サクササー

勝瀬右近

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第1章 序

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 穏やかな陽光。
 聞こえてくる小鳥のさえずり。
 時折カタカタと窓枠を揺らすのは庭を緩やかに流れるそよ風。
 それらすべてが肌に、そして心に快く、時も、空気も、何もかもが静寂を壊さぬようにと気を遣っているかのようにゆったりと動いているセノン族の里は、俗世から全く隔絶された別世界のようでした。
 その景色を見ていたのは、ひとりは椅子に座った二十歳代後半といった感じの男、もう一人は老人で、体をベッドに横たえています。
 
 男がポツッと言いました。
「西風ですね。春が近い・・・」
 セノン族の里は北方の山岳地帯に位置しているので、冬は厳しく長いものでした。
 それだけに、春の訪れは喜ばしいことのはずなのに、なぜか若いセノン族の男の口調はまったく裏腹な感じでした。
 それに気が付いたように、老人が口元を緩ませてにこりとしました。
「もう1000回以上も経験しておるが・・・、春の訪れとは何度経験してもその度に奇跡を感じるよ」
 男は老人の言葉の真意を測り兼ねた表情をわずかに浮かべた感じで振り返りました。
「奇跡、ですか?」
「ん・・・。神々は誠に偉大なり。真理だよカーヌ」
 カーヌ。そう呼ばれた男は少しの間、思案顔になりました。
「同じことをきっと何万回と繰り返してきた悠久の時の中で、我々人類は成長してきた。成長できたのはこの揺るぎない季節の繰り返しがあったればこそ。・・・まったく、奇跡だよ」
 カーヌはクスリと笑った。
「ほほう。私の問いかけに微笑みで応えるか。理由を聞かせてくれるんだろうね?」
「もちろんですディエル様。・・・・もしも春の訪れを奇跡とおっしゃるのなら、あまりにも気前が良すぎです。奇跡はそうそう起こらないから奇跡なのではないでしょうか?」
 ディエルはふふと穏やかに笑って何度か小さくうなずきました。
「そうだな。その通りだ。お前のその考えに私も異論はない。・・・だがねカーヌ、そこが神々の偉大なところだよ。賢いお前さえ気が付かせないのだから」
「?」
「奇跡とは気付かせず、奇跡を起こす。これこそ神の所業と呼ばずしてなんと言おうか?」
 カーヌはああとうなずきました。
「なるほど」
 カーヌは穏やかな目で遠くを見つめながらで言う老人を見て微笑みました。
「今日はお元気そうで何よりです。これからは気候も暖かになります。そうすればお体の負担も減りましょう」
 ディエルはフウウっと息を吐き出して天井に描かれた絵画を見上げました。
 偽物の空はいつも青く澄み切っているのに、そこを飛ぶ鳥は自由に羽ばたいて見えるのに、それらはひどくむなしく見えました。
 ディエルは自分の心のうちにある、記憶の中の空や鳥や花や木々たちに今一度命を吹き込もうと、静かに目を閉じたのです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 長い冬が過ぎ、短い春が訪れようとしていた、ここは南北と東の三方を山に囲まれた高山地方。唯一開けている西方向には世界の最北最西に位置する王国、ノスユナイアの平原が眼下に霞んで広がっていました。
 ここはセノンの隠れ里と呼ばれ、住まう主(あるじ)はセノン族という種族です。
 彼らの特徴は耳が尖っていて肌の色は白、そして瞳の色は済んだ泉のような薄いブルー。髪の毛は基本的に銀髪で金髪が混じっている者もいて、カーヌとディエルはそうでした。
 誰一人として例外のないこのセノン族の外見は、美しいの一言に尽きます。さらに彼らはこの世界で一番の長命種族で、ディエルは現在1184歳という気の遠くなるような年齢です。
 しかしセノン族にとって、誇りとするものは外見や長生きではありませんでした。
 セノン族の人々は自(みずか)らを人類史上最高峰の種族と公言して憚(はばか)らない高慢な種族ではありましたが、それはゆるぎない事実で、世界の人々も彼らのことを叡智の伝承者たちと呼んでいるのです。

 彼らの知識、知恵、文明や文化は遥かな太古、1万年以上前から伝承され、時の流れに惑うことなく営々と引き継がれてきた人類の宝ともいえます。しかしそれを宝とするか否かは時の権力者によって左右されました。
 誰しもが万人に愛されるわけではないというのはセノン族も例外ではありません。しかし、彼らを愛する者、あるいは尊敬の念をもって近づく者たちの殆どは権力者たちです。
 彼らの知識の深さや知力の高さに期待して、権力基盤の支えの一つに、あるいは執政の助力にといった、事(こと)の多少や差異はあるものの、なにかしらの思惑あって自国に迎え入れるのです。
 
 権力者たちがセノン族の力を取り込むために協力を乞い、その請願に応えた一部のセノン族が野に下り、見返りが支払われる。一見需要と供給が一致しているようですが、自らを人類最高峰の種であり叡智の伝承者と呼ばれることにためらいなく浴しているプライドの高い彼らがなぜゆえに、下に見ている他種族の国に属すことをよしとすることができるのでしょうか。


 セノン族とて人。
 人であればあらゆる面で個体差があるのは当然。
 彼らの場合肉体的よりも精神的な差異が生き方に大きな影響を及ぼしていました。精神的な個体差は主義や信念、思想の差を生まないでは済みません。
 セノン族の中にも他種族に対して寛容で、発展的思考をもって接しようとする者たちとそうでない保守的な者たちとがいたのです。

 発展的思考の持主は100歳に満たない若者に多く、その中の何人かが里を捨てて野(や)に下りました。他種族とふれあい、世界を見聞した彼らはたくさんの新しい知識をもって里に帰りました。それまで他種族に対してあまり接触を持たなかったセノン族がこうした若者たちの働きで徐々に変化していったのは、いまから数千年前のことでした。
 こうした事は長く続き、種族間の緩やかな融和となっていました。

 ところが300年ほど前、大きな事件が二つ起こりました。
 ひとつはセノン族の不妊です。
 はじめのうちは生まれた子供が数年のうちに原因不明の病で死んでしまうという事が増え始め、しばらくすると妊娠すること自体がほとんどなくなってしまったのです。
 さすがにおかしいと気づいた賢人たちが八方手を尽くしましたが、原因はわからずじまいでした。
 長命種族らしく、一時的なことかもしれないからしばらく様子を見ようということで結論したのですが、ひょんなことから答えを見つけたのはジェミンという種族でした。
 ジェミン族は商いを生業とする種族で、世界中に散って精力的に商業活動をしています。彼らは物を売るだけではなく、自ら生産活動も行っています。工業、農業、採掘、製造などで、簡単に言えば自給自販というスタイルの商売を、国家ぐるみで行っているのです。
 彼らの国はセノン族の里のすぐ東側にあり、距離的にもそれほど離れていません。言うなればお隣さんのような存在ではあったのですが、ほとんど交流はありませんでした。


 セノン族の不妊の原因に気が付いたのは、ジェミン族でも特殊な職業を生業としている人たちでした。
 ノスユナイア王国の南側に広がる山岳地帯は多くの魔物が棲みついている、一般の人が足を踏み入れようとはしない魔境です。
 その山岳地帯の入り口に位置するのがセノン族の隠里なのですが、隠里を過ぎてしばらくするといつもと違う様子を怪訝に感じた者がいたのです。
 そのジェミン族の名はアルバイム=マンドル。

 その日マンドルは数人の仲間を引き連れて、山岳地帯で魔器探索をしている別の仲間のところへ急いでいました。
 魔器とは魔法具の元になる自然界でしか取れない物で、石や木、あるいは金属などの事で、大山岳地帯でしか採れない物でした。しかも掘れば出るという類(たぐい)のものではないので、見つけるには相当の修業が必要になる難しい仕事なのです。マンドルはその仕事に携わる者のなかでもかなりのベテランでした。
 
 マンドルは気づいた気配を辿って行っておぞましい光景を見たのです。一緒にいた仲間たちも恐れおののきました。

「なんだこれは・・・」
「木が枯れてるのか?」
「いや。枯れたのとは違うようだぞ」
「しなびてる感じだな」
「色も・・・黄色とか赤とか、まるでカビのような・・・」
「腐っとる」
「形もおかしいな・・・この木はこんな葉や実の形ではないはずだ」
「この季節に花をつけとるなんて信じられん」
「・・・徐々に広がっとるのか?」
「そうかも知れん」
「前に来た時にもこんなだったのか?」
「いやぁ、どうだかな。こっちに来ることはないから・・・」
 するとマンドルが言いました。
「まさかとは思うが・・・」
「なんだ?心当たりでもあるのかマンドル?」
 マンドルは振り返って目をギラリとさせました。
「セノン族のアレよ」
 セノン族の不妊の話はみんな知っていました。みんなが顔を見合わせて戸惑いの表情を浮かべます。
「あんた、セノンの異変の原因がこれだとでも?」
「まさか」
 マンドルは皺の深い厳しい顔で唸りました。
「前回来たときはこんなものはなかった」
「まてまて。そもそもあんたがここに来たのは今日が初めてだろ?」
「確かにな。だが、この場所があればこそ異変の気配に気付けた」
 マンドルは顔のしわを深くして鼻息を吹き出し、あたりを見回しました。
「だがなあ」
 異論を差し挟もうとする仲間たちをギロリとにらみつけたマンドルは言いました。
「おそらく前回来た時にもこの状況はあったんだろうが、おそらくまだ規模が小さくて気が付かなかったんじゃろう」
「ううむ・・・」
 ほんの数秒。マンドルが目玉をギョロッと動かして考え、決断を口にするまでにかかったのはほんの数秒間でした。
「帰るぞ!」
「なんじゃと?!」
「正気かいなマンドル!」
「がたがたぬかすな!おい!お前たち三人は先方隊にわしらが帰ったことを伝えに行ってくれ!残りは国に帰って元首に報告じゃ!」
 せっかくここまで来たというのに戻るのかとぶうぶう文句を言う仲間たちの反対を押し切って、マンドルは踵を返してジェミン族の国であるレアン共和国へと帰ってしまったのです。
 帰国したマンドルは国家元首に事情を話すと、元首も事の重大さに気が付かされ、早速行動に移りました。
 封じの魔機を使ってあの毒に侵されて腐った森を隔絶する対策が始まったのです。
 しかも探索の結果、腐った毒の森は数か所に点在することが確認され、この事業は国家事業として行われることになりました。

 こうして隔絶対策を施された場所は毒の森と名付けられ、それ以上広がることもなくなりましたが、忌み嫌われて誰一人として近づくことがなくなったのでした。
 マンドルと一緒にいた仲間たちや、本国のジェミン族に異変は起こらなかったので、伝染性の毒ではないことはわかりましたが、封じの魔機による隔絶が完了した後もセノン族の状況は変わらなかったのです。
 だから実際はセノン族の不妊の原因が毒の森であったかどうかの真偽は解明されたとは言えませんでした。

 そしてこの事件を発端としてさらにセノン族を震撼させる出来事が起こります。
 ハーフセノンという混血種の誕生でした。

 セノン族は自らを至高の種族と考えていたので、里から出て野に下ろうとも他種族との婚姻は決して考えませんでしたし、第一に長老議会が断固として許しませんでした。
 しかし、数千年にわたって頑(かたく)なに純血を守っていたセノン族に亜種が生まれてしまったのです。他種族であるマシュラとの交配によって。
 世界の人々は新しい種族をハーフセノンと呼び受け入れましたが、セノンの里は彼らを同族として認めることは今日に至るまでしていません。それどころか当時は”穢れた亜種族”として里へ足を踏み入れることを固く禁じたのです。
 さらにハーフセノンの親となった純血のセノン族も”異種族の父祖”と呼び区別、あるいは蔑み、彼らに対してさえ里に帰ることを禁じていました。
 しかし世界に散ったセノン族や他種族の有力者たちの働きかけによって、最初のハーフセノンが生まれて50年ほどするとセノン族長老議会も態度を軟化させて、異種族の父祖であっても帰郷は許す、としたのです。
 しかし亜種であるハーフセノンは、セノン長老議会を頂点とするセノンの里では、現在に至るまで彼らを同じ血族として受け入れることも無く、里を訪れることも決して許すことはありませんでした。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



「カーヌよ」
「はいディエル様」
「ディオは、・・・ディオモレスはどうしておる?」
「ドルシェ様は、ノスユナイア王国での公務が忙しく・・・くれぐれもディエル様にはよろしくと申し付かっております」
 それを聞いたディエルは目を閉じて静かに息を吐きました。
「やはりディオには政治の世界が向いておるのか・・・。公爵の位を授かるほどノスユナイア国王にも気に入られているようだが・・・」
 ディエルは目を閉じて、過ぎ去りし日々を思い出そうとしました。
「ディオが生まれたのは500年ほど前だった。・・・幼子から少年、そして青年から大人へと移り変わる姿に、私自身の若いころを重ね合わせたものだった・・・」
 息を吐き、天井の絵画を眺め、そして窓の外の景色に視線を送り、また目を閉じる。カーヌはディエルのこの一連のしぐさにたまらなくなって口を開きました。
「ディエル様・・・」
「んん?どうした。そんなに悲しそうな顔をして」
 カーヌは薄っすらと笑顔になりかけましたが、表情の翳りは拭いきれませんでした。
「ディエル様、わたしは・・・私は未だ信じられません。ディエル様がもうじきお召しになるなんて・・・。こんなに、お元気じゃありませんか」
 カーヌはディエルと目を合わせることができずにうつむきます。
 そんなカーヌを見て二回、ディエルは静かに呼吸してから言いました。
「カーヌ」
「はい」
「私は運に恵まれていた。そして幸福でもあった。神々より多くを知る機会を与えられ・・・その期待に応えようと多くを学んだ」
 カーヌが自分の話にじっと聞き入っているのを見て、ディエルは続けます。
「真理を理解できたのも、神々の思し召しのおかげだ。・・・生きとし生けるもの、すべて神の元へと帰らねばならない。それはすべてサダメなのだ。決して逆らってはいけない。逆らえば神の怒りを買う。
 ・・・かつてその禁を犯し、神の怒りを買い、神の手で滅ぼされた種族がいた。いま彼らの痕跡は世界中の遺跡にあるのみだ・・・。だがそれも朽ち果て、やがては忘れ去られるだろう」
 それは神話の話でした。
 盲目に神話を信ずるほど自分は幼くはない。カーヌもディエルもお互いの気持ちはよく分かっていました。

「カーヌよ」
「はい」
「かつてこの世界の主は我々セノン族であった。だが今はマシュラ族のものとなった。しかし栄枯盛衰の繰り返しはあれども、変わらぬものがある。それはマシュラもセノンも、いや、すべての生き物は仮の住まいに根を下ろす間借り人に過ぎない、という事だ」
「世界のすべては神々の慈悲によって与え賜われたもの。神々の善意により貸し出されたもの・・・ですね?」
 ディエルはカーヌを見て微笑みました。
「この話は幾度となくしたが・・・」
 ひと呼吸の間をおいてディエルは話を続けます。
「・・・神の意思に逆らってはいけない。どのような形であれ、どのような理由であれ、滅び行くのは自然淘汰なのだ」
「ディエル様。それでも私は・・・あなたの教義を冒すことになるとしても言いたいのです。滅び行くのが定めであったとしても私はそれに抗いたい。あなたには永らえて欲しいのです」
 ディエルは目を閉じて鼻から息を吐きました。ゆっくりと。
「生まれてより300年、お前は未だ若い。まだまだ学ばねばならん事は多い。私とて未だに学び足らぬと思うことさえあるのだから」
「・・・」
「幸いにも我らセノン族には神々より長大な学びの時間を与えられた。神々からの贈物を存分に使うことが我らに課せられた使命なのだ。わかるな?そのために生きるのだカーヌ。生き抜いた先に何が待っているのかは神々すら、知り得ない事なのだから。・・・・・・生き抜き、より多くを学び、未来を見届けなさい」
 カーヌはその言葉に肯定も否定もできず、ただ視線を一点に留めて口を引き結ぶばかりでした。
 その様子を見てディエルはハッとしたように表情を硬くしました。
 彼が思いついたのは、弟子であるカーヌにしてやれる最大の贈り物の事でした。
「カーヌ。今際(いまわ)の時だ。お前にだけは話しておこう」
「?」
 カーヌは思いがけない師の言葉に、少し驚いたような顔を静かに上げます。ディエルは言葉にしたもののそれでも躊躇(ためら)いの時を空けてから口を開きました。
「これは・・・、これは私の懺悔だ。ディオにも、いや、誰にも・・・話したことはない。このことを知っている者は既にこの世に一人もいない。わたし以外はな・・・」
 ディエルは、憔悴した様子の中にも覚悟を窺わせる声色でそう呟きました。
「ディエル様?いったい・・・」
 ディエルは手を上げてカーヌを制するとその手をベッドに横たわった己の胸の上で組みます。
「私がまだ、今のお前と同じように、まだ若かった頃の話だ」
 カーヌは子供が初めて大人たちから聞かされる冒険譚に目を輝かせ、心を躍らせる気持ちになっている自分に気が付きました。これから老師が自分に聞かせようとしているのは、誰も知らない秘密の物語なのだと。
「カーヌ」
「はい」
「これから私のする話を聞いたら、それを決して誰にも話さないと誓ってくれるかね?」
 ディエルの表情は今まで見たことがないほどに、照れくさそうでもあり、恥ずかしそうでもあり、それゆえにこれから彼の口から紡ぎだされるであろう話が真実であることを感じさせました。
 カーヌは居ずまいを正しました。
「私がディエル様との約束を違(たが)えた事などありましょうか。ディエル様が話したいと仰るのであれば、それが私のためだと言うのであれば、それをあなたが望むなら、命を奪われようと決して誰にも口外しません」
 それはいつものこと。
 カーヌは眼前に横たわる1000年以上を生きた老人を幼い時から敬愛し、心から尊崇していました。
 その彼との約束をどうして破ることが出来ようか。
 師との約束は命を懸けて守るのは当然のことなのです。
 ディエルは頷き、そして話し始めました。
「今から・・・900年ほど前。お前が生まれる遥か以前のことだ。そう・・・あれは長い平和が打ち破られて起こった・・・100年もの間続いた争いの真っ只中だった・・・。ある国が、ゾム=ゾーナ=ウォルガに邪悪な牙を突き立てられようとしていた」
 その名前を聞かされたとき、カーヌの目は驚愕に大きく見開かれました。
「ゾム・・・ゾーナ・・・!?」
「お前も名前ぐらいは知っているだろう。900年前・・・黒闇の魔人と呼ばれ、同胞を含めた数多くの命を奪ったあの忌まわしき女だ」
 900年ほど前の出来事。
 いまや伝説として語り継がれているだけでしたが、子供の頃はあまりの恐ろしさに夜眠れなくなったことさえある、ゾム=ゾーナにまつわる話の数々をカーヌは思い出していました。
 ひとつの町が丸ごと消し飛んだ。立ち上がる巨大な黒煙に幾筋もの稲光が這い上がる轟音が止むと巨大な城が一瞬で瓦礫の山と化していた。湖の水が瞬時に蒸発して湖底が現れた。空を覆っていた厚い雲がかき消されて太陽が顔を出した。
 そんな話は枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がない程です。
「ゾム=ゾーナ・・・実在していたのでしょうか」
「会ったことがある」
 カーヌは息を呑みました。
「ほ、本当ですか?」
「嘘だと思うかね?」
 カーヌはハッとします。
「いえ・・・いえ・・・いいえ・・・。本当なんですね?」
 ディエルは瞬きとともにうなずきました。
「信じられぬのも無理はない。しかしあの女に引導を渡したのも、実は私なのだ」
 カーヌはあまりの驚きに言葉を失いました。しかしこれは紛れもない真実。なぜなら師が話している事だから。彼はそう思う自分自身を虚ろに感じ、寒気さえ覚えました。
 カーヌの思いを他所にディエルは数年前に会ったかの如く話をつづけます。
「私は、あの女から今はない国を守るために手を、貸したのだ」
「その国は滅びたのですか?」
「うむ・・・。その国があったところには現在、フスラン王国がある」
「ではマシュラ族に手を?」
「そうだ。マシュラ族・・・。そう・・・わたしは若かったのだ。お前よりも若かった。そのせいだとは言えない。マシュラより当然経験も豊富で、知識、知力、知恵、魔法力・・・す・・・すべての面で私は秀でていた。だから・・・わたしは過ちを犯したのだ・・・その思い上がりが一つの国を滅ぼし、気概溢れる男たちを死なすことに繋がってしまった・・・」
 そう言ったディエルは強い後悔の念を含んだ眼差しで天井の絵画を見ていました。しかし実際には絵ではなく脳裏に浮かべた遠い過去の映像を虚空に映し見ていたのです。
 カーヌはその横顔をジッと見つめ、彼の声に耳を傾けていました。


 ディエルがすべてを話し終えた翌日。
 1184年を生きたセノン族の最長老は眠るように神々の世界に旅立ったのです。







 ディエルが世を去る3年ほど前の春。
 大陸の南西にある宗教国家であるトスアレナ教皇国で人知れずひとつの事件が起こりました。

 彼の名前は、アルバス=ロン=ザカラッチェ。年齢は45歳。
 この世界の常識ですが、アルバスは名前ではなく、貴賜名といって父親から与えられるものです。それもただ通例で与えられるというものではないので誰しもがこの”貴賜名”が名前に冠されるという事ではありません。たとえば学力が突出して秀(ひい)でているとか、考えられないほど大きな事業を成功させたとか、居並ぶものもないぐらいの大金持ちや資産家、有力貴族、王家など、貴賜名を冠される人物は様々でしたが、この名が冠される理由は二つありました。
 ひとつめは期待によるものです。つまり前述した学力だけでなく科学的、芸術的な才能など、将来大をなす可能性があると期待してつけられるのです。
 ふたつめは時の国家元首、つまり国王や教皇などへの謁見の際に使われる名前として与えられます。つまり、貴賜名を与えられるという事は、神聖で厳粛な席に名を連ねる可能性のある人物であることの証明でもあったわけです。
 
 貴賜名を与えられるというのは事ほど左様に得ることが難しいものでしたが、その反面、世間に轟くような何かをしなければつけてはけないという法律による制限は設けられていなかったため、どうしてこの人が?という事もありました。
 奥ゆかしかったり、恥を知っている人であれば、自分は貴賜名を頂くほどの者ではないという自覚から、貴賜名を破棄する場合がほとんでしたがそうでない人も中にはいたようで、アルバス=ロン=ザカラッテェはというと後者に属す厚顔な男でした。

 ロンの属しているのはザカラッチェの一族でも分家のそのまた分家という感じの家で、彼の父親は息子に自家を盛り立ててほしいという願いから貴賜名を与え、ロンに奮闘するよう促したのですが、その結実を見ることなく世を去りました。
 ザカラッチェの家系は800年ほど遡ることができるほどに古く、トスアレナ教皇国では敬虔な信徒の家系としてそこそこ名は知られています。しかし分家の分家であるロンの家督はなかなか上流家系との縁がなく”そこそこ名の知れた同士”とのつながりが続いていた、いわば”その他大勢”のうちのひとつでしかなかったのです。
 それでもロンの父親は蓄財には熱心だったようで、かなりの財産を彼に残しました。
 それを使って何か事業でも起こせばよかったのですが、ロンにはその才能はなく、また人脈も乏しかったので結局は父の残した財産を食いつぶすしかありませんでした。それでもつましく生きていくのであればじゅうぶんすぎるほどでしたから、独身であることも手伝って財産を使い果たして路頭に迷うようなことにはならなかったのです。

 しかし、ある日を境にアルバス=ロン=ザカラッチェの人生は狂い始めたのです。
 それはロンが父の遺産の整理を行っているうちに、堅固な錠がかけられた古ぼけた箱を見つけ出した日の事でした。



 大きさは宝石箱ぐらいでしたから、両手で軽く持てるほどの大きさで、実に軽いものでした。振ってみるとかさかさと紙のようなものが入っている音がします。
「お金だろうか」
 ロンは欲深な人間ではありませんでしたが、もしかすると金になる証文のようなものや、宝の地図のようなものが入っているのかもしれないと考え始めると、開けたくてたまらなくなってしまいました。
 いろいろな人に相談をしてようやく分かったのは、この箱には魔法で鍵をかけてあるという事でした。
「封印?」
「そのとおり」
 ロンの知人は言いました。
 この箱を開けるには開封魔法を使う必要がある。でも開封魔法は非常に高度な魔法でそれを使える魔法使いを雇うにしても結構な額を取られるだろう、と。
 ロンは考え込んでしまいました。
 高額な依頼料を払って箱を開けても、入っていたものがそれに見合うものでなかったとしたら大損です。
 そこで彼は召使いに、「手のすいているときに父の残した書類を調べて、この箱についての記述書類のようなものがないか、探してほしい」こういって箱の正体を探ることにし、その結果いかんで箱の処遇を決めることにしたのです。
 気の毒だったのは書類を調べさせられる召使いたちでしたが、ロン自らも書類の整理には手を貸したため、しぶしぶでしたがやらざるを得ませんでした。
 それから数日後。
「ご主人様!」
「あったのか?!」
 召使いから渡された文書にロンは飛びつきました。
 冊子になっていて、すすけてはいましたが保存状態は良好でした。表紙には魔方陣が書いてあります。
「中は読んだか?」
「すこしだけ」
「なんと書いてあった?」
「その箱の形状を示す1ページ目の記述です。たしか・・・300年前に手に入れたとか・・・」
「それで?」
「そこまでしか。内容はご主人様が直接見たほうが良いかと思いまして」
「そうか!うむ!下がっていいぞ!よくやった!後で皆に褒美を出すからな!」
 ロンも喜びましたが、召使たちもこれで余計な仕事から解放されると大喜びでした。

 ロンはその日から魔法書と首っ引きで本を読みました。
 最初のページには手に入れた時が記されていました。300年ほど前です。次は形状。魔法で封印されていることが記されていました。
 そして、封印魔法の種類と開け方を知るにいたったのです。
 それは拍子抜けするほど簡単な方法でした。誰でも知っていてどこにでも生えている薬草を数種類煮込んで作った煮汁をふりかけるだけです。

 ロンはさっそく薬草を集めてきて煎じ煮詰め、封印を解く薬液をこしらえました。そして召使いが誰も来ない週に一度の非番日の前日、全員が家に帰ったその夜、封印を解く儀式を始めたのです。
 薬液を振りかけて、ロンでも知っている簡単な呪文を口にすると、箱のカギはカチンと弾けてあっけなく壊れて開いたのです。
 期待を込めて箱の中を見たロンは一度はがっかりしました。入っていたのが紙切れ二枚だったからです。
 ところがそれを摘(つま)み上げて、明かりの下で見たとたんに彼は両手のこぶしを振り上げて思わず声を上げかけ、慌てて口をふさぎました。
 二枚のうちの一枚は羊皮紙で、もう一枚は厚紙でした。ロンの胸を躍らせたのは、羊皮紙のほうです。
 そこには地図が書き記されていました。しかもかなり正確な地図で場所も具体的だったのです。
「ここなら知ってるぞ・・・」
 ロンは慌てるように部屋から出ると書庫へ行って、地図帳を抱えて戻ってきました。
 机の上のものを手で薙ぎ払って大きな地図帳を広げ、羊皮紙の地図と照らし合わせました。
「ここだ。この島に絶対に間違いない!ここなら一日あれば行って帰って来れるぞ・・・」
 ロンはこの時初めて自分の貴賜名に思いを馳せました。そしてこう思ったのです。アルバスという貴賜名に恥じない宝を見つけてやる、と。

 その夜のうちに荷物をまとめたロンは、翌日の朝には船上の人となっていました。
 宝を目前にして意気揚々のロンでしたが、島に到着するや、突然体調が悪くなってしまいました。人に見られたくなかったので、そのまま町の安宿に入って休んでいましたが、あまりの気分の悪さに気絶してしまい、目が覚めると既に日が暮れてしまっていたのです。
 天井のクリスタルに魔法を吹き込んで明かりをつけ、起き上がろうとしたロンは思わず叫んでしまいました。
 それを聞いたホテルの従業員がドアをたたきます。
「何でもない!転んだだけだ!!ほっといてくれ!」
 従業員は首を傾げながらその場を去りました。
「なんだ・・・なんなんだよこれ・・・」
 それはおぞましい光景でした。
 ロンの体が二倍に伸びて、まるでムカデのように腕が何本も生えていたのです。一本一本の腕も自分の意志で動かせるし、感覚もありました。
 どう考えても、あの箱が原因だとロンは思いましたが、今更どうにもなりません。
 それよりも恐怖したのは、この事実が明るみに出れば、トスアレナ教皇国の魔法省から送られた役人によって確実に殺されるという事でした。
 教会は呪われて怪物と化した者に容赦などしてはくれないことをロンもよく知っていたのです。
「呪いの箱だったんだ・・・ちくしょう!何てことだ!」
 ロンは頭に一番近い腕の手で頭を抱えました。すると、今度は髪の毛がごっそりと抜け落ちたのです。
「まずい・・・このままじゃ・・・!」
 ロンは地図のほかにあった厚紙を思い出しました。
「これだ!」
 その厚紙には魔法陣が書いてあります。
「この地図の場所に行ってこの魔方陣を発動させればもしかすると・・・」
 もしかするとこの呪いが解けるかもしれない。
 彼にはもはやその考えにすがるしか他に方法がありませんでした。


 時刻は12時を過ぎて真夜中です。
 ロンは宿泊費だけは机の上に律儀において、窓から抜け出しました。
 足で立つより、這いつくばって行った方が速く走れました。
「たのむ・・・間に合ってくれ・・・」
 ロンは自分の今の姿が大山岳地帯に生息する怪物に似ていることを自覚していました。
「いやだ・・・あんなものになりたくない!・・・なってたまるか!!」

 ロンはついに地図が指し示す場所にやってきました。
「こっ・・・ここでこの魔方陣を・・・」
 彼は魔方陣を片手で持って呪文を唱えました。
 魔方陣が紙片から抜け出て、空に姿を映しました。
 光り輝く魔方陣が空間から元素を取り込んで輝きを増していきます。
 ロンは必死の思いで両手を合わせて祈りました。
「助けてくれ・・・助けてくれ・・・」
 魔方陣が光の粒をまき散らしながら地面に着地するとそこから一人の男が現れました。
 強めのウェーブが掛かった長い髪の男です。
 この男がこの呪いを解いてくれるに違いない。ロンはそう思い叫びました。
 助けてくれ!
 しかし実際に出た声は。
「ばぶげべぶべ!!!!」
 地に這いつくばって懇願するロンに髪の長い男は胸のポケットから一枚の紙片を取り出しました。
 それが呪いを解いてくれるんだな?
 そう思うロンの額に、男は紙片を貼り付けました。
「すまん・・・」
 ロンは・・・。
 ロンだった怪物は砂粒になって消え去りました。
「ありが・・・」
 最後の言葉を残して。
「来るのが遅すぎた・・・」
 髪の長い男はそう呟くと憎しみとも悲しみともつかない表情を浮かべ、その場を去っていきました。



 時は創世歴3724年。
 二つの大国が拮抗する力で均衡を保っている不安定な平和が200年近く続いていた、あるひと時の出来事。

 止まっていた運命の歯車はゆっくりと動き出し、軋る音を奏で始めたのです。



情報===========================================
●貴賜名(きしめい):神より賜った貴い名という意味
ノスユナイア王国では通常公式の場で在位の王族が臣下配下に対して呼びかける時に貴賜名を使用する。
位の高いものであれば親が、そうでない場合は自分で考える。ただし、王族から名前を呼ばれる事はあまりあることではないため、一般人で貴賜名を持っている者は極々少数。一般の人々は名前か家門名(姓)で呼び合い、必要になった時には神官から授けられる。
この文化はマシュラ族特有のもので、セノン族、ジェミン族、アカ族の名前には貴賜名は存在しない。ハーフセノンは生い立ちによるが基本的に王から言葉をもらう可能性のある者は持っている。
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