夫が「愛していると言ってくれ」とうるさいのですが、残念ながら結婚した記憶がございません

澤谷弥(さわたに わたる)

文字の大きさ
上 下
8 / 63

愛しているとは言ってくれないのか?(1)

しおりを挟む
◆◆◆◆

 ランスロットは職場に戻ることはしなかった。
 屋敷の執務室で、ハーデン家の当主として目を通さねばならない書類に視線を落としていた。だが、本当に視線を落としていただけで、文字が目の前を滑っていく。
 頭に入ってこないのだ。

「はぁ……」

 大きく息を吐くと、目の前の書類がふわっと浮いて、机の向こう側に落ちそうになったため、慌てて両手で書類を押さえた。

「旦那様……」

 少し離れたところにセバスがいる。

「お茶でも淹れますか? 奥様に振られた者同士、慰め合いますか?」

 セバスの言葉に、ランスロットは眉間に深くしわを刻んだ。

 振られた――。

 そういうことになるのだろうか。

「俺は……、振られていない」

 言葉にしながら、頭を両手で抱え込む。

(振られた? 俺は振られたのか? てことは、離縁するのか?)

「離縁はなさらなくても、よいかと思います。奥様の記憶が戻られるのを、待ちましょう」

 コトっと机の上に何かを置く音で顔をあげると、セバスがにこやかに微笑んでお茶の入ったカップを置いたところであった。

「お前は……。俺の心が読めるのか?」
「旦那様とは長年の付き合いでございますから、お考えになるようなことはわかります」

 それでも「離縁しなくてもいい」という言葉が、ランスロットの心を救っていた。
 カップに手を伸ばしお茶を一口飲むと、身体の中から温かくなり、次第に荒れた心も落ち着いていく。

「シャーリーの記憶は、戻るのだろうか……」

 その問いにセバスは答えない。そもそもその問いに正確な答えはないからだ。

「医師が言うには、奥様はここ二年ほどの記憶を失っているとのことです」
「二年か……」

 二年前といえば、ランスロットがシャーリーを知ったちょうどその頃だ。となれば、彼女はまだ男性に対して、畏怖を抱いていた頃。

「だから、俺も六歩か……」

 事務官として優秀な彼女であるが、男性と触れることができないのが欠点であった。そのため、彼女はずっと地下にある事務所内にこもっていた。

 誰かが持ってきた書類を黙々とこなすことが彼女の仕事だった。他の事務官は、書類の持ち運びや、王城で働く各人たちに頼まれた雑用などもこなしていたようだが、彼女だけはあの事務室から出てくることはなかった。

 だから、こそっとつけられたあだ名は「モグラの女」である。
 そしてランスロットは知っている。他の事務官からも、書類仕事を押し付けられていて、誰よりも数をこなしていたことを。それに文句一つ言わず、粛々とやり遂げていたことを。

 そんなランスロットが彼女を知ったきっかけは、いつもの予算案が丁寧に修正されていたことだ。

「旦那様、過去に浸るのはまだ早いですよ」

 セバスに声をかけられ、はっと現実に引き戻される。

「今日は、騎士団のお仕事もお休みになったようですから。できればこちらの書類を片付けていただけると、非常に助かります」

 丁寧で遠回しな言い方であるが、ようするに「仕事しろ」とのことである。
 湯気が立ち昇るカップを恨めしそうに見つめてから「わかった」とだけ答える。

「ただ、この書類は……。シャーリーにも手伝ってもらいたいのだが。彼女は、今、こういったことがわかるのだろうか」

 そう言って、セバスの目の前に差し出したのは、やはり金勘定に関わる書類。

「そうですね。これは旦那様が苦手なものですね。イルメラに頼んで、奥様にこちらの書類を確認してもらうことにしましょう。記憶は失っていても、日常生活に支障はないようですので」

 セバスの言葉を聞いたランスロットは、ほっと胸を撫でおろす。
 この書類は、急ぎのようなのだが、どうしても計算が合わない箇所が一か所だけあった。

「悪いが、それは急ぎ確認して欲しいと、伝えてもらえるか?」
「承知しました」

 セバスが部屋を出ていく様子を目で追っていたランスロットであるが、カップの湯気の勢いがなくなっているのを確認すると、仕方なく書類に視線を戻した。
しおりを挟む
感想 19

あなたにおすすめの小説

【完結】記憶が戻ったら〜孤独な妻は英雄夫の変わらぬ溺愛に溶かされる〜

凛蓮月
恋愛
【完全完結しました。ご愛読頂きありがとうございます!】  公爵令嬢カトリーナ・オールディスは、王太子デーヴィドの婚約者であった。  だが、カトリーナを良く思っていなかったデーヴィドは真実の愛を見つけたと言って婚約破棄した上、カトリーナが最も嫌う醜悪伯爵──ディートリヒ・ランゲの元へ嫁げと命令した。  ディートリヒは『救国の英雄』として知られる王国騎士団副団長。だが、顔には数年前の戦で負った大きな傷があった為社交界では『醜悪伯爵』と侮蔑されていた。  嫌がったカトリーナは逃げる途中階段で足を踏み外し転げ落ちる。  ──目覚めたカトリーナは、一切の記憶を失っていた。  王太子命令による望まぬ婚姻ではあったが仲良くするカトリーナとディートリヒ。  カトリーナに想いを寄せていた彼にとってこの婚姻は一生に一度の奇跡だったのだ。 (記憶を取り戻したい) (どうかこのままで……)  だが、それも長くは続かず──。 【HOTランキング1位頂きました。ありがとうございます!】 ※このお話は、以前投稿したものを大幅に加筆修正したものです。 ※中編版、短編版はpixivに移動させています。 ※小説家になろう、ベリーズカフェでも掲載しています。 ※ 魔法等は出てきませんが、作者独自の異世界のお話です。現実世界とは異なります。(異世界語を翻訳しているような感覚です)

[完結]私を巻き込まないで下さい

シマ
恋愛
私、イリーナ15歳。賊に襲われているのを助けられた8歳の時から、師匠と一緒に暮らしている。 魔力持ちと分かって魔法を教えて貰ったけど、何故か全然発動しなかった。 でも、魔物を倒した時に採れる魔石。石の魔力が無くなると使えなくなるけど、その魔石に魔力を注いで甦らせる事が出来た。 その力を生かして、師匠と装具や魔道具の修理の仕事をしながら、のんびり暮らしていた。 ある日、師匠を訪ねて来た、お客さんから生活が変わっていく。 え?今、話題の勇者様が兄弟子?師匠が王族?ナニそれ私、知らないよ。 平凡で普通の生活がしたいの。 私を巻き込まないで下さい! 恋愛要素は、中盤以降から出てきます 9月28日 本編完結 10月4日 番外編完結 長い間、お付き合い頂きありがとうございました。

【完結】母になります。

たろ
恋愛
母親になった記憶はないのにわたしいつの間にか結婚して子供がいました。 この子、わたしの子供なの? 旦那様によく似ているし、もしかしたら、旦那様の隠し子なんじゃないのかしら? ふふっ、でも、可愛いわよね? わたしとお友達にならない? 事故で21歳から5年間の記憶を失くしたわたしは結婚したことも覚えていない。 ぶっきらぼうでムスッとした旦那様に愛情なんて湧かないわ! だけど何故かこの3歳の男の子はとても可愛いの。

教会を追放された元聖女の私、果実飴を作っていたのに、なぜかイケメン騎士様が溺愛してきます!

海空里和
恋愛
王都にある果実店の果実飴は、連日行列の人気店。 そこで働く孤児院出身のエレノアは、聖女として教会からやりがい搾取されたあげく、あっさり捨てられた。大切な人を失い、働くことへの意義を失ったエレノア。しかし、果実飴の成功により、働き方改革に成功して、穏やかな日常を取り戻していた。 そこにやって来たのは、場違いなイケメン騎士。 「エレノア殿、迎えに来ました」 「はあ?」 それから毎日果実飴を買いにやって来る騎士。 果実飴が気に入ったのかと思ったその騎士、イザークは、実はエレノアとの結婚が目的で?! これは、エレノアにだけ距離感がおかしいイザークと、失意にいながらも大切な物を取り返していくエレノアが、次第に心を通わせていくラブストーリー。

「君以外を愛する気は無い」と婚約者様が溺愛し始めたので、異世界から聖女が来ても大丈夫なようです。

海空里和
恋愛
婚約者のアシュリー第二王子にべた惚れなステラは、彼のために努力を重ね、剣も魔法もトップクラス。彼にも隠すことなく、重い恋心をぶつけてきた。 アシュリーも、そんなステラの愛を静かに受け止めていた。 しかし、この国は20年に一度聖女を召喚し、皇太子と結婚をする。アシュリーは、この国の皇太子。 「たとえ聖女様にだって、アシュリー様は渡さない!」 聖女と勝負してでも彼を渡さないと思う一方、ステラはアシュリーに切り捨てられる覚悟をしていた。そんなステラに、彼が告げたのは意外な言葉で………。 ※本編は全7話で完結します。 ※こんなお話が書いてみたくて、勢いで書き上げたので、設定が緩めです。

取り巻き令嬢Aは覚醒いたしましたので

モンドール
恋愛
揶揄うような微笑みで少女を見つめる貴公子。それに向き合うのは、可憐さの中に少々気の強さを秘めた美少女。 貴公子の周りに集う取り巻きの令嬢たち。 ──まるでロマンス小説のワンシーンのようだわ。 ……え、もしかして、わたくしはかませ犬にもなれない取り巻き!? 公爵令嬢アリシアは、初恋の人の取り巻きA卒業を決意した。 (『小説家になろう』にも同一名義で投稿しています。)

【完結】記憶喪失になってから、あなたの本当の気持ちを知りました

Rohdea
恋愛
誰かが、自分を呼ぶ声で目が覚めた。 必死に“私”を呼んでいたのは見知らぬ男性だった。 ──目を覚まして気付く。 私は誰なの? ここはどこ。 あなたは誰? “私”は馬車に轢かれそうになり頭を打って気絶し、起きたら記憶喪失になっていた。 こうして私……リリアはこれまでの記憶を失くしてしまった。 だけど、なぜか目覚めた時に傍らで私を必死に呼んでいた男性──ロベルトが私の元に毎日のようにやって来る。 彼はただの幼馴染らしいのに、なんで!? そんな彼に私はどんどん惹かれていくのだけど……

前世の旦那様、貴方とだけは結婚しません。

真咲
恋愛
全21話。他サイトでも掲載しています。 一度目の人生、愛した夫には他に想い人がいた。 侯爵令嬢リリア・エンダロインは幼い頃両親同士の取り決めで、幼馴染の公爵家の嫡男であるエスター・カンザスと婚約した。彼は学園時代のクラスメイトに恋をしていたけれど、リリアを優先し、リリアだけを大切にしてくれた。 二度目の人生。 リリアは、再びリリア・エンダロインとして生まれ変わっていた。 「次は、私がエスターを幸せにする」 自分が彼に幸せにしてもらったように。そのために、何がなんでも、エスターとだけは結婚しないと決めた。

処理中です...