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六章

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 だんだんと窓の外が明るくなり。走行に適した環境なると、火の後始末だけしてロッジを後にした。そしてそう時間はかからず、荒野を走り。ユートピアの正面ゲードではなく、裏の普段は使われていないゲート。僕達が出発したそこ。トラックが近づく度に、鮮明になってくる見知った人影。狼の顔をしている。白毛の、今回の作戦を知らされず同行できなかった。ガルシェ達の幼馴染。僕のもう一人の友達。
 ゲート前で減速して、やがて止まり。運転席からガカイドが外に出て。僕は、一緒に車の屋根の上に乗っていたから。一人で降りられないので、手伝ってもらいながら降ろしてもらう。ぞろぞろと、武装した軍服を着た人達が出て来て。トラックの中身を確かめると、どよめきが走った。大量に積まれた物資にだ。後は全部彼らがしてくれるのだろう。遅れて虎の先生が暗がりの倉庫からぬっと現れて、ガルシェと言葉を交わしていたけれど。黒豹の怪我が一番酷く、早く見て欲しいと僕が言えば。にこやかに出迎えてくれた虎の先生は、顔を引き締めて。助手席に乗っている人の元へ向かった。
「大丈夫かな、レリーベさん」
 ガカイドと距離がある為に、心配な気持ちを素直に口にすれば。隣で聞いていた銀狼が、僕の背に手を当てながら。大丈夫さ。そう気遣いに言葉を掛けてくれる。そんな彼も、足を痛めているのだから。早く見て欲しいのに。優先順位的には、やはり、黒豹であった。騒がしい、怒鳴るような。女性の声。見れば、赤茶狼に、白狼が怒っていた。何も言わず出て行って、帰って来たら頭に包帯を巻いて。そして片耳がないのだから。当然の反応かもしれなかった。だから、不意に誰かを探すような仕草の後。僕と目が合い、ルオネが歩いて来る。距離を詰める分だけ、歩く速度が速まり。駆け足に。そうやって、もう少しというところで。手が振りかぶられて。あ、叩かれる。そう感じて、思わず目を瞑るけれど。訪れると思った痛みはなかった。どうしてか恐る恐る目を開けると、隣に立っている銀狼が寸前で彼女の腕を掴んで。止めたからだった。
「やめろルオネ。俺達の力で本気で叩いたら、ルルシャの首の骨が折れる」
 興奮にか息を荒げ、じっとこちらを見つめていた狼の雌の視線が。幼馴染である銀狼を見て。泥だらけで、片足を軽く上げ。庇う姿勢に。恐らく、咄嗟に止めてくれたけれど。捻った足が痛んだのだろう。ルオネが叩こうとした手を引っ込めた。また僕を見た狼の、友達の目つきは。今までにないぐらい鋭く、彼女も女性だけれど。肉食動物の、狼と一緒で。そんな目ができるんだなって。鼻筋に皴を寄せて。鋭い犬歯を見せつけるように。ガルルって野性的に唸って。
「私の、私の大切な幼馴染を。それも二人とも! 同時に、奪う気だったのっ!」
 そう、怒鳴られてしまった。大声につい身体が竦むけれど、下がりそうになる足を。必死で自分の意思で堪えた。とても怖かった。ちょっと勝気ですぐ手が出る印象はあれど、本気で怒ったりしない優しい人で。自分のした事に、僕の頬を裂く事件の時も。わざわざ謝りに来てくれた。誠実な人だから。だからこそだろうか。僕のおこないは、傍から見ると。そういうふうに見えるのだなと。
 こうして、怒られて。その怒りを、暴力として真っすぐぶつけられて。言葉で、ぶつけられて。それなのに。心のどこかで安堵している自分に気づいた。ああ、ちゃんと怒ってくれる人が。いるんだって。そう思ったのだった。この街で初めて誰かに、自分のおこないを正当に怒られた気がする。
 僕はこの彼女の怒りを受ける責務があった。皆を巻き込んだ自覚があったから。本当なら僕一人が犠牲になって、それで良い筈なのに。何の力もない事に胡坐をかいて、誰かに頼って。大切な人を巻き込んだ。罪深い人間を。こうして、叱ってくれる人が。いるんだって。また叩こうとしないまでも、怒りのまま詰め寄ろうとする彼女を。ガルシェは僕を背に隠すようにして庇い、そうして遅れてやってきたガカイドが。よせって、ルオネを羽交い絞めにして。それでも暴れるのだから、肩を撃たれている赤茶狼は。傷口が痛むのだろうか。顔を顰めていた。本当は止めなくても良かった。叩かれても、罵られても仕方がなかった。それをする当然の権利が、彼女にはあるように思えたのだから。
 終いには、泣き出してしまうルオネ。ごめんなさいって謝るべきなんだろうけれど、何か言おうとすると。ガルシェが手で僕の顔を遮って。ルオネを見えなくする。どうしてそうするのか、見上げれば。こちらを見下ろしている銀狼は、ゆるく首を振った。
「ばかー、なんで、皆。何も言わず私だけ除け者にして行っちゃうのよぉ! バカイドのバカぁ!」
「おい、ルオネ。いてぇ、いてぇって! そこ撃たれてるんだから、叩くな、いてぇ! 後その呼び名やめろって言っただろ」
 もう暴れないのかと、後ろから羽交い絞めを止めた赤茶狼に対して。勢いよく振り向くと、手をぐーにして。ぽかぽかとあまり力が入ってないように見えたけれど、その叩く手は時折。包帯を巻かれた彼の肩にも及んでいて。必死になって逃げるけれど、執拗に追いかけて、背中を叩いていた。正直、謝るタイミングを逃してしまって。どうしようかなって思っていると。銀狼が、もう少し落ち着いてからで良いと。言ってくれたのだった。今前に出ると、また叩かれるぞって。確かに、女性とはいえ。人外の膂力で、それも彼女は軍人で鍛えているのだから。致命傷になりえた。そうしていると、兵隊さんの一人が。僕を呼びに来た。これにも、ガルシェは僕を隠すようにして庇おうとしたけれど。誰が呼んでいるか、その人物の役職を告げると。渋りながらも、道を開けてくれる。市長さんが、呼んでいた。どうやら、僕一人で来いという事らしい。同行しようとする銀狼を、すかさず兵隊さんが止めたのだから。熊の顔をした、とても肩幅のでかい。銀狼と身長はそう変わらないけれど。肩幅だけはガルシェより大きい人もいるんだって。そういえば、この人。炊き出しの時でも見た事がある人だった。名前は知らないけれど。ついて行く途中、大きなお尻がちょうど視界に入ったから。つい見つめていると、そこから体格に不釣り合いな小さい尻尾が出ていて。猫の顔をした人も、太く短い尾だったり、長く細い尾だったり。色々な形をしているけれど。ここまで短いのは初めてだった。ぎゅっと掴んだら、握り心地は良さそう。しないけれど。
 倉庫の中に入り、錆びた鉄階段を上り。そうして、質素な応接間みたいな場所に通されて。熊の人は、どうやら入口で待機するつもりなのか。僕だけが室内に入る事になった。そうすると、椅子に腰かけている。灰狼。この街の人達の中では珍しく普段からスーツを着用しており、眼鏡を掛けて。今回の作戦を許可してくれた、ユートピアと呼ばれるこの街の、最高権力者。そして銀狼の親。その人。僕が一人で部屋に入って来たのを確認すると、静かに立ち上がり。軽く両手を広げるようにして。
「おかえりなさい。無事でなによりです」
 笑って出迎えてくれる相手に対して、僕は笑い返すでもなく。ただ冷ややかに見ていた。無事でと、そう言う狼の口が憎たらしくもあったが。恐らく、それすらも狙いなのであろうか。だって、彼と僕。両者のちょうど中央には机があり。二つ分の、紅茶だろうか。ソーサーに乗せられた湯気が立ち入れて間もないティーカップ。そして、その僕側に茶菓子ではなく。黒々とした拳銃がなぜか置かれているのだから。今にも取ってくださいと言わんばかりに。僕の目線がどこに向かっているか気づいたのだろう。市長さんは、どうぞお掛けなさいと。椅子を示しながら。一度は立ち上がった自身も、元々座っていた椅子にまた座り直す。
「ああ、これですか。いえね、貴方がもたらしてくれた功績に対し。私なりに報いなければいけないなと考え。市民権を与えようと思いまして。何かと、貴方は狙われやすい。自衛する手段というのは必要でしょう。ですから。私からの贈り物として、昔愛用していたこの銃もお譲りしようかと。小型の部類ですけど、これなら貴方でも――」
「最初から、知っていたんですね」
 相も変わらず、よく回る舌だなと。最初は聞いていたけれど。それも我慢の限界であった。どうしてだろうか。こんなにも、感謝するべきだとは思うんだけれど。頭ではそうわかっているのに。力を貸してくれた人で、僕みたいな。どこの馬の骨ともしれない。信用ならない相手に、破格の対応をしてくれている。市長さん相手に。それでも、言わなきゃって。聞かなきゃって。自分の感情が抑えられなかった。ルオネが先程、僕に向けていた物と似ているのかもしれない。彼女の想いの方がきっと、半年この街で過ごした自分より。ずっと重く、比べるのは失礼かもしれなかったが。はて。そうとぼけて見せる狼の、人を食った表情。人差し指が自分の顎を触るようにして、三日月のように。口の端が歪んでいた。
「いいえ。正しくは、僕だけが知らなかった、のでしょうね。レリーベさんの事も、ガカイドの事も。何もかも。全て知っていた上で、市長さんは許可を出したんですね」
 楽しそうに椅子からはみ出た尾が、ゆらりゆらりと優美に動く。とても手入れされている毛並みと、カッチリと着こなしたスーツ。今日は、僕の顔を初めからちゃんと見る為か。というより、面白い催しを見逃さない為か。眼鏡までちゃんと掛けて。普段は書類仕事以外ではあまり掛けたがらない、度があっていないそれを。
「ええ。ええ。そうですとも。そういう契約でしたから、レリーベとは。いつか、彼の復讐を遂げさせるかわりに。私の手足となり、汚い仕事もしてもらう。この街の中では、あの臆病者に何もさせない為に、ね。貴方、気づいてましたか。職権を乱用する、あの所長がどうなったか」
「いいえ……」
「死にました。死因は食中毒らしいですよ。怖いですねぇ。欲深い人は、食い意地もはってるのですかねぇ。私としては、息子共々蹴落とし。市長の座を狙う、分不相応な輩が死んで。直接手を下さず、大助かりなのですが」
「レリーベさんに、命じたのですか」
「おや、怖い発想をしますね。私がいつ、彼に命じたと。貴方は見てもいないのに、本当に人は恐ろしい」
 わざとらしいと思った。口元を手で隠しながら、そう言う灰狼が。今の流れで、どうして所長が出てくるのか。答えのようなものではないのか。僕の知らないところで起きて処理された事件を、とてもあっさりと。真実を告げられて。ただ、それは親しい人ではなく。苦手というより、嫌いな相手だったから。何の感情も湧かなかった。同情めいたものは、あったかもしれないが。いつだって、僕の守りたいものは。すぐ近くの人だけだったから。それだけでいいのに、それすら難しいのだから。
 全部、僕が利用しているつもりだった。人の優しさに付け込んで。そうしているつもりであったけれど。どちらかというと、利用されているのは僕の方だった。汚い大人達に。そう思っても。それで感情のまま、何かを言うつもりはなかった。僕だって、十分に汚れているのだから。同じ穴の狢だった。
「言ったでしょう。子供は子供らしく、愚かなまま勘ぐらず大人の好意に素直に喜んでいなさい。良かったじゃないですか。貴方の望み通り。物資を持ち帰り、誰も死なず、貴方も五体満足で帰還を果たした」
 ちらりと、馬鹿にしたように言いながら。市長さんの視線が、僕の方に置かれている拳銃を見る。取れと。言っているのだろうか。それでどうしろっていうの。それでこれ以上何を僕に期待しているの。好きになったのに。この人も。一人の父親であるのだから。ガルシェの事を案じて。そして、僕の事もそれなりに。仲良くしてくれて。だというのに。裏切られた気持ちになったが。けれど、そんな気持ちを抱く事自体が可笑しいのだった。最初から、市長さんにとって。僕は目障り以外の何者でもなかったのだから。だから、こうして。どこか、人の怒りを煽るようにしているのも。真っ向から受けては駄目なんだと。彼のこれまでの言動から少なからず学習してはいて。いるのだが、それでも。やっぱり許せなかった。
「ガルシェをよこしたのも。ガカイドも、レリーベさんも、あの場所で死んで。僕も、死んで。誰もトラックを回収できなくなる事態になるのを防ぐ為の、保険、ですか」
 これには沈黙する灰狼。レンズ越しに見える狼の瞳を細めて、表面上の感情は隠していないけれど。答え合わせをする度に、彼を面白がらせているのだろう。本当に、市長さんが言うように。愚かでしかなかった。僕を。全て筋書き通りに事が進む筈だった。けれど、全員が無事に帰ってきたのは誤算だったのだろうか。最初から期待などしていなかったのだな、物資が持ち帰れるなど。それはそうなのだろう、荒唐無稽な話であった。どこに都合よく、食料があるというのか。扉が開くというのか。あるかもしれない。そんなものに、手間を掛ける暇などないのだ。だから、レリーベさんとの契約を果たしたに過ぎないのだった。依頼をした僕はどこまでいっても。思い上がっただけであって、蚊帳の外だった。
 だから。きっと、市長さんの筋書きがまだ終わっていなくて。この事で逆上した僕が、目の前の銃を手に取って。彼に向けるのを期待されているのだろうか。市民権をちらつかせておいて。結局のところ、排除したいのだとも思えた。じゃあ、あの日の夜の会話は何だったのであろうか。あれすらも、上辺だけだったのだろうか。ガルシェを応援してくださいと。僕の髪を切ってくれた時も。どれが嘘で、どれが本当なのか。分からなくしないで欲しい。好きで、居させて欲しい。貴方を。立場から友達とは言えないまでも。こんなにも悲しい気持ちにさせないで欲しかった。何となく、後ろを振り返ると。完全にドアが閉じていなくて。その隙間から、誰かが覗いていた。きっと、外で待っている筈の。熊の顔をしたレプリカントの軍人であろうか。もしも、僕が感情のまま銃を手に取り。市長さんに向けようものなら、素早く乗り込んできて。取り押さえるつもりなのか、そのまま首をねじ切るつもりなのか。これなら、ガルシェも納得せざるおえないであろうか。大好きな親に向かって、銃を向けたなら。さすがの彼も、何も言えなくなってしまう。底意地が悪い。本当に。
 だから。僕は銃を手に取るのではなく。頭を、下げていた。報いるべきだった。僕も、それでもだ。過程はどうあれ。結果が全てとするなら。僕はこれ以上の事は望まなかった。だって、皆。帰ってこれたのだから。僕の感情など、いらなかった。だから湧いた怒りすら捨てて。プライドとか、そんなもの犬にでも食わせてしまえば良かった。頭を下げている相手は、狼の顔をしているのであったが。
「ありがとうございました。僕の、わがままを、聞いてくれて」
 僕には何もなかった。何も持ち合わせてなかった。そんな自分に、曲がりなりにも手を貸してくれたのは事実だ。市長という立場で、話を聞いてくれたのは。それだけは偽りのない事実だった。ならば、それに対して。僕はどうすればいいのか。恥ずかしくない。自分でありたかった。心だけは、負けたくなかった。ずっと、そしてこれからも。僕が、どうしても譲れないもの。
 一貫して面白い映画でも鑑賞しているふうだった灰狼の、そんな顔が一瞬凍り付く。きっと市長さんに誤算があったとしたら。それはやっぱり、僕という存在なのであろうな。
 こんな世界で。暴力と偏見と、差別が当たり前になってしまった。価値観の相違。獣と人と、本来は交わる筈のなかったのに。目の前には、二つの要素を併せ持つ生き物がいて。今を生きる人達とも違う。僕は文字通り。常識を飛び越えて来たんだ。
「いえいえ。私こそ。市長として、本当に貴方には感謝しておりますとも。これで、街は救われる。難民問題に関してとりあえずは、先延ばしにできる」
 笑顔を張り付けて。そう返事してくれる。そんな顔も、次に僕が述べた言葉に。消してしまうのだけれど。せっかくくれようとしている、市民権の破棄。それと、もう一つ。これはお願いめいていたけれど。
 これだけは、あまりに彼の考えの外にあったのか。灰狼が慌てるでもなく、真顔でこちらを睨んでいた。もう、僕を煽る必要もないのかな。
「それは、なぜです。貴方からすると、喉から手が出るほど欲しいはず。市長である私に取り入り、息子を籠絡した人間である貴方が。どうして、せっかくの機会を不意にする。息子と結ばれないまでも、近くに居る権利すら自ら手放そうというのか」
 籠絡って酷いな。僕がいつ、ガルシェを誑かしたというのか。それに、今までの市長さんにした僕の行動も打算だったと。そう言うのか。そういうふうに思われていた事に、そういうふうにしか受け取れなかった人に。僅かに落胆の気持ちがあった。確かに、自分の環境が良くなればいいなって思わなかった時はない。それでも、やつれていく貴方を心配する気持ちに嘘は、そこにやましい気持ちなんてこれっぽっちも挟んでいなかった。
 相手の顔を見ながら、そっと机に手を伸ばした。そうすると、背後からギィって。錆びついた蝶番の音が僅かにして。眼前の狼の瞳に、何か強い感情が灯るように見えた。ほら、やはり欲しくなっただろって声が聞こえそうだ。けれど。僕は拳銃なんて、はなから手に取る気なんてなくて。置かれていたティーカップを、そっと持ち上げて。カップに注がれた液体を、ほんの僅かな時間。眺め。一思いに、味わう事もなく。一気に飲み干した。そうして、行儀は悪いけれど。力が多少入ったまま、ソーサーの上にカップを置いて。
「ごちそうさまでした。紅茶、美味しかったです」
 ただそれだけを告げ。立ち上がった。驚いた顔をする、市長さんに目もくれず。すたすたと踵を返し。部屋の外へと、半開きのドアを躊躇なく開き。そこには壁があった。巨漢の男でできた、肉壁が。見上げると、どうしたものかと。こちらを見下ろす、熊の動揺した視線。予定にはない僕の行動に、指示を求めているのだろうか。背後の市長さんを気にしている素振りをしていた。そんな中、悔しがるでもなく。努めて、優しい声音で。通して上げなさいと、声が掛けられて。それで漸く熊の顔をした男が扉の脇に退いてくれる。これで通れるようになった。本当は、紅茶に毒でも入ってるか。そんな心配もあったが。それでは、言い訳する口実ができないのだから。市長さんがそれをしないと、ふんでの。僕の信頼から来るものだった。
「……どうして、好きと仰るガルシェ相手ならわかりますが。これまでの事も含め。他人に、この街に、ひいては私に、そこまでするのですか?」
 出て行こうとした僕の背中に。そう、気負いのない。作ったふうでもない。あの夜と同じ、何もかもに疲れきった。一人の男の声がした気がしたが。僕は振り向くような事はせず。ただ。
「そのよく利く鼻で、僕の感情を見たらいいじゃないですか」
 この街の最高権力者に、わりと喧嘩腰に言ってしまったが、後悔はなかった。だから、それ以上声を掛けられず。引き留められないと判断したらその場を立ち去った。遅れて、何か。食器だろうか。砕けるような音がして。慌てて、熊の人が部屋の中へと入って行くぐらいで。それだけだった。
 一人で階段を降りて、皆の元へ帰ろうとしていたけれど。虎の先生に呼び止められた。どうやら、市長さんと話してる間に。皆の治療が終わったらしい。ガカイドのは殆ど自分でできていて、そう手を施す必要はなかったが。ガルシェは松葉杖を使用していた。そんなに、酷かったのだろうか。痛めたのに無理して動かし過ぎだと。治療というより殆ど、説教に時間を割いたらしいが。その話は後で聞くとして。そして、一番の重体であった。黒豹。レリーベさんが目を覚ましているとも。面会、しますか。そう聞いてくれて。僕は少しだけ迷った。けど。会いたいと、そう思えたから。虎の先生に頷けば。倉庫を出て、街の中。この建物はフェンスに囲まれているから、許可のない者は立ち入りを固く禁じられているのだが。それでも、まだ別室があったのか。簡易テントらしき場所に連れてこられ。外からは見えなくなっている、カーンテンを捲ると。ベッドに腰かけて、上半身を包帯でぐるぐる巻きにされ。漆黒の毛皮の大半を白で塗りつぶされている黒豹が。魂が抜けたように。虚空を見つめていた。僕がベッドの傍に寄っても、耳が動いたりとか。反応を示さず。声を掛けて初めて、翡翠のような。瞳がこちらに向く。
「……ルルシャか」
 会いたいと思ったけれど。実際に会って、何を話したらいいか。僕にはわからなかった。言うなれば、僕は。彼の目的を邪魔した内の一人でもあるのだから。ガカイドを庇った。あのまま殺させるわけにもいかなかったのに。黒豹が、僕と会いたいわけもないのに。こうして動けない身の相手に、訪れて。いまさら、何て声を掛ければいいのか。
 生気のない顔をさせていた。それはきっと。血が大量に失われただけではないのだろう。人を見つめるその表情は、とても心が凪いでいて。怒りに声を荒らげるような素振りすらない。それをするだけの体力も、残されていないのであろうが。ずっと魘されていたのだし。やっぱり、帰るべきだろうか。そう迷っていると。僕を見るのを止めたレリーベさんは。ぽつり、ぽつりと。重い口を開いてくれる。
「本当は、わかっていた。あの子のせいじゃないって。恨むべきは、機械共だって。頭ではわかっていた。でも、恨まずにはいられなかった。大事な弟を。復讐したところで、帰って来るわけでもないのに。でも、止まれなかった。たとえ、どれだけ自分の手を汚そうとも。それでもなんだ、やっとだ。やっと、復讐を遂げて。自分も死ねると思ったのに。こんな悪夢、終わらせられると思ったのに。君に邪魔されて。そうして、彼だって被害者だと。そう言われて。そんな姿に。正義感の強い、弟の姿が、重なって見えた。君は人間で、似ても似つかないのに」
 思わず、一歩。彼が座っているベッドに近づこうとすると。まだそんな体力が残されていたのか、止まれと。怒鳴られた。ただ、それをしたせいで傷口が痛むのか。黒豹は呼吸をおかしくさせて。
「すまない。だが、まだ感情の整理がつかないんだ。今君に近づかれると、きっと。その細い首を、よくも邪魔をしたなと。締め殺してしまう。だから、近づかないでくれ」
 彼の言葉に、殺意に。嘘はないのであろう。落ち着いた声とは別に。再び僕の事を視界に入れた黒豹の瞳はどす黒い何かに染まっているのか、血走り。自身の膝元で掛けられたシーツを握りしめている手は、そこにある爪が肉球に食い込んでいるのか。白かったシーツを赤く染め上げつつもある。
 ――このまま見殺しにした方がこいつのためでもあると思うぞ。
 不意に、ガカイドの言葉が脳裏に蘇る。治療を渋っていた、赤茶狼の。何となく呟かれたそれを。何で皆。そうやって。罰しようとするのだろうか。何で、そうやって。罰せられようとするのだろうか。そうならない方が、よっぽどいいのに。いいじゃないか、許されるなら、許せるなら。自分を許したって。自分に甘くたって。そんなに死にたいのなら、どこか。誰も見ていない、目の届かない場所で。かってに自分自身の手で首を括って死んでよ。僕の心に、入ってこないでよ。
 わざわざ目の前に来て、死にたいなんて言わないでよ。仲良くなった後で、そんな酷い事言わないでよ。その苦しみも悲しみも辛さも、全部自分だけのそれを。放棄するのではなく、相手に押し付けないでよ。
 もう、うんざりだった。こんな、死にたがり共が。それでも、大好きなのに。笑っていて欲しいだけなのに。でも、そうか。この人を、見ていて。気づいた。市長さんもまた、罰せられたかったんだ。だから、自分を追い込んで。仕事に逃げて。でも彼には立場があった。自分の意思で死ねなかった。死を望む事すら、許されなかった。本当は、番が死んだ時点で。後を追いたかったのではないか。でも、祈りが、邪魔をした。最愛の妻からの、息子を頼むと。そんな祈りが、呪いになった。芽生えた恨みが。彼の心を壊した。あの拳銃も、実際のところ。もしも誰かが止めるのが間に合わなくて、撃たれて。自分が死ぬ可能性を、僅かにでも残したのも。気づいてしまった。気づきたくなかったよ、そんな事。
 僕と黒豹と赤茶狼。そこに保険として送り込まれた。彼は。銀狼である必要すらなかった。もう一人、知らない誰かで良かったのに。復讐劇を当事者にさせない、観客という立場にさせるストッパー。ガルシェなら、僕に執着している息子なら。二人を見捨てて、そうするだろうと。それもまた、狂った筋書きの内の一つだったのであろうか。先にガルシェが舞台から離脱し、僕の手綱を握る人がいなくて。それで、ああなって。黒豹の狂気が、僕にまで及びそうになって。偶然、それはなされず。妻を死なせた責を息子に感じていると同時に、もう一人許せないような人がいると。そんなふうな台詞を市長さんは吐いていた。きっと、一番許せなかったのは。自分自身。立場が彼を現世に縛り付けているとしたら、もう一つ。それはあったのだ。愛する息子という。そんな人が。愛する気持ちと、憎む気持ち。その両方が共存していて、それが彼の行動方針になっているのだとしたら。守りたい人を、危険地域に送り出すのも。きっと。
 僕を無事に連れ帰りたかった。自分の目の届かない場所で息子を死なせたかった。そのどちらも正解で。間違っているのだとしたら。
「僕は、ただ。誰も死んで欲しくなかったんです」
 黒豹の顔が見れなくなって、床を視界に入れて。僕も手を握りしめる。爪が食い込んで痛かったけれど、それ以上は進まない。彼らの抱える怒りを、苦悩を、理解できない。したいとも思えない。辛いのなら、逃げ出してもいいとすら思える。だから、僕はガカイドのおこないを否定しない。良いじゃないか、辛かったら逃げたって。それでまた、立ち上がれるなら。逃げてはいけない場面だってあるけれど、絶対ではない。自分を守る為なら。
「ルルシャ」
 呼ばれて、顔を上げれば。もう僕を見ていない、黒豹の後頭部。反対側に顔が向いてしまって。表情が見えなくされて。僕に何を言うつもりなんだろう。何を言って。
「私は、いや。俺はもう。生きる理由を失ったけれど。止めてくれて、感謝……す、るっ」
 なんで皆、そろいもそろって。言われて嬉しくもない、お礼を言うのだろうか。視界が曇る。もう、嫌だった。何もかも。全員、嫌いだ。嫌いだよ、皆。死んじゃえ、そんなに死にたいなら今すぐ死んじゃえよ。本当に。大っ嫌いだ。そう叫び出したかった。それはだけはどうしても、できないけれど。それぐらいどうしようもない程、内心は荒れに荒れていて。それ以上、肩を僅かに震わせるだけで。何も言わなくなった黒豹に。僕も、居続けるのも迷惑だと思い。簡易テントから出る。すると、身に覚えのあるブーツが待っていた。顔を上げれば僕を心配そうにする、過保護な銀狼が首を傾けていて。片方の手は松葉杖をついて。それもまた、僕のせいでなった結果だった。とぼとぼと、浮かない足取りで。彼の前まで来て。そうして、ぽすりと。胸に顔を埋める。そんな僕の態度に、何も言わずただ。空いている手が、後頭部に優しく触れて。もっと押し付けるようにされて。表情を隠してくれる。していいのかなって思ったけれど、つい。彼の背中の方に腕を回すと、広い背中がそこにあって。誰かが、通り過ぎる。ここは私有地で、警備に人が徘徊しているから。泣き顔なんて、誰でも彼でもに見せたいわけじゃないから。まだ泣いてないけど。泣いてなんかやらないけど。それでもだ。彼の胸から顔を離す事がどうしてもできなかった。
 結局のところ、僕は誰かを救えたのだろうか。ただぐちゃくちゃに、傷つけただけで。何がしたかったのか。自分でもわからなくなって。そんな時。挫けてしまいそうな時。いつだって傍に居てくれたのは、銀狼だった。一番辛い時に寄り添ってくれたのは。そりゃ、彼にもいっぱい。いっぱい辛い事されたけれど。一度は、大好きな彼からすら。逃げ出したくなって。
「頑張ったな」
 胸の中で、顔を擦り付けるようにして。首を振る。何も頑張ってない。頑張れていない。僕は何もできていない。皆が頑張ったんだ。それだけだった。僕は、ガルシェに対して。甘い自覚があるけれど。この銀狼もまた、僕に対して甘いと思った。だから、叱ってくれる人ってとても貴重なんだ。つい、溺れたくなってしまう。そうしてしまいそうになるけれど、必死で否定する。それはしてはいけないと、自分を律する。だって、ガルシェ離れするって。そう決めたんだから。彼も、そうしてくれているんだから。依存したくなってしまう。僕なんかに、優しく、しないでよ。彼の胸に顔を埋めながら、においを嗅ぐ。荒れていた心が、ちょっと落ち着く気がして。ついやってしまったけれど。気づいているだろうに、ガルシェはそれにすら何も言わなかった。嗅がれて尾なんて振らないでよ。馬鹿。ささくれ立った感情が、ちょっと落ち着いたと思えたから。銀狼の胸から離れる。
「帰ろう。ガルシェ」
「もう、いいのか?」
「うん。僕にはどうする事もできないから。後は時間が解決してくれると、思う」
 そうであったら良いなって。あの人の苦しみを、あの人達の苦しみを、悲しみを。僕は背負えないし、わかってあげられない。聞いて、隣で泣くぐらいしか、できなかったから。本当に。何もできない自分が嫌になる。もうここでの用事も済んだ。運んできた物資は順調に各施設に届けられてるのか、人通りがどんどん増えていっているようで。ただ突っ立っている僕達は邪魔であろう。ガルシェも、仕事の範疇だろうから手伝うべきなんだろうけれど。そう思いちらりと、隣の男の足を見る。
「けっこう痛む?」
「先生には、無茶しすぎだって。後遺症が残ったらどうするって怒られた。暫くは絶対に走るな、歩くのも極力避けろだとさ」
 でなければ、松葉杖なんて使わないよね。こっぴどく虎の先生に怒られたみたいだし、これは僕も彼に無理させないように見張っていないと。だから、荷物運びに活躍しそうな筋肉達磨を悪いけれど人はここから連れ帰る事にしたのだった。それにしても。ルオネとガカイドの二人が見当たらない。もう先に帰ったのかな。ルオネには、本当に悪い事をした。怒ってるよね。狼らしく威嚇されたし。ぶたれかけたし。また友達と呼んでくれるかな。それは無理かもしれないなって。根拠はないけれど何となく思った。
 ゆっくりとした歩幅で、ガルシェと二人で歩く。いつもなら、彼が僕の歩幅を気にして。ペースを調節してくれるのに。松葉杖を使用して、怪我をしている足を庇いながら歩くのには、まだ慣れていない銀狼の歩幅は普段の僕よりも遅くて。そんな彼の姿に心が苦しくなるけれど、僕が立ち止まり。見つめているのに気づくと、不思議そうにする。交代で作ってた晩ご飯、今は昼頃だからお昼ご飯。ならば僕がやろう。別に、明確に日数で決めてもいないけれど。
 お昼って、お互い休みが重ならない限り。一緒に食べる機会はあまりないし。普段、僕は学校の食堂で。ガルシェは、何かしら行く前に買ってか、街の外で護衛中に支給されるものを食べている。
「ガルシェ、帰ったら何食べたい?」
「早く治したいから、肉がいい」
「じゃあ、ハンバーグでいいかな」
 玉葱なしの、ジャガイモとか野菜でかさ増ししたのを。と心の中で付け加える。前程、肉が手に入らないし。練り物料理とか、混ぜたので誤魔化さないと。彼の一口は大きいから、それでお肉は終わってしまいかねない。わりと、包丁でミンチにするのは大変であるのだけれど。彼の胃袋を満足させられるのなら安い労力という対価だった。油で揚げたらどちらかというとコロッケに近いだろうか。食用油もそこそこ値が張るけれど、こんど作ってみようかな。食感が嫌いであろう、僕がよく食べるパサパサのパンも。パン粉には良いかもしれない。食べ盛りの子供を持ったお母さんは大変だよねって。立派な大人である、狼の雄を見て。ハンバーグってなんだ、そう首を傾げているガルシェを見て笑いかける。どうやら、学校の食堂で出されていた物であるから。彼は知らないらしい。肉が食べられると、期待に舌なめずりなんてしているし。ステーキの親戚みたいな想像でもしているのかな。チーズなんて乗せてもいいな。残念ながら、ガカイドに払う報酬金のせいで。僕の懐事情はとても寒々しいものになってしまうから。思いつきで浪費できる余裕は残されていないのだけれど。有り金全部持って行って良いよって言ってしまったのだし。ガルシェも暫くお仕事には復帰できない事を考えると、我が家の家計は大ピンチと言えた。これは困った。よりいっそう節約しないと。でも今日は。頑張ったガルシェを労いたい気持ちの方が強かったから。少しだけ贅沢にお肉を使ってもいいだろう。最近干し肉とか、安価なジャガイモとかばかりであったし。ああ、ドッグフードは食べたな。思い出したら、味まで。人間の食べ物じゃないと思う。名前の通り、犬用だし。なんで彼らは平気な顔をして食べられるの。味音痴、というわけではないみたいだし。普通に僕が食べても美味しいと思える物も、お店で売られているし。育ちの違いだろうか。食うのに困ったら革靴を食べたって話もあったような。なめし加工に使われる原料によっては人体に有害な場合があるので、必ずしも食べられるとは限らないらしいけれど。
 僕が歩幅を気にする日が来るなんてな。裏通りから、住宅区へと。時間を掛けて歩いて、いつもの錆びた階段。一階の家屋。その屋根に乗せられたプレハブ小屋。僕達の家へと続く、よく音が鳴るそれにも。やはり苦労して登る事になる。歩くよりもしんどそうだけれど、僕の力で百キロを超える体重の身体を支えるわけもなく。見ている事しかできない。ただ先に家の鍵を開錠し、扉を開いて。少しでも彼の負担を減らすぐらいだろうか。玄関では、僕が先にブーツを脱いで。続いて、彼の大きなブーツを脱がすのを手伝う。手と足にある肉球とかは汗を掻くから、意外に彼のブーツは臭う。それは、僕のも同じで。抗菌仕様の中敷きとかないし、気になったら洗って天日干しするぐらいしか対処方はないのだけれど。除菌用の液体をスプレーもできないし。覚えていたら、こんどの休みに洗おう。銀狼がソファーに倒れるように座ると、使っていた松葉杖を腕置きに立てかける。どうやら、時間が経過した今の方がより痛みは増しているのか。床に足をつけるのも辛そうであった。戦闘時はアドレナリンとかそういったので、わりと麻痺していたように思えるし。気が張っていたというのもあるのであろう。実際、僕も。家に着いてからというもの、身体が思った以上に怠い。ロッジで感じていたもの以上に。でも、作ると言った手前。晩ご飯を別のに変えるのもなって。だから軽く頬を叩き、もう一度気合を入れる。大丈夫。彼の為なら、まだまだ頑張れる。家事ぐらいしか、一人前にできないのだから。そう自分を俯瞰して。ならばせめてこれぐらいはやりたい。やらなければいけなかった。僕の第二の主戦場とも言えた。考えすぎて頭も疲労を感じるし、泣きそうになって若干頭痛だってするけれど。もっと痛い思いをした人達がいっぱいいて。僕のなんて、って思えた。それに、お腹を空かせた銀狼が待っている。でも、夜は簡単なものにしよう。食べたら、お風呂に入って。それから心地よくお昼寝でもしようか。ガルシェの毛皮も洗わないと、汚れてしまっている。僕はさらに、その、汚れているし。ガカイドめ。
 文字にすると、三日間。一日かけて都市部に行って、二日目にあんな事があって。三日目に街に帰って来た。それだけなんだけど、あまりに濃密過ぎた。人生経験としては、あまりしたくない系統であって。これからも願い下げだった。でも。あんな世界で、後ろでお腹を鳴らして。ソファーの上で足が痛くて動けなくて。退屈そうにしている銀狼は生きてきたんだなって。街の外を体験したから。聞くだけだったものに、実体験が加わり。より実感が湧いた。街の外でお仕事するって、本当に命懸けなんだなって。確かに、誰ばりができる仕事ではなかった。いくら僕よりも屈強で、背の高い人が多いレプリカントの男性でも。好んで選ばない職種なわけだ。それでいて、重宝されるのも。毎日、無事に帰って来てねって。送り出したりしてたけれど、これからはより強い願いになりそうだった。
 でも。まずはまな板の上に置いた。この肉の塊を、叩いて潰して刻んで、ミンチにしないとだ。生きる為には、先ずは食べないとね。そうやって。動けないガルシェが、目の前に運ばれてきた料理を待ち遠しそうに、それでも露骨に態度には出したくないのか。すまし顔をし。隠しきれていない尾だけ振って。
 机の上に置かれた物体を見て、不思議そうに頭を傾けて。ステーキじゃないのかって、そんな顔。違うよ。色合いだけは、焼けた肉だけれど。違うよ。足を気にしながらも、ソファーから身を乗り出して背の低い机の料理を真剣な顔して嗅いでも、違うよ。訝しみながらも、切り分けた柔らかい感触に。僕の顔を見ながら疑い、それでも口に含めば。美味しそうに目を細める銀狼。どうやらお口に合ったらしい。肉汁が沁み込んだ野菜。ただどうしても、長く噛んでいると野菜の味の方が勝つのか。消えた肉の味に悲しそうにしては、次の一口にと手を付けるのだが。僕のよりも大きめに作ったから。彼のハンバーグにはジャガイモ四個分も使っている。繋ぎに卵と少量のパン粉も、手で捏ねるのに苦労したが量だけは予定通り増やせた。大きな胃袋を満足させるにたるだろうか。作り置きしてあるケチャップモドキ。トマトを茹でて潰して味付けしただけの簡単な物。少しだけ唐辛子を入れている。ハンバーグには何かしら掛けるソースがないとねなんて。食事をすれば、いよいよお風呂の時間。最近彼は一人で入っていたから、久しぶりに一緒に入るなって。足の都合上、一人で入れなくはないだろうが。いつもよりはやり辛いだろうし、手伝った方が早くお風呂から出られるだろう。お湯ではないのだから、長時間水に触れるのはよろしくない。
 だから、裸のガルシェの後ろに立った僕は。ゴシゴシと、毛を洗っていく。もう慣れたものだろう。僕が背中を洗っている間、彼は自分の足や腕、そしてデリケートな尻尾等を前に掴んで持ってきて自分で洗っている。僕がやるのは後頭部にかけて背中まで。何となく、ガカイドが俺の股間洗ってくれるならいいぜって。おふざけで言った言葉が蘇る。誰が他人のそこを洗うというのか。ガルシェのだって、自分でさせているし。頼まれた事もないけど。いくら好きとはいえ、頼まれてもしないけど。最初の頃に比べると、わりとちゃんと念入りに汚れを気にして洗ってくれるようになったよなって。男の手付きを目で追う。毛の流れにそって泡立てたタオルを滑らすだけでは、毛の根本まで届かないから。注意したのがとても遠い昔のようだった。
 そんな白いあわあわに包まれ、タオル握りしめているガルシェの手が。自身の股間に向かうのがわかってそっと目を逸らす。あまり不躾に見るものではなかった。粗方泡まみれにしたら。
「お水掛けるよガルシェ」
 そう前を向いた、狼の後頭部に声を掛ければ。お約束とばかりに、ぴんと立った耳を両手を使い。まるで頭を抱えるようにして、きゅっと手で蓋をして水が入らないようにする銀狼。きっと正面から見たら、その目もぎゅうっと閉じられているのだろうな。シャワーノズルを手に持ち、そんな相手に容赦なく水を掛けるのだけれど。洗い流される泡。彼の銀毛は、磨くとやっぱり綺麗だった。
 ただ、僕の汚れも。ガルシェを先に外に出した後、自分で洗うつもりだったけれど。いくら待っても、脱衣所の方へ出て行かず。なんなら手に再び泡立てたタオルをこちらに向ける銀狼。無言で見下ろして来る目が怖いと思った。目つきの悪さは元々だけれど。抵抗しても、聞く耳は持ってくれなさそうだと。僕も大人しく、彼が使用していたタライの中にぼちゃんと腰を沈める。彼の力の強さを考えると、脆い人の肌にはあまりに過剰であるのだが。優しくタオルを押し当ててくるのだから、ガルシェも人相手の力加減はもう職人並みだろうか。もしかして、今なら卵も綺麗に割れるのではないかと思えるのに。料理をする時、毎回卵を使うとスクランブルエッグだから。克服できていないのか、本当にその焼き方が好きなだけなのか。判断に困った。
 ガルシェにした事を、こんどはガルシェにされて。そうやってお互い身体を綺麗にしたら。お風呂から出て、またここでも大変な大仕事が待っている。水をよく吸う、全身が毛で覆われている銀狼を拭くという作業だ。大きな専用のタオルを大量に使い、水気を肩代わりさせていく。衣服が彼専用のタオルを枚数が上回る事は永遠に訪れないであろうな。
 終わった終わったと、全てが終わった心地よい疲労感。その頃には頭痛もましになっていた。ただ、都市部での発言をしっかり覚えていた銀狼は。パンツとズボンだけ履いて。上半身は着ない、いつもの部屋スタイルになったら。僕は全身部屋着に着替えたけれど。逃がさないとばかりに、腕を掴まれて。お気に入りのソファーに座らされ。簡単に押し倒される。におい付けの時間だった。足痛くないのかなって、気になるけれど。僕の上に覆いかぶさる形で、膝立ちで、手を僕の顔の両脇に置いたガルシェ。刺激の少ない、ほんのりと香る程度の石鹸の匂い。それをもう上書きする気満々の銀狼の真剣な顔。こうして身を寄せ合うと同じにおいが、彼の毛皮からもしていて。意気揚々と、僕に頬を押し付けたり、身体を擦りつけたりしようとして。ぐっと身を寄せて、後ほんの少しで触れそうなぐらいで。はたと気づいたらしい。自分のにおいも洗い流してしまった事に。パチパチと、瞬きをする。そんな彼を見てくすりと笑う。残念だったねと。だから油断していたと言われたらそうで。僕の様子に、ムッとした狼の顔が。んべって、舌を出して。そのままべろりと頬を舐めてくるのだから。これには、たまらない。猛進してくる狼の顔を、手で止めようとしても人の力などたかが知れているのだった。みるみるせっかく綺麗にしたのに、彼の唾液濡れにされていく僕の顔。べちゃべちゃにされて、嫌な顔をしていると乱暴に自分の腕を僕に押し当てて。軽く唾液を拭き取って。それで満足したらしい。むふーって、満足そうな鼻息がなんか腹が立つ。それに、その拭いた腕はせっかくふんわりしていた綺麗な毛がぼさぼさになっているし。本当に、この男は汚すのが得意だった。
 それで、僕の両脇に手を入れると持ち上げて。自身は仰向けになり。人を胸の上に抱きかかえた銀狼はお昼寝する気なのか、そのまま目を瞑る。布団に移るべきだとも思ったが。満腹になって丁度いい睡魔が僕にもあったから。彼に文句を言わず、このまま付き合うのも良いかなってそう思って。暫く彼の胸の上でそうしていたけれど。ちょっとしたイタズラ心で、真っすぐ天井に向けられた彼のマズル。その頂きにある狼の鼻をぶにって押す。そうすると、まるでそれがスイッチのように。両脇にある長く伸びた白い髭がビビビと動いて、ちょっと面白い。なんどかそうして遊んでいると、押そうとした人差し指を唐突にぱくりと咥えられてしまう。あって、そう声を上げると。いつの間にか目を開けた、金色の目がこちらを見ていて。寝ていると思っていたけれど、まだだったらしい。ほくそ笑んだ男の顔。別に咬み千切られるような力は籠められていなかったが、鋭い牙が並ぶ彼の口の中に消えた自身の指の安否に焦る。閉じられていた口が開き、それで狼の口吻から抜き取ると。唾液が糸を引いた。うわぁ。これが子犬とかだったらまだしかたないなって思えるのに。それをしたのは成人男性である。吸われたわけではないし、先にイタズラしたのは僕であるのだが。そのまま、咥えられた指がある手で、彼の頬を撫でながら。こっそりと毛皮で拭く。眠気に知能が下がった銀狼では、ただ僕が撫でたくてそうしたと思っているのか。気持ちよさそうになすがままだ。きっと、目覚めた時は涎でも垂れたとでも勘違いしてくれそうであるし。そうやってちょっとじゃれあって。結局僕らが起きたのは、灯りを付けないと周辺が見えないぐらい。お月様が爛々と輝いている時間だった。寝すぎたって思ったけれど、たまにはこういう日も悪くないかもって。そう思えた。
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