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最終章
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朝日が昇ってすぐ、僕は一抱えもある荷物を一生懸命に運び。そうしてこの時間帯故に、人けのない住宅区にある子供達の遊び場。広場に来ていた。一人で、無論同居人の姿はない。それは僕が何も言わず出て来たからであり。昨日酔いつぶれた銀狼は、今もなおぐっすりと涎まで垂らして夢の中である。僕の枕ではないので、汚れようが何しようがどうでもいいのだが。
「よっと……」
どさり。一見、ただの布の塊にも思える僕が持って来た荷物とは、市長さんから貰った僕専用の布団と。その中に一緒に包まれている自分の少ない衣服や小物だった。少し背を反らしながら、この程度で痛んだ腰を叩く。やはり力仕事は向かないがこれからはそうも言ってられない。必要に応じて、嫌でも身に付くのだろうか。
一息つこうかなって、思ったが。何となく、本当に何となく。気配を感じて。そっと振り返った。たった今僕が歩いて来た道を。そうすると、無言で立っている。背が高く、もう夜は明けたのに。名残惜しい気持ちが具現化したかのような、漆黒がそこにあって。翡翠のような二つの宝石がこちらをじっと見つめていた。毛艶のよい、黒豹の頭。背にはこれからどこかに出掛けるみたいな、荷物をぎゅうぎゅうに詰め込んだリュックサック。
「おはようございます。時間通りですね」
僕が言いながら笑いかけても、寡黙な彼は特に返答してくれる筈もなく。ただ、小さく会釈だけしてくれたのだった。数歩、音もなくこちらと距離を詰めると。僕のすぐ傍にある布団を黒豹である、レリーベさんは一瞥して。
「そちらが、処分して欲しい荷物ですか」
「はい、もう僕には不要な品ですし。さすがにこれを持って歩くのは骨が折れそうです」
黒豹が背負っていたリュックサックを肩から外し、そのまま手前に持つと。僕へと差し出して来る。それに対して、僕は何一つ疑問を抱かず。当然とばかりに、受け取ろうとして。手に持った瞬間、予想以上にずっしり来て。一瞬だけ身体がフラついた。重いな。
「依頼通り。欲していた物は全部入れておきました」
仕事モードの彼の言葉遣いに、ちょっとだけひっかかったが。それもそうかと。礼を言いながら。背中の傷の具合はどうかと、一応気にかかっていた部分を尋ねると。少しだけ沈黙して、街の中の任務に支障はありませんと。そう機械的に答えてくれた。やっぱり、壁を感じるが。僕が何かこれ以上言うのも、するのも。心の傷をむやみやたらに刺激するだけだろうと、諦めにも似た気持ちで。彼が背負っていたリュックサックを、こんどは僕が背負い。位置に違和感がないように、ゆさゆさと揺する。うん、背負えばなんとか歩けそうだ。良かった。実は背負って動けませんじゃ全ての計画が台無しだもんね。
後はお願いしますと。自分が持って来た布団を感傷に浸りながら見つめ、言い。そうして。いつまでも見ていると、決心が揺らぎそうだから。無理やり目を逸らし、歩き出す。いつもよりも、自分のブーツが出す足音が重かった。
黒豹の隣を通り過ぎるさい、僕の手の甲に黒い何かが纏わりつく。何だろうなって、擽ったさに確認すれば。それはレリーベさんのお尻から伸びた、長く太い尻尾だった。まるで、撫でるように。先がふりふりと、擦って。離れていく。ハッとなり、息を吸うが。吐き出す時に、何を言うか。考え。でも僕達はあくまでも。
「さようなら、学校ではお世話になりました」
「……ああ」
それだけ告げて。レリーベさんとは別れた。頑張れとも、生きてとも。本当に、言いたい事は言えずに。僕なんかが言える筈もなく、だ。
歩き慣れてしまった、住宅区の道を抜け。昨日のお祭り騒ぎが嘘のように、がらんどうになってしまった大通り。いや、ちらほらと酔いつぶれて道の端に寝ている人が居た。凍死しないのだろうかと思うが、どうやら他の同じ境遇の人と寄り添って寝ているらしい。動物の顔をした人達が複数人でそんな事をすると、本当に人か疑わしくなるが。僕にはそれが、微笑ましく感じるのだった。起こさないように、放り出した尻尾を踏んずけないように。気をつけながら、忍び足でそろりそろり。見えて来た正面ゲート。街全体が休みの日だというのに、それでも労働に駆り出される人は一定数存在しているわけで。そんな犠牲者さんであり、ありがたい存在である。狐の顔をした男性が、こちらの姿に気づいたのか。おーいと、大声で手を振ってくれる。せっかくここまで起こさないようにしていたのに、それで酔いつぶれていた人が何人か起きてしまった。
振り返り、狐のおじさんの代わりになぜか僕が心の中で謝り。タッタッタ、と小走りで。こんな朝から元気そうな相手に駆け寄る。
「よう、ルル坊」
「おはようございます。夜勤から変わったんですね」
「おー、他の夜行性の奴が交代してくれてな。おかげで夜、愛しの番さんと。やーっと、ラブラブできると思ったんだが。発情期に入っちまってよ、悲しいことに別居中だ」
ガッハッハと、豪快に笑い。僕の肩をばしばし叩いてくる。痛いです。人のことはずけずけ聞いたりするのに、そういえば自分の身の上はあまり語らないこのデリカシーのないおじさんから。初めて奥さんの事を聞いた気がする。というより、結婚してたんだという驚きの方が勝った。失礼、かな。
「聞いていいのかわかりませんが。その、そういう時って。夫婦で一緒にいるもんじゃないんですか?」
「あっ? あー、実はな。俺が若い頃ハッスルしすぎてな。番を孕ましすぎて、許可された子供の人数あっという間に超えちまってよ。上から発情期のシーズンはダメだって言われてんだ、俺。さすがにこれ以上養えないし、アカデミーに幼い内に入れるのにもそれなりに金がいるしな。人数分の税金とか。かといって理性飛んでる俺が避妊なんてできるわけもないし。お互いしょうがないねって、話し合って従うと決めたことだ」
珍しく、羞恥心を感じているのか。狐の男は耳を倒し、さぞ残念そうに項垂れていた。あー、中出ししたかったなんて、そんな言葉は聞こえなかった事にする。
「フォデライさんも、大変ですね」
正直、乾いた笑いしかでなかったが。そうか。結婚も許可制なら、子供のあれこれも。制限があるのか。学校で読んだ本では、そういった子作りに関してのは黒豹の目があったので堂々と閲覧できず、知らないままだったのだ。というか税金も存在していたのか。僕、納めていない。どうしよう、非国民だ。というより市民権すらなかったわ、なくてよかった市民権。と今ではわりと自虐ネタとして使えるなんて考えは、今はいらないのだが。
「しょうがないから、また学校のシャワールームで一人寂しくするか……。じゃなくてだなっ。ルル坊、その荷物もしかして」
悲しそうな顔をしていた狐さんが、こんどは驚いた顔をして。僕の背中にある、不釣り合いに見えるであろうリュックサックに気づく。
「……はい、今日。というより今から、街を出ます」
「おいおい、何もこんな冬に行かなくてもだな。見るからに旅慣れてないだろうに、理由はなんだ? あの市長のむっつり息子、実はそんなに夜激しいのか?」
フォデライさんの目線が僕の背中から、下。恐らくは腰の部分に移動して、哀れみとも、慈しみともとれる。何とも言えない瞳をして。口元を手で押さえた。違います。彼とはとても清い関係です。偶発的な発情期で少し、清くない事もしましたが。限りなく清い関係です。あと、僕とガルシェはそんな関係ではありません。ただの友達です。
僕が否定するのに、しゃがみこんだ狐の男は。なぜだか背中を擦ろうとしてくる。わかってる、わかってる。辛かったな、なんて。目元に涙を溜めながら。違います。
「ルルシャお兄ちゃん!」
このまま、ゲートの待合室に連れてかれて出発できず。ありもしない夜の愚痴を白状させられそうになっているそんな時。遠くから走って来る子供が目に入った。特徴的な柴犬の顔、それと。後ろからもう一人。僕ぐらいの背をした猫の子が続く。身体が弱いだろうに、必死に大通りを休憩もなく走り抜けて。僕の目の前で急ブレーキすると、息も整う間もなく。詰め寄られて。
「おい、シュリ!」
「あーちゃんは関係ないでしょ! ルルシャお兄ちゃん、街から出て行くってほんと!? なんでっ」
さっきの狐のおじさんとは違い、こちらはちゃんとした理由であろう。目をうるうるとさせ、見上げてくる。逃げないようにか、手首を掴まれたが。シュリくんの愛らしい見た目に反して異種族特有の力の強さ故か、掴まれた肌が白く変わっていた。このまま放置すれば紫になりそうだ。
「おい、シュリ。ほっとけよ、そんな人間なんか」
「っ、アズィは黙ってて!」
追いついた猫の子、アメリカンショートヘアーと酷似した毛色をした。その子は、柴犬の子の肩に手を置いて。面倒事はごめんだとばかりに、窘めようとしたのだろうが。普段の気弱な姿からは想像のできない大声を出したシュリくんに対して面食らったのか、熱い物でも触れたかのように手を引っ込めていた。牙を剥き出しにするその姿は、彼もまた獣の一面を持っているのを思い出せるに足るし。驚いたのは猫の子だけではなく、隣にいるフォデライさんも。そして僕も、同様であった。
「ねぇ、なんで? 悪い人に虐められたの? もう少し、もう少しだけ待ってよ。なんで。僕頑張って偉くなるから。偉くなって、ルルシャお兄ちゃんを守るから。虐める人は皆。僕が全員縛り首にしてあげるから、待ってよっ」
幼い子が泣きついて、ぐずる姿に。なんだか可愛いなと呑気に構えていたのだけれど、あまりに物騒な言葉が飛び出て。そんなふうに構えても、いられなくなったのだった。どうしよう、わりとこの子、過激派だった。僕はとんでもない子を、指導者の道に導いてしまったのかもしれない。今更後悔しても、一応は去る身なのでとても遅いのだが。
やだやだと、顔を擦りつけながら。僕の胸の中で泣く柴犬の子。まさか、この子にこうも引き留められるとは思わず。とても、そうとても。どうしていいものか迷ってしまう。だから、助けて欲しくて。狐のおじさんを見上げるのだが。お前さんが発端だろとばかりに、肩を竦めていた。そういえば、同じように連れて帰りたいだろうにどうしていいかわからなくなっている。猫の子は、僕と同じぐらいの背であるが。シュリくんより、年下。なんだよな。改めて、発育の悪さもあるのだろうが。この子の身体的に劣る部分を実感する。力が手っ取り早く、なによりも必要とされていて。需要が尽きないのに。これでは、本当に生き辛いだろうに。それでも、僕なんかの言葉で。頑張ろうとしてくれてるのだから。
優しく、柴犬の頭を撫でて。それでもだ。僕の決意は、変わらない。変えてはいけなかった。
「ごめんね、シュリくん。僕はいかなくちゃいけないんだ。外で、僕のお父さんと、お母さんがすぐそこまで迎えに来てるから」
僕の服を濡らしてくれた柴犬の子は、それを聞いて顔をあげて。そんなって、信じられない。信じたくないとばかりに、首を振って見せる。のだが、親御さんに愛されて育ったこの子が。それを聞いて、掴んでいた手を離してくれる。良かった、壊死しなくて済みそうだ。実はピリピリと、痺れのような痛みを我慢していたのだから。
タイミングを見ていたのだろう。数歩下がったシュリくんの肩を抱き、慰めるような行動を取る猫の子である。アズィ、って名前だっけ。こっそりと、僕の方に向いた猫の顔。シャーって、威嚇されてしまった。どうやら嫌われてしまったらしい。そういえば、この子。裏道で、僕をお店の中に連れて行こうとした子、だよね?
これ以上は、僕に対して迷惑になると悟ったらしい。幼いながらも賢い子は、来た時と違いかなり遅い足取りで。とぼとぼと丸まった尻尾が真っすぐ垂れ下がりそうなぐらい。大通りを意気消沈して帰って行った。隣の付き添い人は、こちらに舌を出して。んべーって、していたけれど。
ただ、最後にシュリくんが。絶対、大きくなったら迎えに行くからって。低い声でぼそりと呟いたのが、決定打だったように思う。ちょっと背中に怖気が走るぐらいの圧があった。
「ルル坊。いつから記憶思い出したんだ?」
冷めた目で僕の顔を覗き込んで来る狐のおじさん。
「もちろん、嘘ですよ」
悪びれるわけもなく、僕はあっさりと白状するのだった。ガルシェとのあれこれはないけれど、これは隠す必要性もないというのもあった。すると、フォデライさんは顔を覆い。溜息を吐いていたが。
「軽蔑しますか?」
「いんや、でもちょっとだけ。おじさんむかついただけさ」
「……ガルシェならまだしも。シュリくんに、まさか引き留められるとは思いませんでした」
掴まれていた腕を擦りながら、もう見えなくなった二人の背中を思い出してそう零していた。正直、遊んだりもしていないし。友達とも言える関係でもない。会った回数自体、数回だ。知り合いの中でも、接点としては少ない部類ではなかろうか。
「お前さんは自分が思っている以上に、皆に好かれているよ」
だから、優しい声で。ちゃんと大人の目線から、そう言ってくれるフォデライさんに。苦笑いで返しながら。でも、そんな好かれている人達を裏切るように。こうして何も言わず旅立とうとしているのだから。その好意を嬉しくは思いつつも、受け取る資格なんて。これっぽっちも、ないのであった。
諦めが滲んだ表情で、僕を見ていた狐のおじさんは。突如、鼻を押さえると。逃げるようにバックステップして、僕から距離を取る。突然の行動だが、どうやら僕ではなく何かから逃げたらしい。視線が僕を見ていなかったからだ。だから、その視線を追うと。だぼだぼのパーカーらしきものを着て、目深にフードを被った人が、こちらに歩み寄って来る最中で。だが、その歩みはあまりしっかりとしておらず。とても危なっかしい。昨日の酔っ払いが、そのまま朝からまた飲んでいるのかとも思ったが。フードから見えたマズル、白い毛並みと。こちらを睨むような、鋭い視線。そして、体格がどこか知っている人のようで。一歩、一歩。近づく度に、それは確信に変わる。
「……ルオネ」
浮浪者のようないで立ちというか、身バレを恐れる有名人みたいに。猫背になり、そして聞こえてくる熱い吐息。具合の悪そうな、そんな雰囲気の彼女が。
「おいおい、発情期のくせに。外ほっつき歩いてんじゃねーぞ。襲われたらどうするっ」
鼻を押さえたフォデライさんが。くぐもった声になりつつも、体調の悪そうなルオネを心配するでもなく。逆に怒りを含んで、遠くから声を掛けていた。それに対してルオネは、顔を顰めうるさいわね。そんなのわかってるわよと、小声で反論するが。相手には届いておらず、目の前に居る僕にだけ聞こえるそんなものだった。
そうだ。ルオネは、今引きこもっている最中で。むやみに外に出たら、それこそ。フォデライさんが言うように。犬科の男性に、押し倒されたりとか。そういった懸念も、そう誘発したと。警備隊に取り押さえられる可能性だってあるのに。どうして。そんな無茶を。
そこまで考えて、まさか復讐に。と、僕は思い至る。一発ぶん殴られる、そんな想像をして。
「ルル、シャ。ちゃん……んっ」
僕の名前を呼ぼうとして、胸を押さえる白狼。息は荒く、本当に苦しそうで。それでも深呼吸して、落ち着けるように努力している素振りがあった。
「ルオネ、しんどいなら早く戻った方が。他の人が来る前に」
「大丈夫、薬。飲んで来たから、あなたが心配することじゃないわ。これは私のプライドの問題よ」
言い切ると、ルオネの手がこちらに伸びて来る。女性の手だが、異種族のであるから当然男なのに僕よりも大きいし。鍛えてるから、この街で見かける女性と比べても。筋肉質で硬く太い。殴られる。そう思い、目を瞑るが。感じたのは一瞬の風と、苦しいぐらいの。締め付け。そして、しっとりした甘い香り。
恐る恐る、瞼を持ち上げると。顔に触れそうなぐらいにあるフード。そして、僕の頬を擽る、白い細やかな毛皮。抱きしめられていた。恨まれていると思った、ルオネには。
「本当に、ばかな子ね。私がこんな状態の時に限って、黙って行こうとするんじゃないの……」
耳元でする声は、びっくりするぐらい。優しいものであった。恨みなんて感じさせないぐらい。
「ルオネ、怒ってたんじゃ。それになんで知って」
「レリーベさんが教えてくれたわ。それと怒ってる、今も。すっごく怒ってるわ。でもね、このままお別れなんて。私の心情的に許さないってだけよ。本当に、不器用なんだから。バカルルシャ」
抱きしめるのを止めて、砂で汚れるのも構わず両膝をついた白狼が。僕の頬をそっと手の甲で撫でてくる。困ったふうに。眉を下げて。本当に、怒ってると思ってたから。唖然と、そんな彼女の顔を見返していた。ううん、きっと言ってる通り。怒ってはいるのであろう。許してもいないのであろう。許されるつもりもなかったが。だって、僕はたくさん。ガカイドも、ガルシェも、傷つけたのだから。取り返しがつかない事を、いっぱい、してきた。
「貴方は、レプリカントじゃないから。一応雄だけど、雄よね? 私のフェロモンで影響が出たりしないって予想は当たりね。良かった。まぁ、今の私の状態でも。貴方に押し倒される程、軟なつもりはないけどね」
軽くウィンクまでしてくれるけれど、肩で息をしているのは変わらず。ただ、薬を飲んでいるって言っていたからか。それも多少は落ち着きをみせていた。無理やり、抑えても大丈夫なのだろうか。季節で、自然となる身体の現象を。そんな、薬で無理やり抑えつけて。なおも心配する僕に、白狼は。キツイ薬だけれど、常飲しなければ後遺症はないと補足してくれたのだった。
「いくのね。あのへたれを残して」
「はい、もうこれ以上一緒に居ても。彼の為にならないと、そう思ったので」
「……本当は、一緒に居たいくせに。バカね。でもここまでしたのだもの、私がいまさら何か言っても。頑固な貴方が考えを曲げないのも、わかってるわ。本当に、バカね」
あまりに馬鹿だ馬鹿だと言われると、ちょっと悲しくなってくるのだけれど。甘んじて受けるしかなかった。彼女には、何を言われても、されても。文句は言えないのだから。だというのに、罰してはくれず。ただルオネはまた、こんどはゆっくりと。抱擁してくれる。しかたない子って。そう言いながら。
「私、貴方を恨んでるけれど。感謝もしてるの。ずっと傍にいながら。何もできなかった私を差し置いて、突然街にやって来て、半年たらずでこんなにもあの二人を変えちゃって。そして。大事な、二人の親友を、心を奪おうとする。貴方を、恨んでた」
身じろぎして、そんな事を言う彼女の抱擁から抜け出そうとするが。ただ背中をリュック越しにぽんぽんと、叩かれるだけで終わった。黙って聞きなさいって、そんな言外に示される。
「だから、別の家に住むところをすすめたりして。遠ざけようともしたわ。私、わりと嫉妬深い雌だから。でも街から追い出したいわけじゃなかった、ほんとよ」
「ルオネ、君。もしかして、二人の事……」
僕がそこまで言いかけると、彼女は身を起こし。僕の唇に狼の人差し指が一本。当てられる。肉球の少し香ばしいような、不思議なにおいがした。
「違うわ。私は、どっちかを。一番を選べなかった。女々しい自分が、箱入り娘のように扱う周りの奴らが嫌で、軍に入ったのに。どこまでも、雌としても、女としても。はっきりできなかった。どっちつかずな、そんな狼よ。ガルシェをへたれなんて言う、資格。実はないの。自分が雄だったらなんて思ったこと、一度や二度じゃないわ。そうしたら、発情期とか、性差を気にせず。もっと二人に寄り添えたのにって。そういう意味でも、貴方が羨ましかった」
くすりと、狼の女の人が笑う。どこか同情を誘うそんな笑い方だったけれど、それで慰めの言葉が欲しいわけでないのは。わかりきっていたから、僕はただ沈黙で返した。
僕は、僕も、狼の。そして女の人に、最初からこの街で生まれていたら。こんなにも悩まずに、負い目を感じずに、いられたのだろうかって。思う事は幾度もあって。狼の雌の人を、ルオネを、羨んだりしたのに。まさか、君も、そうだったなんて。
「だから私は、貴方が出て行くのを止めないわ。どころか、喜んで送り出して上げる。でもね、ちゃんと頭を冷やしたら帰って来なさい。この街に。もうここは、記憶がどうとか関係なく。貴方のもう一つの故郷よ。私の、三人目の、大事な。ちっちゃな親友」
僕の頬に、ルオネが自分の頬を擦り付けてくる。ガルシェに時折される、親しい人にだけする。におい付けだった。別にかっとなって、一時的な怒りの衝動のまま行動に移したわけではないのだけれど。ただ、街の人から疎まれる存在。とても、息苦しい生活を強いられて。それでも耐えていられたのはガルシェのお陰で、そして耐えられなくしたのも、また。ガルシェだった。
僕の服に白い抜け毛がちらほら付着していて、お互いにそれに気づくと笑い合い。ルオネが一本、また一本指先で取ってくれる。
「さようなら、ルオネ。見送りに来てくれてありがとう」
「そこらへんでくたばってたら、承知しないんだからっ」
僕とルオネのお別れを済ました気配を遠巻きに感じ取ったのか。影響を受けないようにか、フォデライさんが遠くで鼻を片手で押さえたまま手を振ってくれる。
そんなに、今。そのフェロモンというのが空気中に漂っているのだろうか。僕の鼻では残念ながらわからない。わかったらわかったで、大問題に発展するのだが。僕が住民登録も、臨時ゲスト扱いでもなく。市長預かりという名義だったために、恐ろしいぐらいこの街から一人で出るのに手続きもなく。街の外、荒野に自分の足で立っていた。その市長さんが内密に手を回してくれていたのもあるが。
よし、そう気合いを入れて歩みだそうとして。ルオネが大声で僕を呼ぶ、どうやら何か伝え忘れていたらしい。
「バカルルシャに、お姉さんからアドバイス! もう少しあのへたれの想いを、信じてあげて」
それだけ言うと、こんどこそと。腕ごと手を振ってくれて、それでフードが取れてしまい。慌てて被り直していたのだった。
不思議な事を言うものだなと思った。だってどこの誰よりも、僕は彼の気持ちを尊重し背中を押して、信じて来たのだから。ただ彼の中に、僕が本当の意味で一番にはならないと悟っていて。これ以上はただ、彼を駄目にしてしまうって。わかったから。本当に、不思議な助言だった。
徐々に僕からの依存めいたものを改善しようとして、あまり芳しくはなかったが。だが、番を得る資格まで持った彼に。これ以上できる事はなく、荒療治めいているけれど。消えてしかるべきだと考えたのだ。誰からも疎まれる人間など、異種族の人にとって目障りであり。くるべき時が、来ただけだった。それだけだ。
半年と少し暮らした、ユートピアと呼ばれるこの街に背を向けて。僕はしっかりとした足取りで歩みだす。自分の力だけで生きていかなきゃいけない、これからは。頼りきりな生活は終わったのだ。僕もまた甘えていたのだから。
人間にとっての理想郷ではなかった。それは当然で、この街は彼らレプリカントの街だ。彼らにとっての理想郷なのだから。お世話に、なりました。
ガルシェ。おめでとう。素敵な奥さん、番を見つけてね。本当に、おめでとう。
小さくなった。鉄の壁で覆われたそれを、時折振り返りながら。彼を想うのだった。未練がましいけれど。ここまでしておいて。そんな簡単に切って割り切れる程の強さもまた、なかったから。さようなら。またねとは、言えないし。直接別れを言えなかった弱い自分を許さないでください。こんな方法しか思いつかなかった人間を、どうか恨んで、嫌ってください。
それでも。とてもかってながら僕は、君を、愛していました。さようならガルシェ。さようなら、お元気で。大好き。今まで、ありがとう。こうして貴方の為だと綺麗ごとばかり並べるしかできなくて。
……ごめんね。
「よっと……」
どさり。一見、ただの布の塊にも思える僕が持って来た荷物とは、市長さんから貰った僕専用の布団と。その中に一緒に包まれている自分の少ない衣服や小物だった。少し背を反らしながら、この程度で痛んだ腰を叩く。やはり力仕事は向かないがこれからはそうも言ってられない。必要に応じて、嫌でも身に付くのだろうか。
一息つこうかなって、思ったが。何となく、本当に何となく。気配を感じて。そっと振り返った。たった今僕が歩いて来た道を。そうすると、無言で立っている。背が高く、もう夜は明けたのに。名残惜しい気持ちが具現化したかのような、漆黒がそこにあって。翡翠のような二つの宝石がこちらをじっと見つめていた。毛艶のよい、黒豹の頭。背にはこれからどこかに出掛けるみたいな、荷物をぎゅうぎゅうに詰め込んだリュックサック。
「おはようございます。時間通りですね」
僕が言いながら笑いかけても、寡黙な彼は特に返答してくれる筈もなく。ただ、小さく会釈だけしてくれたのだった。数歩、音もなくこちらと距離を詰めると。僕のすぐ傍にある布団を黒豹である、レリーベさんは一瞥して。
「そちらが、処分して欲しい荷物ですか」
「はい、もう僕には不要な品ですし。さすがにこれを持って歩くのは骨が折れそうです」
黒豹が背負っていたリュックサックを肩から外し、そのまま手前に持つと。僕へと差し出して来る。それに対して、僕は何一つ疑問を抱かず。当然とばかりに、受け取ろうとして。手に持った瞬間、予想以上にずっしり来て。一瞬だけ身体がフラついた。重いな。
「依頼通り。欲していた物は全部入れておきました」
仕事モードの彼の言葉遣いに、ちょっとだけひっかかったが。それもそうかと。礼を言いながら。背中の傷の具合はどうかと、一応気にかかっていた部分を尋ねると。少しだけ沈黙して、街の中の任務に支障はありませんと。そう機械的に答えてくれた。やっぱり、壁を感じるが。僕が何かこれ以上言うのも、するのも。心の傷をむやみやたらに刺激するだけだろうと、諦めにも似た気持ちで。彼が背負っていたリュックサックを、こんどは僕が背負い。位置に違和感がないように、ゆさゆさと揺する。うん、背負えばなんとか歩けそうだ。良かった。実は背負って動けませんじゃ全ての計画が台無しだもんね。
後はお願いしますと。自分が持って来た布団を感傷に浸りながら見つめ、言い。そうして。いつまでも見ていると、決心が揺らぎそうだから。無理やり目を逸らし、歩き出す。いつもよりも、自分のブーツが出す足音が重かった。
黒豹の隣を通り過ぎるさい、僕の手の甲に黒い何かが纏わりつく。何だろうなって、擽ったさに確認すれば。それはレリーベさんのお尻から伸びた、長く太い尻尾だった。まるで、撫でるように。先がふりふりと、擦って。離れていく。ハッとなり、息を吸うが。吐き出す時に、何を言うか。考え。でも僕達はあくまでも。
「さようなら、学校ではお世話になりました」
「……ああ」
それだけ告げて。レリーベさんとは別れた。頑張れとも、生きてとも。本当に、言いたい事は言えずに。僕なんかが言える筈もなく、だ。
歩き慣れてしまった、住宅区の道を抜け。昨日のお祭り騒ぎが嘘のように、がらんどうになってしまった大通り。いや、ちらほらと酔いつぶれて道の端に寝ている人が居た。凍死しないのだろうかと思うが、どうやら他の同じ境遇の人と寄り添って寝ているらしい。動物の顔をした人達が複数人でそんな事をすると、本当に人か疑わしくなるが。僕にはそれが、微笑ましく感じるのだった。起こさないように、放り出した尻尾を踏んずけないように。気をつけながら、忍び足でそろりそろり。見えて来た正面ゲート。街全体が休みの日だというのに、それでも労働に駆り出される人は一定数存在しているわけで。そんな犠牲者さんであり、ありがたい存在である。狐の顔をした男性が、こちらの姿に気づいたのか。おーいと、大声で手を振ってくれる。せっかくここまで起こさないようにしていたのに、それで酔いつぶれていた人が何人か起きてしまった。
振り返り、狐のおじさんの代わりになぜか僕が心の中で謝り。タッタッタ、と小走りで。こんな朝から元気そうな相手に駆け寄る。
「よう、ルル坊」
「おはようございます。夜勤から変わったんですね」
「おー、他の夜行性の奴が交代してくれてな。おかげで夜、愛しの番さんと。やーっと、ラブラブできると思ったんだが。発情期に入っちまってよ、悲しいことに別居中だ」
ガッハッハと、豪快に笑い。僕の肩をばしばし叩いてくる。痛いです。人のことはずけずけ聞いたりするのに、そういえば自分の身の上はあまり語らないこのデリカシーのないおじさんから。初めて奥さんの事を聞いた気がする。というより、結婚してたんだという驚きの方が勝った。失礼、かな。
「聞いていいのかわかりませんが。その、そういう時って。夫婦で一緒にいるもんじゃないんですか?」
「あっ? あー、実はな。俺が若い頃ハッスルしすぎてな。番を孕ましすぎて、許可された子供の人数あっという間に超えちまってよ。上から発情期のシーズンはダメだって言われてんだ、俺。さすがにこれ以上養えないし、アカデミーに幼い内に入れるのにもそれなりに金がいるしな。人数分の税金とか。かといって理性飛んでる俺が避妊なんてできるわけもないし。お互いしょうがないねって、話し合って従うと決めたことだ」
珍しく、羞恥心を感じているのか。狐の男は耳を倒し、さぞ残念そうに項垂れていた。あー、中出ししたかったなんて、そんな言葉は聞こえなかった事にする。
「フォデライさんも、大変ですね」
正直、乾いた笑いしかでなかったが。そうか。結婚も許可制なら、子供のあれこれも。制限があるのか。学校で読んだ本では、そういった子作りに関してのは黒豹の目があったので堂々と閲覧できず、知らないままだったのだ。というか税金も存在していたのか。僕、納めていない。どうしよう、非国民だ。というより市民権すらなかったわ、なくてよかった市民権。と今ではわりと自虐ネタとして使えるなんて考えは、今はいらないのだが。
「しょうがないから、また学校のシャワールームで一人寂しくするか……。じゃなくてだなっ。ルル坊、その荷物もしかして」
悲しそうな顔をしていた狐さんが、こんどは驚いた顔をして。僕の背中にある、不釣り合いに見えるであろうリュックサックに気づく。
「……はい、今日。というより今から、街を出ます」
「おいおい、何もこんな冬に行かなくてもだな。見るからに旅慣れてないだろうに、理由はなんだ? あの市長のむっつり息子、実はそんなに夜激しいのか?」
フォデライさんの目線が僕の背中から、下。恐らくは腰の部分に移動して、哀れみとも、慈しみともとれる。何とも言えない瞳をして。口元を手で押さえた。違います。彼とはとても清い関係です。偶発的な発情期で少し、清くない事もしましたが。限りなく清い関係です。あと、僕とガルシェはそんな関係ではありません。ただの友達です。
僕が否定するのに、しゃがみこんだ狐の男は。なぜだか背中を擦ろうとしてくる。わかってる、わかってる。辛かったな、なんて。目元に涙を溜めながら。違います。
「ルルシャお兄ちゃん!」
このまま、ゲートの待合室に連れてかれて出発できず。ありもしない夜の愚痴を白状させられそうになっているそんな時。遠くから走って来る子供が目に入った。特徴的な柴犬の顔、それと。後ろからもう一人。僕ぐらいの背をした猫の子が続く。身体が弱いだろうに、必死に大通りを休憩もなく走り抜けて。僕の目の前で急ブレーキすると、息も整う間もなく。詰め寄られて。
「おい、シュリ!」
「あーちゃんは関係ないでしょ! ルルシャお兄ちゃん、街から出て行くってほんと!? なんでっ」
さっきの狐のおじさんとは違い、こちらはちゃんとした理由であろう。目をうるうるとさせ、見上げてくる。逃げないようにか、手首を掴まれたが。シュリくんの愛らしい見た目に反して異種族特有の力の強さ故か、掴まれた肌が白く変わっていた。このまま放置すれば紫になりそうだ。
「おい、シュリ。ほっとけよ、そんな人間なんか」
「っ、アズィは黙ってて!」
追いついた猫の子、アメリカンショートヘアーと酷似した毛色をした。その子は、柴犬の子の肩に手を置いて。面倒事はごめんだとばかりに、窘めようとしたのだろうが。普段の気弱な姿からは想像のできない大声を出したシュリくんに対して面食らったのか、熱い物でも触れたかのように手を引っ込めていた。牙を剥き出しにするその姿は、彼もまた獣の一面を持っているのを思い出せるに足るし。驚いたのは猫の子だけではなく、隣にいるフォデライさんも。そして僕も、同様であった。
「ねぇ、なんで? 悪い人に虐められたの? もう少し、もう少しだけ待ってよ。なんで。僕頑張って偉くなるから。偉くなって、ルルシャお兄ちゃんを守るから。虐める人は皆。僕が全員縛り首にしてあげるから、待ってよっ」
幼い子が泣きついて、ぐずる姿に。なんだか可愛いなと呑気に構えていたのだけれど、あまりに物騒な言葉が飛び出て。そんなふうに構えても、いられなくなったのだった。どうしよう、わりとこの子、過激派だった。僕はとんでもない子を、指導者の道に導いてしまったのかもしれない。今更後悔しても、一応は去る身なのでとても遅いのだが。
やだやだと、顔を擦りつけながら。僕の胸の中で泣く柴犬の子。まさか、この子にこうも引き留められるとは思わず。とても、そうとても。どうしていいものか迷ってしまう。だから、助けて欲しくて。狐のおじさんを見上げるのだが。お前さんが発端だろとばかりに、肩を竦めていた。そういえば、同じように連れて帰りたいだろうにどうしていいかわからなくなっている。猫の子は、僕と同じぐらいの背であるが。シュリくんより、年下。なんだよな。改めて、発育の悪さもあるのだろうが。この子の身体的に劣る部分を実感する。力が手っ取り早く、なによりも必要とされていて。需要が尽きないのに。これでは、本当に生き辛いだろうに。それでも、僕なんかの言葉で。頑張ろうとしてくれてるのだから。
優しく、柴犬の頭を撫でて。それでもだ。僕の決意は、変わらない。変えてはいけなかった。
「ごめんね、シュリくん。僕はいかなくちゃいけないんだ。外で、僕のお父さんと、お母さんがすぐそこまで迎えに来てるから」
僕の服を濡らしてくれた柴犬の子は、それを聞いて顔をあげて。そんなって、信じられない。信じたくないとばかりに、首を振って見せる。のだが、親御さんに愛されて育ったこの子が。それを聞いて、掴んでいた手を離してくれる。良かった、壊死しなくて済みそうだ。実はピリピリと、痺れのような痛みを我慢していたのだから。
タイミングを見ていたのだろう。数歩下がったシュリくんの肩を抱き、慰めるような行動を取る猫の子である。アズィ、って名前だっけ。こっそりと、僕の方に向いた猫の顔。シャーって、威嚇されてしまった。どうやら嫌われてしまったらしい。そういえば、この子。裏道で、僕をお店の中に連れて行こうとした子、だよね?
これ以上は、僕に対して迷惑になると悟ったらしい。幼いながらも賢い子は、来た時と違いかなり遅い足取りで。とぼとぼと丸まった尻尾が真っすぐ垂れ下がりそうなぐらい。大通りを意気消沈して帰って行った。隣の付き添い人は、こちらに舌を出して。んべーって、していたけれど。
ただ、最後にシュリくんが。絶対、大きくなったら迎えに行くからって。低い声でぼそりと呟いたのが、決定打だったように思う。ちょっと背中に怖気が走るぐらいの圧があった。
「ルル坊。いつから記憶思い出したんだ?」
冷めた目で僕の顔を覗き込んで来る狐のおじさん。
「もちろん、嘘ですよ」
悪びれるわけもなく、僕はあっさりと白状するのだった。ガルシェとのあれこれはないけれど、これは隠す必要性もないというのもあった。すると、フォデライさんは顔を覆い。溜息を吐いていたが。
「軽蔑しますか?」
「いんや、でもちょっとだけ。おじさんむかついただけさ」
「……ガルシェならまだしも。シュリくんに、まさか引き留められるとは思いませんでした」
掴まれていた腕を擦りながら、もう見えなくなった二人の背中を思い出してそう零していた。正直、遊んだりもしていないし。友達とも言える関係でもない。会った回数自体、数回だ。知り合いの中でも、接点としては少ない部類ではなかろうか。
「お前さんは自分が思っている以上に、皆に好かれているよ」
だから、優しい声で。ちゃんと大人の目線から、そう言ってくれるフォデライさんに。苦笑いで返しながら。でも、そんな好かれている人達を裏切るように。こうして何も言わず旅立とうとしているのだから。その好意を嬉しくは思いつつも、受け取る資格なんて。これっぽっちも、ないのであった。
諦めが滲んだ表情で、僕を見ていた狐のおじさんは。突如、鼻を押さえると。逃げるようにバックステップして、僕から距離を取る。突然の行動だが、どうやら僕ではなく何かから逃げたらしい。視線が僕を見ていなかったからだ。だから、その視線を追うと。だぼだぼのパーカーらしきものを着て、目深にフードを被った人が、こちらに歩み寄って来る最中で。だが、その歩みはあまりしっかりとしておらず。とても危なっかしい。昨日の酔っ払いが、そのまま朝からまた飲んでいるのかとも思ったが。フードから見えたマズル、白い毛並みと。こちらを睨むような、鋭い視線。そして、体格がどこか知っている人のようで。一歩、一歩。近づく度に、それは確信に変わる。
「……ルオネ」
浮浪者のようないで立ちというか、身バレを恐れる有名人みたいに。猫背になり、そして聞こえてくる熱い吐息。具合の悪そうな、そんな雰囲気の彼女が。
「おいおい、発情期のくせに。外ほっつき歩いてんじゃねーぞ。襲われたらどうするっ」
鼻を押さえたフォデライさんが。くぐもった声になりつつも、体調の悪そうなルオネを心配するでもなく。逆に怒りを含んで、遠くから声を掛けていた。それに対してルオネは、顔を顰めうるさいわね。そんなのわかってるわよと、小声で反論するが。相手には届いておらず、目の前に居る僕にだけ聞こえるそんなものだった。
そうだ。ルオネは、今引きこもっている最中で。むやみに外に出たら、それこそ。フォデライさんが言うように。犬科の男性に、押し倒されたりとか。そういった懸念も、そう誘発したと。警備隊に取り押さえられる可能性だってあるのに。どうして。そんな無茶を。
そこまで考えて、まさか復讐に。と、僕は思い至る。一発ぶん殴られる、そんな想像をして。
「ルル、シャ。ちゃん……んっ」
僕の名前を呼ぼうとして、胸を押さえる白狼。息は荒く、本当に苦しそうで。それでも深呼吸して、落ち着けるように努力している素振りがあった。
「ルオネ、しんどいなら早く戻った方が。他の人が来る前に」
「大丈夫、薬。飲んで来たから、あなたが心配することじゃないわ。これは私のプライドの問題よ」
言い切ると、ルオネの手がこちらに伸びて来る。女性の手だが、異種族のであるから当然男なのに僕よりも大きいし。鍛えてるから、この街で見かける女性と比べても。筋肉質で硬く太い。殴られる。そう思い、目を瞑るが。感じたのは一瞬の風と、苦しいぐらいの。締め付け。そして、しっとりした甘い香り。
恐る恐る、瞼を持ち上げると。顔に触れそうなぐらいにあるフード。そして、僕の頬を擽る、白い細やかな毛皮。抱きしめられていた。恨まれていると思った、ルオネには。
「本当に、ばかな子ね。私がこんな状態の時に限って、黙って行こうとするんじゃないの……」
耳元でする声は、びっくりするぐらい。優しいものであった。恨みなんて感じさせないぐらい。
「ルオネ、怒ってたんじゃ。それになんで知って」
「レリーベさんが教えてくれたわ。それと怒ってる、今も。すっごく怒ってるわ。でもね、このままお別れなんて。私の心情的に許さないってだけよ。本当に、不器用なんだから。バカルルシャ」
抱きしめるのを止めて、砂で汚れるのも構わず両膝をついた白狼が。僕の頬をそっと手の甲で撫でてくる。困ったふうに。眉を下げて。本当に、怒ってると思ってたから。唖然と、そんな彼女の顔を見返していた。ううん、きっと言ってる通り。怒ってはいるのであろう。許してもいないのであろう。許されるつもりもなかったが。だって、僕はたくさん。ガカイドも、ガルシェも、傷つけたのだから。取り返しがつかない事を、いっぱい、してきた。
「貴方は、レプリカントじゃないから。一応雄だけど、雄よね? 私のフェロモンで影響が出たりしないって予想は当たりね。良かった。まぁ、今の私の状態でも。貴方に押し倒される程、軟なつもりはないけどね」
軽くウィンクまでしてくれるけれど、肩で息をしているのは変わらず。ただ、薬を飲んでいるって言っていたからか。それも多少は落ち着きをみせていた。無理やり、抑えても大丈夫なのだろうか。季節で、自然となる身体の現象を。そんな、薬で無理やり抑えつけて。なおも心配する僕に、白狼は。キツイ薬だけれど、常飲しなければ後遺症はないと補足してくれたのだった。
「いくのね。あのへたれを残して」
「はい、もうこれ以上一緒に居ても。彼の為にならないと、そう思ったので」
「……本当は、一緒に居たいくせに。バカね。でもここまでしたのだもの、私がいまさら何か言っても。頑固な貴方が考えを曲げないのも、わかってるわ。本当に、バカね」
あまりに馬鹿だ馬鹿だと言われると、ちょっと悲しくなってくるのだけれど。甘んじて受けるしかなかった。彼女には、何を言われても、されても。文句は言えないのだから。だというのに、罰してはくれず。ただルオネはまた、こんどはゆっくりと。抱擁してくれる。しかたない子って。そう言いながら。
「私、貴方を恨んでるけれど。感謝もしてるの。ずっと傍にいながら。何もできなかった私を差し置いて、突然街にやって来て、半年たらずでこんなにもあの二人を変えちゃって。そして。大事な、二人の親友を、心を奪おうとする。貴方を、恨んでた」
身じろぎして、そんな事を言う彼女の抱擁から抜け出そうとするが。ただ背中をリュック越しにぽんぽんと、叩かれるだけで終わった。黙って聞きなさいって、そんな言外に示される。
「だから、別の家に住むところをすすめたりして。遠ざけようともしたわ。私、わりと嫉妬深い雌だから。でも街から追い出したいわけじゃなかった、ほんとよ」
「ルオネ、君。もしかして、二人の事……」
僕がそこまで言いかけると、彼女は身を起こし。僕の唇に狼の人差し指が一本。当てられる。肉球の少し香ばしいような、不思議なにおいがした。
「違うわ。私は、どっちかを。一番を選べなかった。女々しい自分が、箱入り娘のように扱う周りの奴らが嫌で、軍に入ったのに。どこまでも、雌としても、女としても。はっきりできなかった。どっちつかずな、そんな狼よ。ガルシェをへたれなんて言う、資格。実はないの。自分が雄だったらなんて思ったこと、一度や二度じゃないわ。そうしたら、発情期とか、性差を気にせず。もっと二人に寄り添えたのにって。そういう意味でも、貴方が羨ましかった」
くすりと、狼の女の人が笑う。どこか同情を誘うそんな笑い方だったけれど、それで慰めの言葉が欲しいわけでないのは。わかりきっていたから、僕はただ沈黙で返した。
僕は、僕も、狼の。そして女の人に、最初からこの街で生まれていたら。こんなにも悩まずに、負い目を感じずに、いられたのだろうかって。思う事は幾度もあって。狼の雌の人を、ルオネを、羨んだりしたのに。まさか、君も、そうだったなんて。
「だから私は、貴方が出て行くのを止めないわ。どころか、喜んで送り出して上げる。でもね、ちゃんと頭を冷やしたら帰って来なさい。この街に。もうここは、記憶がどうとか関係なく。貴方のもう一つの故郷よ。私の、三人目の、大事な。ちっちゃな親友」
僕の頬に、ルオネが自分の頬を擦り付けてくる。ガルシェに時折される、親しい人にだけする。におい付けだった。別にかっとなって、一時的な怒りの衝動のまま行動に移したわけではないのだけれど。ただ、街の人から疎まれる存在。とても、息苦しい生活を強いられて。それでも耐えていられたのはガルシェのお陰で、そして耐えられなくしたのも、また。ガルシェだった。
僕の服に白い抜け毛がちらほら付着していて、お互いにそれに気づくと笑い合い。ルオネが一本、また一本指先で取ってくれる。
「さようなら、ルオネ。見送りに来てくれてありがとう」
「そこらへんでくたばってたら、承知しないんだからっ」
僕とルオネのお別れを済ました気配を遠巻きに感じ取ったのか。影響を受けないようにか、フォデライさんが遠くで鼻を片手で押さえたまま手を振ってくれる。
そんなに、今。そのフェロモンというのが空気中に漂っているのだろうか。僕の鼻では残念ながらわからない。わかったらわかったで、大問題に発展するのだが。僕が住民登録も、臨時ゲスト扱いでもなく。市長預かりという名義だったために、恐ろしいぐらいこの街から一人で出るのに手続きもなく。街の外、荒野に自分の足で立っていた。その市長さんが内密に手を回してくれていたのもあるが。
よし、そう気合いを入れて歩みだそうとして。ルオネが大声で僕を呼ぶ、どうやら何か伝え忘れていたらしい。
「バカルルシャに、お姉さんからアドバイス! もう少しあのへたれの想いを、信じてあげて」
それだけ言うと、こんどこそと。腕ごと手を振ってくれて、それでフードが取れてしまい。慌てて被り直していたのだった。
不思議な事を言うものだなと思った。だってどこの誰よりも、僕は彼の気持ちを尊重し背中を押して、信じて来たのだから。ただ彼の中に、僕が本当の意味で一番にはならないと悟っていて。これ以上はただ、彼を駄目にしてしまうって。わかったから。本当に、不思議な助言だった。
徐々に僕からの依存めいたものを改善しようとして、あまり芳しくはなかったが。だが、番を得る資格まで持った彼に。これ以上できる事はなく、荒療治めいているけれど。消えてしかるべきだと考えたのだ。誰からも疎まれる人間など、異種族の人にとって目障りであり。くるべき時が、来ただけだった。それだけだ。
半年と少し暮らした、ユートピアと呼ばれるこの街に背を向けて。僕はしっかりとした足取りで歩みだす。自分の力だけで生きていかなきゃいけない、これからは。頼りきりな生活は終わったのだ。僕もまた甘えていたのだから。
人間にとっての理想郷ではなかった。それは当然で、この街は彼らレプリカントの街だ。彼らにとっての理想郷なのだから。お世話に、なりました。
ガルシェ。おめでとう。素敵な奥さん、番を見つけてね。本当に、おめでとう。
小さくなった。鉄の壁で覆われたそれを、時折振り返りながら。彼を想うのだった。未練がましいけれど。ここまでしておいて。そんな簡単に切って割り切れる程の強さもまた、なかったから。さようなら。またねとは、言えないし。直接別れを言えなかった弱い自分を許さないでください。こんな方法しか思いつかなかった人間を、どうか恨んで、嫌ってください。
それでも。とてもかってながら僕は、君を、愛していました。さようならガルシェ。さようなら、お元気で。大好き。今まで、ありがとう。こうして貴方の為だと綺麗ごとばかり並べるしかできなくて。
……ごめんね。
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