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 アルベティーナがルドルフの執務室へと向かう足取りは重い。いつも感じる早朝の爽やかな空気ですら、尖った針のように身体に突き刺さってくるようだ。
 いつもと変わらずルドルフの執務室の扉を叩くと、この時間は少し不愛想なルドルフの声が迎えてくれる。揺れ動く気持ちを悟られないように、アルベティーナは顔を引き締めた。
「おはようございます、アルベティーナ・ヘドマンです」
 きっと声色もいつも通りのはず。表情も普段と変わらないだろう。
「ああ、おはよう。早速で悪いが、この書類の仕分けを頼みたい。北の治水工事の案件なのだが、内容に一貫性がなくてな。スケジュールに関する案件、費用に関する案件、それ以外で仕分けてもらえないだろうか」
「承知しました」
 グルブランソン王国の北にはテスファン川という大きな川が流れている。この川であるが、数年に一度、大雨によって氾濫するのが大きな問題となっていた。それを対策するために、やっと治水工事が始まるのだが、そのステファン川に面している各領主が出してくる書類に、どうやらルドルフは悩まされているらしい。全部が全部とは言わないが、どうやら虚偽の報告も紛れ込んでいるとか。それを見抜くためにも、いくつもの書類を確認し、現地の状況を調査したうえで、総合的に判断する必要がある。
 ルドルフからその話を聞いていたアルベティーナは、言われた通りに仕分けすると共に、矛盾を感じる書類だけを個別に分けていた。これだけの書類に目を通すだけでも骨が折れるというもの。
 カサカサと書類のめくる音だけが響く空間。だが、アルベティーナの左隣にはルドルフがいる。密着しているわけではないし、人ひとり分の空間を開けて隣にいるはずなのに、なぜか左肩だけが熱くなるような感覚があった。意識をしてしまうと、いつもより心臓が速く大きく鳴り出す。
「今日はもういい。そろそろ時間だろ」
 ルドルフの声ではっとする。
「明日も頼む」
「団長……」
 恐らくアルベティーナは目尻を下げてしまったのだと思う。なぜならルドルフが怪訝そうにこちらを見つめてきたからだ。
「団長のお手伝いは、今日で最後になります……」
「そうか。それは残念だな。お前が手伝うようになってから、仕事がいつもよりはかどっているのは事実。あまり深い内容の仕事は、事務官には手伝ってもらえないしな。その点、お前なら口も堅いし、信頼もおける」
「申し訳、ありません……」
 アルベティーナは立ち上がって、深々とルドルフに頭を下げた。下げたまではよかったが、上げるタイミングがわからない。ルドルフが何か言うまではこのままでいようと思った。と同時に今、彼の顔を見ることができない。
 ルドルフが深く息を吐く。
「頭をあげろ」
 だが、今のアルベティーナは頭をあげることができない。ピクリとも動かない彼女に対して、ルドルフは不審に思ったのだろう。
「おい、アルベティーナ。頭をあげろ。俺が気にするなと言っているんだ」
 このルドルフの口調は少し苛立っている。
「おい」
 アルベティーナは恐る恐る頭をあげた。目尻からは涙が溢れ、つつっと頬に一筋伝う。
「なっ。お前、泣いているのか? いいから座れ」
 ちっ。とルドルフが舌打ちをして、席を立つ。
 アルベティーナは涙を止めようと必死になっていた。まさか、この場で泣いてしまうとは自分自身でも思っていなかった。とにかく目を見開き、流れた涙を手の甲で拭い、心を落ち着かせる。
 そこへ、ルドルフが湯気の立つカップを二つ手にして戻ってきた。
「ほら。これでも飲んで落ち着け」
 まだ書類の山が残っているこの机でお茶を飲むことに気が引けるアルベティーナだが、そのカップを受け取った。
「ありがとう、ございます」
 いぶしたような香りが紅茶から漂ってきた。この紅茶は、飲んだ後すっきりとするためルドルフが好んで飲んでいる紅茶だ。
「落ち着いたか?」
 ルドルフは紅茶には手を付けず、机の上に肘をつき頬杖をついてアルベティーナをじっと見つめている。あまりにもその視線が気になってしまったため、アルベティーナも顔を向けると、彼と目が合いふっと微笑んだ。
「大丈夫そうだな。よかった。で、何があったんだ? お前が泣くほどのことだなんて」
「あ……っ」
 核心を突かれてしまうと、アルベティーナは言葉が出ない。
「言いたくないなら、無理に言わなくてもいいが……」
 そこで彼女はルドルフから視線を逸らし、目を伏せる。ルドルフもカップを口元へ運ぶ。どちらも言葉を口にせず、静寂だけが過ぎていく。
 カップの紅茶を半分まで飲んだ頃、アルベティーナは意を決して口を開いた。
「団長」
「なんだ」
 右眉をひくりとあげながら、ルドルフは顔をアルベティーナの方へ向けた。だが、アルベティーナは手元のカップに目を向けたまま、ルドルフの方を向こうともしない。
「あの……。私が殿下の婚約者候補になっていることは」
「ああ、知っている。だからこそ、毎朝お前に仕事を手伝ってもらっていることも、あいつには伝えている」
 シーグルードのことを『あいつ』と言ってしまうあたりが、二人の仲の良さの表れなのだろう。
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