レプリカント 退廃した世界で君と

( ゚д゚ )

文字の大きさ
上 下
23 / 41
六章

23

しおりを挟む
 都市部で何事もなく皆で夜明けを迎えた。設置したセンサーを回収して、出発準備を整えると。初日と同じように班分けされるのかと思ったが、今日はガカイドが運転するらしい。大丈夫かなってつい不安に見上げていると額にデコピンを食らう。レプリカントの成人男性から繰り出されるそれはかなり痛い。思わず上げそうになった悲痛な叫び声を、敵に見つかってはいけないと必死で堪えていると、ガルシェが屈んで僕の頭を撫でていた。心配そうに顔を覗き込んで来るけれどそれどころではなく、レリーベさんが待ちくたびれてしまうから。僕に構わず先に行って欲しいのだが。
 やせ我慢しながら、大丈夫。撫でてくれたから痛みも取れたよとそう嘘を吐く。それくらい数分しても痛みが引かない。絶対赤くなってる、額。それをした赤茶狼はさっさと乗り込んでトラックのエンジンを始動させているし。黒豹はもう、地下駐車場の出入り口まで歩いて行ってしまっている。後は、嘘を簡単に見抜いてまだ傍に居る過保護な銀狼だけで。終わらせてさっさと街へと帰ろう。そう言ってやっと、表情を引き締めて。黒豹の後を追ってくれた。過保護レベルって。まだ上がるんだ。ここが危険地帯だからだろうか。非戦闘員である僕が居るから、もしかしたら彼の内心はかなり荒れているのかもしれない。碌に調べず、僕を抱えて街の外へと走り出さないだけマシと言えたが。何だか、ダメ男化が進んでいる気がする。ガカイドに甘やかしすぎだと言われたけれど。僕のせいじゃないと思う。というより思いたい。こんなにも、彼の自立を促進して来たのは。誰でもない僕だというのにだ。
 昨日の赤茶狼がしていた役目を、黒豹がおこない。ガルシェは無防備な彼の背中を守る役目。そして僕とトラックを運転するガカイドはその遥か後方から追従する形で。のろのろと進む。それでも前日の時点で目的地までかなり肉薄していたから、そんな焦れったい歩みも直ぐに終わり。全員で目的の建物を見上げるに至った。元は、何の施設であろうか。企業のロゴらしきものはあれど、それも風化していて。塗装が剥げて一部が欠落している。名前も。読み取れた一部から推測するに、医療系の施設であろうか。二階建てと思わしき正面玄関にトラックを乗りつけて。皆でエントランスホールへと入る。僕が倒れていたのは裏手で、崩れているらしい。そういえば、目覚めた時にまず目についたのは鉄筋や鉄骨であったか。歩いていると、壁に自然と崩れたにしては不思議な陥没。弾痕、であろうか。白骨化した死体の痕跡とかあるのかなって思っていたが、そうではないようで。物が散乱しているだけであった。別に見たいわけではないが。
 ただそれで安心していると、理由を知ったガカイドが骨も長い年月が経てば崩れてわからなくなるぞって、いらぬ情報を教えてくれる。ご親切にどうもって、お礼を言うと。尻尾を振ってくれる。だとしたら、点在するこの白い砂のようなのはとか。床を注視しているとそれらしきものな気がして来て。気づいたら先に進んでいる三人。距離は数メートルも離れていなかったが、置いてかれそうで慌てて彼らの後ろに寄る。銀狼だけ振り返ってこちらを見ていたから、実際に置いてかれるような事態にはならないであろうが。会議室や、事務室、資料室。更衣室、トイレ。ごく一般的な部屋の前を通り過ぎながら、建物の中を移動していると。途端に空が見える部屋に通りかかる。ガラスが散乱し、L形だったりH形だったりする鉄骨が崩れ落ち。コンクリートの瓦礫と一緒に積みあがっている。あまりに身に覚えのある場所故に、部屋の入口の前で立ち止まり。この時ばかりは置いてかれるとかそんな思考すら抜け落ちていた。戦闘力が皆無な、護衛対象である人間がついて来ていないと気づいたガカイドが。慌てて通った道を逆走して、僕の前まで来て怖い顔していた。
 空返事をする人に対して、ますますここがどういう所かわかっていないのかと。危機感のない僕相手に、ガカイドの普段のおちゃらけた態度が嘘のようで。怒鳴られそうに感じたけれど、レリーベさんが助け船のようにこの先だと。通路のまだ行った事のない方を階段を指差していた。どうやら目的地は二階らしい。さすがにガルシェでも、僕の今の態度に庇う気はなかったのか事の成り行きを見守るにとどめていた。ガカイドが離れたタイミングで、ぼーっとするなと耳打ちされる。レリーベさんは車の助手席に積んでいた縦長のバッグを背負っており、拳銃を手にしながら。曲がり角で立ち止まり、先の様子を窺いながらこちらに手信号で合図を送ってくれていた。ガカイドもガルシェも、自分の獲物をしっかり構えているけれど。銀狼が手にする銃は狭い屋内では扱い辛そうであった。一メートルはある銃の全長、ただ持っている男の体躯がかなり大きい為に。ちょっとバランスが悪いと感じる。二メートルはある身長の彼らで、さらに体重は百キロを優に超える重さに裏打ちされた筋肉の鎧を纏っているのだから。人間で扱える銃では少々彼らにとっては小振りに感じてしまうのかもしれない。もう愚かな人間が遅れないように、フォーメンションを変えて。僕よりも後ろに位置取り、ガルシェが後方を警戒しながら進む。
 警戒しながら通路を通って来たわけだが。ここでも機械達に遭遇しなかった。双眼鏡で見たパワードスーツ一機だけだった。通路を抜けた先は少し広い空間。以前は観葉植物でも置いていたのか、厳重そうな扉の両脇には崩れた植木鉢が、中身であった干乾びた土を零していた。広いホールに対して、扉は一つ。壁には液晶端末があり、人の手垢の代わりに血痕なのか。赤黒い手の形が残されている。レリーベさんが調査した時には開く事はなく、それでも扉の端末は生きており反応したらしい。だから、その事前情報が正しいと示すように。試しに黒豹が指で触れる。それで発せられる小さな穴から、掠れて耳障りなブービー音。年月が経ち、劣化したスピーカー。それでも鳴るだけ凄いのだが。電力が、ちゃんと来ている。不穏だ。
 彼らの手形は肉球がある為に、ちょっと違う。だからこの手形は人のそれで。僕の手を一回り大きくしたようなものであった。そこに、慎重に重ねる。そうすると光が上下に動き、何かを読み取っているらしい。パネルが動作するのを、全員が固唾をのんで見守る。これだけの年月が経ち、液晶がまだ使える筈がないのに。誰かがメンテナンスしている? いったい誰が。
 僕の心の中で浮上した疑問。まだ見ぬ誰か、もしかして誰かが未だに住んでいるのだろうか。突然のエアー音が扉の中からして、そして重々しい重厚な鉄の壁が。左右に割れる。汚れた廊下に比べて、扉の先はとても綺麗だった。少々埃っぽいが。
「おかえりなさい博士。確認が必要な項目は、二万四千六百三件、です」
 僕以外の三人が、突如鳴り響いた第三者の声によって少し下げていた銃口を咄嗟に構える。僕だけが、無機質な機会音声に対して。驚きはしても、あまり動揺はしていなかった。というより、本当に開いてしまったのもあったが。内容の一つがどうしても気になって。後ろでガカイドが、マジかよって。本当に開いてしまった事に、驚愕していた。入るまいか、敏感に危険を察知した獣の顔をした三人に対して。きっと落ち着き払った僕の態度はいっそ、異様に映っただろうか。
「行きましょう」
 行かないと、ここまで来たのだから。来て、しまったのだから。空調が稼働しているのか、少し進むと天井から風を感じた。そして、一つ目の部屋に差し掛かると起動しているパソコンを発見。警戒心が高まる中。見聞きはしても、実際に動いているのを初めてみる彼らの内。黒豹が代表してとりあえず表示された内容を読みながら、適当にボタンを押してみたり。マウスの上に手を乗せて操作していた。読み取る内容から、この施設が最近再稼働したと。隣で覗き込んでいたその手元、こうなる前の過去らしき記憶がある僕は。操作方法だけはわかるので、クリックの仕方と。ファイルの開け方などだけ教える。そうすると、少々黒豹の視線が僕に対して鋭さを増した。そういえば、彼は僕の出自をどこまで知っているのだろうか。記憶の事も。市長さんにはある程度の物に関しての覚えがあると説明はしてあるが。不審に見えるのだろうけれど、特に何も言われず操作を続けていると。独立した電力施設と、メンテナンスドローンの稼働記録をレリーベさんが見つける。その日付を辿ると、僕が目覚める数か月前だった。後は、よくわからない大量のエラーログだろうか。これは暫く眺めていても意味がわからなかった。
 僕らがパソコンに齧りついてる間、周辺を警戒しながら探索していただろう。狼二人の内、赤茶狼の声が別の場所でした。何かあったらしい、ただ襲われているという類のそれではなく。それは喜びめいた感情が含まれていた。黒豹と目配せして早足で声のする方へと廊下を歩いていく。そこで、騒がしい一室に到達すると。室内ではガカイドが棚を漁っていた。
「見てみろよ、食料がこんなに!」
 そう言いながら、透明な袋で真空パックされた中身が透けているそれらを抱き締めるようにして、抱えている姿。一個がぽとりと、男の腕の中から抜け出して。冷たい床に落ちる。ガルシェはガカイドの浮かれた姿にあまり騒ぐなと落ち着けようとはしていたが、銀狼も興奮しているのか。ちょっと尻尾の毛が逆立っているのが見て取れた。僕と一緒に歩いてきたレリーベさんだけ、無表情でその光景を眺めて。街が助かるとなれば、彼も喜んで良い筈なのに。目的の物は見つかったのだから、後はトラックに運んで積むだけだった。だから、これ以上他を探索して危険を冒す必要はなく。手分けして箱に詰めて、運ぶ必要があった。一緒に部屋の入口に立ち止まっていた黒豹は、狼二人の作業に遅れて加わる。ならば、僕も。このまま突っ立ているわけにもいかないと。近くの棚に歩み寄り、彼らと同じように袋を手に取る。腐ってないのかな、これって。大量にあるのだからと、毒見役とばかりに。赤茶狼が一つ破り、中身を取り出すと。危険性を顧みず、においを嗅いだ後、口に含み。うめぇうめぇとしきりに言っているから、恐らく大丈夫なのであろうか。
 袋を裏返すと、加工日も印刷されていた。この施設が再稼働された時とそう変わらない。胸騒ぎがした。どうしようもなく、だから今彼らが食料に夢中になってる内に。人知れずその場を後にする。ただ、誰かに呼ばれているような。そんな感覚があったというのもあった。確信はないし、実際に声が聞こえたわけでもない。心の奥底に眠っている何かに突き動かされたにすぎない。だから、別の部屋にやってきて。異臭を嗅ぎ、一人で来た事に後悔して。そして良かったと思った。
 そこには、リクライニングした椅子のような家具があり。その上にはミイラ化した人間の遺体が、頭にヘッドギアらしきものを被っており。それは有線で壁へと続いていた。引き返せ、引き返せ、引き返せ。耳鳴りのようにして、警告めいた悪寒がする。それでも、自分という存在を、答えを知りたくて。ここまで来たのだから、目を逸らすような事はしなかった。口元を自然と押さえながら、遺体に近づけば。どうやら死因はこのヘッドギアらしき被り物らしい。被せられた部分が、焦げていた。強い電流でも流れたのだろうか。そのまま目線を横へとズラせば、同じような死体が複数あった。等間隔で並んでいるそれら。ただ何も乗っていない椅子もあり、そこにはヘッドギアだけが床に転がっている。
 得られる情報など少なく、奥へと扉が続いていたから。近づくだけで開く自動ドア。増す悪寒は冷や汗となり。肌を不快に伝う。そうして、縦長の透明な筒。そこを満たす液体と、中で浮かぶ肉塊。ガラスケース自体が割れて、中身が床へと散乱しているものもあれば。空っぽだったり。また肉塊のような物が浮かんでいたり、ようなものというのは。それが何か頭では理解しているけれど。感情が認めるのを拒絶していたからだ。人のような形を、しているから。ただ、一つ。一番原形をとどめているものまで歩いて、生きてはいないのであろう。どこかをぼんやりと見つめるようでいて、逆に目を開けたまま寝ているかのような印象を与える表情。暗く濁った瞳に、生者である僕の顔が映りこむ。そこで、自分の心臓の音がやけにうるさくて。めまいまでしそうなぐらい、足がぐらついていたから。急に視界を覆われて、何も反応ができなかった。
「見るな」
 聞き覚えのある男性の低い声がした。過呼吸になりそうな息を必死で落ち着けながら。きっと僕が居ない事に気づいて探しに来てくれたのであろう。一番、来て欲しくなかった人が。後ろに立っており。僕の目を毛むくじゃらの大きな手で覆い隠していた。
「こんなもの。見るんじゃない、ルルシャ」
 僕が振り返ろうとすると、意図を理解してくれたのか覆っていた手が離れて。そうすると、困惑と、そしてこちらを心配する気持ちがない交ぜになった。狼の表情が、耳を倒して。こちらを見下ろしていた。ここに居るのだから、当然液体の中に浮かぶ物体も。ガルシェは目に入っている筈で。僕の手首を掴んだら、もう立ち去ろうと急かす。それでもいつまでも動かないでいると、舌打ちと共に強引に引きずられて。もう機械の化け物が追いかけているわけでもないのに、最初出会った時よりもずっと。彼は一刻も早くここから立ち去りたいのか焦っていた。
 真実を振り返りながら、僕達が通り過ぎた後。自動的に閉まる扉。そして、ガルシェは何を思ったのか。手に持っている銃の引き金を、引いた。鼓膜が痛む程の、大きな炸裂音。これが硝煙の臭いってやつだろうか。撃ったのは数発、足元で薬莢が音を立て。それを聞いていただろう二人がバタバタと足音を立て。武器を構え、襲撃かと身構えていた。
「敵か、ガルシェ!」
「いや。大きな虫だった、騒がせてすまない」
 銀狼が放った咄嗟の言い訳に対して赤茶狼が、虫なんて苦手だったかと肩を叩く最中。黒豹が何かあったと感じ取ったのか、じっと僕を見ていた。それに対して、取り繕う事もできず。口を噤み、俯くしか。そうやって、伏せた顔で表情を見られないようにしながら。ちらりと、ガルシェが撃った場所を確かめる。自動扉のセンサーらしき場所に、穴が数個開いていた。あまり仕組みとかわからないであろうに、野生の勘だろうか。扉の上に不自然な機械があるから、これだと思ったのか。今となっては、その機能を損失し。近づいても反応しないであろうから、もうそれもどうでもよかったが。
 僕ではなく、銀狼が隠そうとしれくれて。その背に名を呼び、どうしてそうするのか。疑問を投げかけたくて。アレを見ていない者が二人居る状況でそれもできず。でも、ただ目を伏せ首を振る狼の頭。お前も早く手伝えと言いながら、作業に戻る赤茶狼に返事した後で。僕の前に跪いて。肩にそっと手を置かれる。強張っている気がした。平静を装っているけれど、ガルシェもまた。見た物のせいで少なからず動揺しているらしい。
「後で考えよう。今は作戦に集中するべきだ、ルルシャ」
 正論ではあった。機械達がいつ襲撃するともしれないのだから。いいな。そう強く、言い含めるみたいにされて。不本意ながらも頷くしかなくて。そこからは、黙々と作業に没頭した。そうしないと、先程見たものを考えてしまって。気分が悪くなるから。ただ棚にある食料を、箱に詰めて。元来た道を戻り、トラックの荷台へ。それを繰り返すだけ。医療物資も、隣の部屋にあり。見つけた物の数では予想以上のものであったであろうか。ただ、もう開かなくなった。ガルシェが壊した扉の先も、お宝があったんじゃないかと。ガカイドが不満を漏らしていた。対してお前達が来る前に調べたが、何もなかったって。有耶無耶にしようとしている。嘘だってわかっているのであろう。ただ、幼馴染が珍しく吐いた嘘を。そうかよって、納得はしていないながらも。それ以上問うのは止めたらしい。
 トラックの荷台に荷物がどんどん堆く積まれていく。ぎっしりと箱に詰められたそれらは、僕が抱えても持ち上げるのに苦労するぐらいで。それでも。非力ながらも汗をびっしょり掻きながら手伝う。できないなら兎も角、必死になればできるなら。今まで役立たずだった分、何かで取り返したかった。僕達が最後には乗らないといけないから一定のスペースは空けとくのかなって思っていると、止まらない彼らの手。帰りはどうするんだろう。そんな疑問は、屋根に乗ればいいだろって、そっけなく返されたのだった。僕の中の常識がまた一つ崩れていく。どこかの国では積載オーバーだろうと、車の大きさ以上に紐で無理やり荷物をくっつけるようにして運んだりするけれども。電車に飛び乗って無賃乗車したり。
 もう乗せられるのはこれで最後だと確認しつつ。まだ残っている物資は一度帰ってから市長さんの判断を仰ごうという話になった。僕が触った事で開いた分厚い扉は、あれからずっと開きっぱなしだ。暫く離れていると閉じてしまわないだろうか。野生動物が入って来て荒らしたり。密封技術がしっかりしてるのか、においを辿って荒らしたりはしないだろうと。袋を嗅ぎながらガカイドがたぶん大丈夫だと、保証してくれる。もし荒らされたらそれは偶然ぐらいだとも。一度に全部運べたら良かったのだが。生憎とトラックは一台しかない。街の倉庫にはまだ別の車種が数台あったようだが、それが動くかどうかも僕はしらないし。実際にこうして物資があっただけ奇跡のようなものであった。だから、どこか皆浮かれていたんだと思う。一番警戒心が高そうな黒豹だって。ただ不自然に景色が動いたように。僕が錯覚だと思ったが、それでも違和感に足を止めたから。皆が不思議そうに立ち止まる。銃を構える事なく。ゆらり、ゆらり。やはり景色がぼやける。目が霞むような、目に生じる違和感とも違う。本当に景色自体が揺れているような。だから、あれは何だろう。そう皆に聞こうとして。
 持っていた荷物を足元に捨て去りながら、ガルシェが僕の方へ走って来るのが視界に入ったのだった。立ち止まっている僕よりも前へと出て、そうして愛用の自動小銃を横向きにして空中に掲げるのと。甲高い金属音がするのは同時だった。ゆれていた景色の一部が、明滅するように。そうしてノイズ音を僅かに僕の耳が捉え。浮かび上がる幻影。僕達四人以外、居る筈のなかった廊下に、ガルシェの巨体に負けず劣らずの何かが浮かび上がる。空間にだんだんと存在を主張する金属の装甲。機械であるのに、まるで生物のような姿。四つの足で細長い体躯を支え、そうして二つの鎌状になっている刃が一つ。ガルシェに向かって押し付けられており。その凶器が、銃の一部に浅く食い込んでいた。大きさはまるで違うけれど、見た事ある姿に。僕は思わず逃げるのも忘れて呟く。
「かまきり?」
「馬鹿っ、離れろ!」
 声と共に銃声がした。それは狭い通路で僕が見ている後方。レリーべさんが、違う方向へ銃を構えていた。そう、目の前の異質な化け物は一匹だけではなかったのだ。機械の身体をしているから、一体と表現した方が良いのかもしれなかったが。僕を庇う形で前へと出た銀狼が、苦しそうな声を漏らしながら。だんだんと上半身が仰け反る。力で負けていた。モーター音が聞こえる度に、押し込まれていく。それはそのまま、僕の方へと下がって来る事を意味していて。
「くそっ」
「ガルシェっ!」
 一瞬だけ、後方に居る僕を気にした素振りをした後。掲げていた銃を少しだけ傾けて、受けていた力を逸らす。そうすると僕の目の前で真っすぐに振り下ろされた刃先が、床へと突き立っていた。もう十センチ以上距離が離れていなければ、その刃は僕を真っ二つにしていただろうか。銀狼が身体を横にズラし、刃が通過した後で。次の動作を相手がする前に思いっきりその細長い胴体に体当たりしていた。鉄の蟷螂に向かってだ。二つの大きな存在が僕の目の前で横へとスライド移動していく。蟷螂の鎌が空中を引っ掻くようにしながら。ガルシェは胴体部分にぶつかったまま、押しやり。その進行方向は丁度扉であり、蝶番を壊しながら奥へと転がるようにして。そして、その部屋は運が悪かったのか。ここが二階であったのも関係しただろうか。僕が目覚めたように老朽化で崩れており。阻まれる事なく太陽がしっかりと床を照らして。転がる両者はそのまま、体勢を整える前に。あるべき壁にぶつかって減速する事もできず空中へと放り出された。落ちていく途中、人と銀狼の目が一瞬合うけれど。下へと重力に従って落下していくのだから。それも見えなくなった。
 どうなったか、落ちた先を確認しようと走り出そうとして。ガカイドが僕の肩を掴む。血相を変えて、僕は部屋の方ではなく。廊下の方へと掴まれた肩が痛むよりも先に投げるようにして、そうして逃げるんだよって。ガカイドの奥ではレリーベさんが拳銃を両手で保持して、牽制射撃しながら。こちらへと下がって来ていた。もう一体いた鋼鉄の蟷螂は、二本ある鎌を盾のようにして。センサーが密集するであろう頭部を守っていた。状況は逃げた方が良いのはわかっている、それはわかっているけれど。僕はガルシェの安否が心配で、どうしても確認したくて。それをしようとすると、また胸を赤茶狼の手が押す。今は逃げるのが最優先だと。手を銀狼が落ちていった方へ伸ばすけれど。ガカイドがいい加減にしろとばかりに、僕を抱えて走り出した。それに気づいた黒豹もまた、走りながら時折銃を撃って。追いついて来る。いくら僕を抱えているとはいえ、どうやら走るのはレリーベさんのが早いらしい。そうやって、階段を下り。適当な部屋へと入ると、ついて来ていないか確かめて。二階建てといえど、広い建物だ。どうやら歩く速度はそうでもないのか、二人の荒い息以外。足音といった音は聞こえない。普通の人間が走る速度よりもずっと、彼ら二人は速かったのだから。無事撒けたのかもしれない。長く留まっていると、いずれ見つかる危険性はあったが。それで、僕を床へ降ろすと。二人は自分の銃の残り残段数を確認しながら、必要とあればリロードしていた。拳銃を持っているレリーベさんの方から、空になったマガジンが床へ落ちるのを僕は茫然と見ていた。どうしよう。ガルシェが一人で。僕を庇って。まさか僕よりも先にガルシェが。ガルシェに何かあったら市長さんに。ガルシェが。どうしよう。助けに行かなきゃ、でも僕。なにもできない。僕のせいで。僕のせいだ。もっと気づくのが早ければ。どうしよう。
「くそ、くそっ、くそっ! なんなんだよあれ、なんだよあれ、ちくしょう!」
 力の入らない身体に反して、頭の中は銀狼の事でいっぱいで。気が動転して何も思いつかないのに、考えだけが先走って。そんな中で、残弾のというより。あれだけの騒動の中、撃った姿を見かけていないように思えた。そんな赤茶狼は自身の頭を抱えている。あまり大きな声を出すなと、せっかく撒いたのにまた見つかると。黒豹が赤茶狼の肩に触れたが、びくりと触れた場所だけでなく全身が反応したかと思うと。次の瞬間にはその黒い手を跳ねのけていた。取り乱しているのは自分だけかと思っていたが、それ以上の人がいた。銃を抱え、触るなと、怯え。そして僕と目が合うと、また身体を震わせて。
「なぜ、一発も撃たなかった。ガカイド」
「撃てねぇ、トリガーが、重い。なんでっ。またかよ、またなのかよ。皆、死ぬ。姿消せるなんて聞いてねぇよ、死ぬんだ、俺達。何でガルシェが真っ先に。また俺が指揮してた皆、こんどは俺も」
 あまりにも平静さを欠いている相手を見て、まるで錯乱しているようにもとれた。そんな男の姿にこれはだめだと思ったのか。黒豹は早々赤茶狼から視線を外すと、背中に背負っていた縦長のバッグを床に置き。中身を取り出し、パーツ同士を繋ぎ何かを組み立て始める。それは、まだ一部分だけだったが。大きな銃であるようであった。狭い廊下では扱いに困るが、ここは会議室なのかわりかしスペースがある。迎え撃つ気なのか。そんな黒豹の姿を見た後で。蹲って、頭を揺らしながらぶつぶつ呟くだけの置物みたいになっているガカイドに近づいてみる。少し、触れるか迷うも。その背に僕の手が触れると、またびくりと反応して。それでも黒豹の時みたいに跳ねのけられる事はなかった。ただ、焦点を失ったように左右に動く目。こちらに向いた狼の頭が。時間を掛けて僕を認識したらしい。逆に抱えていた銃を手放し、抱きついて来るのだから。苦しいぐらいの抱擁と、そして。耳元で繰り返される謝罪。そんな時太腿辺りが濡れているように感じて。不自然な温かさに下を確認すると、床にはだんだんと広がりつつある湯気を立てる液体。その発生源はどうやらガカイドらしい。漂いだす、この場所には似つかわしくないアンモニア臭。この状況下と、彼の陥っている姿から。もしかして。PTSDという単語が脳裏をよぎった。
 心的外傷後ストレス障害。実際に心の病気となると、僕の知らない病名が多く存在していて。医者がちゃんと診断すると違う病気なのかもしれなかったが。彼のトラウマを刺激してこうなったのか。兵士等、戦時下での過酷な状況に晒されて発症する事例が多く。ストレス社会では、別に戦場ではなくとも。鬱病と一緒で他人事ではないらしいのだが。
 ガルシェも、死んだ。そう既に諦めているとも取れる、尻尾を股下に挟み。自身の尿で汚すこの男に。こうなってしまう要因はきっと、あの卒業試験なのであろうなって。察して。ただ、銀狼が死んだと言った彼の言葉は否定したかった。それは認めたくないし、そう易々と死ぬような人とも思えなかった。状況は最悪だが、こうして僕達が走って逃げられたのだ。彼もまたどこかに身を潜めていると思いたい。思いたかった。遠くで銃声がしないから。銃が故障したのか。それとも。離れ離れになった銀狼を思うと、焦燥感がどうしても僕を追い立てる。僕まで我を忘れてしまわないのは、耳元でずっと。虚ろに何かを呟く赤茶狼の声があまりにも悲哀めいていたから。
 また今ある現実ではなく、過去を追体験しているのか。抱きしめている僕の名前ではなく。誰かの名前、それも複数名のを羅列しては謝罪を繰り返していた。それが、きっと。あの日ガカイドと行動を共にしていた同期なのであろうか。ごめんなさい、ごめんなさい。俺が生き残って、俺が真っ先に死ぬべきだったと。そんな悲しい事を言う。だから、嗚呼、本当は。こんなところ来たくなんてなかったんだろうなって。僕のせいで。来るはめになって。なってしまって。無理をさせてしまった。
「気は済んだか。早くそんな使えなくなった兵士は捨てて、私達は脱出しようルルシャ。せめて囮ぐらいにはなるだろう。あの方には見捨てろと言われているが、人間一人抱えて走るなんて造作もない」
 さあ。そう手を差し出すのは、組み立て終わったであろう大きな銃を持ったレリーベさんだった。急いで組み立てたからか、バッグから予備の弾丸だろうか。僕の指と同じかそれ以上のが数発転がっていた。大口径の弾を使用したスコープ付き狙撃銃。いわゆる対物ライフルというやつであろうか。型式とか、実際の銃の名称なんて知らないけれど。テレビゲーム等では扱い難いが威力だけはある、そんな特徴的な兵器と似ていた。不必要に苦痛を与える兵器として、人に撃ってはいけない銃だって、そんな聞きかじった知識も脳内には存在していたのだった。法の解釈しだいで、それも必ずしも適応されず。そもそも、扱う者も撃たれる標的も。人間ではなかったが。きっと機械を相手取るなら、これぐらいないと装甲を貫通できないとふんで事前に準備していたのだろう。この銃自体が、市長さんが信頼する彼の生存能力の片鱗にも思えた。
「そんな、言い方……」
 差し出された手を見ながら、つい。ガカイドを抱き返す。こうして、時間を浪費している場合ではないのに。それは僕もわかっているし、レリーベさんもわかっている筈だった。だから、冷静に全員で脱出したい僕としては。彼も見捨てていい人物ではないと。僕だけが、一人抜け駆けして
彼の手を取る事などできはしなかった。
 黒豹が差し出していた手を一度引っ込めると、もう一度。対物ライフルを持っていない手がこちらに向けられる。ただ先程と違うのは、最初に使っていた拳銃が握られており。それがこちらを向いているという事で。
 ――えっ。
 思考が。止まった。どうして彼が僕の方に銃を向けているのか、わからなくて。今しがた、一緒に脱出しようとまで言ってくれていたのにだ。だから、その銃口が僅かに僕の眉間に向かっていないのに気づくのが遅れた。あっさりと、漆黒の指が動き。トリガーが引かれ、網膜を焼くように眩い光が一瞬だけ見える。迫る弾丸なんて視認できるわけがなかった。空中を舞う血と。ギャンッ、そう動物の悲鳴めいた声が、脳の理解が追いついてないままであっても。耳だけは音として認識していた。ガカイドの身体が、横倒しになる。瞬きを数回して。自分は生きているのを確認しながら、そうして。ゆっくりと、どうして僕を抱きしめていた人が倒れているのだろうって。
 床に広がった黄色い液体に、赤色が数滴足された。
「なら、しかたがないな。ガカイド、今ここで死んでもらおう」
 底冷えするぐらいの声音で。撃たれた肩を押さえ、身を丸めている赤茶狼を。この状況であって、とても綺麗な笑顔で。黒豹が見下ろしていた。無表情が常で、たまに口元を緩めてくれる程度だったのに。彼の心の底からの笑顔を、この時。初めて見た。これまでの寡黙な黒豹と、声も、表情も、一致しなかった。ただ艶やかな黒毛と、豹の顔だけが同一で。まったくの別人が、この一瞬で成り代わってしまったとすら思えた。状況についていけない。ガルシェが孤立し。ガカイドが怯え。そしてレリーベさんまで狂ってしまったのかと。そう思わずにはいられない。そんな黒豹と、目が合う。
「ルルシャ、君には本当に感謝している。あの方と同等、いや、それ以上の敬意を。このような機会を与えてくれた事に。感謝を」
 レリーベさん、なんで。どうして。唖然と見上げる僕に対して、優しく語り掛けてくれる黒豹。オートマチックの拳銃は、弾丸を一発放った反動を利用し。スライドを後退させ、バネの力でマガジンから新しい実包を薬室へと押し上げながらスライドが元に戻り、自動的に装填されているのだろう。その証拠に硝煙をくゆらせた、拳銃がまだこちらを向いているのだから。
 いてぇ、いてぇよぉ。そう肩を押さえながら呻くガカイド。その悲痛な声に、咄嗟に彼に覆いかぶさる形で。レリーベさんの射線を遮る。僕の身体では、自分よりも体格のよい相手の全部は隠せなかったが。急所である頭と胴体ぐらいは、どうにか。でないと、今すぐにでも。凶弾が頭ないし、胸へと。放たれそうで。肩を押さえた、赤茶色の手から。鮮血が正面と、背中側両方へと流れていて。どうやら弾丸は貫通して、体内には残っていないらしい。それでも早く止血しないと。
「どうして。そんな奴を庇う。あの、時も。そして先程も。そのお飾りの銃を撃っていれば。私の弟も。そして、ガルシェも。失わずにすんだかもしれないのに。どいてくれ、ルルシャ。君は殺したくはない」
「どきません!」
 だってどいたら。本当に撃つのだろうから。ここで退くわけにはいかなかった。そうやって、ガカイドを庇いながら。黒豹の言葉を少しずつ理解していく。僕に向けられる確かな、偽りのない感謝の気持ちと。赤茶狼に向けられる、憎悪と殺意。そして、弟という単語。点と点が、繋がるような感覚を得た。気づいてしまった。あの事故の被害者が、目の前にも。忘れる事ができずに、ずっと。機会を窺っていたのだと。彼を、ガカイドを。殺す機会を、復讐。
「この、任務に参加したのは。もしかして、最初から」
「そうだ。事故に見せかけて、そいつを殺す為だ。弟の、仇である。その臆病者を。街の中ではあの方の決めた法がある。だが街の外でなら」
「そんな、だって。彼だって被害者でしょう!」
 卒業試験で、機械達に襲われて。それは不運な事故であって、彼が招いたものでは決してない。それだけは事実だ。そして、レリーベさんが言う。ガカイドが指揮していたからこそ、今のように。怯え、戦えず見ている事しかできなかったから。殆どの人が、死んでいったのも。どうしようもなく事実だった。正論と正論がぶつかり。やっと目的を果たせると。上機嫌にゆらゆらと揺れていた、黒豹の尾がぶるりと震えて止まる。こんな状況であって、笑っていた男の顔が。一瞬だけ、頬が引き攣るようにして。片方の髭が動いた。息を思わず吸い、吐き出して。ガカイドに向けらていた憎悪が、僕にまで。そうなろうとして、自分自身を律しようとしているのか。それでも興奮にか、ピンク色の黒豹の鼻は。今では赤々としていた。荒らげそうになる声を、意識して落ち着けているような様子にも思えた。
「ああ、本当に。君は優しい子だ。でもそれは、大切な者を、奪われた事がない者の。言葉だ。どいてくれ、でなければ。もう街の外へそいつが出る機会は二度と」
 しっかりと、握り直すようにして。拳銃が僕よりも先。寝転んでいるガカイドの頭を。今撃てば、僕の身体を貫通した弾が、ちゃんとそこへ吸い込まれていきそうで。お互いの距離的にも、万に一つとして外すような事はないのであろう。それでもだ。僕は覆いかぶさった身体を、さらに密着させ。赤茶狼を庇う。圧迫で服に染みこんでいた尿が一瞬浮き上がり、さらに範囲を広げて浸透していった。
 でも、僕を退けたのは。レリーベさんでもなく。そして庇う僕自身でもなく。下敷きにしている、肩を押さえて、震えていた筈の。ガカイドだった。押し退ける強い力で、僕の上半身が浮き上がる。そうして、代わりに起き上がった赤茶狼が。荒く息をしながら、這いずるようにして、前へと。処刑人となった、黒豹に自ら頭を差し出して。
「いいんだ。俺様、俺は。あの時。こうなる筈だったんだ。ルルシャは、関係ない。そうだろ、レリーベ」
 座り込んだ人を見て、泣きながらでも、引き攣った笑顔をこちらに向けるガカイド。関係なくない。僕が彼を外に連れ出してそうして。どうして、そうも受け入れているの。どうして、そんな姿を見て。レリーベさんは満足そうにしているの。おかしいよ、こんなの。間違っている。絶対、だというのに。どうして僕の身体は動いてくれないの。それは庇おうとした人が死にたがっているからなのか。過去を、今になって裁こうとする者。そして裁かれようとする者。人間である僕は、こんなにも近くで。傍観者でしかないの。前へと進み出た赤茶狼の眉間に、黒豹が拳銃を押し付ける。狂気に染まるようにして、レリーベさんが笑う。眼前にある死に対して、羨望の眼差しを向けるガカイド。ずっと僕は。赤茶狼を救いたいと思っていた。僕を救ってくれた、もう一人のヒーローを。けれど、その人は。もうとっくの昔に心が折れていたのだろうか。辛くて、どうしようもなく辛くて。他者から向けられる視線や言葉。裏通りで暮らすまでに至ったのだから。それでも強く生きているように見えていたのは、本当に。それすらも強がりであって。彼は、救われたがっていたのだろうか。その救いとは。僕なんかに助けて欲しいわけじゃなくて。自ら生を諦めるというよりも。遺族の手によって。そうやって理由をつけて、死すら逃げ口実に使う気なの。そんなの。あまりにも。悲しいよ。
「やめて、やめてよ。二人共。こんなのって、僕は。こんな事の為に、ここに来たわけじゃ!」
 顔はお互いを向いたまま、それでも赤茶狼と黒豹の目線だけが。僕へと、向けられて。二人して、示し合わせたわけでもないのに。口元が同時に動く。それは。お礼だった。二人して、お礼を言うんだ。こんな酷い事をしようとしているのに。それを、手伝ってしまった僕に対して。手を伸ばす。足に力が入らない。ガルシェが倒れた時のように、言う事を聞いてくれない。僕の、足が。どうしようもなく、竦んでしまっていた。今動かなければ、大切な友達が。ただの死体になってしまうのに。そうなってしまうのに。やめて、やめてと言いながら。下半身を引きずるようにして。僕が、もう一度。ガカイドを庇うよりも先に、レリーベさんが。トリガーに指を掛けたそこに、力を入れるのは。ずっとずっと。早かった。
 発砲音と共に、跳ね上がる拳銃。目を瞑って、上へと向く狼の頭。そうして、倒れていく、二人。ガカイドの耳が片方、吹き飛び。そして、レリーベさんの背中から、大量の血が噴き出した。
 驚愕に変わる獣二人と人。黒豹が、振り返りながら。相手を確認しようとして、強い力で横へと吹き飛んでいく。音を立てて、半壊した家具をなぎ倒して。もっと散らかしながら。大の男が転がっていく。後ろに倒れそうになりながら、後ろ手に身体を支えた赤茶狼と。そして僕は。虚空を凝視していて。姿を消していた存在が、再び。僕達の前へと。金属の装甲を鈍く光らせながら、蟷螂に似た。その機械の化け物は、複眼があるべき頭部で。カメラアイらしき部分を、ぎょろぎょろと。レンズの中で動かしていた。ギギと、顎の部分が開閉し。デジタル音声を奏でる。
「キ、キケン。キケン、デ。キケン。デス」
 威嚇のようにして、大ぶりな鎌が付いた両手を。掲げて、長い腹を横に震わせていた。錆びているのか、駆動音は異音をさせ。どこか、ぎこちない。鋼鉄の蟷螂の顔が。ガカイドへと向いた。後ずさりするように、遠ざかるけれど。自身が漏らした尿のせいでか。べしゃりと、身体を支えていた手が横へと滑り。盛大に身体を汚す。先程、死を受け入れていた男の悲鳴がした。処刑人が変わったからか。慌てて距離を取ろうとしては、またこけていた。一瞬だけ、部屋の端へと吹き飛ばされた黒豹を探すけれど。家具に真新しい血糊が付いているだけで、その姿は瓦礫に埋もれたのか。舞う埃のせいで見つけられなくて。その代わりに、僕のすぐ近くに。レリーベさんが持っていた対物ライフルが転がっていた。思わず手に取ろうとするが、重量が予想以上にあり。持つ事はできても、狙いをつけるなんて無理そうであった。水溜まりを踏みしめる足音がして。思わず顔を上げると、ガカイドがこちらに走って来て。対物ライフルを持った僕と一緒に、荷物のように抱えると。また走り出して会議室を後にする。黒豹を置き去りにして。
「離してガカイド、レリーベさんが。ちょっと!」
「嫌だっ、死にたくない。痛い、死にたくない。死にたくない。痛いッ」
 片方の耳からも、肩かも血を流しながら。壊れた蓄音機のように、同じ言葉を繰り返し。ひた走る。廊下を曲がって、また広い部屋を見つけると。そのまま飛び込んで、足元に何かあったのか。抱えた僕と一緒に盛大に転がった。強かに身体を打ち付けて。それでも放さなかった対物ライフル。痛みに顔を顰めながら、蹲り、頭を抱えている赤茶狼と。二人っきりになってしまった。一見すれば、とても情けない彼のそんな姿に。呆れてしまうかにも思えたが。僕の心中には、安堵が広がっていた。まだ、彼にも生きたいという。生への渇望があるのだと。死にたくない。とても人間らしい、言葉だった。床に、銃を置きながら。ガカイドに寄り添う。嫌だ嫌だと、泣く、何もかもから逃げたいと。生きるのも心が痛くて辛くて、死ぬのも身体が痛くて辛くて。そう泣いている男に。僕も逃げ出したい。そうしたいけれど。ここへ来るのを提案したのは僕で、それだけは。してはいけなかった。たとえ彼らが逃げたとしても、僕だけは逃げては駄目な理由があった。狼の両頬を持ち、こちらへと。顔を向けさせる。努めて、安心させるように。勇気づけたかった。僕では戦えないのは、はなからわかっているというのもあった。このままでは全滅だ。それに、僕は。この男を信じて。連れ出したのだ。一度信じたら、信じ続ける必要があった。義務めいたものが僕の心を満たしていた。
 ――それで俺が実際にお前に殺されたら。俺の見る目がなかったと、そう思うさ。
 いつかの、銀狼の言葉。僕が寝首を掻いたらどうするのと、自分でも信用のならない。都合の良い記憶喪失の人相手に対して。そう言い放った、ガルシェの言葉が。今、僕の胸を通り過ぎて行った。僕の考え方に、大きく影響を与えたとしたら。そして心に、影響を与えたとしたら。それはただ一人であっただろう。
 だから、僕が。ガカイドを信じると決めたなら。それで、彼が立ち上がれなくて。何もできなくて、それで、僕も死んでしまったとしたら。それは、僕の見る目がなかったのだ。そう思うと、この切迫した状況だというのに。レリーベさんが復讐を遂げようとした時と違い、妙に心は落ち着いていた。だからだろうか、僕を見上げる泣き腫らした狼の目は。困惑しているのだろう。優しく笑いかけているのだから。僕まで気が狂ったと、思われてもしかたがないかもしれない。
「お願い、ガカイド。戦って」
「む、無理だ。俺に引き金は、ひけない。人差し指が、指が、動かないんだ。あの時と、一緒で」
 話しながら、廊下から何者かの足音が聞こえる。それはこちらへと、真っすぐに向かってきているようであった。足音の間隔と、音の距離から、そう早くはないようであったが。訓練の成績がいくら良くとも、実戦では戦えない人は一定数いるらしい。それがたまたま、彼であっただけだ。それだけだ。そんな彼が、指揮していた卒業試験の時に限って。事故が起きたのだ。それでよけいに、彼の指には呪縛のように。思い込みのようにして、動かなくしているようにも思えた。襲われていない、都市部を進む道中では。まだ普通に、痕跡を探したりして。兵士としての務めを果たしていたのだから。雇われたといっても、ここまで、自分の命を賭ける必要はなく。街から出ない選択肢だって、きっとあっただろうに。断れないように外堀を埋めた僕を嫌いと言いながら、それでも。ついて来てくれた彼を。僕が信じないでどうするというのか。ここで、僕まで逃げたら。ガルシェに、市長さんに、どう顔向けすればいいのか。胸を張れなくなってしまう。さっさとあんな奴やっつけて、レリーベさんも。そしてガルシェも、二人で助けに行く必要があった。でも、先ず助けてくれとお願いするのは。
「ごめんね。ガカイド。辛いよね。僕のせいで。こんなところまで来て、傷ついて。嫌だよね。でもね、もう一度だけ。お願いを聞いてくれるかな。どうか戦って。僕を、僕達を、助けてよ。君に、君だけにしかできないんだ」
「どうして、なんで。誰よりも、俺よりも、どうしようもなく弱っちいお前が、諦めないんだよ。諦めてくれないんだよ……」
「諦めるのはいつだって簡単だよ。けれど、絶対に後悔すると思うから」
 どうか立ち上がって。目を閉じて先程、拳銃を押し当てられていた狼の額に。僕の額を当てる。涙も鼻水も、涎も、そして漏らした尿も合わさって、酷い臭いをさせていた。無理だ、俺にはできないと。そう自分を否定する。自分を信じられない相手に。僕は。瞑っていた目を開くと。とても近い距離に、狼の瞳があった。まだ、流す涙があるんだって。あっ。ああ。あうっ。声なき声を上げながら。僕と一緒に身体を起こし、そうして。僕が傍に置いておいた銃を持ち上げて、渡すと。入って来た入口に、歯をガタガタと鳴らしながら。その銃口を向ける。両手で保持しているけれど、全身に伝わる震えは。銃にも及んでいて。僕は、彼に身を寄せ。一緒にと、グリップを握った手に。手を重ねた。もうすぐそこまで、足音が迫っていた。
「やっぱり、無理だ。俺には無理だルルシャ、お前だけでも逃げてくれ。頼むから」
「大丈夫。落ち着いて。僕も一緒に、支えるから。傍に、いるから」
 それぐらいしかできないから。銃を自分でまともに狙えないし。持てないから。せめて、彼の手を支えるぐらいしか。トリガーに触れようとしては、離れてを繰り返す。狼の指に触れる。そうやって、ちょっとだけ押し込むと。彼の肉球が、引き金に。触れた。
 耳元では、また過呼吸気味になった。ガカイドの呼吸音がうるさく。そして、激しく胸を上下させて。それでも。指先の震えは止まっていた。部屋の入口。そこにあった椅子の破片であろうか、足だけになったそれが。真っ二つに折れる。来た。
 開け放たれた扉。その中央へと。睨みつけながら。パキ、バキリ。目の前の散らかった物が、踏みつけられてか音を立て。それで居場所を教えてくれていた。とても大きな、機械の化け物であったから。正確な狙いでなくても、当たると思える距離まで。引き付けて。
「ガカイド!」
 彼の名を叫んだつもりだった。だったというのは、それを上回るぐらい、隣の男が咆哮したからだ。でもそれは怒りや、勇ましい雄叫びとは程遠く、裏返ったものであったけれど。ガルシェや、レリーベさんが扱っていた銃と比べるとそれよりもずっと重い音がした。軽く触れている僕まで撃った反動だろう、衝撃が伝わって来る。弾丸を送り出し、用済みになった薬莢が。目の前で一つ。宙を舞った。金属が多きくひしゃげるような、耳障りな音と共に。そうして、ノイズ音と、撃たれた衝撃に身体をふらつかせながら。姿を現した鋼鉄の蟷螂。どうやら、片腕を吹き飛ばしたらしい。特徴的な鎌が一つなくなっていた。遅れて、遠くの方。視界にも入らない場所で、その吹き飛ばされた鎌が転がって。また、重い腹に響く発砲音。もう僕は、その時には続けてくる反動で後ろに倒れていて。座ったまま、対物ライフルを構えたガカイドは。続けざまに一発、また一発と。殆ど狙ってもいなかったであろうけれど。弾丸を目の前の敵に浴びせていた。四足あった足が一本吹き飛び、途端に体勢を崩しそうになるが。相手は残った三本で支えてみせた。前へと進もうとして、胴体を掠めたので。一歩後退する。続いての一発は掠りもせず、コンクリートでできた廊下の壁に大穴を開けて。鉄筋が見えていた。その隙に三歩程距離を詰め、残った鎌を赤茶狼に振りかぶろうとし。振るうが。刃の根元から消失して、残った腕の部分だけが空を切る。蟷螂の頭が首を傾げるよう動いては。砕けた。三本足で支えていた自重、命令を下す頭部が消失したから倒れるかに思えたが。たたらを踏んで、それでもしぶとくこちらに向かってくる。虫は全身に人の脳にあたる部分を持っていて、頭がなくても数日は生きていられるぐらい生命力が高く。けれど、食べ物を摂取するための頭がないから餓死をしたりする種類もいたりする。機械は別にその性質まで模倣したわけではなく、頭脳ともいえる、CPUが胴体に搭載されており。頭部はカメラセンサーと音声発生装置だけであったのか。それでも。容赦なく放たれ続ける弾丸により、腹部を貫かれて。火花を散らしながら漸く沈黙したのだった。
 弾切れなのか。ガカイドがいくらトリガーを引いても。もうそれ以上、弾丸が発射される事はなく。相手が倒れてから、少しして。自分がやっつけたと遅れて状況を認識したのか。撃てた、俺が、撃てたと。信じられないとばかりに。そう呟いてもいた。
 立ち上がり。銃を呆けたように見つめる赤茶狼に近寄る。僕の存在すら、この時は忘れていたのか。ゆっくりと、僕へと振り返って。だんだんと実感が、後になって訪れて。喜びに、歓喜に、俺様やったぞと。そう叫ぼうとした男の頬を思いっきりひっぱたいた。状況を飲み込めず、あえ? そんな声をさせながら、恐ろしい者でも見る目で。弾切れになった対物ライフルを床に落としたガカイドが。自身の叩かれた頬を押さえながらこちらを見つめ返してくる。別に、尿濡れにされたのでも。今までの情けない姿に。遅れて怒りが湧いたわけではない。また錯乱しそうなぐらい、嬉しそうに目をどこかに向けて笑いかけていた相手に。現実に引き戻そうとして、そうしただけであった。意識をこちらに向けて、トラウマを再熱させない意味でも。ショック療法と言えるのだろうか。
「まだ、終わってないよ!」
 必要ならもう一度頬を叩く気でいたが、ハッとしたように。顔付きが元に戻ったから。大丈夫とそう判断した。座ったままの彼の手を引いて。部屋から出る。未だ頬を押さえ、なんで叩かれたんだと理由に目を白黒させていたが。それも、元来た道を進み。レリーベさんが倒れている会議室へとやってくる頃には、機械達に襲われる前ぐらいには。平静を取り戻していた。
 赤茶狼の手を離し、そして。物を急いで退かしながら、黒豹の名を呼ぶ。必死なのは僕だけで、後ろに佇んだ男は手伝ってはくれない。それでも、直ぐに黒毛を見つけて。木材等を払う。うつ伏せで倒れている黒豹の容態は、見るからに深刻で。背中の傷は、ぱっくりと裂け。肉が見えていた。背骨とかが見えないのがまだ幸いであっただろうか。僕の声に、耳や尻尾を動かしたり。返事がない事から、意識はない。どうやら気絶しているらしい。
 後ろを振り返ると、この部屋に落としていたらしい。自分の銃を拾って、息を吹きかけて埃を飛ばしているガカイドの姿。僕が呼べば、すぐ傍まで来てくれたけれど。血が、止まらない。それは赤茶狼も血だらけであったけれど。レリーベさんはもっと酷い。医療道具とか、持ってないか聞けば。一応あるにはあるけれどと呟いて。ガカイドの反応は明らかに渋っていた。
「お願いガカイド。手当てを」
「……なんで、俺様を殺そうとした奴を。俺様が手当てしないといけないんだよ」
 言葉に詰まる。そうだ、そうであった。つい先程。この二人は、お互い。殺そうとして、殺されようとしていたのだ。横槍が入らなければ、黒豹の傷を見て。嫌そう態度を取る。この赤茶狼が、二度と目を覚まさなくなっていたのだ。だからこそ、当然の反応であった。誰だって、嫌だと思う。また、僕は。彼に望まぬ、嫌なお願いをしているのだ。自分で救えもしない、無力な事に胡坐をかいて。誰かに頼るしかなくて。ガカイドよりもよっぽど、情けないのは自分だった。だからとこのまま見捨てるしかないのか。
 僕は、誰も死んで欲しくないのに。皆で、街に帰りたいのに。また自分のエゴを相手に押し付けるしかできないのと。諦めかけたその時。僕の表情を黙って見ていたガカイドが、隣に屈んでポケットから裁縫セットめいたものを取り出した。
「依頼主様がそう言うんなら、しゃーねぇな。あーもう。俺様としては、このまま見殺しにした方がこいつのためでもあると思うぞ。麻酔なんてないから、手荒いがここで縫うぞ」
 本当に、本当に嫌そうな顔をしながら。ガカイドが、レリーベさんの裂けた上着を思いっきり掴んで完全に破く。そうして見えた思わず目を背けたくなる傷口に、糸を通した針を押し当てて。まるで縫物でもするように、チクチクと肌に刺しては、糸で無理やり縫合していく。ただ医者ではないからか、縫い目は不揃いだった。
「ルルシャに感謝しろよ。どうせ、聞こえて、ないだろうけどよ!」
 気を失った黒豹の頭に向かって、そう赤茶狼がぼやく。縫う手の動きにはとても感情が乗っていて、荒々しい。その背中に向かって、感謝よりも、謝罪を口にすると。無視されてしまった。それでも彼が縫う手を止めたりはしなかったが。本当に荒く、消毒もされず、縫合された。けれど傷口が狭くなったからか。空気に触れると固まる性質がある血液は、その役目を全うし。だんだんと流す血の量を減らしていった。太い動脈は奇跡的に切られていないのか。それでも切開された幅が広く。床に広がる血の量から。目測でかなり流れ出てしまったらしく。ガカイド曰く。もう少し遅ければ、失血性ショックで死に至っていただろうと。恐ろしい事を言う。早く、街で本格的な治療をしてやらないと。これは応急処置に過ぎないという事も。ただ、心苦しいが。このままトラックに運んであげる事もできない理由があった。医療物資も少なからず荷台に積んであるのにだ。遠くで、何かが崩れる音が聞こえたから。それは、ガルシェしかいない。無言で、立ち上がると。黒豹も、それを手当てしてくれている赤茶狼も放置して駆けだした。
「おいっ! どこ行くんだよ」
 遅れてやってきて、そのまま簡単に僕に追いついて隣に並走するガカイド。来てくれるのは嬉しいけれど。だけど、走りながら手に持った銃身の短い自動小銃を見つめている男に。大丈夫なのか一応聞くと、あまり良い反応は貰えない。それもそうだろう、ついさっき、引き金を引けたばかりであるのだから。それでも、一度は引けたのだ。それはとても、大きな一歩のように思える。引き金を引けなかった、臆病者と謗られてきた人にとって。それはどれだけの、意味があったのか。少し変わった顔付きを見れば。窺い知れるというもの。迷いは残っていたとしても。
 物音がしている方向、建物の外へと出る。どうやら中庭になっているらしい。それも人の手入れが及ばなくなって長い年月が経ち、雑草が生い茂り。一部の草木が、建物の壁へと侵食していた。細い枝が、何か鋭い物で切り裂かれたのか。中程から断ち切られており、それが奥へと続いている。背の高い草木を掻き分けながら、進めば。強引にそうした為に、毛皮のない僕の頬や手に、小さな傷を作った。ガカイドの負ったものに比べたら、こんなもの気にする必要もなかったが。
 そうして、姿を消せるのが利点の筈の。もう一体の鋼鉄の蟷螂は。無防備に姿を現しており。そして、その頭は足元を見つめていた。草木が邪魔をして地面が見えない。それでも苦労して辿り着いた先。目に入ったのは。上向けに押し倒されたガルシェに対して、鎌の先を突き立てているそんな光景だった。愛用の銃はどこかに失くしたのか、持っておらず。そのかわりに、自分の胸に沈みそうになっている鎌を。必死で押しとどめていた。震える腕、力を入れている為にいつもよりも筋肉が膨張して。それでも、じわじわと進んでいるのか。胸元の白いTシャツは、薄っすらと。その鎌の先が触れているところが、赤いものが滲んでいた。モーターの稼働音と共に、銀狼が苦しそうに呻き、また数ミリ刃が進む。丁度心臓の真上。
「ガルシェ!」
 咄嗟に声を上げていた。こちらに気づいた彼が意識を逸らして、もしも力を緩めてしまって。一瞬で貫かれる危険性があっても。そんな考えに至らないぐらい、焦っていた。蟷螂の頭は動いていないが、その搭載されたカメラアイが。僕と、そして隣に居る赤茶狼を見た気がした。増援が来たと判断したのか、もう一つある鎌が振り上げられる。もう既に、片方の鎌は両手で挟むようにして掴んでいるのにだ。あっと思う間もなく、容赦なく振り下ろされる鎌。向かう先はガルシェの頭で。頭を素早く逸らしたのか、毛を数本切らせながら。地面へと突き立つ。そうして、もう一度振り下ろされる前に。銀狼が、地面から抜けないように。鎌に咬みついた。ギチギチと、拮抗状態を維持しているけれど。体重も掛けて、疲れ知らずの機械相手にはあまりにも分が悪かった。
 助けなくちゃ。一歩、前へ踏み出した。視界に、赤茶色の毛の束が遮る。それは。ガカイドの尾だった。僕がそうするよりも、先に。身を低くして、駆けだしていたのだ。相手との距離、二メートルぐらいで跳躍すると。片足を突き出し、思いっきり。その蟷螂の頭に向かって体重と勢いを乗せた蹴りを放った。空中で身を翻すと、銃を両手で持ったまま。勢いを殺すように、両足でしっかりと着地する赤茶狼。そして、鋼鉄の蟷螂の体勢が崩れ。一瞬だけ鎌の圧が緩んだ為か、ガルシェが横に転がるようにして。相手の下から出て来て。ガカイドの隣に転がった勢いを利用して起き上がり、片膝をついていた。二人の狼は荒く呼吸しており。片方は、未だ燻ぶる恐怖に。もう片方は、ずっと力を入れていて悲鳴を上げる身体に。
「こええ、マジ怖い、なんなんだよもぉ!」
「ガカイド、お前……」
 怖い怖いと文句を言いながら、それでも。真っすぐに敵を見据えていた。そんな、逃げ出さない、助けに来てくれた幼馴染を見て。銀狼が、驚いた顔をした後。何かを納得したのか。
「そうか」
 そう呟いて。同じように、体勢を立て直し。威嚇する巨大な蟷螂を見て。そんな二人の背中を、後ろの方で。僕も見ていた。ガルシェが、レザージャケットの裏に忍ばせていたのか。大振りなコンバットナイフを抜き放ち。逆手に構える。対して、ガカイドは。ちゃんと自分の銃を相手に向けて。
「合わせろガカイド。昔、訓練で散々やっただろう」
「ああ、ああっ! わ、わかった」
 真っすぐに、銀狼が突進するのと同時に。ガカイドが横へと走りながら、牽制射撃にか。銃を乱射する。レリーベさんと時と同じで、放たれた弾丸から大事なセンサーを守る為にか。鎌を畳み、頭部を防御する。二の足を踏んだ蟷螂に対して。その隙に肉薄したガルシェが、足の関節へと向けて。コンバットナイフを突き立てた。人外の膂力を持って振るわれ、尚且つ脆い筈の関節であっても。甲高い音だけさせて、小さな傷を作っただけに終わった。もう一撃入れず、交差するようにして。後ろへと抜けると、追撃しようとした蟷螂に向けて。またガカイドの銃が乱射される。
「ガカイド、弱点は!」
「えっと、頭と、腹ァ!」
 問いに、横薙ぎに振るわれた鎌を避けながら赤茶狼が叫ぶ。時に位置を入れ替え、常にお互いの動きを邪魔しないように。銃を持った赤茶色の射線を考慮しているのに、まるでないもののように。銀狼が躍る。跳躍し、地面を這い、ステップを刻み。接近してくる、ガルシェを一番の脅威とみなしているのか。蟷螂は鎌を振るおうとしては、ガカイドに邪魔されていた。そうして幾度も攻防を繰り返していると、僅かに綻びができた防御を縫って。弾丸が強化ガラスなのか、ドーム状に保護されている目の片方へと当たり。亀裂が入る。
 なんども小さな傷を与えていた箇所。足の関節の一つが、誤動作を起こし。変な方向に向いたまま、二度と戻らなくなる。どうやら関節にあるモーターがいかれたらしい。大きくよろめいたら、一度二人共離れ。リロードを終えると。全てのマガジンが尽きるまで、その狼の持久戦は繰り返された。疲れ知らずの獲物が、弱るまで。どこかまるで、四足であった頃の。狼の狩りのような光景だった。金属疲労もあったのだろうか。まるで歯が立たないように思えたナイフも、刃がボロボロになりながら、甲殻のような鉄の装甲の隙間に。何回も刺し込まれていて。幾度目か、お腹に突き立ったのを最後に。ナイフが根元から折れるのと、ガカイドの弾が最後のマガジンになるのと。そして、鋼鉄の蟷螂が沈黙するのは。同時だった。数秒、動かないか。残心にと、距離を一定に保ったまま。狼二人が、肩で息をしていて。
 二人して、僕に顔を向けると。ガルシェは、僕を改めて視界に入れて、それで気が抜けたのだろうか。疲れを滲ませた顔をさせたと思ったら、そのままばたりと背中から倒れてしまう。思わず駆け寄ると、空を見上げなら。ただ、疲れたと。呟いていた。隣でガカイドが、昔から体力測定一位キープしてたから。心配ないと思うぞって言っている。それを聞きながら、仰向けで大の字に寝転ぶ大男に。僕は頭の方から近づいて、膝を抱えるようにして。屈む。そうすると、銀狼が空を見ていた景色に。人間が現れて遮る形になっただろうか。
「なんで、あの時。飛び出したの」
「おい、ルルシャ」
 急にどうしたんだと、僕を咎めるようにして。赤茶狼が声を掛けてくるけれど、無視をして。見下ろした銀狼の顔を、凝視する。あんなに、アレを見て、ガルシェも動揺して。大切な物ではあるのだろうけれど、自分の命を顧みないのは。助けてくれた事に対する感謝はあれど。誰にも、死んで欲しくない僕にとっては。やって欲しくはなかった。自分が死ぬのは、死にたいわけではないけれど。最悪しょうがないと割り切っているけれど。皆を巻き込んで、こんなところに来たのだから。それもしかたないと。そんな考えがあった。
 だから、レリーベさんも。ガカイドも。何よりも、大好きなガルシェに。生きて帰って欲しいと。八つ当たりめいていた。非力で無力な自分を棚に上げて。誰かに頼るしかないのに。守られるしかできないのに。
 それなのに。僕の問いに、怒るわけでもなく。少しだけ考える仕草か、首を傾けて。目線が少し斜め上に動く。それも一瞬で。ぐっと目力の強い。三白眼が、僕へと向けられて。晴れやかに、ニカッと。どこか子供っぽい笑い方をして銀狼は。
「つい、身体が先に動いちまった」
 明け透けなく。そう言いのけられてしまった。それに対して。僕は小さな声で、馬鹿って。鼻を啜りながら。そんな言葉しか言えなかった。クスクスと、そうだなって。ルルシャの言う通りだって静かに笑うガルシェ。
 消費した体力が幾らか回復したのか。身を起こし、立ち上がろうとする銀狼。だが、その身体はふらついて。すぐに膝をついてしまう。咄嗟に上半身を手で支えるけれど、あまり役には立っていなかった。
「二階から落ちた時、着地に失敗して軽く捻っただけだ。少しばかり、激しく動いて痛むが。そう心配するな」
 ふわりと、笑いかけてくる銀狼。痛むだろうに、それなのに。敵を倒す為とはいえ、あんなにも飛んだり跳ねたり。走ったりしたのだから。患部は見えないけれど、かなり痛むのではないだろうか。普通に立ち上がれない程に。そうやって、ガルシェの足を心配していると。俺様の方がどう見ても重症なんですけどって、拗ねたようにしながら。自慢の耳が片方取れたしと文句を言って。そう僕と銀狼の間に割って入って来たのは赤茶狼だった。それは、そうだ。レリーベさんの手当てが最優先だと思ったけれど。ガカイドもかなり怪我をしてしまっている。全部、機械の手によるものではなく身内の犯行であるのが。何とも言えないものとなってしまったが。音の聞こえ方が変だと、千切れてしまった部分を触ろうとして。痛かったのだろう、顔を顰めていた。早く、レリーベさんもトラックへ運んで。皆の手当てをして、ここから脱出しないと。第二の敵が現れないとも限らない。中庭といい、かなり騒がしくしていたけれど他に蟷螂の姿をした機械の化け物は現れる事もなく。無人の建物いやに静かだ。痛々しい、赤茶狼の肩と、耳。動かせはするから、肩は治るだろうけれど。千切れてしまった耳は、もう。
「ルルシャ……?」
 僕とガカイドの会話を、片足を庇いながら聞いていたガルシェが。脈絡もなく僕の名前を疑問符で呼ぶ。スピスピと、鼻を鳴らして。とても驚いたように、銀狼の顔がこちらに向いていた。何だろうか。ああ、そうか。こんなところで会話してる場合ではなかった。ガルシェが無事で、安心したからか。気を緩めてしまったのだった。まだ、ここは都市部であるのだから。帰ってもいないのに。敵地のど真ん中だ。気を引き締めないと。
「なんで、ガカイドにマーキングされてるんだ?」
 人間と、赤茶狼が。銀狼の言葉に互いの顔を見て。血ではない、何かの液体で濡れ。色を濃くする服。埃等も合わさり、とても酷い悪臭を振りまいていた。今は。その話は置いとこうよ。ガルシェ。僕の気持ちとは裏腹に、この経緯を説明するのに大変時間を要した。僕があまり気にしてないふうだったから、余計に。別に、人の尿がついて。嫌じゃないというと、そういうわけではないのだけれど。ただ今はそれどころではないだけで。余計に話しがめんどくさくなってる理由が。この銀狼は、以前僕に対して。マーキングと称して、尿を掛けるなんて行動に及んだのだから。その意味合いから、他の人にされて気にしてない僕を見て。ショックを受けてしまったらしい。あんなに、戦闘では頼もしかった男は。今では足の痛みではなく、別の理由で地面に座り込んで。肩を落としていた。そんなに、自分の所持物に。他人のにおいをマーキングで上書きされるのを嫌うという、彼らの文化だろうけれど。ちょっと僕には未だ、全てを理解できない部分であった。においでのコミュニケーションは、少しは馴染んできたつもりではあるが。ただ、汚れてしまった程度だった。汚いと思うけど洗えば、まぁ、いいやって。それぐらいの感覚だった。ちゃんと歩けないガルシェにどう肩を貸そうかなって思ってたのに。本人に歩く意思が消失した為に、本当に困った。ガカイドは肩を怪我しているから、手伝えないし。
 結局。帰ったら気の済むまでにおい付けして良いからって。そんな約束をする事で、やっと立ち上がってくれた。ただ、黒豹を回収する時は。適当に棒になりそうな廃材を拾って来て、それと壊れた台車に括りつけて。即席のストレッチャーにした。担架は、肩を怪我しているガカイド、足を挫いているガルシェ。両者の負担が大きすぎて。あまり真っすぐ走ってくれない、歪んだタイヤだったが。わがままは言えない。建物を抜け、トラックが駐車してある正面玄関。それぞれ、三者三様に程度の差はあれど。ボロボロになった獣の顔をした三人。汚れて擦り傷ぐらいで、一番怪我の少ない人間。僕が無事なのは、ガカイドとガルシェが頑張ってくれたからだ。
 赤茶狼の頭と、肩に包帯を巻くのを手伝っていた。銀狼は水で濡らしたタオルを使い、自分の足首を冷やしていた。氷とかは都合よく存在していない。雪でも降れば別だが、今降られると帰れなくなる恐れがあった。風が吹き抜けると、もう十分寒いのだけれど。ああ、服が濡れてるから。よけいに。改めて、黒豹の縫ってしまった患部をいまさら解くわけにもいかず。どうするのかなって、思っていると。レリーベさんの背中に、消毒液を豪快に振りかけていくガカイド。気を失っているけれど、沁みるのか。呻き声が聞こえた。扱いが酷い。自分を殺そうとした相手だからというのもあるんだろうけれど。
 応急手当とか、した経験がなく。こんな事ぐらいなら、少しぐらい習うべきだったろうか。あの街で生きるのだけで必死で、それどころではなかったけれど。暇を捻出できなかったわけではない。赤茶色の毛皮をした。座った男の背中側から、消毒を済ました患部を隠すように包帯をぐるぐるぐると。元は真っ白だったのだろうけれど。年月が経ち、ちょっと黄ばんでしまっている包帯。使えるから、見た目にとやかく言う必要もないのだが。巻きつけが少々強かったのか、不意にガカイドが痛みに声を漏らした。
「ごめんね。ガカイド」
「そこまでじゃねぇよ」
「ううん。そうじゃない。こうなったのも、僕のせいだから」
 頭部を包帯でぐるぐる巻きにされて、まるでつばのない帽子でも被ってるみたいになってしまった狼の頭。邪魔そうに、唯一残った耳が窮屈そうに飛び出ていた。力加減を誤り、傷口が痛んだ事だと思ったのだろう。すかさず訂正すると。ぐっと押し黙ってしまった。少しだけ離れた位置で、銀狼がこちらを見ている。
 楽観視していなかったと言えば、嘘だ。全部上手くいって、皆無事で、そして。街に帰れて。そうなったら良かったのに。結果は。皆が満身創痍で。発案者であるのに、何もできない僕だけが無事で。本当に、事を荒立てて。引っ掻き回して。誰かに迷惑をかけるだけかけて。何を、やっているのだろうか。荷台にぎゅうぎゅうに詰め込まれた食料。これがあるから、やってきた意味はあったが。それでも。僕のせいで、皆が怪我をしてしまったのだ。
「ルルシャ。俺達は一応兵士だ。皆、事前に内容を聞いて。それに納得して。その上で、作戦に臨んでいる。確かに、お前が市長に余計な事を言わなければ。こうはならなかっただろうな。でもよ。それで怪我したからって、誰も。俺様も、ガルシェも、お前のせいになんてしねぇよ」
 僕の手から包帯を奪い、端を咥えると。肩は自分で巻きだしたガカイド。僕が巻くよりもずっと手際よく、処置して。最後に簡単に解けないように、きつく結んでいた。一番辛かっただろう、そんな男からの。気遣いの言葉に、じんと。胸が痛むような。沁みるような。思わず胸を押さえる。僕は、こんな優しい人達を巻き込んで。死ぬような目に遭わせたのだ。
「だからさ。泣くなよ。俺様が泣かしたって、ガルシェに怒られるだろ」
「泣いてないよ、わんわん泣いてたのは。ガカイドじゃん」
「んな! てめぇ、せっかく俺様がいい感じに言ってやってんのに」
「ルルシャを虐めるな」
「虐めてねぇよ! お前は人の話を聞け」
 喚きだした赤茶狼と、唸る銀狼と。そんな二人を見て。生きてる。二人共、無事に。ちゃんと生きてる。そう安堵しながら、僕も思わず笑った。少し騒がしくなっても、黒豹は未だ起きない。
 近くに雨水が溜まってできたのか。陥没した道路に、池のようになった場所があった。いい加減あまりの悪臭に、我慢の限界が来たというのもあったが。ガルシェの機嫌が悪いというのもあって、早く出発したいのはやまやまなのだが。服を洗う事にしたのだった。おしっこ臭い。
 外で下着姿になるのは、正直嫌なのだけれど。背に腹は代えられないと、我慢しながら水に服を浸して。一度出して、絞り。また浸す。数回繰り返せば、だいぶ取れただろうか。苔とか凄いから、飲み水には適さないだろうな。寄生虫とか黴菌が怖い。病気になったら、大変だ。最先端医療技術を持った医者なんていないし。街には虎の先生が、一応医者代わりで居るけれど。
 他人事みたいに隣に突っ立って空を見ている赤茶狼に、声を掛けてから手を差し出す。意図がわからないのだろうけれど、僕が見てるのが。彼のずぶ濡れのズボンだと気づいたらしい。ガカイドが持っていた銃を、今では銀狼が持って周辺を警戒してくれている。そんな僕の保護者を見て。大丈夫と判断したのか。ベルトを外して。下着と一緒にすんなりと脱いでくれる。水分を吸って、毛が寝てしまっているから。股間についているものが、毛に埋もれたりせずよりはっきりと見えてしまった。ただ、銀狼のを幾度も見ているから。狼の生殖器に関して。それも別に勃起していない、毛の鞘に包まれたままのそこと。毛玉二つを見たところで、ああ。ガカイドのちんちんだなってぐらいの感想しかなかった。汚い物を洗うって意識にだいぶ偏っているというのもあったが。
 ちょっとだけ。僕の反応を赤茶狼は期待していたらしい。ずいって、股間を突き出して来るけれど。無視していたら、その内飽きたのかやめてくれた。自分の服と同じように。他人のズボンとパンツを、バシャバシャと手荒いする。
「なぁ。いつもガルシェのもそうやって洗ってんの?」
「え、まあ。そうだね。僕が基本家の事はしてるし。最近は、晩ご飯だけ交代して作ってくれたりするかな」
「ふぅーん……」
 しげしげと、手元を覗いて来る男。座ってる僕に対して、立ったまま近寄られると。ぶらぶら揺れているちんちんも、顔の近くに寄って来るからやめて欲しいのだが。アンモニア臭のが強いけれど、若干雄臭い。脱がしたのは僕だけど。そういえば、服を既に纏っているようなものなのだなと。裸体だけれど、素肌ではない毛皮を見つめて。何が楽しいのか。僕が自分のパンツを洗ってる姿を見て、尾を揺らしていた。周辺を警戒している筈のガルシェが、凄くこちらを見てくる。泥で汚れているし、ついでにガルシェのも洗おうかな。
 せめて股間は洗ってと、池状になった。道路の陥没した場所を指差す。服のを脱ぐ事に関しては躊躇しなかったくせして、これには難色を示した。僕は人間だから、乾いてしまえば。若干臭う程度で済むが。毛皮のあるガカイドは、まだまだ悪臭を放っている。染み込んでいる量が違うのだ。お前が俺のここ、洗ってくれるならいいぜって。股間を示しながら、ふざけて言ってきたりもしたが。その瞬間、背中の毛皮がぶわりと逆立ち。冗談だって慌て、遠くを引き攣った笑いをしながら見ていた。その視線の先には銀狼がいて、僕が振り返ると。ガルシェは遠くを警戒していて、後頭部しか見えなかったけれど。何か、したのだろうか。僕の目の前で、膝まではある水位に。足をつっこみ。手で水を掬いながら、股間を洗う間抜けな姿を晒すはめになったガカイド。綺麗になるのは良い事だと、僕は気分がいいのだけれど。さっきまで楽しそうに揺れていた赤茶狼の尾は、萎びて水面に浸っていた。胸とかも、汚れてるけれど。あまり傷口に触れると、破傷風とかが怖いので。下半身だけ洗い終えると水から上がってもらう。僕よりも強い力が期待できるガカイドに服を絞ってもらい、水気を切ると。完全に乾いていないけれど、我慢してそのまま着てしまう。
 ただ、来る時は良かったけれど。いざ帰るとなるといろいろ問題が浮上して。本当に、トラックの上に乗って帰るのか。助手席にはレリーベさんをガカイドが無理やり座らせた。怪我している背中がシートに触れた時と、固定する為にシートベルトを着用する時が。整った黒豹の顔を苦悶に変えていたけれど。いい加減、扱いが雑過ぎて。可哀想になってくる。狼二人は、特に気にしていないもよう。運転はガカイド。僕とガルシェが、トラックの上だ。落ちたら怪我しそうだったが。座ったガルシェがまたシートベルト代わりになってくれるから、大丈夫だろうか。ただ僕達と同席するように、隣にある大きな荷物を見上げる。振動で落ちないように、ロープで固定された。倒した機械の蟷螂だった。初めて遭遇する敵という事で、破損が少ない中庭で倒した方を持ち帰り。解析に回すらしい。新しい技術とか、獲得できるチャンスとも。全て無駄にしないところがとても逞しいなって思う。
 本当なら、最初と同じように。周囲を警戒しながら慎重に進む筈だったのだが。全員が満身創痍であり、唯一まともに動けるのが僕だけとなって。強行突破とまではいかないまでも、このままトラックで来た道を突っ切るらしい。どうせ、出会い頭に戦うにも分が悪く。ならば、最初から加速した状態の方が。逃げ切れる確率も高いというもの。
 掴まってろよと。ガカイドが車内から叫ぶと、アクセルペダルを踏み込んだのか。大量の荷物が載せられてるわりに、馬力凄いのか。ぐんぐん進んで、加速していく車体。その分、小さな溝をタイヤが通るだけで。ガタンガタンと振動が押し寄せる。わりと速度が出ている。五十キロぐらいはあるのだろうか。メーターが見えないので詳しい数値はわからないけれど。ただ、最大まで加速できないのは。やはり、乗り捨てられた車や。瓦礫、落盤した道路が。道を真っすぐ走るのを妨害していて。あまり加速し過ぎても、曲がり切れないというのもあった。それでもじれったいぐらいの最初の進み方と比べると、雲泥の差だった。景色が横にあっという間に流れて行く。埃っぽい空気だけで、過去に人が暮らし、仕事をしていただろう。朽ちた建物達。
 物陰から、小型犬ぐらいの機械がわらわらと出てくる。四角い箱に、足が四本生えたような。以前見た、ドラム缶みたいな胴体に足が四本ある。えっと、インセクトカスクだっけ。市長さんに、ガルシェが報告する時。そんな名前を口にしていた気がする。アレの小型機だろうか。少しだけ後を着けて来て、それも。囲まれる前に、少しだけさらに加速したトラックに追いつけないと見るや、立ち止まり。また、蜘蛛の子を散らすようにして、物陰に隠れていく。ああやって、通りかかる獲物を待ち伏せているのだろうか。偵察機みたいな役割もあるのかもしれない。
「ちょっと可愛らしい機械もいるんだね」
 小ささと、別に襲われてないから。そう見た目だけで安直な感想を述べる。アーサーとそう変わらないサイズだし、雌鶏だけど鶏にしてはちょっと大きいから。並べるともしかしたらアーサーの方が大きいかもなって。そんなどうでもいい事を考えていると。僕が落ちないように、しっかりと抱いてくれているから。吹き付ける風であろうと、遮られる事なく聞こえていたらしいガルシェが。
「一体だけなら、俺でも殴ったり蹴ったりして壊せるが。くっつかれると電撃浴びせてくるから、数が増えると厄介だぞ」
 ぜんぜん、可愛くなかった。僕だと殴る蹴るで壊せる気もしないから。一体だけでかなり脅威だ。使用される電圧はわからないけれど、全身毛皮がある彼らが厄介と言うのだ。僕みたいな人間の肌だと、かなり危険かもしれない。自分の足で歩いている時に遭遇しなくて良かったと思う。走ってるトラックに追いつけないまでも、自転車ぐらいの速度は普通に出ていた。あんなのが視界いっぱい押し寄せたら、絶体絶命だろうか。数の暴力怖い。
 もっと他に襲撃があるかと思われたが。結局、出会った機械はそれだけで。飛ばした甲斐もあり、あまりにも呆気なく。都市部を後にする。ただ、トラックのライトが壊れてるらしく。暗くなってきたから残念ながら一度野宿をするらしい。やっと帰れると思ったのに。蟷螂のせいで、かなり手間取り。その後応急手当なり、服を洗ったり。予定になかったものが重なったのだから、それだけ時間は浪費してしまったのだけど。強行して、どこかにつっこんで人身事故になったら目も当てられない。だから、もう動かなくなった蟷螂の形をした。鉄の塊に恨みがましい視線だけ投げて。森の近くにあった。誰かが使用した形跡のある、木でできたロッジが見つかり。野宿ではなく、そこで一夜を明かす事に変更。中を軽く調べ、誰もいない事を確認してから、準備に取り掛かる。何もない荒野よりは、こちらの方が良いと。そう二人が判断したのもあったのだから、素人の僕は何も口出しせず。ただトラックに座らせたままの黒豹の容態を見ていた。苦しそうに、息荒く。悪夢に魘されてるようにも見えたが、どうやら傷口が熱を持っているようで。身体に触ると、僕よりも体温が高い野生動物と同じで。毛皮持ちのレプリカントの彼もまた、その例に漏れないのだけれど。それ以上に、熱かった。後から消毒液を掛けたとはいえ、やはり黴菌が入ってしまったのか。本当に辛そうだ。いっこうに目を覚ます気配はない。遠くに、ユートピアの特徴的な外壁が見えるのだから。街は目と鼻の先とはいえ、このまま担いで運べるのも僕らには無理な話であるのだから。辛抱してもらう他なかった。
 ロッジの入口から、ガルシェが僕を呼ぶ。安全が確認できたらしい。まだ歩き回れるガカイドが、周囲から小枝を集め、ロッジの中にあった暖炉へと運んでいた。後から聞いた話なのだけれど。どうやらこうして打ち捨てられた建物を再利用して、旅の人とかが休憩所のようにして利用しているらしい。このロッジもその中の一つだとか。だから真新しい使用した痕跡が残されているのだった。昔は、キャンプ場とかだったのかな。土砂で埋もれ、枯れた川の跡が近くにあった。後は、バラバラになったバーベキューセットとか。錆びて網なんて所々大きい穴ができているから、錆びを落とし磨いても。肉を乗せるには心許ないと思った。
 せめてもと、中にあったベッドに。黒豹を皆で協力し苦労して運び、寝かせる。車の中に放置して、僕らだけ屋根の下というのも不用心であるのもあった。この時になると、もうガカイドも何も言わず素直に付き合ってくれる。それが、とてもありがたい。平気そうな顔をしているけれど、やはりガルシェは足が痛むのか。片足を庇うようにして、歩き方がおかしい。いつもレザージャケットの胸ポケットの中に入れられている。ジッポライターを貸してもらい、ガカイドに教えてもらいながら。適当な枝で囲いを作り、中央に燃えやすい紙等を敷き詰めて。そこに火を付ける。暖炉なんて初めて使うけれど、一度火が付くと。途端に炎の温かさがその周辺にだけもたらされる。夜はいっそう冷えるから。暖房はとてもありがたかった。ベッドにあった毛布をレリーベさんに掛けて。僕達は暖炉を身を寄せながら囲む。両方に狼型のレプリカントが居る状況だから、熱気が正面から押し寄せ。そして両端から毛皮持ち特有の熱気と。触れている部位は暑苦しいのに、触れていない部位はとても寒い。ガルシェにお願いして、後ろから抱いてもらうのも手ではあったが。ガカイドという人の目もあるし、それに。トラックの荷台では場所が限られていたからというのもあったから許していたけれど、自分から頼むのは気が引けた。三人で、何も言わず。炎を眺めるだけ。爆ぜる音が時折して、そこに少し離れた場所から黒豹の呻き声と。
 ぽかぽかと、部屋も温まりだした頃。ちょっと眠くなってきたけれど、空腹も感じて。運んでいる荷物から取って来るのも億劫だった。どうしようもなく身体は疲れていた。今日一日でいろいろあり過ぎたというのもあった。
「ルルシャは、すごいな」
 銀狼が唐突に、そう呟く。目を細めて、炎を見つめたまま。意図がわからず、何の事かなって。そう聞き返そうとしたけれど、それよりも僕の疑問を解消してくれる方が早かった。
「小さな身体で、いつも傷ついて、それでも頑張って。関わったいろんな人をどんどん変えていく。親父も、皆も。変わりたくない俺を置いて、いつも先に行っちまうんだな。一人だとすぐに死んじゃいそうなぐらい、危なっかしいのに……」
「ハハ、言えてる。ちょっと目を離すと、道端に転がってそうだ。そのくせ、負けん気だけは人一倍で頑固者ときた」
 どこか、悲しそうに言う銀狼に対して。ガカイドは明るく、同意を示していた。炎を見つめていた銀狼の頭がこちらへと向く。真顔であって、表情からでは。今の彼の心情はあまり伝わってこないけれど。いつも茶化す赤茶狼は空気を読んだのか、普段のそれと雰囲気が違う。あまりに頑固だって言われるから、僕ってそんなに頑固なのだろうか。自分ではそこまでではないと思うのだけれど。どうしても譲れないものがあるってだけで。
「最初。俺がいないと、駄目だって思ってた。俺がいないとって、守らなきゃって、そう思ってた。でも違った。ルルシャは強いんだ。変わるのが怖い俺なんかよりも、ずっと」
 そんな事はない。僕は誰よりも、今だって。皆の中で最弱だった。いつも口先だけで、何の力もない。厚かましい人間だ。だから。ガルシェの言う、強さについて。あまりよくわからなかった。
「お前でも、怖いものってあるんだな。ガルシェ。訓練生のころから、特に怖いものなんてないと思ってた」
「あるさ。俺はずっと、どうでもよかったんだ。何もかも、色褪せて見えていた。ただ、どうでもよかったんだ」
 僕を挟んで、頭上で狼二人が言葉を交わす。全員座っているけれど、座高の違いから。そうなっていた。二人の会話に、ただ耳を傾けていた。どう返事したものかと、悩んでいる間に。狼二人で話が進んでいくというのもあった。そっと、頭の上に手が乗せられる。ガルシェの手だった。ゆっくりと。一回だけ撫でて、離れていく。
「そんな時、ルルシャが家に来て。最初はちょっと、口うるさくて鬱陶しいとも思ったりもしたけど、それがだんだん。楽しいんだって気づいた。誰かと一緒に暮らすのが、こんなにも満たされるんだって。それで、家に帰るのが。楽しみになってた」
 それは以前にも。彼が季節外れの発情期の時、言われた事と似ていた。ただ今は、彼は正気であり。酒に酔ったわけでもない。思わず、銀狼の顔が見れなくなる。そんな僕の様子に、反対側の人が面白そうにする気配。
「その生活がずっと続くだけで、俺は満足だった。でも、ルルシャも。そして親父も、それだけじゃだめだって言うんだから。俺がもし、番を持ったら。ルルシャがいなくなると思うと。それが現実になりそうになると、動けなくなった。どうしたらいいかわからなくて。だから、怖かったんだ。誰かの、親父の言う通りにしてたら。今までそれで良かったのにな」
「お前、昔から親父さん大好きだもんな」
 ガカイドから放たれた事実に。驚く。だって、顔を突き合わせばいつだって銀狼と灰狼は喧嘩をしてばかりで。その原因は僕にもあって。家でも、ガルシェはあんな奴って。親父でもなんでもないって。それなのに。これには困ったふうに、銀狼が赤茶狼をちらりと見て。拗ねたように俯く。
「こいつ、ずっと家族っていうのに憧れてたからな。他の家族を見て、羨ましくなって、自分もそうして欲しいのに。親父さん、ようは市長は息子に対してずっとあんな態度だろ? 幼い頃から大好きなのに、あんな扱いで、だから今でもファザコンこじらせてんだよ」
「ガカイド!」
 あんまりな言いように、ガルシェが威嚇の唸り声を出すけど。毛の薄い耳の内側が真っ赤だったから、どうやら恥ずかしくて赤面してるらしい。そんな様子に、威嚇も効力を削いでいた。というより、彼らにもファーザー・コンプレックスなる単語が存在するんだと思った。でも、そうか。僕が心配するよりも。ずっと前から。ただきっかけがなかっただけで。二人共、お互い見えない親子の絆が。ちゃんとあったんだ。それを本人達が自覚してないだけで。先にお父さんの息子に対する気持ちを聞いていたけれど。こうして、ガルシェの口から。ちゃんと聞けるなんて思わなかった。
「やっぱり。ガルシェって、可愛いよね」
 不意に、僕がそう。つい笑いながら言うと。両脇にいる狼二人は、苦虫を噛み潰したようにしていた。見た目は背が高く、筋骨隆々であり。目つきだってとても悪い、そんな銀狼に対してする評価としては。とても不適切だと言いたいのだろう。彼らからすると、そんな感想を抱くのは。そう言った人相手であるのかもしれないけれど。この半年といえど。とても近く、傍で見て来た僕からすると、どうしてもそう思わずにはいられなかった。だって、可愛らしいじゃないか。甘えん坊だとは、前々から思っていたけれど。僕の判断基準は、ことガルシェに関するものはかなり甘めに設定されているけれど。これまでの全部、親に対する反発も含め。親からの愛情を欲する裏返しであったのだとしたら。もっと早く、僕と出会う前にきっと。何かきっかけがあれば、仲良くあの家で暮らせていたのではないだろうか。そんな希望すら見えるけれど。僕には到底理解できない範疇で。あの灰狼は同時に、息子を殺したい程憎んでいるとも言ったいたのだから。やっぱり、そうはならなかったのだろうか。だから遠ざけて。
「やっぱ、お前。俺様、正気を疑うわ……」
「そうかな。可愛いよ、ガルシェって」
 だらしないところとか、一緒に暮らし始めた頃は。何この人って、思うぐらい。呆れて、本当に家事がめんどくさいんだなって。でもその内、世話を焼くのが嫌いじゃない自分に気づいて。そうか、そうだね。銀狼が言うように、楽しかったんだ。楽しいと気づけたんだ。僕だって、正直めんどくさいし、できるのならやりたくないなって。そう思う日もあった。水は冷たいし、洗濯も全部手洗いで。朝の弱い彼を、どうして居候の僕が起こして。ご飯作って。ここまでする必要はあるのかなって。考える時だって。居させてもらってる負い目はあっても。僕だって感情を持った人間であるのだから、当たり前みたいにされると腹が立つ。実際にお礼とか、言われる回数はずっと少なくて。それでも。それでもなんだ。彼の隣は、どうしようもなく居心地が良かったんだ。
 お互いに、お互いの不満な部分があって。そんな中でも。自分がわりと世話好きなのもあったけれど。作った料理、全部残さず食べてくれるのって。意外に嬉しいんだよ。綺麗に洗って干した洗濯物、それを毎朝着て。行ってきますって見送るのって、気持ちが良いんだよ。帰り道、今日の献立を考えながら。食材を選んでる時、栄養のある物を食べさせたいなって。考えるの、わくわくするんだよ。夕ご飯を作りながら、ただいまって。出迎えるの。今日も無事だったんだねって、安心するんだよ。水に濡れるのが嫌いで、身体は大きな相手を無理やりお風呂場に連れて行って。その広い背中を洗うの、とても大変で。けど、見違えるように毛がふんわりとするの。面白いんだよ。そして、その手触りはとても。正直煙草の臭いは嫌いだけれど、それも合わさって。彼の体臭だと思うと。ちょっとだけ、嗅ぐと心が安らぐんだよ。
 知らないでしょ。知らないよね。だってこれは、銀狼と一緒に。半年とはいえ。同じ屋根の下で暮らした、僕が勝ち取ったものだ。誰でもない、僕だけのものだ。でもいずれ、譲らないといけない立場だ。まだ見ぬ、ガルシェの番に。それを、自分から捨てようとしたんだなって。していたんだなって。家から出て行こうとして。それで彼を悲しませてしまって。心にもない事を言わせてしまって。一度は、ぎくしゃくした関係。
「なんか、ルルシャって。なんとなくだけど、ガルシェの母親みたいだよな」
 ん? 二人での暮らしを振り返っていると、そんな思ってもみなかった事を言われてしまう。だってそんなつもりこれっぽっちもなくて、確かに。僕は彼を心配したり、大丈夫かなって思いはしても。そんな役目は、絶対にこなせない。代わりにはなれない。きっと産まれる前に用意されていた櫛とか、爪切りとか。かってに使わせて貰って、それで銀狼の手入れをしながら。ごめんなさいとは思いはしても。それに、どちらかというと立ち位置で言えば保護者はいつだってガルシェの方だった。以前に親子のようだと比喩されたりもしたけれど。それだけは変わらない。僕は言ってしまえば家政婦みたいなものだ。
「そんなんじゃないよ」
 だから思わず否定してしまう声音が、ちょっと冷たくなってしまうのは。ガカイドに悪いと思いながらも、さけられなかった。本当にそんなんじゃなかった。それで、いつの間にか。世話を焼いている相手の事が、好きになってしまって。でも、返される愛情は。まるで大切な玩具に向けられるみたいで、ただ心地よさ故に手放したくないと。そう言っているのだと気づいてしまったとしても。でもそれで良かったのかもしれない。結局、僕は、ガルシェが幸せになってくれさえすれば。それでよかった。それで。そこに父親の要望も加わって。
 でも。他人から僕らの関係を見たら、そう思わずにはいられないのかな。だから、お父さんが。息子に向かって母親の代わりにしていないかって、そう言ったのだろうか。優柔不断に、今に固執し、人間などに執着心を芽生えさせた。息子に対して。いつだって、未来の話をしていた。だというのに、ガルシェは。今を。自分に都合が良い、ぬるま湯に。
 だから、僕も大好きな相手にとって。都合の良い人になれたら良かったのだけれど。それに何よりも耐えられないのは、やっぱり、僕自身だった。好きになるって、その人の特別でいたい。そう思ってしまうのだから。だからこそ、友達のままでいられなくなってしまった。僕が先に一歩、感情が飛躍してしまって。ああ、だから。彼は、置いて行かれたって感じたのだろうか。先に、行ってしまうって。だったら。あの時好きだよって、僕が言ったのは。タイミングもあっただろうけれど、かなり嫌に感じたのではないだろうか。また、酷い事をしてしまったかな。
 そんな事ないよ。僕も、いつだって迷い、苦しみ。そうやって、他人を巻き込んで。今も。傷つけて、傷つけられて。誰かに置いて行かれる恐怖は、僕もわかる。無力感にいつも打ちのめされている、何の力も持たない。人間であるのだから。あまりに非力で、知識もない。こうして、誰かの優しさに付け込んで。利用するぐらいしか。できなかった。だから凄いなって、そうガルシェに言われても。何もピンと来なくて。共感は得られなかった。いつだって凄いのは皆の方だ。こんなかってな僕の振る舞いに付き合って。
「ガカイドだって、凄いよ。トラウマがあるのに、怖がりなのに、立ち向かって。こうしてついて来てくれて。ガルシェだって、いつも僕を守ってくれて。変えてなんてない、僕がいなくても、きっと。皆が元々持っていた力だよ」
「怖がりは余計だっつーの」
 赤茶狼の肘が、僕の肩を小突き。軽く上半身が揺れると、反対側の銀狼に寄りかかってしまう。それでガルシェが嫌な顔なんてしないし、ちょっと嬉しそうに。尾を揺らす。
「ありがとう」
「んだよ、改まって。金で雇われてるんだから、別に礼なんていらねぇよ。ただ、申し訳ないと思うなら。追加の治療費は取るぞ」
「いいよ、僕の有り金。全部持って行っても」
「言ったな? 言質は取ったぞ」
 言わなければ駄目だと思った。これまで、こうなってしまって。都市部まで引っ張って来て。そうして、謝ってばかりであったけれど。誰かの復讐の手伝いなんかさせる結果になったのだけれど。どれだけ傷ついても、軽口で済ませてくれる。その赤茶狼を見て、僕は一緒に笑い合う。本当に、優しい人だった。こうして会話をしている背後で、黒豹はベッドで一人眠っていて。そんな僕にとって大切な友達を傷つけられて、当然怒りを抱いているけれど。それと同じぐらい、学校で不安な時。味方となってくれた相手に感謝もあり。レリーベさんに対して、よくわかない状態であった。結局のところ、僕は関係者ではないのだから。自分がどうしたいか。その心に従うしかないのだけれど。だからこそ、見捨てようとしたガカイドに。助けを乞い、応急処置をして街に連れ帰ろうとしているのだから。
「ありがとう、ルルシャ」
 僕とガカイドの軽口に、とても優しい声で。お礼として遮る。暫く黙って聞いていてくれていた、ガルシェの声だった。
「ずっと。あの事件には俺も、思うところはあった。親父が庇って、それでずっと、どう接すればいいかわからなくなった。俺だけ、のうのうと表通りで生きて。訓練生の頃、誰よりも努力していたガカイドを知っているのに。いつも俺に突っかかって来て、最初はウザかったが。それでも、何もかもどうでもよかった。そんな俺にできた、数少ない友達だったのにな」
「ガルシェ、お前……」
「ルオネも、その事には気にかかっていたから。だから、あいつはいつまで経っても。番が持てるとしても、雄に求愛されても。何かと理由をつけて。俺達二人の事が心配で、友達としてずっと傍に居てくれたんだと思う。自分では言わないだろうけどな」
 銀狼の言葉に、赤茶狼が息を呑む。その間で、こうして。二人の。いや、三人の。幼馴染の話を少しだけ聞けて。それで、どうして僕にガルシェが感謝するのだろうって。恨まれはしても。
「だから。きっかけを作ってくれた、ルルシャに。友達として。俺が、感謝を伝えなきゃいけないんだ。いつだって、自分を責めてばかりで塞ぎこんでしまう。ガカイドを、街を、救おうとしてくれて。ありがとう、ルルシャ。こいつを、信じてくれて。ありがとう」
 それは、あまりに優しい。言葉だった。胸にじんとくるぐらいには。お礼を言われる資格なんてないのに。だって、二人共僕のせいで怪我して。ガカイドは片耳を失って。それで。だって。ほらね。悪い奴なんだよ、僕って。自分じゃ何もできないくせに。頼ってばかりで。だからお礼なんて。
「ほら、やっぱりお前って泣き虫じゃねーか」
 鼻を啜る音がする。それは僕のかなって思ったけれど。狼の鼻からも聞こえていて。俯きかけた頭を上げ、音がした方を見上げると。ガカイドが目に雫を溜めて、鼻が普段よりも多く濡れていた。
「そう言うガカイドだって、泣いてるじゃんか」
「泣いてねーよ! 俺様が泣くわけないだろ」
 僕だって別に泣いてない。そりゃ、ちょっと心にじーんとは来たけれど。だからと、そう再々泣いていたら脱水症状を起こしてしまう。やいのやいの、罵倒する語彙が少ない僕らは。お互いに馬鹿って言い合い。そうして、原因を作った銀狼に矛先は飛び火して。そうすると、勇気を出して言葉にしてくれたガルシェは。耳を倒して、困ったふうであったけれど。
 部屋が暖炉のお陰で温まったとはいえ、やはり冬の寒さは僕に堪えた。我慢していたけれど小さく、くしゃみをしてしまう。その際、銀狼は心配そうに覗き込んで来るのだけれど。それよりもだ。二人の服の裾を、くいって軽く引っ張る。そうしたら、狼の顔が二つ。意図が掴めないのか不思議そうにするのだけれど。
「狼って、寝る時は固まって寝るんでしょ」
 僕が、ちょっと気恥ずかしくて。床を見つめながらそう言うと。少し間があった後、二人分のくすりと控えめに笑う音がして。ちょっとだけ衣擦れがしたと思ったら、両脇の密着度が増し。背中にふんわりとしているけれど、毛質の違う。大きな布団のようなものが寄り添う。何だろうなって後ろを伺えば。それは、大きな狼の尻尾が。人を温めるようにして、折り重なっていたのだった。
 温かい。僕はやっぱり、彼が。彼らが、大好きだった。レプリカントという存在が。動物の顔をしているけれど、心は人間で。けれど、どこか違っていて。異種族ではあるけれど、優しい彼らを好いていた。身体は大きいし、常に身長差から見下ろされてばかりで。恐怖した時期もあったけれど。彼らを知れば知る程、好きになって、大切になっていったんだ。
 だからおやすみって、言えば。二人分のおやすみが返って来る。生きてるからこそ、こうして。会話ができて。一緒に眠る事ができる。確かに変わりたくない。なかったけれど。変わらずにはいられない。それでも。役に立てたのかな。そう思わせてくれた彼に。いつだって、僕の一番欲しい言葉をくれる。いつだって、僕の一番辛い言葉をくれる。そんな銀狼を、僕は愛していた。
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

【完結】運命さんこんにちは、さようなら

ハリネズミ
BL
Ωである神楽 咲(かぐら さき)は『運命』と出会ったが、知らない間に番になっていたのは別の人物、影山 燐(かげやま りん)だった。 とある誤解から思うように優しくできない燐と、番=家族だと考え、家族が欲しかったことから簡単に受け入れてしまったマイペースな咲とのちぐはぐでピュアなラブストーリー。 ========== 完結しました。ありがとうございました。

急に運命の番と言われても。夜会で永遠の愛を誓われ駆け落ちし、数年後ぽい捨てされた母を持つ平民娘は、氷の騎士の甘い求婚を冷たく拒む。

石河 翠
恋愛
ルビーの花屋に、隣国の氷の騎士ディランが現れた。 雪豹の獣人である彼は番の匂いを追いかけていたらしい。ところが花屋に着いたとたんに、手がかりを失ってしまったというのだ。 一時的に鼻が詰まった人間並みの嗅覚になったディランだが、番が見つかるまでは帰らないと言い張る始末。ルビーは彼の世話をする羽目に。 ルビーと喧嘩をしつつ、人間についての理解を深めていくディラン。 その後嗅覚を取り戻したディランは番の正体に歓喜し、公衆の面前で結婚を申し込むが冷たく拒まれる。ルビーが求婚を断ったのには理由があって……。 愛されることが怖い臆病なヒロインと、彼女のためならすべてを捨てる一途でだだ甘なヒーローの恋物語。 この作品は、他サイトにも投稿しております。 扉絵は写真ACより、チョコラテさまの作品(ID25481643)をお借りしています。

好きだと伝えたい!!

えの
BL
俺には大好きな人がいる!毎日「好き」と告白してるのに、全然相手にしてもらえない!!でも、気にしない。最初からこの恋が実るとは思ってない。せめて別れが来るその日まで…。好きだと伝えたい。

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

『これで最後だから』と、抱きしめた腕の中で泣いていた

和泉奏
BL
「…俺も、愛しています」と返した従者の表情は、泣きそうなのに綺麗で。 皇太子×従者

偽物の僕は本物にはなれない。

15
BL
「僕は君を好きだけど、君は僕じゃない人が好きなんだね」 ネガティブ主人公。最後は分岐ルート有りのハピエン。

メランコリック・ハートビート

おしゃべりマドレーヌ
BL
【幼い頃から一途に受けを好きな騎士団団長】×【頭が良すぎて周りに嫌われてる第二王子】 ------------------------------------------------------ 『王様、それでは、褒章として、我が伴侶にエレノア様をください!』 あの男が、アベルが、そんな事を言わなければ、エレノアは生涯ひとりで過ごすつもりだったのだ。誰にも迷惑をかけずに、ちゃんとわきまえて暮らすつもりだったのに。 ------------------------------------------------------- 第二王子のエレノアは、アベルという騎士団団長と結婚する。そもそもアベルが戦で武功をあげた褒賞として、エレノアが欲しいと言ったせいなのだが、結婚してから一年。二人の間に身体の関係は無い。 幼いころからお互いを知っている二人がゆっくりと、両想いになる話。

幽閉王子は最強皇子に包まれる

皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。 表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。

処理中です...