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どこに行きたいと訊いてみると、良はしばらく躊躇って、帰る前に少しだけでいいから、と前置きをした。
本当に少しだけ、と繰り返してから、学校が見たいと良は言った。
卒業することのできなかった高校を、車の中から一目でいいから見てみたい。せっかくここまで来たから。家の近くで一人では行けないから。あの頃のままなのかどうか見てみたい。
そう言う良の目は妙に切羽詰まった色をしていて、裕司はわかったと答えることしかできなかった。
良の心を掘り下げる言葉が見つからなくて、ただ良がその口で望みを言ってくれたのだから異を唱える理由はどこにもなかった。
車が公道に出ると、良は中学も高校も徒歩通学だったと言って、その後が続かなかった。だから裕司はただ相槌だけ打って、良の沈黙の意味を考えた。
良が忌避しているものは何よりも義父だと思っていたが、もしかすると彼の恐れはもっと曖昧で境界のないかたちをしているのではないか、と、母親への態度を見て感じていた。今日は義父の帰りは遅いという。母親もすぐには帰宅しないだろう。それでも良は、たとえ無人であっても、自宅には──かつての自宅には、一人で近付きたくないらしかった。
その感覚はわかるようでわからなくて、裕司が同行することと、車から出ないことが彼を安心させているのだとして、それを幸いととらえていいのかどうか、裕司は迷う。
良は繊細で人見知りをするし、自分に自信がなくて自己主張できないところがあるけれど、本質的には臆病ではないと裕司は思ってきた。むしろ彼は本当に大事なときに勇敢になれる、そういう才を持っているように見えた。
だから彼が何かを強く恐れるときは、それがよほど深く彼を傷付けたか、あるいは傷付けうるもので、本能に近い回避行動を取っているのだと解釈していた。決して彼が怯懦なのではなく、そこにはそれ相応の理由があるはずだ。
そう考えても、良に直接確かめることができるはずもなく、良が言葉少なに案内してくれるままに車を走らせて、やがて道は住宅街に入った。
「ごめん、俺車で通る道あんまりよくわかんなくて……」
どうやらいくらか遠回りになっているらしいと察しながら、裕司は笑ってハンドルを切った。
「いいさ、別に急いでるわけじゃねえんだから」
「うん……ここまっすぐ行って、突き当たりのとこ左」
おう、と返しながら、いくつもの屋根の向こうに学校らしき建物が一瞬視認できた。少し覗いた緑の防球ネットもすぐにマンションの陰に隠れてしまう。この辺りの空はどこも、何かしらの建造物で四角くでこぼこに縁取られていた。
この場所で育ったのなら、何にも遮られない星空には縁遠かったことだろう。二人で行った旅先で、良が満天の星空に目を丸くしていたことが思い出されて、今さらになって喜んでもらえてよかったなどと考えた。
「この坂下りたらすぐ正門なんだけど……」
良が言い終わる前に、鉄製の門扉が見えてきた。門柱にくすんだ濃緑で校名が彫られている。良が口を開けたまま何も言わなくなってしまったので、裕司は正門の近くで車を停めた。
敷地の広い、堅実な印象を与える学校だった。校舎は決して新しくはないが、寂れた気配は一切なく、明るい昼の光がよく映えていた。体育の授業中なのか部活動なのか、体育館独特の反響した音と声が聞こえていた。
「……なんか、ちょっと、新しくなってる……」
良は車窓に手を当てて、か細い声で呟いた。
「体育館、何だろ、塗り直したのかな……」
裕司は良の目線に近付けるように身を乗り出して、確かにどこか新しい匂いのするその外観を眺めた。
「耐震工事とかしたのかもな」
「ああ、そうかも……」
良は吐息のような声で言って、また沈黙した。体育館から校舎に続く渡り廊下をジャージ姿の背中が抜けていくのが見えた。
学校という空間は不思議とどこでも、限られた時間を閉じ込めているかのような非日常性を持ち合わせている。かつては自分もそこで生活していたはずなのに、今ではまるで聖域じみたよそよそしさがあって、それでいてノスタルジーをくすぐられるものがあった。
この場所に何の記憶も思い入れもないはずの裕司ですらそう感じるのだから、あの中で過ごしていた記憶もまだ鮮やかだろう良に門の向こう側がどう見えているのか考えると、感傷がせり上がってくるようで、裕司はしいて意識を逸らした。
ついさっき見たばかりの、制服姿の良の写真を取り出して見比べたい気持ちも抑えて、ただ良の瞳が一心に遠いどこかを見ているのを盗み見た。
おそらく時間にしてほんの数分、良は身じろぎもせずにそうしていて、ふと思い出したように息を吸うと、窓から顔を背けた。
「……行こっか」
「もういいのか?」
「うん…………ありがと」
その声が震えるのをこらえているそれだとわかって、裕司は気付かぬふりをしながら、そうか、と応えた。彼が今何を思っていて、何を感じているのか、知りたいと騒ぐ心を叱るような気持ちで、ゆっくりと車を発進させた。
裕司の半分にも満たない良の人生に、別れがあまりにも多いことが、喉から胸にかけて強く沁みて痛かった。
本当に少しだけ、と繰り返してから、学校が見たいと良は言った。
卒業することのできなかった高校を、車の中から一目でいいから見てみたい。せっかくここまで来たから。家の近くで一人では行けないから。あの頃のままなのかどうか見てみたい。
そう言う良の目は妙に切羽詰まった色をしていて、裕司はわかったと答えることしかできなかった。
良の心を掘り下げる言葉が見つからなくて、ただ良がその口で望みを言ってくれたのだから異を唱える理由はどこにもなかった。
車が公道に出ると、良は中学も高校も徒歩通学だったと言って、その後が続かなかった。だから裕司はただ相槌だけ打って、良の沈黙の意味を考えた。
良が忌避しているものは何よりも義父だと思っていたが、もしかすると彼の恐れはもっと曖昧で境界のないかたちをしているのではないか、と、母親への態度を見て感じていた。今日は義父の帰りは遅いという。母親もすぐには帰宅しないだろう。それでも良は、たとえ無人であっても、自宅には──かつての自宅には、一人で近付きたくないらしかった。
その感覚はわかるようでわからなくて、裕司が同行することと、車から出ないことが彼を安心させているのだとして、それを幸いととらえていいのかどうか、裕司は迷う。
良は繊細で人見知りをするし、自分に自信がなくて自己主張できないところがあるけれど、本質的には臆病ではないと裕司は思ってきた。むしろ彼は本当に大事なときに勇敢になれる、そういう才を持っているように見えた。
だから彼が何かを強く恐れるときは、それがよほど深く彼を傷付けたか、あるいは傷付けうるもので、本能に近い回避行動を取っているのだと解釈していた。決して彼が怯懦なのではなく、そこにはそれ相応の理由があるはずだ。
そう考えても、良に直接確かめることができるはずもなく、良が言葉少なに案内してくれるままに車を走らせて、やがて道は住宅街に入った。
「ごめん、俺車で通る道あんまりよくわかんなくて……」
どうやらいくらか遠回りになっているらしいと察しながら、裕司は笑ってハンドルを切った。
「いいさ、別に急いでるわけじゃねえんだから」
「うん……ここまっすぐ行って、突き当たりのとこ左」
おう、と返しながら、いくつもの屋根の向こうに学校らしき建物が一瞬視認できた。少し覗いた緑の防球ネットもすぐにマンションの陰に隠れてしまう。この辺りの空はどこも、何かしらの建造物で四角くでこぼこに縁取られていた。
この場所で育ったのなら、何にも遮られない星空には縁遠かったことだろう。二人で行った旅先で、良が満天の星空に目を丸くしていたことが思い出されて、今さらになって喜んでもらえてよかったなどと考えた。
「この坂下りたらすぐ正門なんだけど……」
良が言い終わる前に、鉄製の門扉が見えてきた。門柱にくすんだ濃緑で校名が彫られている。良が口を開けたまま何も言わなくなってしまったので、裕司は正門の近くで車を停めた。
敷地の広い、堅実な印象を与える学校だった。校舎は決して新しくはないが、寂れた気配は一切なく、明るい昼の光がよく映えていた。体育の授業中なのか部活動なのか、体育館独特の反響した音と声が聞こえていた。
「……なんか、ちょっと、新しくなってる……」
良は車窓に手を当てて、か細い声で呟いた。
「体育館、何だろ、塗り直したのかな……」
裕司は良の目線に近付けるように身を乗り出して、確かにどこか新しい匂いのするその外観を眺めた。
「耐震工事とかしたのかもな」
「ああ、そうかも……」
良は吐息のような声で言って、また沈黙した。体育館から校舎に続く渡り廊下をジャージ姿の背中が抜けていくのが見えた。
学校という空間は不思議とどこでも、限られた時間を閉じ込めているかのような非日常性を持ち合わせている。かつては自分もそこで生活していたはずなのに、今ではまるで聖域じみたよそよそしさがあって、それでいてノスタルジーをくすぐられるものがあった。
この場所に何の記憶も思い入れもないはずの裕司ですらそう感じるのだから、あの中で過ごしていた記憶もまだ鮮やかだろう良に門の向こう側がどう見えているのか考えると、感傷がせり上がってくるようで、裕司はしいて意識を逸らした。
ついさっき見たばかりの、制服姿の良の写真を取り出して見比べたい気持ちも抑えて、ただ良の瞳が一心に遠いどこかを見ているのを盗み見た。
おそらく時間にしてほんの数分、良は身じろぎもせずにそうしていて、ふと思い出したように息を吸うと、窓から顔を背けた。
「……行こっか」
「もういいのか?」
「うん…………ありがと」
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