レプリカント 退廃した世界で君と

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レプリカント After Story

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 寄り合い所の仕事がない時は、キァルくんの船が沖から帰って来るのを見越して。僕は午後から漁村を訪れるようになる。朝から来ても、特にやる事などないし。その分、ケホケホ咳き込んでいる銀狼の相手をしないといけなかった。あまりベッドの中から出させないので。彼の溜まる不満を解消しないといけなかった。家の中だとだらだらしたがるのだけれど、それが強制されるのは心情的に嫌なのか。やはり一日中ベッドの中というのは苦痛に感じるらしい。もう大丈夫だって言い張る大男を、駄目って叱らないとけないのだから。実際に目を見てもあまりぼんやりとしていないから。体調に関してかなり快方に向かっているのはわかっていた。だか治りかけで無理をさせてぶり返したらよろしくないというのもあって。僕が彼の行動の制限を緩めるなんて事はなかった。だから甘えてくる人を、甘やかすのも致し方ないかなって。そう、ついつい。撫でてと言われたら撫で。嗅がせてと言われたら膝枕しながらお腹を嗅がせたりしていた。なんだか。大きな子供みたいだと感じるのは失礼であろうか。元々こういう人であったが。
 さすがに、持って来た食事を。僕の手で食べさしてとかは言わないのだが。言ったら。嫌だな。人間換算で言えば。二十前半か、下手したら後半の成人男性がそれを強請るのは。いくら彼に対して甘い自覚があろうと、ちょっと。そう感じざるをえない。ただ単に退屈なのであろう。ベッドに寝ながら、いつも外の景色を見ているのだから。普段、外ばかり歩き回って。廃墟とか、森を駆け回っているのだから。僕も家の中だろうと家事をやったり、何かしら動いてないと。それらは習慣付いているのだから。それなりに気持ちはわかるのだった。
 それでも大人しくさせている甲斐あってか。鼻水が治まり、咳が出だしたが。それもだんだんと咳き込む頻度が減っているから。いい加減、制限を緩めても良いころ合いかもしれないと思った。仕事に復帰はさせないが。
 寝室のドアを開け、中に入ると。起きていたガルシェが、カーテンを閉めきっていないのだから。上半身だけ身を起こし、外に視線をやっていた。そっちは庭の一部が崩れ、一応柵があるが崖になっていて。ただ海が見えるだけだ。遠くに海鳥と。地平線の境目。空と海が交わる部分すら。晴れているとどこまでも見通せそうで。薄っすらと孤島だって確認できる。
 僕の位置からでは、そんな景色が見える窓と。彼の横顔しか窺えないが。ただただ無表情だったから、きっと考え事でもしてるのかなって。暫くそんな彼を見つめていると。狼の顔がこちらに向き、漸く部屋に人間が入って来たのに気づいたのか。柔らかく笑みを作っていた。思考がはっきりしてきた分、ベッドから出れず何もできないから何かを考えているのか。こうして家事の合間に呼ばれなくても様子を見に来ても、鼻の利く彼が反応が遅れる場面が多かった。こちらがいろいろ悩んでいるように。銀狼もまた、何かに悩んでいるのだろうか。僕の前では明るく居ようとしてくれるけれど。ふとした瞬間。夫のもの悲しそうにも感じる表情を見る事が多かったから。そういう時、声を掛けてよいものか戸惑ってしまう。
 外は今日も快晴。風もあまり勢いがなく。遮るような大きな壁もなく、標高も高い土地なのと海に面しているから無風なわけではないが。洗濯物を干すならとても気持ちが良い環境と言える。お散歩するならこんな日がとても最適であろうか。
「良い天気だね」
「ああ」
 僕が外を眺めながら、そんな事を言えば。ガルシェもまた、僕が来るまで眺めていた。きっと見飽きてしまっただろう景色を同じように見て。肯定してくれるのだった。全開にしてしまうと、風で家の中の物が巻き上げられる恐れがるので。海に面した方はちょっとだけ開けるようにしていた。息をすれば、室内なのに潮風特有の香りがほんの少しする。曇りだすと湿度が上昇し過ぎて、こうして肌で感じて。纏わりつくようなそれは、けっして爽快感を感じるようなものではないのだが。でも今日は本当に、良い天気。
「ガルシェ、お散歩行く?」
 先に耳がぴくりと反応して。こちらを見返す狼の頭は、不思議そうに首を傾げ。ただ良いのかって、そんなふうで。ずっと僕が厳しく動くなって厳命していたから、完全に治ってないのに人が口にした言葉が予想外であったのだろうか。たとえそれが心配する気持ちであったとしても。ずっと閉じ込められていると、いくら自分の家だろうと息が詰まるだろうなって。そう思ったからこそ、気晴らしも良いだろう。彼の物思いに耽る横顔をあまり見ていたくないという。僕の思惑もあって。何を考えているのだろうって。気になってしまうから。
 久しぶりにガルシェが外へと出ると。庭から大慌てで鶏達が集合して、彼の足元を囲う。軽く跳ねて、羽ばたいて、遊んで遊んでと。本当の狼なら恐れられて、逃げ惑う場面であろうが。この子達もまた僕達の家族の一員であり、そして銀狼が味方だと理解しているのか。とても懐いていた。アーサーとは喧嘩してばかりであったけれど、子供達に懐かれてまんざらでもないのか。おーよしよしと、屈んだ大男が。順番待ちする鶏を次々と撫でていた。揺れている尻尾をまだ幼い雛が毛先を追いかけて、啄んで遊んでいるのがなんとも可愛らしい。
 ただ。婿養子みたいな形で雌鶏であるアーサーが連れてきた、モルゴースだけは狼の顔が怖いのか。あまり近寄ろうとはせず、ちょっと遠くから様子を見ていた。僕には懐いてくれているけれど。まだまだ慣れなさそう。今銀狼の足元でたむろしている子達のように、卵から孵った時からガルシェが居た状況ならまた違ったのだろうが。元野良の子なのでそうはならないし、だからこそ警戒心を解けないのであろう。僕に慣れただけ、進歩である。基本アーサーに尻に敷かれているので、父親の威厳とかそこらへんはあまりなさそうなのだが。
 鶏達の相手もそこそこに、僕と一緒に近辺をぶらつくのが目的で家から出たので。ガルシェはまたなって、語り掛けながら立ち上がると。僕に手のひらを差し出す。服装は普段通り、小銃やナイフとか。武装はちゃんとしているのは、家の周辺だろうと何かあった時を想定しているのだろう。外に誘った僕は、家の周辺なら外敵も居やしないって気が緩んでも。夫はそうではないらしい。彼が警戒してくれているからこそ、こうして僕がのほほんとしていられるのだろうが。
 取り締まる警察も、土地の権利を主張する輩もいなくなった。廃墟ばかりが立ち並ぶここは。元は歩道とか車道とか関係なく、ただ歩きやすい場所を探して思い思いに歩けるのを良い事に。ガルシェと二人。手を繋いで。彼に歩幅を合わせて貰って、ゆったりと歩くと。なんだか散歩デートしているみたい。恋人が普通にして然るべきな、そういった行事とか。何もかもすっ飛ばして、結婚して。二人だけの時間ってのをまるで意識していなかったのもあるが。歩きながら手を繋いでいる相手の顔を見上げてみる。陽光に照らされ、銀の被毛を煌びやかにさせながら。狼の横顔はとても凛々しく、そして目つきは悪いそんな夫の顔。僕が見上げているのに気づいた彼は、どうしたって。穏やかに見下ろしくるけれど、なんでもないって首を振ると。そうかって、また前を向くガルシェ。紅葉とか考えると、景色すら寒々しく変わりつつあるので。こうして剪定されていない並木道を進んでいても、綺麗だなって感想はなく。ただ荒れているなって、その程度であった。アスファルトだって、砕けているし。オブジェクトと化した廃車だって、綺麗とは言い難く。だがそれらを一纏めに、一つの景色として切り取ると。意外とその光景は自然の力強さも感じられ。一種のアートとも言える。そんな場所を、空想の存在みたいな毛むくじゃらの男性の手を握り。二人っきりで歩けば、それだけで特別であり。自分の夫だと意識すると、気恥ずかしさも感じる。ただ一緒に散歩しているだけであるが。五十センチぐらいの亀裂に差し掛かったから。僕がジャンプして飛ぼうとすると、慌てたガルシェが空中に浮きあがった僕をそのまま抱えると。人間が一人で飛ぶよりずっと遠くまで。いくら体重がそこまで重くないとしても、抱えたまま軽々越えてしまって。ぶらぶらと足が地面に着かないまま、過保護だなって男の胸の中で見上げていると。ただただ安堵したような狼の顔があるだけで。僕が彼の腕をタップして初めて、地面に靴先が触れる。
「怪我したらどうする」
 風邪がまだちゃんと治ってない人に心配されてしまった。それを言った狼は、口元に握り拳を当てるようにして。コホコホと咳き込んでいたけれど。男が手を離したから、そのまま一歩僕が下がると。黒いレザージャケットの胸元から、自然な動作で煙草を取り出そうとした相手。それを見て。軽く服の裾を引っ張りながら、窘めるように彼の名前を呼ぶ。どうやら外なのもあって、つい無意識に手が伸びてしまったらしい。喫煙者の性か。僕は吸わないからわからないけれど、口寂しいのかな。ベッドの中で大人しくさせていたから、そういえば随分と煙草を吸っていないなと思ったが。まだ我慢してもらうべきだった。風邪が治るまではそこも制限させて貰う。好きにさせてあげたい気持ちも確かにあったが。身体に悪いものを、調子が優れない時にわざわざ目の前で吸うのを見過ごすのもなって。手元にある煙草を指先でとんとんと、軽く叩いて一本を取り出そうとしたまま。人間に指摘されて動きを止めた銀狼。ちょっとだけ迷う素振りはするけれど、出て来た丸い筒状の物を中に押し込んで。ポケットの中にしまう。
 僕がそんな彼に対して。よしって満足そうにしていると、暫しこちらの顔を見ていた銀狼は。せっかく開いた距離を詰めると、隙だらけの僕の頭頂部に鼻先を埋めてきた。まるで吸おうとした紫煙の代わりとでも言うかのように。ペットの動物、例えば猫を吸う人を指して猫吸いと言うが。ガルシェがよくするこの行動をいわば、ルルシャ吸いと言うのだろうか。番のにおいを嗅ぐと安心感を得られるらしいし。その度合いはこの男の様子を見ているとわかってはいるので、吸われる事自体はそこまで構わないが。外でされると、誰かが見ていないとしても。やはり身じろぎしてしまうが。両肩にいつのまにか逃がさないと言いたげに掴んでいた男の手によってそれはできず。ただ湿った鼻息が擽ったいだけだった。
 気晴らしになっているのだろうか。そうだといいな。連れ出してみたけど、お互いに会話はそう多くはなかった。きっと黙っている時間の方がずっと多い。ただ二人で歩くだけ。ちょっとじゃれるように身体を擦りつけたり、においを嗅いだり。試しに人間の僕が、彼のお腹に顔を埋めて。嗅ぎ返してみたり。獣臭と、煙草の臭いがこびりついた衣服は。正直良い匂いではないのだが。愛している男の体臭であるとなれば。そう悪いものでもない気がして。それに、僕がこうすると。ちょっと嬉しそうに、銀狼はなすがまま。服を捲って直接嗅ぐかなんて聞いてきたりするし。そこまでしたいわけではないので、遠慮するけれど。動物的な仕草を押し付けないように、我慢して。それでも本能的にしちゃう相手に。僕が同じようにすると、やっぱり嬉しいみたい。同じ狼同士の番だったなら、常にこうやって気持ちを確かめ合ったりするのかな。しゃがんでもらって、前したように。彼のマズルを甘噛みするのも良いかなって思ったが。不必要に今興奮させるのも悪い気がして。狼の親愛の証をするのは、憚られた。外というのもあったが。家から離れる程に、木々の密度は増して。今は漁村の方角に歩いているわけではないので、このまま歩き続けても。あの海辺に辿り着いたりはしないが。そこまで遠出する気もないし。ちょっと一時間とか、二時間ぐらい。ガルシェと歩くだけをする。
「なぁ、ルルシャ」
 手を繋がないまま、歩いていると。不意に足を止めた銀狼は、僕の背に向かって呼び止めた。立ち止まり、振り返ると。ちょっと思いつめたような、でも呼び掛けておいて。やっぱり止めとくんだったってそんな顔をしている男に。問い詰めるようにはせず、次に言うであろう言葉を待って。きっと最近考え事ばかりしている彼は。僕に対して言いたい事があるのかなって。あまりに、番を優先して考えてくれるけれど。ガルシェだって、一つや二つ。ううん、もっとたくさん。異種族なのだから、溜まる不満はそれ相応に。同族以上にきっと持ち合わせているだろうなって。感じてはいても、問いただすような真似だけはしたくなくて。いつ彼が言うのかなって。その時が今来たのかなって、そんな心持ちであった。この男が自分からあまり思っている事を言いたがらないのは、過去の経験が裏打ちしているというのもあって。それは、似た者同士である僕とて同じであったが。優しいから、相手を気遣って。言わない。というのは建前。ガルシェも、僕も、嫌われたくないってのが先行して。それで言わないって場合が多い。
「いや。やっぱりいい……」
 感情を荒立てず、聞く姿勢でいたというのに。辛抱強く待っていたが、やはりガルシェは言いたい事を呑み込んでしまう。酒に酔っている時とか、精神的に追い詰められて初めて。本音をぶつけてくる場面はあったが。きっと、そんな彼の態度に。今僕が落胆したような態度をすると、傷つくであろうから。二人でお散歩デートしている雰囲気を壊したくないというのもあって。目の前の男と同じように、言ってよって気持ちに蓋をして。優しく笑いかけながら、手を取る。言って欲しい。甘えん坊な彼だからこそ、してあげたい。僕だって彼のわがままを聞いてあげたい。そう思うのに言ってくれない、言わないというのは。やはり。どうにも、もどかしい。そういう人なんだってわかっていてもだ。
 あまり追い詰めると、彼はそんなに心が強いかっていうとそうでもなく。それは円形脱毛症になってしまったり、暴走してしまったりするから。繊細な一面があって。そういう意味で図太いのは僕の方だと言えた。気遣って、愛してくれているからこそ。言わない。言いたくない。そうしてしまえる。でも僕に嫌われたくない、とても臆病な部分。
 同じ空間で、生活していても。どこまで踏み込んでいいのか。して、それで嫌われた時。耐えられないのは自分だとしたら。僕だって、ガルシェに嫌われたくない気持ちは一緒なのに。それでも言いたい事は言ってしまう。似ているようで、やっぱり違うのだって。狼の男を見ていると感じるのだった。
 性的な部分で、待つと言った相手に対して。僕から歩み寄ろうと決めたけれど。全てをぶちまける、言い合う関係っていうのは本当に存在するのだろうか。何もかも。もう秘密にしないようにはしていたとしても。好きだからこそ、言えない部分だってある。あるとしても。言わないと始まらないって事も確かにあって。
 今までのように、ただお互いが黙って。寄り添っているだけでは。進むものも進まない。居心地は良いけれど。僕がかってに一人、卑屈に辛くなるのは良くない。それで心配をかけてしまうのも。ルルシャは、全部自分が悪いって考えてしまうって言うけれど。ガルシェだって、俺のせいだ。そう言うのだから。初めてできた大事な人。愛する人。そしてそのまま添い遂げる相手として定めて。番になったから。距離感を探りながら。より臆病になって、理想の夫像を演じているのかなって。一番僕の傍が、心が安らぐとしても。それで一番息が詰まる相手にはなって欲しくはない。なりたくはなかった。
 手を引いていた僕はそっと来た道を引き返す。行きは楽しそうにしていたのに。帰りは浮かない顔する銀狼を従えて。もう少しだけ彼との散歩を楽しみたい気持ちもあったが。僕には受け持った仕事があるのだから。午後のキァルくんとの授業に間に合わすなら、もうそろそろ家に戻らなくてはいけなかった。
 これまで我慢させた分。余計に口を噤むようになってしまった相手に。責任感を感じるけれど、その感情のまますれば。嫌がるのだから。困ったものだった。どうにもじれったい。ガルシェも、僕も好きだって言い合って。気持ちが同じ方角に向いているのに。どうしてこうなるのだろうか。愛故に。だろうか。
 家に戻り。僕は出かける準備を。そして銀狼はお留守番。散歩ついでに、そのまま着いて来たがったが。駄目って言い切った。あのシャチの子と二人っきりで、ただお勉強してるだけなのに。邪魔されたくないというのも理由の一つであったが。やはり、病人は大人しく寝てて欲しい。日差しが照っている時間は、外はまだ暖かく感じても。それは昼間の内、とても短い時間だけで。夜になるにつれて、冷え込むのだから。冬が始まろうとしている今、温かく布団の中で過ごして欲しかった。いくら自慢の毛皮があったとしてもだ。ごねるかと思ったが、道中の気落ちしたような雰囲気のまま。素直にわかったって言う相手に。玄関でどう引き剝がすか考えていたのに、取り越し苦労に終わる。廊下を歩き、寝室へ行く背中を見ながら。玄関の扉に手を掛ける僕は。声を掛けようかなって思うが。それよりもさっさと終わらして、早く帰るようにするのが一番であると判断した。帰って晩ご飯を食べたら。ただ布団の中で、二人でだらだらするから。今だけは寂しいのを我慢してもらう他なかった。こんな状態の夫を、復帰なんてまだまだ先だななんて考えて。
 自転車で駆け抜けて。漁村を訪れると、まだキァルくんを乗せた漁船は港に帰ってきてないらしい。ちょっと早く付き過ぎたというか。僕が時間より十分前行動を心掛けているだけで。レプリカントの人は時間にルーズな人が多い。時計を持っている方が稀で。体内時計が人よりその分正確なのだが、それでも多少のズレが存在していた。早く付いた分、そこから三十分とか待つ場合もザラだった。自転車を邪魔にならない所に留めていると、沖合から戻って来る二隻の船を見つける。片方には、遠くでも良く見えるシャチの二人が乗っていて。どうやらクゥルールさんと、キァルくんだとシルエットと。色合いで確認できた。彼らの所有する大型漁船が港に停泊するのまで見届けると、出迎える人達に紛れながら。お仕事の邪魔をしないように、漁師さん達の姿を間近で眺める。こうして、改めて見ると。全員体格が良いし、ガルシェ以上の巨体が忙しなく獲った魚を陸に持ち運び。そのまま解体作業に取り掛かったりするのは。興味を引かれるが、僕が来た目的はそんな見学ではないのもあって。ただ目的の人物を探すのに尽力する。向こうは僕が小さいから、人混みに紛れると気づかないとしても。シャチという巨体を探すのに、それ程苦労するわけもないのだが。次々に遅れて戻った漁船や、素潜りから帰ってきて海から直接陸地へ上がってくる人達も居る中。漁船の上で作業するキァルくんが居て。ちょうど道が開けたタイミングで、誰にもぶつかったり道を塞いだりしないように近づくと。相手もこちらに気づいたのか、持っていた魚が大量に入ってる大きなボックスから手を離して。慌ててこちらに駆け寄って来る。その背後でクゥルールさんがちゃんと運ばないか馬鹿息子って怒鳴っていた。結局。邪魔しちゃっただろうか。
「ルルシャ、あんた、何で来たんだ! 誰かにぶつかったりしたら危ないだろっ」
 教え子に怒られてしまった。海の中で実際に漁をしている姿は絶対に見られなくても。こうして荷降ろししている姿ぐらいはちょっと見てみたいという。有り体に言えば好奇心である。巨大な尾ビレが彼らが振り向く度にぶおんぶおんと振り回されているので。ちゃんと当たらないように、人混みが一度なくなったのを確認して来たのだが。隻眼のシャチさんも、息子さんを追いかけてきて。ほっぽり出すんじゃねぇって拳を叩き込んだ後で、僕に気づいていたから。大人しくしておくべきだった。
「本当に肝が据わってると言うかなんだかな。あー、仕事は俺が後はやっておくから。怪我しない内に息子を連れてさっさと行きな」
 殴った後で。後は自分で全部するからと言うと、こんどは逆に一人息子を邪魔者扱いのように。お尻付近を蹴りあげていた。最初からそうするなら殴るなよなって、そんな文句を隣でぶつぶつ言うキァルくん。なんだか、ごめんね。漁船の上では。寄り合い所では顔なじみの奥さんの姿があって、どうやら荷降ろしを手伝っているらしい。ルルシャちゃんだって、僕に手を振ってくれていた。
 ただ、好意的に接してくれるはその人達だけであり。キァルくんが庇うようにして、僕をこの場から一刻でも早く連れ出したいのか。背を大きなキャッチャーグローブのような手が押してくる。露骨なまでに態度には出さないが、漁師の人達にとって人間など邪魔者以外の何者でもないのであろう。荷物を抱えたまま、こちらを睨むようにしている人がちらほら窺えた。そんな顔をする人は決まって古傷の少ない者であったりするのだから。きっと若手なのかな。商人と揉めた件で、大人達にはかね好意的に映ったようだが。あの場にいなかった人にとってはその程度という事だろう。今まで女性の方ばかり接してきたので、男性の海洋型レプリカント種とは明確な隔たりを感じるしかなく。こうしてシャチの親子が異例なのであろうか。
 漁村でも一番の賑わいを見せる係留場から抜け出すと。シャチの手が僕の肩を掴むようにして。体格差のせいか、人差し指と親指で掴むと言った方が正しいような気もしたが。背を押していたのからキァルくんに向き直るようにさせられて。目に飛び込んでくる彼の股間部、服を着る習慣があまりないせいだが。やはり同性といえど目のやり場に困った。僕が思わず顔を背けていると、シャチの頭が近づいて、大きな口がぐぱっと開く。
「俺よりも若い連中はまだ、分別がついてない奴もいるんだ。ただでさえ漁の後は興奮してて、収まりがつかない大人だって多いのに、そんな場所に自ら来る奴があるか!」
「ちょっと早く着きすぎちゃって」
「怪我してからじゃ遅いんだぞ」
 疲れているとは違う。興奮にか、頭頂部にある呼吸孔の開閉が激しい。肩をそのまま揺さぶられたりはせず、力加減はどちらかというとおっかなびっくりといったところだろうか。まるで割れ物に触れるようなそれに、怒っていても気遣いは忘れないのだなと。表面上は謝りつつも、相手を観察していた。最初。本当に出会った当初なのだが。ガルシェは力加減を誤り、僕の腕に爪で軽くだが皮膚に穴を開けたり。傷みを感じるぐらい握られたりといった事が多かった。身長の差とかを考慮すると、銀狼は二メートルぐらいであっても。シャチの子は二メートル半はあるのだから。人に対する感じるサイズ差はお互いに違うのだろう。夫が僕を爪で突いたら割れそうな卵と例えるなら、この子が感じているのは卵の黄身が近いであろうか。そんなに壊れそうに、儚く見えるのかなって思ってみたりするが。僕も小さな小動物を見ると、可愛いと同時に。潰してしまいそうで怖いって思うのだから。ガルシェが卵の割り方が上達したのって、僕の身体を触ってるから。とか。
「聞いてんのかよ」
 終いには、シャチの子が肩を落とし。僕に対して拗ねたような態度をする。そんな彼を見て、僕はくすくすと下品にならない程度に笑うのだけれど。人間の態度に言うだけ無駄かと思ったのか。それでも、まだ言いたりないと。頬を膨らませていた。皮膚を色分けしている黒と白の境目。丁度白が多い部分がぷりくりと膨れて。ああ、シャチの頬って。そこなんだって気づきを得る。
「あんた、俺を子ども扱いしてんだろ」
「してないしてない」
 本当かって、巨体が屈みながら顔を覗き込んでくる。姿勢が辛いのか、片腕を地面に着いて支えにしていた。確かに俺の先生だけどよって、不満そうにしている彼を連れて。勉強に使っている浜辺にやってくる。木の枝で数式を砂に描き。僕が居ない間も、指を使いながら復習していたのか。淀みなくすらすら答える。本当に賢いなって。関心しっぱなしで居たのだが。桁が増えてくると、さすがの彼でも暗算に苦労するのか。答えるペースは目に見えて減速した。二桁の足し算はもう、そこまで苦労しないのにだ。だからちょっとだけ掛け算に挑戦してみようかと。一覧を書いてみるのだが。今日は風が強いのか。九九の段を全て書ききる前に、最初の方に書いた二の段が消えつつあった。なんかいでも書いて消せる、砂浜という無料のキャンパスも。こういった不便な部分が使っていると露見して。
 二人して頭を悩ませながら。これは木の板に彫って、一覧表を作った方が早いねって事で落ち着いた。こういうのは暗記した方が早いし。一夜漬けでどうこうというものでもない。巻き割りの要領で、斧を片手に持つと適当な流木を板状に加工していくキァルくん。僕にとってはそこそこ分厚いけれど、彼が持つならあまり薄いと割ってしまうから。ちょっと粗削りであるが。このくらいが丁度いいのかなって隣で眺めていた。僕の出番は書くまでなく。彼が陸上で作業してる間、本当に暇である。雇われているのに、これでいいのかと悩むが。だからと作れるわけもないし。試しに彼が軽々持っている斧を両手で持って、振りかぶって少しだけ。本当に少しだけよろけた瞬間。握っていた斧を取り上げられてしまったし。君こそ、僕の事子ども扱いしてないかいって。そう聞きたくなった。
 これでも家で畑仕事をしたり、自転車を漕いだりして。ユートピアで暮らしていた一年前より筋肉がついたのに。そう思い、彼が薪を割る傍らで腕を上げ。力こぶを作る仕草をするが。あまり浮き上がらず。試しに触ってみるとちょっと固いゴムみたいだった。ガルシェが力を入れた筋肉を触らせてもらった記憶と照らし合わせてみても、同じとはお世辞にも言えない。キァルくんが振り返って僕の姿に訝しむ前にさっさと腕を下ろし。素知らぬ顔をする。タスティ先生。あの虎のお医者さんもそうだったが。やはり一応僕も男としての矜持とか、そこまで大袈裟なものはないが。もう少し、こう。どうにかならないものか。ガルシェに筋力増強にトレーニングを付けて貰うべきか。彼はあまり僕の体系が大きく変わる事を良く思わず、今のつるぷにの方が良いとのたまうのだから。何、つるぷにって。その時は衝動的に耳を引っ張ってしまったが。別に太ってはいない。太る要素も余裕もないし。服を捲り上げて、特に固くも、だらしなく垂れてもいない。そんなお腹を触る。つるぷに。
「何やってるんだあんた」
 いつの間にかこちらを見ていたシャチさんは。それはもう。困惑した顔をしていて。僕だって背後に立っていた人が脈略もなく、自身のお腹を触っていたら同じような反応をしそうだったから。慌てて佇まいを直す。ガルシェからすると、自分のように毛皮で覆われていない皮膚は珍しく。触っていて面白いらしい。僕が彼の毛皮に指を通すのが好きなのときっと一緒なのかな。
 たははって。取り繕った笑い方をしながら。話題を変える意味でも。力強くて凄いねって、少々このタイミングであれば露骨だと思ったが。キァルくんは満更でもないのか。頬を掻きながら。照れていた。そりゃ、雄だしなって。言われると。僕も男なんですけどって。心の中で愚痴った。
「なぁ、あんた」
 そんな和やかな雰囲気に、陰りが。それはキァルくんの声音が、神妙に変わったからで。言うまいか、どうしようかって。その仕草はどこか。大事な事を言い淀む夫と重なる。僕の顔を見てはいなくて、その小さな瞳が向かう先は。僕の手首だった。
 ただガルシェと違い。言う事にしたのか。真剣な表情をさせたシャチの子が。
「あの狼。あいつに、無理やり関係を縛られてるのか?」
「えっ……」
 問いに、思わず胸元を触り。ぎゅっと握りこむ。そこにはガルシェから貰った番の証。首飾りがあり。あの銀狼の瞳と同じ色合いをした宝石と、動物の牙に穴を開け。そこに紐を通したどこか民族的な装飾品。でもアンバランスに、一つのナットが一緒に存在していて。服と一緒に握ってもなおごつごつしていた。
「あんたじゃ抵抗しても、なんの意味もないだろ。もし、もしも。暴力で無理やり言いなりにされてるなら、俺が」
「違うよ」
 きっぱりと否定する。これはそうしなきゃいけないと感じた。冗談として、わりきるにも。あまりにも。相手が踏み込んできた僕の心。その足は今の彼の足の裏。砂浜のせいで、素足であるのだから。土がついているのは当然で。
「不自然なんだよ。たった二人で、それも人間であるあんたが。狼であるあいつと」
 ズキリ。胸のどこかが、酷く傷んだ。ギザギザの刃が深く、深く刺さり。じくじくと蝕むように。少なくとも、警戒を緩めつつある相手に。一番言って欲しくない言葉であったからかもしれない。たとえ、シャチの顔が。こちらを心配する気持ちだけで染まっていても。
「それに、あのユートピアの市長の息子だなんて。弱みを握られてるのか。何か言えない理由があるのか。俺なら、あんな奴。一思いに、あんたを開放して――」
 そこから先、キァルくんの言葉は続かなかった。いや、続けさせなかったという方が正しい。それは、僕の表情を見たシャチの子が。どういう顔をしているか。よくよく理解したからだった。感情を表立って、それもこんなあまり人に向けて良いものではないとわかっている物を。心優しいと僕は思っている、シャチの教え子に。向けて良いものでは。わかっている。わかっているのに、怒りという感情がどうしようもなく。溢れてきて。零れて。滴った。夫を、ガルシェを、侮辱されたと感じたからというものあったが。もっと、別の部分で、僕は。
 ごくりと。目の前の子は。唾を呑む音をさせた。小さな黒い瞳の中に、怯えを見つける。本当に、僕なんかのどこに。怯える要素があるというのか。こんな人間なんかに。
 深呼吸して。心を落ち着ける。ただの善意から来るものであるようだし。こちらを心配して、助けようとして。そのようにして。僕にとって酷い事を言ったのだろう。これは、いつか。誰かと関わっていれば訪れたものだ。それが、たまたま。仲良くなった、シャチの子であっただけで。一時的な僕の教え子であっただけで。それだけだ。いつかが、今。来ただけだ。それだけだ。それだけなのに、どうしても心が落ち着かない。握りこんだ首飾り。握っているのは自分の心臓か。痛い程に握りしめて存在を確かめる。
「どうして、そんなふうに思ったの」
 キツくならないように。気を遣いながら。それでも、冷ややかになりかける声が止められない。さっきまでの和やかな雰囲気なんて影も形もない。かなり、ぴりついていた。ちらりと、相手の顔色を窺いながら。その表皮の乾き具合を見る。あまり、長い時間陸上に滞在していると体調に不調をきたすのだから。一緒に居る僕が注意して見てあげるべきだった。集中力が高いのか、キァルくんは自分の事なのに疎かにする傾向がある。今は別の要因であったが。
「それが。あいつにつけられたのかなって、前々から気になってたから」
 それ。シャチの子が指さした先。それは僕の手首にある痣だった。指摘されるまで、忘れていた。というより、そこにあるのが当たり前過ぎて気にしていなかったと言える。あまり隠すように服を着ていたわけでもないし。そうか。これを見て。そっか。それでか。そう納得しながら。手首の痣を摩る。他人が見たら痛々しく映るのかな、手形。丁度ガルシェの手が握れば、ぴったり痕が一致するだろうか。付けたのは銀狼であるのだから、それはそうなのだけれども。どうやら誤解を招いてしまったようだ。DV。ドメスティック・バイオレンスって呼ばれる。非力な僕が、あの銀狼からそれを受けていると。ようはそう考えてしまったらしい。
 彼が、僕に暴力を振るう筈がないのに。人間の価値観で言えば、甘噛みとか。つい日常でついてしまう爪のひっかき傷とか。人同士ではあまり起こりえないそれらが。毛皮という皮膚を守るものがないから、狼の特徴がある人と暮らしていると増えてしまって。それで疎んだり、しないでと言わず。受け入れているから。だからこれも。そのうちの一つだった。
 違う。違うよ。心配してくれてありがとう。でも違うから。大丈夫。愛し愛されて、その証拠とも言えた。獣型レプリカント達の婚姻の証である首飾り。僕のだけナットが通されていて。そして僕の身体にある痣。僕達だけの特別。縛られているわけではなかった。むしろ。
「大丈夫。心配しないで、それに。ガルシェを。夫を縛っているのは、きっと僕の方だから……」
「それって、どういう意味だよ」
 ガルシェは自分の意思で烙印をその身に刻んだ。意味を、その重みを、理解しているからこそ。なんでそんな事をしてしまったのと。あんまりだと、追いかけてきた彼を前にして嘆いた。ケジメだと彼は言った。僕が断れないように。逃げられないように。そうして、そうされて。僕が喜ぶはずもないのに。それだけなら、本当に彼に失望して。終わってた。ここに僕は居ない。それでよかったのに。あの街で、普通に。狼の女性と一緒になって。親の望む通りに、幸せになって欲しかったのに。全て捨てて、捨てさせて、責任を押し付けられて。どう喜べばいいのか。失意に、どうしようもなく愛する人が鬱陶しいと感じ。その求婚を断ろうとして。それができなかった。続く彼の言葉に。一緒に生きようと。ずっとはぐらかして、友達のまま傍に居させようとさせた彼が。僕の全部を欲した。僕が何者で、何であっても、関係ないと。そう言ってくれた。何物でもない、なれなかった。誰かの代用品でしかなかった僕の心に響いたそれら。
 だからこそ。どこかの誰かのクローンである自分が。ガカイドをガルシェの代用品にしたくないと、彼の好意を受け取らなかったのもそうであった。ガカイドは伸ばした手の先に僕の心がないと思ったのだろう。諦めたように、感情を堪えていたけれど。でもそれは違う。あの街で暮らし続けたら、一緒になったら不幸になってしまう。不幸にしてしまう。その恐れがあった自分が、これ以上居続けるのは無理だと。そう覚悟を決めた後であったからというのもあったから。全てを話せなかった。話す気もなかった。
 でもそう考えていたのに。一番幸せになって欲しい人を。愛してる人を。結局、僕は。縛り付けてしまったのだから。客観視すると自分はとても、どうしようもない奴であって。そんな自分を愚直に追いかけてきた銀狼も、どうしようもない人であって。
 愛し、愛されているけれど。契約にも近い。僕とガルシェは。もうお互いしかいないのだ。そうした。された。何も考えず、衝動的に番の関係を解消するのも無理な話だ。あの烙印がネックになる。きっと彼に言えば怒るのだろうけれど、今でもガルシェを僕から解放したい気持ちがないわけではない。僕なんかとっとと捨てて。狼は狼同士、男と女で。普通に戻って欲しいと思わずにはいられない。人間で、男である僕に相応しいとあろうとする彼が。そんな相手に何も返せていないのに。お前の番として、相応しくありたいと言われれば言われるほどに。意識してしまう。意識させられてしまうのだった。なら僕は、君に相応しいと言えるのだろうかって。考えてしまう。
 素直な気持ちで言えば。好きだよ。大好きでしかたがないんだ。彼の傍を誰にも譲りたくなんてないし。そうしたいのに。それをしていい、そんな自信がないんだ。湧くわけもなかった。無力感をずっと抱きながら日々生きている僕は。与えられる愛を取り零しそうになっている僕は。ああ、また考えてしまう。悪い方ばかりに。
 キァルくんが放った言葉が、鋭利に刺さって抜けない。深く、深く沈み込んで。柄すら掴めない。血で指先が滑るように。抜く事が叶わず、より深く。沈み込む。
 ――不自然なんだよ。たった二人で、それも人間であるあんたが。狼であるあいつと。
 何気なく言われたけれど。僕達は、どれだけ自分達の関係が歪か。わかっていた。わかっているよそんなのと、叫びたいぐらいに。わかってるから、言わないでよ。わざわざ言わないでよ。そっとしといてよ。わかってるんだよそんな事。僕は、どうやったって狼にはなれない。女性にはなれない。彼の求めた全てを。満たしてあげられない。満たせない。できない。できないんだ。できないんだよ。どれだけしたくても。してあげたくても。して、あげたいのに。できない自分がどれだけ惨めか。惨めな気持ちで隣に居るか。わからないよね。わかるわけもないよね。わかりたくもないよね。君は僕じゃない。人間でもない。だってこの関係を望んだのは僕で。ガルシェで。どうやったって付きまとうのだから。現実は逃げても逃げても、逃げた分だけ追いかけてくる。勢いを増して。僕を打ちのめす。目を背けたいのに。見たくない物は、どうしてか回り込んで見せてくる。見ろと強要してくるのだった。
 これが。僕を嫌ってる人や。僕達をよく知りもしない相手なら。ここまでにはならなかっただろうか。こんなにも、胸が苦しくならなかっただろうか。かってに言ってなよって、気にしてないふりを続けられただろうか。心優しい、人間なんかを庇い。助力を乞う。シャチの子から放たれたものでなければ。もう少し、受け流せただろうか。それが、できたのだろうか。今となってはわからない。
「ルルシャ?」
 様子がおかしい人間を、心配してくれる相手。涙を流してるわけでもない。苛烈に、衝動のままに突然キァルくんを罵倒したわけでもない。心を落ち着けようと。必死になって。俯いて下唇を噛んでいるだけで。沈黙を貫いているだけであって。きっと理由を聞きたいのだろう。どうしてこんな辺鄙な場所で二人で暮らしているのか。同性同士、異種族で。当然の疑問だった。疑問に思わぬ人などいないであろう。ただ聞かれなかっただけ。聞かれるようになる程必要以上に他人と。今まで関わろうとしなかっただけ。それを恐れていたから。自分達の関係が普通ではないと。言われるのを何よりも恐れていたからだった。最近。もう少し僕から歩み寄ろうと。したのに。しようとしたんだ。した方が良いって。それなのに夫に、義務感でされたくないと。見抜かれて。断られたのも。それがずっと蝕むように引っかかっているからというもあったかもしれない。じゃあ、どうしたらいいの。どうすればいいの。番として、何ができるの。すればいいの。藁を掴む思いで暗闇に手を伸ばしても。触れるのは物ではなく。ただあたかも悲劇に合っていると嘆いている。可哀想な自分を鏡で見るだけで。
 キァルくんには言えない。言えるわけもない。僕の出自がどうあるかなんて。おいそれとはとても。それすら、否定されるのが。怖い。
「ルルシャ、どうしたんだよ」
 やめて。お願いだから。名前を呼ばないで。この名前も、彼から与えられたものであった。ガルシェが名付けた、仮のそれであったのに。今では、意識してなくても呼ばれたらつい振り向いてしまうぐらいで。大事な、とても大事な。何も持っていない僕に、持ち歩けない自分に、残された。形のない物。意味は彼らの言葉で宝を指すらしい。番になる時、僕を抱きしめて。俺だけの宝。ルルシャ。そう呼んでくれた。叫んでくれた。あの人が。今、無性に会いたくなって。抱きしめて欲しくなった。縋りたくなった。弱くて、弱くて。打たれ弱い僕を、慰めて欲しかった。僕には、彼しかいない。それ以外、いらない。いらないんだ。他人の身勝手な言葉でどうこうなりたくない。左右されたくない。僕とガルシェ。二人が向けあう、愛は不変で。そして違う。人の示す愛と。狼が示す愛は。違うのだ。それはまた、欲する愛もまた。違う事を意味していて。与えたら、その分だけお返しをもらいたい。無欲なままではいられない。聖人ではないのだから。無償の愛なんて存在しない。でも、愛されたいから愛してるのとは違う。
「ごめんね。心配してくれて、ありがとう。木に書き終わったから。後は予習しておいてね。僕、今日はもう帰るよ。キァルくんも、肌乾いてきてるから。早めに水に浸かってね」
 それじゃって、捲し立てながら。相手が手を軽くこちらに翳して。引き留めようとしているのも構わず。僕は置いてある自転車まで駆けた。そうするしかなかった。これ以上、彼の前に居たくないというのもあった。だって、急に泣き出したりしたら。より、心配されてしまうし。それで、やっぱりガルシェが僕に何かしてるって。シャチの子が勘違いしてしまったりしたら、目も当てられないじゃないか。精神が安定しないまま。勢いのまま出てきてしまったけれど。自分が心配してくれた事にちゃんと礼が言えていたかどうかすら。自信がなかった。数秒前の記憶が朧げで。息を荒げているのも、慣れないのに走ったからであって。胸を押さえてるのも。冷たい空気を勢いよく取り込んで、肺が苦しいからで。靴の中に入った砂が気持ち悪い。砂浜を駆けたから、舞い込んだそれらは。不快感を助長する。
 胸を張っていたい。彼の、ガルシェの、番なんですって。言いたい。言うべきなのに。どうして後ろめたいと思ってしまうのか。
 ああ。気持ち悪い。
 靴下を抜けて、指の隙間にすら舞い込んだ砂利が、じゃなかった。こんなになっている。自分が、だった。本当に、気持ちが悪い。
 誰よりも彼の傍を望み。幸せはそこにあると信じて。でも今。僕の感情は、幸せと程遠く。逆方向に意味もなく突き進んでまたかってに独り、辛くなった。醜い心を抱きしめて、蹲りたい。なんの気兼ねもなく、負い目も。不安も。全部振り払って。ただ笑い合いたい、それだけなのに。それを一番できていないのは、僕だった。立ち止まっているわけにはいかない。過ぎ去っていく月日を無駄にしたくない。僕よりもずっと先を歩いて行く彼において行かれたくない。なのに。追いつけない自分の心が、もどかしい。早く、早くと急いても。一生懸命、漕ぐ自転車のように。踏み込んだだけ加速なんてしてくれない。弱いままの自分ではいたくないのに、その手段。やり方がわからない。
 坂道を越えて、森も超えて。道路を駆け抜けて。僕の家。人間と銀狼、二人の家。中で大人しく待っているものと思っていたけれど。見えて来た光景に、徐々に減速をかけながら。まだ家の前に到着してもないのに、やがて止まる。甲高いブレーキ音をあまり立てないように。警戒心からそうした。フード付きのロングコートを着ていて。そのフードを目深に被った人のシルエットが大勢。家の前に立っていて。全員がそれなりに荷物を背負っている。一人以外、種類の違う武器も所持している。そしてガルシェが、それを迎え撃つように仁王立ちしていて。まだお互いに武器を向け合っていないから、荒事にはなっていないようであるが。この距離からでは、何を話してるか。種族も。身長は夫と比例して、あまり変わらないから人間からすると高い部類だとわかる程度で。一種即発な状態なのか、窺い知れない。朽ちた車の陰に身を隠すようにしながら、様子を見ていたが。風向きが中途半端であり、鼻が利くレプリカントなら既に見つかっている可能性すらあった。ガルシェは、僕が戻って来たのに気づいていそうではあるが。こちらに顔を向けない。銀狼が鋭い目つきを向けていても、臆する事もなく対峙している。一番前に出ていたリーダー格の人が躊躇なく、ぱさりとフードを取り。そうして、明るく笑顔を向けていた。ガルシェにだ。積極的に会話を試みようとしているようであるが、そうされても反応はあまりよろしくないのか。ガルシェの口元はあまり動いていない。人見知りな部分が出ていた。特に相手が。というのもあったかもしれない。ここいらではあまり見かけない。蜥蜴の顔をしているから。
 僕が隠れる必要もないと感じて。自転車を押しながら、車の陰から出るのと。リーダー格の男の傍に、護衛らしい一番背が高い者が近づきながら。同じようにフードを下ろし、そして肩を叩きながら。僕の存在を耳打ちしたのか。リーダー格のごつごつした尾がコートの中から飛び出して跳ねあがり。シャープな印象を受ける蜥蜴の顔が、こちらへと向くのはあまり時間差はなかったように思う。近づきながら、その人の表情を見やれば。どこか、昔を懐かしむような。そんなもので。皆が僕に気づいたのか。リーダーの後ろで。部下らしき人達が小声なのに少々騒がしくなる。
「おい、ルルシャだ」
「ルルシャが来たぞ」
「四肢が千切れたりしてないし、元気そうだぞ」
「やっと会えましたね、若」
「よかった、よかった……」
「おい、誰かお土産持ってないか。手ぶらじゃ不味いだろ。商品以外で」
「くそ、ない。俺が食べかけの干した大ミミズならあるぞ」
「ばか、人間がそんなもの食うかよ。それに食べかけなんて出すな!」
 ひそひそ話をするようにしながら。違う種類の蜥蜴の顔達が寄り添い、声量が上がりつつあったけれど。最後には顔に傷がある隊長さんが静かにしろと、馬鹿共がと暴力で黙らせていた。しっかり僕に聞こえているし。なんだか、本当に懐かしくて。思わず苦笑いしてしまう。変わらぬ彼らの姿に微笑ましいとも言えたが。でも一番に挨拶しないといけないのも。したがっているのも。一歩僕の方へと、進み出て来た人であって。
「久しぶり。ルルシャ」
「アドトパも、久しぶり」
 笑顔を見せる蜥蜴の顔。膝を付いて。目線を合わそうとしてくれる。ガルシェ以外で、僕に対してそうしてくれる人は少ない。とても。
 鱗が一部ごつごつと尖っていて。それは頬と、後頭部へかけてが一番顕著に表れている。最初にあった蜥蜴のつるりとした先入観めいた印象とは違い。鱗一つ一つも大きめで、色合いが黄褐色をしている。口元だけは暗褐色をしていてちょっと黒っぽい。種族的に細かく言うと、アルマジロトカゲと言うらしい。名をアドトパ。ユートピアで僕に最初に求婚した、言ってはなんだが奇特な方。自分の商隊を持ち、街を転々としながら。物を買い付け売り歩くのをなりわりにしている。護衛として引き連れている人達は、そのまま。街に滞在する間、副業の一環として貸したりしているらしい。外を旅する人にとって、武力があるかないかは、そのまま生存率に直結する。野党や機械に襲われて、荷物を奪われるだけならまだいい方で。命を損なう場合が殆どだった。だからとても、危険な行動であり。その土地から離れられない人にとっては、かなりありがたい人達であった。長である自らは、戦うという面において弱いので彼らなくしては何もできないと言っていた。誇りある職業であり、だからこそ。求婚して貰い、でも僕はそれに良い返事を返せず。それでも、未練を残しつつも仕事を優先して。旅立っていったのだから。それきり、会えず。というより、再び彼らが訪れる前に。僕がユートピアから離れてしまったのだから、会えるわけもないのだが。
 以前はオシャレに着ていたコートではなく、今は肌寒い気候が続いており。冬に突入しつつあったから。防寒対策にか。地味目な印象を与える機能性重視のロングコートを地面に擦らせながら。蜥蜴の目線が、僕の胸元にちらりと動き。そしてまた、僕の顔を見た。裂けた口が薄く開き。笑みを作りながら人間と違い、瞼ではなく。瞬膜が動いて瞬きをする。
「定期的にある商会、同業者の集まりみたいなものだけど。そこでこの辺りの担当が揉め事を起こしたとあって。欠員が出たのと。人間の男の噂を聞いて。元々担当していた場所にも飽いたので試しに立候補してみれば、ルルシャ。君が居た。昔から恋愛運は悪い方なのだけれど、私の運もまだまだ捨てたものじゃないのかな?」
 口元に手を当てて。紳士的に静かにくすくすと笑う男。その後ろで、護衛の蜥蜴さん達が手を振っていた。嘆息している隊長さんは、その程度ならと。若と慕う人の邪魔をしないのであれば、見逃す事にしたようで。なりゆきを見守っていた。そこで動きを見せたのは、沈黙を貫いていた銀狼で。足音を荒く立てながら、僕に今にも触れそうなアドトパとの間に強引に身体を割り込むと。人間を隠すように、その背に追いやる。僕は急に視界を遮られ、目の前にある銀の尾を軽く払いのけながら。ガルシェの後ろから辛うじて顔を出すのだけれど。失礼な態度を取られたアドトパは、怒るでもなく。ただ膝を軽く叩き泥を落としながら立ち上がり、僕に見せるものとは違い。不敵な表情をしていた。
「雄の嫉妬は醜いよ」
「黙れ。挨拶が済んだならさっさと帰れ。お前の求めているものはもう、俺のだ」
 ガルシェが、取り繕う気も失せたのか。鼻筋に皴を寄せて。狼らしく唸っていた。そうすると、穏やかな雰囲気が吹き飛び。後ろで控えている護衛さん達の顔付きが変わる。これはいけない。ただでさえ、僕の夫は目つきがキツイのに。そんな態度。お客さんに対して。していいものではない。あまりにも不躾すぎる。だからか、目の前に無防備にある。膨らみつつある銀狼の尾を掴み。ぐいっとこちらに引っ張った。悲痛に鳴く狼の声。それを聞いた蜥蜴の唖然とする顔。護衛さん達が、それを見て自分のお尻を思わず押さえていた。
 振り返ったガルシェが、こんどは僕に対して。怒った顔をして。何か言いたそうにしながら、はくはくと口を開け閉めしているけれど。残念ながら言葉になっていない。
「だめだよガルシェ。お客さんに対して失礼でしょ」
「ルルシャ、こいつは雄だ」
「うん、そうだね」
 性別ぐらい僕だってわかる。何をいまさらと、呆れた顔をしながら。相手を見上げて。上手く伝わっていないとわかったのか。また失礼にもアドトパをこの銀狼は指差しながら。どう言おうか迷いつつも、俺の対応は間違っていないって態度が変わらないので。取り合う気はあまりなかった。
「お前を狙う、雄だ。俺のテリトリーに侵入した、敵だ」
「違うよ、ただのお客さんだよ」
 庇われるようにされたけれど。別に警戒する相手でも、どうこうしたいなら最初からそうしているし。できる力もある相手であったから。双方に死傷者が出る前提で、という注釈は付くが。だから無防備に、ガルシェの身体の陰から出て。アドトパに夫の非礼を代わりに謝りながら。家の中でお茶ぐらい出そうかなって、立ち話もなんだし。そう勧めていた。隣で狼の顔が凄いものに変化していたけれど。前は居候という身であったから、こんな事言える立場ではなかったが。今は僕の家でもあるのだし。それくらいは言う権利があるだろう。僕をわざわざ訪ねてきてくれた相手を無下にするわけにもいくまい。お茶菓子なんてないけれど。もし泊まるところがないなら、一泊ぐらいならという考えもあった。寝室に立ち入らせる気はないが。雑魚寝ならリビング、広いし。野宿よりはマシであろうか。
「それじゃあ、お言葉に甘えようかな。と、言いたいところだけれど。お隣の狼が怖い顔してるから遠慮しておこうかな。特に疲れているわけでもないし。本当に、今日は顔が見たかっただけなんだ。それとも、君は人間だから。まだ私にも可能性はあるのかな?」
 どこか含みのあるような。そしてガルシェに明確に挑発する意図もあるのか。そんな言葉遣いで、ニヒルに笑う蜥蜴の伊達男。伸びて来た手が、僕の胸元で揺れているネックレス。それを指先で軽くぴんと弾く。首から紐で下げているから、それで飛んで行ったりはしないが。揺れた。どうしてそんな事するのかなって、視線がそこに誘導された隙に。素早く身を寄せたアドトパは、僕の耳元に口先を近づけると。
 ――自分から、間男を呼び込むような真似はしない方がいいよ。期待しちゃうから。
 小声で。吐息すら吐きかけられながら。擽ったくて、耳打ちされた耳を手で押さえようとしたが。それよりも先に、ガルシェが僕の身体を奪うように抱えてしまうのが早かった。相手を威嚇した狼の顔が僕の目の前にあって。足が地に着かず、先程のネックレスのようにぶらぶら揺れる。
「ちょっとガルシェ、人前でっ! おろしてよ」
「ルルシャが悪い」
 ぷいって、顔を違う方向に向けると。聞く耳を持たないと主張するように、耳を倒して遮断されてしまう。僕と銀狼のやり取りを見て、紳士的な振る舞いをこの時ばかりは忘れ。大口を開けて笑う珍しい姿のアドトパ。お腹まで抱えてしまって。そこまで面白い要素があっただろうか。ただただ、抱えられた僕は恥ずかしい思いをしているのだが。小さい子ではないのだから。止めて欲しかった。
「君は狼だからね。話には聞いていたけれど。あまり束縛が強いと、愛想尽かされるよ」
「……黙れ、知ったような口をきくな」
 痛いところを突かれたかのように。誰とも目線を合わせぬままガルシェの顔が歪む。彼らの中の常識。主語を抜きに会話されると。人間の僕では会話について行けない場合がある。特に習性とか、生活様式とか。そういった部分では顕著であった。人とそう変わらぬ感情と、理性がある人達ではあるけれど。それと同じように本能とか、昔ながらの伝統とか。遺伝子に刻まれた記憶を優先する時があるから。そういう人達であったから。僕は同じ人間相手に接するように、扱うけれど。それで、上手く行く時もあれば。上手くいかない時もあるのだった。認識のズレが生じる。話しに聞く限りは、僕以外の人間は。レプリカント相手に。動物が二足で立っている。本能を捨てきれない野蛮な奴だと。そんな認識で下に見ているようであったが。差別されていると、言ってしまえばそうだが。そうされる理由も、彼らにはあるのだから。全部が全部、悪いとは言い切れない事情があった。今ではないそうだが、昔あった食人事情とか。縄張りの奪い合いとか。対立してしまう場面が。肩を持ちたいし、僕は彼らの。というより、ガルシェの味方でいたいけれど。そのつもりだけれど。だからと、人間の差別感情までどうにかできるとは思っていないし。きっとできないだろう。人間からすると、僕の対応がきっと異質なのだろうし。
 友達が、レプリカントしかいないというのもあったが。そして夫が、狼型のレプリカントで。同性であるのだし。分かり合いたい。知りたいと思いながら、一緒に暮らしているけれど。それでも全てを知って、理解できているとは言えない。その片鱗が、この彼とアドトパの間の。とても短い間に交わされた会話に濃縮されていた。同じレプリカントだからこそ、分かり合える部分、通じ合える部分。そこに、嫉妬してしまう。あまり、ガルシェとかかわりが少ない。どちらかと言うと、僕の方がこの蜥蜴さんとは話しているのにだ。それなのに、アドトパは彼が抱えている何かを。僕にはわからない、何かを。ほんの少し見聞きしただけで理解してしまえるのだなって。アドトパは雄で。レプリカントで。狼ではないけれど。そんな憤り。僕は夫と、一年も一緒に居るのに。感情の動きは、表情や仕草でわかりやすい人であっても。考えている事まではとても。とても。きっとそれは銀狼も、嗅覚で僕の感情の動きはわかっても。同じように何に悩んでいるかまではわからないのと一緒で。言葉にしないと、駄目なんだって。気づいているのに。実践するのは難しい。いざしてみても、また拒絶されるんじゃないかって。臆病な自分が、より手をだし辛く、言いだし辛くなっていく。このままでは良くないと思っているのにだ。それはガルシェも同じで。言いたい事があるのに、黙り込んでしまう。きっとそういう部分は僕よりもずっと。輪をかけて臆病な人だと思う。
「今夜は来る途中にあった農場に泊めてもらう予定だからお構いなく。もう遅いから。明日、漁村の方にも顔合わせに行くし、暫くはここら辺をうろついているから。もし何か買いたい物があれば言ってね、ルルシャだけ安くしとくよ。そこの親の躾けがなっていない狼さんは二割増しにするけど」
 それ。ガルシェに聞こえるように言って良い内容なのだろうかと、まじまじと異種族なのにイケメンオーラ全開にしている蜥蜴の顔を見るが。本当にいつもニコニコしてて愛想が良い。逆に僕にだけ笑いかける時は、ちょっと控えめに。微笑むようにするから。それが貴方は特別ですよって、言われているように感じて。前から苦手だった。でも僕のお友達という枠組みにおいて。頼りになり、信頼できる人でもあった。下心を下手に隠さない分、信用が置けて。ほのめかしたりはするけれど、力で訴えるような手段も取らない。優しい人。そうとわかれば、十分だった。異種族であっても。それだけで。僕は素直に気持ちを向けられた。蜥蜴の目線が、僕を抱えたままの銀狼に移ると。それでバチバチと火花が散ったような気がした。なんだか、この先。この二人が分かり合うというか。仲良くする未来が見えない。その気がない、というのもあっただろうが。ガルシェ、威嚇止めないし。アドトパは、挑発するし。内心、揶揄うと予想通りの反応を返す夫を面白がっているとも取れた。あまり意地悪しないで欲しい。この後、拗ねたガルシェの機嫌を直すのは誰でもない僕になるのだから。
「まあ、確かに。不特定多数にこうやって好意のにおいを振りまく番がいたら。私も束縛しちゃうかもな。君の気持ちもわからないわけじゃないよ、ガルシェ」
「気安く俺の名を呼ぶな」
「嫌われたものだね。それじゃ、ルルシャ。また会おうね。こんどは二人っきりで、紅茶などいかがかな。この辺では手に入らないし、人間が好みそうな物も私の商隊は取り揃えてあるよ。君を、身も心も満足させてあげる」
 茶目っ気のつもりか、ウインクしている蜥蜴の顔。二人っきりでって部分で、外野からブーイングが入った。俺達もルルシャとお話したいです若ってそんなもの。アイドルでもないのに、変に人気で気持ち悪い。若と呼び慕っている相手が好意を寄せている人っていう部分で、自然と好感度が高くなっているだけであろう。僕自身をそれ程護衛の人達が好いているわけではないのだろうが。直接話した事すらないのだし。アドトパの最後の部分、わざとらしい言い方に。僕を抱く銀狼の腕に力が入る。本当に、殺意が溢れそうな。じっとりとした暗い目をしだした夫の様子に。抱っこされて、顔の距離が近いというものあって。僕だけが察した。これは不味い。
 だから、その時はガルシェも、護衛の人も含め皆でお茶会をしましょうと言えば。敵わないなって、キザな蜥蜴が困り顔になるのだが。ブーイングが喝采に変わる。別に話す程度ならアドトパと二人っきりでも、何かされるとは思えないので。僕は別に構わないのだが。夫が構うので、この返答が一番良いと思ってだ。それでずっと威嚇していた狼の溜飲が下がったのか、得意顔をしていた。ガルシェ、なにその顔。腹立つな。やっぱり一人でお茶会に参加しようか。
「ルルシャは俺一筋だからな」
「君、恥ずかしくないのかい」
 相手に見せつけるように、人間の顔に頬釣りする銀狼を蜥蜴が冷めた目で見ていた。これまでずっと、不機嫌ですって。態度に出して、威嚇して。失礼な態度を取り続けたのに。見かねた番に庇われて、情けなくないのかって。ようはそう言いたいのだろうアドトパは。その言葉に隠れた意味を全く、一欠けらも、ガルシェに通じていなかったが。どうして時折この男は、僕がかかわるとポンコツになるのだろうか。居ない方が、もう少ししっかりするのだろうかと思わずにはいられない。荒療治が過ぎると、逆にトラウマを植え付けてしまうので。かなり心が繊細なのは身にしみているのでもうしないが。
 対人関係。人見知りなのもそうだけれど。特に雄相手だと、この銀狼はあまり仲良くしようとしないのだなと。そこではたと気づいた。もしかしなくても、原因は。僕、なのかな。過保護で、結婚してから独占欲が増しているとは感じていたが。嫉妬とか、気持ちがわからないわけじゃないって。アドトパの言い方に、引っ掛かりを覚えた。
 銀狼がいつまで経っても人を離さないので。取り付く島もないと、諦めたように。これ以上会話を続けるのは無駄だと感じたのか。蜥蜴の集団はぞろぞろと足並み揃えて森の中に消えていった。僕はもう少し話したかったのだけれど。それを言うと、確実にしきりに僕の首筋を嗅いでいる男が。本当に拗ねそうなので、黙った。夫と友達の仲が悪いと、気分が良いものではない。
「漁村で何かあったか」
 今晩はどうしようか。明日、会ったらさっそく何か買おうかな。小人数で移動する他の商人と違い、アドトパの商隊は人数が多い分。一度に運べる品揃えも豊富そうだし。電池、あるといいな。そんな違う事ばかりを考えていた僕は。ぼそりと呟かれた言葉に。ドキリとし、身体を跳ねさせてしまった。別に隠すつもりもなかったが。かといって、今言うつもりもなかったから。ゆっくりと地面に降ろされ。そして、ガルシェが膝を付くと。視線を合わせ、両肩に手を置かれる。
「言っていたキァルって奴だな。何を言われた」
「どうして、わかるの」
「薄まっているが、汗と。悲しいにおいが残っていた。帰る道中を加味して。時間が経っているのにまだ嗅ぎ取れるということは。それだけその時の感情が強かったってことだ」
 拗ねるでも、威嚇するでもなく。真剣な表情をして。真っすぐこっちの目を見てくる。透き通る琥珀のように曇りのない、彼の瞳。動揺も、焦りも、全部。しきりに鼻を鳴らし、嗅ぎながら。尋問するみたいに。肩を掴んでいる男の手が、ちょっと痛いというのもあって。毛を逆立てて。まだ、アドトパの前では我慢してる方ではあったのであろう。あれで。でも今は違う。僕と二人っきりになったからか。殺意。ここに居ない人に向けていた。彼の目が語っていた。俺の番を傷つけるなら容赦しないって。
「ルルシャ。そいつは、敵か。俺達の、俺の、敵か」
 冗談なんて要素、少しも介入する余地はなく。底冷えするぐらい、透き通る瞳をしながら。排除するべき相手か、そうでないのか。僕に聞いて来る相手に。怯んだ。こういう雰囲気のガルシェは、正直言って。怖く感じる。僕にはない暴力性。力がなければ、弱者は、ただ死ぬだけだって。そういう世界で生きて来たからこそ。必要とあれば、暴力を振るうのを厭わない。この世界に生きる人達の考え方、と言ってしまえばそうなのだけれど。どれだけ怒っても。殺すなんて感情。僕には湧かないし、実行しようだなんて、とても恐ろしい事に思えてしまって。もし自分が誰かを殺したりしたら、相手が可哀想で、自分の心が罪悪感で耐えられないとわかりきってるから。だから。そう聞かれて、まるで僕の一存で。僕がどう答えるかで、あの子の。シャチの子が明日生きているか、死んでいるか。その未来が変わるとしたら。その重みに、震えた。
 僕のそういった感情は全て。伝わっているのに。それでも、ガルシェは。ちょっとだけ、困った顔をしたけれど。どうなんだって、まだ聞いて来るのだった。敵か、そうでないか、それだけでしか。そうとしか考えられない。思考に。嫌悪してしまう。
「違うよ」
「お前を悲します奴は。俺からお前を奪う奴は、敵だ。俺の敵だ、ルルシャ」
「違うよ、そんなんじゃないよ。そんなふうに、言わないで。良い子だよ、キァルくんは。とても、良い子なんだ」
「なんで庇うんだ。戦えないお前の。俺は牙であり、爪だ。お前の柔い皮膚を守る毛皮だ。だから、お前が望むなら。俺はどんな事だってできる。できるんだルルシャ。俺はもう迷わない、お前の、番だから」
 やめて。やめてよ。まるで口説き文句みたいに言っているつもりなのか。優しく語り掛けるように彼が何か言う程に。僕が悲しむにおいって奴を出しているのだろう。ガルシェの顔が困惑していく。人の感情を嗅ぎながら、その考え方が理解できないとばかりに。あれって、何で通じないんだって。そんなふうに。目の前の男が、そんな顔をするものだから。
「不満があるなら言ってくれ。人間の、夫として。俺はまだまだ未熟だろう。だって、わからないんだ。ルルシャが、何に悲しんでいるのか。何に怯えて、苦しんでるのか。こんなにも、俺は愛しているのに。どうして、相応しくあろうとすればするほど。喜ばず、落ち込むのか、わからないんだ。強い雄であれば、雌は喜んでくれるのに。お前は違うから」
 彼が、何か言って。動揺して、お前は違う。ただその部分が。キァルくんの言葉と重なって。狼の雌じゃないから、だから俺はかってがわからない。普通にしてても通用しない。いらぬ苦労をしてると、言われているようで。刺さってできた心の傷が短い時間で、さらに膿む。熱を発して、痒くて。胸を掻き毟りたい衝動にかられる。僕のせいで、誰かが傷つくのは嫌だった。守られた結果。血で染まるなんてごめんだ。すぐ、そうやって気に入らない相手を排除しようとする。命の価値が安いというのもあるが。君達の悪いところだよ。わからないと彼は言う。本当に、僕の事をわかっていない。一番、彼は僕を愛してくれているけれど。僕の好きな人だけれど。正しく、理解してくれていないと感じた。なまじ、においで感情が嗅げるから。それで相手がどういった気持ちか早合点して。勘違いして。先走って。確かに、ぱっと出るその感情の動きはそうであっても。もっと複雑に、考えているのに。その考えをどう伝えていいかが難しいというのもあったが。
「ガルシェだって、本音で言ってくれないじゃん」
 僕達は喧嘩をした事がない。それはお互いに、嫌われたくないという気持ちがあるから。意見の衝突を恐れて、それが結果。そうなってるだけで、仲が本当に良くてではないと。気づいていた。だから突き放すように。彼のこれまでを指摘すれば。ぐって、息を詰めて。銀狼が怯んだ。図星を突かれた場合。この男が取る行動は、逃げて有耶無耶にするか。黙るか、拗ねるかだ。どうするのかなって、試す自分の行動を良くは思わないけれど。今の余裕のない僕では、言わないって選択肢がなかった。
「そ、それは。……俺はいいんだ。ルルシャは、ユートピアで一緒に暮らしている間。自分の気持ちが何か、わからなくて。俺が迷ってる間。ずっと我慢させて、辛い思いをさせたから。だから俺は、いいんだ」
 なにそれ。そう呟かなかった自分を褒めたかった。それをしたら相手が傷つくと、知ってるから。別に僕は。彼を裏切ったり、傷つけたいわけではない。ガルシェは、好意の向け方が独りよがりな部分があるけれど。その気持ちは本物だ。そして、僕もそういった部分がある。して、満足して。僕はいいやって。ガカイドにその部分を怒られたっけ。お前の幸せって、じゃあなんだよって。聞かれたんだ。償いの為に、一緒に居るのだと。そうとも取れる言い方だったけれど。きっとこの男は無自覚なのだろうな。だって烙印まで押して。僕を追いかけて来たのだから。馬鹿ではないが、短絡的な考えが垣間見える。最初に会った時から、その時。そうあればいいって。めんどくさがりな部分も関係してるのかもしれないが。何かする時、身体が先に動いてしまうこの男の。そういった部分は僕がサポートすればいいが。二人の関係でのわだかまりが生まれた今。どう、埋めていけばいいのかなって。
「自分はいいんだって言うけれど。だから。僕は家で、何もせず。自分だけ働いて。傷ついて、それでいいって?」
「そ、そうだ。それが雄の役目だ。ルルシャは番だから安全な場所に居て欲しい。ルルシャが望む物は、俺が全部取ってくるから」
「狼は、狩りの時。性別なんて関係ないんでしょ」
 自分から、片膝ついて。両肩に手を置いて。目線を合わせる為にそうしたくせに。僕の返す言葉に返事をせず、堪らず銀狼の方から視線を逸らす。そんな仕草に、ああもうって気持ちが湧く。ここで怒ってはだめだ。辛抱強くいないと。そうしないと、もっとこの話は拗れてしまう。僕達の関係は、不健全になってしまう。これから先、二人で。笑い合って、生きていくと決めて。一緒に居るのだから。僕は狼にも、雌にもなれないけれど。人と、男として彼を愛しているのだから。だから、彼に比べてできる事なんてとても少ないけれど。できる事をするべきで。義務感であっても。するべきなんだ。それをわかって欲しい。対等で居たい。居続ける為にも。
 目線を逸らしたまま。黙ってしまった相手。何か言いたいのだろう。でもそれで僕が気にしてる、傷つくって。わかってるから、言わないんだと。わかっていた。きっとガルシェが言いたいのは。僕が、狩りができない程に弱っちくて。どうしようもないから。ルルシャは戦えないって、さっき言っていたから。その分、俺がお前の牙になるって。そう言ってくれたから。だから、黙っていても。目線を合わせてくれなくても。これはわかった。無意識に僕を下に見てるとかではなく、ただ狩りについて行けない事実がそこにあって。自分の身すら守れないくせにって。本当は言い返してしまいたい気持ちが、彼の中にきっとある。また僕のわがままだと捉えてるのかな。優しさが言葉にするのを躊躇っているだけで。何もできないのだから。大人しくしていろと。言ってしまえば。それで。言えばそれでこの話は終わりだ。それがとても正しく。正論だと、僕も頭ではわかっている。僕が何か返したい。そんな気持ちが相手からすると義務感に取られてしまうのがもどかしい。花のように。ただ愛でられるだけの存在はお断りだというのに。
 落ち着ける意味で、深呼吸する。それで目の前の男が、不安そうにしても。それをしないと、また余計な事を言いそうだったから。僕の悪い所。後ろ向きで、すぐなんでも首を突っ込んで。傷ついて。心配ばかりかける。そんな部分。本当に、こんな人間のどこに。好きになる要素があるというのだろうか。僕は、ガルシェのなすこと全部。良い所も、悪い所も、全てひっくるめて可愛いと。言えてしまうのだけれど。孤独で、寂しくて、愛に飢えていただけなら、君を愛してくれる人なんて。いっぱいあの街には居たのに。友達も居たのに。全部捨てて。
「ガルシェ、話しがあるんだ。とても、大事な話。今じゃなきゃ、だめ」
 僕の為。ルルシャの為。番だからと。不満を言ってよ。もっと愚痴をぶつけてくれてもいいのに。いつまでも言ってくれないのなら。僕から、言うべきだ。歩み寄るのを一度拒否されようと、なんどでも挑戦するべきだった。話が嚙み合わないのも。お互いの価値観とか、常識が違い過ぎるのだから。一度で諦めていたら、ただでさえ僕達は異種族で、同性なのだから。わかりあえる事も、きっとわかりあえない。ぶつかって行かなきゃ。普通の人よりもずっと、遠回りしないと。辿り着けない道を、歩んでいるのだから。僕達だけにしか、歩めない。誰かが、代わりに前を進めない、道なき道を。
 神妙な顔で、僕がそう切り出すと。引きっつった表情をさせるガルシェ。下顎がわなわなと震えていて。どうしてそんな顔をするのって、不思議にしていると。唐突に銀狼が、なんだか悲痛な顔をして。肩に置かれていた手が、ぱっと離れて。そして、あまりにも強引に彼の胸の中に囲われる。普通に真っすぐ立っていた僕の足は、膝折れて。でもそれで。彼のように地面に膝が着く事はなく。支えられていた。狼の顎が側頭部に、ごつりと当たり。痛みを感じた。もっと、胸の中に埋もれろとばかりに、ぐりぐりと押し付けられて。
「嫌だ!」
 叫んだ。ガルシェが。苦しいぐらい、僕を抱きしめて。力加減ができていない。丸く整えられた爪が背中に食い込む。ただ事ではない。というのはわかる。ただどうして急にそうなったのか。夫の行動が読めなくて。まるで、あの時。僕が消えようとしたのを、嫌だと。駄々をこねる姿とどこか似ていた。
「離婚は嫌だ!」
 次に叫んだ言葉に。思わず、はい? て聞き返しそうで。目を瞬かせていると。身を離し、こんど見た男の顔は。狼狽えたまま。目元なんて潤んでいて。今にも泣きだしそうだった。大きな尻尾なんて、股に挟んでしまって。正面に居る僕にこんにちはをしていた。
「急にどうしたんだと思っていたけど。に、人間は狼と違って。一度決めた番と添い遂げず、その関係を解消したり。別のパートナーとに変わったりするって知ってはいたけど。もうか、結婚記念日も来る前にもうなのか!?」
 ゆさゆさと、こちらの二の腕を掴んだ男の手が。人の身体を揺さぶって来る。あ、え。なに。そんなふうに呆けていたからか、涙目だった銀狼が。また怒った顔をしたり、悲しんだり。とてもその表情が目まぐるしく変わり忙しい。表情筋、疲れないのかな。それにこの男から結婚記念日という単語が出てくるのが驚きであった。かなりずぼらな性格をしているし。イベント事って気にしてないものと。でもそうか。あの街でのお祭りでは、ちょっと珍しく浮かれていたっけ。ロマンチストな一面もあるから、覚えていてくれたのだろうか。自分の誕生日は覚えてないのに。後、なんだか人間という種族がとても尻軽で。相手をほいほい変えるみたいに言わないで欲しい。失礼だよ。確かにそういう人は居るし、考え方の相違とか折り合いがつかなかったり、下半身がだらしないせいでってのはあるのかもしれないが。少なくとも僕は違うつもりだし。こうして、話し合うのも。別れたくないからだ。夫婦仲が良くて長く続いている人達を、オシドリ夫婦と比喩したりするし。オシドリは人間と同じで一夫一妻制だけれど。実は毎年相手を変えるから現実は違うみたいだが。
「この前、俺のチンコ押し付けたのやっぱり気持ち悪かったか!? 人間って、俺達の性欲とかそういう動物的な部分に良い感情を抱きにくいっていうから。普段からあまり見せないように、これでも我慢してたのに」
 気持ち悪くなかったかどうかで言えば。はいと答えられたが。この男の、人間的な常識で言えば。そういう一面はそれなりにあるので、今に始まった事ではなった。顔舐めて来るし。におい、嗅ぐし。成人男性がそうしてると思うと、いくら動物の顔といえど。何も思わないわけではない。好きな人なのと、異種族だから許してるというのもあるが。これがもしもガルシェが人だったなら、断固として止めさせている。というより、呆けながらも。脳だけは動いていたので。これまで、どうして彼が性欲。番である僕に手淫すら頼まないのか。お風呂場での本能に付き合う必要はないってのは、本心なのだろうが。我慢していると夢精するし。三日と開けず、一人で溜まった欲を発散しているのも知っている。でも一緒に暮らして、本当にあの発情期以来。求められないのが、不思議で。男だから、自分にそういう魅力がないのかなってのも。少し違うし。
「俺、もっと人間らしく振る舞えるように。ルルシャの夫として頑張るから。気持ち悪いって思うところ。直すから。離婚は嫌だ!」
「ガルシェ?」
 痛みだった。これはガルシェが、僕と一緒になったから抱えた。眼前の銀狼もまた、自分は人間ではないからって。まさか、僕と同じような悩みを抱えていただなんて。気づかなかった。気づいてあげられなかった。これは自分だけの悩みだと思っていた。惨めな自分だけの。まさか、僕よりもずっと。いろいろ持っている。彼が。そんな事に悩むだなんて。だからこそなんだ。だからこその。相応しくありたいって。そういう言葉が彼の口からしきりに出たのだなって。そういう感情から来る、裏返しなのだと納得と共に。酷く、そう酷く。僕を傷つけたけれど。今、僕の中を満たすのは。包み込んであげたい。不安がる彼を、抱きしめてあげたい。それをする価値が自分にあるのかなって思うも。そう、してあげたくなった。
 ちっぽけな人間相手に、縋りつくこの身体だけはデカい狼に。自然と、腕を太い首にまわしていた。ああ、嗚呼。やっぱり、愛おしい。この人が、好きで好きでたまらない。なだめるように、狼の後頭部をぽんぽんと。優しく手のひらで叩くけれど。彼の発露した不安はそれで解消できないらしい。僕を抱きしめて。頭を擦り付けて。においを移していた。自分の物だって主張していた。
「一度、そうだって。番だって決めたら。俺達は。狼は、むりなんだ。どれだけいがみ合っても、離れられない。愛してしまう。どうしようもなく。たとえ相手に嫌われてもだ。もしもルルシャに別に好きな人ができたら、俺はきっと狂ってしまう。その相手を殺して、誰の目にも触れない場所に囲ってしまう」
「大丈夫。ガルシェ、落ち着いて。僕は君から離れたりしないよ。大丈夫」
「だから。離婚なんてだめだ、だめなんだ。許さない。絶対離さない、俺のだ。俺のなんだ。許さないぞ、ルルシャは俺のなんだ」
 なんど、耳元で優しく大丈夫だよって囁いても。この男は聞いてやしない。まったく。前々から追いつめられるとちょっと暴走しがちであったが。最近、そういった場面がなかったから。油断していた。そうか、そんなにも。不安だったのか。君も、そんなにも。不安になってくれていたんだ。僕を想って、患ってくれていたんだ。
 その場に座り込んでしまって。ガルシェが蹲るように、身体が傾いていく。僕はそのままやっと地面に膝が着いて。そして、狼の頭を抱えるはめになって。腰にまわった彼の腕。きゅーんきゅーんって情けなく鳴く子犬みたいな相手。狼だからこの場合子狼かな。あまり人前で泣かないけれど。この人は、僕に対してだけはいつも涙を見せてくれる。僕は、簡単に誰にでも、泣いて弱みを見せちゃうけれど。
「ルルシャが嫌なら。これからも、こ、交尾も我慢するから。俺、おれ。一生童貞でも、いいから。お前なしじゃ、もう一人で寝られないのに。生きられないのに。魂の半分どころか、俺の全部なのに。離婚はいやだ。人間というのはそんなにも心が移ろいやすいのか。俺の気持ちはもう生涯変われないのに! ズルい、ズルい。ズルい!」
 ちょっと面白くて、いろいろ言う狼の台詞をついつい聞いていたけれど。一応、離婚なんて考えていなかったから。それは彼の勘違いであるのだから。だんだん可哀想になってきていた。本当に、余所様に見せられないぐらい醜態を晒してくれるものだった。この男は。アドトパ達が帰った後で良かったと心底思う。こんな姿を見ても、まだ可愛いと笑ってられるのだから。かなり僕の頭もやられてしまっていると感じた。彼の愛は重いけれど、とても誠実で。相手に合わせようと頑張ってくれる。依存しきっているのは。僕に何かがあった時を考えると、あまりよろしくはないのもそうだが。
「離婚なんてしないよ。僕が君から離れるわけないでしょうに。君だけの、番なんでしょう?」
 僕のお腹にマズルを埋めていたけれど、番という部分に反応して顔を上げてくれるガルシェ。鼻水なのか涙なのか、服のお腹部分が酷く濡れていた。なんでも汚すのが得意だなこの男。今変にそれを指摘すると、過剰に気にしてしまうだろうから。努めて明るく、優しく。親が子供に言い聞かせるように。頭を撫でながら。本当かってなんども聞いて来る相手に。なんども、なんどだって。普段なら鬱陶しいと感じるだろうが。この時ばかりは幾らでも返事してあげた。嘘を吐いているにおいだって出してないだろうに。それなのに聞くのを止めないのだから。しょうがないなって。もっとしょうがない奴である僕は。それぐらいはできた。それと。最近とてもガルシェが、大人びて見えて。僕が置いてかれているように感じていたから。こうして、情けない姿に安心感めいたものすら感じていた。背伸びしていたのかな、ずっと。人間に合わせようと。してくれて。して。するしかないと思って。
 家の前、道の真ん中で。こんな事をしているものだから、庭から様子を窺っている鶏の鶏冠がいくつも。柵の隙間から見えてしまって。どうやら同居人にも、いらぬ心配をかけてしまったらしい。その中からアーサーの顔を見つけて。大丈夫だよって、手だけで示した。勘違いでこれなのだから。冗談や脅しでも、嫌なら離婚するよだなんて言えないなって頭の中だけで呟いた。そんな酷い事を彼に言う気もなかったが。これまで、言わなくて良かった。そんなふうにしなくても、ガルシェはちゃんと話し合うと。僕の考えを尊重してくれるのだから。その必要もないのだが。こんな人間には、もったいないぐらいの人だと思う。そんな人に、全て捨てさせたのだから。彼には、もう僕しかないのだ。そうさせた自覚があるから。考えはしても、本当にもう一度黙って姿を消すなんてしない。できよう筈もない。それに、こんど同じ事をしたとして意味がまるで違う。好きだって、愛してるって。言ってくれている相手を、それをしたら裏切る。裏切ってしまう。きっとそれは、人でなしだ。
「ガルシェ、やっぱりしようよ。するべきだよ。僕の身体で。できるかは、正直わからないけれど。この季節は、狼って、番で。セッ、えっと、交尾をするものなんだよね。僕は、狼ではないし。なれないけれど。でも、しないのとは、君だけ我慢するのは。きっと違うよ」
 僕は彼の愛を疑った事がないが。この銀狼は、中途半端な人間に対する知識で。だからと。感情が嗅げてしまうから。言葉だけでは伝わらないのだろうか。疑ってしまうのか。こんなにも。こんなにも、君を愛しているのに。身体を重ねたからと、何かが伝わるか。通じ合うかは正直僕はわからない。でも挑戦もせず、諦めるのも違うと思うし。彼がしたいなら。叶えてあげたい。僕の望みを、ガルシェが叶えたいように。僕だってしたい。してあげたい。たとえそれで、僕の身体が傷ついても。構わない。僕を守る筈の。君の、牙で。君の、爪で。傷つけられても。いいんだ。いいんだよ。傷つけてよ。だって僕は、君のなんでしょう。あの時から。君の、君だけの生涯を共にする者なのだから。それくらいの代償、幾らでも払ってあげる。何もかも、捨て去った君になら。
「ルルシャ」
「それとも。やっぱり、一生童貞でいい?」
 見上げてくる狼の顔が。というより、黒い鼻と毛の薄い耳の裏が。赤みを帯びる。毛皮でわかりにくいが地肌を真っ赤にしている、とても恥ずかしがっているガルシェの姿に。くすくすと思わず肩を揺らして笑ってしまう。可愛い可愛い、僕の夫は。性欲が強いのを悪い事だと思っているのか。でもそれは、とても健全な男子をしている。エッチな事が好きな、男の子であるガルシェが。本当はヤりたくて、ヤりたくてしかたがないのに。でも相手が人間であるから、自分の性欲をぶつけちゃだめなんだって。身体のサイズ差もあって。そう思ってくれて、気遣ってくれて。壊しそうで怖くて、俺の獣の部分はお前が思ってるよりもとっても恐ろしいんだぞってわざと脅して。突き放して、それでまんまと人間は怯えちゃって。
「ルルシャは、いじわるだ」
「そうだね」
 知ってる。僕って、かなり性格悪いもの。今気づいたの、ガルシェ。遅いよ。君も僕の事可愛いって言うけれど。盲目だよね。他の皆はずっと前から気づいてたよ。ガカイドですら。
 身を起こすガルシェ。目元の毛が水を含んでしまってるから、軽く指の腹で撫でてあげる。
「いいのか?」
「うん」
「きっと、痛いぞ」
「うん」
 君。いろいろと、大きいしね。それに。レプリカントであるガルシェでも、人間みたいに童貞とか。そういったものを気にするんだとちょっと意外であった。人間の考え方と、動物としての考え方。二つを取り入れながら発展した種族であったから。時折歪で、よくわからない。普通はこうで、そんな普通が通用しない。だというのに、狼である君でもそうなんだって場面もあって。
「途中で止まれないし。取り返しがつかない事になるかもしれないぞ」
「発情期の時。ガルシェは、僕の事。いつだって、簡単に好きにできたのに。言う事を聞いて、我慢して、抑えてくれていたでしょう。とても我慢強いから。大丈夫だよ」
「俺は、そこまでルルシャが思うほど我慢強くない。お前を前にすると、俺の獣の部分が。いつも暴れそうになる。敵を排除しなきゃって。俺のだって。俺のだから、犯したくなる。孕ませたくなる。そうしなきゃって。人間の、ルルシャからすると、気持ち悪いよな。でも、そうなんだ。番相手には、そうなるんだ。寒くなってきて。最近、特に……」
 我慢強いよ。素股をしようと、僕が裸でお尻を向けた時も。理性が飛びそうになりながらも。犯したりしなかったじゃないか。あの時、まだ僕の事なんてそこまで好きじゃなかったのに。ただ寂しさを埋めてくれる、都合の良い存在ぐらいでしかなかった筈なのに。大事にしようとしてくれたじゃないか。咬みついてしまうのを気にして。口輪なんて調達してきて。ユートピアから旅立ってからの今まで。季節がもう一度巡る間。一度も手を出さず。大事に、大事にしてくれたじゃないか。嫌われたくない。愛想が尽きて欲しくなくて。自分の気持ちを押し殺して。
 性欲。そういう衝動が。最近強まっていて。それは発情期があるレプリカントという、異種族だからこそなのだろうけれど。動物的な、本能とかそういう。子孫を残さなきゃって。ただ気持ちいいからしたいだけではないのだろう。理性ではどうしようもない部分が、暴れてしまうんだ。見ていて感じる。抑えきれない。だというのに、彼は僕に対する愛で無理やり抑え込んで。無理している。とても無理をしていたんだ。今まで。人間の都合で、我慢させ続けて。一人で欲を発散させて。
 再確認しようとも。僕の意思が固いと感じ取ったのか。先程までの情けない姿が搔き消えて。顔つきが変わった。今はただ、一匹の。狼として。雄の顔をしていた。ガルシェがずっと僕に隠したがっていた、繁殖相手を前にした雄の目だった。
 僕の夫が。人であり。獣であるのを、思い出させてくれる。欲の孕んだ、強い視線。
「わかった」
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