面を滑るようにして素早く駆けつけたお繚により、沈みきる寸前で彼は救出された。
突然乱入した彼女に少年は敵意を向け、奥歯を噛み締めて睨む。
「…ドウシテ、ジャマスルノ……ソンナヤツ、シンデモイイジャン…!!」
「えぇ、それは同感です。あんな醜態を晒してまで生き永らえようなど、見るに堪えません。この男が死んだ後には地獄でその悪事は裁かれましょう」
淡々と述べ、刀を片手で鞘に収める。
「ダッタラ──」
「ですが、この男が死ぬのは今ではありません。それと裁くのは貴方達ではない。地獄の“閻魔王”です」
「ギギ……」
「それに……それ以上生者を殺めようならば──容赦無く斬らねばなりません」
鬼気迫る力強い視線と威圧に、少年は言葉を詰まらせた。
「この上に来たことで分かりました……貴方達は何人もの生者をここで殺めていますね? それはいずれも大人逹──親の身ばかり」
「…ボクラハ、パパヤママタチニコロサレタ。ダカラ、シカエシシタ」
「そうですか──晴れていますか?」
「?」
「沢山仕返しをして、貴方の気持ちは晴れていますか?」
「………」
少年は答えなかった。しかしその沈黙が答えでもある。
お繚は呆れたと言わんばかりのため息を吐いた。
「…言っておきましょう。貴方の周りに同じ怨みを抱えているモノが居るのですから、この先その気持ちが晴れることはありません。この景色と同じ、昏い時間がずうっと続きます。いずれは貴方も《鬼》に成れ果ててしまうでしょう」
「…ッ」
「今はまだ相手を選んでいるようですが、いずれは見境無くその渇きを癒そうとするでしょう。そうなれば……その時が貴方の最後です」
「…ルサィ」
「微かですが、まだ引き返せる猶予は残っています……もう、こんな惨いことはおやめなさい。貴方は──」
「ウルサァァァァァァァァァイッッ!!!」
少年の雄叫びに周囲がざわめき出す。
樹々が、大気が、幼子の嘆きと悲鳴が嵐のように吹き荒れる。
お繚が立っている場所からは沼が渦を巻いて立ち昇り、彼女を中心に取り囲んだ。
「くっ…!?」
取り巻く沼の中からは一緒に巻き上げられた塊達と、これまで殺されたであろう生者の成れの果てが姿を覗かせている。
──顔の半分や全身がが腐って爛れている者、全身が空気一杯の風船の如く膨れ上がった者、肉が残ったまま身体がバラバラとなった者──現れるモノはいずれも骨ばかりなのだが、中にはそういった死体も含まれていた。
肉の腐り果てた強烈な異臭が襲う。これにはお繚も片袖で鼻と口元を覆い隠す。
「──ぁ、ああァァァァァァ?!?!」
最悪にも男が目を覚ましてしまった。
その瞬間、渦から無数の小さな手が這い出ると男を鷲掴み、引きずり込む。
「いけない!!」とお繚が抵抗するも、引き寄せる力は強い。短い指逹によって男は肉をくい込まれ、どんどん渦の中へ入れていく。
「イヤダぁーー!! たずげデェェェ!!!」
男はお繚に涙ながらで必死に救いを求めた。
彼の身体は抉られ痕だらけのうえに血に塗れている。おそらく沼底からも同じように掴まれているのだろう。彼のいる周囲の色が僅かに黒く変色していく様子が見て取れた。
肉と筋が切れる生々しい音が内側から漏れてくる。
何とかしないと。と、打開策を思案している時だ──突如沼から現れた少年は二人の間に立ち、愉悦に満ち歪んだ笑顔をお繚に向けた。
「っ!!」
「バイバイ」
降り下ろした少年の手が男の腕を引き裂いた──激痛か、絶望か、はたまた両方か──悲痛に歪んだ表情を顔に貼り付けたまま男は渦の中へ飲み込まれていく。
そして迂闊にも呆然と立ち尽くしてしまったお繚も隙を突かれ、彼女も少年に強く突き飛ばされると同じく沼の渦に飲み込まれてあっという間にその姿が消えていった──。
殺ッタ。
そう確信した少年は片手を上げてすぐに下ろすと、渦はそれに反応して勢いを保ったまま元の状態へと戻っていく。
再び重々しい静寂が訪れ、少年は自らの勝利に酔い、沼の上で大きく笑い声を上げた。
その声はこの幽世に行き渡っていく────その声に、潜み居る幼子達の笑い声も呼応して響き轟かせた。
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