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妻子が可愛い夫と夫がよくわからない妻(7)
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◇◆◇◆ ◇◆◇◆
オネルヴァはもう少しイグナーツと話をすべきだろうとは思っていた。
この屋敷に迎え入れられたが、ここまで待遇がよいと、変に疑ってしまう。そうやってなんでもかんでも疑うのはよくないとわかっているのだが、まだ、どことなく他人が信じられない。
むしろ、イグナーツという男性がよくわからない。
ただエルシーは別だった。駆け引きとは無縁の無垢な子どもである。彼女の言葉で心が揺れ動き、感情の起伏すら激しくなる。
思い出すと、頬が熱を帯びた。
ここに来たその日のうちに、イグナーツとエルシーに涙を見せてしまった。彼らはきっと驚いたことだろう。
オネルヴァは、ケーキとお茶を乗せたワゴンを手にしていた。
扉を叩く。
「どうぞ」
低くゆったりとした声が、扉の向こう側から聞こえてきた。この声は、オネルヴァの心を落ち着かせてくれるから不思議である。
「オネルヴァです、失礼します」
オネルヴァが部屋を訪れたことに、彼は驚いた様子だった。
「どうかしたのか?」
鋭い眼差しで、じっと見つめてくる。
「お茶をお持ちしました。少し、休まれてはいかがですか?」
「ああ、そうだな」
落ち着いた動作でイグナーツは立ち上がる。ただそれだけなのに、オネルヴァの胸はチクリとした。
「もしかして、それが例のケーキか?」
ワゴンの上にあるケーキに気がついたようだ。
「はい。エルシーが食べたいと言いまして。それで、作りました。旦那様も食べてみたいとおっしゃっていたので、お持ちしたのですが」
「ちょうど小腹が空いたと思っていたところだ」
彼が笑みを浮かべると、目尻に皺が寄る。それですらオネルヴァの気持ちは揺さぶられる。
「あの……」
オネルヴァとしては、かなり勇気を出して声をかけた。
「わたくしもご一緒してよろしいでしょうか。旦那様と少しゆっくりとお話をしたいと思っておりましたので」
「そうしてもらえるとありがたい。美味しい物も一人で頂いては味気ないだろう?」
彼はソファに座りながらそう言った。
オネルヴァも微かに口元をゆるめ、二人分のお茶をいれて彼の向かい側に座った。
その様子を見ていたイグナーツも満足そうに頷く。
「ところで、エルシーは?」
「はい。おやつの時間を終えたので、今は勉強の時間です。エルシーは、覚えが早いですね。基本の文字はほとんど書けるようになったそうです」
「そうか」
「エルシーから、手紙も預かってきました」
オネルヴァはすすっとテーブルの上にエルシーからの手紙を置いた。イグナーツは、すぐにそれを手にする様子はないが、顔はにやけている。それすら無意識なのだろう。
「あの……、旦那様」
オネルヴァが声をかけると、にやけていた口元が引き締まる。
「そういえば、話があると言っていたな」
カップに伸びる彼の指が、気になってしまう。それを見ていることを悟られないように、オネルヴァは俯き「はい」と小声で答える。
「別に、君をとって食べようとしているわけではない。俺が食べるのは、このケーキだ」
オネルヴァが怯えているように見えたのだろう。さほど面白くもない冗談を言う彼に、オネルヴァは苦笑を浮かべて顔をあげた。
「あ、はい。あの……。わたくし、魔力のない『無力』の人間なのです……」
「ああ、知っている」
彼女にとっては一世一代の告白であったつもりなのに、イグナーツは軽く答えてきた。
「ご存知だったのですか?」
「ああ」
彼はさほど重要なことではないとでも言うかのように、ケーキをぱくりと口の中に入れた。
「これは、ほのかな甘みがくせになりそうだな」
そして真っ白な陶磁のカップに手を伸ばす。
オネルヴァはその一連の仕草に目を奪われてしまった。
「どうかしたのか?」
彼女の視線が気になったのだろう。
「どうもしないのですが……。わたくしのような人間がここにいて、これほどまでよくしてもらって、本当にいいのだろうかと不安になります」
「なるほど。君を不安にさせてしまったのであれば、こちらの落ち度だな」
「そんな、落ち度だなんて。滅相もございません」
カチャリと、彼がカップを置いた。腕を組んで、何かを考え込むかのような態度を見せる。
オネルヴァは不安気に彼を見つめていた。
イグナーツは軽く息を吐く。
オネルヴァはもう少しイグナーツと話をすべきだろうとは思っていた。
この屋敷に迎え入れられたが、ここまで待遇がよいと、変に疑ってしまう。そうやってなんでもかんでも疑うのはよくないとわかっているのだが、まだ、どことなく他人が信じられない。
むしろ、イグナーツという男性がよくわからない。
ただエルシーは別だった。駆け引きとは無縁の無垢な子どもである。彼女の言葉で心が揺れ動き、感情の起伏すら激しくなる。
思い出すと、頬が熱を帯びた。
ここに来たその日のうちに、イグナーツとエルシーに涙を見せてしまった。彼らはきっと驚いたことだろう。
オネルヴァは、ケーキとお茶を乗せたワゴンを手にしていた。
扉を叩く。
「どうぞ」
低くゆったりとした声が、扉の向こう側から聞こえてきた。この声は、オネルヴァの心を落ち着かせてくれるから不思議である。
「オネルヴァです、失礼します」
オネルヴァが部屋を訪れたことに、彼は驚いた様子だった。
「どうかしたのか?」
鋭い眼差しで、じっと見つめてくる。
「お茶をお持ちしました。少し、休まれてはいかがですか?」
「ああ、そうだな」
落ち着いた動作でイグナーツは立ち上がる。ただそれだけなのに、オネルヴァの胸はチクリとした。
「もしかして、それが例のケーキか?」
ワゴンの上にあるケーキに気がついたようだ。
「はい。エルシーが食べたいと言いまして。それで、作りました。旦那様も食べてみたいとおっしゃっていたので、お持ちしたのですが」
「ちょうど小腹が空いたと思っていたところだ」
彼が笑みを浮かべると、目尻に皺が寄る。それですらオネルヴァの気持ちは揺さぶられる。
「あの……」
オネルヴァとしては、かなり勇気を出して声をかけた。
「わたくしもご一緒してよろしいでしょうか。旦那様と少しゆっくりとお話をしたいと思っておりましたので」
「そうしてもらえるとありがたい。美味しい物も一人で頂いては味気ないだろう?」
彼はソファに座りながらそう言った。
オネルヴァも微かに口元をゆるめ、二人分のお茶をいれて彼の向かい側に座った。
その様子を見ていたイグナーツも満足そうに頷く。
「ところで、エルシーは?」
「はい。おやつの時間を終えたので、今は勉強の時間です。エルシーは、覚えが早いですね。基本の文字はほとんど書けるようになったそうです」
「そうか」
「エルシーから、手紙も預かってきました」
オネルヴァはすすっとテーブルの上にエルシーからの手紙を置いた。イグナーツは、すぐにそれを手にする様子はないが、顔はにやけている。それすら無意識なのだろう。
「あの……、旦那様」
オネルヴァが声をかけると、にやけていた口元が引き締まる。
「そういえば、話があると言っていたな」
カップに伸びる彼の指が、気になってしまう。それを見ていることを悟られないように、オネルヴァは俯き「はい」と小声で答える。
「別に、君をとって食べようとしているわけではない。俺が食べるのは、このケーキだ」
オネルヴァが怯えているように見えたのだろう。さほど面白くもない冗談を言う彼に、オネルヴァは苦笑を浮かべて顔をあげた。
「あ、はい。あの……。わたくし、魔力のない『無力』の人間なのです……」
「ああ、知っている」
彼女にとっては一世一代の告白であったつもりなのに、イグナーツは軽く答えてきた。
「ご存知だったのですか?」
「ああ」
彼はさほど重要なことではないとでも言うかのように、ケーキをぱくりと口の中に入れた。
「これは、ほのかな甘みがくせになりそうだな」
そして真っ白な陶磁のカップに手を伸ばす。
オネルヴァはその一連の仕草に目を奪われてしまった。
「どうかしたのか?」
彼女の視線が気になったのだろう。
「どうもしないのですが……。わたくしのような人間がここにいて、これほどまでよくしてもらって、本当にいいのだろうかと不安になります」
「なるほど。君を不安にさせてしまったのであれば、こちらの落ち度だな」
「そんな、落ち度だなんて。滅相もございません」
カチャリと、彼がカップを置いた。腕を組んで、何かを考え込むかのような態度を見せる。
オネルヴァは不安気に彼を見つめていた。
イグナーツは軽く息を吐く。
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