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紅い嘆き
弐
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───、──し…もし……。
遠くで誰かが声を掛けてくる。女性の声だ。
大人びた雰囲気のする、知らない、女性の声。
もし──…もし──もしもーし…。
その声に、八千穂はようやくうっすらと目を開け始めた。
先に映ったのは小さな緑──無造作で不揃いの芝だ。そよ風にほんの僅かだが揺れ動いていた。左頬を撫でる涼風が程よく心地が良い。
「……困りましたねぇ。誰がこんな道端で死体を放り出したのでしょう?」
死体──その不穏な単語を耳にすると、八千穂の意識は急に覚醒し、勢いよく上半身を起こした。
見渡す限りの草原と所々に点在する枯れ木の数々。そこに敷かれている砂利道の傍らには石灯籠が等間隔で置かれており、その灯りはぼんやりと輝きを放って幻想的な雰囲気を思わせる。
それ以外、建造物など無かった。
もちろん八千穂にこんな場所など身に覚え無く、ただただ放心するだけだ。
「──ここ……どこ…?」
「気がつかれたようですね」
放心の最中より背後から投げ掛けられた声に八千穂は身を強張らせた。尻もちをついたまま、恐る恐る振り返る。
「っ?!」
そして、声の主の容姿を見ると、自分でも分かってしまう程血の気が引いていく感覚を味わった。
「ふむ。貴女……どうやら“死者”ではありませんね。こんな所で何をしているのです?」
長く艶やかな紺色の髪に、濃紫生地に真っ赤な曼珠沙華の柄があしらわれた着物と藍色の帯、腰には黒鞘の刀。
着物から覗かせている肌は雪の如く純白で、同性すら思わず見惚れてしまうくらいの美貌だ。
──額にあるそれを見なければ。
「? もう一度お尋ねしますよ。こんな所で何をしているのですか?」
その女性の額には、肌と同じ色をした二本の角が生えていた。
その容姿は、まさしく《鬼》。
八千穂はそんな御伽噺でしか知らない存在を現実で目の当たりにし、得体の知れない恐怖心で口元が震え、目尻に涙が溜まっていく。
急ぎ立ち上がろうにも腰が抜けてしまったらしい。警鐘を激しく鳴らす本能に身体が無意識に振り返り、四つん這いになってでも逃げようと反応する。
「はわ…あわわ……! やだ──」
と、八千穂の眼前に錆色の物体が土埃を立てて突き刺さった。
それは刃こぼれの酷い刀身。八千穂の目からは涙が止めどなく溢れて頰を伝う。
ぎこちなく、再びゆっくりと振り返ると───先程の鬼女が、八千穂の真横で佇み、切れ長い目つきに睨みを利かせて彼女を見下ろしていた。
「どうして逃げるのです? 何かやましい事でもおありで?」
「ヒ……ッ!!!?」
深紅の瞳が妖しい輝きを放っている様子が見て取れた。
八千穂は嗚咽を漏らしながらただ首を横に振るばかりだ。
「別に貴女を刀の錆にしようとは思ってません。ただ…何も言わず逃げ出したものですから、つい条件反射で刀を抜いてしまいました。いやぁよかったよかった。危うく自分からいらぬ死者を増やすとこでした、私ってばうっかりさん」
そう淡々と告げ、表情は何一つ変わっていない。言葉はこそ茶目っ気はあったが、八千穂には微塵も感じられなかった。
「…で? 貴女は何故こんな所にいるのでしょう? 迷子?」
「──っ……、………ッ、ァ…ぁ……あた、し………ぁ…」
消えいく正気を奮わせて何とか言葉を発そうにも、恐怖で口が回らない。未だに鋭い眼光で見据えてくる相手に全身の震えは一向に治らず、呼吸もだんだん苦しくなっていく。
「はぁぁぁ…」
と、鬼女は深き溜息を吐いて刀を地面から引き抜いて鞘に収め、八千穂から二、三歩離れると背を向けた。
「?」
「私が恐いのでしょう? でしたらこうしていますから。ほら、早く話してください」
「ひゃ、ひゃいぃ!! え、えと…とも…友達と、はぐれて──」
「ナンデスッテ?」
何か気に障ってしまったのか、振り向き、その夜叉の如き形相に八千穂は再び情けない悲鳴を上げて後退った。
彼女が再び怯えてしまったことに鬼女はハッと我に返り、咳払いをして再度顔を正面に向き戻す。
「ごめんなさい。続きをどうぞ」
「っ、と……ともも、友達と──明希ちゃんと、はぐれて…ぁ、ええとそうじゃなくて! ………あ、あたし、友達を捜しにきたんです!!」
「その明希ちゃんという方を、ですか?」
「いえ─あぁいやそれもあるんですけれど……」
「? では、さっき言った人とはまた別に捜している子がいる。ということですか?」
「はい…名前は──」
「と、その前に一度深呼吸して気持ちを落ち着かせてからにしましょう。その方が気持ちが楽ですよ」
鬼女の意外な気配りに八千穂は黙って頷いた。
目を瞑り、言われた通り深呼吸を繰り返す──────苦しかった息の詰まり、心臓の早鐘も混乱も徐々に落ち着いていく。
「どうですか? もう大丈夫でしたら続きをお願いします」
「───……その子の名前は“矢上優ちゃん”という女の子で、背は私と同じくらい……えと、うちの学校の夕綺丘高校の制服を着ています。あと髪をポニーテールにまとめていてそれから……えぇと」
「いいですよ。焦らず、それくらいゆっくりでも構いません。ちなみにですが、その…『ぽにぃてぇる』とは何ですか?」
「はい?」
鬼女からの予想だにしなかった質問に八千穂は目を丸くした。
鬼女が身体ごと振り向き、整った眉を八の字に歪めて小首を傾げる。
「さっき貴女が言った『ぽにぃてぇる』という言葉です。私その言葉を存じないものでして、教えていただけますか? あとそれと『ゆぅきおかこうこうのせいふく』も初めて聞きましたので、ご面倒でなければそれも」
「は、はい…」
これもまた意外と思いながら、八千穂は身振り手振りでそれを伝えていく────その度に鬼女は両指を重ねて姿勢を前のめりに、そして教わる内容に眼を輝かせて何度も頷いた。
一頻り終えると、柔らかい笑みを浮かべて鬼女は「ありがとうございます」とお礼を告げる。
その笑顔に思わず心が弾んだ。
「なるほど。貴女方の世界はそのようなモノがあるのですね。またひとつ学びました」
「ど、どういたしまして」
「こほん……さて、捜し人は矢上優ちゃんという、ゆうきおかこうこうのせいふくを着た……えーっと、ぽにーてーるの女の子、ですよね?」
「はい。それから、腕に茶色ベルトの小さな腕時計と─」
「ぇ、うでどけ…? ……あの時計が小さい??」
再び鬼女の目が点になった。
「それから…学校の鞄に猫の顔のマスコットを下げて─」
「鞄に猫の顔ぉぉっっ?!?!」
「ひゃ、ひゃいぃッッ!!」
突然鬼女は血相変え、大声を上げて驚いた。
その唐突さに八千穂は身体をビクッと震わせて後退る。
何かおかしい事でも言ったのだろうか──思い返してもそれらしい内容は無いはずだが、鬼女には得難い事だったらしく、今度は鬼気迫った様子で八千穂に詰め寄り彼女の両肩を掴んで顔を近付けた。
「ああ貴女…! そのお友達は本当に大丈夫なんですか!? 鞄に猫の顔をぶら下げてるなんて鬼の私でもやりませんよ! 一応確認しますけど捜してるのは人間の方ですよね、鬼じゃありませんよね!? 間違っていませんよねっ!!?」
「はははははハイいぃぃッッ!!!」
「…………………そ、そう…ですよ、ね…」
半信半疑といった様子ではあったが、鬼女は大人しく引き下がった。
再度訪れた心臓の早鐘がまだ耳に響いている。
《心臓に悪い》とはまさにこの事だ。
「……ごめんなさい。ちょっと突飛でも無い想像をしてしまったもので、つい、はしたない事をしてしまいました。そういえば、まだ名乗っておりませんでしたね。私は《お繚》。この幽世路の番人、もとい番鬼です」
「幽世、路…?」
その聞き慣れない単語に八千穂は首を傾げて聞き返した。
「“この世とあの世を結んでいる通り路”だと思ってください。ここも色んな呼ばれ方をしていますから…それに元々曖昧な存在ですから、そんなに深く考えなくていいのですよ。世の中にはこんなモノも在るくらいに留めてください。さて、貴女のお名前は?」
「緑原八千穂です。八千穂と呼んでください」
「では、八千穂さん。矢上優ちゃんの特徴はあと何かありますか?」
「あ、はい。目元に、右目の瞼下に小さなほくろがあります」
お繚は人差し指と親指を顎に当て、何かを思い出している素振りをしながら「ふむ…」と呟く。
「その子を捜していたけれど……その途中でもう一人お友達の“明希ちゃん”ともはぐれた」
「はい…」
「ちなみに明希ちゃんの特徴は何でしょうか?」
「私より背が高くて、ボーイッシュな感じの─」
「ぼぉいっしゅ…? ……??」
「えとぉ……簡単に言って、見た目が男の子っぽいということです」
頭にはてなを浮かべてまた小首を傾げるお繚に八千穂は答えた。
そして「おぉ」と呟いて掌を重ねる。
「あとは半袖シャツとショートジーンズに、とってもスラッとした体格なんです。女子の私から見ても凛々しくてカッコイイんですよ! 部活に通ってなくても定期的にスポーツジムに通ってて。元々運動神経も良いから、運動部の皆によく声を掛けられる事もあるんですよ! 明希ちゃんはいつも『その気がない』って断るんですけど、少し勿体無いなぁって」
「ふふふ。所々何を言ってるか分かりませんでしたが、その明希ちゃんという子とは仲睦まじいのですね」
思わず饒舌になっていた事に、はたと気付かされた八千穂は照れ隠しに俯いてしまった。
そんな彼女の仕草にお繚は袖で口元を隠しながら微笑んだ。
「ありがとうございます。それではまず矢上優さんですが、一瞬だったうえに背姿だけでしたけれどそれらしい方を見かけました。先程教えていただいた髪型の特徴が一致していますし、おそらく間違いないかと」
「ど、どこでですか!?」
「この先ずっと向こうを歩いて行きましたよ」
と、お繚は砂利道の一方を指し示した。八千穂もつられてその方向を向く。
やはり目印になりそうなのは石灯籠だけだったが、それでも友人の向かった方向が分かっただけでもありがたい事だった。八千穂の表情に晴れやかな様子が自然と笑みが浮かび、今にも駆け出したい衝動に駆られる。
「ありがとうございます!!」
「そして明希ちゃんですが、その方はこの先へ連れて行かれました」
「明希ちゃんも!? よか──って、え…? 連れ、て??」
二人が同じ路を通ったという手掛かりに喜んだのも束の間、明希に対する返答の内容に八千穂の表情が凍りついた。
「ええ。小鬼に連れて行かれました」
──小鬼に連れて行かれた──。
信じ難い内容に八千穂は身体中から血の気が引いていく感覚を味わい、頭の中が真っ白に覆われる。
「一目見てもぐったりしていましたからてっきり死者かと。小鬼からの申告も無しで特に引き止めませんでしたが…なるほど、どうりでご機嫌だったわけです。何という体たらくを──ッ!!」
八千穂が話しの途中で突然駆け出した。
「イタッ!」
が、その直後に八千穂は肩を掴まれ、引き止められた反動に彼女の指が強く食い込む。鋭い痛みが肩から腕へ、そして脳神経へと駆け疾る。
「お待ちなさい。闇雲に行ったところでまた迷子か小鬼の餌になるが末路です」
「っっ!! 離して──!!」
「ですので、ここで待っていてください。私が助けに向かいます」
「へ……?」
思いもしなかった発言に八千穂はきょとんと目を丸くした。
お繚をじっと見つめるも彼女が冗談を言った様子は無い。真摯に真っ直ぐに見つめ返している。
「生者が此処へ迷って来たうえに、鬼に喰われ果てるのは無念極まりありません…ましてやこの件は私の不手際によるもの。番鬼として情けないことこの上ない。この不始末は私がケジメをつけましょう」
「は、はぁ…」
言っている事はよく理解出来なかったが、どうやら彼女にとっては大事なことらしい。
すぐに走り出す──かと思いきや、お繚は突然八千穂を両手で抱え上げると道脇の芝生に優しく寝転がせた。
いきなりお姫様だっこをされたうえに寝転がされて八千穂は慌てふためくが、お繚は人差し指を彼女の唇に軽く当てて「しぃー」と、母親が子供を大人しくさせるようにゆっくりなぞる。
不思議と、気持ちが徐々に落ち着いていく──暖かい心地に意識が微睡む。
八千穂はうとうとして両目を閉じ始めると、お繚の片手が彼女の目元を覆った。
「ここで大人していてください、ね。目が覚めた頃には貴女とお友達は元の世界に還っていますよ………全ては夢幻」
──今夜の出来事は、お忘れなさい……。
耳の奥で優しい声音が残響し、八千穂は抗うこと無く、安らかに眠り落ちた。
遠くで誰かが声を掛けてくる。女性の声だ。
大人びた雰囲気のする、知らない、女性の声。
もし──…もし──もしもーし…。
その声に、八千穂はようやくうっすらと目を開け始めた。
先に映ったのは小さな緑──無造作で不揃いの芝だ。そよ風にほんの僅かだが揺れ動いていた。左頬を撫でる涼風が程よく心地が良い。
「……困りましたねぇ。誰がこんな道端で死体を放り出したのでしょう?」
死体──その不穏な単語を耳にすると、八千穂の意識は急に覚醒し、勢いよく上半身を起こした。
見渡す限りの草原と所々に点在する枯れ木の数々。そこに敷かれている砂利道の傍らには石灯籠が等間隔で置かれており、その灯りはぼんやりと輝きを放って幻想的な雰囲気を思わせる。
それ以外、建造物など無かった。
もちろん八千穂にこんな場所など身に覚え無く、ただただ放心するだけだ。
「──ここ……どこ…?」
「気がつかれたようですね」
放心の最中より背後から投げ掛けられた声に八千穂は身を強張らせた。尻もちをついたまま、恐る恐る振り返る。
「っ?!」
そして、声の主の容姿を見ると、自分でも分かってしまう程血の気が引いていく感覚を味わった。
「ふむ。貴女……どうやら“死者”ではありませんね。こんな所で何をしているのです?」
長く艶やかな紺色の髪に、濃紫生地に真っ赤な曼珠沙華の柄があしらわれた着物と藍色の帯、腰には黒鞘の刀。
着物から覗かせている肌は雪の如く純白で、同性すら思わず見惚れてしまうくらいの美貌だ。
──額にあるそれを見なければ。
「? もう一度お尋ねしますよ。こんな所で何をしているのですか?」
その女性の額には、肌と同じ色をした二本の角が生えていた。
その容姿は、まさしく《鬼》。
八千穂はそんな御伽噺でしか知らない存在を現実で目の当たりにし、得体の知れない恐怖心で口元が震え、目尻に涙が溜まっていく。
急ぎ立ち上がろうにも腰が抜けてしまったらしい。警鐘を激しく鳴らす本能に身体が無意識に振り返り、四つん這いになってでも逃げようと反応する。
「はわ…あわわ……! やだ──」
と、八千穂の眼前に錆色の物体が土埃を立てて突き刺さった。
それは刃こぼれの酷い刀身。八千穂の目からは涙が止めどなく溢れて頰を伝う。
ぎこちなく、再びゆっくりと振り返ると───先程の鬼女が、八千穂の真横で佇み、切れ長い目つきに睨みを利かせて彼女を見下ろしていた。
「どうして逃げるのです? 何かやましい事でもおありで?」
「ヒ……ッ!!!?」
深紅の瞳が妖しい輝きを放っている様子が見て取れた。
八千穂は嗚咽を漏らしながらただ首を横に振るばかりだ。
「別に貴女を刀の錆にしようとは思ってません。ただ…何も言わず逃げ出したものですから、つい条件反射で刀を抜いてしまいました。いやぁよかったよかった。危うく自分からいらぬ死者を増やすとこでした、私ってばうっかりさん」
そう淡々と告げ、表情は何一つ変わっていない。言葉はこそ茶目っ気はあったが、八千穂には微塵も感じられなかった。
「…で? 貴女は何故こんな所にいるのでしょう? 迷子?」
「──っ……、………ッ、ァ…ぁ……あた、し………ぁ…」
消えいく正気を奮わせて何とか言葉を発そうにも、恐怖で口が回らない。未だに鋭い眼光で見据えてくる相手に全身の震えは一向に治らず、呼吸もだんだん苦しくなっていく。
「はぁぁぁ…」
と、鬼女は深き溜息を吐いて刀を地面から引き抜いて鞘に収め、八千穂から二、三歩離れると背を向けた。
「?」
「私が恐いのでしょう? でしたらこうしていますから。ほら、早く話してください」
「ひゃ、ひゃいぃ!! え、えと…とも…友達と、はぐれて──」
「ナンデスッテ?」
何か気に障ってしまったのか、振り向き、その夜叉の如き形相に八千穂は再び情けない悲鳴を上げて後退った。
彼女が再び怯えてしまったことに鬼女はハッと我に返り、咳払いをして再度顔を正面に向き戻す。
「ごめんなさい。続きをどうぞ」
「っ、と……ともも、友達と──明希ちゃんと、はぐれて…ぁ、ええとそうじゃなくて! ………あ、あたし、友達を捜しにきたんです!!」
「その明希ちゃんという方を、ですか?」
「いえ─あぁいやそれもあるんですけれど……」
「? では、さっき言った人とはまた別に捜している子がいる。ということですか?」
「はい…名前は──」
「と、その前に一度深呼吸して気持ちを落ち着かせてからにしましょう。その方が気持ちが楽ですよ」
鬼女の意外な気配りに八千穂は黙って頷いた。
目を瞑り、言われた通り深呼吸を繰り返す──────苦しかった息の詰まり、心臓の早鐘も混乱も徐々に落ち着いていく。
「どうですか? もう大丈夫でしたら続きをお願いします」
「───……その子の名前は“矢上優ちゃん”という女の子で、背は私と同じくらい……えと、うちの学校の夕綺丘高校の制服を着ています。あと髪をポニーテールにまとめていてそれから……えぇと」
「いいですよ。焦らず、それくらいゆっくりでも構いません。ちなみにですが、その…『ぽにぃてぇる』とは何ですか?」
「はい?」
鬼女からの予想だにしなかった質問に八千穂は目を丸くした。
鬼女が身体ごと振り向き、整った眉を八の字に歪めて小首を傾げる。
「さっき貴女が言った『ぽにぃてぇる』という言葉です。私その言葉を存じないものでして、教えていただけますか? あとそれと『ゆぅきおかこうこうのせいふく』も初めて聞きましたので、ご面倒でなければそれも」
「は、はい…」
これもまた意外と思いながら、八千穂は身振り手振りでそれを伝えていく────その度に鬼女は両指を重ねて姿勢を前のめりに、そして教わる内容に眼を輝かせて何度も頷いた。
一頻り終えると、柔らかい笑みを浮かべて鬼女は「ありがとうございます」とお礼を告げる。
その笑顔に思わず心が弾んだ。
「なるほど。貴女方の世界はそのようなモノがあるのですね。またひとつ学びました」
「ど、どういたしまして」
「こほん……さて、捜し人は矢上優ちゃんという、ゆうきおかこうこうのせいふくを着た……えーっと、ぽにーてーるの女の子、ですよね?」
「はい。それから、腕に茶色ベルトの小さな腕時計と─」
「ぇ、うでどけ…? ……あの時計が小さい??」
再び鬼女の目が点になった。
「それから…学校の鞄に猫の顔のマスコットを下げて─」
「鞄に猫の顔ぉぉっっ?!?!」
「ひゃ、ひゃいぃッッ!!」
突然鬼女は血相変え、大声を上げて驚いた。
その唐突さに八千穂は身体をビクッと震わせて後退る。
何かおかしい事でも言ったのだろうか──思い返してもそれらしい内容は無いはずだが、鬼女には得難い事だったらしく、今度は鬼気迫った様子で八千穂に詰め寄り彼女の両肩を掴んで顔を近付けた。
「ああ貴女…! そのお友達は本当に大丈夫なんですか!? 鞄に猫の顔をぶら下げてるなんて鬼の私でもやりませんよ! 一応確認しますけど捜してるのは人間の方ですよね、鬼じゃありませんよね!? 間違っていませんよねっ!!?」
「はははははハイいぃぃッッ!!!」
「…………………そ、そう…ですよ、ね…」
半信半疑といった様子ではあったが、鬼女は大人しく引き下がった。
再度訪れた心臓の早鐘がまだ耳に響いている。
《心臓に悪い》とはまさにこの事だ。
「……ごめんなさい。ちょっと突飛でも無い想像をしてしまったもので、つい、はしたない事をしてしまいました。そういえば、まだ名乗っておりませんでしたね。私は《お繚》。この幽世路の番人、もとい番鬼です」
「幽世、路…?」
その聞き慣れない単語に八千穂は首を傾げて聞き返した。
「“この世とあの世を結んでいる通り路”だと思ってください。ここも色んな呼ばれ方をしていますから…それに元々曖昧な存在ですから、そんなに深く考えなくていいのですよ。世の中にはこんなモノも在るくらいに留めてください。さて、貴女のお名前は?」
「緑原八千穂です。八千穂と呼んでください」
「では、八千穂さん。矢上優ちゃんの特徴はあと何かありますか?」
「あ、はい。目元に、右目の瞼下に小さなほくろがあります」
お繚は人差し指と親指を顎に当て、何かを思い出している素振りをしながら「ふむ…」と呟く。
「その子を捜していたけれど……その途中でもう一人お友達の“明希ちゃん”ともはぐれた」
「はい…」
「ちなみに明希ちゃんの特徴は何でしょうか?」
「私より背が高くて、ボーイッシュな感じの─」
「ぼぉいっしゅ…? ……??」
「えとぉ……簡単に言って、見た目が男の子っぽいということです」
頭にはてなを浮かべてまた小首を傾げるお繚に八千穂は答えた。
そして「おぉ」と呟いて掌を重ねる。
「あとは半袖シャツとショートジーンズに、とってもスラッとした体格なんです。女子の私から見ても凛々しくてカッコイイんですよ! 部活に通ってなくても定期的にスポーツジムに通ってて。元々運動神経も良いから、運動部の皆によく声を掛けられる事もあるんですよ! 明希ちゃんはいつも『その気がない』って断るんですけど、少し勿体無いなぁって」
「ふふふ。所々何を言ってるか分かりませんでしたが、その明希ちゃんという子とは仲睦まじいのですね」
思わず饒舌になっていた事に、はたと気付かされた八千穂は照れ隠しに俯いてしまった。
そんな彼女の仕草にお繚は袖で口元を隠しながら微笑んだ。
「ありがとうございます。それではまず矢上優さんですが、一瞬だったうえに背姿だけでしたけれどそれらしい方を見かけました。先程教えていただいた髪型の特徴が一致していますし、おそらく間違いないかと」
「ど、どこでですか!?」
「この先ずっと向こうを歩いて行きましたよ」
と、お繚は砂利道の一方を指し示した。八千穂もつられてその方向を向く。
やはり目印になりそうなのは石灯籠だけだったが、それでも友人の向かった方向が分かっただけでもありがたい事だった。八千穂の表情に晴れやかな様子が自然と笑みが浮かび、今にも駆け出したい衝動に駆られる。
「ありがとうございます!!」
「そして明希ちゃんですが、その方はこの先へ連れて行かれました」
「明希ちゃんも!? よか──って、え…? 連れ、て??」
二人が同じ路を通ったという手掛かりに喜んだのも束の間、明希に対する返答の内容に八千穂の表情が凍りついた。
「ええ。小鬼に連れて行かれました」
──小鬼に連れて行かれた──。
信じ難い内容に八千穂は身体中から血の気が引いていく感覚を味わい、頭の中が真っ白に覆われる。
「一目見てもぐったりしていましたからてっきり死者かと。小鬼からの申告も無しで特に引き止めませんでしたが…なるほど、どうりでご機嫌だったわけです。何という体たらくを──ッ!!」
八千穂が話しの途中で突然駆け出した。
「イタッ!」
が、その直後に八千穂は肩を掴まれ、引き止められた反動に彼女の指が強く食い込む。鋭い痛みが肩から腕へ、そして脳神経へと駆け疾る。
「お待ちなさい。闇雲に行ったところでまた迷子か小鬼の餌になるが末路です」
「っっ!! 離して──!!」
「ですので、ここで待っていてください。私が助けに向かいます」
「へ……?」
思いもしなかった発言に八千穂はきょとんと目を丸くした。
お繚をじっと見つめるも彼女が冗談を言った様子は無い。真摯に真っ直ぐに見つめ返している。
「生者が此処へ迷って来たうえに、鬼に喰われ果てるのは無念極まりありません…ましてやこの件は私の不手際によるもの。番鬼として情けないことこの上ない。この不始末は私がケジメをつけましょう」
「は、はぁ…」
言っている事はよく理解出来なかったが、どうやら彼女にとっては大事なことらしい。
すぐに走り出す──かと思いきや、お繚は突然八千穂を両手で抱え上げると道脇の芝生に優しく寝転がせた。
いきなりお姫様だっこをされたうえに寝転がされて八千穂は慌てふためくが、お繚は人差し指を彼女の唇に軽く当てて「しぃー」と、母親が子供を大人しくさせるようにゆっくりなぞる。
不思議と、気持ちが徐々に落ち着いていく──暖かい心地に意識が微睡む。
八千穂はうとうとして両目を閉じ始めると、お繚の片手が彼女の目元を覆った。
「ここで大人していてください、ね。目が覚めた頃には貴女とお友達は元の世界に還っていますよ………全ては夢幻」
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