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裕司は良の横顔をじいと見て、うつむく瞳にかかった睫毛が繊細に動くのを美しいと思った。
黙々と洗い物をする良は静かで大人びた目をしていて、自分ばかり地に足がつかないでいるような気がした。
「……お前は自分に厳しいなぁ」
そう呟くと、良はこちらを見ないままくすりと笑った。
「そんなことないと思うけど。あんたが甘やかすからグズグズになりそう」
なっていいのに、と言うのは無責任だろうか、と考えると、またうまく言葉が出てこなくなった。良が何も言わずにいてくれるので、冷蔵庫にもたれてしばらくその姿を眺めてから、また口を開いた。
「なるべく早く片付けるから……そしたらゆっくり話そう」
そう言ってみると、良はまた少し笑った。
「他に何かやっとくことある?」
「寝足りなかったんだろ? 昼寝しとけよ」
良は笑った目のかたちのまま裕司を見た。また甘やかしているとその目に言われた気がして、手を伸ばしてその頭を撫でてやる。
「ちょっと、俺手ぇ離せないのに」
文句を言う口調だったが顔は笑っていた。その内心にはきっと押し隠しているものがあるくせに、今はそれを見せる気がないらしかった。良のそういう忍耐強さを感じる度に、頼もしく思うと同時に寂しさや焦燥に似た気持ちが湧いた。
「片付けありがとうな。助かる」
裕司も平気なふりをして言うと、良はうんと短く応えた。その顔に影がささないのを確かめて、後ろ髪を引かれながら仕事部屋に入った。
背後で戸を閉めると、隔たれた向こうで良の気配がかえって際立つようだった。その気配に反応してさわさわと心にさざ波が立つ。それをどうすることもできないまま、椅子を引いて腰を下ろすと、暗いディスプレイに冴えない男の顔が映った。
良は裕司を優しいと言うし、信頼してくれているとも思う。裕司も彼には優しくありたかったし、信頼には応えたかった。そのことに問題は何一つないはずなのに、この噛み合わない心地は何なのか。
自分が良をもっとよく知っていれば、もっと彼は安心して心を許すことができたのではないか、という己に対する猜疑に似た気持ちがあった。よく知るも何も、まだ自分達は関係を築き始めたばかりで、良はこの生活にようやく慣れてきたばかりではないか、と反駁する己もいる。
噛み合わないのは自分の内側だけで起きていることで、この居心地の悪さに良を巻き込んではいけない、といさめる心の声に、ようやく自分がひどく緊張しているのだと理解した。
良の肉親と会うということは、良の過去に直接触れることで、良の世界をこの身で感じるということでもあった。そしてそれは自分と良の関係を変えてしまう可能性のあることだ。
──ビビッてるだけか……。
不安の正体を己の小心に見つけて、何だかおかしくて裕司は口の端を上げる。黒い鏡のようになったディスプレイに映る顔は情けなくて、苦笑いしながらキーボードを叩いた。
良に頼ってほしいし甘えてほしい。その分自分の弱みを見せたくないと思うのはアンフェアだと囁く理性があり、それでも彼の前では強がっていたいという意地もあった。
──大事なものを間違えたらだめだよなぁ。
良の前で満足な自分でいられないことなど、今考えるべきことではない。扉の向こうから聞こえる日常の音が胸に沁むと思いながら、中途で保存してあったファイルを開いて、意識的に思考を作業で上書きした。
家の中がやけに静かだ、と気付いたのは、外の通りを学校帰りらしい子ども達の高い声が過ぎて行った後だった。
良には昼食の片付けが済んだら休んでいていいと言ったのに、あれからさらに寝室を掃除して洗濯機を回す音が聞こえた。シーツでも洗ってくれたのだろうか、と作業の傍らで考えて、家の中で自分以外の人間が立てる生活音を心地よいと思った。
昔両親や姉弟と一つ家に暮らしていた頃は考えもしなかったが、一人暮らしの気楽さと静けさに価値があるのと同様に、生活を共有できる存在がいるということには大きな意味があるのだと、不惑を意識して実感していた。
家事でもしていなければ大して音も立てないおとなしい同居人のことを頭の隅で気にしながら、区切りがつくまで作業をする。欲を言えば今日のうちにもう少し進めておきたいと思ったが、日が暮れるまで良を待たせるわけにはいかないという気持ちが勝った。
空になって乾いたマグカップを持って部屋を出ると、居間のソファの上で膝を立てて本を読んでいる良の姿が見えた。寝ているかと思ったのに、家事が済んだら読書をしている。若いくせに品行方正が過ぎるのではないかとつい考えた。良と出会ってから自分の青年時代を振り返ることが増えたが、逆立ちしても彼のようには振る舞えなかっただろうと思うのが常だった。
若い頃の自分はもっと生意気で独りよがりだったし、今にして思えば愚かで恥ずかしいこともたくさんした。良の慎重さや思慮深さを見ると、昔に返って反省したい気持ちすら湧いてくる。
裕司の視線に気付いたように、良はふと顔を上げて口を開いた。
「休憩?」
裕司は微笑む。わがままを言わない彼が愛しく、そして少し寂しかった。
黙々と洗い物をする良は静かで大人びた目をしていて、自分ばかり地に足がつかないでいるような気がした。
「……お前は自分に厳しいなぁ」
そう呟くと、良はこちらを見ないままくすりと笑った。
「そんなことないと思うけど。あんたが甘やかすからグズグズになりそう」
なっていいのに、と言うのは無責任だろうか、と考えると、またうまく言葉が出てこなくなった。良が何も言わずにいてくれるので、冷蔵庫にもたれてしばらくその姿を眺めてから、また口を開いた。
「なるべく早く片付けるから……そしたらゆっくり話そう」
そう言ってみると、良はまた少し笑った。
「他に何かやっとくことある?」
「寝足りなかったんだろ? 昼寝しとけよ」
良は笑った目のかたちのまま裕司を見た。また甘やかしているとその目に言われた気がして、手を伸ばしてその頭を撫でてやる。
「ちょっと、俺手ぇ離せないのに」
文句を言う口調だったが顔は笑っていた。その内心にはきっと押し隠しているものがあるくせに、今はそれを見せる気がないらしかった。良のそういう忍耐強さを感じる度に、頼もしく思うと同時に寂しさや焦燥に似た気持ちが湧いた。
「片付けありがとうな。助かる」
裕司も平気なふりをして言うと、良はうんと短く応えた。その顔に影がささないのを確かめて、後ろ髪を引かれながら仕事部屋に入った。
背後で戸を閉めると、隔たれた向こうで良の気配がかえって際立つようだった。その気配に反応してさわさわと心にさざ波が立つ。それをどうすることもできないまま、椅子を引いて腰を下ろすと、暗いディスプレイに冴えない男の顔が映った。
良は裕司を優しいと言うし、信頼してくれているとも思う。裕司も彼には優しくありたかったし、信頼には応えたかった。そのことに問題は何一つないはずなのに、この噛み合わない心地は何なのか。
自分が良をもっとよく知っていれば、もっと彼は安心して心を許すことができたのではないか、という己に対する猜疑に似た気持ちがあった。よく知るも何も、まだ自分達は関係を築き始めたばかりで、良はこの生活にようやく慣れてきたばかりではないか、と反駁する己もいる。
噛み合わないのは自分の内側だけで起きていることで、この居心地の悪さに良を巻き込んではいけない、といさめる心の声に、ようやく自分がひどく緊張しているのだと理解した。
良の肉親と会うということは、良の過去に直接触れることで、良の世界をこの身で感じるということでもあった。そしてそれは自分と良の関係を変えてしまう可能性のあることだ。
──ビビッてるだけか……。
不安の正体を己の小心に見つけて、何だかおかしくて裕司は口の端を上げる。黒い鏡のようになったディスプレイに映る顔は情けなくて、苦笑いしながらキーボードを叩いた。
良に頼ってほしいし甘えてほしい。その分自分の弱みを見せたくないと思うのはアンフェアだと囁く理性があり、それでも彼の前では強がっていたいという意地もあった。
──大事なものを間違えたらだめだよなぁ。
良の前で満足な自分でいられないことなど、今考えるべきことではない。扉の向こうから聞こえる日常の音が胸に沁むと思いながら、中途で保存してあったファイルを開いて、意識的に思考を作業で上書きした。
家の中がやけに静かだ、と気付いたのは、外の通りを学校帰りらしい子ども達の高い声が過ぎて行った後だった。
良には昼食の片付けが済んだら休んでいていいと言ったのに、あれからさらに寝室を掃除して洗濯機を回す音が聞こえた。シーツでも洗ってくれたのだろうか、と作業の傍らで考えて、家の中で自分以外の人間が立てる生活音を心地よいと思った。
昔両親や姉弟と一つ家に暮らしていた頃は考えもしなかったが、一人暮らしの気楽さと静けさに価値があるのと同様に、生活を共有できる存在がいるということには大きな意味があるのだと、不惑を意識して実感していた。
家事でもしていなければ大して音も立てないおとなしい同居人のことを頭の隅で気にしながら、区切りがつくまで作業をする。欲を言えば今日のうちにもう少し進めておきたいと思ったが、日が暮れるまで良を待たせるわけにはいかないという気持ちが勝った。
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