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最終章

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 崩れた女神像の前で跪き、どれくらいの時間が経過したのか。肌を撫でる寒さがひりひりする。祈る為に揃えた手が、がくがくと震える。足りない栄養。身体を温めるのに消費されるエネルギー。ここまでだった。これ以上は進めない。進む理由もない。どんよりとした、絶望が満たす中。
 チャ、チャ。
 瞑っている目。背後からする、野生動物であろうか。カギ爪が大理石でできた床の上を歩く音。チャ、チャ、チャ。弾むようなステップ。こんな機敏な動きを想像させるそれが。のっそり歩く、六足蜥蜴さん達ではないのは明らかで。とすると、僕の背後でまだ距離があるけれど。こちらの様子を窺っているのは、涎を垂らした肉食動物だろうか。冬で獲物があまり獲れなくなったのに、僕という。痩せこけているけれど、ご馳走が無防備にも蹲り。逃げようとしないのだから。罠かと警戒しているのか、まだこちらには近づいてこない。彼、はたまた彼女か、もしかしたら今日という日に女神様に感謝している真っ最中かもしれない。こんなお肉を用意してくれてどうもありがとうと。
 怖い。背筋が恐怖にぞわぞわする。嬉しい、やっと僕の死がやって来た。まだ誰かの糧に、役に立てる。悲しい、もう会えない。虚しい、誰も僕の断末魔を聞いてくれない。
 大理石を叩く音が、近づいて来る。来た、来た、来た。やっと来た。もう、すぐ後ろ。襲わないのか、まだにおいを嗅いでるのか。足音が背後から横、そして前へと。なるほど、動かないのだから正面から首を狙う気なのかな。なら次に来るのは衝撃と、後頭部を強打しながら首を締め付けられ。鋭い牙が頸動脈を裂くか、窒息に苦しむかの二択だろうか。正直、痛いのも苦しいのもごめんだが。もう少し、もう少しだけ、我慢をすれば。頑張れば、それで終わる。終われるのだから。もう悩みも、苦しみも、こんなにも悲しく寂しい気持ちともおさらばできる。
 ようやく、レリーベさん達の気持ちが。少しだけ理解できた気がする。こんな悲しみを抱えながら、死にたいのに死ねないのだから。生きていて欲しいとその人達の事を思いながら、そうしてきた僕自身が。真っ先に命を投げ捨てようとしているのだから。本当に、人生ってどうなるかわからないな。こうして悠長に考え事ができるぐらいには、目の前に居る筈の捕食者はまだ僕を品定めしてるのか。襲い掛かってくれない。焦らしてくれるものだった。
 だからか。怖いもの見たさで、その凶悪な風貌を。恐ろしい獣の、飢えた顔を見てみたいと。僕を食べる、その顔を。
 目と目が合ってさらに数秒経過して。僕が何も言わず、固まったままなのに。向こうは不思議に思ったらしい、鋭いカギ爪で床を叩き。翼を広げ、ばさばさと軽く羽ばたくと。嘴を開いて。
「コケー!」
 そう鳴いてみせた。どうしてか、血に飢えた獣ではなく。鶏がいた。僕の目の前に。首と、胴体に細いベルトを通されて。背中から落ちないように小さなポーチを固定された。不思議な鶏。よくよく見ると、その鶏はとても薄汚れいて。元は白かった羽毛が泥や煤で、灰色や茶色になって。羽の先が少し、痛んでいるのかぼさぼさに。いやに記憶の中にある鶏より、ずいぶんと大きな鶏であったから。それは肥えているだとか、そういった意味ではなく。全体的にスケールアップしてるという意味でだ。雄鶏なのかなって早合点したのだけれど。雄の特徴としてある鶏冠が小さく、その子が雌鶏なのだと察すると。ここに居る筈もないのに、他人、他鶏の空似かもしれないのに。からからに乾いた喉から出た、とてもかすれてしまった声。まるで自分の声じゃないみたいだった。でも聞かずにはいられなかった。
「君、アーサー?」
「コケッ」
 普通は、こちらの出す声に。意味を理解してないけれど、ただそうすれば喜ぶとわかっているから。条件反射的にする行動ではなく。元気よく片翼をまるで手のように上げて返事してくれる、雌鶏さん。記憶の中にある、とても賢い雌鶏にとても酷似しており。けれど、本当に。心配になるぐらい、ぼろぼろになった姿に。祈っていた手を解こうとして、指がなかなか離れない。凍り付いてしまったかのように、関節が動かなかった。片膝だけ床に付けていた状態から、両膝を床に触れさせ。苦労して解いた両手を広げると、雌鶏さん。アーサーが胸の中に飛び込んで来るから。そのまま抱きしめると、目を瞑って頭を擦りつけ。両翼がお返しにと、僕を抱きしめるように添えられる。
 彼女がここに居るなら。だとしたら、とても重い身体。大きな雌鶏を抱えただけではない、その身を気力だけで立ち上がらせ。半分壊れて閉まらなくなった扉の方に振り返る。必死になって。探してしまう。
 居ないで欲しい。来て欲しくない。誰も、そこに立ってくれて欲しくないのに。どうして、君が。そこにいるの。
 その男は、中に白いTシャツ。その上に黒いレジャージャケットを。下に履いている青いとてもくたびれたジーンズは、膝の部分が破けすぎて。ダメージジーンズと言い張るには、ちょっと躊躇する。履いている靴は登山用のとてもゴツいブーツだが泥だらけで。背には、旅用のだろうか。僕のよりも大きなリュックサックと。その上部分には折りたたまれロープで固定されている、テントであろうシートの塊。こちらに金の瞳を向け不敵に笑っているのは、人間のそれではなく。狼の顔をしていて。同じように、彼の後ろでは大きな尻尾が垂れ下がっていた。見上げるぐらい背が高く、身長は二メートルはあろうか。扉の縁に立ち上がった耳が触れそうだ。全身を覆う銀の毛皮。それでも覆い隠せない鍛え上げられた筋肉を窮屈そうにさらに服で覆っているのは、彼らレプリカントと呼ばれる。種族の特徴で。僕と同じように喋り、考え、感情を持った。動物的特徴を多く残しているけれど、彼らもまたもう一つの人類だった。
 鋭い牙が生えた口を開き、男性の、低いボイスが。冷やされた空気を温め、目に見える吐息と共にそこから零れだす。
「探したぞ。ルルシャ」
 男の声を聞いて、表情を変えぬまま。抱えた雌鶏。アーサーを床に優しく下ろす。
「なんで、来たの」
 僕のそんな、気温と同じぐらい冷たい声音になった問いに。苦笑いをした、狼の顔。片耳を倒し、不安気に尾を揺らす。駆け足で飼い主である、銀狼の元へとアーサーが走り。そうして、男、ガルシェの後ろに回ると。脹脛に体当たりしていた。まるで早く行けとばかりに。その程度では、男のしっかりした体幹は揺れもしないのに。
「ご挨拶だな。ルルシャ、かってに出て行ったくせに。どれだけ俺が探すのに苦労したか、知らないだろ」
「頼んでないよ。帰って」
 そんな苦労話をしに来たのなら、早く回れ右して。帰って欲しい。一人にして欲しい。だというのに、ガルシェは。どれだけ僕が冷たい態度を取っても、立ち去ってくれない。くれようとしない。
「アーサーなんて、ルルシャのにおいがする蜥蜴の家族に戦いを挑んで。危うく食われそうになったんだぞ。おかげでにおいを辿ってたから、随分遠回りしちまった」
 それは、もしかしたら。あの一夜だけ寝床を共にした。あの蜥蜴さん達の事であろうか。というか、肉食だっんだ。正確には野菜も食べるから雑食だろうか。どうして、食べられなかったんだろあの時。たまたま満腹だったというわけではないと思うのだが。まさか同族とでも思われていたのだろうか、姿形はこんなにも違うのに。それだけはないだろうか。運が良かっただけか。
 だが、今の問題はそんな事ではなく。目の前に立っている男であって。本当に、どうしてこんなところまで、追いかけてきてしまったのだろうか。僕を。僕なんかを。一番放っておいて欲しい相手だというのに。これでガカイドだったら、文句を言いつつも。何やってるんだよって、約束はどうしたのって笑えたのに。どうして、君なんだ。
 そう考えていると、ちらりと見えた。男の鋭い犬歯が片方欠けていた。いつも、いくらずぼらな彼であっても。朝磨く時、とても念入りにしていたというのにだ。
「ガルシェ、牙。それどうしたの」
「ああ、お前の熱烈なファンから。ちょっとな」
 自身の頬、牙が折れた方側を撫でながら。何てことないように、男は肩を竦める。理由は教える気がないらしい。要領を得ない、そんな言い分に。何それと。それならば、それで、僕もどうでも良かった。早く、来た道を戻れと。言う以外にないのだから。こんなところに彼が居て良いわけがない。
「どうして、何も言わずに。俺の家ですらなく、街から、出て行ったんだ」
「そんなの、君には関係ないでしょ。良いから早く、帰ってよ、帰れよっ!」
 関係ないんでしょ。どうでも良いじゃないか。そっとしておいてよ。もう放っておいて、構わないでよ。顔も見たくないと。痛い喉を酷使しながら、叫んだ。だというのに、一瞬だけ驚いた顔をした男は。次に、どうしてか優しく微笑んでいて。なんでそんな顔するの。僕はこんなにも、君に酷い態度を取っているのに。酷い事いっぱいして来たのに。
「ルルシャの、そんな言葉遣い。初めて聞いた」
 面白いとばかりに、肩を揺らす相手に。僕の感情を逆撫でてゆく。ささくれ立ったそれらを。尾まで揺らして。本当に、何しに来たんだよ。帰って、帰ってよぉ。
「じゃあ、俺からも言わせてもらうけど」
 すぅ。目を閉じて大きく男が息を吸う。肩が、胸が。筋肉に力を入れたのか。普段よりも膨れ上がり。そしてカッと次に目を開いて、片方が欠けた牙と言わず歯茎を剥き出しに。狼が、吠えた。
「じゃあなんで、なんでそんなにも。俺と会えて、嬉しそうなニオイをさせてるんだよっ!」
 怒鳴られた。ガルシェが、怒鳴っていた。憤怒に、僕を喰い殺さんばかりに。顔を歪めて。胸を押さえて。苦しさに、吠えていた。対して僕は、足が一歩後ろに下がって。もう一歩、彼から距離を取ろうとしていた。逃げ出そうとしていた。怖い、あの銀狼が怖い。まるで全てを見透かしているかのような。
 そんなわけない。嬉しいわけない。そう思ってはいけない。帰って欲しい、あの街に。それは僕のなによりも、一番の願いの筈だ。
 怒り顔の狼は、肩までも怒らせ。ずんずんと、歩みも荒く。こちらへと近付いて来る。助けて欲しくて、女神様の元に縋ろうとして。そうするよりも早く、男の大きく毛むくじゃらの手が。僕の手首を掴んだ。とても力強く、握られて。振り解こうにも、今の僕の弱った身体では。いいや、元気であっても無理であっただろうか。
「放して、ガルシェ。放してよ、やめてよ」
「嫌だ! でないと、お前はまた。俺の見えないところに行くんだろ」
 そうだよ。だから放してよと、それでも抵抗をする。だが、そうすればする程に。目の前の迫る狼の顔が、悲しそうに変わっていく。それは、抵抗してるつもりでも。あまりに力が弱々しい人の弱り切ったそれのせいか。それとも、近づいて初めて。僕のズタボロな姿に心を痛めているのか。わからない、わかりたくもない。それだというのに、表情だけで。僕には彼の今感じた気持ちをわかってしまえて。とても、素直だったから。ガルシェは、感じたままを。態度に、表情に出すから。一緒に暮らして、学んだ仕草の数々で。だいたいは言わなくてもわかってしまうから。だからそれで、より。本心から心配する気持ちを感じて。嫌だった。
 だから、放してよと。声まで弱々しくなっていくと。引き寄せられて、捕らわれてしまう。男の胸の中にだ。本当に止めて欲しかった。こんな僕に優しくしないで。
「好きだ」
 暴れる僕を止めたのは。狼の抱擁でもなく。胸からする、獣臭さでも、煙草の臭いでもなく。こんな寒さの中でも、感じる温かさでもなく。とても短い、たった三文字だった。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「それは友達としてでしょ」
「違う」
「なんでわかるの。ずっと、はっきりしなかったくせに」
 ぐっと、男が言葉を詰まらせるのがわかった。ほらね、僕は知ってるんだから。君の優柔不断なところも。だってそうだろう。彼の足でなら、その日の内に、気づいて追いかけていれば。二日もかけず。追いついていただろうに。それをしなかったのは、迷っていたからだ。どうするか、悩んでいたからだ。どうせ、また誰かの言いなりで。そうしたんじゃないの。自分の意思ではなく。だってずっとそうだったじゃないか。君は。僕がわからないとでも思ったの。君がにおいで、僕の心の動きがわかるなら。僕だって、君の事はなんでもわかるんだよ。見くびらないで欲しい。また人を馬鹿にするの。そんなつもりは、相手になかったとしてもだ。
 彼の安心感を感じてしまう、最初は嫌悪したそんな体臭に。今だけは嫌気がさす。きつく抱きしめてくる、男の腕が鬱陶しいとすら思う。もう、あまり歩くのもしんどいのに。ここから、彼から離れるのに。また歩かなければいけないじゃないか。何も言えないで、ここまで来て。俯いて、しょんぼりして。自分だけ傷ついたって顔している狼を置いて。こうなるとわかっていたから、来ないで欲しかったのに。
「確かに俺は、数日。動けないでいた。だって、ずっと一緒だって約束したお前がいないんだ。また家族に捨てられたって思ったら、動けなかった。でも俺は、親父にも。お前にも、捨てられたわけじゃなかったって。わかったんだ、わかったんだよ。ルルシャ」
 俯いて、狼のマズルが僕の耳元近くで。そうすると、この環境において。狼の湿った鼻は、ひんやりし過ぎて。触れると辛い。ずるりと、耳元でそんな鼻を啜る音をさせないで欲しい。
「だから、俺は決めた」
「何を決めたっていうの。いまさら……」
 本当にいまさらだった。今になって、何を言うの。また僕を自己本位なまま傷つけて。隣に居ろって言うの。生き地獄を味合わせようとするの。連れ帰って、君が番と幸せになって。子供を作って、嬉しそうに報告する。そんな姿を、ただ眺めて。良かったねって、祝うのを強要するの。それを願ったのは僕だけれど。だからと見たいわけではない。素直に、心から、他人と君の幸福を祝福できるほど。僕は人ができていない。だから、放っておいて。自由にしてよ。解放を。
 ゆっくりと、男が。僕から腕を解いていく。別にそれで、自由になった身体に。逃げても良かったが。少し距離を離すと、ガルシェは。突如、自分の服をたくし上げていく。露出する男の綺麗に割れた腹筋。毛皮があるというのに、ちゃんとそれとわかるぐらい鍛え上げられたそれ。どうして今。見せるの。だが男の手はそこで止まらなかった。服を掴んだ腕はどんどん上へと、持ち上がり。片方の胸まで、女のように張り出した。けれど力を入れるとガチガチに硬くなるそれがぼるんと飛び出て。息を呑む。
 あってはならないもの、本来あるものがなかった。彼の左胸だけ、毛が焼かれ。剥げていたからだ。そして、その火傷の痕はどこか。ミステリーサークルのように、毛皮という畑を倒し、耕し。何かの形を成していたから。僕は知っていた。でも認めたくなかった。そこに、よりにもよって。ガルシェにあってはならないものだったから。
 その、烙印が。二度と、番を得る資格を剥奪された雄に押される。不名誉な証が。思わず手で口を押える。自分が死ぬ時に感じたものよりも、ずっと恐怖を感じた。足が震える。
「なんで、それが。ガルシェに。なんで」
 あってはならない。だってそれは。君の。なんで、なんで。どうして。ガルシェ。
「これは。俺のケジメだ。ルルシャ」
 はっきりと言われて。それが、自分の意思で施されたのだとわかった。それをしたからって。ああまって、そんな。そんな取り返しのつかない事を。彼に選ばしたというの。僕が、そうさせたというの。また僕に、罪を背負わせようというの。その為に、ここに来たの。それを言う為に。だとしたら、あんまりじゃないか。
 だめだ、君に。お父さんだってそんなの望んでない。僕だって。どうしてそんな早まった事を。
「俺は二度と。雌を抱けない。でもそれで、俺は後悔してない。それがなぜか、わかるか。ルルシャ」
 わからないよ。どうして、なんでもわかると思いあがったら。一瞬で、目の前の男の思考がわからなくなった。どうしてそんな事するの。そんな酷い事。ごくりと、狼の喉が鳴る。これから、もっと凄い事をしてやろうかというように。決心した顔をして。けれどまるで怯えているかのような。そんな彼の子供っぽい顔を見ていると、今すぐにでも走り出したい衝動を抱きながらも。できないでいた。目つきだって鋭く、相手を威圧させるもので。その身体もそれに一役買っているだろう。成人男性であるのにだ。とても怯えた、子供のように思えた。こんな人間相手に、どうしてそんなに恐れているのか不思議だった。
「ルルシャ、俺と」
 目の前で跪く男。そうして初めて。普通に立っている僕と視線の高さが合う。ズボンのポケットから、小さな箱を取り出すと。どうしてか、ガルシェは僕へとそれを差し出す。手のひら、肉球の上に乗せられた。男の身体からすると不釣り合いな小さな箱。
 もう一つの手で、箱を覆うように被さると。ぱかりと、蓋をこちらに見えるように開けて。そうして。
「俺と、結婚しよう。ルルシャ。俺と、本当の意味で、家族になって。なってください」
 とても逞しい目の前の、誰にも負けない。強い強い狼は。僕なんかに跪いて、とても自信がなさそうな表情で。怯えた尾を震わせ。不安が伝染した耳を倒して。そう、縋るように。言っていた。最初、目の前の男が。何を言ってるのか、理解できなかった。どうして、男の僕なんかに。求婚しているのか。
 廃れた教会で、頭のない女神像の前で。狼の男は、人間相手に。そして、男であり。同性である僕に、婚姻を申し込んでいた。シチュエーションとしてはこれ以上ないぐらい完璧で、だというのに、僕の荒れ狂った心を射止めるどころか。
「そんな、烙印を。消えない、取り返しのつかないものをひっさげて。言うのが、それ?」
 落胆に。僕は、冷ややかに。男を見ていた。どうしてかは明白だ。そんなふうに、断れないように。僕が責任を感じるようにされて。それで、受け入れて欲しいだなんて体をしながら。この男は、それ以外を選ばせないようにしているのだから。そんな酷い、あんまりな。番とだけそれらしい事をしたいと夢見て、ロマンチストだと思っていたこの男が、ロマンチックのからかけ離れた。惨い事をするのだから。
「なにそれ……」
 酷いよ、本当に、酷いよ。君は、酷いよ。断れないじゃないか。彼のお父さんに、今は亡きお母さんに。申し訳が立たない。どうして、そんな事を簡単にしてしまうの。あんまりだ。僕の態度に、びくりと。巨体を震わせる。もう少し、強く拒絶すれば。この男は泣き出すだろうか。
 切羽詰まると、考えるよりも先に身体が動いてしまうから。でもまさか、そんな。これからどうするの。そんな事をして。消えないんだよ、簡単に。また何年もかけて、君が年老いた時、やっと消せても。それじゃ遅いんだよ。ガカイドは、運が良かっただけだ。あんな都合よく、たまたま市長さんも。救いたいという心がなかったら。
 息子がこんな過ちを犯して、怒ってないわけがなかった。今、もしも彼の要求を呑んで。街に帰っても、僕が待っている処遇は処刑だけであろう。そんな、誰も救われない。求めていなかった選択肢を。暴走した銀狼が取るだなんて。また、僕は。取り返しのつかない事をした。させてしまった。そう、頭を抱えたくなる。
「俺は、お前の抱えてるものを知らないし。理解は、できない」
 そうだね。言ってもいないし、君に。僕が誰かのクローンで、中身は空っぽだなんて。言っても理解できないであろう。理解されたいと、はなから思っていないのだから。それは当然で。
「だから俺は、関係ない」
 また、それか。わざわざそれを言う為に。ここまで来たの。関係ないならどうして、追いかけて来たの。うんざりだ、この男には。ほとほと愛想が尽きた。だから、叫んで、跪いた男の頬を叩きたい衝動を、殴りたいその気持ちを。表現しようとして。
「俺は、お前が、誰で、何であっても関係ない。関係ないんだ、だから。ありのままの、ルルシャを、俺は。そんなお前を愛している」
 空っぽの自分に、唯一。誰からも否定されたくない。彼に抱いた、気持ち。あの街の人達に抱いたそれら。僕だけの、僕だけのそれ。これだけは作り物じゃない。たとえ作られた存在であって、何を目的にであったとしても。これだけは、僕の大切な。感情。たとえ記憶がなくても。
「だから、なんどでも言う。俺と、結婚しよう。まわりがなんと言うかなんて、関係ない。俺は、お前だけが。欲しい。俺にくれ、ルルシャの全部を、俺に!」
「本当に、君は。かってだね」
「ああそうだ。今、お前の目の前にいるのは。市長の息子でも。大切な血筋の、銀の毛を持った狼でもない。ただ一人の、なんでもない。たった一人の人間の男に恋した。そんな愚かな男だ」
 冷静に話す僕と。咆哮のように、狼が。胸の内を叫ぶものだから。教会の中に、ガルシェの声が響く。きっと、嬉しい。のだと思う。ぐちゃぐちゃになってしまった、僕の感情に。殴りつけてくるような、彼の気持ちを。畳みかけてくるような、猛攻を。受け流せず。でもどう処理していいかわからず。何が正解か。
「でも、でも君は。僕よりも、早く、ずっとずっと先に死んじゃうじゃないか」
 寿命が。存在していた。性別と同じぐらい、覆らない。レプリカントの、寿命は。人間と違い、二十年程しか生きられない。いや、こうして外で。機械とか野生動物とか、常に命の取り合いをして糧を得て生活している彼らは。その寿命を全うする前に死ぬ方がずっと確率として高い。そして、ガルシェは。誕生日は知らないが、少なくとも産まれて六年の歳月が過ぎている。考えてしまう。たとえ一緒になっても、すぐに。別れがやってくるのだと。考えたくないのに。残されるであろう人の気持ちも考えてよ。
 これだけは、関係なくない。だからガルシェは、言い淀んで。それでも、目を逸らさない。逸らしてくれない。そうだなって、諦めてくれない。小さい箱の中に入ってるそれを。差し出したままを維持して。
 底抜けに明るく、狼は笑いやがった。
「そうだ。俺はルルシャより先に死ぬ。お前を残してな。だから、残されたお前が。二度と、他の男に目移りしないように。消えない傷を、その心に刻んでやる。俺以上に、お前を愛した男なんていないって。そう思わしてやる。発情期の、あの時みたいに。発散できれば誰でもいいなんて感情じゃない。本能が求めてるんじゃない。俺の理性がお前を求めてやまないんだ」
 どこまでも、かってな男だった。かってな言い分を、言ってくれるものだった。傲慢で、独りよがりな愛を示してくれるのだった。
「あ、でも。ルルシャって弱いから。実際はお前の方が病気とかで先に死ぬ可能だってあるだろ? なら、心配するな。すぐ後を追ってやる。俺はもう、お前がいない生活なんて考えられない。ルルシャが、そうしたんだ、そうしてくれたんだ。だから一緒に生きよう。別れが怖いから別れるんじゃなくて、最後のその時まで。一緒に笑って、すごそう。俺の幸せは、常にお前と共にある。お前を幸せにする自信は、正直ないけれど。少なくとも、俺はルルシャが隣に居てくれたら、幸せなんだ」
 どうしてそこで、幸せにしてやると言い切ってくれないのか。本当に自分に正直な男だった。嫌な事は嫌で、面倒くさいとそんな顔をして。家ではぐうたらして。でも、正義感が強くて。誰よりも先に前へと飛び出して。自分の命を顧みず、助けてくれる。ずっと傍に居てくれる。辛い時に寄り添ってくれる。甘えん坊な。ガルシェとはそんな男だった。
 迷いは、ある。後悔もある。謝罪したい人はたくさんいる。けれど、僕は差し出されたそれを。箱の中身を、指で摘み。確かめる。
「人間って、結婚する時。それがいるんだろ? ルルシャの指の太さに合うの、探すの苦労したんだぞ。ああでも、宝石はさすがにお前を探してる間にくっつけられなかったから。今はそれで我慢してくれ」
 僕が、ずっと持っている物を見つめているから。不安そうに、間違っているかって。狼が、どこまでも愚かな狼が、首を傾げていた。首にある、ネックレスではなく。どうしてこれを用意したのか。手の中にある、求婚の証。
「これ、ナットじゃん……」
「えっ、違ったか? 金属の輪を、人間は左手の薬指に嵌めるんだろ。変わった風習だよな。ああでも、殴るには丈夫そうだ」
 ナックルダスターじゃないんだからと呆れる。あまりに太く、ゴツく、金属の塊が僕の手の中にあった。一応、本来はネジが嵌るであろう穴は。僕の指が通るぐらいには、大きいけれど。もしも言われた通りに指を通せば、内側に施されたねじ山で皮膚が擦り剥けそうだ。それにずっしりと重い。これにまだ宝石を取りつけようというの。嵌めた指が重さで折れちゃうよ、ガルシェ。未だに、人間達であるのかは定かではないが。とても間違ったふうに、彼らに伝わっているのだった。交流が途絶えて久しいのと、彼らの文化で言えば。番のネックレスが当たり前であるのだから。あまり、他種族のそれなど気にも留めないのだろうが。工場で探して来たのかな。僕の指のサイズがよくあったねと、別の意味で感心する。
 それで、答えはと。僕を期待しているような眼差しで見つめてくるそんな男の顔を無視して。その首元で揺れている獣の牙と、彼の瞳によく似た。宝石が穴を空けられ紐で一纏めに通されている。民族的な首飾りに手を伸ばす。何も言われないのを良い事に、僕は狼の大きな頭から、苦労して取り外すと。結び目を探し、そしてちょっと強引に解く。
 人間の奇行にぽかんとしたまま、呆けているガルシェ。紐を片方、持っていたナットに通すと。再度、解いた結び目をキツく二度と外れないようにと願いを込めながら。ちょっと歪なネックレスができあがってしまったが、僕らを表すなら丁度いいかもなって。そう思い。自分の手で、銀狼から奪い去ったそれを。彼の手すら借りず。自らの首に掛けた。ずっと身に着けている物だし、ガルシェもまた。ずっとお風呂も入っておらず、野宿をしていたのだろうから。正直臭ったが。
「どう、似合う?」
 ちょっと、照れてしまうが。この男には、一番こうした方が伝わるかなって。そう思い。ずっと羨んで、でも自分の物にはならない、なってはいけないそれを。身に着けて。見てよって、相手に見せつける。そうすると、寒さでか。カチコチと固まったまま微動だにしない。銀狼。でも背後の尾は、思い出したかのようにばっさばっさ揺れ始めて。まるで飼い犬みたいだ。狼だけれど。突如立ち上がったと視認した時には。また僕の身体は彼の胸の中であって。ぎゅうぎゅう締め付けてくる腕が苦しいし。間に挟まったネックレスが、押し付けられ痛い。
「苦しいよ、ガルシェ」
「もう逃がさない。俺の、俺だけの番。もう放してやらない、俺の宝。ルルシャ!」
 大袈裟なんだから。本当に。足元で、ずっと様子見していたアーサーまで。周囲を走りながら羽をばさばささせているし。本当に、恥ずかしいから。止めて欲しいのだけれど。まるで飛び跳ねそうなそんな男の態度に、気を張っていた身体から力が抜けた。全部の体重が彼に寄りかかっても、ガルシェは何てことないように支えてくれた。疲れた。
「ああ、ルルシャ。こんなにも痩せて、食べ物いっぱい持って来たからな。食べて、休んだら。二人で暮らせる場所を探そう。もうあの街に固執する必要はない、俺は、お前が居ればそれでいいんだ」
 僕しか見えていないような発言。というより、それで合っているのだと思う。結局。僕は彼から何もかも、奪った形になる。それだけがやるせない。あの灰狼から、最後の、唯一の血の繋がった。愛する息子をだ。間違い続けて、歩んだ道。その果てがこれか。唯一の救いは、こうして。ガルシェが、幸せそうに。笑いかけてくれるからか。僕の心の中にあるのは。やっと、やっと手に入った。そんな醜いもので。だから、誰からも祝福なんてされるべきでも。される筈もないのに。アーサーまでも、嬉しそうに隣に居てくれて。
 この教会で、この時。歪んだ家族が誕生したのだと思う。狼の雄と、雌鶏と、人間の男という。リュックサックの中から、缶詰を取り出して。食事を用意する男を眺めながら。力の入らない身体に。本当に、呆れるぐらいに、馬鹿で。愛おしい銀狼であった。
「でも、夫婦。この場合は夫夫? よくわからないけれど、何をすればいいんだろう」
 これからの、逃げ続けた彼との未来を思い。そんなものを考える事ができる今を、僕にとっての希望を。ガルシェはスプーンをこちらに手渡しながら、少し考えているようであった。実際のところ、二人の関係が大きく、どう変わるのか。こうして、首元で彼の番のネックレスがあっても。実感が湧かなかったというのもある。
「そりゃあ。一つ屋根の下で暮らして。狩りは俺がするけど。家事を分担して、一緒の飯食べて。夜寝る時は、一緒の寝床で。身を寄せ合って、寝る。とか?」
 ガルシェが、うーんって悩んで。そう言うものだから。つい、笑いを零してしまう。なにそれって、思わずにはいられなかった。
「それ、今までと一緒じゃん」
 だから、僕が。そう指摘すると、目をぱちくりと動かして。本当だって、そう狼までも笑うのだった。でも、ちょっとだけ。狼の頭が俯いて、そわそわとしだして。ぼそりと。聞き返したくなるぐらいか細い声で。躊躇しながら。
「こ、交尾とかも。するぞ……」
 缶詰の中身。ドッグフードではないそれを、スプーンで掬い。口に運んでいた僕は思わず咽る。そんな姿に、急に食べると胃がびっくりするからなと。背中を銀狼が慌てて擦ってくれるのだが。何を言いだすんだと思うが。そうか。今の時期って彼らにとって。そういうものなんだなって。でもそれは、この状況で。いつ危険が這い寄って来るかもわからぬ場所でするべきではないと、彼も理解してるのか。今すぐにというわけでもない。それはまた、追々というやつだろうか。できるだろうか、僕に。彼を物理的に受けいれる事が。そこまで考えて、頭を振る。いけない、また刺激するところだった。銀狼がすんすんとにおいを嗅ぎ、身を寄せてきて。肩を抱き寄せて来る。頬にマズルを擦り付けて。とても、食べるのに邪魔だったが。不思議と悪い気はしない。
「俺は正直。ずっと雌を抱くしか考えてこなかったけれど、その。ルルシャを考えながらでも、抜けたから。きっとできる、と思う。というより、シたい。安全に暮らせる場所を見つけたら、それも考えといてくれ。ルルシャ。俺は、待つから。ルルシャが待ってくれた分だけ、俺も待てるから」
 囁くように言われて、相手の顔を見ると。毛の薄い耳の裏や、黒い鼻先を赤く染めた狼の顔があって。僕まで、何だか気恥ずかしくなってくる。もしも毛皮がなかったら、真っ赤になっていそうだなって。思うが。そんな顔をするなら、言わなければいいのに。けれど夫婦の生活において、そういうのも切っては切れない関係なのかなって。思い直すと。そうか、僕。もう彼の番なんだって。実感と共に、おずおずと頷くしかなかった。すぐには無理だと思う。心の準備がどうしても。手でする分には、わりと慣れてしまったけれど。それでも、恥ずかしいものは恥ずかしいよ。缶詰の中身を少し食べて、空腹なのに一気に食べると吐きそうだったから。小休憩していると。ガルシェが、僕の頬に手を添え。顔を向き合わす。目の前にある、口が飛び出た。動物の顔。琥珀のような、綺麗な瞳に。僕の顔が映りこんでいた。薄っすらと、目を閉じるようにして。首を傾けると、もう少し距離を縮めてくる。何をするのかわかった僕は。もう抵抗しないでおいた。あの時と違い。溺れてもいいんだと。この銀狼の愛を受け取ってもいいのだと。少しだけ、思えたから。また罪を背負う事になったが。
 僕の唇に触れる、獣の薄い唇。ちょっと強めに押し付けられると、裏にある牙の感触がして。でもそれは片方欠けているから、あまり痛く感じなかった。ふんす、ふんすと鼻息が僕の鼻筋を擽る。興奮を必死で抑えているガルシェが、力加減を気をつけてるのもあったと思う。そのまま、狼の長い舌が強引に割り行ってくるのかなって思っていると。それだけ、本当に触れ合わせる軽いキスを一つして。離れていく。どうしようもなく、逆に僕がもっとして欲しくなるぐらい。そんなじれったいものであって。でもなぜか、満足そうにしている男の顔が至近距離にあるのだった。
「やっぱり、キス下手だね。ガルシェ」
「ほんと、お前は可愛いよ。ルルシャ」
 そりゃどうも。つい照れ隠しに、憎まれ口とか余計な事ばかり言ってしまう僕を。そうやって可愛いと言えるのは、世界広しといえど。君ぐらいだと思うよ、ガルシェ。食事を終え、動けるぐらいには僕が回復するのを待つと。二人と、一匹。教会の外に立った僕らは。これからどこに行くのだろうか。
「ガルシェ、本当に後悔してる事。ないの」
「ないな。親父ともちゃんと話して、出て来たし。それでケジメとして、これを押したしな」
 服の上から、自分の胸を親指で叩く銀狼。その服の下には忌むべき、本来なら悲しむべき。烙印が押されているのに、どうしてか。隣に立つ男は、誇らしげにしていた。その理由は僕であり、そしてそれを押すに至った原因も僕だ。責任を取らないといけないのかもしれない。これから、一度は捨てたと思った。自分の命を賭けて。
 つまり話の内容から。お父さんは、認めてくれたのだろうか。そんなわけないと、これまでのあの灰狼の様子から。そんなわけないと思うのだが。ちゃんと人として、謝りに行く機会は欲しいが、あまりあの街には二度と近づかない方が良いとも思っていた。それに、僕が息子さんを下さいとか。そういったご挨拶をするのも、事後報告だが。なんだか変ではあるし。会ったら会ったで、縛り首は嫌だ。
 僕の手を握ってくる、狼の大きな手。肉球があっても、ちょっと痛いぐらいのそれは。凍えるような寒さにおいて、とても冷え切ったそれを温めるようであったのだが。
「ガルシェ、ちょっと握る力強いよ」
「これぐらいしてないと、ルルシャはすぐどっか行きそうだからな。そう言うならこれからは、アーサーにも、俺にも、これ以上心配かけるような事はするな」
 そう、銀狼は。僕の旦那様は言うのだから。足元ではアーサーが、一緒になって同意を示すように鳴く。男だけれど、彼の妻として。しょうがないなって。受け入れるしかなかった。これまでのお前が悪いと、そんな態度を取られると。僕は何も言えなくなってしまうのだから。ずるい。
「それと。ルルシャはもっと、欲張りになってもいいと思うぞ俺は。これからは、番として。俺にも、うんと甘えていいからな!」
「そうかな、十分僕は。欲張りだったよ。それに、ただガルシェが甘えたいだけでしょ。それ」
 バレたかって、舌を出して明るく振る舞う男。あまり僕が考え過ぎないようにしてくれているのだと思う。僕が気にし過ぎないように。わざと、そうしているのだと察した。なぜなら、どう言い方を変えようが。お父さんの事も、彼のこれまで頑張って来た事も。全部無駄に終わらしたのだから。それが事実だった。だからこそ。自分は欲張りだと評価した。だって、ずっと。ガルシェの事が好きで、隣に居て欲しいって。ただそれを。とんでもなく、欲深いそれを。願っていたのだから。
「ガルシェ」
「なんだ?」
 隣の男を見上げる。とても逞しい、図体ばかりでかいくせして。家ではだらしない、甘えん坊で。いざという時だけ、頼りになる。そんな男をだ。
「ありがとう」
 素直に、礼を言った。迎えに来てくれて。僕を選んでくれて。愛してくれて。いろんな気持ちを込めたありがとうだった。もう言えなくなってしまう、会えなくなってしまう、そう思っていた相手と。これからはずっと一緒だ。きっとどれだけ拒んでも、もう番になってしまった今。そう易々と手放してはくれないだろう。独占欲だけは強いのは身に染みて知っているし、番に対して。この男のそれが、さらに増すのは予想できる事態だった。愛してると言えば、愛してると返してくれる。どれだけ焦がれ、欲したそれを。簡単に、あっさりと。銀狼はしてくれる。僕の空っぽの中身を、全部埋めてくれるかのような。あまりに強すぎる愛を、注いでくれる。きっと時にはウザく感じたり、疎ましくなったりするのだろう。そうだとしても、やはり彼の隣に居たい。居続けたい。譲りたくなんかない、誰にも。
「愛してるぞ、ルルシャ」
 屈託なく笑い、尾を振り。嬉しそうに、恥ずかしげもなく言える相手に。報われたのだろうか。報われていいのだろうか。きっと、まだ僕という存在が安心できない。街で暮らすのは避けた方がいいから。どこか、二人だけで。暮らせる場所を探さないといけない。全部、全部話せる時がくるだろうか。今の彼になら、何でも受け入れてくれる気がした。この人だけ、都市部であの死体達を見ていてなお。求めてくれたのだから。それでも僕がどれだけ君が思っているような人間ではないか。失望させるのが怖い。やらかしたこの銀狼。彼の思惑通り、断れなかった。断れるわけもなかった。わだかまりを残しているけれど、今だけは。笑ってもいいのだろうか。
 いつか来る別れを。いつかではなく、目の前の明日を、二人で考えて。生き抜くだけを。他人にとやかく言われるのも構わず。二人と一匹で。共に悩んで。
 ずっとずっと、一緒に。僕は。同じ歩幅で躓きながらでも、歩いていきたい。身体の作りも。見た目も、見えている景色だって。感じ取るにおいだって、全く違うけれど。同じ時間を共有したい。そうしたい、それは心から。もう綺麗ごとを並べるのも、嘘を吐くのも。偽る事をやめた、僕の真の願いだった。
 ありがとう。ユートピア。ありがとう、ガルシェのお父さん。ありがとう、ルオネ。ありがとう、ガカイド。皆、大好きだった。でも最愛の人は。いつだって変わらない。街を出る前から。
「僕も」
 はにかんで、言い返してやる。たとえ誰かに否定される仲だろうと、後ろ指を指される関係だろうと、僕達には関係ない。僕達は、それでよかった。この世界で。生きるだけでとても大変な。本来なら、いがみ合うばかりであっても。異種族とか、同性だとか、立場とか。もうどうでもよかった。そう、相手も言ってくれるのなら。だから、歩いて行こう。行きたい。生きたい。
「行こう、ルルシャ」
 歩き出して僕の手を引く銀狼。とても頼もしい背中。迷いが吹っ切れた雄がそこにいた。僕の、僕だけの、夫が。番が。もう二度と、その手を離さないで。そんな気持ちを、力いっぱい握り返す事で伝える。来ないと思っていた幸せが。そこにあって。手の中に。歩く速度を調整してくれているから、たとえ歩幅が違くても僕の足がもつれたりはしない。ただ、もう僕のブーツが限界であるから。恐らく過保護な彼に抱っこされるのは時間の問題であろうか。森でされたあの時みたいに。
 ふと、ピー、ピーって鳴き声がどこからか聞こえるものだから。空を見上げると小さな鳥が二羽、飛んでいた。どこかで聞き覚えのある鳴き声だった。どこだったけ。そうやって空を見上げていると、白い粒々が。降って来る。雪だ。どうりで寒いわけだ。
 もしも、後一日。銀狼が迎えに来るのが遅ければ、僕は凍り付いて、二度と動かなくなっていたのだろうな。本当にギリギリ、僕の身体も、心も。現世に繋ぎ止めてくれたのだと思う。感謝しかなかった。これから先、たくさんの人に恨まれてしまう時が来るのだろうか。それでも。僕は面の皮厚く、生きたいと叫びたい。彼と。一緒に。もちろん、アーサーも忘れていない。僕達、家族で。皆で。そうでしょ、ガルシェ。そうして、くれるのでしょう。
 この。退廃した世界で、君と。ずっと。どこまでも。
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