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妻が気になる夫と娘が気になる妻(6)
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驚いて彼を見上げたオネルヴァは、静かにグラスに手をかけた。
「飲めるか?」
「は、はい……。落ち着きましたので」
グラスはびっしりと汗をかいていた。これもイグナーツの魔術のおかげなのだろう。きっと、水を冷やす魔術だ。
グラスを傾けると、口の中が冷たくて澄んだ水で満たされた。ただの水であるのに、さっぱりとしていて美味しいと感じる。
彼女が水を飲み干したタイミングで、イグナーツは手を伸ばしてきた。グラスを預かるという意味だろう。オネルヴァも空になったグラスを彼の手に預けた。
それでもまだ、心臓はドクドクとうるさく動いている。
彼と交わした初めての深い口づけは凄かったとしか言いようがない。あんなものが存在することすら知らなかった。
今でも熾火となって、身体の奥で疼く熱を放っている。彼の寝台の上で、こうやって呆けて座っていることしかできない。
「大丈夫か? もしかして、俺の魔力に当てられたか?」
意味がわからず首を傾げると、ギシリと音を立ててイグナーツが寝台に腰をおろした。
身体を捻って、オネルヴァの顔を覗き込む。
「やはり、顔色がすぐれないようだ。すぐに休みなさい」
何を言葉にしたらいいかわからず、困ったオネルヴァは目を瞬いた。
「あ、はい……」
オネルヴァは彼の寝台から降りようとしたが、ふらりと大きく身体が傾いてしまった。すぐさまイグナーツが手を伸ばし抱きとめた。
「やはり、俺の魔力にやられたのでは? 君さえよければこの寝台を使いなさい」
「あ、はい……ですが、旦那様は……?」
彼の胸の中で顔をあげると、すぐ目の前に茶色の瞳がある。
「俺は……向こうで寝る」
彼が顔を向けた場所は、二人の寝室である。一度も使ったことのない部屋。
オネルヴァを寝台に残し、立ち去ろうとする彼の寝衣の裾を思わず掴んでしまった。
「旦那様……ご迷惑でなければ、ご一緒に……」
彼女自身も、なぜそう言葉にしてしまったのかはわからなかった。だが、離れてはならないような気がしたのだ。
「そう……そうです。だって、旦那様の魔力がまた溢れてきてしまっては困りますよね。ですから、一緒に休まれたほうがいいのではないでしょうか?」
ものすごく正論を口にした気がする。だが、イグナーツは動きかけた身体をピタリと静止させていた。
「旦那様?」
拒まれたらどうしようという思いもあった。
「嫌ではないか?」
ビシッと身体を固まらせたまま、彼は尋ねてきた。だから、オネルヴァは答える。
「はい、嫌ではありません」
深い口づけを交わした仲である。今さら、共寝をするくらいどうってことはない。
イグナーツはきっちり百八十度回転して、オネルヴァを見下ろしてきた。唇がひくひくと動き、何か言いたそうにしている。
「では、失礼する」
膝をつき、寝台へとあがってきた。二人分の重みが加わり、寝台が沈む。
「できるだけ、君には近づかないようにする。だから、安心して眠ってくれ……」
イグナーツは、オネルヴァに背を向けて寝台の隅っこで丸くなった。
*~*~苺の月十一日~*~*
『きのう おとうさまはおそくにかえってきました
エルシーが ねむってからかえってきたようです
おしごとが いそがしかったみたいです
あさのごはんをたべながら たくさんあくびをしていました
おしごとは たいへんです
おとうさまがいないと ときどき さびしくなります
でも おかあさまがいっしょにいてくれるので いまはへいきです
かぞくがもっとふえたら もっとさびしくないとおもいます
エルシーもはやく おねえさまになりたいと おかあさまにいったら
おかあさまはわらっていました』
「飲めるか?」
「は、はい……。落ち着きましたので」
グラスはびっしりと汗をかいていた。これもイグナーツの魔術のおかげなのだろう。きっと、水を冷やす魔術だ。
グラスを傾けると、口の中が冷たくて澄んだ水で満たされた。ただの水であるのに、さっぱりとしていて美味しいと感じる。
彼女が水を飲み干したタイミングで、イグナーツは手を伸ばしてきた。グラスを預かるという意味だろう。オネルヴァも空になったグラスを彼の手に預けた。
それでもまだ、心臓はドクドクとうるさく動いている。
彼と交わした初めての深い口づけは凄かったとしか言いようがない。あんなものが存在することすら知らなかった。
今でも熾火となって、身体の奥で疼く熱を放っている。彼の寝台の上で、こうやって呆けて座っていることしかできない。
「大丈夫か? もしかして、俺の魔力に当てられたか?」
意味がわからず首を傾げると、ギシリと音を立ててイグナーツが寝台に腰をおろした。
身体を捻って、オネルヴァの顔を覗き込む。
「やはり、顔色がすぐれないようだ。すぐに休みなさい」
何を言葉にしたらいいかわからず、困ったオネルヴァは目を瞬いた。
「あ、はい……」
オネルヴァは彼の寝台から降りようとしたが、ふらりと大きく身体が傾いてしまった。すぐさまイグナーツが手を伸ばし抱きとめた。
「やはり、俺の魔力にやられたのでは? 君さえよければこの寝台を使いなさい」
「あ、はい……ですが、旦那様は……?」
彼の胸の中で顔をあげると、すぐ目の前に茶色の瞳がある。
「俺は……向こうで寝る」
彼が顔を向けた場所は、二人の寝室である。一度も使ったことのない部屋。
オネルヴァを寝台に残し、立ち去ろうとする彼の寝衣の裾を思わず掴んでしまった。
「旦那様……ご迷惑でなければ、ご一緒に……」
彼女自身も、なぜそう言葉にしてしまったのかはわからなかった。だが、離れてはならないような気がしたのだ。
「そう……そうです。だって、旦那様の魔力がまた溢れてきてしまっては困りますよね。ですから、一緒に休まれたほうがいいのではないでしょうか?」
ものすごく正論を口にした気がする。だが、イグナーツは動きかけた身体をピタリと静止させていた。
「旦那様?」
拒まれたらどうしようという思いもあった。
「嫌ではないか?」
ビシッと身体を固まらせたまま、彼は尋ねてきた。だから、オネルヴァは答える。
「はい、嫌ではありません」
深い口づけを交わした仲である。今さら、共寝をするくらいどうってことはない。
イグナーツはきっちり百八十度回転して、オネルヴァを見下ろしてきた。唇がひくひくと動き、何か言いたそうにしている。
「では、失礼する」
膝をつき、寝台へとあがってきた。二人分の重みが加わり、寝台が沈む。
「できるだけ、君には近づかないようにする。だから、安心して眠ってくれ……」
イグナーツは、オネルヴァに背を向けて寝台の隅っこで丸くなった。
*~*~苺の月十一日~*~*
『きのう おとうさまはおそくにかえってきました
エルシーが ねむってからかえってきたようです
おしごとが いそがしかったみたいです
あさのごはんをたべながら たくさんあくびをしていました
おしごとは たいへんです
おとうさまがいないと ときどき さびしくなります
でも おかあさまがいっしょにいてくれるので いまはへいきです
かぞくがもっとふえたら もっとさびしくないとおもいます
エルシーもはやく おねえさまになりたいと おかあさまにいったら
おかあさまはわらっていました』
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