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秘密を知られた夫と秘密を知った妻(7)
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◇◆◇◆ ◇◆◇◆
「奥様。旦那様がお帰りになりましたが、どうされますか? 執務室にいらっしゃるようです」
どうやらイグナーツが帰ってきたようだ。
「ありがとう、ヘニー」
イグナーツが帰ってきたら知らせるようにと、オネルヴァはヘニーに伝えていた。すっかりと寝支度を終えてしまったが、ナイトドレスの上にガウンを羽織れば、失礼にはあたらないだろう。
部屋を出て、彼の執務室へと向かうと、食事のワゴンを押しているパトリックの姿を見つけた。
「パトリック。それは旦那様の食事ですか?」
「奥様も、旦那様にご用がありましたか?」
「いえ……。そうですね。少し、お話がしたくて」
「それは、なによりでございます」
「その食事を、わたくしが運んではいけませんか?」
オネルヴァの言葉に、パトリックは少々戸惑いを見せていたが、最終的には「お願いします」とワゴンから離れていた。
「お預かりします。パトリックも、はやくお休みになられてくださいね」
「もったいなきお言葉を……。ありがとうございます」
初老の執事は感激のあまりか、深く腰を折ると、ふらふらとしながらその場をあとにした。
オネルヴァはワゴンを横におき、執務室の扉を叩いた。
トントントントン――。
だが、返事はない。そのまましばらく待ってみたが、それでも返事はない。
もう一度、扉を叩く。
扉の向こう側の部屋からは、物音一つ聞こえない。もしかして、先に浴室に行ってしまったのだろうか。それとも、一度私室に戻っているのだろうか。
取っ手に手をかけると鍵は開いていた。食事もあることだし、ワゴンを押しながら室内に入る。
「失礼します」
だが、やはり返事はない。
「旦那様……?」
ぐるりと室内を見回すが、イグナーツの姿は見当たらない。執務席にはいない。その前にあるソファにもいない。
「お食事をお持ちしました」
姿は見えないけれど、声は届いているかもしれない。そんな思いもあって無人の室内に声をかけてみた。
だが、やはり返事はない。
どうすべきか。オネルヴァはその場に立ち尽くす。せっかくの料理も冷めてしまうだろう。それに料理を望んだのはイグナーツなのだ。となれば、どこか近くにいるに違いない。少しだけ席を外しているのかもしれない。
そう考えて、オネルヴァはすとんとソファに上に腰を落とした。
しばらく待つことにした。そう決めたら、力が抜けた。ここの生活に慣れてきたと思っていたが、やはりイグナーツの前では緊張するようだ。
ふぅと静かに息を吐く。部屋はしんと静まり返り、彼のいる気配はしない。
だからこそ、変な物音に気がついたのだ。
「……くっ……。うぅ……」
オネルヴァははっとして周囲を見回した。何か呻くような声が聞こえてきた。
「旦那様?」
不安になり、イグナーツを呼んでみるが返事はない。だが、苦しそうな声は聞こえてくる。
誰の声なのか。
「くっ……」
どこから聞こえるのか。
オネルヴァはもう一度大きく部屋を見回した。化粧漆喰の壁に金の刺繍が施されているこの部屋は、なんら珍しい部屋でもない。人が隠れるような場所もない。あるとしたら、大きな執務席の下あたりだろうか。
さらに視線を動かすと、隣の部屋へと続く白い扉が目に入った。扉はきちんと閉められておらず、少しだけ開いていた。ぴっちりと閉められていたら、室内の壁と同化していただろう。
「旦那様?」
立ち上がったオネルヴァは、扉にゆっくりと近づく。近づけば近づくほど、苦しそうな声が鮮明に聞こえてくる。
彼女は右手を握りしめて胸元をおさえると、ゴクリと喉を鳴らした。あの扉の先を確認したいが、見てはいけないような気がする。そんな直感が働いた。
それでも、誰かが扉の向こう側で苦しんでいるのであれば助けたほうがいいだろう。
扉に手を添え、隣の部屋をそろりと覗き込む。
「旦那様……っ?!」
オネルヴァは目を疑った。目を疑ったのは、この部屋の状況だ。
「奥様。旦那様がお帰りになりましたが、どうされますか? 執務室にいらっしゃるようです」
どうやらイグナーツが帰ってきたようだ。
「ありがとう、ヘニー」
イグナーツが帰ってきたら知らせるようにと、オネルヴァはヘニーに伝えていた。すっかりと寝支度を終えてしまったが、ナイトドレスの上にガウンを羽織れば、失礼にはあたらないだろう。
部屋を出て、彼の執務室へと向かうと、食事のワゴンを押しているパトリックの姿を見つけた。
「パトリック。それは旦那様の食事ですか?」
「奥様も、旦那様にご用がありましたか?」
「いえ……。そうですね。少し、お話がしたくて」
「それは、なによりでございます」
「その食事を、わたくしが運んではいけませんか?」
オネルヴァの言葉に、パトリックは少々戸惑いを見せていたが、最終的には「お願いします」とワゴンから離れていた。
「お預かりします。パトリックも、はやくお休みになられてくださいね」
「もったいなきお言葉を……。ありがとうございます」
初老の執事は感激のあまりか、深く腰を折ると、ふらふらとしながらその場をあとにした。
オネルヴァはワゴンを横におき、執務室の扉を叩いた。
トントントントン――。
だが、返事はない。そのまましばらく待ってみたが、それでも返事はない。
もう一度、扉を叩く。
扉の向こう側の部屋からは、物音一つ聞こえない。もしかして、先に浴室に行ってしまったのだろうか。それとも、一度私室に戻っているのだろうか。
取っ手に手をかけると鍵は開いていた。食事もあることだし、ワゴンを押しながら室内に入る。
「失礼します」
だが、やはり返事はない。
「旦那様……?」
ぐるりと室内を見回すが、イグナーツの姿は見当たらない。執務席にはいない。その前にあるソファにもいない。
「お食事をお持ちしました」
姿は見えないけれど、声は届いているかもしれない。そんな思いもあって無人の室内に声をかけてみた。
だが、やはり返事はない。
どうすべきか。オネルヴァはその場に立ち尽くす。せっかくの料理も冷めてしまうだろう。それに料理を望んだのはイグナーツなのだ。となれば、どこか近くにいるに違いない。少しだけ席を外しているのかもしれない。
そう考えて、オネルヴァはすとんとソファに上に腰を落とした。
しばらく待つことにした。そう決めたら、力が抜けた。ここの生活に慣れてきたと思っていたが、やはりイグナーツの前では緊張するようだ。
ふぅと静かに息を吐く。部屋はしんと静まり返り、彼のいる気配はしない。
だからこそ、変な物音に気がついたのだ。
「……くっ……。うぅ……」
オネルヴァははっとして周囲を見回した。何か呻くような声が聞こえてきた。
「旦那様?」
不安になり、イグナーツを呼んでみるが返事はない。だが、苦しそうな声は聞こえてくる。
誰の声なのか。
「くっ……」
どこから聞こえるのか。
オネルヴァはもう一度大きく部屋を見回した。化粧漆喰の壁に金の刺繍が施されているこの部屋は、なんら珍しい部屋でもない。人が隠れるような場所もない。あるとしたら、大きな執務席の下あたりだろうか。
さらに視線を動かすと、隣の部屋へと続く白い扉が目に入った。扉はきちんと閉められておらず、少しだけ開いていた。ぴっちりと閉められていたら、室内の壁と同化していただろう。
「旦那様?」
立ち上がったオネルヴァは、扉にゆっくりと近づく。近づけば近づくほど、苦しそうな声が鮮明に聞こえてくる。
彼女は右手を握りしめて胸元をおさえると、ゴクリと喉を鳴らした。あの扉の先を確認したいが、見てはいけないような気がする。そんな直感が働いた。
それでも、誰かが扉の向こう側で苦しんでいるのであれば助けたほうがいいだろう。
扉に手を添え、隣の部屋をそろりと覗き込む。
「旦那様……っ?!」
オネルヴァは目を疑った。目を疑ったのは、この部屋の状況だ。
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