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部屋で仕事をしていて、ふと窓の外を見ると明るいのに妙にけぶっていて、それが雨だと気付くまでに数瞬を要した。
窓を開けてみると、音も立てずに霧のような雨が降っていた。空は青くて、狐の嫁入りだと思ってから、良が出かけていたことを思い出す。
今日は朝から晴れていたから、傘など持っているはずがない。このくらいの霧雨なら濡れてもどうということもないかと思いつつ、落ち着かなくて仕事を中断して部屋を出た。
小さな子どもではないのだから大抵のことは自分で対処するだろうと頭ではわかっていても、こんなときはやはりスマホぐらい持たせておきたいと思う。良は裕司が自分のために高価なものを新調することを好まなくて、未だに携帯電話の一つも持っていなかった。
仕事や何かをするときには必要になると言っても、身分証も持たない彼はまだ必要ないと言って聞かなかった。
──無欲なのか意固地なのかわからないな。
今時の若者には必需品だろうに、と思いながら、居間の窓から濡れそぼっていく街を眺めていると、玄関の開く音が聞こえた。
帰ってきたか、と思って窓を離れたが、ただいまの声もないまま戸を閉めて鍵をかける音がした。裕司が仕事中だと思い込んでいるのか、と思いながら見に行くと、買い物袋を提げてうなだれている姿が見えた。
「……良? 雨大丈夫だったか?」
声をかけると、黒い目が一瞬だけ裕司を見て、そしてまるで顔を隠すようにしてうなずいた。髪に細かい雨粒が付いていたが、服はさほど濡れている様子ではなかった。
しかし押し黙る良のまとう空気の重さに、裕司は雨のことなどすぐに忘れてしまう。こんなふうに言葉のひとつも発しない彼には覚えがあった。
彼がまだ自分の話をすることに怯えていた頃、裕司の拒絶や否定を怖がっていた頃、良はこんなふうにじっと張り詰めた沈黙を続けることがあった。
「良……?」
近所に買い物に行ってきただけのはずだ、と思いながら踏み出すと、良は裕司と目を合わせないまま、すいと右手を差し出してきた。その手には封書が2通握られていて、1通はカード会社から、もう1通は宛名が手書きで書かれた茶封筒だった。
見慣れない細い字で裕司の名が書かれたそれに予感を覚えながら受け取って裏返すと、同じ筆跡で長谷京子と差出人の名があった。
良の母親からの返信だった。
良はまだうつむいて立ち尽くしていて、裕司はそっとその背中に手を当てる。わずかに湿った感触がした。
「……買い物ありがとうな。手ぇ洗って、うがいして来い」
少しの間を置いて、良は黙ったままうなずいた。提げていた荷物を裕司が引き取っても、目が合うことはなくてそのまま背を向けて洗面所に消えていった。ほとんど音も立てないその静けさが、かえって良の胸中の激しい渦を想像させて、裕司は切なくなる。
改めて手書きの封書を眺めると、宛名に裕司の名前しかないことに気が付いた。往信は念のためとはいえ良との連名にしたのに、と思いながら、まだ封も開けていないのだからうがったことを考えるのはよそうと首を振った。
やがて戻ってきた良はやはりうなだれたまま、肩を強張らせているのが見てわかった。
どんな言葉をかけて、どんなふうには接してやるのがいいのだろうと考えても、答の出るはずもなく、裕司は良の手を引いて、嫌がらないのを確かめながらソファに座らせた。
「……そんなしんどい顔久しぶりに見たよ」
床に膝をついて向かい合って、正直にそう言うと、良は悲しそうな顔をして、裕司の指を握ってきた。その握る力で、心細さが伝わってくるようだった。
まだ18の子どもが、母親からの手紙にこんな顔をする理由は裕司の中には見つからなくて、けれど良にとってはそれが肉親の現実なのだと思うしかなかった。
「お前が今何を考えて、なんでそんな顔してるのか俺にはわかんねぇけど……俺にしてほしいこと何かあるか?」
問いかけながらゆっくりと髪を撫でてやると、良はいっそう悲しげな顔をして、裕司はこのまま泣き出してしまうのではないかと思う。しかし良は涙は見せずに、代わりにひどく細い声で呟いた。
「あんた……仕事いいの? 納期近いって言ってたじゃん……」
怯えている声だな、と思いながら、裕司は笑ってみせた。
「そんな顔してるお前を放っとかなきゃなんねぇほど切羽詰まってねぇよ」
「……」
「なんか飲むか? 頭ごちゃごちゃしてんだろ」
良は首を振った。そして裕司が離れていかないようにとばかりに、強く手を握ってくる。
頼って、あるいはすがってくれているのだろうかと思うと、それは裕司を慰めた。苦しいのは良の方であるはずなのに、裕司ばかりが救われるのは不公平だと思いながらも、その分良に優しさを返してやりたかった。
「……もし俺に迷惑かけるんじゃないかとか、嫌な思いさせるんじゃないかとか、そんなことで迷ってることがあるなら、ちょっとずつでもいいから教えろよ?」
そう言葉を掛けると、良の目がうろたえながら裕司を見返した。
自惚れた台詞かとも思ったが、良はこれまでもずっと優しくて、裕司を不快にすまいと度々我慢をしがちなことを知っていた。嫌われたくない、否定されたくないと思う気持ちも、裕司にしてみればそれは裕司を求めてくれていることと同義だった。
「うまく言えなくても怒ったりしねぇって、知ってるだろ?」
頬を撫でて言ってやると、良は泣きそうに顔を歪めて、裕司の手に顔を押し付けてきた。
窓を開けてみると、音も立てずに霧のような雨が降っていた。空は青くて、狐の嫁入りだと思ってから、良が出かけていたことを思い出す。
今日は朝から晴れていたから、傘など持っているはずがない。このくらいの霧雨なら濡れてもどうということもないかと思いつつ、落ち着かなくて仕事を中断して部屋を出た。
小さな子どもではないのだから大抵のことは自分で対処するだろうと頭ではわかっていても、こんなときはやはりスマホぐらい持たせておきたいと思う。良は裕司が自分のために高価なものを新調することを好まなくて、未だに携帯電話の一つも持っていなかった。
仕事や何かをするときには必要になると言っても、身分証も持たない彼はまだ必要ないと言って聞かなかった。
──無欲なのか意固地なのかわからないな。
今時の若者には必需品だろうに、と思いながら、居間の窓から濡れそぼっていく街を眺めていると、玄関の開く音が聞こえた。
帰ってきたか、と思って窓を離れたが、ただいまの声もないまま戸を閉めて鍵をかける音がした。裕司が仕事中だと思い込んでいるのか、と思いながら見に行くと、買い物袋を提げてうなだれている姿が見えた。
「……良? 雨大丈夫だったか?」
声をかけると、黒い目が一瞬だけ裕司を見て、そしてまるで顔を隠すようにしてうなずいた。髪に細かい雨粒が付いていたが、服はさほど濡れている様子ではなかった。
しかし押し黙る良のまとう空気の重さに、裕司は雨のことなどすぐに忘れてしまう。こんなふうに言葉のひとつも発しない彼には覚えがあった。
彼がまだ自分の話をすることに怯えていた頃、裕司の拒絶や否定を怖がっていた頃、良はこんなふうにじっと張り詰めた沈黙を続けることがあった。
「良……?」
近所に買い物に行ってきただけのはずだ、と思いながら踏み出すと、良は裕司と目を合わせないまま、すいと右手を差し出してきた。その手には封書が2通握られていて、1通はカード会社から、もう1通は宛名が手書きで書かれた茶封筒だった。
見慣れない細い字で裕司の名が書かれたそれに予感を覚えながら受け取って裏返すと、同じ筆跡で長谷京子と差出人の名があった。
良の母親からの返信だった。
良はまだうつむいて立ち尽くしていて、裕司はそっとその背中に手を当てる。わずかに湿った感触がした。
「……買い物ありがとうな。手ぇ洗って、うがいして来い」
少しの間を置いて、良は黙ったままうなずいた。提げていた荷物を裕司が引き取っても、目が合うことはなくてそのまま背を向けて洗面所に消えていった。ほとんど音も立てないその静けさが、かえって良の胸中の激しい渦を想像させて、裕司は切なくなる。
改めて手書きの封書を眺めると、宛名に裕司の名前しかないことに気が付いた。往信は念のためとはいえ良との連名にしたのに、と思いながら、まだ封も開けていないのだからうがったことを考えるのはよそうと首を振った。
やがて戻ってきた良はやはりうなだれたまま、肩を強張らせているのが見てわかった。
どんな言葉をかけて、どんなふうには接してやるのがいいのだろうと考えても、答の出るはずもなく、裕司は良の手を引いて、嫌がらないのを確かめながらソファに座らせた。
「……そんなしんどい顔久しぶりに見たよ」
床に膝をついて向かい合って、正直にそう言うと、良は悲しそうな顔をして、裕司の指を握ってきた。その握る力で、心細さが伝わってくるようだった。
まだ18の子どもが、母親からの手紙にこんな顔をする理由は裕司の中には見つからなくて、けれど良にとってはそれが肉親の現実なのだと思うしかなかった。
「お前が今何を考えて、なんでそんな顔してるのか俺にはわかんねぇけど……俺にしてほしいこと何かあるか?」
問いかけながらゆっくりと髪を撫でてやると、良はいっそう悲しげな顔をして、裕司はこのまま泣き出してしまうのではないかと思う。しかし良は涙は見せずに、代わりにひどく細い声で呟いた。
「あんた……仕事いいの? 納期近いって言ってたじゃん……」
怯えている声だな、と思いながら、裕司は笑ってみせた。
「そんな顔してるお前を放っとかなきゃなんねぇほど切羽詰まってねぇよ」
「……」
「なんか飲むか? 頭ごちゃごちゃしてんだろ」
良は首を振った。そして裕司が離れていかないようにとばかりに、強く手を握ってくる。
頼って、あるいはすがってくれているのだろうかと思うと、それは裕司を慰めた。苦しいのは良の方であるはずなのに、裕司ばかりが救われるのは不公平だと思いながらも、その分良に優しさを返してやりたかった。
「……もし俺に迷惑かけるんじゃないかとか、嫌な思いさせるんじゃないかとか、そんなことで迷ってることがあるなら、ちょっとずつでもいいから教えろよ?」
そう言葉を掛けると、良の目がうろたえながら裕司を見返した。
自惚れた台詞かとも思ったが、良はこれまでもずっと優しくて、裕司を不快にすまいと度々我慢をしがちなことを知っていた。嫌われたくない、否定されたくないと思う気持ちも、裕司にしてみればそれは裕司を求めてくれていることと同義だった。
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