初心な人質妻は愛に不器用なおっさん閣下に溺愛される、ときどき娘

澤谷弥(さわたに わたる)

文字の大きさ
上 下
31 / 76

秘密を知られた夫と秘密を知った妻(7)

しおりを挟む
◇◆◇◆ ◇◆◇◆

「奥様。旦那様がお帰りになりましたが、どうされますか? 執務室にいらっしゃるようです」

 どうやらイグナーツが帰ってきたようだ。

「ありがとう、ヘニー」

 イグナーツが帰ってきたら知らせるようにと、オネルヴァはヘニーに伝えていた。すっかりと寝支度を終えてしまったが、ナイトドレスの上にガウンを羽織れば、失礼にはあたらないだろう。

 部屋を出て、彼の執務室へと向かうと、食事のワゴンを押しているパトリックの姿を見つけた。

「パトリック。それは旦那様の食事ですか?」
「奥様も、旦那様にご用がありましたか?」
「いえ……。そうですね。少し、お話がしたくて」
「それは、なによりでございます」
「その食事を、わたくしが運んではいけませんか?」

 オネルヴァの言葉に、パトリックは少々戸惑いを見せていたが、最終的には「お願いします」とワゴンから離れていた。

「お預かりします。パトリックも、はやくお休みになられてくださいね」
「もったいなきお言葉を……。ありがとうございます」

 初老の執事は感激のあまりか、深く腰を折ると、ふらふらとしながらその場をあとにした。

 オネルヴァはワゴンを横におき、執務室の扉を叩いた。

 トントントントン――。

 だが、返事はない。そのまましばらく待ってみたが、それでも返事はない。
 もう一度、扉を叩く。

 扉の向こう側の部屋からは、物音一つ聞こえない。もしかして、先に浴室に行ってしまったのだろうか。それとも、一度私室に戻っているのだろうか。

 取っ手に手をかけると鍵は開いていた。食事もあることだし、ワゴンを押しながら室内に入る。

「失礼します」

 だが、やはり返事はない。

「旦那様……?」

 ぐるりと室内を見回すが、イグナーツの姿は見当たらない。執務席にはいない。その前にあるソファにもいない。

「お食事をお持ちしました」

 姿は見えないけれど、声は届いているかもしれない。そんな思いもあって無人の室内に声をかけてみた。

 だが、やはり返事はない。

 どうすべきか。オネルヴァはその場に立ち尽くす。せっかくの料理も冷めてしまうだろう。それに料理を望んだのはイグナーツなのだ。となれば、どこか近くにいるに違いない。少しだけ席を外しているのかもしれない。

 そう考えて、オネルヴァはすとんとソファに上に腰を落とした。
 しばらく待つことにした。そう決めたら、力が抜けた。ここの生活に慣れてきたと思っていたが、やはりイグナーツの前では緊張するようだ。

 ふぅと静かに息を吐く。部屋はしんと静まり返り、彼のいる気配はしない。
 だからこそ、変な物音に気がついたのだ。

「……くっ……。うぅ……」

 オネルヴァははっとして周囲を見回した。何か呻くような声が聞こえてきた。

「旦那様?」

 不安になり、イグナーツを呼んでみるが返事はない。だが、苦しそうな声は聞こえてくる。
 誰の声なのか。

「くっ……」

 どこから聞こえるのか。

 オネルヴァはもう一度大きく部屋を見回した。化粧漆喰の壁に金の刺繍が施されているこの部屋は、なんら珍しい部屋でもない。人が隠れるような場所もない。あるとしたら、大きな執務席の下あたりだろうか。

 さらに視線を動かすと、隣の部屋へと続く白い扉が目に入った。扉はきちんと閉められておらず、少しだけ開いていた。ぴっちりと閉められていたら、室内の壁と同化していただろう。

「旦那様?」

 立ち上がったオネルヴァは、扉にゆっくりと近づく。近づけば近づくほど、苦しそうな声が鮮明に聞こえてくる。
 彼女は右手を握りしめて胸元をおさえると、ゴクリと喉を鳴らした。あの扉の先を確認したいが、見てはいけないような気がする。そんな直感が働いた。

 それでも、誰かが扉の向こう側で苦しんでいるのであれば助けたほうがいいだろう。
 扉に手を添え、隣の部屋をそろりと覗き込む。

「旦那様……っ?!」

 オネルヴァは目を疑った。目を疑ったのは、この部屋の状況だ。
しおりを挟む
感想 37

あなたにおすすめの小説

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

真実の愛は、誰のもの?

ふまさ
恋愛
「……悪いと思っているのなら、く、口付け、してください」  妹のコーリーばかり優先する婚約者のエディに、ミアは震える声で、思い切って願いを口に出してみた。顔を赤くし、目をぎゅっと閉じる。  だが、温かいそれがそっと触れたのは、ミアの額だった。  ミアがまぶたを開け、自分の額に触れた。しゅんと肩を落とし「……また、額」と、ぼやいた。エディはそんなミアの頭を撫でながら、柔やかに笑った。 「はじめての口付けは、もっと、ロマンチックなところでしたいんだ」 「……ロマンチック、ですか……?」 「そう。二人ともに、想い出に残るような」  それは、二人が婚約してから、六年が経とうとしていたときのことだった。

呪いを受けて醜くなっても、婚約者は変わらず愛してくれました

しろねこ。
恋愛
婚約者が倒れた。 そんな連絡を受け、ティタンは急いで彼女の元へと向かう。 そこで見たのはあれほどまでに美しかった彼女の変わり果てた姿だ。 全身包帯で覆われ、顔も見えない。 所々見える皮膚は赤や黒といった色をしている。 「なぜこのようなことに…」 愛する人のこのような姿にティタンはただただ悲しむばかりだ。 同名キャラで複数の話を書いています。 作品により立場や地位、性格が多少変わっていますので、アナザーワールド的に読んで頂ければありがたいです。 この作品は少し古く、設定がまだ凝り固まって無い頃のものです。 皆ちょっと性格違いますが、これもこれでいいかなと載せてみます。 短めの話なのですが、重めな愛です。 お楽しみいただければと思います。 小説家になろうさん、カクヨムさんでもアップしてます!

関係を終わらせる勢いで留学して数年後、犬猿の仲の狼王子がおかしいことになっている

百門一新
恋愛
人族貴族の公爵令嬢であるシェスティと、獣人族であり六歳年上の第一王子カディオが、出会った時からずっと犬猿の仲なのは有名な話だった。賢い彼女はある日、それを終わらせるべく(全部捨てる勢いで)隣国へ保留学した。だが、それから数年、彼女のもとに「――カディオが、私を見ないと動機息切れが収まらないので来てくれ、というお願いはなんなの?」という変な手紙か実家から来て、帰国することに。そうしたら、彼の様子が変で……? ※さくっと読める短篇です、お楽しみいだたけましたら幸いです! ※他サイト様にも掲載

【完結】傷物令嬢は近衛騎士団長に同情されて……溺愛されすぎです。

朝日みらい
恋愛
王太子殿下との婚約から洩れてしまった伯爵令嬢のセーリーヌ。 宮廷の大広間で突然現れた賊に襲われた彼女は、殿下をかばって大けがを負ってしまう。 彼女に同情した近衛騎士団長のアドニス侯爵は熱心にお見舞いをしてくれるのだが、その熱意がセーリーヌの折れそうな心まで癒していく。 加えて、セーリーヌを振ったはずの王太子殿下が、親密な二人に絡んできて、ややこしい展開になり……。 果たして、セーリーヌとアドニス侯爵の関係はどうなるのでしょう?

聖女を騙った少女は、二度目の生を自由に生きる

夕立悠理
恋愛
 ある日、聖女として異世界に召喚された美香。その国は、魔物と戦っているらしく、兵士たちを励まして欲しいと頼まれた。しかし、徐々に戦況もよくなってきたところで、魔法の力をもった本物の『聖女』様が現れてしまい、美香は、聖女を騙った罪で、処刑される。  しかし、ギロチンの刃が落とされた瞬間、時間が巻き戻り、美香が召喚された時に戻り、美香は二度目の生を得る。美香は今度は魔物の元へ行き、自由に生きることにすると、かつては敵だったはずの魔王に溺愛される。  しかし、なぜか、美香を見捨てたはずの護衛も執着してきて――。 ※小説家になろう様にも投稿しています ※感想をいただけると、とても嬉しいです ※著作権は放棄してません

愛のゆくえ【完結】

春の小径
恋愛
私、あなたが好きでした ですが、告白した私にあなたは言いました 「妹にしか思えない」 私は幼馴染みと婚約しました それなのに、あなたはなぜ今になって私にプロポーズするのですか? ☆12時30分より1時間更新 (6月1日0時30分 完結) こう言う話はサクッと完結してから読みたいですよね? ……違う? とりあえず13日後ではなく13時間で完結させてみました。 他社でも公開

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...