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自分には決して良の考えていることや感じていることをそのまま理解することはできないという自信がある。良の深く黒い瞳は、裕司に見えている世界とは違うものを映していたし、裕司の半分も生きていないくせに彼の心の中にはたくさんの扉があって、裕司にはその全体のかたちを見通すことができなかった。
それでも、彼が彼の努力で得たものを次の一歩に繋げることを、楽しみにしていたに違いないことには確信が持てた。
それはあまりにも彼らしい、ささやかでつましく生真面目なもので、彼ほどの真面目さを持ち合わせていない裕司はすぐに気付くことができなかった。
彼の人生が彼の人となりや才能と不釣り合いに道を逸れてしまったことは、何ひとつとして彼の責任ではないと思われたけれど、ここしばらくの彼は懸命にその道筋を正そうと、有り体に言うなら裕司のそれに添わせようとしていた。
これまで自分で自分の人生を選択する機会を奪われていた彼にとって、ほとんど突然目の前に広がった可能性は途方もなく感じられたに違いない。どこから手をつけていいのかわからないという顔をしながら、それでも選んだものに対していい加減な態度を取ることはなかった。
そこには、相応の努力があったはずだし、努力をしたなら成果という報酬が欲しくて当然だ。前に進んでいるのだという手応えがなければ、誰だって努力し続けることは難しい。
初めて自分で働きたいと思った場所で働いて、そして得た金銭は、彼が彼の人生で初めて手に入れたたぐいのそれだったことを、あろうことか裕司はさほど気に留めていなかった。
彼が参考書を自分で買うと言ったときに気付かなかった己の鈍感さに、失望すら覚えて泣きたくなる。
彼が参考書を欲しがるのは、高卒認定試験を受けるからだ。一度にすべての科目に合格しなければならないわけではないが、彼が一度の受験で済ませようとしていることは知っていたし、彼ならそうできるだろうという信頼もあった。同時に、彼は勉強をするという行為そのもので、かつての学校生活を懐かしんでいるようにも感じられた。
そこには裕司にはわからない感情があるのだということだけわかっていて、そしてそれで充分なはずだった。少し考えれば、それがどんなにささやかに見えても、良にとってはとても大切なことだとわかったはずだ。
彼は楽しみにしていただろう。自ら望んで働いて得たお金で、一冊の参考書を買うことを。彼の高校時代を懐かしみ、そして決別するための一歩にすることを。
その期待がどれほど大きかったかは、彼の反応を思い返せば、嫌というほどよくわかった。普段声を荒げることなどめったにない彼だ。我慢強くて、不満を飲み込むことに慣れすぎていて、時として痛々しいほど己に厳しい。
その彼があんなに傷付いた顔をして感情を露わにしたのだ。せめてそのときに気付くべきだったと思うのに、現実の己はどこまでも愚かだった。
誰よりもそばにいて彼を見ていた自負があり、彼を愛していた自負があった。それなのに無神経に彼の願いを裏切ったのが、他ならぬ自分だということがたまらなく悔しかった。
ほとんどのテーブルが埋まっている賑やかな店内で、いつもなら人目を気にして触れられない良の手を握ったまま離せなかった。
良は静かな目をして裕司を見ていて、その表情のどこにも怒りを見出だせないことが今はかえって悲しかった。
「…………すまん」
やっとそう言うと、良は裕司の様子を窺う顔をしてみせてから、裕司の手を握り返してきた。
「あんたは悪くないって言ったじゃん」
その声は優しくて、彼が自分で自分の心をすでになだめて鎮めたのだということがよくわかって、いっそう情けない気持ちになった。
懺悔をしたい、と思って、不意にこういうときに人は神を求めるのかと、この場に関係のないことを考えた。己の悔恨を良にぶつけるのはあまりにも手前勝手だと思われたし、かといって胸の痛みは消えてくれなかった。罪を告白して許されたいという欲求が強くて、縁がなかったはずの西洋の神はこんなときに人を救うものなのかもしれないなどと考えた。
「……でも、無神経だったよ。本当に。お前が怒るのも当然だ」
裕司が言うと、良はしばらく間を置いてから、くすくすと笑い声を立てた。
何を笑われているのか純粋にわからず、ただ良の細められた目を見ていると、良は見つめられたことがこそばゆいとでも言うように、軽く頬を掻いた。
「もうこれ百回言ってるけど、あんたって変な人」
「……」
「あんたが俺に何でもしてくれて、いっつも気ぃ遣ってくれるから、俺が調子に乗って甘えてたんだよ。ほんとだったら、あんたが怒るとこじゃない? なのに、そんな、悪いことしたみたいな顔するの…………変なの」
良はそう言って、ごく控えめに、握った裕司の手を親指で撫ぜた。
「……そりゃ、悪いことしたと思ってるからな」
「あんたは悪くないって言ってるじゃん」
間髪を入れずに、良は返してきた。頑固で優しい。そして強くて、真っ直ぐに裕司を想ってくれている。
そんな彼を傷付けた己が許せなかったが、彼のためを思うなら許さなければならないのだ。
握った手につい力がこもり、良は笑って、痛いよ、と言った。
それでも、彼が彼の努力で得たものを次の一歩に繋げることを、楽しみにしていたに違いないことには確信が持てた。
それはあまりにも彼らしい、ささやかでつましく生真面目なもので、彼ほどの真面目さを持ち合わせていない裕司はすぐに気付くことができなかった。
彼の人生が彼の人となりや才能と不釣り合いに道を逸れてしまったことは、何ひとつとして彼の責任ではないと思われたけれど、ここしばらくの彼は懸命にその道筋を正そうと、有り体に言うなら裕司のそれに添わせようとしていた。
これまで自分で自分の人生を選択する機会を奪われていた彼にとって、ほとんど突然目の前に広がった可能性は途方もなく感じられたに違いない。どこから手をつけていいのかわからないという顔をしながら、それでも選んだものに対していい加減な態度を取ることはなかった。
そこには、相応の努力があったはずだし、努力をしたなら成果という報酬が欲しくて当然だ。前に進んでいるのだという手応えがなければ、誰だって努力し続けることは難しい。
初めて自分で働きたいと思った場所で働いて、そして得た金銭は、彼が彼の人生で初めて手に入れたたぐいのそれだったことを、あろうことか裕司はさほど気に留めていなかった。
彼が参考書を自分で買うと言ったときに気付かなかった己の鈍感さに、失望すら覚えて泣きたくなる。
彼が参考書を欲しがるのは、高卒認定試験を受けるからだ。一度にすべての科目に合格しなければならないわけではないが、彼が一度の受験で済ませようとしていることは知っていたし、彼ならそうできるだろうという信頼もあった。同時に、彼は勉強をするという行為そのもので、かつての学校生活を懐かしんでいるようにも感じられた。
そこには裕司にはわからない感情があるのだということだけわかっていて、そしてそれで充分なはずだった。少し考えれば、それがどんなにささやかに見えても、良にとってはとても大切なことだとわかったはずだ。
彼は楽しみにしていただろう。自ら望んで働いて得たお金で、一冊の参考書を買うことを。彼の高校時代を懐かしみ、そして決別するための一歩にすることを。
その期待がどれほど大きかったかは、彼の反応を思い返せば、嫌というほどよくわかった。普段声を荒げることなどめったにない彼だ。我慢強くて、不満を飲み込むことに慣れすぎていて、時として痛々しいほど己に厳しい。
その彼があんなに傷付いた顔をして感情を露わにしたのだ。せめてそのときに気付くべきだったと思うのに、現実の己はどこまでも愚かだった。
誰よりもそばにいて彼を見ていた自負があり、彼を愛していた自負があった。それなのに無神経に彼の願いを裏切ったのが、他ならぬ自分だということがたまらなく悔しかった。
ほとんどのテーブルが埋まっている賑やかな店内で、いつもなら人目を気にして触れられない良の手を握ったまま離せなかった。
良は静かな目をして裕司を見ていて、その表情のどこにも怒りを見出だせないことが今はかえって悲しかった。
「…………すまん」
やっとそう言うと、良は裕司の様子を窺う顔をしてみせてから、裕司の手を握り返してきた。
「あんたは悪くないって言ったじゃん」
その声は優しくて、彼が自分で自分の心をすでになだめて鎮めたのだということがよくわかって、いっそう情けない気持ちになった。
懺悔をしたい、と思って、不意にこういうときに人は神を求めるのかと、この場に関係のないことを考えた。己の悔恨を良にぶつけるのはあまりにも手前勝手だと思われたし、かといって胸の痛みは消えてくれなかった。罪を告白して許されたいという欲求が強くて、縁がなかったはずの西洋の神はこんなときに人を救うものなのかもしれないなどと考えた。
「……でも、無神経だったよ。本当に。お前が怒るのも当然だ」
裕司が言うと、良はしばらく間を置いてから、くすくすと笑い声を立てた。
何を笑われているのか純粋にわからず、ただ良の細められた目を見ていると、良は見つめられたことがこそばゆいとでも言うように、軽く頬を掻いた。
「もうこれ百回言ってるけど、あんたって変な人」
「……」
「あんたが俺に何でもしてくれて、いっつも気ぃ遣ってくれるから、俺が調子に乗って甘えてたんだよ。ほんとだったら、あんたが怒るとこじゃない? なのに、そんな、悪いことしたみたいな顔するの…………変なの」
良はそう言って、ごく控えめに、握った裕司の手を親指で撫ぜた。
「……そりゃ、悪いことしたと思ってるからな」
「あんたは悪くないって言ってるじゃん」
間髪を入れずに、良は返してきた。頑固で優しい。そして強くて、真っ直ぐに裕司を想ってくれている。
そんな彼を傷付けた己が許せなかったが、彼のためを思うなら許さなければならないのだ。
握った手につい力がこもり、良は笑って、痛いよ、と言った。
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