離婚届

ニャン太郎

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離婚届

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な…に…これ

米粒のダイヤモンドが朝日に照らされて虹光こうこうを放つ。
A3のペラ紙は綺麗に畳まれ、左半分だけが手書きの文字で埋められている。

どういうこと…
何が起こってる?
これは現実なの?
もしかしてこれは夢?
私がおかしいの?
ねぇ、誰か教えて…

私の問いに答えてくれる者はおらず、外の電線では鳥がチュンチュン鳴いているだけ。とりあえずキッチンへ向かった。冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、グラスに注いだ。それを一気に飲み干して、テーブルにつく。

一旦、落ち着け…私

そして、今度はそれらを凝視する。

自分にはめられた指輪と同じ形の指輪。
捺印なついん済みの離婚届。
そばには、キャッシュカードが一枚置いてあり、付箋で暗証番号と預金金額が記されていた。金額は1000万。
そして、白いポストカードに一言。

『ごめん』



…現実らしい、これは。

結婚3年目だった。お互い共働きで、子どものこともそろそろ考えようとしていた。

なのに、どうして…

私のことが嫌いになったってこと?
でも、嫌いな素振り見せなかったじゃん。
昨日は久しぶりに一緒の夜ご飯、嬉しいって言ってたよね。
寝る前のおやすみのキスもしてくれたよね。
明日は私の誕生日だから、早く帰って来るねって言ったよね。

まさか全部、嘘…?
嘘だったの?ずっと隠してたの?

気付けば、起きてから2時間は経っていた。
もう9時だ。考えてもしょうがなかった。
会社には行ってると思うが、どうしても確信が持てなかった。

スマホから夫の会社に電話した。

「もしもし、第一経理部の相良さがらの妻ですが、夫は出勤しているでしょうか」

「相良さん…なら、1ヶ月前に退職されてますよ」

え……

「どうして…」

「やりたいことがあるとかなんとか…転職じゃないですか?なんで、奥様に隠してたんでしょうね」

「はぁ…」

「まぁ、気を落とさずに。ご主人からいづれお話があるでしょう」

「…そうですね。分かり…ました。ありがとうございました。失礼します」

そして、電話を切った。

仕事を辞めた?しかも1ヶ月前に?
なんで、なんでそんなこと…
ケンタ…どこに行ったの…
この1ヶ月どこに何しに行ってたの?


夫はその日以来、家に戻ってくることはなかった。


夫の両親は夫が10歳の時に他界し、もうすぐ20回忌を迎えようとしていた。5歳上の兄はいるが、疎遠で連絡先も分からない。夫の友人にも、ほとんど会ったことがないため、連絡しようがない。夫がいなくなって1週間、警察署で捜索願いを出そうとしたら、捜索不受理届けが出されていることが分かった。よっぽど自分の居場所を知られたくないということなのだろう。

ケンタのこと、分かっていたつもりなんだけど…
そんなに私のこと、嫌い??
だから逃げたの?
ねぇ教えてよ、ケンタ…

夫が何を思い、こんな行動を起こしたのか、最後まで分からないまま1年が過ぎた。


私は今、夫と住んでいたマンションを引き払い、会社近くのアパートを借りている。マンションの家賃は元々2人で共同で払っており、単純に私1人の収入では払いきれないからだ。


夫の意思表示はよく分かった。夫にしか分からない苦悩があったのかもしれない。夫の意思を汲み取り、離婚届にサインも捺印もした。後は、私が離婚届を出しに行けば良いだけだ。夫の突然の失踪には最初こそ狼狽うろたえたが、1年も経てば気持ちも落ち着いてくるものだ。

あれ…私、こんなに淡白だった?
どうしてこんなに落ち着いていられるんだろ。

思えば、夫との思い出が全く思い出せない。
最後にデートしたのはいつだっけ。
最後に笑い合ったのはいつだっけ。
最後に抱き合ったのはいつだっけ。
お互いに仕事が忙しくて、夜ごはんの会話も週に1回あるかないかくらいだった。
私は、最近の夫のことはほとんど何も知らなかったのだ。いや、その前からずっと知らなかったのかもしれない。
知らず知らずのうちに、夫婦関係は破綻していたのかもしれない。

夫が最後まで何を思い、こんな用意周到な行動に出たのか分からない。
でも、もう受け入れるしかなかった。
だから…

今日、離婚届を出しに行こう

私は早速、役所に向かうため、アパートの玄関を出た。でも、その時、近所の奥さんたちの会話を偶然耳にしてしまったのだ。

「ねぇ、知ってる?森沢の社員の」

「あぁ、あれね!あの噂でしょ?」

森沢とは、夫が勤めていた物流企業だった。
噂…?

「そうそう。相手は、取り引き先の水島グループのお嬢様じゃなかった?」

水島グループとは、高品質の包装紙や情報紙などを生産する日本でも有名な製紙企業の1つだ。そんな企業の令嬢と水島の社員に何の関係があるの?

「お嬢様、婚約者がいたとかいないとか。そして、突然の留学。森沢の方もその日に退職したらしいじゃない」

「確かそれ、ちょうど1年前じゃない?」

1年前…ケンタは突然失踪した。
まさかこれって……

「駆け落ち?よね」

「森沢の方は奥さんいたらしいよ。気の毒よね。突然、旦那がいなくなるんだもん」

「今、どうしてんのかな」

「それがね、この前うちの旦那が出張先で見かけたんだって。遠目だったみたいだけど」

「水島んとこのお嬢様は相当な美少女らしいよ。今、確か19じゃなかったっけ」

「旦那は水島と取り引きしてた時、1回会ったって。お淑やかで恥ずかしがり屋だったみたい」

「それで、どんな様子だったって?」

「2人仲良くベビーカー押して、公園を散歩してたって。お嬢様の方はお腹膨らんでたって。ほんと、おしどり夫婦って感じみたい」

…何よ…それ…
まさかの駆け落ちって…
そのお嬢様とそんなに一緒になりたかったの?だから、あの日、突然出て行ったの?
しかも、もう子どもまでいるなんて…
私との子どもは嫌だったの?
なんで、そのお嬢様なの?
ねぇ答えてよ教えてよ、ケンタ…

とても役所に行く気分ではなくなった。
部屋に戻り、離婚届をバッグから取り出す。

「あは、あはははは、あははははははははははははははははははははははははははは」

涙も笑いも止まらない。
なんの涙?なんの笑い?
怒り?悲しみ?虚しさ?諦め?呆れ?
もう、そんなことどうでもいい。

そして、ふと思う。

離婚届、何で私が出さなきゃいけないの?

夫の真実を知った今、
なんか吹っ切れてしまった。
普通はここで発狂するのかもしれないが。
冷静に考えると、私が出すのっておかしくない?
せめて、自分で離婚届出すのが筋でしょ。
というか、駆け落ちしてる時点で筋もクソもないか。夫もお嬢様も責め立てて、慰謝料とかも取る気力はない。離婚も大いに賛成だ。

……しかし、私は出さない。

この後すぐ、手元にあった2つの結婚指輪は質屋に売った。1000万はNPOに寄付した。そして、0になったキャッシュカードとポストカードはハサミでビリビリに捨てた。

だが、離婚届だけは持ち続けておく……
離婚届を出さないことの意味が分からないほど、夫もお嬢様も馬鹿ではないだろう。

それが元夫への最後の意思表示であった…


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