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一章 割れた硝子
三話 幸せなはずなのに
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家に帰っても、特別やることはない。けれど、ノートを見返せばそれが山積みであることがよくわかる。この大量の仕事から逃れられない。安受けの結果だ。その内容は、主に授業のノートをまとめること、課題を最後までやり切ること、小テストの見直しなど。データ上のもの、テキスト上のもののふたつに分かれる。前者は丸々僕ができるけれど、後者は本人の筆跡もあるから全部はできない。写真やデータをその人に送ったら完了。お願いしてきた人は、笑顔で僕にタスクを預け、終わると笑顔で受け取る。最初は嬉しかったはずだった。僕のやることで、だれかが幸せになっているなら、それで十分なはずだった。僕がやれることはわずかだけど、だれかを笑顔にしたかった。身の丈に合わないことをしてしまった。どこからその噂が流れたのか、僕は「安受人」と呼ばれるようになり、断りにくい性格も相まって、ますます頼られるようになった。まだ平気だった。次々と人が笑顔になって、喜んでいる様子を見て、幸せだった。他人の幸せが、素直に嬉しかった。そのはずなのに。……いつしか、何が「幸せ」なのか、わからなくなっていた。そもそも僕という人は、何だろう。だれかにとって、何だろう。僕は、クラスメイトたちとは広く浅い関係になっていた。クラスでの居場所なんて、なかった。
それでも頼まれたことはやらないといけない。落ち込んだ気分の中、問題文を読んで考えてみる。メモ帳にペンを走らせると、さらさらと文字や数字が浮かんでいく。……やらなきゃ。頼まれたことだし、やり切らないと。……それが僕の使命だから。
四時に帰宅して、夕食の七時までタスクと向き合っていた。20あるタスクのうち、4件だけできた。なかなか憂鬱な気分は晴れず、母に呼ばれて意識が逸れた。
「いただきます」
エルズバーグ家は三人暮らしだ。父、母、僕。父はガラス職人で、家でガラスショップを経営している。母はそのお手伝いと、ケーキ店でパートをこなしている。両親ともに優しくて、理解もあり、勉強だって教わることがある。愚痴があれば、夏は冷たい飲み物、冬は温かい飲み物と共に話を聞く。
こうして高校に通えている。毎日学食で食べられるほど、裕福な家庭。半年に一回旅行に行けるほど、円満な家族関係。三食問題なく食べられて、家があって、服を着られる。両親という存在が目の前にいる。それだけで十分幸せだと思うべきだ。思わなきゃ。自らを悲劇のヒーローと思い込むほど、愚かなことはない。ただ、何で僕はこんなに苦しいのだろうか。時々、息が詰まるほど胸が痛いのだろうか。……わからない。きっと、その答えを、両親は持ち合わせていない。
そうだ。夕食の時間だった。家族が集まるダイニングとリビング。木彫りのテーブルに、椅子は4脚。両親とは向かい合って座って、僕の隣にはだれもいない。両親共に本好きで、壁はほとんど本棚で埋まっている。ガラス細工の本や、ケーキの本、旅行日誌などが収納されている。部屋の隅にある、加湿器や観葉植物。父は家の間取りや設計にもこだわり、隙間を活用する収納術や、太陽光を取り入れたりする大きな天窓を作ったりした。あたたかい家庭……。
今日の夕食は、白米、鮭の切り身、冷奴、豚汁、きゅうりの漬物だ。母が丹精込めて作っていた。父が白米を炊いて、鮭にこんがり焼き目をつけた。僕は料理しなくて、準備もしなくて、楽に夕食を食べる。それだけで罪深いと思う僕は、どこかおかしいのだろうか。
「ユーリ? どこか悪いところがあるの?」
母が心配そうに声をかける。僕は慌てて箸を持って、鮭をほぐして食べた。
「ううん。何にもないよ。ぼうっとしてたの」
「そう?」
母の内の思いが僕に向かなくなる。僕と同じ色の茶髪、肩にかからないくらい短い母。エメラルドグリーンの瞳、細い眉毛、低い鼻。耳たぶは薄い。花が好きで、洋服も花柄が多い。普段は陽気に鼻歌を歌って、料理を作ったり父と話したりしている。
「今日の学校はどうだった?」
今度は父の思いが僕に向く。父は、カラスを思わせる黒い髪、邪魔だからと短いスタイル。ひまわりのような瞳の色、太くて立派な眉毛、母より高い鼻。耳たぶは厚い。仕事柄、着替えが面倒なのかいつも作業着でいる。冬でも半袖半ズボンでいることがあって、根っからの仕事人なのだ。
「授業、楽しかったよ」
「そうか」
適当に答えるだけで、父の視線から逃れられる。逃れるという言い方は少々おかしいかもしれないが、だれの視線も感じたくない。……そう僕は思う。
「美味しい」
豚汁を飲んで、箸で肉と大根を食べる。間違いではない。母の料理は美味しい。……のはずなのに、だんだん、「そう答えなければ」という強迫観念のせいで、本当の意味で楽しく食事ができていない。
「ありがとう」
母は喜んで、リラックスしてお茶を飲む。父は冷奴に醤油をかけて、豪快に一口で食べる。当たり前の日常。両親にとっても、僕にとっても。
「ごちそうさまでした」
僕が……僕があれこれ言わなければ、ふたりは疑わず、笑って安心する。
それでも頼まれたことはやらないといけない。落ち込んだ気分の中、問題文を読んで考えてみる。メモ帳にペンを走らせると、さらさらと文字や数字が浮かんでいく。……やらなきゃ。頼まれたことだし、やり切らないと。……それが僕の使命だから。
四時に帰宅して、夕食の七時までタスクと向き合っていた。20あるタスクのうち、4件だけできた。なかなか憂鬱な気分は晴れず、母に呼ばれて意識が逸れた。
「いただきます」
エルズバーグ家は三人暮らしだ。父、母、僕。父はガラス職人で、家でガラスショップを経営している。母はそのお手伝いと、ケーキ店でパートをこなしている。両親ともに優しくて、理解もあり、勉強だって教わることがある。愚痴があれば、夏は冷たい飲み物、冬は温かい飲み物と共に話を聞く。
こうして高校に通えている。毎日学食で食べられるほど、裕福な家庭。半年に一回旅行に行けるほど、円満な家族関係。三食問題なく食べられて、家があって、服を着られる。両親という存在が目の前にいる。それだけで十分幸せだと思うべきだ。思わなきゃ。自らを悲劇のヒーローと思い込むほど、愚かなことはない。ただ、何で僕はこんなに苦しいのだろうか。時々、息が詰まるほど胸が痛いのだろうか。……わからない。きっと、その答えを、両親は持ち合わせていない。
そうだ。夕食の時間だった。家族が集まるダイニングとリビング。木彫りのテーブルに、椅子は4脚。両親とは向かい合って座って、僕の隣にはだれもいない。両親共に本好きで、壁はほとんど本棚で埋まっている。ガラス細工の本や、ケーキの本、旅行日誌などが収納されている。部屋の隅にある、加湿器や観葉植物。父は家の間取りや設計にもこだわり、隙間を活用する収納術や、太陽光を取り入れたりする大きな天窓を作ったりした。あたたかい家庭……。
今日の夕食は、白米、鮭の切り身、冷奴、豚汁、きゅうりの漬物だ。母が丹精込めて作っていた。父が白米を炊いて、鮭にこんがり焼き目をつけた。僕は料理しなくて、準備もしなくて、楽に夕食を食べる。それだけで罪深いと思う僕は、どこかおかしいのだろうか。
「ユーリ? どこか悪いところがあるの?」
母が心配そうに声をかける。僕は慌てて箸を持って、鮭をほぐして食べた。
「ううん。何にもないよ。ぼうっとしてたの」
「そう?」
母の内の思いが僕に向かなくなる。僕と同じ色の茶髪、肩にかからないくらい短い母。エメラルドグリーンの瞳、細い眉毛、低い鼻。耳たぶは薄い。花が好きで、洋服も花柄が多い。普段は陽気に鼻歌を歌って、料理を作ったり父と話したりしている。
「今日の学校はどうだった?」
今度は父の思いが僕に向く。父は、カラスを思わせる黒い髪、邪魔だからと短いスタイル。ひまわりのような瞳の色、太くて立派な眉毛、母より高い鼻。耳たぶは厚い。仕事柄、着替えが面倒なのかいつも作業着でいる。冬でも半袖半ズボンでいることがあって、根っからの仕事人なのだ。
「授業、楽しかったよ」
「そうか」
適当に答えるだけで、父の視線から逃れられる。逃れるという言い方は少々おかしいかもしれないが、だれの視線も感じたくない。……そう僕は思う。
「美味しい」
豚汁を飲んで、箸で肉と大根を食べる。間違いではない。母の料理は美味しい。……のはずなのに、だんだん、「そう答えなければ」という強迫観念のせいで、本当の意味で楽しく食事ができていない。
「ありがとう」
母は喜んで、リラックスしてお茶を飲む。父は冷奴に醤油をかけて、豪快に一口で食べる。当たり前の日常。両親にとっても、僕にとっても。
「ごちそうさまでした」
僕が……僕があれこれ言わなければ、ふたりは疑わず、笑って安心する。
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