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「あんた正月は帰るつもりなの?」
カラカラとグラスの氷を鳴らしながら、彩乃は言った。遠い夏の実家の匂いが一瞬だけ鼻先に蘇って、都会の匂いと混じって消えた。
「いや……どうかな」
曖昧な返事をしつつ、年末年始に良を一人で留守番させる気にはなれなかった。クリスマスも、大晦日も、正月も、良がこれまでどんなふうに過ごしてきたのか裕司は知らなかったが、彼がそれらを満喫できていたとは思い難かった。
帰省するなら良も連れて帰りたかったが、果たして何と言って連れて行けばいいのかわからなかったし、そんなことができるはずがないと囁く己もあった。
「……彼氏と約束でもあんの?」
するりと出てきた彩乃の言葉に、裕司はしばし混乱し、驚くまでいくらかの時間を要した。
「…………はっ?」
間抜けた声を上げて腰を浮かせた裕司に対して、彩乃は顔色も変えずにテーブルに肘をついていた。
「勘違いだったら謝るけど……そうじゃないなら、あんただっていつまでも黙ってるの楽じゃないんじゃないの」
彩乃の目はじっと裕司を見上げていた。その虹彩の色は家族の中で誰より薄い。それを見返しながら、明るい髪色とよく合っているなどと場違いなことを考えた。
彩乃が表情を変えないので、大きく波打ちかけた裕司の感情も行き場を失って、渦になってやがて消えた。
「……」
何も言えないまま、裕司はまた腰を下ろす。自分の心臓の音が遠く聞こえた。
「私も偏見がないとは言えないけど、あんただっていい大人なんだし、自立して生活してるんだから、あんたの人生にまで口出す気はないわよ」
「……いや、でも……」
「お母さん達にも言わないわよ? あんたが言わないのに私が言うのおかしいでしょ」
確信を得ている口ぶりに、心臓がせり上がってくるような感覚に襲われた。どうして、と声を上げたいのをやり過ごして、冷えた麦茶を半ば無理矢理喉に流し込み、大きく息を吐いた。
「……そんなバレるようなことしてたか? 俺……」
ようよう出た声は弱々しく情けなかった。ここに良がいなくてよかったと思うほど、自分をみすぼらしい存在に感じた。
彩乃は髪をいじりながら答えた。
「別に……ずっと、なんとなくそうなんじゃないかなってぐらいよ。今だって違うって言われたら、そっかーって思ったけど……違わないんでしょ?」
裕司は唇を噛む。姉弟喧嘩に負けたような悔しさがあった。
「……それを言いに来たのか? 今日は……」
「いやだ、そんなわけないでしょ。お母さんに様子見てきてって言われたからよ。電話でもそう言ったでしょ」
「……」
「でも、来てみたら、……あんた一人暮らしじゃなくなったみたいだし、そしたらさすがに気になるでしょ」
裕司は苦笑した。何もかも自白したようなものだと思ったし、そのくせ露骨に驚いた自分の滑稽さがおかしかった。
「……話したくないなら、別に根掘り葉掘り聞きゃしないわよ」
つんとした声で彩乃が言ったので、裕司は自然と笑みが出た。優しい姉だと思ったことはなかったが、思いやりや分別はあるのだ。そしてその言葉は、彼女のそんな部分から出たものだと感じた。
「話したくないかどうかで言うと……話したいんだけどな」
そう言うと、彩乃は意外そうな顔をして裕司を見た。その顔を見て、彼女は充分に距離を保とうとしてくれていたのだと思う。裕司の私生活を踏み荒らす気はなかったのだ。
「ただ……下手に話すと、リスクがでかいだろ。誤解だってされやすいし……」
「……まあね」
「姉貴にも、どう反応されるかわからなくて……」
言葉を切ると、彩乃は首を傾けて窺うような目で裕司を見つめてきた。
「……あんた、私に言うつもりがあったの?」
声音だけで言えば、詰問するような調子だったが、それはただ驚いているだけだと知っていた。昔はその言い方が気に入らなくて、無駄な喧嘩もしたものだ。
「身内で言うなら、姉貴かなと思ってたし……まあ、今回わざわざ来るって言うから、色々考えたよ」
「……お父さんやお母さんじゃ、ちょっとややこしいかもねぇ」
「どうしたって、俺は親不孝もんだからなぁ」
「なんでよ」
そう言った彩乃の声が思いの外強くて、その顔を見返すと、彩乃はいかにも不本意そうな表情を浮かべていた。
「あんたが男を好きでも女を好きでも親不孝かどうかは関係ないでしょ。女好きの親不孝者なんていくらでもいるわよ。あんたは浪人も留年もしなかったしちゃんと就職して実家に何も迷惑かけないで自活してるでしょ。それのどこが親不孝なのよ」
裕司はぽかんとして彩乃の厳しい目を見つめた。彩乃はささくれた感情を抑え込むように唇を結んで、茶菓子の包みを剥ぎ始める。
「あんたに東京の大学に行けって言ったのお父さんとお母さんだし、地元はろくな就職口がないから都会でいいとこに就職した方がいいって言ってたのも私覚えてんだからね。それであんたが結婚しないぐらいで親不孝なんてそんなバカな話ないわよ」
予想だにしないところで彩乃の怒りに触れたらしい、と思いながら、裕司は何だか笑い出してしまいそうだった。
驚くほど安堵した心の、ずっと緊張が居座っていた場所に違う感情がひと息に流れ込んできて、気を抜くとそれらに押し流されてしまいそうだった。
カラカラとグラスの氷を鳴らしながら、彩乃は言った。遠い夏の実家の匂いが一瞬だけ鼻先に蘇って、都会の匂いと混じって消えた。
「いや……どうかな」
曖昧な返事をしつつ、年末年始に良を一人で留守番させる気にはなれなかった。クリスマスも、大晦日も、正月も、良がこれまでどんなふうに過ごしてきたのか裕司は知らなかったが、彼がそれらを満喫できていたとは思い難かった。
帰省するなら良も連れて帰りたかったが、果たして何と言って連れて行けばいいのかわからなかったし、そんなことができるはずがないと囁く己もあった。
「……彼氏と約束でもあんの?」
するりと出てきた彩乃の言葉に、裕司はしばし混乱し、驚くまでいくらかの時間を要した。
「…………はっ?」
間抜けた声を上げて腰を浮かせた裕司に対して、彩乃は顔色も変えずにテーブルに肘をついていた。
「勘違いだったら謝るけど……そうじゃないなら、あんただっていつまでも黙ってるの楽じゃないんじゃないの」
彩乃の目はじっと裕司を見上げていた。その虹彩の色は家族の中で誰より薄い。それを見返しながら、明るい髪色とよく合っているなどと場違いなことを考えた。
彩乃が表情を変えないので、大きく波打ちかけた裕司の感情も行き場を失って、渦になってやがて消えた。
「……」
何も言えないまま、裕司はまた腰を下ろす。自分の心臓の音が遠く聞こえた。
「私も偏見がないとは言えないけど、あんただっていい大人なんだし、自立して生活してるんだから、あんたの人生にまで口出す気はないわよ」
「……いや、でも……」
「お母さん達にも言わないわよ? あんたが言わないのに私が言うのおかしいでしょ」
確信を得ている口ぶりに、心臓がせり上がってくるような感覚に襲われた。どうして、と声を上げたいのをやり過ごして、冷えた麦茶を半ば無理矢理喉に流し込み、大きく息を吐いた。
「……そんなバレるようなことしてたか? 俺……」
ようよう出た声は弱々しく情けなかった。ここに良がいなくてよかったと思うほど、自分をみすぼらしい存在に感じた。
彩乃は髪をいじりながら答えた。
「別に……ずっと、なんとなくそうなんじゃないかなってぐらいよ。今だって違うって言われたら、そっかーって思ったけど……違わないんでしょ?」
裕司は唇を噛む。姉弟喧嘩に負けたような悔しさがあった。
「……それを言いに来たのか? 今日は……」
「いやだ、そんなわけないでしょ。お母さんに様子見てきてって言われたからよ。電話でもそう言ったでしょ」
「……」
「でも、来てみたら、……あんた一人暮らしじゃなくなったみたいだし、そしたらさすがに気になるでしょ」
裕司は苦笑した。何もかも自白したようなものだと思ったし、そのくせ露骨に驚いた自分の滑稽さがおかしかった。
「……話したくないなら、別に根掘り葉掘り聞きゃしないわよ」
つんとした声で彩乃が言ったので、裕司は自然と笑みが出た。優しい姉だと思ったことはなかったが、思いやりや分別はあるのだ。そしてその言葉は、彼女のそんな部分から出たものだと感じた。
「話したくないかどうかで言うと……話したいんだけどな」
そう言うと、彩乃は意外そうな顔をして裕司を見た。その顔を見て、彼女は充分に距離を保とうとしてくれていたのだと思う。裕司の私生活を踏み荒らす気はなかったのだ。
「ただ……下手に話すと、リスクがでかいだろ。誤解だってされやすいし……」
「……まあね」
「姉貴にも、どう反応されるかわからなくて……」
言葉を切ると、彩乃は首を傾けて窺うような目で裕司を見つめてきた。
「……あんた、私に言うつもりがあったの?」
声音だけで言えば、詰問するような調子だったが、それはただ驚いているだけだと知っていた。昔はその言い方が気に入らなくて、無駄な喧嘩もしたものだ。
「身内で言うなら、姉貴かなと思ってたし……まあ、今回わざわざ来るって言うから、色々考えたよ」
「……お父さんやお母さんじゃ、ちょっとややこしいかもねぇ」
「どうしたって、俺は親不孝もんだからなぁ」
「なんでよ」
そう言った彩乃の声が思いの外強くて、その顔を見返すと、彩乃はいかにも不本意そうな表情を浮かべていた。
「あんたが男を好きでも女を好きでも親不孝かどうかは関係ないでしょ。女好きの親不孝者なんていくらでもいるわよ。あんたは浪人も留年もしなかったしちゃんと就職して実家に何も迷惑かけないで自活してるでしょ。それのどこが親不孝なのよ」
裕司はぽかんとして彩乃の厳しい目を見つめた。彩乃はささくれた感情を抑え込むように唇を結んで、茶菓子の包みを剥ぎ始める。
「あんたに東京の大学に行けって言ったのお父さんとお母さんだし、地元はろくな就職口がないから都会でいいとこに就職した方がいいって言ってたのも私覚えてんだからね。それであんたが結婚しないぐらいで親不孝なんてそんなバカな話ないわよ」
予想だにしないところで彩乃の怒りに触れたらしい、と思いながら、裕司は何だか笑い出してしまいそうだった。
驚くほど安堵した心の、ずっと緊張が居座っていた場所に違う感情がひと息に流れ込んできて、気を抜くとそれらに押し流されてしまいそうだった。
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