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妻が気になる夫と娘が気になる妻(2)
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「くっ……」
物音と共に、彼の苦しむような声も聞こえてきた。この声はあそこで聞いた声と同じ、苦悶の声である。
「旦那様?」
扉越しに声をかける。
カタカタと物音が反応した。
「うぅっ……くっ……」
オネルヴァは彼の部屋へと続く扉に手をかけた。こちらも鍵はかかっていない。お互いの部屋を自由に行き来できるようにと作られている部屋だからだ。
ひんやりとした取っ手を下げて、扉を開ける。
「旦那様……?!」
イグナーツは寝台の上で芋虫のように丸まっていた。大きな身体がこれほどまで小さくまとまるのかと感心してしまうほど。
オネルヴァはすぐにイグナーツの側へと駆け寄った。
「旦那様、旦那様」
必死になってイグナーツを呼ぶと、彼は震えている瞼を開けた。焦点の合わないような茶色の目が、オネルヴァを捕らえる。
「オネルヴァ、か?」
「はい、オネルヴァです。どうかされたのですか? 人を呼んできましょうか」
ハァハァハァ……と、苦しそうな息遣いを必死で整えようとしている。
「すまない。魔力が……」
たったそれだけの言葉であるが、彼に何が起きたのかをオネルヴァは瞬時に理解した。
腕に抱えていたぬいぐるみは、彼の頭の上のほうに置いた。くたっとしたまま、寄り掛かるかのようにして座っている。
イグナーツは、震える手をオネルヴァに向かって伸ばしてきた。
その手を両手で包み込んだオネルヴァは心配そうに彼の顔を覗き込む。
雨粒のような汗をびっちりと額に浮かべている。頬も上気しており、熱い息を苦しそうに吐いている。
この様子を見たら、誰だって心配するだろう。熱いからか寝衣の胸元ははだけており、今まで一度も見たことのない異性の逞しい身体にドキリとする。
「お水か何か、準備しましょうか?」
オネルヴァは彼の手を優しく握りしめたまま、尋ねた。
「いや……」
イグナーツは「それよりも」と言葉を続ける。
「もし、俺が死んだら、エルシーを頼んでもいいだろうか……」
ガツンと鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。なぜ、彼が今、そのようなことを口にするのか。
「旦那様、誰か人を呼びますか? お願いですから、そのような悲しいことをおっしゃらないでください」
「オネルヴァ……」
熱く湿った吐息と共に吐き出された自身の名に、オネルヴァは胸がえぐられるような痛みを感じた。
彼は今、本当に命の危機を感じているのだ。
では、なぜそのようになってしまったのか? 彼は「魔力が……」と言っていた。となれば、考えられる理由は一つ。
「旦那様。もしかして、魔力に侵されているのですか?」
それ以外考えられない。病気もしたことなく健康体であると何かの拍子で彼は言っていた。だが、年には敵わないなと自嘲気味に笑っていたのを覚えている。
イグナーツは彼女の問いに答えない。答えられないのかもしれない。
オネルヴァは握りしめていた手を離して、寝台にあがった。そして、小さな身体で彼の大きな身体を上から抱きしめる。
「わたくしでは力になりませんか?」
オネルヴァは、横を向いている彼の身体に覆いかぶさった。
彼の顔を見ると、目の焦点は合っていない。唇もガクガクと震え、口の端からは涎が零れている。
これが魔力に侵されている症状なのだ。きっと、そうにちがいない。
オネルヴァは彼を抱きしめる腕に力を込める。
「旦那様。しっかりしてください。お願いですから、わたくしたちをおいて逝かないでください。旦那様、旦那様……」
抱きしめながら、彼の首元に顔を埋めた。
物音と共に、彼の苦しむような声も聞こえてきた。この声はあそこで聞いた声と同じ、苦悶の声である。
「旦那様?」
扉越しに声をかける。
カタカタと物音が反応した。
「うぅっ……くっ……」
オネルヴァは彼の部屋へと続く扉に手をかけた。こちらも鍵はかかっていない。お互いの部屋を自由に行き来できるようにと作られている部屋だからだ。
ひんやりとした取っ手を下げて、扉を開ける。
「旦那様……?!」
イグナーツは寝台の上で芋虫のように丸まっていた。大きな身体がこれほどまで小さくまとまるのかと感心してしまうほど。
オネルヴァはすぐにイグナーツの側へと駆け寄った。
「旦那様、旦那様」
必死になってイグナーツを呼ぶと、彼は震えている瞼を開けた。焦点の合わないような茶色の目が、オネルヴァを捕らえる。
「オネルヴァ、か?」
「はい、オネルヴァです。どうかされたのですか? 人を呼んできましょうか」
ハァハァハァ……と、苦しそうな息遣いを必死で整えようとしている。
「すまない。魔力が……」
たったそれだけの言葉であるが、彼に何が起きたのかをオネルヴァは瞬時に理解した。
腕に抱えていたぬいぐるみは、彼の頭の上のほうに置いた。くたっとしたまま、寄り掛かるかのようにして座っている。
イグナーツは、震える手をオネルヴァに向かって伸ばしてきた。
その手を両手で包み込んだオネルヴァは心配そうに彼の顔を覗き込む。
雨粒のような汗をびっちりと額に浮かべている。頬も上気しており、熱い息を苦しそうに吐いている。
この様子を見たら、誰だって心配するだろう。熱いからか寝衣の胸元ははだけており、今まで一度も見たことのない異性の逞しい身体にドキリとする。
「お水か何か、準備しましょうか?」
オネルヴァは彼の手を優しく握りしめたまま、尋ねた。
「いや……」
イグナーツは「それよりも」と言葉を続ける。
「もし、俺が死んだら、エルシーを頼んでもいいだろうか……」
ガツンと鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。なぜ、彼が今、そのようなことを口にするのか。
「旦那様、誰か人を呼びますか? お願いですから、そのような悲しいことをおっしゃらないでください」
「オネルヴァ……」
熱く湿った吐息と共に吐き出された自身の名に、オネルヴァは胸がえぐられるような痛みを感じた。
彼は今、本当に命の危機を感じているのだ。
では、なぜそのようになってしまったのか? 彼は「魔力が……」と言っていた。となれば、考えられる理由は一つ。
「旦那様。もしかして、魔力に侵されているのですか?」
それ以外考えられない。病気もしたことなく健康体であると何かの拍子で彼は言っていた。だが、年には敵わないなと自嘲気味に笑っていたのを覚えている。
イグナーツは彼女の問いに答えない。答えられないのかもしれない。
オネルヴァは握りしめていた手を離して、寝台にあがった。そして、小さな身体で彼の大きな身体を上から抱きしめる。
「わたくしでは力になりませんか?」
オネルヴァは、横を向いている彼の身体に覆いかぶさった。
彼の顔を見ると、目の焦点は合っていない。唇もガクガクと震え、口の端からは涎が零れている。
これが魔力に侵されている症状なのだ。きっと、そうにちがいない。
オネルヴァは彼を抱きしめる腕に力を込める。
「旦那様。しっかりしてください。お願いですから、わたくしたちをおいて逝かないでください。旦那様、旦那様……」
抱きしめながら、彼の首元に顔を埋めた。
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