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レプリカント After Story
02
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湿り気を帯びた毛皮を纏い、下は新しいのに着替えたのか。上は半裸のまま首にタオルを掛けた姿で。僕の旦那様は戻ってくるやいなや。ソファーに座っている。着替えを既に済ませた僕と目線を合わせないようにしながら、素知らぬ顔をして。台所の冷蔵庫から飲み水が入ったボトルを取り出し、蓋を開けると。それをコップに注ぐでもなく、直接口をつけ。ごくっ、ごくって。喉を鳴らしていた。それ、共有用の大きいボトルだから。できればちゃんとコップを使って欲しいのになって、ソファーの背もたれから顔だけ出し。じとーっと、逞しい背中を見ていた。別に、彼と間接キスだとかそういった部分を気にしているわけではない。獣の歯形がついた食べかけの食べ物だって、気にせず食べられるぐらいであったりするのだから。そこはいまさらである。ただ衛生的に、一度口を付けたものを長時間放置するのはよくないなって、それだけだ。僕が見ているのに気づいたらしい男は。ボトルと、ソファーから顔だけだした人間とに視線を往復させると。声には出さなかったが、やべって。そんな顔して。蓋を閉めると、冷蔵庫に戻していた。
にしても、本当に朝から水を浴びてきたんだなって。住居が変わっても相変わらずお湯なんて使えないのだから。もしかして、頭を冷やす意味合いもあったのだろうか。湿って、毛先がぺったりしてる為に身体のラインがいつもより強調されており。上半身裸なのも手伝って、ちょっと色っぽいなって思う。さっきの行動の余熱が、未だ燻ってるから。そう感じるだけかもしれなかったが。鍛えて、張り出したお尻のラインが緩やかにカーブを描いて。青いジーンズをむっちり押し上げ。そこを大きな銀の尾が隠すように存在していた。鍛えてるからか。ガルシェって、美尻だよねって。そんなどうでもいい感想を抱いた。太腿も丸太のように太いし、どこもかしこもムキムキだから、僕みたいに。良く言えばシュッとした身体、悪く言えば痩せっぽちと違い。凹凸が激しい。それで背も高いのだから、一応同じ男として。羨ましく感じたりなんて。棚とか、一番上の段は僕の場合台座を使ったりしないと届かないし。もう少しだけ、身長が欲しいなって。体格の大きな、レプリカントのガルシェでも。頭をぶつけたりしないように。全体的に広々と、空間を贅沢に使ったこの家だからこそ起きる悩みでもあったが。僕が台座を持ってくるのを面倒くさく感じて、背伸びして手を伸ばしていると。それに気づいた銀狼が、いつの間にか背後に立っており。人の後頭部に毛が豊かな胸を押し付けながら、これか? って代わりに取ってくれたりするのだが。背伸びしなくても取れる狼は良いですねって思いながら。礼を口にして。役に立てて嬉しそうに、そのまま抱きしめてくる場面だってあって。家の中でも、僕の動向をつぶさに観察していると感じる。何かしようとする度に、近くに彼が待機しているような。新しい、二人だけの新生活。ある意味というか、異種族で、同性であるが結婚したのだから。本当に新婚夫婦みたいに、僕をあの手この手で甘やかそうとしてくる。食後、リラックスタイムになったら。お気に入りのソファーに一人で寛げばいいのに。甘やかした分、甘えたいのか。ルルシャもって、座った自分の股の間に手招きするのだから。大人しくその場所に収まると、お腹に回される男の腕。頭の上に乗せられる、狼の顎。正直重いし。なんだか気恥ずかしくなってくるから、違う日に誘われても。僕が同じようにするかは、半々といったところか。家事をするからとか適当な理由をつけて。そうすると、耳を倒した狼の頭の向きが。僕が歩くと追従してくるのでちょっとだけ面白い。さすがに真後ろまでは首の関節にも限度があって、無理なようだが。ガルシェが梟のレプリカントとかじゃなく狼でよかった。
家の中でこれなのだから、危険な外なんてそれはもう。銀狼の過保護パワーに拍車がかかる。絶対に目の届く範囲に居させようとするし、なんども行った場所であっても。警戒心を緩めたりしない。この地域は都市部からかなり離れているので、機械と遭遇する事自体稀だった。辺鄙なのも関係しているが。身を寄せている漁村も、人口密度で言えば。かなり少なく。僕ですら全員の顔を覚えられる程度だった。交流は多くないながらもしていて、昼間。家から距離がそれなりにあるが。お手伝いみたいな感じで、バイトさせて頂いている。お給料は、正直経験してきた最低値を記録していて。贅沢は言えないのだが。かなり、ガルシェの稼ぎに二人の生活費等は依存していた。保存するにも冷蔵できないので限界があるから。干物や燻製にする以外、狩猟したその日食べきれない獲物を漁村に卸して。海で獲れる魚ばかりであるから。陸の獲物は彼らに高値で売れるみたいだった。漁村に暮らしている殆どの人は、海から離れる事ができない海洋生物の特性を持ったレプリカントであったから。皮膚が乾いてパリパリになったりと陸上での活動に大きく制限があった。だから、ガルシェという。陸での活動が主戦場であり。ある程度機械との戦闘経験、対人、森や草原での狩猟といった。市長さんが命じた英才教育の賜物だろうか。かなり頼りにされていた。他に依頼を受ける人がいないというのもあって、完全に仕事を独占しているのもあったと思う。唯一の難点と言えるのが、彼に愛想がないわけではないが。他人とのコミュニケーション能力だった。
街で暮らしている分には、気にならなかったのもあるが。それは、彼の周りが慣れた幼馴染と。お父さんと、僕であったからというのもあったからか。だが、こうして遠方の。見たことも、喋った事もない相手と交渉となると。口下手な彼は少々難航した。少し離れてますが近くの家に暮らすので、怪しい者ではないですって初めて漁村の住人に挨拶に行った時。危うく殺し合いに発展しかけたのだから。
狼の気質的に。あまり多く友を作ろうとしない、親しい家族だけとグループを作りがちなのもあったのかもしれない。警戒心を剥き出しにした、漁師達の威圧する視線に。僕を庇うようにして銀狼までも威嚇するのだから。思いっきり尻尾を引っ張って止めたけれど。その時村中に響き渡ったキャウンという情けない声は、今でも漁師さん達の酒のつまみらしい。だめだよガルシェ、人間の男と狼の二人組なんて。見るからに怪しいんだから。第一印象ってかなり大事なんだよって。言い含め。結局交渉は僕がおこなった。自分自身を客観視して、コミュニケーションが上手だとは思っていたりはしないが。他に任せられるような人が居ないのだし、前に出るしかないのだった。
ガルシェ達レプリカントの人って、皆大柄で。身長が二メートルぐらいが平均なんだけど。あまり鍛えてなくても、刻まれた遺伝子がそうさせるのか。誰しもが筋肉質だし。だが、この漁村の人達は。一人一人が、ガルシェであってすら見上げるぐらいに大柄な体躯をさせていた。大きい人なんて、ちゃんと計っていないが三メートルぐらい身長があったと思う。シロナガスクジラの特徴を持った人が、確かそれくらい。ユートピアに居た、虎の先生より大きい人が居るなんて想像だにしていなかった。身体と、それに見合った尾をゆっさゆっさ揺らしながら。ヒレがちょっと地面に接触して不思議な足跡を作りながら、重たそうな足音をさせ歩く様は圧巻の一言だ。
陸上では僕が走った方が早いぐらいだが、水中ともなれば。そのお尻から伸びた太い筋肉質な尾ヒレを使い。ぐんぐん潜水艦のように進むのだから。かなり撫で肩なのか、その時は腕をぴっちり脇に張り付け水の抵抗を軽減しているみたい。人の骨格に似ているからか、いくら尾ヒレがあろうと。実際の鯨や魚のような速度は出せないようだったが。
漁師の男どもは見てくれはとても大なり小なり古傷だらけで、厳つい。ガルシェの目つきの悪さが可愛らしく感じるぐらいには。ドスの効いた声を響かせながら、談笑しているかと思えば。娯楽の一部なのか、内容を一部始終聞いててもどうでも良いと思える些末な衝突で。若い衆同士で殴り合いに発展して、止めるどころか年長者達もやれそこだと捲し立てるのだから。水中でのみ尾ヒレは有効活用されるものと早とちりしていたが、長く太く力めば固くなるそれを横薙ぎに振るい。しなる鈍器のように扱うのだから。でもさすがに明日の漁に影響が出そうだと判断された場合、仲裁という名目の喧嘩両成敗がくだされるのだった。
あの時。いくら銀狼が強くても。そんな連中がごろごろいる場所で騒動を起こしたら無事では済まなかっただろう。だから穏便に、そう心がけて接したのは思い返せば最適解だったのだと強く思う。どうやら、見るからに目つきの悪い。銀狼を完全に従えているとでも勘違いされたのか、ちっちゃな僕がなぜか一目置かれるようになって。ただ、思いっきり銀の尻尾を引っ張っただけでだ。ガルシェが僕の言う事を聞いてくれるのは、信頼関係と。愛情からだ。やろうと思えばいつだって、彼は主導権を握れる。決して上だとか下だとか、そういうものじゃないのに。モヤっとした気持ちに素直に従い。胸に掛けている首飾りを取り出しながら。この人。僕の夫ですって。思いきって宣言したのが良かったのか、悪かったのか。異種族の番というのも、珍しかったのかもしれない。探せば苦楽を共にした傭兵同士でなおかつ同性の番は居たりするらしいが。だからか、面白い連中だと受け入れられるに至った。内心大事な尻尾を引っ張られ怒り心頭であった銀狼は、僕のその宣言で無表情でこちらを見つめていたが。傷むのか、根本を手で押さえていながらも。それで彼の尾が大暴れするのを止められる筈もなく。囲む巨体達が、そんな銀狼の姿を見て豪快に。わははと笑うのだった。
慣れてくれば僕抜きでも住人とぎこちないながらも。短いやり取りで受け答えをこなし、これを獲ってきてくれと頼まれて。日々駆け回る僕の旦那さん。危険な目に合うのも、大変なのはいつだって彼ばかり。雄として、それが当たり前みたいな顔して。それで銀狼が不満なんて一度も口にしたりなんてしなかったが。逆に、足りてるか。もっと頑張ると意気込むしまつ。お前は少しでも安全な場所で俺の帰りを待っていてほしいって。実際に言われもした。
生活が徐々に安定してきて、それでも。もっと良くしたいと。ちょっとやる気が空回りしていると感じる時もあるが。良き旦那であった。僕には本当に勿体ないぐらい。
そんな人と、一つ屋根の下。進展がないままずるずると。ガルシェの方からは、しっかりとそういう事をしたいって言われており。後は僕しだい。心の決心しだいであった。勢いという、成り行きに任せて。さっきみたいな場面で、いざそうなっても。銀狼は理性という急ブレーキをかけてみせたのだから。発情期だというのに、簡単に手篭めにできる僕なんかの言うことを聞いて。無理やりしなかった男なのだから。発情期でない今、いくら興奮しようと。止まろうと思えば、ああも簡単に止まれるのだなって。表面上、僕が受け入れているような素振りをしようとだ。咽て、咳き込み。あまりのがっつき具合に、畏怖がなかったかと問われると。正直否定できなかった。
だって彼は。僕に比べて身体が大きく。興奮にギラギラした瞳を向けて、迫る姿は。本当に野生の獣とそう変わらない。食われないという信頼はあっても、生理的な恐怖はつきまとうのだった。だから、感情を読み取った狼の鼻は。自分の愛する番を怖がらせたって。きっとそれで傷ついたような表情をしたのだと思う。僕から逃げるようだったが、自身の身体の内に住まう。欲望。ケダモノから逃げたというのが正しいのかもしれない。
テキパキと出掛ける準備をするガルシェ。こちらを気にしながらも、声を掛け辛いのか。こっちを見ようとしない。僕のソファーの上で姿勢を変えたりした際に生じる、小さな物音を。そのよく聞こえる耳だけをこちらに向けているのだから。意識もこちらに向いているのなんてまるわかりだった。
ガルシェは、僕がにおいで感情がわからないとしても。だいたい察してくれるなんて言ってくれたけれど、これ程わかりやすい男はいない気がする。買い被りすぎだと思った。
「ガルシェ」
上着を着て、オープンフィンガーグローブを手に着用し。銃を肩に担いだ段階で。あまり刺激しないように、努めて穏やかな声になるよう意識しながら。男の名を呼んだ。だというのに、男の反応はびくりと緊張にか身体が跳ね。尻尾なんてちょっと膨らんでいるのだった。
もしかして、さっきので怒られるとでも思っているのだろうか。煽ったのはこちらで、ガルシェは全く悪くなどないのに。図体ばかりデカイくせに。どうして、そうも僕のちょっとしたあれこれで怯えるのか。それもまた、愛されてるなーって。僕に嫌われたくない、そんな感情から来る反応なのかなって。そう思えば微笑ましくなる。固く引き結んだ狼の唇。ぴくぴくと横に伸びた白い髭が不安そうに震えていた。
「寝室の時計、電池切れちゃったから。無理はしなくていいから、余裕がある時探しといてくれる?」
小言でもなく、糾弾でもないとわかった銀狼が。ホッと、息を吐いていた。胸を撫で下ろすようにして、緊張に膨らんでいた尾が元通りになっていく。コクコクと、狼の頭が面白いぐらい上下になんども頷いて。他に欲しいものはないかって、そう聞いてくるのだった。
特にこれといって、今思いつく物もなく。ただ彼が無事に戻ってきてくれる。それだけでよかったから。最悪お願いした電池が見つけられなくても、別に構わなかった。
だらけていたソファーからいい加減立ち上がり、玄関でブーツを履く男の背後に近寄る。今日は漁村に行くつもりなので、ついていくわけにもいかず。ならばと、こうして見送ろうと思い立ったのだった。いってらっしゃい。おかえりなさい。言われたら嬉しくなるその言葉を、僕は可能な限り。彼に言うように心がけていた。家でお留守番が多い身なのもあったが。男性であるが、ガルシェの妻という役割であるし。そして何よりも、僕が言いたいというのもあって。だから玄関口で、立ち上がり。振り返って、しっかりと見つめ返してくれるようになった銀狼を見上げる。左肩にそっと男の手が乗せられ。身を屈めると、狼のマズルが右頬に擦り付けられる。スリスリと優しく触れ合わせたら。最後に、頬に口付けまでも落とすに飽き足らず。ぺろりと、舐めても来た。僕があまり顔を舐めまわされて唾液濡れにされるのを好まないのは、銀狼は重々承知しているので。本当に軽く、舌先でだ。狼の愛情表現として、甘噛みや舐める行動はある程度許容できる範囲で。好きにさせているのだが。お酒が入ったり、たまに調子に乗ってべろべろべろべろ、しつこいぐらい舐められる時もあるので。そういう時は露骨に顔を顰めてしまったり。
「いってくる」
囁くようにして、僕の旦那様は言うのだった。離れていく手をつい目で追ってしまう。きっと、半日とはいえ。寂しく思うこの気持ちは僕だけではないのだろう。だって、いってきますって言いながら。ガルシェは未だ扉を開けようとしないのだから。安全な場所に居て欲しいって気持ちと、役に立ちたい、傍に居たい。片時も離れたくない。そんな気持ちがせめぎあい、だからいつまで経っても出発しないのだろう。そんな相手の気持ちを容認して放置していると、二人して玄関で三十分ぐらいうだうだしていそうだ。バカップルじゃないんだから。
「うん、いってらっしゃい。気をつけてね」
だから。お見送りを完遂する意味でも。こうして区切りとして、いってらっしゃいと言うのだった。そうすると、寂しそうにしていたどこか子供っぽい狼の顔つきが。守るべき番が居る、雄の表情に変わるのだから。結婚してからというもの、そういう表情を。態度を。取る事が多くなっていっていると感じる。立場が人を変えると言うが。ガルシェも。狼の雄として。立派に成長しつつあるという事だろうか。甘えたなのは、あまり変わらないけれど。
彼が成長し続けているのに。だとしたら。僕は、どう変われているのだろうね。穏やかな心に。そんな疑問がつい、脳裏を過った。
「あまり遅くならないようにする」
「わかった」
「村の連中を利用はしても、警戒は解くな。ルルシャが思っている以上に、何かあった時。抵抗できないんだからな」
「そうだね」
それは痛いぐらい身に染みている。安全だと思い込んでいた街の中、ユートピアでも。実際に起きたのだから。自分で警戒してるつもりでも、ガルシェにはルルシャは警戒心が薄いって。旅の道中なんども指摘されていて。外でお仕事をしている彼の言う事なのだから、ちゃんと聞いているつもりでも。やっぱり足りないらしい。プロの言う事には素直に従うに限るとは感じながらも、実際に実行できているのかは別なのだろうか。
でも、自分から歩み寄らないと。いつまでも、相手が来てくれるのを待つばかりでは。何も始まらないとも思っていて。それに考え方も感じ方もまるで違う異種族相手なのだ。そんなに、悪い人達じゃないんだけどな。確かに荒くれ者どもって感じではあるが。
「俺以外の雄とあまり親しくするのもダメだ。ルルシャは放っておくとすぐ雄を誑かすからな」
「した覚えがありません」
いや、本当に。僕を何だと思っているんだ。心当たりがない注意をされても、納得はできない。アドトパは、最初は珍しがって近づいてきただけだし。ガカイドは、僕が確かにきっかけを作りはしても。結果を出したのは彼自身の力で。本当に。思い当たる部分がなかった。お父さんにも息子を籠絡したとかなんとか言われたような気がするが。そのようなつもりはなかったし。だがこうして。今、目の前に居る男が。僕を番として扱ってくれているのだから、唯一その部分に関しては。あまり強く否定できなかった。
「それと……」
「ガルシェ」
ちょっと、いい加減くどいなって。そう感じ始めたのもあって。名を呼びまだ何か言い足りなさそうな相手の会話を強引だが、強制的に終わらせる。これじゃまるで、初めておつかいに行く子供に対して言い含める過保護な親だ。知らない人にはついていかないし、物にだって釣られたりしない。玄関の扉の方へ振り向かせた後、ぐいぐいと背中を両手で押す。何するんだって、膝辺りをばしばし叩いてくる狼の尾。まだ閉じられてる扉にぶつかりそうで、咄嗟にガルシェはドアノブを捻った。追い出すようにして、巨体を押す。実際のところ、彼が本気で抵抗すれば。僕程度の力では押してもびくともしないのだが。されるがまま、押しやり。気をつけてねって、言いながら。振り向く前に扉を閉めた。心配性なのは変わらない、どころか悪化している。出かける時毎回こうだと、耳にタコができそうだった。
もう、居ないかなって。ドアスコープをこっそり覗くと、狼狽えた銀狼が扉を見つめていて。未練がましく、まだ玄関前でうろうろしていた。だが、横合いから突撃してきた謎の白い物体に、驚いた声を上げた後。ドアスコープの死角に入り、間隔の短い足音。それが離れて、やがて聞こえなくなった。トテトテと、扉を隔てているせいで足音は聞こえないが。そんな動きで、アーサーが死角から現れて。嘆息している光景。
ガルシェを見送ったら、僕も出かける準備をしないといけないと気づき。時計を見て、慌てだす。思った以上に時間を浪費していた。まだ余裕があると思っていたのに。銀狼のせいでそんな余裕も消し飛んでしまったのだった。僕を想っての行動や、発言であるのだから。これ以上強く否定したり、疎ましくするのはさすがに気が引けて。最終的に追い出すようにした今の所業だって、やった後で少しばかりの後悔があるのだから。
財布と家の鍵を持ち、ポケットに入れ。忘れ物がないかもう一度確認すると。僕も戸締りをして外へと出る。庭の方から鶏達が騒がしかったが、そんな中でいってらっしゃいとばかりに。一番体格の大きな雌鶏が手、というか翼を振ってくれていた。それに小さく振り返しながら、家の壁に立て掛けてあった錆びたマウンテンバイクを少し押し広いスペースまで来ると。跨った。
廃墟で見つけてきたパーツを、使える部分だけ取り出し。パンクしていたタイヤも何ヵ所も絆創膏みたいに穴を塞ぎ、使えるようにした物だった。漁村までの歩くには少々距離がある道中、大変だろうと。これもまた、ガルシェが拾って修理してくれたのだ。今は僕の愛車。数段階あるギアはチェンジしようとすると残念ながらチェーンが外れるので使用不可。ブレーキも前タイヤの方は使えないので、あまり速度を出すと急には止まれないから注意が必要だ。フレームもかなり傷んでいるので、あまり無理をさせるとその内タイヤよりも先にぽっきり行きそうである。塗装までは手が回らなかったので、ぽろぽろ剥がれた車体は今のところ錆銀な色合い。どこかのメーカーのロゴが一部残っているけれど、読み取るのは難しい。
だが一度ペダルを踏みこんで、姿勢が安定したらどんどん足の回転を速めると。それはチェーンと歯車に伝わり。前へ、前へと何倍にも力に変えて。進んでいく。愛する彼からの贈り物の一つだから、大事に乗らないとね。家の正面は車が通れる二車線の道路があるから、暫くは軽快に進めるのだが。途中には、穿たれた穴や。乗り捨てられた車という障害物が多く点在するので、真っすぐには進めず。わりと蛇行運転になる。だから結果的にあまり速度は出せない。下り坂になると、その道路も途中で土に埋もれて。森林に変わる。自然ってのは凄いものだった。長い年月が経てば、こうして人が作った物を簡単に飲み込んでしまうのだから。道路跡を横に横断するように倒れた大木があるのが目印。そこを何かが横からぶつかって不思議な抉れ方をしてできた、ガードーレールの隙間を通り。獣道をサドルからお尻を浮かし、自分の膝も使い衝撃を逃がしながら。降っていく。一番入念に銀狼があーだこーだ言いながら直した、サスペンションフォークが機能しているおかげで。多少小枝が落ちていようと、砂利道だろうと苦も無く踏破可能だった。これを最初は自分の足で歩いていたのだから。旅を続ける過程で、自他共に認めるひ弱な身体も鍛えられたのだが。徒歩の場合。移動時間で、どうしても帰るのが遅くなるのもあってか。ガルシェが移動手段を何かないかと頭を悩ますのはすぐだった。
ガタガタと、車体を揺らしながら。ペダルを漕ぎ続けると。森林を抜け、見えてきた自分の位置とそう変わらぬ高さにある海。そして湾岸に停泊する船。防波堤があるから、降る分だけ海が隠れて。防波堤沿いに暫く自転車を走らせていると、次に見えたのは。人が住んでいる気配がする家々だった。人間は居らず、海洋型レプリカントが住み着いた。小さな村。家をかなり魔改造していて、二階建ての家は二階の床を取り壊し。元あった玄関は使用せず。掃き出し窓をさらに拡張して、広い出入口にし。それでやっと、かなり大型な部類の彼らでも快適に過ごせるようにしていた。成体で平均身長が二メートルから三メートルはあるのだから。そうしないと、人間が使っていた家なんて狭苦しくて無理なのだろう。一から建てた家もあるにはあるが、もともと使える家を改装した方が早かったのだろうか。だいたいは元は人間の物だ。大雑把な性格なのか、ネームプレートなんて。住んでいた人の名前がそのままである。
停留していた船の数から逆算して、恐らくは男手の多くは既に漁に出ているのだろう。朝日が昇る前に、彼らの仕事は始まるのだから。歩いているハンドウイルカ型のレプリカントの人が。自転車に乗った僕に気づいたのか。キュルキュル鳴きながら手を振ってくれる。背中側が灰色の表皮に、内側が白い。一般的なイルカだった。ただ普通のイルカと違うのは本来はない二歩足で立っており、胸ビレの代わりに。今手を振ってくれている、人に近い五本指の水掻きがついた手がある事だが。物語に出てくる、マーマンとか半魚人みたいだった。表面がキラキラ太陽光を反射しており。輝き具合から、海から上がったばかりなのだろう。その証拠に、腰のベルトに吊るされている小さな網には獲った貝が。手を上げていないもう片方には、銛を持っている。足元も歩いてきた方角に、足跡の代わりに足裏の形に濡れた跡がアスファルトに続いていた。内側の色が白いとわかるのは、露出の多い服装をしているからではなく。目で見てわかる通り、素っ裸である。それで性器が露出しているわけではなく。股の部分には薄っすらと縦割れがあるのだが。鳴いただけではわからず、喋って初めて。その見た目から女性かと思ったら男性だったなんて間違いもあって。どうやら、男性も普段は性器が収納されているのか。ガルシェのお風呂に入ってる時みたいにモノがぶらぶらしていない。元々の土地柄か。裸族が多かった。真の裸族である。海で暮らし、表皮が乾かないように水がないと生きていけないのだから。すぐに入水できるように、衣服を纏う文化があまり根付かなかったというのもあるのだろう。彼らにとって家は物置と、別荘みたいな感覚らしい。頭と胴とさほど変わらぬ太さの首の部分。手首や足首。身に着けているのはそういった部分にだけ、ネックレスとかブレスレット等の装飾品ぐらいだった。
たしか、この向こうから挨拶してくれたイルカの人は。基本浅瀬で漁をしているチームの一員で。男の人であった筈だ。体格だってがっしりとしているし。間違いないであろうか。相変わらず動物の顔は見分けがつきにくい。これでも、狼とか犬科は顔だけでそれなりな的中率を誇るようになったというのに。性別を間違えるのは相手に失礼に当たるので、これからも気をつけないといけない。おはようございますって、挨拶すると。イルカのどこか可愛らしいと感じる顔に似合わず、わりと野太い声でおはようと返事してくれる。ちょっと、詐欺っぽい。
それで自転車を止めず、イルカの人を通り過ぎて。目的の建物は、木造であり。外には大量に縄や網が放置されている。僕の到来と同じ時間か、少し遅れてか。だんだんと集まりだし輪を作る人々。自転車を邪魔にならない場所に停めると、僕もその輪の一員に加わる。なんだかファンタジーに出てくる巨人達に囲まれた小人の気分だった。
一番の年配らしき、レプリカントの女性。頭部がちょっと縦長であり、腰が曲がっている為に杖というより太い鉄パイプを支えにしている。マッコウクジラの特徴をした方が、僕を含めた集まった集団を見渡して。欠員がいないのを確認すると、頷き。
「おはようございます。集まりましたね。それでは皆さん、今日も大変じゃが。頑張りましょうかのぉ」
年配の、しゃがれたお婆ちゃんの声を。そのノコギリのような歯が並ぶ細長い口を開閉させて。今日の分の仕事。その開始の合図を告げたのだった。囲いを作っていた人々がゆったりとした動作で散らばるのに合わせ、僕は急いで距離を取る。なぜなら、僕が先程まで居た位置を。巨大な尾ビレがついた尻尾がぶおんと、そんな音を伴い。横薙ぎに振るわれたからだ。それをした、人は。あらら、ごめんなさいねって。困った顔をして謝ってきたが。これが改善される気はあまりしていない。巨体故に、彼ら、はたまた彼女達が動くと。スケールがどれもこれもデカくなる。僕みたいな、小さい奴は。こちらも気をつけていないと、簡単に吹き飛ばされて怪我をしそうだった。彼女達。夫が漁に出ている間に、家事や炊事をするのだが。それとは別に、漁に使う縄や網を直すのも。担っていた。そして、僕なんかがここで働かせてもらっている理由。
彼女達は、その体格故に。かなり、手先が不器用だった。僕の腕くらいある指を使い、細い数ミリしかない糸を編み直すのはかなり苦労するらしく。だからマッコウクジラの顔をした、この仕事場のリーダー的存在が、あのような大変って口にしたのだった。大きな平屋で、皆が座り。空いた空間に網を広げ。身を屈めながら作業するのだが。口々に、時折聞こえる声。ああもうだとか、やっちゃったとか。そんなのがまだ若い女性陣からしていて。さすがに熟練の人は、黙々と。太い指でも時間をかけて編んでいたけれど。
船を停留させたり、何かと使う太い縄は力が足りないので。僕の担当は細い網の修繕だった。ほつれていたり、切れてしまった部分。そこからせっかく捕らえた魚が逃げないように、塞ぐ。人の隣に座る。アザラシ型のレプリカントの人は、僕の先輩。身長はあんまり変わらないか、少し彼女の方が高いぐらい。最近働きだした新参者である人間と一緒に手先が器用組に分けられていた。
「ふふ、ルルシャちゃん。あの狼の旦那さんとはどうなの?」
作業自体は細かいものであるが、数分か一時間ぐらいすると。集中力の切れてきた女性人は隣り合った者と、声を潜めながら世間話に話を咲かせるのはいつもの事。村長は別に居るのだが、この集まりの纏め役をしているマッコウクジラのお婆ちゃんは、手を動かしてさえいれば特に咎めたりはせず黙認してくれて。逆に話しかければいろいろと丁寧に教えてくれる、とてもおおらかな人柄であった。僕のような素性が知れない異種族を、懐に入れるぐらいには。さすがに、あまりにどが過ぎて。話に夢中になっていると、こりゃこりゃと穏やかに言いながら。物凄い圧を醸し出してくるのだが。怒らしたら大きな尾ビレで圧死されそう。
アザラシさんが話題に出したのは、僕の番こと。ガルシェ。娯楽というものに飢えている奥様方に、僕という存在は格好の餌であろうか。よくどうやって暮らしているか、あまりに姿形も性格も違うお互いに不満はないのか。質問責めに合う事もしばしばあった。なんでもかんでも、プライベートな内容を話すわけにもいかず。時に濁しながら、時にはっきりと内緒ですって。柔らかく言いたくありませんと態度に示しながら。彼女達と会話をこなしていた。仲良くなっておくのにこしたことはないという打算もあったが。純粋に、皆悪気はなく。ただ好奇心が高く、本当に、娯楽に飢えに飢えているだけだった。好い人ばかりである。ただ解せないのが、なぜかここでもちゃん付けが定着しつつある事だろうか。男なのに。超大型のレプリカントから見た視点だと、僕のサイズなんて下手したら赤子並みに見えてしまうのも、ちゃん付けが浸透してしまう要因なのかもしれなかった。僕と同じ身長のクジラの子が、いくら成長が人より早くとも。指を咥え、まだ言葉も喋れないのだから。そんな赤子から仲間意識を持たれたのか、見つかるとすぐ傍に寄ってくるのだ。まだ力の加減もわからぬ子だから、正直怖い。僕の名前を、るるぅとたどたどしく呼び。くりくりした目は可愛いとは思うが、サイズが可愛くない。遊び相手は絶対に勤まらない。親御さんが必ず、あまり近づきすぎないように注意はしてくれていたが。
「相変わらずですよ。大事にされてますが、ちょっと心配しすぎかなと思います」
問われた内容を脳内で反芻し、無難に返す。今朝の銀狼の態度を。この村の奥様方も、僕の言う内容からあの狼さんは過保護なんだねって。愛されてる証拠よって。きゃっきゃ頬を染めるようにして、話す。クジラの顔はどこから頬でどこから首かわかりづらい。その点アザラシである彼女は、まだ表情が読み取りやすかった。
「私の夫なんて、そんなに気にかけてくれたことなんてないわ。いつもおいだのお前だの、最後に名前で呼んでくれたのいつだったかしら」
羨ましいわと、頬に手を当てて二人の会話に入ってきたのは。アザラシさんと逆側、僕を挟むようにして。正座したまま身を寄せてきた、背中側が黒く、お腹側が白い。目の上の部分。アイパッチとして黒い部分にそこだけ白く丸い模様が入った。シャチの特徴を持つ人だった。海のギャングという異名を持つわりに、大柄な人間と似たようなシルエットとより高い知性を獲得しているこの人もまた。見た目に反してとても高い、優しそうな声をしていた。アイパッチに視線が誘導されるけれど、身体の大きさに対してちょっと小さいと感じる。愛らしい目が僕を見下ろしていて。座ってる状態なのに、僕が立っても座高に負ける。本当に大きい。人間みたいに女性だからと、胸が張り出していたりはしない。彼女達の乳腺は別の場所、下腹部にあるらしい。小さいまだ乳離れできていないお子さんが居る場合少し膨らむので、目に見えて股間辺りに縦に三本の溝ができ。真ん中が女性器。両側に埋もれるようにして、乳首があるとか。聞いた話なので実際に確かめたり、注視したりするような場所ではないので。真偽の沙汰は不明であるが。たまに赤子を連れている人がお乳をやる為に、お腹辺りに子供の頭が埋もれた状態で。後頭部を優しく撫でていたりする光景は、この漁村を歩いていると鉢合わせたりはするので。きっと本当なのであろう。
それと後で知った事なのだが。あの。サモエドのおばちゃんの、一見ふくよかな体型。胸もお腹もぽよんぽよんだなって。抱き締められて、その肉布団に埋もれた経験もあるのだが。お腹のあれも乳腺らしい。まさかの副乳であった。発情期があり、多産らしいから、もしかしてなんて思ったりもしたが。
動物的要素が、思った以上に色濃いと感じる。じゃあ、お腹の毛を掻き分けると。ガルシェも乳首が複数あるのだろうか。ある、のだろうな。わざわざ見せてと言う気はないが。お願いしたら簡単に見せてくれそうではある。家の中では基本半裸であるし。
キスする時とか密着していると鼓動の音がうるさいと感じるし、自慰をした痕跡とかは僕に見つかるとなにも言わないが。どことなく恥ずかしそうにしている。共に生活しているし、隠すにも限界があり。以前よりも改善されたが。お風呂嫌いなのはそのままであるのだから、そんな銀狼が自らお風呂に入ってくるなんて言ってきた場合。それは遠回しに今からしますってわけで。別に報告しなくてもいいのだが、洗濯物が増えるし。お風呂場を汚すのと。番がいるのにそういう事を我慢ができずするのを、本能的に罪悪感を感じているらしい。発情期の時と違い、毎日のように露骨なまでにシたいシたいと意思表示したりはしないが。する頻度はだいたい把握してしまっている。自分と比べてしまうと正直多いとは思っている。僕がそういう面で淡泊なのもあって、自身の性欲の強さをあまり見せたくないというのもあるのだろう。気持ち悪がったりはしないのに。
僕としては、そうやって自分で欲の発散をして。後片付けもちゃんとしてくれたら文句はないのであるが。でも、そうだな。そういった本能から来るどうしようもない衝動。お酒でべろべろに酔った時なんて、食べたお皿を舐めたり。コップに口をつけず、舌で掬うようにして犬飲みするし。そんな動作は、子狼がするものであるから。僕が見ていた場合やった後に気まずそうにしている。
ただ外で人と食べに行ったりする機会がまた訪れないとも限らないので、酔わせ過ぎは注意だ。恥ずかしい思いをするのはガルシェ本人であるのだし。直したいのなら協力はするが。僕と二人っきりなら、別にその程度は良いかなって思えるようになったのもある。狼が、野性を忘れた飼い犬みたいな仕草をするのはちょっと可愛いし。
正直、ガルシェという男の良いところも、悪いところも全部把握して。その上で結婚したので、そこまで気にしなくてもと思わなくもないのだが。また精神的に不安定になっておしっこをかけられようと、たぶんそんなに気にしないと思う。きっとまたやったなこの人ぐらいだった。その程度である。すぐ洗えばそれで済む話だ。たとえ粗相をしようと、嘔吐しようと。平気な顔して後片付けに掃除したり、拭ける自信すらある。
おしっこの件。その話をすると、苦い記憶なのか。それとも、僕が包み隠さず幼馴染み二人に話したせいでなにか言われたのか。それなりに猛省していた。
メンタル的に、一度追い詰められると暴走しがちであるのだから気にかけてあげるべきであるのだが。今は安定していて。円形脱毛症も完治した。とても喜ばしいのに。それでも、不安が拭えない。
特に最近。僕を気遣い過ぎて、自分の気持ちを押し殺してやいないかと。気づいた。舌打ちだって頻度が減ったし。番ができたから、狼としての本能がそうさせると言われるとそれまでだが。愚直に愛されているように見えて、ちょっと違うのではって。こうして、少しだけ同じレプリカントでも生態が異なっていようと。男女間、雄と雌での関係はそう変わらないみたいであるし。奥様方に混じって仕事をしながら、交流を重ねていくと。僕と銀狼のあれこれだけではなく、当然彼女らの夫に対する愚痴や。我が子に対するしんどいと言いつつ、愛情が滲む惚気を聞かされるのだから。夫婦間のあれこれは、経験豊富な奥様方の話に耳を傾けて。参考にするべきなのかもしれない。僕は男の身であったが。僕を手に入れる為に、全てを捨て去った銀狼の妻という立場として。
でも。そうだな。子供、か。つい自分のお腹を触る。
「大丈夫ルルシャちゃん。お腹痛い?」
「あ、いえ。少し冷えただけです」
シャチの大きな頭が、覗き込むようにして僕の顔色が悪くないか窺ってくる。この人も今は成長した一人息子が居て。子育て経験があるので。僕みたいな身長の人間は、どこか昔の子供に重ねて見えてしまって。つい心配する気持ちが先に出てしまうらしい。気を悪くしないでねって、以前謝られた。
こうしていると、姿が違うだけで。精神性は普通の人間となんら変わらないのに。彼女らも。本能と理性。両方と上手く付き合っていかないといけないのだった。言ってしまえば、ユートピアと比べてかなりの田舎なので。全員が家族ぐるみでの付き合いがあって。そして、かなり親御さん達の明け透けな会話もされる。どこそこの雄と雌が番、ついにヤっただとか。娯楽を求めた先はどこも同じらしい。人の噂話とか、性的なものであったり。あの街と違い、娼館みたいなサービスを提供するお店自体存在しない。文化的に夜這いとか、そういったものがまだあると聞くと驚きだ。親御さん達は夜中。他家の雄が侵入して来たのに気づいても、双方同意の上なら寝たふりをするらしいが。民事裁判めいたものはあるが。法律が機能していなかった。警備隊とか、あの街みたいに目を光らせていないし。そういった性的な物も取り締まっていないのだから。当然か。それで、あの街の。どうして過去の忌まわしい歴史をこの村ではなぞらないのか。それはひとえに、彼らレプリカントという種族が。それぞれのルーツしだいで、かなり生態が変わるのが起因していて。出生率にも関わっていて。この海洋型の人達は、多産ではなく一度の妊娠につき。産むのは一人だけらしい。妊娠期間もばらばら。人間はだいたい十ヵ月程だが、シャチやクジラの人はそれより長いらしい。その分、寿命もガルシェ達より長く。この場所に居る中でも、見るからに年長者であるマッコウクジラのご老体。細かい誕生日等は忘れたらしいが、彼女は六十年と少し生きているという。若い頃のように激しくは動けなくとも。まだまだ元気なのだから。
寿命と妊娠期間って、長さがだいたい比例するのだろうか。ユートピアの人達は、基本犬や猫が多いから。聞いた話だと、孕んでから出産まで半年もかからないらしいが。それで、多産。そりゃ考えなしに子作りなんてすればいくら寿命が二十年もないとしても、サイクル的に爆発的に人口が増え続ける一方だった。
地域によって、住んでいる顔ぶれがかなり変わる。標高の高い山々、高地の方では鳥型のレプリカントも居るらしい。海と山という、あまりに正反対な立地故に彼らも残念ながら出会った事はないし。この先もわざわざここまで足を、いや翼を広げたりはしないであろうか。というか、飛べるのかな。ちょっとそこだけ気になった。
奥様方の愚痴を聞いていると、その話題はだんだん。下の話になってきて。女性といえど、レプリカントなので性欲は強いらしい。雌は発情期でしか妊娠しないし、そういう身体の準備をするのだから。性交渉において、人とはまたちょっと違うみたいだが。雄の方は毎日でも大丈夫と豪語するぐらいだとか。それは、あの銀狼を見ていたらわかるというもの。雌が発情した時、いつでも種を残せるように。すぐ答えられるように雄はそうなったみたいだが。それで持て余しているのだから。人間も、言ってしまえば年中発情期みたいなものであるから。よその種族をそこまで悪くは言えないし。これは若い子の性教育も兼ねているみたいで。余所者である僕は。ただ黙って、仕事に熱中するべきだった。真昼間から夜の話題に突入して。皆、嫌悪したりせず。若い子は恥ずかしそうにしてはいても、しっかり聞き耳を立てているのが。仕事に集中しているようで、手元がちょっとぎこちなくなっているから。バレバレであった。興味津々ではあるが、あまり食いつくとはしたない。そんなところであろうか。
「もう次の子の事を考えてて、こんどこそ継がせるなら雄がいいって。夫が言ってきかないの。産むのは私なのだから、もう少し待って欲しいわ」
「ねぇ。突っ込む方は気持ちがいいのでしょうけれど。負担は私達の方が大きいのだから、もう少し身体の事。気にかけてくれないものかしら。もしもヤれたら良いと思ってたら飯抜きね」
「とか言いながら、昨夜も仲睦まじそうにしてらっしゃったじゃないの」
「あらやだ恥ずかしい!」
やーねー。オホホホなんて、奥様方の笑い声を聴きながら。よそ様の。夫婦間の性生活を聞いていると。居心地が悪い。そう感じているのは、どうやら隣に居るアザラシの人も同じようで。目が合うと、あははとお互いに苦笑いをして誤魔化す。明け透けなのも、考えものだなと思う。男衆は男衆で、昨日は何発ヤっただの、お前より俺の方がアソコの大きさがデカいだの。とてもくだらない話題で盛り上がっていたりするのだが。僕としては同性だけれど。そんな輪にあまり混ざりたいとは思えない。後、僕が銀狼の妻役だというのが。村全体に知れ渡っているので。僕を見る目が、その。ちょっといやらしい気配があるのも。余計に荒くれ者どもである漁師達に、できれば近づきたくないと感じさせていて。悪い人達ではけっしてないのだが。そういう目線は、今のところだいたいは番がいない。まだフリーの若い雄からだけみたい。こうして、奥様方に混ざってるのも。そういう目で見られる要因なのかなって。この仕事場、僕しか男の人いないし。奥様方も、僕に対する扱いがまるで同性相手みたいな気配であるし。だから。若い雄。男の人に、余所者だから後腐れもない。丁度いい性処理相手みたいな、そんな事を思われてやしないだろうか。あの街では男同士でも性処理だけなら、普通の事で。恋愛、となると。また別ではあったが。そういう線引きが、ここではどうなのだろうか。この漁村で、男の人達と会話せず。避け続けたりとか、そういった事はさすがにできないので。適度な距離感でお付き合いを継続したいものだった。例のにおいを、出さないようにしないと。本当に襲われそうだ。獣型ではなく、海洋型の彼らが反応するのかは定かではないが。彼らは嗅覚がないかわりに、水中では音波を感じ取る器官を使い。反響定位。エコーロケーションと呼ばれる機能。それで暗い海の中を迷わず進めるみたいだが。気をつけるに越したことはない。感じ取る器官がないのだから、たぶん大丈夫だと思うが。ガルシェも、気をつけろってそう言っていたのだし。
「そういえば、ルルシャちゃんは。そこのところ大丈夫かしら。ちゃんと、夫の性欲。管理できてる?」
急に名前を呼ばれて。手元を見ていた顔を上げると。ここに居る全員の視線が集中していた。クジラやシャチの、大型のレプリカントの視線が。全部自分に向けられていると、それだけで萎縮しそうになる。全員女の人でも。自分の二倍以上体格が良いのだから。それは当然で。
「えっと」
「ほら、私達は基本同種とだけど。ルルシャちゃんは人間なのに、相手が狼さんで。身長差もあるじゃない。求められるまま、答えてると。身体壊しちゃうわよ? 雄が求愛しても、受け入れるか決めるのはいつだって雌だもの。ただ、貴方達の場合。雄同士だから。無理やりされたりとかは、あの溺愛してる様子からそれはないと思いたいけど」
質問に、言い淀んだ。それは他人に、僕とガルシェの性生活の事を聞かれたからではない。未だに、彼と。そういう事をしていないから、なんだか後ろめたい気持ちに駆られたからだ。どうして、そんなふうに思うのか。それは心のどこかで。ずっと性欲の強い銀狼に、我慢を強いていたのに気づいてしまったからだった。相手が待つと、そう言ったのに胡坐をかいて。種族が違うのに。相手にだけ、こちらに合わせて貰っている。対等だとそんな態度をさせて。
僕が質問されて困っている様子に、奥様方は聞いたらまずかったかしらと。申し訳なさそうな態度になっていくのを。そのゴムみたいな皮膚でできた、僕とは違う肌の質感。それで形成される表情を見て。
「実は……」
かなり迷ったけれど。ガルシェの事を。相談する事に決めた。僕達の馴れ初めは軽く、そしてあの家に移り住んでからの事を。そこから詳細を話す度に。神妙な顔つきをする奥様方。マッコウクジラのお婆さんまで、自分の仕事をほっぽりだして。広げていた網を綺麗に片付けると。なぜだか、僕を囲んで。海洋型レプリカントの人達がこれは一大事だとばかりに。頭を悩ませだした。これから村の行く末を決めるみたいに。まるで会議の如く。奥様方が話ながら身振り手振りを加え、お互いの番の事を思い返し。
「番になって、一年近く。常に一緒で。寝床も一緒。よく我慢できたわね……あの狼さん」
「私の旦那。番になる前にまず押し倒して来たわよ」
「私も。そんなふうに口説かれてみたかった。羨ましい。あそこ勃起させながら、俺の子を産んで欲しいとか。情緒のへったくれもなかったのよ。発情期で、思考緩んでたとはいえ。受け入れちゃった私もあれだけど」
「いっそ、脱いでベッドで待つか。自分から押し倒してみるべきじゃないかしら。中途半端だと、また手を引いちゃうわよその感じだと。狼さん」
「いいえ、もう少し慎重に事は運ぶべきよ。タガが外れて。ヤり殺されかねないわ。我慢した分を取り戻そうと狼さんが考えた場合。ルルシャちゃんの身体が持たないわ」
どうしよう。僕とガルシェの話題で。かってに奥様方が盛り上がってる。どうしよう。とても真剣に考えてくれているけれど。どうしよう。恥ずかしい。やっぱり言うんじゃなかった。囲まれた中央で、正座したまま。つい顔を両手で覆う。手のひらに触れた自分の頬が熱い。
がやがやと、奥様方の提案が一つ挙げられると。それはどうなのかしらって、すぐ却下されて。どんどん白熱する会議。お題が。これが僕とガルシェのセックス事情じゃなければ、よかったのにな。
「ふむぅ」
ぴたりと。止まりそうになかった。勢いがそこで静まる。覆っていた顔を上げ、見回すと。奥様方の顔が、僕ではなく。別の方向を向いていて。ある一点。ずっと目を閉じ考え込んで、沈黙を貫いていたマッコウクジラのお婆さんが声を発したからだった。何を言うのだろうかって。誰かが息を呑む。一番の長生きをする。彼女が。どういう判断をするのか。
「ところでルルシャちゃんはどうしたいのか。私は聞いておらんのぉ?」
お婆さんの言葉に。ハッとしたように奥様方が、こんどは僕を凝視する。囲まれている状態で、巨体達に見下ろされると。天井から吊るされているランプからの灯りが遮られ、それで影ができ。ちょっと暗い。えっと、あの。そんな、曖昧な態度で。でも、歩み寄りたいのも確かで。どうするか、困り果てて。銀狼の、こちらを見る。あの時の野獣のような瞳をつい思い返してしまった。
「結局は本人達の問題じゃて。私達にできるのは、初夜の心構えと。その後どうするかを教えてあげる程度よ。それに、狼さんより人の方が。まだ決心がついておらんようじゃしの。焦らずともよい、両想いなんじゃ。まだまだ時間だけはある。ちゃんと話し合えば、気持ちは通じるものよ」
片目だけ開けた瞳。こちらの心の内をどこまでも見透かされていた。迷ってるから相談したというのもあったが。その迷いの根源。僕自身の気持ちを。でも時間、か。あるにはあるが、それは寿命の事を考えると。短いように感じてしまう。だって、ガルシェは。この人達よりも。僕よりも、先に逝ってしまうのだから。少しでも、一日を大切に使いたいと思うのに。それなのに、日々自分達が今日生きるのにせいいっぱいで。いざちょっと余裕ができたら。僕が二の足を踏んで。焦るなと言われて、意識すると。余計に焦ってしまう。本当に、いっそ僕から押し倒すなんて。でもそんな事できるわけがなかった。
恐らくは手が止まって。仕事をしている時間よりも駄弁っていた時間の方が長かったろうか。日が傾きだした頃。ほれほれ、今日は終いじゃ。そう手を叩き、マッコウクジラのお婆さんが。解散だと奥様方を促す。皆、帰って晩ご飯の支度とか。やる事自体は多いのだから。帰り支度は速かった。順番に出て行く中。肩に触れたりしながら僕に頑張ってねとか。励ましであったり、応援のコメントを残して去っていく皆さん。最初なんて結局は勢いが大事よとか。二回目以降。後は慣れるわなんて。全員が帰路について。一人だけぽつんと残されたのもあってか。それで漸く冷静になれた。後、かなり好きかってに。人の事情で盛り上がってくれたものだなと思うも。それでも、僕達男同士であるのに。ああも真剣に話し合ってくれるのだから。そんな部分も受け入れてくれているのが、嬉しかった。
僕も帰らないとな。誰も居なくなった作業場に、そう独り言ちると。立ち上がろうとして、びりびり来る足の痺れで思うようにそれができないで。無様にごろんと床に転がってしまう。大型レプリカントに囲まれた圧で、姿勢を適度に変えるのを忘れていたからだった。
その日に働いた分のお給料が支払われるわけではなく。そこらへんはルーズであって。一週間に一度か、数日に一度。食べられる魚介類とか現物支給であったり、彼らに流通しているお金であったり。この仕事も、自分達の旦那がする漁を支える側面があるから。漁村と全く関係のない僕に、こうして何か貰えるだけありがたかった。
今はもう、昔銀狼から貰ったお揃いのブーツではなくなってしまったけれど。あれはもう直すよりも、買った方が早かったというのもあった。歩きやすいスニーカー。彼らレプリカントの手で作った物であるから、それなりに値がはるのだが。街からの輸入品だ。これも、ガルシェからのプレゼントだった。
新しい環境において。僕が自分で揃えれた物など、どれだけあるだろうか。本当に、ともすればあの街で暮らしていた時よりも。生活を依存しきっていて。申し訳なくなる。自分で稼いだ経験が少しはあるから、なおさらだった。
自転車を押しながら海が見える海岸沿いを歩く。別にすぐに乗って、そのままかっ飛ばして帰っても良かったが。それをするとまだ痺れが取れない足を酷使するのと、家の玄関で息を暫く荒らげる事になるというのもあるのだった。基本下り道なので、上りとなると。行よりは帰りの方がしんどい。もう少し低い位置にある家の方が良かったが。銀狼の身長と、雌鶏であるアーサーが窮屈に感じない場所の方が。僕としても良かったというのもある。
猟師さんの一部が、もう帰って来てるらしい。停泊する船が増えていた。さっきまで僕と一緒だった人の一部が、夫を迎えに行く光景。巨体同士が無事を称え抱擁していた。沖で素潜りで網を使って追い込み漁をしたりするので。人間達が使用していた漁船。船自体は休憩と、獲った魚を載せる用に割り切った改造を施されていて。平べったく切り取られ、二つの船の間に板を敷き。巨体の彼らでも数人が乗船できるように。大量の貨物を日々別の大陸に運んでいた大型船が海底に沈んでいて、その内サルベージする計画もあるらしい。同じルーツのクジラやイルカに、仲間だとは思われないようで。お互いに刺激し合わないように、食い場を荒らさないように。しているらしい。当然、本物のシャチに、はたまたサメに襲われたりといったアクシデントも。だから生傷が絶えないのか、漁師さん達の身体は傷だらけなのだった。景色を眺めながら。銀狼の夜の事を考えていた。
できるかな。僕に。というより、したいというのが正しいのかな。してあげたい。しなきゃという使命感めいたものがあった。彼の妻として。ガルシェはこんなにも、僕の為にしてくれているのに。身体で払うというのとは違う。いや、それと変わらないのだろうか。わからない。何かをしたい。報いたい。けど、何も思いつかないのだ。どうすればいいか。こうして、夫婦と。番になる前は。ただ助けてあげたい、少しでも良い物を食べさしてあげたい。身なりを綺麗に、彼が幸せになれたらなって。そう思って行動していたのに。
いざ番になってしまうと。何も変わらない。それまでと一緒じゃんって。思っていたのに。こんなにも違う。ガルシェは、僕と一緒にいるだけで幸せだと言ってくれて。でも僕はそれだけじゃ、どんどん自信を無くしていく。いつ彼に飽きられ、捨てられやしないかと。不安になっていく。といっても、そうされて。彼一人。あの街に戻ってくれるなら、僕は使い捨てられても良いって考えも頭の片隅にあるのも事実で。唯一、胸に刻まれた烙印が。もう例え戻ったとしても何もかも遅いのが。どうしようもないぐらい、あの男は取り返しのつかない事をしてくれたのだった。僕だって、この命を全て彼に捧げるだけの覚悟が必要で。それはあると、即答できる。もしも、銀狼を助ける為なら。銃を向けられたりだとか、そういう意味でなら庇うつもりで前へと歩める。そう言い切れる。だが物理的に彼のを受け入れるとなると、怖気づくのだから。自分の感情って不思議だ。咬まれたり、爪で傷つけられたりとかなら。気にしないのに。
世の女性の方も。もしかして彼氏とそういう事をする時。怖いなって思って。踏み込めないままで、いたりするのだろうか。子供を目的にするのではないのだから。極端な話、しなくてもいい。感情を抜きにすれば。僕達は同性であるのだから。必要のない行動だ。そう割り切ってしまったら。けれど。
自転車を押したまま、ただ歩いているだけだが。考え事をしたままであったから、随分と村の中を歩き続けてしまった。もう村の領域から出てしまう。そこで、二人の人影があった。村の外側。一人は、黒と白のツートンカラーで。大柄な体躯と猫背だから流線形の後ろ姿はより丸みを帯びている。突き出た背ビレ。シャチの人だった。今日一緒だった仕事場の人とは違う、肌に傷があるし。大きさも一回り小さい。それでもデカいが。猫背になっているのは、自分よりも背の低い者を相手してるからで。毛皮を纏った、レプリカント種が対面に居て。背には、大量の荷物を背負っていた。僕が背負ったら潰れるぐらいのをだ。いで立ちと、余所者を追い出すみたいなものではなく。シャチさんの纏う雰囲気が違うから。商人と、それを利用しようとしてるんだなって。遠目からでもわかって。距離が近くなれば、自ずと聞こえてくる話し声で。そうなのだと確信が持てた。
「これが欲しい、いくらだ」
「んー、これぐらいかな」
電池とか、タイミングよく売ってたら。僕も利用したいが。今朝、夫に出掛ける前に頼んでしまったので。もしもせっかく苦労して見つけてきて、僕が既に持っていたら落胆したりするだろうと。またの機会でいいやって。そう都合よくあるものでもないし、腹時計が正確な彼らレプリカントの人には需要もなかったから。そのまま通り過ぎようとして。目に入った光景に、立ち止まる。シャチの人が手渡そうとした金額と。商人さんが代金の代わりに渡そうとする商品を見てだ。
「ちょっと待ってください」
大袈裟なぐらい、驚く商人の人。そして、訝しむように。シャチの顔が警戒心を露わにする。確かこの子は、見た目では年齢とかそうだとわからないが。まだ若いシャチだった筈で。あの仕事場に居たシャチの女性。その息子さんだったと記憶の中から。そう多くない村人の家族構成を思い返していた。
「なんだね、君。商売の邪魔をしないでくれるか。それも、人間がこんなところで。君達のシェルターに帰ったらどうだね」
邪魔者が来たと、露骨なまでに。商人としてあまりにも愛想のない顔をする。というより、こちらに嫌悪を向けて。そのレプリカントの男性。見過ごしても正直僕は関係ないと言えたのだが、ただ隣に居るシャチの子。というよりその子のお母さんには大変お世話になっているので。そうできないでいた。つい首を突っ込んで、余計な事を言う僕の悪癖がまた出たと言えたけれど。自転車を置き。商人さんの前に。というより、シャチの子を庇うようにして。前に立つ。そうされると、まるで状況を理解していないのか。庇われたシャチの表情も、あまり歓迎してはいない。隠れきれてもいないし。
「それ、いくらで売ろうとしていますか。僕の記憶に間違いがなければ、かなりふっかけてますよね」
商人と、後方に居るシャチまでも。僕の発言に驚く気配をさせた。あまり物の価値について詳しいわけではないが。ユートピアで暮らしていた短い時の中で。必死に覚えた事が役に立っていた。おばちゃんのところで働かせてもらった経験と、日常的にガルシェの食べる物を今日は何にするか考え。市場で買っていたからだ。やってきた事は、どういう形で、花開くか。わかったもんじゃない。だからこそ、無駄なんてものは。何一つないのだった。目覚めてから、一年半かな。そんな心持たない人生経験でも。そう思えるのだから。
動揺したまま、急いでシャチの子が差し出したままの料金を受け取ろうとして。ぐっと黒い手が握りこんで、それがなされる事はなかった。逆に商品は既に、商人の手にない。シャチの手の中だ。
「なにを根拠に。人間なんかに、私達の物の価値がわかるとでも。そう見えたのだとしても、ここまで運ぶ私の労力もある。正当な額だ。なめるなよ、毛なし風情が」
動物の顔をして、ぐるると唸ると。爪のある手が、振りかぶる。怒りに染まった瞳で。こんな状況で、冷静に相手の予備動作を見て。困ったなって。そんな感想を。本気で動かれた場合、レプリカントの人に僕が敵う筈がない。間合い的にも、大きく後ろに飛んで。避けないと間に合わないだろうか。でもそれをするには、後ろに居るシャチの子が邪魔であった。しまった、位置取りも失敗した。武芸など習っていないのだから、自分の逃げ道を確保するのを忘れていたのがいけなかった。死なないとしても、怪我をしたらガルシェに怒られてしまう。本当に困った。できれば、あまり痛くないようにして欲しいけれど。それも無理そうだった。かなり商人さんは怒っているのだし。いまさら手心を期待するのも遅い。狙ってるのが顔であったから、僕の皮膚をズタズタにしながら。最悪生皮を剥がれてしまうだろうか。熊の張り手で、顔が抉れたなんて逸話を思い出した。相手は熊ではないけれど。荷物を背負って旅をする移動商人だから、かなり鍛えている。自然に身に付いたものだろうけれど。ガルシェみたいに、戦う為の身体でないとしても。首の骨、折れないように上手く受け身がとれるだろうか。そういうのは、受ける時に上手く身体を同じ方向に逃がすんだっけ。ああ、わからない。もう少しちゃんと、銀狼に習うべきだったか。護身術とかそういった類のを。
鋭利な爪を立てた手が、こちらに勢いよく迫る。ごめん、ガルシェ。最後に浮かんだのは、そんな謝罪の言葉だった。
「なんかよくわからねぇけど、そこまでだ」
鈍い音がして、だが痛みは訪れない。つい目を瞑っていたから。ゆっくりと開くと、視界が黒い。あれ、いつの間に夜に。いや、違う。黒い物体が至近距離にあるからだ。そして、ぽたぽたと。何かが垂れる音。目線を下げると。僕の足元に赤い液体が。ぽたり、ぽたりと。レプリカントの一撃を受け止めたのは僕の身体ではなく。背後で事の成り行きを見ていた、シャチの子の。腕だった。ただその防水性に優れる皮膚は、相手の爪によって。引き裂かれた傷ができ。傷口からどくりどくりと、血を滲ませて。
「どっちが正しいかなんて俺にはわからねぇけどよ。暴力沙汰にしたからには、生きて帰れるなんて思うなよ。ここは俺達の縄張りだ」
痛がるでもなく低い男の声が、脅すように。だが、当然のルールだとばかりに。告げられる。商人さんの顔が怒りから恐怖に変わり。その視線が、僕の後方に居るシャチだけではなく。キョロキョロと、違う方向を見ていた。どうやら、騒ぎを聞きつけたらしい。他の住民が遠巻きで見ていたのを。仲間が怪我をしたのを機に、だんだん寄って来たらしい。指を鳴らし。これから始まる闘争に。わくわくしているのか、残忍な笑顔を浮かべている人まで。喧嘩、好きだよね。ここの人達。というより、男の人限定かな。余所見をしていると、同じ恐ろしい顔を見たのか。ひぃ、って情けない悲鳴が聞こえた。自分よりも大柄な人が、それも複数。全員古傷だらけだったから。より恐怖を煽ったみたい。実際、対象から外れている僕も怖かった。ただこの時ばかりは頼もしいと感じる。でも血をみたいわけではない。この商人さんがボロ雑巾のようになってしまうのは本意ではなかった。が、僕が怪我をしたのなら。別に良いよってこれ以上事を荒立てる必要はないと。間に入るのに。怪我をしたのは僕を庇ったシャチくんだ。この場合、それをしたら僕ではなく彼に。僕のエゴで我慢を強いてしまうのだった。上手く場を納めたかったのだけど、既に僕の手の届く範疇を越えていた。
「お、お前ら。わ、私に手を出してただで済むと思うなよ。ゆ、ユートピアの連中が黙っていないぞ。もし私の身に何かあったら、戦争だ。この漁村程度、一夜にして滅ぶぞ」
ざわ。怖いもの知らずだと思っていた漁師さん達が、商人の口から出た街の名にどよめく。こんな辺鄙な場所にあり、あの街なで結構な距離があるというのに。その名が知れ渡っており。そして一定の効力を発揮したのに僕だけ別の意味で驚いた。勇んで出てきた皆が顔を困惑に、どうするよってそんな相談を始める。喧嘩はいいが、戦争をしたいわけではない。いわば過激だが遊びの延長だったのだから彼らにとって。自分達だけならまだしも、妻や子供の命まで巻き込む気はないのか。近寄ってきていた漁師さん達の歩みが、一定のラインで停止する。
「ふ、ふん。私とて、街の名を使うのは嫌だったのだが。しかたない。そこのシャチ。人間など庇うからそうなるのだ。異種族など。高くついたな。売る気も失せたが、このままおめおめ引き下がるのも我らが市長殿の顔に泥を塗る。先程の値段の二倍。いや、三倍で買うというのなら私も見逃してやろう。でなければ……」
きっと一対一なら、ユートピアに所属する軍人にも勝てるとは思う。これは僕の憶測だが。生半可な銃弾も爪や牙も、致命傷を与えられないのなら。陸の獣の特徴を持つ彼らには不利だ。だが彼らは軍人だ。武器も銃だけではなく多岐に渡り、そして何よりも脅威なのは統率の取れた集団という力だった。徒党を組んだ、言ってしまえば烏合の衆など。商人が言うように、一夜でこの村程度滅ぼすなんて容易いだろう。人間が使っていた技術もかなり保有しているのだし。事実なら、漁師さん達が無茶をすればとても不味い。仲間意識の高い彼らなら、そしてあの市長さんが。舐められたままで放置はしない。見せしめの意味も込めて必ず報復に来る、それは断言できる。
シャチさんの悔しそうに歯噛みするのと、村の皆の動揺する様子を見て、商人の男は勝ち誇ったような態度を取る。ただ、僕がその顔を見て思ったのはよくまわる口だなって。商売人なのだからアドリブは得意なのであろうな。そしてそういうふうに、話の方向性が向かうんだなって。冷静に思考を続けた結果。導きだした結論は。
そっか、そう脅すんだ。……よかった。
そっとこの場に置いてとても無力で、蚊帳の外に追いやられそうになっていた人間が手を上げる。まるで、何かに立候補するみたいに、それはそれは綺麗な挙手を心がけた。
「だとしたら。話が早くて助かります」
一歩、前へ出る。胸を張って。虚勢は大事だ。この場に置いて、僕の手札なんてたかが知れている。だがそんな僕の事情など。誰が知っているだろうか。商人。村の皆。庇ってくれたシャチくん。いったい誰が、どこの馬の骨とも知れない人間一人をそこまで気にするだろうか。こんなレプリカントの漁村に、居るだけで珍しいからと悪目立ちはするだろうけれど。
安堵の表情をしながら、そして次に愛想笑いを。商人の前へ進み出る。さっきよりも間合いは近い。もしも同じ事をされたら、まずシャチくんもこんどこそ庇えない。二度目はそうしてくれないと思うし。まだでしゃばってくるのかこいつって、そんなわかりやすい顔をして。毛無しと僕を罵った、お世辞にも綺麗ですねと言えない毛皮があるマズルが深く皺を刻む。それは毛皮持ちのレプリカントの人に関してだけ、かなり僕の目が肥えているのもあった。
「申し遅れました、僕はルルシャと申します。その我らが市長さんの、知り合い。というか義理の親みたいなものなので、僕の名前をお出ししてくれれば伝わると思います。銀の被毛を持った狼は、当然、ご存知ですよね。ユートピアでただ一人だけ。市長のご子息です。そして、僕の番です」
言葉をつらつら紡ぐ程に、面白いぐらいに商人の口が開いていく。そして、連動して垂直に立っていた一対の耳も角度をつけ。倒れて。
「あ、証拠が必要ですよね。すみません。必要であれば書面にもサインしますし。僕の血でも、服の切れ端でも、髪の毛でもかまいません。どうぞ持っていって下さい。きっとにおいは嫌というほどに記憶してもらっているはずですので。市長さんが嗅ぎ間違える事はないと思いますし」
そう、嫌と言う程に。僕もよくまわる口だな、この人の事言えないや。誰かを騙す時、嘘の中に本当の事と。今すぐ確かめられないものを混ぜるといいって。どこかで聞いた事だけあるけれど。それも、脳に印刷するみたいに焼き付いた記憶なのかな。
付け焼き刃でどこまで通用するかは正直わからなかった。博打の要素が多いけれど。この商人の反応からして、あまり腹芸は得意そうではないなって。今もなお推し量っていた。
男の顔に向けて、手の項を差し出す。まるで自分の騎士に姫様が口付けを所望するみたいに。別にそういった意味合いじゃないのだけれど。僕の意図を汲んでくれた商人は。マズルを寄せ、その緊張に乾いた鼻を舐めて濡らしながら。すんすんと、かなり長い時間。それもなんども慎重に嗅ぐ。
「は、えっ。なん、で。へっ?」
あるのだ。別に印鑑とか、そういった物ではなく。彼ら陸の者だからこそ、言葉以外で示せる。証が。毎日寝床を共にし、必要以上にマーキングされている。とても色濃く残っている。雄の狼の残り香。最悪銀狼のだとわからなくても、こんな狼の居ない辺境にそれがあるだけで。身に纏っている僕が居るだけで。漁村の人達には通じないけれど、眼前の男にだけ通じる絶対的な物。
「あ、大丈夫です。僕もこれ以上事を大袈裟にしたくないので。正当な金額でお取引をして頂ければ、それで良いのです。市長さんも、誰だろうと公平にと。常に厳しくしておられましたから」
先程まで漁村の連中を見て怖じけづき、そして勝ち誇った顔をしていたのに。取るに足りない、いつだって簡単に。暴力を行使すれば言いなりにさせられる人間相手に。見るからにひ弱な僕なんかに。一番、男は怯えた態度を見せた。
この商人の言葉を借りるなら、そうだな。
「今なら、見逃してさしあげますよ?」
あの灰狼の、人を小馬鹿にしたような。とても悪い、悪い顔の真似をする。今の僕はとっても悪い狼なのだ。隙を見せたら食らいつく。尾があれば獲物が前にいるとばかりに優美に振り。舌なめずりだってしようか。この場に鏡がないのがとても残念だ。普段、あまり悪感情を刺激するような表情はしないから。不得意なのだけれど、上手くできているだろうか。
その評価を訪ねたいけれど、数歩商人がどうしてか後ろに下がって。逃げる気配をさせた。僕じゃ走る相手を捕まえられないし。このまま逃げてくれても、それはそれで良かったのだけれど。それとは別に足音が複数聞こえてくるのに気づいた。どうやら空気を読んでくれたのか。逃がさないように周囲を囲む漁師さん達。これは願ってもない加勢だ。ちょっと楽しくなってきたし。場違いだと思いながらも止められないそんな高揚感。僕なんかが怖がられる体験はなかなか貴重だというのもあった。
本質的に、あの市長さんと僕って。実は似ているのだろうか。一緒にされたくは、ないな。恩はあるけれど。もしも本当にこの男が述べた。聞く限り嘘八百な感が否めないそれらが事実だとしても、市長さんの元を訪ねたとして。暇ではないのだから取り合ってくれないか。僕のしたかった事を察して、それなりに対処してくれるだろうという信頼はあった。商人がふっかけていたのは本当で、僕が市長さんと知り合いというのも本当なのだから。僕なんかよりもずっと賢いし、あの人。腹黒いし。身内には優しいけど。
ううん。今の僕がしている顔。ガルシェには見せたくないな。幻滅されそう。そこまで性格事態は今までそう偽ったりしていないけれど。わりと思った事はずけずけ言うし。場所を問わず。それで、今も正にこんな厄介事に首を突っ込んでいるのだが。そんな今は居ない夫の事を考えながら。包囲を狭める漁師さん達の呼吸に合わせて。
「で、どうします?」
「ひぃぃ!?」
僕ってやっぱり、性格悪いよね。
にしても、本当に朝から水を浴びてきたんだなって。住居が変わっても相変わらずお湯なんて使えないのだから。もしかして、頭を冷やす意味合いもあったのだろうか。湿って、毛先がぺったりしてる為に身体のラインがいつもより強調されており。上半身裸なのも手伝って、ちょっと色っぽいなって思う。さっきの行動の余熱が、未だ燻ってるから。そう感じるだけかもしれなかったが。鍛えて、張り出したお尻のラインが緩やかにカーブを描いて。青いジーンズをむっちり押し上げ。そこを大きな銀の尾が隠すように存在していた。鍛えてるからか。ガルシェって、美尻だよねって。そんなどうでもいい感想を抱いた。太腿も丸太のように太いし、どこもかしこもムキムキだから、僕みたいに。良く言えばシュッとした身体、悪く言えば痩せっぽちと違い。凹凸が激しい。それで背も高いのだから、一応同じ男として。羨ましく感じたりなんて。棚とか、一番上の段は僕の場合台座を使ったりしないと届かないし。もう少しだけ、身長が欲しいなって。体格の大きな、レプリカントのガルシェでも。頭をぶつけたりしないように。全体的に広々と、空間を贅沢に使ったこの家だからこそ起きる悩みでもあったが。僕が台座を持ってくるのを面倒くさく感じて、背伸びして手を伸ばしていると。それに気づいた銀狼が、いつの間にか背後に立っており。人の後頭部に毛が豊かな胸を押し付けながら、これか? って代わりに取ってくれたりするのだが。背伸びしなくても取れる狼は良いですねって思いながら。礼を口にして。役に立てて嬉しそうに、そのまま抱きしめてくる場面だってあって。家の中でも、僕の動向をつぶさに観察していると感じる。何かしようとする度に、近くに彼が待機しているような。新しい、二人だけの新生活。ある意味というか、異種族で、同性であるが結婚したのだから。本当に新婚夫婦みたいに、僕をあの手この手で甘やかそうとしてくる。食後、リラックスタイムになったら。お気に入りのソファーに一人で寛げばいいのに。甘やかした分、甘えたいのか。ルルシャもって、座った自分の股の間に手招きするのだから。大人しくその場所に収まると、お腹に回される男の腕。頭の上に乗せられる、狼の顎。正直重いし。なんだか気恥ずかしくなってくるから、違う日に誘われても。僕が同じようにするかは、半々といったところか。家事をするからとか適当な理由をつけて。そうすると、耳を倒した狼の頭の向きが。僕が歩くと追従してくるのでちょっとだけ面白い。さすがに真後ろまでは首の関節にも限度があって、無理なようだが。ガルシェが梟のレプリカントとかじゃなく狼でよかった。
家の中でこれなのだから、危険な外なんてそれはもう。銀狼の過保護パワーに拍車がかかる。絶対に目の届く範囲に居させようとするし、なんども行った場所であっても。警戒心を緩めたりしない。この地域は都市部からかなり離れているので、機械と遭遇する事自体稀だった。辺鄙なのも関係しているが。身を寄せている漁村も、人口密度で言えば。かなり少なく。僕ですら全員の顔を覚えられる程度だった。交流は多くないながらもしていて、昼間。家から距離がそれなりにあるが。お手伝いみたいな感じで、バイトさせて頂いている。お給料は、正直経験してきた最低値を記録していて。贅沢は言えないのだが。かなり、ガルシェの稼ぎに二人の生活費等は依存していた。保存するにも冷蔵できないので限界があるから。干物や燻製にする以外、狩猟したその日食べきれない獲物を漁村に卸して。海で獲れる魚ばかりであるから。陸の獲物は彼らに高値で売れるみたいだった。漁村に暮らしている殆どの人は、海から離れる事ができない海洋生物の特性を持ったレプリカントであったから。皮膚が乾いてパリパリになったりと陸上での活動に大きく制限があった。だから、ガルシェという。陸での活動が主戦場であり。ある程度機械との戦闘経験、対人、森や草原での狩猟といった。市長さんが命じた英才教育の賜物だろうか。かなり頼りにされていた。他に依頼を受ける人がいないというのもあって、完全に仕事を独占しているのもあったと思う。唯一の難点と言えるのが、彼に愛想がないわけではないが。他人とのコミュニケーション能力だった。
街で暮らしている分には、気にならなかったのもあるが。それは、彼の周りが慣れた幼馴染と。お父さんと、僕であったからというのもあったからか。だが、こうして遠方の。見たことも、喋った事もない相手と交渉となると。口下手な彼は少々難航した。少し離れてますが近くの家に暮らすので、怪しい者ではないですって初めて漁村の住人に挨拶に行った時。危うく殺し合いに発展しかけたのだから。
狼の気質的に。あまり多く友を作ろうとしない、親しい家族だけとグループを作りがちなのもあったのかもしれない。警戒心を剥き出しにした、漁師達の威圧する視線に。僕を庇うようにして銀狼までも威嚇するのだから。思いっきり尻尾を引っ張って止めたけれど。その時村中に響き渡ったキャウンという情けない声は、今でも漁師さん達の酒のつまみらしい。だめだよガルシェ、人間の男と狼の二人組なんて。見るからに怪しいんだから。第一印象ってかなり大事なんだよって。言い含め。結局交渉は僕がおこなった。自分自身を客観視して、コミュニケーションが上手だとは思っていたりはしないが。他に任せられるような人が居ないのだし、前に出るしかないのだった。
ガルシェ達レプリカントの人って、皆大柄で。身長が二メートルぐらいが平均なんだけど。あまり鍛えてなくても、刻まれた遺伝子がそうさせるのか。誰しもが筋肉質だし。だが、この漁村の人達は。一人一人が、ガルシェであってすら見上げるぐらいに大柄な体躯をさせていた。大きい人なんて、ちゃんと計っていないが三メートルぐらい身長があったと思う。シロナガスクジラの特徴を持った人が、確かそれくらい。ユートピアに居た、虎の先生より大きい人が居るなんて想像だにしていなかった。身体と、それに見合った尾をゆっさゆっさ揺らしながら。ヒレがちょっと地面に接触して不思議な足跡を作りながら、重たそうな足音をさせ歩く様は圧巻の一言だ。
陸上では僕が走った方が早いぐらいだが、水中ともなれば。そのお尻から伸びた太い筋肉質な尾ヒレを使い。ぐんぐん潜水艦のように進むのだから。かなり撫で肩なのか、その時は腕をぴっちり脇に張り付け水の抵抗を軽減しているみたい。人の骨格に似ているからか、いくら尾ヒレがあろうと。実際の鯨や魚のような速度は出せないようだったが。
漁師の男どもは見てくれはとても大なり小なり古傷だらけで、厳つい。ガルシェの目つきの悪さが可愛らしく感じるぐらいには。ドスの効いた声を響かせながら、談笑しているかと思えば。娯楽の一部なのか、内容を一部始終聞いててもどうでも良いと思える些末な衝突で。若い衆同士で殴り合いに発展して、止めるどころか年長者達もやれそこだと捲し立てるのだから。水中でのみ尾ヒレは有効活用されるものと早とちりしていたが、長く太く力めば固くなるそれを横薙ぎに振るい。しなる鈍器のように扱うのだから。でもさすがに明日の漁に影響が出そうだと判断された場合、仲裁という名目の喧嘩両成敗がくだされるのだった。
あの時。いくら銀狼が強くても。そんな連中がごろごろいる場所で騒動を起こしたら無事では済まなかっただろう。だから穏便に、そう心がけて接したのは思い返せば最適解だったのだと強く思う。どうやら、見るからに目つきの悪い。銀狼を完全に従えているとでも勘違いされたのか、ちっちゃな僕がなぜか一目置かれるようになって。ただ、思いっきり銀の尻尾を引っ張っただけでだ。ガルシェが僕の言う事を聞いてくれるのは、信頼関係と。愛情からだ。やろうと思えばいつだって、彼は主導権を握れる。決して上だとか下だとか、そういうものじゃないのに。モヤっとした気持ちに素直に従い。胸に掛けている首飾りを取り出しながら。この人。僕の夫ですって。思いきって宣言したのが良かったのか、悪かったのか。異種族の番というのも、珍しかったのかもしれない。探せば苦楽を共にした傭兵同士でなおかつ同性の番は居たりするらしいが。だからか、面白い連中だと受け入れられるに至った。内心大事な尻尾を引っ張られ怒り心頭であった銀狼は、僕のその宣言で無表情でこちらを見つめていたが。傷むのか、根本を手で押さえていながらも。それで彼の尾が大暴れするのを止められる筈もなく。囲む巨体達が、そんな銀狼の姿を見て豪快に。わははと笑うのだった。
慣れてくれば僕抜きでも住人とぎこちないながらも。短いやり取りで受け答えをこなし、これを獲ってきてくれと頼まれて。日々駆け回る僕の旦那さん。危険な目に合うのも、大変なのはいつだって彼ばかり。雄として、それが当たり前みたいな顔して。それで銀狼が不満なんて一度も口にしたりなんてしなかったが。逆に、足りてるか。もっと頑張ると意気込むしまつ。お前は少しでも安全な場所で俺の帰りを待っていてほしいって。実際に言われもした。
生活が徐々に安定してきて、それでも。もっと良くしたいと。ちょっとやる気が空回りしていると感じる時もあるが。良き旦那であった。僕には本当に勿体ないぐらい。
そんな人と、一つ屋根の下。進展がないままずるずると。ガルシェの方からは、しっかりとそういう事をしたいって言われており。後は僕しだい。心の決心しだいであった。勢いという、成り行きに任せて。さっきみたいな場面で、いざそうなっても。銀狼は理性という急ブレーキをかけてみせたのだから。発情期だというのに、簡単に手篭めにできる僕なんかの言うことを聞いて。無理やりしなかった男なのだから。発情期でない今、いくら興奮しようと。止まろうと思えば、ああも簡単に止まれるのだなって。表面上、僕が受け入れているような素振りをしようとだ。咽て、咳き込み。あまりのがっつき具合に、畏怖がなかったかと問われると。正直否定できなかった。
だって彼は。僕に比べて身体が大きく。興奮にギラギラした瞳を向けて、迫る姿は。本当に野生の獣とそう変わらない。食われないという信頼はあっても、生理的な恐怖はつきまとうのだった。だから、感情を読み取った狼の鼻は。自分の愛する番を怖がらせたって。きっとそれで傷ついたような表情をしたのだと思う。僕から逃げるようだったが、自身の身体の内に住まう。欲望。ケダモノから逃げたというのが正しいのかもしれない。
テキパキと出掛ける準備をするガルシェ。こちらを気にしながらも、声を掛け辛いのか。こっちを見ようとしない。僕のソファーの上で姿勢を変えたりした際に生じる、小さな物音を。そのよく聞こえる耳だけをこちらに向けているのだから。意識もこちらに向いているのなんてまるわかりだった。
ガルシェは、僕がにおいで感情がわからないとしても。だいたい察してくれるなんて言ってくれたけれど、これ程わかりやすい男はいない気がする。買い被りすぎだと思った。
「ガルシェ」
上着を着て、オープンフィンガーグローブを手に着用し。銃を肩に担いだ段階で。あまり刺激しないように、努めて穏やかな声になるよう意識しながら。男の名を呼んだ。だというのに、男の反応はびくりと緊張にか身体が跳ね。尻尾なんてちょっと膨らんでいるのだった。
もしかして、さっきので怒られるとでも思っているのだろうか。煽ったのはこちらで、ガルシェは全く悪くなどないのに。図体ばかりデカイくせに。どうして、そうも僕のちょっとしたあれこれで怯えるのか。それもまた、愛されてるなーって。僕に嫌われたくない、そんな感情から来る反応なのかなって。そう思えば微笑ましくなる。固く引き結んだ狼の唇。ぴくぴくと横に伸びた白い髭が不安そうに震えていた。
「寝室の時計、電池切れちゃったから。無理はしなくていいから、余裕がある時探しといてくれる?」
小言でもなく、糾弾でもないとわかった銀狼が。ホッと、息を吐いていた。胸を撫で下ろすようにして、緊張に膨らんでいた尾が元通りになっていく。コクコクと、狼の頭が面白いぐらい上下になんども頷いて。他に欲しいものはないかって、そう聞いてくるのだった。
特にこれといって、今思いつく物もなく。ただ彼が無事に戻ってきてくれる。それだけでよかったから。最悪お願いした電池が見つけられなくても、別に構わなかった。
だらけていたソファーからいい加減立ち上がり、玄関でブーツを履く男の背後に近寄る。今日は漁村に行くつもりなので、ついていくわけにもいかず。ならばと、こうして見送ろうと思い立ったのだった。いってらっしゃい。おかえりなさい。言われたら嬉しくなるその言葉を、僕は可能な限り。彼に言うように心がけていた。家でお留守番が多い身なのもあったが。男性であるが、ガルシェの妻という役割であるし。そして何よりも、僕が言いたいというのもあって。だから玄関口で、立ち上がり。振り返って、しっかりと見つめ返してくれるようになった銀狼を見上げる。左肩にそっと男の手が乗せられ。身を屈めると、狼のマズルが右頬に擦り付けられる。スリスリと優しく触れ合わせたら。最後に、頬に口付けまでも落とすに飽き足らず。ぺろりと、舐めても来た。僕があまり顔を舐めまわされて唾液濡れにされるのを好まないのは、銀狼は重々承知しているので。本当に軽く、舌先でだ。狼の愛情表現として、甘噛みや舐める行動はある程度許容できる範囲で。好きにさせているのだが。お酒が入ったり、たまに調子に乗ってべろべろべろべろ、しつこいぐらい舐められる時もあるので。そういう時は露骨に顔を顰めてしまったり。
「いってくる」
囁くようにして、僕の旦那様は言うのだった。離れていく手をつい目で追ってしまう。きっと、半日とはいえ。寂しく思うこの気持ちは僕だけではないのだろう。だって、いってきますって言いながら。ガルシェは未だ扉を開けようとしないのだから。安全な場所に居て欲しいって気持ちと、役に立ちたい、傍に居たい。片時も離れたくない。そんな気持ちがせめぎあい、だからいつまで経っても出発しないのだろう。そんな相手の気持ちを容認して放置していると、二人して玄関で三十分ぐらいうだうだしていそうだ。バカップルじゃないんだから。
「うん、いってらっしゃい。気をつけてね」
だから。お見送りを完遂する意味でも。こうして区切りとして、いってらっしゃいと言うのだった。そうすると、寂しそうにしていたどこか子供っぽい狼の顔つきが。守るべき番が居る、雄の表情に変わるのだから。結婚してからというもの、そういう表情を。態度を。取る事が多くなっていっていると感じる。立場が人を変えると言うが。ガルシェも。狼の雄として。立派に成長しつつあるという事だろうか。甘えたなのは、あまり変わらないけれど。
彼が成長し続けているのに。だとしたら。僕は、どう変われているのだろうね。穏やかな心に。そんな疑問がつい、脳裏を過った。
「あまり遅くならないようにする」
「わかった」
「村の連中を利用はしても、警戒は解くな。ルルシャが思っている以上に、何かあった時。抵抗できないんだからな」
「そうだね」
それは痛いぐらい身に染みている。安全だと思い込んでいた街の中、ユートピアでも。実際に起きたのだから。自分で警戒してるつもりでも、ガルシェにはルルシャは警戒心が薄いって。旅の道中なんども指摘されていて。外でお仕事をしている彼の言う事なのだから、ちゃんと聞いているつもりでも。やっぱり足りないらしい。プロの言う事には素直に従うに限るとは感じながらも、実際に実行できているのかは別なのだろうか。
でも、自分から歩み寄らないと。いつまでも、相手が来てくれるのを待つばかりでは。何も始まらないとも思っていて。それに考え方も感じ方もまるで違う異種族相手なのだ。そんなに、悪い人達じゃないんだけどな。確かに荒くれ者どもって感じではあるが。
「俺以外の雄とあまり親しくするのもダメだ。ルルシャは放っておくとすぐ雄を誑かすからな」
「した覚えがありません」
いや、本当に。僕を何だと思っているんだ。心当たりがない注意をされても、納得はできない。アドトパは、最初は珍しがって近づいてきただけだし。ガカイドは、僕が確かにきっかけを作りはしても。結果を出したのは彼自身の力で。本当に。思い当たる部分がなかった。お父さんにも息子を籠絡したとかなんとか言われたような気がするが。そのようなつもりはなかったし。だがこうして。今、目の前に居る男が。僕を番として扱ってくれているのだから、唯一その部分に関しては。あまり強く否定できなかった。
「それと……」
「ガルシェ」
ちょっと、いい加減くどいなって。そう感じ始めたのもあって。名を呼びまだ何か言い足りなさそうな相手の会話を強引だが、強制的に終わらせる。これじゃまるで、初めておつかいに行く子供に対して言い含める過保護な親だ。知らない人にはついていかないし、物にだって釣られたりしない。玄関の扉の方へ振り向かせた後、ぐいぐいと背中を両手で押す。何するんだって、膝辺りをばしばし叩いてくる狼の尾。まだ閉じられてる扉にぶつかりそうで、咄嗟にガルシェはドアノブを捻った。追い出すようにして、巨体を押す。実際のところ、彼が本気で抵抗すれば。僕程度の力では押してもびくともしないのだが。されるがまま、押しやり。気をつけてねって、言いながら。振り向く前に扉を閉めた。心配性なのは変わらない、どころか悪化している。出かける時毎回こうだと、耳にタコができそうだった。
もう、居ないかなって。ドアスコープをこっそり覗くと、狼狽えた銀狼が扉を見つめていて。未練がましく、まだ玄関前でうろうろしていた。だが、横合いから突撃してきた謎の白い物体に、驚いた声を上げた後。ドアスコープの死角に入り、間隔の短い足音。それが離れて、やがて聞こえなくなった。トテトテと、扉を隔てているせいで足音は聞こえないが。そんな動きで、アーサーが死角から現れて。嘆息している光景。
ガルシェを見送ったら、僕も出かける準備をしないといけないと気づき。時計を見て、慌てだす。思った以上に時間を浪費していた。まだ余裕があると思っていたのに。銀狼のせいでそんな余裕も消し飛んでしまったのだった。僕を想っての行動や、発言であるのだから。これ以上強く否定したり、疎ましくするのはさすがに気が引けて。最終的に追い出すようにした今の所業だって、やった後で少しばかりの後悔があるのだから。
財布と家の鍵を持ち、ポケットに入れ。忘れ物がないかもう一度確認すると。僕も戸締りをして外へと出る。庭の方から鶏達が騒がしかったが、そんな中でいってらっしゃいとばかりに。一番体格の大きな雌鶏が手、というか翼を振ってくれていた。それに小さく振り返しながら、家の壁に立て掛けてあった錆びたマウンテンバイクを少し押し広いスペースまで来ると。跨った。
廃墟で見つけてきたパーツを、使える部分だけ取り出し。パンクしていたタイヤも何ヵ所も絆創膏みたいに穴を塞ぎ、使えるようにした物だった。漁村までの歩くには少々距離がある道中、大変だろうと。これもまた、ガルシェが拾って修理してくれたのだ。今は僕の愛車。数段階あるギアはチェンジしようとすると残念ながらチェーンが外れるので使用不可。ブレーキも前タイヤの方は使えないので、あまり速度を出すと急には止まれないから注意が必要だ。フレームもかなり傷んでいるので、あまり無理をさせるとその内タイヤよりも先にぽっきり行きそうである。塗装までは手が回らなかったので、ぽろぽろ剥がれた車体は今のところ錆銀な色合い。どこかのメーカーのロゴが一部残っているけれど、読み取るのは難しい。
だが一度ペダルを踏みこんで、姿勢が安定したらどんどん足の回転を速めると。それはチェーンと歯車に伝わり。前へ、前へと何倍にも力に変えて。進んでいく。愛する彼からの贈り物の一つだから、大事に乗らないとね。家の正面は車が通れる二車線の道路があるから、暫くは軽快に進めるのだが。途中には、穿たれた穴や。乗り捨てられた車という障害物が多く点在するので、真っすぐには進めず。わりと蛇行運転になる。だから結果的にあまり速度は出せない。下り坂になると、その道路も途中で土に埋もれて。森林に変わる。自然ってのは凄いものだった。長い年月が経てば、こうして人が作った物を簡単に飲み込んでしまうのだから。道路跡を横に横断するように倒れた大木があるのが目印。そこを何かが横からぶつかって不思議な抉れ方をしてできた、ガードーレールの隙間を通り。獣道をサドルからお尻を浮かし、自分の膝も使い衝撃を逃がしながら。降っていく。一番入念に銀狼があーだこーだ言いながら直した、サスペンションフォークが機能しているおかげで。多少小枝が落ちていようと、砂利道だろうと苦も無く踏破可能だった。これを最初は自分の足で歩いていたのだから。旅を続ける過程で、自他共に認めるひ弱な身体も鍛えられたのだが。徒歩の場合。移動時間で、どうしても帰るのが遅くなるのもあってか。ガルシェが移動手段を何かないかと頭を悩ますのはすぐだった。
ガタガタと、車体を揺らしながら。ペダルを漕ぎ続けると。森林を抜け、見えてきた自分の位置とそう変わらぬ高さにある海。そして湾岸に停泊する船。防波堤があるから、降る分だけ海が隠れて。防波堤沿いに暫く自転車を走らせていると、次に見えたのは。人が住んでいる気配がする家々だった。人間は居らず、海洋型レプリカントが住み着いた。小さな村。家をかなり魔改造していて、二階建ての家は二階の床を取り壊し。元あった玄関は使用せず。掃き出し窓をさらに拡張して、広い出入口にし。それでやっと、かなり大型な部類の彼らでも快適に過ごせるようにしていた。成体で平均身長が二メートルから三メートルはあるのだから。そうしないと、人間が使っていた家なんて狭苦しくて無理なのだろう。一から建てた家もあるにはあるが、もともと使える家を改装した方が早かったのだろうか。だいたいは元は人間の物だ。大雑把な性格なのか、ネームプレートなんて。住んでいた人の名前がそのままである。
停留していた船の数から逆算して、恐らくは男手の多くは既に漁に出ているのだろう。朝日が昇る前に、彼らの仕事は始まるのだから。歩いているハンドウイルカ型のレプリカントの人が。自転車に乗った僕に気づいたのか。キュルキュル鳴きながら手を振ってくれる。背中側が灰色の表皮に、内側が白い。一般的なイルカだった。ただ普通のイルカと違うのは本来はない二歩足で立っており、胸ビレの代わりに。今手を振ってくれている、人に近い五本指の水掻きがついた手がある事だが。物語に出てくる、マーマンとか半魚人みたいだった。表面がキラキラ太陽光を反射しており。輝き具合から、海から上がったばかりなのだろう。その証拠に、腰のベルトに吊るされている小さな網には獲った貝が。手を上げていないもう片方には、銛を持っている。足元も歩いてきた方角に、足跡の代わりに足裏の形に濡れた跡がアスファルトに続いていた。内側の色が白いとわかるのは、露出の多い服装をしているからではなく。目で見てわかる通り、素っ裸である。それで性器が露出しているわけではなく。股の部分には薄っすらと縦割れがあるのだが。鳴いただけではわからず、喋って初めて。その見た目から女性かと思ったら男性だったなんて間違いもあって。どうやら、男性も普段は性器が収納されているのか。ガルシェのお風呂に入ってる時みたいにモノがぶらぶらしていない。元々の土地柄か。裸族が多かった。真の裸族である。海で暮らし、表皮が乾かないように水がないと生きていけないのだから。すぐに入水できるように、衣服を纏う文化があまり根付かなかったというのもあるのだろう。彼らにとって家は物置と、別荘みたいな感覚らしい。頭と胴とさほど変わらぬ太さの首の部分。手首や足首。身に着けているのはそういった部分にだけ、ネックレスとかブレスレット等の装飾品ぐらいだった。
たしか、この向こうから挨拶してくれたイルカの人は。基本浅瀬で漁をしているチームの一員で。男の人であった筈だ。体格だってがっしりとしているし。間違いないであろうか。相変わらず動物の顔は見分けがつきにくい。これでも、狼とか犬科は顔だけでそれなりな的中率を誇るようになったというのに。性別を間違えるのは相手に失礼に当たるので、これからも気をつけないといけない。おはようございますって、挨拶すると。イルカのどこか可愛らしいと感じる顔に似合わず、わりと野太い声でおはようと返事してくれる。ちょっと、詐欺っぽい。
それで自転車を止めず、イルカの人を通り過ぎて。目的の建物は、木造であり。外には大量に縄や網が放置されている。僕の到来と同じ時間か、少し遅れてか。だんだんと集まりだし輪を作る人々。自転車を邪魔にならない場所に停めると、僕もその輪の一員に加わる。なんだかファンタジーに出てくる巨人達に囲まれた小人の気分だった。
一番の年配らしき、レプリカントの女性。頭部がちょっと縦長であり、腰が曲がっている為に杖というより太い鉄パイプを支えにしている。マッコウクジラの特徴をした方が、僕を含めた集まった集団を見渡して。欠員がいないのを確認すると、頷き。
「おはようございます。集まりましたね。それでは皆さん、今日も大変じゃが。頑張りましょうかのぉ」
年配の、しゃがれたお婆ちゃんの声を。そのノコギリのような歯が並ぶ細長い口を開閉させて。今日の分の仕事。その開始の合図を告げたのだった。囲いを作っていた人々がゆったりとした動作で散らばるのに合わせ、僕は急いで距離を取る。なぜなら、僕が先程まで居た位置を。巨大な尾ビレがついた尻尾がぶおんと、そんな音を伴い。横薙ぎに振るわれたからだ。それをした、人は。あらら、ごめんなさいねって。困った顔をして謝ってきたが。これが改善される気はあまりしていない。巨体故に、彼ら、はたまた彼女達が動くと。スケールがどれもこれもデカくなる。僕みたいな、小さい奴は。こちらも気をつけていないと、簡単に吹き飛ばされて怪我をしそうだった。彼女達。夫が漁に出ている間に、家事や炊事をするのだが。それとは別に、漁に使う縄や網を直すのも。担っていた。そして、僕なんかがここで働かせてもらっている理由。
彼女達は、その体格故に。かなり、手先が不器用だった。僕の腕くらいある指を使い、細い数ミリしかない糸を編み直すのはかなり苦労するらしく。だからマッコウクジラの顔をした、この仕事場のリーダー的存在が、あのような大変って口にしたのだった。大きな平屋で、皆が座り。空いた空間に網を広げ。身を屈めながら作業するのだが。口々に、時折聞こえる声。ああもうだとか、やっちゃったとか。そんなのがまだ若い女性陣からしていて。さすがに熟練の人は、黙々と。太い指でも時間をかけて編んでいたけれど。
船を停留させたり、何かと使う太い縄は力が足りないので。僕の担当は細い網の修繕だった。ほつれていたり、切れてしまった部分。そこからせっかく捕らえた魚が逃げないように、塞ぐ。人の隣に座る。アザラシ型のレプリカントの人は、僕の先輩。身長はあんまり変わらないか、少し彼女の方が高いぐらい。最近働きだした新参者である人間と一緒に手先が器用組に分けられていた。
「ふふ、ルルシャちゃん。あの狼の旦那さんとはどうなの?」
作業自体は細かいものであるが、数分か一時間ぐらいすると。集中力の切れてきた女性人は隣り合った者と、声を潜めながら世間話に話を咲かせるのはいつもの事。村長は別に居るのだが、この集まりの纏め役をしているマッコウクジラのお婆ちゃんは、手を動かしてさえいれば特に咎めたりはせず黙認してくれて。逆に話しかければいろいろと丁寧に教えてくれる、とてもおおらかな人柄であった。僕のような素性が知れない異種族を、懐に入れるぐらいには。さすがに、あまりにどが過ぎて。話に夢中になっていると、こりゃこりゃと穏やかに言いながら。物凄い圧を醸し出してくるのだが。怒らしたら大きな尾ビレで圧死されそう。
アザラシさんが話題に出したのは、僕の番こと。ガルシェ。娯楽というものに飢えている奥様方に、僕という存在は格好の餌であろうか。よくどうやって暮らしているか、あまりに姿形も性格も違うお互いに不満はないのか。質問責めに合う事もしばしばあった。なんでもかんでも、プライベートな内容を話すわけにもいかず。時に濁しながら、時にはっきりと内緒ですって。柔らかく言いたくありませんと態度に示しながら。彼女達と会話をこなしていた。仲良くなっておくのにこしたことはないという打算もあったが。純粋に、皆悪気はなく。ただ好奇心が高く、本当に、娯楽に飢えに飢えているだけだった。好い人ばかりである。ただ解せないのが、なぜかここでもちゃん付けが定着しつつある事だろうか。男なのに。超大型のレプリカントから見た視点だと、僕のサイズなんて下手したら赤子並みに見えてしまうのも、ちゃん付けが浸透してしまう要因なのかもしれなかった。僕と同じ身長のクジラの子が、いくら成長が人より早くとも。指を咥え、まだ言葉も喋れないのだから。そんな赤子から仲間意識を持たれたのか、見つかるとすぐ傍に寄ってくるのだ。まだ力の加減もわからぬ子だから、正直怖い。僕の名前を、るるぅとたどたどしく呼び。くりくりした目は可愛いとは思うが、サイズが可愛くない。遊び相手は絶対に勤まらない。親御さんが必ず、あまり近づきすぎないように注意はしてくれていたが。
「相変わらずですよ。大事にされてますが、ちょっと心配しすぎかなと思います」
問われた内容を脳内で反芻し、無難に返す。今朝の銀狼の態度を。この村の奥様方も、僕の言う内容からあの狼さんは過保護なんだねって。愛されてる証拠よって。きゃっきゃ頬を染めるようにして、話す。クジラの顔はどこから頬でどこから首かわかりづらい。その点アザラシである彼女は、まだ表情が読み取りやすかった。
「私の夫なんて、そんなに気にかけてくれたことなんてないわ。いつもおいだのお前だの、最後に名前で呼んでくれたのいつだったかしら」
羨ましいわと、頬に手を当てて二人の会話に入ってきたのは。アザラシさんと逆側、僕を挟むようにして。正座したまま身を寄せてきた、背中側が黒く、お腹側が白い。目の上の部分。アイパッチとして黒い部分にそこだけ白く丸い模様が入った。シャチの特徴を持つ人だった。海のギャングという異名を持つわりに、大柄な人間と似たようなシルエットとより高い知性を獲得しているこの人もまた。見た目に反してとても高い、優しそうな声をしていた。アイパッチに視線が誘導されるけれど、身体の大きさに対してちょっと小さいと感じる。愛らしい目が僕を見下ろしていて。座ってる状態なのに、僕が立っても座高に負ける。本当に大きい。人間みたいに女性だからと、胸が張り出していたりはしない。彼女達の乳腺は別の場所、下腹部にあるらしい。小さいまだ乳離れできていないお子さんが居る場合少し膨らむので、目に見えて股間辺りに縦に三本の溝ができ。真ん中が女性器。両側に埋もれるようにして、乳首があるとか。聞いた話なので実際に確かめたり、注視したりするような場所ではないので。真偽の沙汰は不明であるが。たまに赤子を連れている人がお乳をやる為に、お腹辺りに子供の頭が埋もれた状態で。後頭部を優しく撫でていたりする光景は、この漁村を歩いていると鉢合わせたりはするので。きっと本当なのであろう。
それと後で知った事なのだが。あの。サモエドのおばちゃんの、一見ふくよかな体型。胸もお腹もぽよんぽよんだなって。抱き締められて、その肉布団に埋もれた経験もあるのだが。お腹のあれも乳腺らしい。まさかの副乳であった。発情期があり、多産らしいから、もしかしてなんて思ったりもしたが。
動物的要素が、思った以上に色濃いと感じる。じゃあ、お腹の毛を掻き分けると。ガルシェも乳首が複数あるのだろうか。ある、のだろうな。わざわざ見せてと言う気はないが。お願いしたら簡単に見せてくれそうではある。家の中では基本半裸であるし。
キスする時とか密着していると鼓動の音がうるさいと感じるし、自慰をした痕跡とかは僕に見つかるとなにも言わないが。どことなく恥ずかしそうにしている。共に生活しているし、隠すにも限界があり。以前よりも改善されたが。お風呂嫌いなのはそのままであるのだから、そんな銀狼が自らお風呂に入ってくるなんて言ってきた場合。それは遠回しに今からしますってわけで。別に報告しなくてもいいのだが、洗濯物が増えるし。お風呂場を汚すのと。番がいるのにそういう事を我慢ができずするのを、本能的に罪悪感を感じているらしい。発情期の時と違い、毎日のように露骨なまでにシたいシたいと意思表示したりはしないが。する頻度はだいたい把握してしまっている。自分と比べてしまうと正直多いとは思っている。僕がそういう面で淡泊なのもあって、自身の性欲の強さをあまり見せたくないというのもあるのだろう。気持ち悪がったりはしないのに。
僕としては、そうやって自分で欲の発散をして。後片付けもちゃんとしてくれたら文句はないのであるが。でも、そうだな。そういった本能から来るどうしようもない衝動。お酒でべろべろに酔った時なんて、食べたお皿を舐めたり。コップに口をつけず、舌で掬うようにして犬飲みするし。そんな動作は、子狼がするものであるから。僕が見ていた場合やった後に気まずそうにしている。
ただ外で人と食べに行ったりする機会がまた訪れないとも限らないので、酔わせ過ぎは注意だ。恥ずかしい思いをするのはガルシェ本人であるのだし。直したいのなら協力はするが。僕と二人っきりなら、別にその程度は良いかなって思えるようになったのもある。狼が、野性を忘れた飼い犬みたいな仕草をするのはちょっと可愛いし。
正直、ガルシェという男の良いところも、悪いところも全部把握して。その上で結婚したので、そこまで気にしなくてもと思わなくもないのだが。また精神的に不安定になっておしっこをかけられようと、たぶんそんなに気にしないと思う。きっとまたやったなこの人ぐらいだった。その程度である。すぐ洗えばそれで済む話だ。たとえ粗相をしようと、嘔吐しようと。平気な顔して後片付けに掃除したり、拭ける自信すらある。
おしっこの件。その話をすると、苦い記憶なのか。それとも、僕が包み隠さず幼馴染み二人に話したせいでなにか言われたのか。それなりに猛省していた。
メンタル的に、一度追い詰められると暴走しがちであるのだから気にかけてあげるべきであるのだが。今は安定していて。円形脱毛症も完治した。とても喜ばしいのに。それでも、不安が拭えない。
特に最近。僕を気遣い過ぎて、自分の気持ちを押し殺してやいないかと。気づいた。舌打ちだって頻度が減ったし。番ができたから、狼としての本能がそうさせると言われるとそれまでだが。愚直に愛されているように見えて、ちょっと違うのではって。こうして、少しだけ同じレプリカントでも生態が異なっていようと。男女間、雄と雌での関係はそう変わらないみたいであるし。奥様方に混じって仕事をしながら、交流を重ねていくと。僕と銀狼のあれこれだけではなく、当然彼女らの夫に対する愚痴や。我が子に対するしんどいと言いつつ、愛情が滲む惚気を聞かされるのだから。夫婦間のあれこれは、経験豊富な奥様方の話に耳を傾けて。参考にするべきなのかもしれない。僕は男の身であったが。僕を手に入れる為に、全てを捨て去った銀狼の妻という立場として。
でも。そうだな。子供、か。つい自分のお腹を触る。
「大丈夫ルルシャちゃん。お腹痛い?」
「あ、いえ。少し冷えただけです」
シャチの大きな頭が、覗き込むようにして僕の顔色が悪くないか窺ってくる。この人も今は成長した一人息子が居て。子育て経験があるので。僕みたいな身長の人間は、どこか昔の子供に重ねて見えてしまって。つい心配する気持ちが先に出てしまうらしい。気を悪くしないでねって、以前謝られた。
こうしていると、姿が違うだけで。精神性は普通の人間となんら変わらないのに。彼女らも。本能と理性。両方と上手く付き合っていかないといけないのだった。言ってしまえば、ユートピアと比べてかなりの田舎なので。全員が家族ぐるみでの付き合いがあって。そして、かなり親御さん達の明け透けな会話もされる。どこそこの雄と雌が番、ついにヤっただとか。娯楽を求めた先はどこも同じらしい。人の噂話とか、性的なものであったり。あの街と違い、娼館みたいなサービスを提供するお店自体存在しない。文化的に夜這いとか、そういったものがまだあると聞くと驚きだ。親御さん達は夜中。他家の雄が侵入して来たのに気づいても、双方同意の上なら寝たふりをするらしいが。民事裁判めいたものはあるが。法律が機能していなかった。警備隊とか、あの街みたいに目を光らせていないし。そういった性的な物も取り締まっていないのだから。当然か。それで、あの街の。どうして過去の忌まわしい歴史をこの村ではなぞらないのか。それはひとえに、彼らレプリカントという種族が。それぞれのルーツしだいで、かなり生態が変わるのが起因していて。出生率にも関わっていて。この海洋型の人達は、多産ではなく一度の妊娠につき。産むのは一人だけらしい。妊娠期間もばらばら。人間はだいたい十ヵ月程だが、シャチやクジラの人はそれより長いらしい。その分、寿命もガルシェ達より長く。この場所に居る中でも、見るからに年長者であるマッコウクジラのご老体。細かい誕生日等は忘れたらしいが、彼女は六十年と少し生きているという。若い頃のように激しくは動けなくとも。まだまだ元気なのだから。
寿命と妊娠期間って、長さがだいたい比例するのだろうか。ユートピアの人達は、基本犬や猫が多いから。聞いた話だと、孕んでから出産まで半年もかからないらしいが。それで、多産。そりゃ考えなしに子作りなんてすればいくら寿命が二十年もないとしても、サイクル的に爆発的に人口が増え続ける一方だった。
地域によって、住んでいる顔ぶれがかなり変わる。標高の高い山々、高地の方では鳥型のレプリカントも居るらしい。海と山という、あまりに正反対な立地故に彼らも残念ながら出会った事はないし。この先もわざわざここまで足を、いや翼を広げたりはしないであろうか。というか、飛べるのかな。ちょっとそこだけ気になった。
奥様方の愚痴を聞いていると、その話題はだんだん。下の話になってきて。女性といえど、レプリカントなので性欲は強いらしい。雌は発情期でしか妊娠しないし、そういう身体の準備をするのだから。性交渉において、人とはまたちょっと違うみたいだが。雄の方は毎日でも大丈夫と豪語するぐらいだとか。それは、あの銀狼を見ていたらわかるというもの。雌が発情した時、いつでも種を残せるように。すぐ答えられるように雄はそうなったみたいだが。それで持て余しているのだから。人間も、言ってしまえば年中発情期みたいなものであるから。よその種族をそこまで悪くは言えないし。これは若い子の性教育も兼ねているみたいで。余所者である僕は。ただ黙って、仕事に熱中するべきだった。真昼間から夜の話題に突入して。皆、嫌悪したりせず。若い子は恥ずかしそうにしてはいても、しっかり聞き耳を立てているのが。仕事に集中しているようで、手元がちょっとぎこちなくなっているから。バレバレであった。興味津々ではあるが、あまり食いつくとはしたない。そんなところであろうか。
「もう次の子の事を考えてて、こんどこそ継がせるなら雄がいいって。夫が言ってきかないの。産むのは私なのだから、もう少し待って欲しいわ」
「ねぇ。突っ込む方は気持ちがいいのでしょうけれど。負担は私達の方が大きいのだから、もう少し身体の事。気にかけてくれないものかしら。もしもヤれたら良いと思ってたら飯抜きね」
「とか言いながら、昨夜も仲睦まじそうにしてらっしゃったじゃないの」
「あらやだ恥ずかしい!」
やーねー。オホホホなんて、奥様方の笑い声を聴きながら。よそ様の。夫婦間の性生活を聞いていると。居心地が悪い。そう感じているのは、どうやら隣に居るアザラシの人も同じようで。目が合うと、あははとお互いに苦笑いをして誤魔化す。明け透けなのも、考えものだなと思う。男衆は男衆で、昨日は何発ヤっただの、お前より俺の方がアソコの大きさがデカいだの。とてもくだらない話題で盛り上がっていたりするのだが。僕としては同性だけれど。そんな輪にあまり混ざりたいとは思えない。後、僕が銀狼の妻役だというのが。村全体に知れ渡っているので。僕を見る目が、その。ちょっといやらしい気配があるのも。余計に荒くれ者どもである漁師達に、できれば近づきたくないと感じさせていて。悪い人達ではけっしてないのだが。そういう目線は、今のところだいたいは番がいない。まだフリーの若い雄からだけみたい。こうして、奥様方に混ざってるのも。そういう目で見られる要因なのかなって。この仕事場、僕しか男の人いないし。奥様方も、僕に対する扱いがまるで同性相手みたいな気配であるし。だから。若い雄。男の人に、余所者だから後腐れもない。丁度いい性処理相手みたいな、そんな事を思われてやしないだろうか。あの街では男同士でも性処理だけなら、普通の事で。恋愛、となると。また別ではあったが。そういう線引きが、ここではどうなのだろうか。この漁村で、男の人達と会話せず。避け続けたりとか、そういった事はさすがにできないので。適度な距離感でお付き合いを継続したいものだった。例のにおいを、出さないようにしないと。本当に襲われそうだ。獣型ではなく、海洋型の彼らが反応するのかは定かではないが。彼らは嗅覚がないかわりに、水中では音波を感じ取る器官を使い。反響定位。エコーロケーションと呼ばれる機能。それで暗い海の中を迷わず進めるみたいだが。気をつけるに越したことはない。感じ取る器官がないのだから、たぶん大丈夫だと思うが。ガルシェも、気をつけろってそう言っていたのだし。
「そういえば、ルルシャちゃんは。そこのところ大丈夫かしら。ちゃんと、夫の性欲。管理できてる?」
急に名前を呼ばれて。手元を見ていた顔を上げると。ここに居る全員の視線が集中していた。クジラやシャチの、大型のレプリカントの視線が。全部自分に向けられていると、それだけで萎縮しそうになる。全員女の人でも。自分の二倍以上体格が良いのだから。それは当然で。
「えっと」
「ほら、私達は基本同種とだけど。ルルシャちゃんは人間なのに、相手が狼さんで。身長差もあるじゃない。求められるまま、答えてると。身体壊しちゃうわよ? 雄が求愛しても、受け入れるか決めるのはいつだって雌だもの。ただ、貴方達の場合。雄同士だから。無理やりされたりとかは、あの溺愛してる様子からそれはないと思いたいけど」
質問に、言い淀んだ。それは他人に、僕とガルシェの性生活の事を聞かれたからではない。未だに、彼と。そういう事をしていないから、なんだか後ろめたい気持ちに駆られたからだ。どうして、そんなふうに思うのか。それは心のどこかで。ずっと性欲の強い銀狼に、我慢を強いていたのに気づいてしまったからだった。相手が待つと、そう言ったのに胡坐をかいて。種族が違うのに。相手にだけ、こちらに合わせて貰っている。対等だとそんな態度をさせて。
僕が質問されて困っている様子に、奥様方は聞いたらまずかったかしらと。申し訳なさそうな態度になっていくのを。そのゴムみたいな皮膚でできた、僕とは違う肌の質感。それで形成される表情を見て。
「実は……」
かなり迷ったけれど。ガルシェの事を。相談する事に決めた。僕達の馴れ初めは軽く、そしてあの家に移り住んでからの事を。そこから詳細を話す度に。神妙な顔つきをする奥様方。マッコウクジラのお婆さんまで、自分の仕事をほっぽりだして。広げていた網を綺麗に片付けると。なぜだか、僕を囲んで。海洋型レプリカントの人達がこれは一大事だとばかりに。頭を悩ませだした。これから村の行く末を決めるみたいに。まるで会議の如く。奥様方が話ながら身振り手振りを加え、お互いの番の事を思い返し。
「番になって、一年近く。常に一緒で。寝床も一緒。よく我慢できたわね……あの狼さん」
「私の旦那。番になる前にまず押し倒して来たわよ」
「私も。そんなふうに口説かれてみたかった。羨ましい。あそこ勃起させながら、俺の子を産んで欲しいとか。情緒のへったくれもなかったのよ。発情期で、思考緩んでたとはいえ。受け入れちゃった私もあれだけど」
「いっそ、脱いでベッドで待つか。自分から押し倒してみるべきじゃないかしら。中途半端だと、また手を引いちゃうわよその感じだと。狼さん」
「いいえ、もう少し慎重に事は運ぶべきよ。タガが外れて。ヤり殺されかねないわ。我慢した分を取り戻そうと狼さんが考えた場合。ルルシャちゃんの身体が持たないわ」
どうしよう。僕とガルシェの話題で。かってに奥様方が盛り上がってる。どうしよう。とても真剣に考えてくれているけれど。どうしよう。恥ずかしい。やっぱり言うんじゃなかった。囲まれた中央で、正座したまま。つい顔を両手で覆う。手のひらに触れた自分の頬が熱い。
がやがやと、奥様方の提案が一つ挙げられると。それはどうなのかしらって、すぐ却下されて。どんどん白熱する会議。お題が。これが僕とガルシェのセックス事情じゃなければ、よかったのにな。
「ふむぅ」
ぴたりと。止まりそうになかった。勢いがそこで静まる。覆っていた顔を上げ、見回すと。奥様方の顔が、僕ではなく。別の方向を向いていて。ある一点。ずっと目を閉じ考え込んで、沈黙を貫いていたマッコウクジラのお婆さんが声を発したからだった。何を言うのだろうかって。誰かが息を呑む。一番の長生きをする。彼女が。どういう判断をするのか。
「ところでルルシャちゃんはどうしたいのか。私は聞いておらんのぉ?」
お婆さんの言葉に。ハッとしたように奥様方が、こんどは僕を凝視する。囲まれている状態で、巨体達に見下ろされると。天井から吊るされているランプからの灯りが遮られ、それで影ができ。ちょっと暗い。えっと、あの。そんな、曖昧な態度で。でも、歩み寄りたいのも確かで。どうするか、困り果てて。銀狼の、こちらを見る。あの時の野獣のような瞳をつい思い返してしまった。
「結局は本人達の問題じゃて。私達にできるのは、初夜の心構えと。その後どうするかを教えてあげる程度よ。それに、狼さんより人の方が。まだ決心がついておらんようじゃしの。焦らずともよい、両想いなんじゃ。まだまだ時間だけはある。ちゃんと話し合えば、気持ちは通じるものよ」
片目だけ開けた瞳。こちらの心の内をどこまでも見透かされていた。迷ってるから相談したというのもあったが。その迷いの根源。僕自身の気持ちを。でも時間、か。あるにはあるが、それは寿命の事を考えると。短いように感じてしまう。だって、ガルシェは。この人達よりも。僕よりも、先に逝ってしまうのだから。少しでも、一日を大切に使いたいと思うのに。それなのに、日々自分達が今日生きるのにせいいっぱいで。いざちょっと余裕ができたら。僕が二の足を踏んで。焦るなと言われて、意識すると。余計に焦ってしまう。本当に、いっそ僕から押し倒すなんて。でもそんな事できるわけがなかった。
恐らくは手が止まって。仕事をしている時間よりも駄弁っていた時間の方が長かったろうか。日が傾きだした頃。ほれほれ、今日は終いじゃ。そう手を叩き、マッコウクジラのお婆さんが。解散だと奥様方を促す。皆、帰って晩ご飯の支度とか。やる事自体は多いのだから。帰り支度は速かった。順番に出て行く中。肩に触れたりしながら僕に頑張ってねとか。励ましであったり、応援のコメントを残して去っていく皆さん。最初なんて結局は勢いが大事よとか。二回目以降。後は慣れるわなんて。全員が帰路について。一人だけぽつんと残されたのもあってか。それで漸く冷静になれた。後、かなり好きかってに。人の事情で盛り上がってくれたものだなと思うも。それでも、僕達男同士であるのに。ああも真剣に話し合ってくれるのだから。そんな部分も受け入れてくれているのが、嬉しかった。
僕も帰らないとな。誰も居なくなった作業場に、そう独り言ちると。立ち上がろうとして、びりびり来る足の痺れで思うようにそれができないで。無様にごろんと床に転がってしまう。大型レプリカントに囲まれた圧で、姿勢を適度に変えるのを忘れていたからだった。
その日に働いた分のお給料が支払われるわけではなく。そこらへんはルーズであって。一週間に一度か、数日に一度。食べられる魚介類とか現物支給であったり、彼らに流通しているお金であったり。この仕事も、自分達の旦那がする漁を支える側面があるから。漁村と全く関係のない僕に、こうして何か貰えるだけありがたかった。
今はもう、昔銀狼から貰ったお揃いのブーツではなくなってしまったけれど。あれはもう直すよりも、買った方が早かったというのもあった。歩きやすいスニーカー。彼らレプリカントの手で作った物であるから、それなりに値がはるのだが。街からの輸入品だ。これも、ガルシェからのプレゼントだった。
新しい環境において。僕が自分で揃えれた物など、どれだけあるだろうか。本当に、ともすればあの街で暮らしていた時よりも。生活を依存しきっていて。申し訳なくなる。自分で稼いだ経験が少しはあるから、なおさらだった。
自転車を押しながら海が見える海岸沿いを歩く。別にすぐに乗って、そのままかっ飛ばして帰っても良かったが。それをするとまだ痺れが取れない足を酷使するのと、家の玄関で息を暫く荒らげる事になるというのもあるのだった。基本下り道なので、上りとなると。行よりは帰りの方がしんどい。もう少し低い位置にある家の方が良かったが。銀狼の身長と、雌鶏であるアーサーが窮屈に感じない場所の方が。僕としても良かったというのもある。
猟師さんの一部が、もう帰って来てるらしい。停泊する船が増えていた。さっきまで僕と一緒だった人の一部が、夫を迎えに行く光景。巨体同士が無事を称え抱擁していた。沖で素潜りで網を使って追い込み漁をしたりするので。人間達が使用していた漁船。船自体は休憩と、獲った魚を載せる用に割り切った改造を施されていて。平べったく切り取られ、二つの船の間に板を敷き。巨体の彼らでも数人が乗船できるように。大量の貨物を日々別の大陸に運んでいた大型船が海底に沈んでいて、その内サルベージする計画もあるらしい。同じルーツのクジラやイルカに、仲間だとは思われないようで。お互いに刺激し合わないように、食い場を荒らさないように。しているらしい。当然、本物のシャチに、はたまたサメに襲われたりといったアクシデントも。だから生傷が絶えないのか、漁師さん達の身体は傷だらけなのだった。景色を眺めながら。銀狼の夜の事を考えていた。
できるかな。僕に。というより、したいというのが正しいのかな。してあげたい。しなきゃという使命感めいたものがあった。彼の妻として。ガルシェはこんなにも、僕の為にしてくれているのに。身体で払うというのとは違う。いや、それと変わらないのだろうか。わからない。何かをしたい。報いたい。けど、何も思いつかないのだ。どうすればいいか。こうして、夫婦と。番になる前は。ただ助けてあげたい、少しでも良い物を食べさしてあげたい。身なりを綺麗に、彼が幸せになれたらなって。そう思って行動していたのに。
いざ番になってしまうと。何も変わらない。それまでと一緒じゃんって。思っていたのに。こんなにも違う。ガルシェは、僕と一緒にいるだけで幸せだと言ってくれて。でも僕はそれだけじゃ、どんどん自信を無くしていく。いつ彼に飽きられ、捨てられやしないかと。不安になっていく。といっても、そうされて。彼一人。あの街に戻ってくれるなら、僕は使い捨てられても良いって考えも頭の片隅にあるのも事実で。唯一、胸に刻まれた烙印が。もう例え戻ったとしても何もかも遅いのが。どうしようもないぐらい、あの男は取り返しのつかない事をしてくれたのだった。僕だって、この命を全て彼に捧げるだけの覚悟が必要で。それはあると、即答できる。もしも、銀狼を助ける為なら。銃を向けられたりだとか、そういう意味でなら庇うつもりで前へと歩める。そう言い切れる。だが物理的に彼のを受け入れるとなると、怖気づくのだから。自分の感情って不思議だ。咬まれたり、爪で傷つけられたりとかなら。気にしないのに。
世の女性の方も。もしかして彼氏とそういう事をする時。怖いなって思って。踏み込めないままで、いたりするのだろうか。子供を目的にするのではないのだから。極端な話、しなくてもいい。感情を抜きにすれば。僕達は同性であるのだから。必要のない行動だ。そう割り切ってしまったら。けれど。
自転車を押したまま、ただ歩いているだけだが。考え事をしたままであったから、随分と村の中を歩き続けてしまった。もう村の領域から出てしまう。そこで、二人の人影があった。村の外側。一人は、黒と白のツートンカラーで。大柄な体躯と猫背だから流線形の後ろ姿はより丸みを帯びている。突き出た背ビレ。シャチの人だった。今日一緒だった仕事場の人とは違う、肌に傷があるし。大きさも一回り小さい。それでもデカいが。猫背になっているのは、自分よりも背の低い者を相手してるからで。毛皮を纏った、レプリカント種が対面に居て。背には、大量の荷物を背負っていた。僕が背負ったら潰れるぐらいのをだ。いで立ちと、余所者を追い出すみたいなものではなく。シャチさんの纏う雰囲気が違うから。商人と、それを利用しようとしてるんだなって。遠目からでもわかって。距離が近くなれば、自ずと聞こえてくる話し声で。そうなのだと確信が持てた。
「これが欲しい、いくらだ」
「んー、これぐらいかな」
電池とか、タイミングよく売ってたら。僕も利用したいが。今朝、夫に出掛ける前に頼んでしまったので。もしもせっかく苦労して見つけてきて、僕が既に持っていたら落胆したりするだろうと。またの機会でいいやって。そう都合よくあるものでもないし、腹時計が正確な彼らレプリカントの人には需要もなかったから。そのまま通り過ぎようとして。目に入った光景に、立ち止まる。シャチの人が手渡そうとした金額と。商人さんが代金の代わりに渡そうとする商品を見てだ。
「ちょっと待ってください」
大袈裟なぐらい、驚く商人の人。そして、訝しむように。シャチの顔が警戒心を露わにする。確かこの子は、見た目では年齢とかそうだとわからないが。まだ若いシャチだった筈で。あの仕事場に居たシャチの女性。その息子さんだったと記憶の中から。そう多くない村人の家族構成を思い返していた。
「なんだね、君。商売の邪魔をしないでくれるか。それも、人間がこんなところで。君達のシェルターに帰ったらどうだね」
邪魔者が来たと、露骨なまでに。商人としてあまりにも愛想のない顔をする。というより、こちらに嫌悪を向けて。そのレプリカントの男性。見過ごしても正直僕は関係ないと言えたのだが、ただ隣に居るシャチの子。というよりその子のお母さんには大変お世話になっているので。そうできないでいた。つい首を突っ込んで、余計な事を言う僕の悪癖がまた出たと言えたけれど。自転車を置き。商人さんの前に。というより、シャチの子を庇うようにして。前に立つ。そうされると、まるで状況を理解していないのか。庇われたシャチの表情も、あまり歓迎してはいない。隠れきれてもいないし。
「それ、いくらで売ろうとしていますか。僕の記憶に間違いがなければ、かなりふっかけてますよね」
商人と、後方に居るシャチまでも。僕の発言に驚く気配をさせた。あまり物の価値について詳しいわけではないが。ユートピアで暮らしていた短い時の中で。必死に覚えた事が役に立っていた。おばちゃんのところで働かせてもらった経験と、日常的にガルシェの食べる物を今日は何にするか考え。市場で買っていたからだ。やってきた事は、どういう形で、花開くか。わかったもんじゃない。だからこそ、無駄なんてものは。何一つないのだった。目覚めてから、一年半かな。そんな心持たない人生経験でも。そう思えるのだから。
動揺したまま、急いでシャチの子が差し出したままの料金を受け取ろうとして。ぐっと黒い手が握りこんで、それがなされる事はなかった。逆に商品は既に、商人の手にない。シャチの手の中だ。
「なにを根拠に。人間なんかに、私達の物の価値がわかるとでも。そう見えたのだとしても、ここまで運ぶ私の労力もある。正当な額だ。なめるなよ、毛なし風情が」
動物の顔をして、ぐるると唸ると。爪のある手が、振りかぶる。怒りに染まった瞳で。こんな状況で、冷静に相手の予備動作を見て。困ったなって。そんな感想を。本気で動かれた場合、レプリカントの人に僕が敵う筈がない。間合い的にも、大きく後ろに飛んで。避けないと間に合わないだろうか。でもそれをするには、後ろに居るシャチの子が邪魔であった。しまった、位置取りも失敗した。武芸など習っていないのだから、自分の逃げ道を確保するのを忘れていたのがいけなかった。死なないとしても、怪我をしたらガルシェに怒られてしまう。本当に困った。できれば、あまり痛くないようにして欲しいけれど。それも無理そうだった。かなり商人さんは怒っているのだし。いまさら手心を期待するのも遅い。狙ってるのが顔であったから、僕の皮膚をズタズタにしながら。最悪生皮を剥がれてしまうだろうか。熊の張り手で、顔が抉れたなんて逸話を思い出した。相手は熊ではないけれど。荷物を背負って旅をする移動商人だから、かなり鍛えている。自然に身に付いたものだろうけれど。ガルシェみたいに、戦う為の身体でないとしても。首の骨、折れないように上手く受け身がとれるだろうか。そういうのは、受ける時に上手く身体を同じ方向に逃がすんだっけ。ああ、わからない。もう少しちゃんと、銀狼に習うべきだったか。護身術とかそういった類のを。
鋭利な爪を立てた手が、こちらに勢いよく迫る。ごめん、ガルシェ。最後に浮かんだのは、そんな謝罪の言葉だった。
「なんかよくわからねぇけど、そこまでだ」
鈍い音がして、だが痛みは訪れない。つい目を瞑っていたから。ゆっくりと開くと、視界が黒い。あれ、いつの間に夜に。いや、違う。黒い物体が至近距離にあるからだ。そして、ぽたぽたと。何かが垂れる音。目線を下げると。僕の足元に赤い液体が。ぽたり、ぽたりと。レプリカントの一撃を受け止めたのは僕の身体ではなく。背後で事の成り行きを見ていた、シャチの子の。腕だった。ただその防水性に優れる皮膚は、相手の爪によって。引き裂かれた傷ができ。傷口からどくりどくりと、血を滲ませて。
「どっちが正しいかなんて俺にはわからねぇけどよ。暴力沙汰にしたからには、生きて帰れるなんて思うなよ。ここは俺達の縄張りだ」
痛がるでもなく低い男の声が、脅すように。だが、当然のルールだとばかりに。告げられる。商人さんの顔が怒りから恐怖に変わり。その視線が、僕の後方に居るシャチだけではなく。キョロキョロと、違う方向を見ていた。どうやら、騒ぎを聞きつけたらしい。他の住民が遠巻きで見ていたのを。仲間が怪我をしたのを機に、だんだん寄って来たらしい。指を鳴らし。これから始まる闘争に。わくわくしているのか、残忍な笑顔を浮かべている人まで。喧嘩、好きだよね。ここの人達。というより、男の人限定かな。余所見をしていると、同じ恐ろしい顔を見たのか。ひぃ、って情けない悲鳴が聞こえた。自分よりも大柄な人が、それも複数。全員古傷だらけだったから。より恐怖を煽ったみたい。実際、対象から外れている僕も怖かった。ただこの時ばかりは頼もしいと感じる。でも血をみたいわけではない。この商人さんがボロ雑巾のようになってしまうのは本意ではなかった。が、僕が怪我をしたのなら。別に良いよってこれ以上事を荒立てる必要はないと。間に入るのに。怪我をしたのは僕を庇ったシャチくんだ。この場合、それをしたら僕ではなく彼に。僕のエゴで我慢を強いてしまうのだった。上手く場を納めたかったのだけど、既に僕の手の届く範疇を越えていた。
「お、お前ら。わ、私に手を出してただで済むと思うなよ。ゆ、ユートピアの連中が黙っていないぞ。もし私の身に何かあったら、戦争だ。この漁村程度、一夜にして滅ぶぞ」
ざわ。怖いもの知らずだと思っていた漁師さん達が、商人の口から出た街の名にどよめく。こんな辺鄙な場所にあり、あの街なで結構な距離があるというのに。その名が知れ渡っており。そして一定の効力を発揮したのに僕だけ別の意味で驚いた。勇んで出てきた皆が顔を困惑に、どうするよってそんな相談を始める。喧嘩はいいが、戦争をしたいわけではない。いわば過激だが遊びの延長だったのだから彼らにとって。自分達だけならまだしも、妻や子供の命まで巻き込む気はないのか。近寄ってきていた漁師さん達の歩みが、一定のラインで停止する。
「ふ、ふん。私とて、街の名を使うのは嫌だったのだが。しかたない。そこのシャチ。人間など庇うからそうなるのだ。異種族など。高くついたな。売る気も失せたが、このままおめおめ引き下がるのも我らが市長殿の顔に泥を塗る。先程の値段の二倍。いや、三倍で買うというのなら私も見逃してやろう。でなければ……」
きっと一対一なら、ユートピアに所属する軍人にも勝てるとは思う。これは僕の憶測だが。生半可な銃弾も爪や牙も、致命傷を与えられないのなら。陸の獣の特徴を持つ彼らには不利だ。だが彼らは軍人だ。武器も銃だけではなく多岐に渡り、そして何よりも脅威なのは統率の取れた集団という力だった。徒党を組んだ、言ってしまえば烏合の衆など。商人が言うように、一夜でこの村程度滅ぼすなんて容易いだろう。人間が使っていた技術もかなり保有しているのだし。事実なら、漁師さん達が無茶をすればとても不味い。仲間意識の高い彼らなら、そしてあの市長さんが。舐められたままで放置はしない。見せしめの意味も込めて必ず報復に来る、それは断言できる。
シャチさんの悔しそうに歯噛みするのと、村の皆の動揺する様子を見て、商人の男は勝ち誇ったような態度を取る。ただ、僕がその顔を見て思ったのはよくまわる口だなって。商売人なのだからアドリブは得意なのであろうな。そしてそういうふうに、話の方向性が向かうんだなって。冷静に思考を続けた結果。導きだした結論は。
そっか、そう脅すんだ。……よかった。
そっとこの場に置いてとても無力で、蚊帳の外に追いやられそうになっていた人間が手を上げる。まるで、何かに立候補するみたいに、それはそれは綺麗な挙手を心がけた。
「だとしたら。話が早くて助かります」
一歩、前へ出る。胸を張って。虚勢は大事だ。この場に置いて、僕の手札なんてたかが知れている。だがそんな僕の事情など。誰が知っているだろうか。商人。村の皆。庇ってくれたシャチくん。いったい誰が、どこの馬の骨とも知れない人間一人をそこまで気にするだろうか。こんなレプリカントの漁村に、居るだけで珍しいからと悪目立ちはするだろうけれど。
安堵の表情をしながら、そして次に愛想笑いを。商人の前へ進み出る。さっきよりも間合いは近い。もしも同じ事をされたら、まずシャチくんもこんどこそ庇えない。二度目はそうしてくれないと思うし。まだでしゃばってくるのかこいつって、そんなわかりやすい顔をして。毛無しと僕を罵った、お世辞にも綺麗ですねと言えない毛皮があるマズルが深く皺を刻む。それは毛皮持ちのレプリカントの人に関してだけ、かなり僕の目が肥えているのもあった。
「申し遅れました、僕はルルシャと申します。その我らが市長さんの、知り合い。というか義理の親みたいなものなので、僕の名前をお出ししてくれれば伝わると思います。銀の被毛を持った狼は、当然、ご存知ですよね。ユートピアでただ一人だけ。市長のご子息です。そして、僕の番です」
言葉をつらつら紡ぐ程に、面白いぐらいに商人の口が開いていく。そして、連動して垂直に立っていた一対の耳も角度をつけ。倒れて。
「あ、証拠が必要ですよね。すみません。必要であれば書面にもサインしますし。僕の血でも、服の切れ端でも、髪の毛でもかまいません。どうぞ持っていって下さい。きっとにおいは嫌というほどに記憶してもらっているはずですので。市長さんが嗅ぎ間違える事はないと思いますし」
そう、嫌と言う程に。僕もよくまわる口だな、この人の事言えないや。誰かを騙す時、嘘の中に本当の事と。今すぐ確かめられないものを混ぜるといいって。どこかで聞いた事だけあるけれど。それも、脳に印刷するみたいに焼き付いた記憶なのかな。
付け焼き刃でどこまで通用するかは正直わからなかった。博打の要素が多いけれど。この商人の反応からして、あまり腹芸は得意そうではないなって。今もなお推し量っていた。
男の顔に向けて、手の項を差し出す。まるで自分の騎士に姫様が口付けを所望するみたいに。別にそういった意味合いじゃないのだけれど。僕の意図を汲んでくれた商人は。マズルを寄せ、その緊張に乾いた鼻を舐めて濡らしながら。すんすんと、かなり長い時間。それもなんども慎重に嗅ぐ。
「は、えっ。なん、で。へっ?」
あるのだ。別に印鑑とか、そういった物ではなく。彼ら陸の者だからこそ、言葉以外で示せる。証が。毎日寝床を共にし、必要以上にマーキングされている。とても色濃く残っている。雄の狼の残り香。最悪銀狼のだとわからなくても、こんな狼の居ない辺境にそれがあるだけで。身に纏っている僕が居るだけで。漁村の人達には通じないけれど、眼前の男にだけ通じる絶対的な物。
「あ、大丈夫です。僕もこれ以上事を大袈裟にしたくないので。正当な金額でお取引をして頂ければ、それで良いのです。市長さんも、誰だろうと公平にと。常に厳しくしておられましたから」
先程まで漁村の連中を見て怖じけづき、そして勝ち誇った顔をしていたのに。取るに足りない、いつだって簡単に。暴力を行使すれば言いなりにさせられる人間相手に。見るからにひ弱な僕なんかに。一番、男は怯えた態度を見せた。
この商人の言葉を借りるなら、そうだな。
「今なら、見逃してさしあげますよ?」
あの灰狼の、人を小馬鹿にしたような。とても悪い、悪い顔の真似をする。今の僕はとっても悪い狼なのだ。隙を見せたら食らいつく。尾があれば獲物が前にいるとばかりに優美に振り。舌なめずりだってしようか。この場に鏡がないのがとても残念だ。普段、あまり悪感情を刺激するような表情はしないから。不得意なのだけれど、上手くできているだろうか。
その評価を訪ねたいけれど、数歩商人がどうしてか後ろに下がって。逃げる気配をさせた。僕じゃ走る相手を捕まえられないし。このまま逃げてくれても、それはそれで良かったのだけれど。それとは別に足音が複数聞こえてくるのに気づいた。どうやら空気を読んでくれたのか。逃がさないように周囲を囲む漁師さん達。これは願ってもない加勢だ。ちょっと楽しくなってきたし。場違いだと思いながらも止められないそんな高揚感。僕なんかが怖がられる体験はなかなか貴重だというのもあった。
本質的に、あの市長さんと僕って。実は似ているのだろうか。一緒にされたくは、ないな。恩はあるけれど。もしも本当にこの男が述べた。聞く限り嘘八百な感が否めないそれらが事実だとしても、市長さんの元を訪ねたとして。暇ではないのだから取り合ってくれないか。僕のしたかった事を察して、それなりに対処してくれるだろうという信頼はあった。商人がふっかけていたのは本当で、僕が市長さんと知り合いというのも本当なのだから。僕なんかよりもずっと賢いし、あの人。腹黒いし。身内には優しいけど。
ううん。今の僕がしている顔。ガルシェには見せたくないな。幻滅されそう。そこまで性格事態は今までそう偽ったりしていないけれど。わりと思った事はずけずけ言うし。場所を問わず。それで、今も正にこんな厄介事に首を突っ込んでいるのだが。そんな今は居ない夫の事を考えながら。包囲を狭める漁師さん達の呼吸に合わせて。
「で、どうします?」
「ひぃぃ!?」
僕ってやっぱり、性格悪いよね。
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