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第四章(2)
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アンヌッカはくりっと目を大きく見開いた。
目の前にいるこの男が、アンヌッカの夫なのだ。
濡れ羽色の髪、榛色の瞳。座っているから実際の身長はわからないが、座っていてもこれだけの目線である。立てばアンヌッカが見上げる必要はあるだろう。
それよりも彼は、アンヌッカであると気づいていない。目の前にいる女性は、カタリーナ・ホランという認識なのだ。
アンヌッカだって普段のアンヌッカとは異なり、赤茶色の髪をすっきりと一つにまとめ、くるっと後頭部でシニヨンを作った。それから、紫色の瞳を隠すかのように黒縁眼鏡もかけている。アンヌッカを知っている者も、この姿を一目見ただけではアンヌッカであると気づかないはずだ。
まして、目の前の夫はアンヌッカと一度も顔を合わせたことがない。もしかしたら、釣書を確認しているかもしないという思いもあって、普段とは違う装いにしてみたのだ。
しかし、絶対にアンヌッカであると気づいていない。気づく素振りすら見せていない。となれば釣書すら見ていないのだろう。
アンヌッカだって、名前を聞いただけでこの結婚を受け入れたくらいで、まともにライオネルの釣書を見ていなかった。いや、あれは軍への入隊希望者の資料だ。
となれば、これはもうお互いさまだ。
「はい。それでは、失礼いたします」
イノンがビクビクとした様子で頭を下げたため、アンヌッカもそれにならった。
ライオネルの執務室を出た途端、イノンが大きく肩を上下させて息を吐いた。
「はぁ……緊張しました……」
どうやらライオネルは部下から怖がられているようだ。
「そうですね。なんか、怖そうな人でしたね」
第一印象は大事だというのにあれでは最悪だろう。彼らが怯えるのも納得できる。
「あの方は、研究室にはおられないのですか?」
「はい。マーレ少将の専門は魔獣討伐です。ですが今回、魔獣討伐を行ったゾフレ地区から出てきた魔導書ということで、この件にかかわっておりますし、なによりも魔法研究部もあの人の直轄なので……」
そう言ったイノンの目はどこか宙をさまよっている。
「つまり、わたしとは縁のない方だと認識してよろしいですか?」
「あ、そうですね。カタリーナさんがこちらで仕事をする上では、書類にサインをする人だと思っていただければ」
立場としてはアリスタに似ているのだろう。執務室で仕事をこなし、必要なときにだけ研究室に顔を出す。あとは所員が出してきた報告書等を確認して、サインする存在だ。
「わかりました」
仕事をするうえで接点がないのであれば、カタリーナがアンヌッカだと知られる心配はない。その事実に胸をなでおろす。
イノンと並んで歩き、先ほどの研究室へと戻った。
机の上に乱雑に置いた荷物を片づけていると、イノンが分厚い魔導書を持ってやってきた。
「早速で悪いのですが、カタリーナさんにはこの魔導書の解読をお願いしたいのです」
その瞬間、室内にいる者たちの視線が、一斉にカタリーナに向いた。その目は「かわいそうに」と言っているようにも見える。
「はい、ありがとうございます」
白の絹手袋をつけて、イノンから魔導書を受け取れば、ずしっとした重みが手にくわわった。
色がすすけてはいるものの、凝った金の飾り模様が表紙に描かれている。
「うわぁ。この装丁も、素晴らしいですね……あっ。これは……魔法史について書かれているのですね?」
「カタリーナさんは、辞書などがなくても古代文字が読めるのですか?」
古代文字で書かれている魔導書は、その表紙なども古代文字で書かれている。だからまずは、その魔導書が何について書かれているか、表紙の解読から始めなければならない。
「よく見る古代文字は覚えています。魔導書の分類は、魔法史、術式展開、魔法薬の大きく三つですから、まずはこの三つさえ覚えてしまえばいいのです」
おぉっと感心したような野太い声が、室内に響き渡る。
「我々は、元々は諜報部門にいたのですが、古代文字の知識はまったくなかったため、苦戦しているところです」
「こつさえ覚えてしまえば簡単です。みんなで古代文字を勉強しましょう」
魔導書の解読が目的であったのに、アンヌッカはそう口にしていた。
イノンは不意をくらったようにきょとんとしている。だが、すぐに我に返って「そうですね」と言う。
「カタリーナさんは、面白い方ですね。見た目とこうギャップがあるといいますか……もっとこう、お堅い感じのイメージがありましたので」
そうだった。いつものアンヌッカではなく、ここにいるのはカタリーナ・ホランという女性なのだ。
だが、もう手遅れだろう。結局、他の誰かを演じるとか、アンヌッカにとってはどだい無理な話なのだ。
となれば、見た目だけはなんとか誤魔化すことにして、あとは普段と変わらないようにしたほうが、ぼろがでなくていいだろう。
「よく言われます。では、早速始めさせていただきますね」
見たことのない魔導書でアンヌッカは早くこれを読みたかった。
頬ずりしたいくらい愛おしい魔導書だが、やたら触りまくってもいけない。古代文字で書かれた魔導書は貴重な資料。しかも、禁帯本とのことでこの研究室から出せないために、アンヌッカがやってきたのだ。
手袋越しに感じる装丁の飾りの凹凸すら、時代によって異なる。この手触りであれば、今から千年以上も前のものだ。
装丁から推測される魔導書の年代を紙に書き留めていく。ただし、この魔導書を汚してはいけないため、紙は隣の机に用意してあり、魔導書を見ては隣の机に移動するという動きを繰り返す。
「それだけ動くと大変ではありませんか? 僕たちはその魔導書が汚れても気にしませんから」
目の前にいるこの男が、アンヌッカの夫なのだ。
濡れ羽色の髪、榛色の瞳。座っているから実際の身長はわからないが、座っていてもこれだけの目線である。立てばアンヌッカが見上げる必要はあるだろう。
それよりも彼は、アンヌッカであると気づいていない。目の前にいる女性は、カタリーナ・ホランという認識なのだ。
アンヌッカだって普段のアンヌッカとは異なり、赤茶色の髪をすっきりと一つにまとめ、くるっと後頭部でシニヨンを作った。それから、紫色の瞳を隠すかのように黒縁眼鏡もかけている。アンヌッカを知っている者も、この姿を一目見ただけではアンヌッカであると気づかないはずだ。
まして、目の前の夫はアンヌッカと一度も顔を合わせたことがない。もしかしたら、釣書を確認しているかもしないという思いもあって、普段とは違う装いにしてみたのだ。
しかし、絶対にアンヌッカであると気づいていない。気づく素振りすら見せていない。となれば釣書すら見ていないのだろう。
アンヌッカだって、名前を聞いただけでこの結婚を受け入れたくらいで、まともにライオネルの釣書を見ていなかった。いや、あれは軍への入隊希望者の資料だ。
となれば、これはもうお互いさまだ。
「はい。それでは、失礼いたします」
イノンがビクビクとした様子で頭を下げたため、アンヌッカもそれにならった。
ライオネルの執務室を出た途端、イノンが大きく肩を上下させて息を吐いた。
「はぁ……緊張しました……」
どうやらライオネルは部下から怖がられているようだ。
「そうですね。なんか、怖そうな人でしたね」
第一印象は大事だというのにあれでは最悪だろう。彼らが怯えるのも納得できる。
「あの方は、研究室にはおられないのですか?」
「はい。マーレ少将の専門は魔獣討伐です。ですが今回、魔獣討伐を行ったゾフレ地区から出てきた魔導書ということで、この件にかかわっておりますし、なによりも魔法研究部もあの人の直轄なので……」
そう言ったイノンの目はどこか宙をさまよっている。
「つまり、わたしとは縁のない方だと認識してよろしいですか?」
「あ、そうですね。カタリーナさんがこちらで仕事をする上では、書類にサインをする人だと思っていただければ」
立場としてはアリスタに似ているのだろう。執務室で仕事をこなし、必要なときにだけ研究室に顔を出す。あとは所員が出してきた報告書等を確認して、サインする存在だ。
「わかりました」
仕事をするうえで接点がないのであれば、カタリーナがアンヌッカだと知られる心配はない。その事実に胸をなでおろす。
イノンと並んで歩き、先ほどの研究室へと戻った。
机の上に乱雑に置いた荷物を片づけていると、イノンが分厚い魔導書を持ってやってきた。
「早速で悪いのですが、カタリーナさんにはこの魔導書の解読をお願いしたいのです」
その瞬間、室内にいる者たちの視線が、一斉にカタリーナに向いた。その目は「かわいそうに」と言っているようにも見える。
「はい、ありがとうございます」
白の絹手袋をつけて、イノンから魔導書を受け取れば、ずしっとした重みが手にくわわった。
色がすすけてはいるものの、凝った金の飾り模様が表紙に描かれている。
「うわぁ。この装丁も、素晴らしいですね……あっ。これは……魔法史について書かれているのですね?」
「カタリーナさんは、辞書などがなくても古代文字が読めるのですか?」
古代文字で書かれている魔導書は、その表紙なども古代文字で書かれている。だからまずは、その魔導書が何について書かれているか、表紙の解読から始めなければならない。
「よく見る古代文字は覚えています。魔導書の分類は、魔法史、術式展開、魔法薬の大きく三つですから、まずはこの三つさえ覚えてしまえばいいのです」
おぉっと感心したような野太い声が、室内に響き渡る。
「我々は、元々は諜報部門にいたのですが、古代文字の知識はまったくなかったため、苦戦しているところです」
「こつさえ覚えてしまえば簡単です。みんなで古代文字を勉強しましょう」
魔導書の解読が目的であったのに、アンヌッカはそう口にしていた。
イノンは不意をくらったようにきょとんとしている。だが、すぐに我に返って「そうですね」と言う。
「カタリーナさんは、面白い方ですね。見た目とこうギャップがあるといいますか……もっとこう、お堅い感じのイメージがありましたので」
そうだった。いつものアンヌッカではなく、ここにいるのはカタリーナ・ホランという女性なのだ。
だが、もう手遅れだろう。結局、他の誰かを演じるとか、アンヌッカにとってはどだい無理な話なのだ。
となれば、見た目だけはなんとか誤魔化すことにして、あとは普段と変わらないようにしたほうが、ぼろがでなくていいだろう。
「よく言われます。では、早速始めさせていただきますね」
見たことのない魔導書でアンヌッカは早くこれを読みたかった。
頬ずりしたいくらい愛おしい魔導書だが、やたら触りまくってもいけない。古代文字で書かれた魔導書は貴重な資料。しかも、禁帯本とのことでこの研究室から出せないために、アンヌッカがやってきたのだ。
手袋越しに感じる装丁の飾りの凹凸すら、時代によって異なる。この手触りであれば、今から千年以上も前のものだ。
装丁から推測される魔導書の年代を紙に書き留めていく。ただし、この魔導書を汚してはいけないため、紙は隣の机に用意してあり、魔導書を見ては隣の机に移動するという動きを繰り返す。
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