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「ほら、寝るなら布団掛けとけ」
掛け布団の上に寝転がってしまった良を転がして、薄い夏掛けを掛けてやると、良は目を閉じたまま、口をもぐもぐと動かして何か呟いた。おそらく本人は応答したつもりなのだろうと思いながら、もう夢の中にいるらしい良の額を撫でる。伸びてきた髪の、するりと滑る感触が手のひらに心地よかった。
こうして疲れて帰ってくるものの、家の外に活動の範囲を広げた良は楽しそうだった。牧は相変わらず気を遣ってくれているようで、そのことは良も理解していた。気を遣われていることがわかるから、その分己の未熟を感じるが、事実何もできないのだから仕方がないと話した良は、すでに充分自立しているように見えて、裕司は助言のひとつも思い付かなかった。
シーツの上に投げ出された手に触れても反応はなくて、寝顔は無垢な子どものようだった。そういえば最近は寝かしつけてほしいと言われることも減った。そうするまでもなく、睡魔が彼の意識を容易に攫っていくらしかった。
職場での水仕事でいくらか硬くなって乾いた指先を撫ぜても、良は睫毛のひとつも動かさなかった。その無防備さに微笑んで、裕司は枕元に放っていたスマホを拾い上げる。そのまま充電器を挿して寝ようと思ったが、新着メールの通知が来ていたことを思い出して、メールアプリを起動した。
未読メールの一覧が出たところで、差出人名を見てつい眉が寄った。件名はない。なんとなくいい予感はしなかったが、開けないわけにもいかないので、その無題のメールをタップした。
本文は長くなかった。愛想のない用件だけが述べられているそれを、読むというよりも視認して──。
「あっ!?」
裕司は思わず声を上げ、そしてすぐに横で良が寝ていることを思い出して口を押さえた。幸い良の眠りは深くて、目覚める気配は一切なかった。
「…………んだよ……」
ため息と一緒に呟いて、裕司は安らかに寝息を立てている良を見下ろした。可愛い顔をしている、と思うと同時に、その安楽さが羨ましいような、妬ましいような、複雑な心境に陥った。
眠気がどこかに行ったと思いながら、裕司は緩慢な動作でスマホを充電器につなぎ、部屋の明かりを消した。
翌朝はむにゃむにゃ文句を言う──何を言っているかはよく聞き取れなかった──良を起こして、裕司が朝食を作った。良のバイトはない日だったし、裕司も出かける予定はなかったので、日の高い時間を避けて買い出しに行こうかなどと相談したりした。
掃除をすると言う良と、いいから勉強していろと言う裕司の意見の折り合いがつかなくて、18歳を相手にいささか本気でジャンケンをした。勝負の結果、良が居間と廊下の掃除をすることになり、裕司は洗濯と任意の掃除をすることになった。任意の掃除とは何だという気持ちと、強硬に家事をしたがる十代とはどういうことだという疑問を持ちつつ、しっかりと自己主張をする良と過ごす時間は楽しかった。
ふさいでいても、寝ぼけていても、遠慮して言葉少なになっていても、良といることを苦痛だと思うことはなかったが、彼がはっきりと彼の言葉で彼の心や考えを伝えてくれるときは、とりわけ大事な時間を過ごしているのだと感じられた。
そんなふうに彼と向き合いながら、今日に限っては裕司の中で後ろ暗い気持ちがずっと消えなかった。それというのも、彼に話さなければいけないという案件を胸に抱えながら、それをどう伝えるのがいいのかわからなかったからだ。
これまで良との間に存在した問題は、ほとんどが良にまつわるものばかりだった。裕司は当事者でないがゆえに余裕を持つことができ、だからこそ助けることに専念できた。
つまり、自分の問題を彼に共有するということに裕司は慣れていなかった。仕事のスケジュールや、家事や雑用の都合を相談するのとはわけが違う。これは裕司の人生に深く関わっていることだ。
一通りの家事を終えて仕事部屋に引っ込んでから、自分はこんなにコミュニケーションに臆病だっただろうか、と思い、次いで何故臆病になっているのだろうか、と考えた。
裕司の話を聞いて良が不安になるのではないかという気持ちも確かにあったが、それ以上に、彼が裕司の知らない──予想だにしない価値観や判断を示してくるのではないかという危惧が、裕司の心の陰のあたりにあった。それが今の心地よい関係性に不協和音をもたらすのではないかと、裕司はいつの間にか懸念していた。
そこまで自分の心情を掘り返して、裕司は顔を覆ってため息をついた。これまで良は、今裕司が気付いたような恐れを幾度となく覚えてきただろうし、しかも彼は裕司と違って、少しの不和が衣食住の問題にすら発展しうる立場だった。それでも彼は、悩んで迷いながらも裕司に向き合い言葉にする選択をしてくれていた。
まだ少年の気配の残る、大人になりきれない彼がそれだけの努力をしてくれていたのに、自分は何もないように振る舞って問題を後回しにしたのか、と思うと、ため息しか出なくて、裕司は窓の外の陽光をうらめしく眺めた。
掛け布団の上に寝転がってしまった良を転がして、薄い夏掛けを掛けてやると、良は目を閉じたまま、口をもぐもぐと動かして何か呟いた。おそらく本人は応答したつもりなのだろうと思いながら、もう夢の中にいるらしい良の額を撫でる。伸びてきた髪の、するりと滑る感触が手のひらに心地よかった。
こうして疲れて帰ってくるものの、家の外に活動の範囲を広げた良は楽しそうだった。牧は相変わらず気を遣ってくれているようで、そのことは良も理解していた。気を遣われていることがわかるから、その分己の未熟を感じるが、事実何もできないのだから仕方がないと話した良は、すでに充分自立しているように見えて、裕司は助言のひとつも思い付かなかった。
シーツの上に投げ出された手に触れても反応はなくて、寝顔は無垢な子どものようだった。そういえば最近は寝かしつけてほしいと言われることも減った。そうするまでもなく、睡魔が彼の意識を容易に攫っていくらしかった。
職場での水仕事でいくらか硬くなって乾いた指先を撫ぜても、良は睫毛のひとつも動かさなかった。その無防備さに微笑んで、裕司は枕元に放っていたスマホを拾い上げる。そのまま充電器を挿して寝ようと思ったが、新着メールの通知が来ていたことを思い出して、メールアプリを起動した。
未読メールの一覧が出たところで、差出人名を見てつい眉が寄った。件名はない。なんとなくいい予感はしなかったが、開けないわけにもいかないので、その無題のメールをタップした。
本文は長くなかった。愛想のない用件だけが述べられているそれを、読むというよりも視認して──。
「あっ!?」
裕司は思わず声を上げ、そしてすぐに横で良が寝ていることを思い出して口を押さえた。幸い良の眠りは深くて、目覚める気配は一切なかった。
「…………んだよ……」
ため息と一緒に呟いて、裕司は安らかに寝息を立てている良を見下ろした。可愛い顔をしている、と思うと同時に、その安楽さが羨ましいような、妬ましいような、複雑な心境に陥った。
眠気がどこかに行ったと思いながら、裕司は緩慢な動作でスマホを充電器につなぎ、部屋の明かりを消した。
翌朝はむにゃむにゃ文句を言う──何を言っているかはよく聞き取れなかった──良を起こして、裕司が朝食を作った。良のバイトはない日だったし、裕司も出かける予定はなかったので、日の高い時間を避けて買い出しに行こうかなどと相談したりした。
掃除をすると言う良と、いいから勉強していろと言う裕司の意見の折り合いがつかなくて、18歳を相手にいささか本気でジャンケンをした。勝負の結果、良が居間と廊下の掃除をすることになり、裕司は洗濯と任意の掃除をすることになった。任意の掃除とは何だという気持ちと、強硬に家事をしたがる十代とはどういうことだという疑問を持ちつつ、しっかりと自己主張をする良と過ごす時間は楽しかった。
ふさいでいても、寝ぼけていても、遠慮して言葉少なになっていても、良といることを苦痛だと思うことはなかったが、彼がはっきりと彼の言葉で彼の心や考えを伝えてくれるときは、とりわけ大事な時間を過ごしているのだと感じられた。
そんなふうに彼と向き合いながら、今日に限っては裕司の中で後ろ暗い気持ちがずっと消えなかった。それというのも、彼に話さなければいけないという案件を胸に抱えながら、それをどう伝えるのがいいのかわからなかったからだ。
これまで良との間に存在した問題は、ほとんどが良にまつわるものばかりだった。裕司は当事者でないがゆえに余裕を持つことができ、だからこそ助けることに専念できた。
つまり、自分の問題を彼に共有するということに裕司は慣れていなかった。仕事のスケジュールや、家事や雑用の都合を相談するのとはわけが違う。これは裕司の人生に深く関わっていることだ。
一通りの家事を終えて仕事部屋に引っ込んでから、自分はこんなにコミュニケーションに臆病だっただろうか、と思い、次いで何故臆病になっているのだろうか、と考えた。
裕司の話を聞いて良が不安になるのではないかという気持ちも確かにあったが、それ以上に、彼が裕司の知らない──予想だにしない価値観や判断を示してくるのではないかという危惧が、裕司の心の陰のあたりにあった。それが今の心地よい関係性に不協和音をもたらすのではないかと、裕司はいつの間にか懸念していた。
そこまで自分の心情を掘り返して、裕司は顔を覆ってため息をついた。これまで良は、今裕司が気付いたような恐れを幾度となく覚えてきただろうし、しかも彼は裕司と違って、少しの不和が衣食住の問題にすら発展しうる立場だった。それでも彼は、悩んで迷いながらも裕司に向き合い言葉にする選択をしてくれていた。
まだ少年の気配の残る、大人になりきれない彼がそれだけの努力をしてくれていたのに、自分は何もないように振る舞って問題を後回しにしたのか、と思うと、ため息しか出なくて、裕司は窓の外の陽光をうらめしく眺めた。
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