幽世路のお繚

悠遊

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紅い嘆き

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「はぁ…浮かれ過ぎてたのかなぁ」
 帰りの途中、朝から何も食べていなかったことに二人の胃が空腹を訴え続け、通い慣れたファミレスに足を運んだ。
 向かい合わせに座り、適当な軽食を注文し、すぐに配膳されたドリンクバーのコップに飲み物を注いでまずは一口含む。胃の訴えも僅かに和らぎ、続いてもう一口飲もうとした時に、明希は落ち込んだ様子でぼやいた。
「そんなことないよ。優ちゃん調子悪かったら最初から言ってるし、話してる時無理していた様子もなかったもん」
「うーん…そうなんだけどさぁ……」
「そんな自分を責めないで。いきなりああなったのはびっくりしたけど、でも明希ちゃんが悪いってことじゃないよ」
「うん……はぁぁ…」
 と、テーブルに突っ伏して唸り続けた。
「……ねぇ明希ちゃん。ちょっと聞いてほしいことがあるの」
「んん?」
「優ちゃんの部屋にあった写真のことなんだけど」
「幼稚園の頃に撮った、って言ってた写真?」
「うん。優ちゃんと一緒に写ってた子なんだけど……あの時、あの電話ボックスで見たの」
「え…?」
 明希が訝しんだ表情で顔を上げると、少し前のめりになって八千穂に顔を近づけた。
「それ、どういうこと?」
「……見間違いかもしれないけど、あそこで身体中痣と傷だらけで顔も凄く腫れてた子を見たの。それが、その写真の子に似てたの」
「ちょっと待って」
 明希は立ち上がって八千穂の隣に座り直し、再び顔を近づける。
「……それって、つまりあの子はもう…死んじゃってるってこと?」
「わ、わかんないよ。でも、何となくそう思って……」
 脳裏の焼き付いたあの少年。
 掴まれた腕に甦る冷えた感触と、彼女の心に重く残響している哀しい声。
 掘り起こしてしまった恐怖に苛まれ、震えが始まると反射的に掴まれた腕の箇所を片手で押さえる。
 それを感じ取った明希が、慰めるように両肩を摩り続けた。
「もういいから。八千穂、あんな事があったからまだ気が動転してるのよ………二人でしばらくここにいましょ。ね?」
 優しく諭され、八千穂は涙を堪えながら小さく何度も頷く。
「優も戻ってきたんだし、その、まだ体調は悪いと思うけど、その内また元気になるよ。一応さっきの事、間違っても優には絶対言わないで。いい?」
「……うん」
「──冷たいものばかりで余計に冷えちゃったから、あったかいもの何か持ってくるよ。ココアにする?」
「……エスプレッソ」
「え…あんっっっなニガいものでいいの?」
「今はそんな気分」
「そ、そう。分かった持ってくる」
 明希は席を離れた。離れ際に「スゴいなぁ」と彼女の呟きを聞き、特に返答もせず八千穂はテーブルに突っ伏した。
 そして、朝から抱えていた疑問を掘り返す──。

 いつ、部屋に戻っていたのか?
 
 そして、

 昨夜の出来事、電話ボックスであの少年に腕を掴まれたところまでは覚えている。ただ、視界が真っ暗になってから以降は何も思い出せない。
 誰にも聞こえないような小さな唸りを漏らしながら何とか思い出そうにも──やはり、思い出せなかった。
「はい、おま…どうしたの八千穂?」
 明希に声をかけられて我に返り、頭を上げると両手に陶器のカップを持って戻ってきた明希に心配の眼差しを向けられていた。
「大丈夫? まさか八千穂も具合悪い?」
「あ、ううん、そうじゃないよ! 昨日どうやって家まで帰ってきたのかなぁって」
「八千穂も? そうそうアタシもそれがずーっと気になってたの! ほい、どうぞ」
「ありがとう。───ほぅ」
「……たまに思うけど、八千穂ってコーヒーに砂糖とかミルクも入れないで飲めるよね。それだって結構苦いのに…なんか大人って感じる」
 と、感心した様子で彼女は見ていた。
「小さい頃からお父さんの作った麦茶飲んでたからかな。後から知ったんだけど、お父さんが作ったのって深煎りで普通のより濃いみたいなの。あとは緑茶も一緒に飲んでたから」
「そっか、そういったのってあるよね。アタシのお父さんもお母さんも甘党だから、コーヒーにしても紅茶にしても絶対砂糖とかミルクとか入れるの」
「そういえば初めて私がコーヒー飲んだ時『えっ!?』て驚いてたもんね」
「小さい頃からそうしてたから。だからビックリしちゃったの……アタシのココア少しあげるから飲んでいい?」
「いいけど…たしか駄目じゃなかった?」
 以前も彼女が『試しに』と言って飲んだ光景を思い返す──あの時はとても渋い顔をしてすぐにカップを戻された。
「でもあれは中学の時でアタシもその頃は甘党だったし、こう見えて最近はほうじ茶ラテにハマってて週一ペースで飲んでるくらいなんだから」
 と、胸を張って誇らしげに言う。
 しかし、その飲み物自体そこまで苦くなかったような。と、八千穂は胸中で思うもそれを口にしなかった。
「そ、そう? そしたら、はいどうぞ」
「ありがと」
 八千穂は自分のカップを明希の前に差し出した。
 余裕の表情を口元に浮かべてカップを手に取理、息を数回吹きかけて少し冷ます。そしてカップをあおり──
「………」
 あっという間に苦虫を噛み潰した表情となった。
「だ、大丈夫!?」
「…う、うん……平気」
 そう言ってゆっくりとカップを下ろし、その流れで項垂れた。とてもではないが平気には見えない。
「今お水持って──きゃっ!」
 立ち上がって通路に出た時だ。
 突然左脚に何かが衝突し、不意の衝撃にバランスを崩して倒れてしまった。
 彼女の短い悲鳴に明希は頭を上げ、倒れている彼女の側には半袖で短パン姿の小さな男の子が額を摩っている姿を見つける。
「ちょっとけんちゃん何やってるのっ!?」
 と、離れた場所から母親らしき若い女性が慌てて二人の元へ駆けつけて来た。すでに怒っているようで、眉間に皺が寄っている。
 辿り着くや、女性の平手が男の子の頭部を思いっきり叩いた。
 独特の乾いた音が店内に大きく弾け、視線が一斉にそこへ注がれる。
「どうして勝手に走り回るの!! お店の中は走っちゃいけないってママ言ったよねぇ!?」
「……ごめんなさぃ」
「それ何回言ったぁ?! ぜーんぜん反省してないよねっ!!」
 と、また同じように叩く。男の子はもう母親の顔を見ず、俯いたまま泣き出した。
 隣で見ていた八千穂は、その光景にとても胸が痛んだ。
「あ、あの…」
「そうやって泣けば毎回許されると思ってるのほんとムカつく! ねぇバカなの、バカなんじゃないのっ!? ほんっとふざけんなよ!!」
 さらに怒りの色を濃くし、もう周りの事など気に留めていない様子だ。そんな母親の暴言に男の子は謝りつつも大きく泣き喚いた。
 周りの視線も次第に憐れみへと変わり、ひそひそと話す者も現れる。
「だーから! 迷惑だからビービー泣いてんじゃ──!」
 また腕を振り上げた時、八千穂は男の子を庇おうと抱き、明希も見兼ねて立ち上がり母親の手首を掴んだ。
 突然掴まれたことに反発して女性は明希を睨みつけるが全く動じず静かに見据えるだけ。掴んだ手も微動だにしない。
 そして八千穂には、彼女が怒りを露わにしているとすぐに感じた。
「ちょ…!? 何すんのよ!」
「いい加減にしなよ。そうやって引っ叩いたって、余計に泣き止まないの分かんないの?」
「ハァ? アンタには関係ないでしょっ?! そっちこそ、余計な口出ししてんじゃねーよ!!」
「…大の大人がそんなギャーギャー騒いでみっともない。周り見てみな。今ここで一番迷惑掛けてるの、アンタだよ」
 静かに諭され、女性は視線だけで辺りを一瞥する───呆れ、憐憫、恐れなどなど、雰囲気でもその様子は感じ取れた。
 ようやくそれに気付かされたのか、ほんの少しだけ怒気が鎮まったと思いきや、また明希を睨み付ける。
「分かった? アンタのしている事は躾じゃない、虐待だよ!」
「ッ!! うっさいわねッ!!」
 と、怒り任せに振り払ってようやく腕が解放されると子供の腕を掴み上げて強引に八千穂から引き剥がす。そしてそのまま立ち去って行った。
 その間にも、男の子は終始泣き叫び、もはや悲鳴に等しいほどだ。
 誰も彼もが、それを見送ることしか出来なかった。
 女性が出て行った直後、明希は鼻息荒くして座り直し、床に座り込んでいた八千穂も膝を払って向かい側に座る。
「明希ちゃん、ココア」
「うん、ありがと」
 カップを受け取り、少しぬるくなった中身を一気に飲み干した。
「………ったくもう、あんな親がいるから最近親が子供を殺すニュースが出てくるのさ!」
 大声こそ出さず静かに呟いたが、彼女の怒りは治まっていない。それには八千穂も同意見だった。
「なにもあそこまでしなくてもね」
「ねー! あんなんじゃあの子が可哀相だよ! 大人と子供じゃ身体の作りも物の見方も全然違うし、ましてルールや決まりは大人達が根気よく教えていかなきゃならないのに、どうしてそう考えられないのかな!? あーゆーの『一回教えたからもういいや』的な奴なんじゃない?」
「私達くらいや大人でも時々一回じゃ分からない時はあるけど、子供ってさらにそういかないって思う」
「そうそう! 自分の物差しが子供に通用するわけないじゃん! なに考えてんだ今の親は!」
 怒り収まらぬ最中「お待たせしました」とウェイトレスより注文の品が運ばれてきた。
 揚げ立てのフライドポテト、出来立てピザトーストとハニートーストの香ばしさ──次々と並べられる食事に空腹が怒りを抑えこみ、二人の意識は自然と目の前の料理に移る。
 そして最後に、少し大きめのバタークッキーが二枚乗った小皿をそれぞれ二人の前に置く。
((あれ?))
「ご注文は以上でよろしいですか?」
「あ、あの」
「如何なさいました?」
「このクッキー頼んでませんけど…」
 と、ウェイトレスが周りを一瞬だけ周りを見流すと二人の前に身を屈め、内緒話をする仕草で片手を口脇に添えた。
「それは私個人からのサービスです。大丈夫ですよ、ちゃんと上から無償許可は得てますから」
「でも─」
「私も子供がいるから母親の気持ちは理解出来ますけど、さすがにあれはヒドかったですし、お客様が止めなければ私が行ってたところでした。最後にバシッと言ってやったとこ感激しちゃいました」
「あ、あはは…」
「ですのでお気兼ねなく──ご注文は以上でよろしいですか?」
「はい」
 二人は差し出された好意を受け取り、ウェイトレスは伝票の付いた小さなバインダーを裏返しにしてテーブルの脇に添え、姿勢を正して一礼すると去って行く。
 その後ろ姿に二人も一礼し、お互い目を合わせる。
「良い事はするもんだね」
「うん。ウェイトレスさんも言ってたけど、私も明希ちゃんが堂々と言う姿見ててカッコいいって思ってた」
「バッ、や、やめてよ恥ずかしいから。の、飲み物取ってくる!」
 早口で言うと彼女は空になったカップを持って席を離れる。それが照れ隠しだとすでに理解している八千穂は微笑んで見送り、何気なく外の景色に視線を移す。
「────え?」
 視線が合ったそれに目を疑った。

 昨晩、電話ボックスで出会ったが、歩行者道から、をじっと見つめている。

 あの時と同じく紅い──血の涙を流していた。

「ッ!!!!」
 声が出ない──身体も動かない──目が離せない──。

 ──タスケテ──…タスケテ──…。

 あの時と同じく、少年の声が建物越しにも関わらず鼓膜に、脳裏にはっきりと言葉が伝わっている。

 息が、出来ない──苦、シィ……タスケテ──!
 
 ………─ちほ……や─ちほ───

「ねぇ八千穂ったら。いったいどうした──やだ、顔が真っ青じゃない!」
 驚く明希の顔が目の前を遮った。
 そこでようやく金縛り状態から解放された八千穂は息を一瞬大きく吸いこみ、振り返って明希の胸に顔を沈める。
 カサついた唇を震わせて涙目になりながら震える指でガラス窓の向こう側を指す。
「…あ…明希、ちゃん……き…昨日の、子が……あそこに──」
「昨日の? どこに?」
「あ、あそこに!!」
 と、その方向を指差す。が──

「…? ……そんな子…どこにもいないわよ?」

「え?」
 彼女の言葉を疑いつつも、恐る恐る振り返った───────道行く人達が忙しなく、もしくは談笑しながら歩いている姿が見えるだけ。
 明希の言う通り、あの少年はいなくなっていた。
「あれ……ウソ…」
「ねぇ本当に大丈夫なの? 無理してない?」
 明希は優しい声で八千穂の頭を撫で続けた。
 そのおかげで落ち着きを徐々に取り戻し、呼吸もゆっくりと──涙が零れ落ちる。
「ちょ、何泣いてるのよ…って、まぁそんな男の子がいたら怖いよね。大丈夫よ今はまだ昼時だし、お化けが動き出す時間じゃないわよー」
 と、人差し指で涙の跡を拭う。
「明希ちゃん…昨日の事、電話ボックスに閉じ込められた後どこまで覚えてる?」
「え? あー………それなんだけど、八千穂が“何か”にビックリして地面見たまま固まってて、声かけようとしたら足首掴まれた感触して、それで下向いたら意識失っちゃったみたいで……」
「何かに? じゃあ、明希ちゃんはあの子見てなかったの?」
「さっき言ってた血の涙を流してるって男の子? うん。そんな子見てないよ」
「そんな……」
 言葉が詰まった。
 あの電話ボックスは何処にでもあるような物で、二人入って少し狭いくらいだったことを思い返す。
 明希は間違いなくすぐ隣にいた。それに背の高い彼女なら、いや仮に自分より背の低い者でも少し頭を動かして辺りを探れば分かるはずだ。
 にも関わらず、その男の子を見ていない──様々な疑問が脳裏でめぐまわり、正常に戻りつつあった思考を掻き乱した。
 再び八千穂に身を預けられた明希は困惑の色を浮かべるが、撫でる手を止めずに頭を振りかぶる。
「──とりあえず、ご飯食べよ。お腹空き過ぎて錯覚か幻覚を見ちゃったんだよきっと」
「でも─」
「あの出来事だもん、怖い思いをしたのも分かる。だけどせめて、今だけはこうしてまた普通に戻れたことを喜ぼう。折角頼んだ料理も冷めたら美味しくなくなっちゃうよ?」
「………………………………うん」
「よしよし。なんだったらアタシが食べさせてあげようか?」
「は、恥ずかしいからいいよ。ちゃんと自分で食べるもん」
 からかわれた事に唇を尖らせ、少し拗ねた口調で反抗すると八千穂は明希から離れた。
 頼んだハニートーストを両手で掴み「いただきます」とこれもまた拗ねた口振りで言うと一口頬張る。それに続いて明希もピザトーストを手に取って頬張った。
 二人の空腹が満たされていく──咀嚼をするごとに、無事の喜びも一緒に噛み締める。
 こうしてまた二人並んで食事出来た事に、八千穂と明希の表情には自然と笑みが浮かんでいた。

 しかし八千穂の心の奥では、未だにあの少年の痛ましい救いの声がこだましている。
 最初は恐怖でしかなかったが、しかし今はどうしてか、本人も気づいていないうちに心の奥底ではが生じていた。

 それが再び、お繚との縁に結び付こうとなる事も知らずに──。

 
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