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 なぜ彼は、ファンヌと婚約をしていた時にはそのような姿を見せてくれなかったのか。お互い、義務で婚約したようなものであったが、少なくともファンヌは歩み寄ろうとしたのだ。彼と婚約した当初は。
 だが、クラウスによって二人の間に高い壁を築き上げられてからは、それが無駄な努力であると思えてきた。だから、王宮の隣に工場を整備し、そこで『調茶』をすることに没頭し始めた。効率よく、そして作業者の負担を少なくするにはどうしたらいいか。
 その間、クラウスはアデラに現を抜かしていたことにも気づかずに。
 ファンヌは机の下でエルランドに向かって手を伸ばした。突然の行為にエルランドは一瞬驚いたようであったが、黙ってファンヌの手を握りしめてくれた。

 休憩を挟みながら、発表は淡々と進んでいく。発表は二十分、質疑応答で十分、計三十分。それが一つの発表に対する持ち時間である。発表終了の五分前にはチンと鐘が一回鳴らされる。そして、終了時間がくると、チンチンチンと三回鳴り、その時間で発表は強制終了となる。持ち時間の間に発表を終わらせる技量も、必要とされているためだ。
 質疑応答の時間では、エルランドもいくつか質問をした。リヴァスを離れていた彼にとっては、やはり今日の研究発表は興味をそそられるものが多いようだ。そして、発表者も質問者がエルランドと知ると、途端に顔を引き締める。
 昔と変わらぬ研究発表の場。
 そしてとうとう最後の発表の時間となった。壇上に立つのはマルクス。その側にはクラウスが控えている。
 ファンヌがエルランドに視線を向けると、彼はじっと前の二人を見据えていた。
 マルクスの発表はいつも個性的だ。研究発表の場でもあるのに笑いが起こるのは、マルクスにとっては珍しいことではない。
 会場に誰かが入ってきたことにファンヌは気づいた。いつもであれば途中で誰が入って来て、誰がいなくなろうが気にならないのに、なぜか気になってしまった。
(国王陛下……。そうか、クラウス様がいらっしゃるから)
 後ろの入り口付近に立っているのは、リヴァスの国王。近くの席に、音も立てずに座る。
 マルクスの声が会場には響いていた。
「こちらが私の『調薬』によって生まれた『頭髪を豊かにする薬』ですが。今、豊かな頭髪をお持ちのみなさんも、この『薬』に頼る日が近いうちに訪れることでしょう。さて、ここからがこの『薬』の応用系になります」
 クラウスがマルクスに透明な小瓶を二本手渡した。それぞれの小瓶には、色の違う液体が入っている。
「これは、どちらも薬草のカナルムトから抽出された液体であり、『頭髪を豊かにする薬』にも用いられているものです。ですが、このカナルムト。保存方法によって効能が大幅に変わってくるのです。それはもう『頭髪を豊かにする薬』が『頭髪を失ってしまう薬』に変化してしまうほど」
 どっと笑いが起こった。
 マルクスがなぜかクラウスに目配せをしている。
 ファンヌには『カナルムト』の薬草に聞き覚えがあった。カナルムトは薬草の中でもわりとメジャーな薬草で、『調茶』や『調香』にもよく使われる。そして、リヴァスのような気候でよく育つ。
(カナルムト……。最近、聞いたような気がする。いえ、あの工場で使っていた)
 カナルムトは、リヴァスの『調茶』の工場でよく用いていた薬草だ。
(そして、あの『薬』からも)
 ドクン、とファンヌの心臓が大きく震えた。
「では、このカナルムト。どれだけ効能が違うのかということを、皆さまにも紹介しましょう。まずはですね、この匂い。興味のある方、いらっしゃったら手をあげてくださいね」
 クラウスが次々と小瓶の蓋を開けていき、希望した者にその小瓶を手渡していく。
 小瓶を受け取り、匂いを嗅いだ者が「うっ」と顔をしかめるたびに、また笑いが起こる。
(匂い……?)
 ファンヌの胸が苦しくなった。それよりも、エルランドが苦しそうに胸を抑えている。
「エルさん」
 まだマルクスの発表は終わっていない。小声でファンヌは彼の名を呼ぶ。
「おやおや。このカナルムトの別効果によって、本来の姿を見せようとしている者がいるようですね」
 壇上のマルクスの口調が変わった。
「エルランド・キュロ教授。ご気分が優れないようですが?」
 マルクスの声によって、聴講者の視線がエルランドに集まる。
「エルさん」
 ファンヌは立ち上がり、エルランドの頭を隠すかのようにして彼の側に寄る。
「すみません。マルクス先生のおっしゃる通り、気分が優れないようですので。退出させていただきます」
 エルランドの腕を抱え、立ち上がらせようとするが、全身から力が抜けているようなエルランドをファンヌ一人の力で支えることは難しい。
 そしてファンヌが先ほどから気になっていたのが、エルランドの頭部にひょっこりと姿を出した獣の耳だ。
「じゅ、獣人……」
 近くの聴講者の一人がエルランドの耳に気が付いた。
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