大人になる約束

三木

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 良の写真がほしいと言い出した彩乃と、本人に無断ではやれぬと押し問答をして、良が戻り次第是非を問うということで決着がついた。
 彩乃と揉めることになるかもしれないという覚悟はしていたが、こんな話で言い合いになるとは思っていなくて、裕司はずっと背中がかゆいような妙な気分だった。
 彩乃の関心はとうに裕司のセクシャリティよりも良個人に向いているようで、裕司にとっての一大事は、彩乃にとってはさほどではなかったのかと思うと、釈然としなかったしひどい肩透かしを食った思いだった。
 長年隠し続けた分だけ、それは必要以上に裕司の心にのしかかっていたらしく、自覚したとたんこれまで萎縮していた自分が滑稽に見えた。自分で勝手に大層な鍵をかけて、中身よりも鍵の方が重くなっていることに気付かなかったのだ。
 彩乃はもっぱら良の話ばかり聞きたがり、裕司については忙しくしているようだと実家に報告しておくと言った。雇われている身ではないのだから、仕事があるだけ有り難いなどともっともなことを言われて、まったくその通りだと首肯するほかなかった。
 良がこの家に住んでいることは自分の口からは言わないけれど、いつ知れてもおかしくないのだから、言い訳をするならそれなりのものを用意しておけとも言われた。仮に何もかも知られたとしても、今さら生き方を変えられる歳ではないのだから諦めろという、叱咤なのか慰めなのかわからぬことも言われた。
 誰に嘆かれようが、怒られようが、裕司は裕司以外の人間にはなれないのだし、愛せる人間を愛して生きていくしかない。そんな当たり前のことが、姉の口から発せられたというだけで、自分の手では届かない部分に落とし込まれたようだった。
 良に会えなくて残念だと繰り返しながら、彩乃は見送りを断って帰っていった。これから夫や娘達と合流して、美味いものを食べるのだそうだ。
 一人になった部屋で、彼女の置いていったぎゅうぎゅう詰めの土産の袋を片付けようかと思ったが、せっかくなので良が帰ってくるまでそのままにすることにした。使った食器を洗って水栓を閉めると、部屋の中がしんとして、何だかいつもより外の音がうるさく感じられた。通りをひっきりなしに走り過ぎていく車の低い響き。時折かすかに聞こえる人の声と、音とも呼べぬ気配に近い何か。
 住み慣れた家の中で、突然所在がなくなってしまったような気になって、裕司はぼんやりと部屋を眺めた後、カウンターに肘をついた。一人でいることが落ち着かなくて、どうしていいのかわからなかった。
 彩乃への告白と彼女の反応は、きっと裕司にとってとても大きな変化で、それに心が追いついていないせいでこんな気持ちになるのだろう。
 一人で暮らしていた頃なら、このままふらりと出かけて気の向くままにどこにでも行って、飲んで歩いたりするところだ。しかし今そうしないのは、同居人に遠慮をしているなどという殊勝な理由ではなかった。
 ──はやく帰ってきてほしいんだ。
 自分の意識と願望との距離が遠くて、気付くのに時間がかかったことが少しおかしかった。
 一人でいることが落ち着かないのは、ここに彼がいないことを不足だと感じているからだ。裕司の心は今とても不安定になっていて、良の存在を目で耳で肌で確かめて安心したかった。
 時計を見ると、彩乃が帰ってからちっとも短針は動いていなくて、そのことがひどく心細く感じられた。
 もし自分がほんの幼い子どもだったなら、泣いて庇護者の帰りを待つのだろうという想像をして、現実との乖離に気が遠くなりそうだった。声を上げて泣けば応えてもらえる幼子だった時代は、おぼろげな記憶の彼方にしかない。そんなものをどうして今思い出すのかと首を傾けて、自然とため息が漏れた。
 ──この歳になっても、家族ってのはこんなにこたえるもんか。
 当然のことを、いざ我が身で感じてみて、意味もなく家具の角など眺めながら、裕司は良の心を思う。
 傷だらけになって疲れ果てていた彼も、最近はずいぶんと明るくて元気になったと思っていたけれど、自分は少しばかり楽観し過ぎていたのではないだろうか。
 自分が彩乃と長い話をしただけでこんなに心が揺れるのなら、たった一人の肉親である母親と屈託を残したまま別離に至った彼の心は、裕司には想像もつかない色をしているのではないだろうか。
 裕司の価値観で彼を不幸だと判じてはいけないと思うけれど、彼の不遇と不安を甘く見積もっていた気がして、うそ寒さに裕司は首筋を撫でる。撫でた手が冷たいくせに汗をかいていて、不快さに眉根を寄せた。
 良の言葉も笑顔も嘘ではないと信じているけれど、彼の内側にはきっと数え切れないほどの扉があって、そのうちのいくつかの向こうには真っ暗で底の知れない波打つ海があるような気がした。
「……はやく帰ってきてくれ……」
 呟いた声の情けなく頼りない響きに、裕司はたまらなくなって顔を覆った。

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