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いぬぐるい編

ぺろりと舐めれば

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「皆夢中になるんですよ。あの子にね」
「はあ?」

 そんなの信じられないわという顔で、レイチェルも、ハモンド侯爵と並んで歩くアオイの背中を見た。

「現に、貴女だって夢中じゃないですか」
「わたくしがッ……!? そんな、有り得ないわ……!」

 怜の、その顔が、そうでしょうかと言っていた。
 唇を噛むレイチェル。歪むレイチェルの顔に、怜はどこか誇らしげな顔で、「それより、王女様はご存知なのですか?」と話題を変えた。

「お忍びで来ているという、ラモーナの姫のこと」

 ああ!と、レイチェルの目が輝く。

「いいえ、何処に居るかも……。ラモーナの公妃様はお母様と話していらっしゃるところをまだ遠くから拝見しただけですけれど、それはそれは美しい方でしたわ! きっと、姫様もお綺麗なんだわ!」
「へぇ」

 さすが〈蒼玉の瞳〉を率いているだけあって美しいものには目が無いようだ。見た目の美ばかりに執着して心を失っている、まるで昔の自分を見ているようで、怜はちょっとだけ、切なくなった。

「ああ、ご挨拶だけでもさせて頂けないかしら!」
「ええ。本当に」
「そうだわ! もしかしたら、このパーティにも来ているのではないかしら!」
「そうかもしれませんね。お忍びで、ね」
「そうよ! お忍びで、きっと身分を偽って──!」

 輝いていたレイチェルの目は、ふと、時間が止まった。

「お忍びで……、身分を、偽って…………」

 どうされましたと問う怜の声は届かない。

「オーランド、お忍び……、精霊に愛されて……。いや、まさか、」

 ブツブツと呟く王女に、意地悪さが顔に出て、思わず口角を上げる。それでは飽き足らず、王女にじわじわと近寄って、さて仕上げをしようかと存分に意地悪く笑うのだ。

「おや、王女様?」
「えっ、あ、怜様ッ!? 何をッ……!」

 後ろから、耳元で、怜は囁く。

「私がここに居るというのに、違う事をお考えですか?」

 囁く耳とは反対の首筋を、中指でツツ──となぞればレイチェルは「あっ、はぁっ……!」と、熱い吐息が漏れる。

「ねぇ、王女様」
「っん、なに、かしら」
「私も大事な話があるんです」
「だいじな、っはなし……?」
「ええ。ですから、人気の無い、もっと奥に行きましょう? もっとずっと、奥に」
「はん、んっ、い、いいわよ……っ?」

 そうも腰に手を添えられると震えてしまう。自身の骨を支えるだけで精一杯だ。

「さぁ。ほら急いで。私も長くは我慢出来ないですから」

 更に翠玉の瞳で見つめられると、じわりと奥から何かが溢れてくる。レイチェルは、これから何をされるのかしらという期待と緊張が入り混じっていた。

 美しい版画のような松達。
 その影に隠れるのは、たったの二人。
 レイチェルの熱い吐息。絞り出すように、言葉を発した。

「っ、それで、大事なお話とは、何ですの?」

 瞳を覗くだけで溢れてくる。
 レイチェルは舌と唇を濡らす。

「ええ。レイチェル様」
「はい……」
「私の全て、受け入れてくれますか? その心の奥まで、全て」
「それは、どういう、意味かしら……?」
「そのままの意味ですよ。後ろを向いて、王女様」

 耳に息を吹きかけられ、今にも崩れ落ちそうなレイチェル。言われた通りに後ろを向けば、ぺろり、と耳を舐められた。「んんんっ……!」と背中を仰け反らせ、ついに腰から崩れ落ちた。きゅんきゅんと疼いてしまう。

「怜様ッ、駄目よ! まだ、私達……!」

 婚約もしていないのに、仮にも王女なのに、こんなこと!と、そう言おうと顔を振り向かせた。
 其処には、恐ろしい獣が居た──。

「えッ……」
「嗚呼、王女様。貴女はとても良い匂いだ」

 不敵に笑う怜は、長いマズルに皺を寄せている。
 鋭い、犬歯が、闇夜に光る。

「あ、あ、…………いや、」

 レイチェルは腰を抜かしたまま動けない。

「私の全て、受け入れてくれるのでしょう?」
「や……た、たすけ……、」

 瞳に怯える王女レイチェル。
 カタカタと身体を震わし、今度は目を濡らした。
 もう、舌と唇は、すっかり乾いてしまっていた。
 怜は、すうっとレイチェルの匂いを嗅いで、また、ぺろり、と耳を舐める。

「はぁ……、今すぐにでも食べてしまいたいぐらいだよ」
「いや……! こ、来ないで! イヤっ……!」
「嫌?」
「近寄らないでっ! お願いよぉっ……!」

 その言葉に、怜は止まった。

「そうですか。それは残念です」

 思ってもない事を口にして。
 身を、引いた。

「きっと、王女様は美味しかったでしょうに」

 レイチェルは恐怖で立つことが出来ない。
 逞しいその“腕”で、グイとレイチェルの腰を引き寄せ、ニヤリとまた悪い顔をした。そして美しい男の姿でぺろりとレイチェルの耳を舐める。「あっ、」と反射的に鳴いた。

「本当に、残念です」

 もうすぐ七時半ですよと、そう言い残して、怜は去った。
 レイチェルは暫くその場に立ち尽くしたままだった──。
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