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四章
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「ルルシャ!」
学校の運動場で、市長さんと二人並んで待っていると。門を越えて、外から走って来る人の姿は遠目からでも体格がよいのだとわかり。低い男の声が、弾んだ調子のまま僕の名を呼んだ。誰よりも、何よりも、焦がれた人の声。なのに、どうしてこんなにも心は凪いでいて。嬉しくないのか。離れていた分だけ、恋しかったのに。
そんな僕の背を、軽く押される。それは隣に立っている灰狼に違いなく。隣に居るのだから、そちらの方向を見上げると。当然白髪の混じった毛を風で靡かせながら、こちらを見下ろしていた人と目が合う。広いグラウンドを風が通り過ぎれば、遠くで土煙すら舞っていた。一つ、頷いて。言葉にはせず行きなさいと、訴えかけてくれる。
だから、一歩。前へと踏み出せば。とても足が重いと感じたのに。次にもう一歩と、そうしたら。前から走って来る相手と同じように、僕まで走り出しそうになっていて。でもそれをするよりもずっと、銀狼が僕を捕らえるのはずっとずっと早かった。膝が、土で汚れるのも構わず。少し勢いを殺しきれずに、擦らせながら。手を広げて、僕を抱きしめるに至った。ぐりぐりと、大きな狼の頭が。僕の顔にぶつかってくる。骨同士が当たって、鈍く痛みを感じるぐらい。その擦り付け方は強かった。暫く、そんなガルシェになすがままになってるとも。逃げたくても、抱きしめる彼の腕の締め付けが強くて。逃げられないとも言える。そんな状況に身を任せていると。僕よりも先、肩に頭を乗せて。銀狼が唸った。しっかりと威嚇に、敵意を剥き出しにして。どこを睨んでるかなんて簡単に察する。だって僕の後ろには市長さんが居て。それをされた人はやれやれと、肩を竦めていたけれど。
堪らず、そんな銀狼の耳を引っ張って止めさせた。そんな事、しちゃだめだよと。親に向ってそんな顔をするもんじゃない。より、二人の関係が僕のせいで険悪になるのは避けたかった。僕の弱い力でも、ダメージを与えられる唯一の部位であるから。ガルシェは痛がって、唸るのは止めてくれたけれど。こんどは僕が、険しい表情をさせた銀狼に至近距離で睨まれてしまう。何をするんだよって、そんな感情がダイレクトに伝わって。でも、人間が。そんな狼の表情を見てなお。困ったような表情をしていたから、途端にばつが悪そうにして。自身の後頭部を軽く掻き毟ってもいた。
後生の別れでもないし、別にまた仕事をしにここへと来るのだから。市長さんとの挨拶はとても軽く済ませた。というより、僕が彼と話していると。隣に居る人がどんどん機嫌が悪くなっていくのもあって。できなかったとも言えた。そんな貧乏揺すりしながら待つガルシェを見て、市長さんが余裕たっぷりの体で。面白そうに自身の息子相手に、クスクスと口元を手で隠して挑発するように笑うものだから。余計に。
「それではまた」
「ええ、また明日」
話が済んだら、僕の手を取ったガルシェが。引きずるようにして、少しでも早くこの場を去りたいのか。険しい表情のまま。学校の敷地内から出て。歩幅が違うから、着いて行くのがやっとだったのだけれど。今はそんな僕の事を気遣ってくれる余裕もないらしい。
「なんで、親父と親しそうなんだよ……」
振り返りもせず。そのような事を言われて。その不機嫌な雰囲気を隠しもしない狼の後頭部を見つめながら、はたと考える。嫉妬ではなく、ただ単に。嫌いなお父さんと僕が、仲良く喋ってたら。普通に笑顔を見せている事に対して、不満なのであろう。連れ去られるようにして、ガルシェが不在の間に出て来て。それに、お父さんに何か言われたりと。僕の事を心配していた節があるし。だというのに、暫く見ない内に。どうしてかガルシェから見て、僕と市長さんの関係がそういうふうに見えたら、面白くないのかもしれない。
そんなに、親しくなったという実感はないのだけれど。僕にとっては今もなお、上司にあたる人であるし。ペットと飼い主という詭弁めいた、関係は早々終わりを迎えて。そのような関係に今は収まっていた。こうなるとは、全く予想してはいなくて。別にそうなりたいとも、思ってはなくて。なるようになれとばかりに、ただ流れに身を任せていただけだというのに。
「そうかな?」
だから、軽く僕がとぼけて見せると。立ち止まったガルシェが、振り返り。狼の口吻を器用にへの字にして、訝しんで来る。実際に何があったか。僕の口から言うつもりはないし、それは灰狼も望んではいまい。と言っても、僕が何かしたかと言うとそういうわけではなく。ただ市長さんから、寄り添ってくれたに過ぎないと感じているから。これに嘘はなく、ガルシェからはそう見えたんだなって。そんな他人事めいた感想しかなかった。
ただ、市長さんの元で働くようになったから。これからはガルシェの家から通うねって、そう告げると。はぁ!? そんな大きな声を出して、毛を逆立てていたけれど。どういう事だと、肩を揺さぶられても。いや、そうなってしまったんだから。しかたないじゃんと、白を切る。この街の最高権力者の言う事だぞ、僕は逆らえない。君が思っている以上に、人間の首なんて簡単に飛ぶんだよ。そう手でなだめながら。僕の言い分に、納得がいっていない銀狼が。それでもマズルに皴を刻んで、軽く唸られてしまう。落ち着かせようといつものように撫でようとしたら、今は手に咬みつかれそうだった。あまり、お父さん関連の事でからかうような態度や。わざと神経を逆なでるのはよくないなと。もう決まった事だからと、僕も拒否できないんだ。それと、お給金結構良いんだよって。おどけても見せる。心は正直複雑に絡まって、楽しくも何ともないけれど。わざと久しぶりに会えて嬉しいと。そうガルシェに対して振る舞えば。言いたい事はあるのだろうけど、満更でもないのか。ぐっと狼の口が噤んで。控えめにフリフリと尾が揺れ始める。こういうガルシェのとても素直に、身体へと気持ちが表現されるのが羨ましくも、微笑ましい。
「俺も、会いたかった」
引っ張っていた手を離し、学校でしたように。またしゃがんで視線の高さを合わせてくれると。もの儚げな顔して。そういうふうに、飾らずに言われてしまうと。内心は困り果ててしまうのだけれど。そこで漸く、僕にも嬉しいって実感が湧いた。ずっと、直談判しに僕には会えずとも学校自体には来てくれていたらしいし。それもなんども、なんども、だ。僕の為に、嬉しがるなと言われても。無理だった。照れくさくて、そこまでは言えなかったけれど。今なら、良いかなって。だから彼の頬に。いつもそうしていたように。ムニムニと頬を揉むようにすると。ボサボサになった毛並みが人の手を出迎えてくれて。だいぶ、この人も。灰狼に負けず劣らずやつれている事に気づいた。ちゃんと食べて、寝なきゃ駄目だよって。トイレで別れたのを最後に。久しぶりに身を寄せてくる人の体臭は、とても獣臭い。断水はとっくの昔に直ってるのに。後、衣服から香る。煙草の臭いもキツかった。
臭いよガルシェ。そう指摘すれば。しゅんと耳を寝かせて。別に強く叱ったわけでもないのに。僕が居ないからって、めんどくさがってお風呂入らないのは駄目だよって。そう言えば、なぜか困った顔とは正反対に。嬉しそうに尾が揺れる幅を大きくする。ちゃんと聞いてる? そう声を試しに強くしてみても。ただ片目を瞑りちょっと身を竦ませるだけで、口元は笑ってたり。よく、わからない反応を見せた。
「ルルシャが、怒ってる」
最後にはそう言って、これ以上僕が何か言う前に。また強く、抱きすくめてくるのだけれど。なんなんだよもうと、頬を膨らませれば。肩を揺らして、狼が笑ってるのが。身を触れあわせてるのだから、そんな振動が直接伝わって来た。どうしてか、怒れば怒る程。喜ぶ不思議な男に対して。最終的に僕も苦笑いで済ませてしまうのだけれど。離れている間に、ガルシェが虐められて喜ぶ変態になっていたらどうしよう。ただ、そういうふうではないのは。何となくわかるのだけれど。どうして、怒られて笑ってるのって聞いても。この男はそれで、教えれくれるわけではなかった。本当に、なんなんだろう。
そこで、突然襲った浮遊感。足裏から触れていた筈の地面の感触が消えた。覚えのある感覚に、身は本能的に竦んだけれど。心は落ち着いていた。ただ、銀狼が人間を抱き上げただけであった。彼の腕に座らされるようにして、肩幅が広い。逞しいそこに、身を預ければ。僕の胸の中には、狼が上目遣いで見上げていて。前も見辛いだろうに、それで安定したのを確認したらガルシェは歩き出してしまった。学校から、ゲートへと一直線に貫かれた。長い一本道になっている、広いメインストリートを。ただ、それで。僕らに視線が集まるといった事にはならなかった。広いと今まで感じていたこの道が、今だけはとても狭いように感じてしまったから。だから、降ろしてよと。かってに抱えた相手に抗議する前に、僕の意識はその光景へと奪われてしまって。最低限通れるように、道は確保されていたけれど。両脇には、大勢のレプリカントの人達が。地べたに座り込んでいたから。
簡易的なテントを使ってる人や、屋根もなくシートだけ敷いて寝ている人だっていた。どの人も共通しているのは、どこか怪我していたり。暗い顔をしている所で。広かった道を埋め尽くすその人達が、誰か。どこから来たか。僕はすぐに思い至った。聞き耳を立てて、噂話とか情報収集に余念がなかったから。
「フォードの。難民」
僕がそう呟いた瞬間。人を抱えた銀狼の隣を、荷物を抱えた人達が早足で通り過ぎていく。腕が当たりそうだったから、ガルシェが咄嗟に身を逸らし。避けてくれていた。僕の呟きに、意外そうにしていたけれど。同じ方向を向いた狼の鋭い瞳が、よりいっそうそれを強くする。
「そうか、知ってるのか。最近、急に流れ込んで来て。どこもこんな感じだ。都合よく空いてる土地なんて、壁で囲まれたここにあるはずないのにな」
レプリカントの親子が、身を寄せ合って。そうして、母親に抱きしめられた子供が。僕とふいに目が合って。そんな小さな子がさせるような、させていいものではない。仄暗い何かを湛えた瞳に怯んだ。人間を視界に入れた子供のレプリカント。ごくりと、その子の喉が動いた。そんなタイミングで。ガルシェが焦ったように声を掛けてくる。僕の意識をそこから逸らすように。連れ戻すように。聞いてるかと、心配そうに顔を覗き込んで来るから。曖昧に、返事してしまうのだった。
「医療物資も、食料もたりてないのに。まだ逃げ込んで来る奴が後を絶たないらしい。その内、ここも、歩ける場所すらなくなるかもな」
歩き出したガルシェのお陰で、もう見えなくなった親子の姿。大通りを途中で曲がり、小道へと入れば。よく知る住宅区へと、向かう道で。だんだんと彼と一緒に暮らしていた家へと近づいているというのに。先程見た光景が、目に焼き付いてしまって。それどころではなかった。それに比べて、いつになく人間に対して楽しそうに話しかけてくる銀狼が周囲の状況故に浮いていた。
もしかして僕を開放したのも。市長さんがさらに、僕を構っている余裕がなくなると踏んで。そうしたのかもしれなかったと気づいた。だとしたら、この問題をどうするつもりなのだろうか。ガルシェも、避難誘導とか。街の警護に走り回っていたようであるけれど。上がどう対応するかまでは、まだ知らされておらず。現状は受け入れている状況が続いており。それももう、限界だと言う。
もしかしたら、ゲートを閉める事になるかもって。これ以上難民が流入すれば、こんどは自分たちが危険だと。皆、薄々は感じているらしい。同僚達とも、そういう話題で持ち切りで。でも、無視できないのもまた。助け合いたいという、気持ちにも。限度があると。誰かを疎ましく思う気持ちはいくらでも湧いてくるけれど、それに対して施せる善意は有限だったのだ。それでも、よくやってる方ではあったのであろう。そんな内情を知って、責める気持ちなんてこれっぽっちも僕は抱かなかった。既に、この街は自分達が生きるので精いっぱいなのを。前々から知っているのだから。それでも、助け合って。どうにか暮らしを続けてこられたというのに。これでは。
逼迫した状況と言えるのだろうか。このようになって、サモエドの女性が経営する。あの飲食店がどうなってるのか、それが気がかりではあった。こんな時こそ手伝いを欲しているのではと。
「ついたぞ、ルルシャ」
「えっ、あっ、うん。みたいだね」
また考え事をしていて、心ここにあらずになってしまっていたから。ガルシェに声を掛けられるまで、家の前に到着してる事にすらまるで気づかなかった。特徴的な、錆びついて軋みをよく立てる階段を上る音にすら。久しぶりに見た、プレハブ小屋。それだけは変わっていなくて。変わったのは、僕の心情で。人の様子に銀狼は不思議がっていたけれど、考え事をする事が前々から多かったからさして気にするものでもないと思ったのか。それよりも、僕を連れ帰れて嬉しいのか。ポケットから鍵を取り出すその手は、淀みなく。ちょっと浮ついている気すらした。
そんな銀狼の姿に何とも言えないものを感じてしまう。ただいまと、自分の家なのだから当然の決まり文句を言い。僕を抱えたまま敷居を跨ぐ大きな足。見えた室内の様子に、ちょっとこれはどういう事だとばかりに。目が据わったと自分でも感じられたけれど、それを止める気も起きず。そんな状態で胸元にある狼の顔を見て。人に見つめられた狼は視線を泳がせては、揺られていた尻尾を緊張にか。小刻みに振るわせて。僕が出て行く前は綺麗に片付けていたのに、残念ながら既にその場はゴミ屋敷へと姿を変えようとしていた。初めて訪れた時よりは、まだマシとも言えたけれど。僕の許容できる範囲を超えていた。それでも、転がった酒瓶とか。何かを包んでいたらしい、タレがついて乾ききった紙袋とか。夏場ではなくて良かった、きっと酷い悪臭に部屋が染まっていただろう。それでも気化したアルコールが、室内で吸った煙草の臭いと混ざり。それなりに気分のよいものではなかった。それと、ガルシェから漂う獣臭もより強く、部屋に残っているのが問題で。僕がいなければ、こうなるのかと狼に抱っこされたまま呆れ果てていた。部屋の様子を見て、怒られると思ったのか。さすがにこれには、気まずいと思ったのか。先程の喜ぶ変な素振りはなかったけれど。彼の胸を軽く叩き、降ろして欲しくて合図をすれば。恭しく、まるで大切な姫を大地へと降ろすようであったけれど。その大地は穢れているから、綺麗な絵面とはならなかった。姫ではなく、ただの人間の男であったし。
玄関でやっと床に触れて、そのまま玄関と部屋とを分ける段差になってる部分に座り。ブーツを脱ぐのだけれど。隣で銀狼は、適当にブーツを脱ぎ揃えもせず放置して。そしてそのまま、立ち上がろうとする僕をそれよりも先に、押し倒すようにして。馬乗りになってきた。突然の事に、背中をフローリングへとしたたかに打ち付けて。大の字になった拍子に、たまたま手に当たった酒瓶が転がり。別の酒瓶と衝突して、軽い音をさせてもいた。
僕の腰上に、ガルシェが居ても重くはなく。それは膝立ちになった彼が、体重を掛けないように自身の腰を軽く持ち上げたままにしてくれてるからだった。本当に乗られたら、潰れてしまうのだし。
抵抗に身を起こすより、狼のマズルが僕の首元へとすぐさま埋められて。すんすんとにおいを嗅いでるらしい。そうして、さっきまで機嫌よさげにしていたのに。今では不機嫌そうに、においを一つ吸引しては唸り声を出していて。喉元付近でそれをされると、心がざわついて、怖いからやめて欲しいのだけれど。こちらの話なんて聞いてやしない勢いがあった。親父の臭いがする、そう言いながらもうここにはいない。あの人に対して怒ってるようでもあった。怒りの度合いが、彼の呼吸の乱れから察する。深く息をしては、唸って。牙をむき出しにしていた。僕の身体から、嫌いな人のにおいが色濃く残っているのだから。彼にとっては、穏やかではなかったのかもしれない。
「……何もされてない、よな?」
自分の玩具を他人に貸して、戻って来たら壊れてないか。しきりに確認するように、痕跡がないか。狼の鼻が嗅ぎまわる。首元にある服の襟首からマズルを突っ込んだり、服をたくし上げたり。ズボンを脱がそうと、大きな手が掴んで来た時には。さすがにそれはと、僕が抵抗の意思を明確に示した。それで銀狼の眉間がより険しくなろうとも、普通に上半身はまだしも。下半身を脱がされるのは恥ずかしいというのがあったからだった。一緒の部屋で生活していたのだから、それなりに。付着しているのだろう。撫でて、撫でられて、スキンシップもしたし。動物の顔をしてるから、ついつい緩んでしまうけれど。貞操観念的に、かなり危ういのかと。ふと思った。いや、別にまだ。浮気をしてないか、責め立てるみたいな様子のこの男と。明確に付き合ってすらいないのだから。責められる謂れはないと思うのだけれど。ただ、市長さんが言っていたように。多少なりとも、僕に対して。そういった感情が芽生えているのだとしたら。ちょっとだけ悪い事をしただろうかと。眼前の銀狼に対して罪悪感も生じて。
起きた出来事と、出会った人達と、それら全部を加味して。何もなかったよと、それだけ言うにとどめておいた。共同風呂に入る時は、それなりに刺激的な光景を目にはしたが。別に手を出されたとかは全くないし。逆に異種族の人間相手に、そういう事をしようという人自体。あまりいないと思う。そう思いたい。僕はそんな他者を魅力するような身体ではないと。自分自身では思ってるのだし。女性であったなら、また違ってくるのだけど。男、だしな。そういう誘いも、特になかった。同性同士で、性処理がそれとなくおこなわれていたとしても。ただそんな話自体は聞く事があっても。当事者になるような場面は、欠片も。どちらかと言うと、身の危険を感じるのは。いつだって、僕をよく押し倒している銀狼なのだが。その事はわかっているのだろうか。マーキングにしては、度が過ぎていると。いろいろな人達を見て来て、他のレプリカントの生活模様を見て。改めて思うのだった。
ズボンを脱がそうとして止めた、細く小さい人の手を毛むくじゃらで大きく無骨な手が掴んで。肉球があるにしては、強く圧迫されて。平たい爪がぐっと当たる。鋭かったら皮膚を裂いていただろうか。そう、爪だ。爪が切られている。僕が切ったのはだいぶ前で、既に長く伸びていてもおかしくない月日が流れているというのにだ。なら、誰が。
彼の爪の事にばかり気にしている内に、床に縫い付けるように。彼の手で僕の腕が押えつけられてしまった。どうやらこれ以上脱がすのは諦めたらしい。ただ、それで終わってはくれず。狼が口を開いたら、鋭い牙同士から唾液を滴らせて。粘液でぬめった、赤い舌が。そのまま僕の首へと這わされる。びくりと、肩が跳ねた。
それで一瞬、ガルシェは動きを止めたけれど。ただ擽ったくて僕がそうなったと思ったのか、行動自体はまた再開されて。ゆっくりと、下から上へと。舌が動く度に。ぴちゃり、ぴちゃり、そう粘着質な音をさせながら。ふんふんと、僕を押し倒す男の鼻息が荒い。生温かい呼吸がこちらの耳あたりを擽った。
実際の所、捕食される前の味見のように思えて。恐怖に身を強張らせたというのが、正解に近かった。前までは、おっかなびっくりある程度受け入れていた事であったのに。いろんな事を知った今、前とは僕の身体の反応は違っていて。これはマーキング。これはマーキング。そう頭の中で言葉を繰り返す。でも、さらに口を大きく開いて。牙を僕の顎辺りに当てようとした段階で。つい、嫌っ! そう声にまで出して、顔を背けてしまった。咬まれる。そう思ってしまった。彼の事だからただの甘噛みであって、狼の愛情表現の一つと頭ではわかっていても。本にもそう書いてあった。わかっているのに。離れていた時間が、信頼関係を知らず知らず薄めて。ただ恐怖を誘う行動へと変質してしまっていた。僕の心を侵す知識という名の、過去の出来事が。そうさせた。彼は、関係ないとしても。ガルシェは変わっていない。ただそうしたいから、してるに過ぎない。動物的な行動ではあったけれど。悪意はなかった。どちらかというと、愛情すら抱いていてくれたかもしれないのに。なら変わったのは人側だった。変わってしまったのは、僕だった。
だから、そんな条件反射的な事をしてしまった後で。ハッとなり、顔を正面に戻せば。とても傷ついた顔をさせた、銀狼が居て。口を開けたまま、唖然と固まっていた。そんな顔をさせたかったわけではないのに。動揺して、押えつけていた彼の手が離れた事で。身軽になる。身を起こして、ただこちらを見下ろす相手が。僕のとった反応に、信じられないとばかりに動揺してるのが見て取れた。ごめんと、すぐに謝れば。固まっていた表情が動きだして、普段の顔つきに戻るけれど。それでも、内心の動揺が耳と尻尾に現れていた。あ、いや。そう言葉を漏らす男に、自分の取った行動をどう説明したものかと。嫌ではない、彼にされるのは大丈夫であったのに。どうして。
「……やっぱり、誰かと。交尾したのか?」
「えっ、なに」
思考停止していた、銀狼の脳が正常に動きだした筈なのに。そこから吐き出された台詞は予想もしていなかったもので、聞き返してしまう。ただ、彼の視点から見ると。下半身を脱ぐのだけ抵抗し、甘噛みを拒絶するその人間の姿は。離れている間に、別の人とそういう関係を持ち。彼から心が離れてしまったと、そう感じさせるにたるおこないであったのだろうか。全然そんな事はなく、学校での暮らしで。この男の事を忘れた時など、ないというのに。俺がずっと、心配して。なんども学校に行っていたのに、その間に。お前は新しい相手と、そういう事をしていたのかよって。そう問い詰められたのならば。心当たりはなくとも、少しだけこちらも頭にくるというもの。嫉妬心めいたものを剥き出しにして、怒りを露わにするガルシェを見てるいると。そんな一瞬湧いた感情も、フラットに戻るのだけれど。自分よりも取り乱した相手を見ると、逆に落ち着く現象だろうか。ただ、確信した。この男が僕に対してどう思ってるのか。市長さんが言っていた事が、間違っていなかったのだと。嬉しくもあり、そして。残念でも、あった。
だから。せっかく連れ帰ってくれたのに。僕は一つ。覚悟を決めた。僕がどうした方が良いか自体は。もう決まっていたのだから。後は。好きな人を目の前にして、こんなにも揺らいでいた心次第で。今なら、立ち向かえる気がした。大好きだから。大好きだからこそ。
「ガルシェ」
「……なんだよ」
「僕、出てくよ」
「えっ」
不貞腐れて、ぶっきらぼうに返事していた男は。突然人間が放った言葉を。何を言ってるのか、理解できないと。ガルシェは、戸惑ったまま僕を見ていた。きっと、また二人の生活が始められると。そう思っていただろうから。ずっと、帰り道であんなにも周りが大変そうなのに。それなのに。それらには目もくれず、僕の事ばかり見て、嬉しそうにしていたのだから。
どこから出て行くかを明確に。もう一度。この家から出て行くと、その旨を告げた瞬間。
「それはダメだっ!」
狼が大声で吠えていた。耳鳴りがするぐらい、大きい声が苦手な僕は。またそれで、身体を震わせてしまう。咄嗟に出てしまったのだろうけれど、僕のそんな姿を見て失敗したとばかりに顔を歪めて。でも、止める気はないのか。肩を掴んで来て。いくら爪が切られているとはいえ、彼の握力を考えず。加減の利いていないそれは、骨が軋んで痛みを訴えた。
ただ、言ってしまって。この銀狼の動揺具合だけが、予想外だった。もう少し、渋りはしても。あの時みたいに、ガカイドの首飾りを持っていたのを見られた時のように。そうかよって、突き放すものと思っていたから。僕の想定よりも、市長さんの想定よりもずっと。ガルシェが僕に向ける感情が、肥大してるなんて。
「どうしてだ、もしかして部屋が散らかってるからか。す、すぐに片付けるから。まさか本気で怒ったのか? なあ、何か言ってくれよ、ルルシャ。お前は、俺が拾って来て、俺の物で。お前も、俺の事。だって、においだって、こんなに甘く。それなのに、どうしてそんな事言うんだ。また、親父に何か言われたのか。脅されたのか!? なら今すぐ、ここに居られるように交渉してくるから」
しきりに、空気中のにおいを。僕の感情を嗅ぎ取りながら、自分自身の優れた鼻すら疑って。狼狽えて、慌てたまま、考えも纏まらないまま何かを言っている銀狼。その慌てようが、いっそ、可愛らしく感じてしまうのは。場違いだとわかってはいても。落ちつき、微笑ましいとすら思い。そんな彼を見つめる僕の表情を見て、狼の頭が突進してきて。僕の胸元を探る。その拍子にシャツの下、胸元に押し込めていた。彼のネックレスが慣性に乗って飛び出て来た。番に渡す筈のそれ。僕に渡すべきではない、それ。ああ、本当に。この狼が、愛おしいと。僕の感情が、遠くに逃げていく。
好きで満たされて、好きが溢れて。愛に変わっていくのが、自分の心模様が。そっか。においで相手の感情がわかるのだから。それは、嘘とか、そういった悪意だけではなく。好意だって。それは、盲点だったな。隠したがっていた、僕の気持ちなんて。とっくの昔に知られていたのだと。いまさら気づいた。一言もそんな事告げていないのに、告げないように、告げてはいけないと我慢していたのに。やっぱりその鼻は、卑怯だ。
「風呂、入ってないからか。俺、人間にとってそんなに臭かったか!?」
ううん。獣臭いだけで、人のように全身で汗を掻く生き物ではないから。顔を顰める程ではないけれど、臭くないかと聞かれると。素直に否定はできない。というか、怒られる前に入れよと。冷静な思考が、ツッコミを入れていた。興奮していた際に、水をぶっかけた時みたいに。鼻を鳴らし、きゅーん。そう子犬のように、鳴く大男を見て。頭を撫でる。ゴワついてしまった、その毛並み。そのまま首の後ろを探るようにすると、触れる地肌の面積がそこだけ広くて。円形脱毛症が、悪化してるのがわかった。長い毛を掻き分けないと、他の人はきっと気づかない程度にまだ収まっているだろうけれど。こうして触れるとそうではない。そんなに、ストレスを感じていたのだろうか。結構、繊細だよね。ガルシェって。僕がそんな事をしていると、腕ごと抱きしめられて。狼の頭が自身の胸に押し付けるようにして、僕の頭頂部を押した。そうすれば、彼の胸元に揺れていたネックレスが当たって。痛い。
「ルルシャ、どうしてなんだよ。どうして。俺は、このままが良いって。ただルルシャと、ずっとこのまま暮らしたいだけなのに。どうして。俺を、親父みたいに、捨てないでくれっ」
つッ。息が、詰まった。捨てる。誰が。僕が、ガルシェを。そんなわけない。そんな事。だって捨てるとしたら、人間を飽いたこの狼が。そうするぐらいで、それを恐れて。僕は最初、気に入られようと。していたのに。なのに、どうして。彼の口から、そのような言葉が出てくるのだろうか。それを言わせてしまったのは。愚かな、とても愚かな、人間だった。
そして、幼少期に育児放棄のように。家に一人残されて。小さい頃に、感じていたであろう気持ち。この狼は、孤独に対して強い拒絶反応を見せていた。いっそトラウマを抉ってしまったとも取れる。
それと。ただガルシェは、僕と一緒に居たいだけなんだなって。彼の。その好きの形と、僕の好きの形は違うんだとも。気づいてしまった。強い感情を向けてはいたとしても。
何も言えなくて。彼の胸の中、俯いていると。少しだけ身を離した銀狼が。僕の頭を見下ろしているのを感じる。そんな視線を感じていたら、どこか。部屋の空気が重く、纏わりつくようなものに徐々に変わりつつある事に気づいて。どうしてそうなったのか。だから、僕が見上げて。そうしたら。銀狼の、琥珀のようで綺麗だと感じていた。そんな瞳と僕の人間の瞳がぶつかって。ただ、それを見て悠長に綺麗だとか。そんな感想は出てこなかった。だって、色合いは変わってない筈なのに。どこか、黒く。仄暗いものが侵食し始めているように。これは、さっき見た難民の子供がさせていたのに。似ていた。なら、この色合いは。名前を付けるのなら。きっと。そう。
――絶望。
僕を抱いたまま、立ち上がった男は。無言で人間をどこかへと運ぶ。苦虫を噛み潰したように、表情を歪めたまま。そして、そう広くない部屋を通り過ぎると。扉を一つ開けて、中へ。ここは、お風呂場へと続く脱衣所で。僕をそこへ連れてくると、ただ一言。脱げ。そう告げて。ガルシェは自分の着ていた衣服を、乱暴に脱いでは。床へと放り捨てていた。それを、茫然と見てるだけで。命令されたのに、従わない人間相手に焦れた狼が。引き裂くように、力任せに。僕が着ている服を引っ張った。ビリビリと音をさせながら、伸びきったまま戻らなくなってしまう上着。留めていたボタンが弾け飛び、固定できなくなり。落ちるズボン。あんなにも、理性を欠いてても。我慢強い彼が。今は、ちゃんと理性があるのに。その動きは、どうしようもなく。暴漢のそれだった。だから、抵抗をしても。あまり意味はなく。しただけ、強く握られた部位が血が堰き止められて鬱血しそうになりかける。そうして、脱衣所からその先。お互いが裸になった上で。お風呂場へと続く扉を開けたら。僕の鼻腔に飛び込んで来た。湿気を含んだとても雄臭い。生乾きの、腐ったようなそれら。ここで、何がおこなわれていたのか。言葉にする必要もないぐらい濃密に。戸惑いに、足が竦んでるのも構わず。ガルシェが背を押す。有無を言わさず、入れと。逃げ場のない密室へと。そんな中で、遅れてやってきた肌寒さに鳥肌が立った。
正直、裸になるには辛い季節で。ただ、ここまで声も出さなかったのは。そうしながらも、そうしているガルシェが一番。辛そうな顔をしていたからで。別に、彼にどうされようと。逆上した銀狼に喰い殺されようと。それもまたいいかもしれないと、思い始めていたから。そんな顔を見てしまうと、心苦しくて。何も言えなくなってしまったのもあったのだった。彼の幸せを願い、そうしようとしたのに。どうして、こうまでも。彼の心を傷つけているのだろうか。手遅れかもしれないと言っていた、灰狼の言葉が。いまさら重く、胸の内を響いた。
興奮に息を荒げて、こちらを見下ろす屈強な男。お互い裸体を晒し、このお風呂場を満たす臭気も饐えた酷いもので。でも、どこにも。お互いに性的に興奮してるかと言われると、そんな事はなかった。ただ、そうなろうと。ガルシェが自身の性器を鞘の上から握り、刺激して。その手付きは心の荒れようも表していて、荒く。痛みすら感じていそうなものであった。唸りながら、歯茎を剥き出しにして。銀狼の顔が苦悶に歪む。本来は直接的な刺激で、勃起するか。朝の生理現象で、そうなるのに。今では持ち主の気持ちに答える事はなく、ただ沈黙を貫いていて。乾いた擦れる音だけが、虚しくお風呂場で響いていた。垂れ下がる大きな玉が、びたびたと自身の内股を打ち付けながら揺れ。手が上下する度に、鞘から赤黒いものが見えては隠れるを繰り返す。いつまで経っても、大きくならないから。クソっ。そう口汚く、思い通りにならない自分の身体に。銀狼が吐き捨てるようにして言い。手を止めた。
多少なりとも、空気に触れた粘膜部分が空気中に溶けて。僕の鼻にまで強く、獣臭さに混じって新鮮な雄の臭いが漂ってくる。お風呂場に残留していた古いものではない。ただ、熟成された。海産物を想像させる。そこにツンと、アンモニア臭が自己主張していて。それは、嗅覚の優れたガルシェ自身もそうであったのであろう。不快げにしていた。ところが、何か思いついたかのように。細められていた瞳が開く。
もう一度挑戦しようというのか、また自身の生殖器を握った銀狼は。ただそれで、こちらを見つめた。先程のように荒々しく抜くでもなく。ゆっくりと包皮を剥くようにして、握った手を引き下げると。ガルシェの普段は隠れている、性器の先端が露出する。勃起してないと流入している血液の量が少ないからか。赤みが薄く、色合いがピンクっぽくて可愛らしくもあるのだが。尖った先に小さくある穴。尿道口。露出した先端はそのままだと天を向いた位置で固定されてる為に、銀狼が手首を捻ると。水平へと。その切っ先の向きを変えた。丁度、正面に居る僕へと向けるように。彼の自慰を見ているつもりだった僕は、行動の意味合いがまるで違うのだとそこで気づいて。嫌な予感がして、逃げようと慌てた。でもここは密室で、狭い空間はただシャワーノズルと浴槽があるだけだった。扉がある方向は、生憎と巨体が居座っていて退かせそうにない。
「が、ガルシェ? なにをっ」
「ルルシャは、俺のだ。俺のなんだ。もっと強く、マーキングしなきゃ。どこにも行けないように。もっと、強いの……」
うわ言のように、どこか。錯乱したかのような雰囲気で。僕の声など届いていやしなかった。自身の性器を僕へと向けたまま、一歩。狼の足が前へと踏み出す。手と違い、足は爪を切っていないのであろう。彼が歩けば、タイルと接触して小さくも硬質な音をさせる。距離を詰められながら、僕はただ背中に壁を感じて。その時を待った。逃げられないのなら、いっそ。無防備に揺れている弱点を蹴りあげる事もできたが。同性として、それだけはやっちゃ駄目だと踏みとどまっていた。切迫したように、呼吸を乱して。体温がいつも以上に高まってるのか、冷たい空気のせいで。彼のマズルが白い息で覆われる。そうして、ぶるりと。身体を震わせた男と。僕へと突きつけられた、尿道口から液体が飛び出すのはほぼ同時で。最初。その勢いはちょろっ、そんな控えめなもので。一瞬だけ途切れたと思ったら、もう一度、同じ勢いでまた液体が。彼の性器から飛び出ては、こんどは徐々にその勢いを増しながら。その着弾点を、僕の足元のタイルから。足の指先、足首、脛。ジョロロロロと、勢いを増した分だけ。聞こえてくる液体の衝突音も大きく、お風呂場の壁に反響しながら木霊して。肌に当たる衝撃。人体から射出されたにしては、圧を感じるぐらい勢いが強く。太腿へと、掛けられたら。足元から立ち上って来る。濃い湯気が二人の間を霧のように満たしていく。排泄されたばかりで、薄く黄色が入ってるその液体が尿であるのはわかりきっているが。アンモニア臭はまだ、そこまで強くなかった。まだ含まれている尿素が分解されておらず、新鮮な尿というのはあまり臭くないから。思ったよりも不快感は襲わず、ただ僕の尊厳を穢すようなおこないに。驚きで固まっていたというのが、正しかった。彼のお腹が力むと、強調される割れた腹筋。その時は膀胱に加わる内圧が変わるのか、ジャーって水音を強めて耳に入って来る音までも変えていた。お風呂場で、お湯が出てくれたらな。なんて考えた事が多かったから、温かい液体が肌を濡らすのはいっそ恋しく感じるぐらいで。それがおしっこでなければ、喜べたのにと。ショックから回復したら、そんな気持ちにもなった。
身体が大きい分、一度に排出されるそれも多いのであろう。コップで受け止めていたら余裕で溢れていただろうなと、足裏に感じる水溜まりを作るそれを眺めながら。やがて、満足そうな吐息をさせたガルシェが。最後の仕上げとばかりに、自身のペニスを軽く振りながら。剥いていた鞘を戻し、尿道内に残ったものまで絞るようにして水滴として飛ばす。それが僕の胸元まで散って。おしっこを掛けている際に跳ね返ったりした分が、彼の膝や足部分の毛皮を濡らしていた。ほかほかと湯気を立てるから、人間よりも平熱が高い異種族のそれが。この場の湿度と、気温まで上げようとしてるようで。
排泄が済んで、お互いに押し黙ったまま。時間だけが過ぎれば。熱を保持していた液体も、冷たい気温に容赦なくその温かさを奪われながら。排水口へと消えて行った。ただ、僕の肌を濡らした分は。まだ張り付いていて。毛穴はとても小さいのに、浸透してきそうだった。これで。彼のペニスから出る。先走りも、精液も、尿も。全部、身体に掛けられる経験をコンプリートしてしまった。達成感とか、そんなものはないが。早く洗い流さないと、異臭がし始めるのに。だというのに動けないでいた。それはそれをやった、銀狼も一緒のようで。自身の手すら汚した液体と、僕の身体を見ては。やってしまったとばかりに、口が引き結ばれていた。その事から、本来。レプリカント同士でも、あまりしない行動なのであろうと。彼の反応から窺えた。酔っ払いがトイレに間に合わず粗相をしたとわりきれば、強い拒絶反応はなく。自分でも意外な程、落ち着き払っていた。だからこの後、彼がどうするつもりなのか。何を言うつもりなのか、様子見している意味合いの方が強かったとも言える。ただ、この行動の意味が。かなりとんでもないのだとは、におい情報をコミュニケーションにする彼らにとって。とても重く、罪深い行動でもあると理解していて。
ただそれで、ガルシェを責めたり、叱ったりする気は起きなかった。好きが、愛へと花開いた後にされたから。というのもあった。出会った当初にされていたら、また違った反応をした気もしたが。今だから、これ以上彼を傷つけずにいられた。きっと、罵り。なんて事するんだと、言っている自分が居た事だろう。そうならないで良かった。ただし状況は脱していない。彼が取りうる、取れる選択肢は多く。逆に、人間である僕は。とても少ない。その気になれば、いつだって八つ裂きにできるのだから。これまで築き上げて来た、お互いの信頼関係に。ひびが入ったように感じた。そう感じたのは、銀狼も一緒だったのかもしれない。何か言おうとしては、躊躇っていた。俺。違う。お前が。俺は悪くない。時折聞き取れる言葉から、いっそ目の前の男が哀れに思えてしまう。だから、僕が悲しげに。眉を下げたら、人の表情をつぶさに見ていた狼が。また慌てて。
「俺、俺さ。ちゃんと爪だって毎日切って。それで、その」
そのさ。その言葉の続きが、紡がれようとして。止まる。性器を露出したまま、僕を見つめて何かを言っている銀狼は。いっそ滑稽に映った。そのペニスが、少しだけ触れてもないのに露出しだしたのも。雄というものは、潜在的に汚したい、穢したいという欲求が少なからずあるという。それは自分だけのものにしたいといった、欲求の現れで。漂う性臭が遅れて、彼の本能を刺激したのか。はたまた、僕の肌を汚したから。背徳感に、煽られたのかもしれない。僕の目線がどこに向いてるか、彼がその目線を追って。自分のペニスがどういう反応を示しているか、それには気づいていなかったのか。辛そうに。狼の手が、人の目線からいまさら男性器を隠す。おしっこをしたばかりだというのに。まるでその仕草は、膀胱が決壊しそうなのにトイレが使用中で、焦ってる人にもどこか似ていた。
首を振り、違う、これは違うと。涙目になりつつある、大男を見て。どうすればいいか、冷静に僕は考えていた。心がぐちゃぐちゃになって、本能と理性がぶつかり。思考か支離滅裂に。その証拠に、違うと言いながら。彼の目が尿で汚した人の部位を見ては、口角が緩やかに、ひくつきながらも上がっていた。それを見て、人が嘆息すれば。それで、怯えたようにして。狼の尾が内股へと隠れようとする。彼の今の姿は、自分の感情をどこに向けていいか。わからなくなっている、子供にすら思えた。自分よりもとても大きな身体が、今だけはとても小さく見えた。実年齢は六歳なのだから。大人になろうと、背伸びして、そうあれと状況がそうさせたのに。それだけ、彼の気高い心が追いつめられて。追いつめてしまったのだとも。それをしたのが、ただの人間であって。
そんなだらしなかったり、情けない彼の見てはいけない一面を見ては。ちょっとだけそんな場面に立ち会う自分に、特別感や優越感を抱いては。そんな感情はよくないと。自制して来たのに。これは、本当によくない。いっそ、関係だけでなく。銀狼の、その精神すらも壊れかかってるようにも感じられた。それぐらいの、危うさがあった。ここで、僕が間違えれば。取り返しのつかない事になる気がした。市長さんが恐れていた以上に。僕が、恐れていた以上に。壊してしまう。戦士で、優しかった、彼という存在を。獣の心と、人の心、両方を持った。姿は違えど、一人の人間を。
固まっていた身体を、動かして。前へと。僕から歩み寄る。そうすると、怯えて。子犬のように震える相手に。その自身の股間を押さえる手に、そっと触れる。
「る、ルルシャ」
僕の行動に、考えが追いつかないのだろう。拒むように、手を退けようとせず。嫌々をするように首を振る。目を瞑って、こちらを見なくなった相手に。それでも、触れたままの手から逃れたいのか。彼が逃げようとして、足元が濡れているから。それで体勢を崩し、そのまま尻もちをついてしまうから。僕も一緒に屈んで、銀狼の両膝の間に。自らを割り込ませる。そして、自分でも驚く程優しい声音でもって。
「ガルシェは、発情期だもんね」
「あっ、えっ?」
固く目を瞑っていたそれが、弾かれるようにして。開くと、その琥珀みたいな宝石に。黒い瞳孔を一点、落としたような。動物の瞳が、僕の顔を映しながら動揺に揺れる。緩んだ腕の力をいい事に、その隙間に人の細い指が差し込まれ。守られていた防壁を崩し、もっと先。棒状の毛皮でできた袋に触れる。ぱたん、そう彼の背後で一度尻尾が襲った刺激に驚いて跳ねたのか。強くタイルを叩いた音をさせていた。僕が言ったのは。とても、甘い、甘い。毒。堕落させる、淫魔のようなそれ。この状況を脱したくて、示したのは。逃避だった。現実から目を背けるような行動を、彼にさせようとして。穏やかな顔をさせながら、内心。自分の悪辣な所業に、吐き気さえ催した。灰狼が、人間は嘘吐きだと言っていたけれど。どうやら、僕も例外ではなかったらしい。きっと今、とても醜い心で、汚らわしい臭いをさせてるのだろうな。彼がした罪は、理性を損失し、本意ではないと。そういうふうに、情報を上書きしていく。僕は既に、彼を許していたけれど。正義感の強い銀狼が、自分自身を許してなくて。責め立てているから。その矛先を変える。軽く、痛くないように。温かな熱を秘めたそれを持ったなら。彼のように荒々しくならないように、ちゃんと快感を汲み取れるように。ゆっくりと上下させる。そうすれば、露出したペニスの先から。早々先走りだろう、透明な液体が飛び出して。鍛えられた狼の大胸筋へと向かい着弾した。彼は、僕からの手淫が好きだったから。その反応は予想通り顕著だった。ただ、今それをされたいかは。完全に、今の彼の心を無視してもいたが。
「我慢、してたんだね。大丈夫。大丈夫だよ、ガルシェ。大丈夫だから、ね」
あ、あっ。そう声を漏らしながら。快楽に素直な、彼の良い所でもあるその部分が。今だけは、僕の愚行を手助けしていた。考えようとした、狼の脳が。自身のペニスからびりびりと駆け上って来る刺激に、霞んでしまうのだろう。冷静にさせてはいけない。今だけは。迷いも、葛藤も、罪悪感も。何もかもから目を背けて、即物的な快楽と。僕にだけ集中させる。僕を引き離そうと、肩を掴まれて押されかけるけれど。もう少し強く握り、動かす手を速めれば。滴った先走りが、鞘の中までも満たし。手の中からくちゅくちゅと湿った音をさせて。その分増した刺激に、押しのけようとしていた男の手が。逆に、僕を引き寄せるようにして。額に、彼の吐息が当たる。口呼吸していたけれど、そのタイミングで鼻呼吸に切り替えたのか。しきりに前髪を、ストレスからか少し乾いた鼻で掻き分けながら。僕の薄く掻いた汗で、湿り気を取り戻していく。ふんっ、すーっ、ふっ。鼻息にしては、とてもうるさい。興奮と、戸惑いが混ざって。鼻呼吸では足りない酸素に、肺が急いて。
さすがに、もっと淫魔になりきって。おちんちんから精液ぴゅっぴゅっしようねとか。そんな卑猥な事は思いついても、言う勇気はなかったけれど。僕からしたら十二分過ぎる程に、今の彼にしている行動は大胆であって。相手の性器を刺激して、甘い言葉を吐くのって。思った以上に、やる側も恥ずかしいんだなって。これが、僕も情欲に濡れて。興奮に染まっていれば違ったかもしれないが。傷ついた狼の、繊細な心に対する。ケアに近いような気がしたから。自分のそこが反応する事はなかった。ずっと、ごめんねって。相手に対して心の中で謝り続けながらしているのも、理由にあったかもしれない。かって知ったるとはこの事かと、ガルシェの性器が。どこをどう刺激すれば、気持ちいいか。僕は知り尽くしてしまっているから、抜きながら強弱をつけ。そうして、完全に根本まで毛皮が後退すれば。露出した瘤、そこも余った手で握り。やわやわと揉めば、狼の口から零れる悲鳴がより甲高くなった。刺激に、今ではしっかりと勃起して。交尾の為に、大きく成長し。長く、太くなった人外の生殖器。太い血管が蔦のように巻き付き、もう一つの心臓のように。鼓動して、息づいている。その間に大量に放出された先走りであり、一段階目の射精。精子が含まれていない液体が。僕の手と言わず。膝を立てて、いつの間にか後ろ手に上半身を支えるように姿勢を変えた自身までも。人間に自分の性器を好きかってされて。毛皮で覆われた股間も、腹筋も、胸も、太腿も。彼の尿で僕がそうされたみたいに、びしょびしょにさせて。本当に、いっぱい出すなって。本来は、円滑油の代わりにもなる。交尾をスムーズにおこなう為の進化の賜物であるのだろうけれど、今だけは。ただの性処理である、自慰行動の延長線上においては。全く意味をなさない。僕が彼のを抜く、手のひらとペニスに生じる摩擦が減り、楽になるぐらいだった。そういえば、初めて彼にこうした時も最初、ガルシェはこんな事を望んでないと。言っていたなと思い出してもいた。いつだって、彼の意に沿わない事を僕はするのだなって。
否定していたのだろう。発情期なんて、全くの嘘であって。彼は別に禁欲をしていないし、僕の発情臭だって過剰に嗅いでいない。そんな状態に陥る筈もなかった。時期的に、早めに発情した雌の狼のそれを嗅いだとしたら。そんな可能性もあったかもしれないが。学校へ迎えに来た時点で、そんな兆候も。家に帰ってからも、なかったのだから。お互いに、嘘だとわかりきっていた。だというのに、銀狼の腰は。タイルの上で揺れて、自身の生殖器を。人の手へと、自ら擦り付け始めていた。試しに、手を止めても。気づかず、んっ、そう声を漏らし。目を瞑り、快感を味わいながら。ルルシャ、駄目だ。そう言うくせに。上っ面だけ抵抗の言葉を発しながら。腰が振られる。きっと、これを指摘したら。彼の自尊心を傷つけるのであろうから。ちょっとだけ、その様子を楽しんだら。彼が、人がもう動いてないのを察する前に。しっかりと握ってやり、ラストスパートとばかりに。素早く動かす。激しくなった動きに、輪っか状にした指から飛沫があがり。ぶるぶると、狼の尻尾が震える。垂れ下がっていた被毛に覆われた二つの玉が、いつの間にか根本へと引き上げられ。弛んでいた皮が引き締まり、その中身の輪郭を強く主張していた。射精間近であると、生殖器が律義にも刺激を与える相手に教えてくれているのだった。僕の額を嗅いでいた彼が、牙を打ち鳴らし。さも咬みたそうにする。そこで薄く開いた、彼の目が。獲物に狙いを定めて。でも、また、顎を開いては閉じて。咬まないように、それだけはと、耐えてるようでもあった。今は、口輪もなく。興奮のままにそうしたなら、どうなるか。よくよく理解しているのだろう。欲に濡れながらも、発情期でないのだから。耐えられるだけの理性が残されていた。本当は、咬みたくて、咬みたくて。その柔らかい肌に、牙を突き立てたくても。堪えてるのが、手に取るように。握ったペニスから、彼の感情まで流れ込んでくるようだった。それはびくびくと震え、興奮と、射精欲に塗り潰されたものであったのであろうが。
「ルルシャっ、もう、射精るッ! 俺っ、お前を。あっ、ぐっ。でっグルル、ガァッ!」
自身がどうなるか、体内で起きている反応を。僕に懸命に伝えながら。今よりも、その先、もっと深い。交わりを求めている、雄の狼は。でも、行動を止めるつもりも、逆に追い立てるような。そんな人の手の動きと。自身でも追い求めた、腰振りによって。柔らかく、瘤を包んでいた手のひらに。どくんっ。そう強い脈打ちと、そして肥大していく感触が。苦しそうに、いっそ身体が裂けそうな。そんな衝動を、ペニスから解放したのだった。最大限、滾らせた逸物から。透明なものでもない。真っ白な液体を。噴き上げた。我慢できなかったのであろうか、空中を咬んでいた彼のマズルが。不意に僕の頬をなぞりながら、そして。耳たぶをかぷりと、咥えた。牙が、軟骨をこりこりと刺激して。咬み千切られそうな恐怖と、微弱な背筋を走る。こそばゆさに、悲鳴を共に上げて。ふっー、ふっー、そう息を深く吐き出しながら。腰を震わせて、射精を続ける一匹の雄の狼。もっと気持ちよく、出しきれるように。僕は握った瘤を、本来は雌の中で膨らませて、抜けなくするそれを。強く握りしめて、圧迫する。途端に、ガルシェの目元が蕩けた。一番、男として、生物として無防備な一瞬。人だと、数秒で終わる絶頂が。じわじわと、緩やかに落ち着きながらも。間延びして、ずっと続く。びゅっ、びゅっ、びゅるっ。そう拒否していた心とは正反対に、生殖器は役目を全うしようと。元気に遺伝子情報を吐き出していて。お風呂場の空気を、孕まそうと。空中を舞っては、僕の手や、彼の毛皮の上へと落ちていた。途端に香る、咽かえるような。生臭さ。ガルシェの精液は。無臭な先走りと違い、とても生臭い。それは、それだけその一滴一滴に。真っ白な色から察するに、大量に精子が含まれているからで。比重がずいぶんと重いのであろう。時間が経過したせいで、僕の身体から漂う。アンモニア臭も加わり、きっと今のお風呂場は。かなり暴虐じみた、鼻が曲がりそうなものであったろうか。そこに最初から居た僕らは、感覚が麻痺していて。それを感じている余裕もなかったけれど。今は、お互いだけが全てで。荒く呼吸する、ガルシェに。僕も思考が殆ど占められていて。それはきっと、射精中の彼も同じであったのであろう。ジャガイモのように大きな、二つの陰嚢から作られたそれを、夥しい精子を吐き出して。今は、三段階目。精子に活力を与える、前立腺液をじわじわと、追い打ちの如く。出している状態になって。そこで、しだいに呼吸が落ちつきながらも。でも快感は続いてるのか、目元は蕩けたまま。僕を、見ていた。愛おしいと、情欲に染まりながらもその目が訴えていた。そんな感情を、浅ましい僕なんかに向けて欲しくなくて。つい、目を逸らすと。こりっ、また耳たぶを甘噛みされて。変な声が出た。どうやら、歯応えが気に入ったらしい。はむはむと、熱心に黒い唇が動いて。愛撫みたいで、これには僕がたまらないと。逃げようにも、思ったよりしっかりと咥えられていて。狼の口はその場に留まったままであったから引っ張られ、耳が痛かった。ガルシェが耳を僕に引っ張られて、痛いと叫んでいる気持ちが今、共有された。
耳を寝かせ、眉も困ったふうに。気持ちよさが持続しているとはいえ、頭はもう冴えて来てるのかもしれなかった。僕がどうしてこのような事をしたのか。強行したのか、考えてるようであった。でも、ガルシェは。それを指摘せずに。ただ、熱心に甘噛みに夢中になっている。絶頂で馬鹿になった脳をさせた、そんな愚狼を演じていた。演じてくれていた。彼の悩ましげな表情から、それがわからぬ程。僕も愚かになりきれなかった。
「ごめんね、ガルシェ」
狼の、熱の籠った視線に目を合わせられもせず、謝罪だけを口にしいた。どくどくと、手に伝わる脈動を感じながら。気まずくて。しっかり握った相手のペニスが。場違いなまでに、活き活きとしていて。耳たぶからの刺激が途絶え、ガルシェが。僕の名を呼んで。それで、漸く目を合わす事ができた。随分と、迷って、やっぱりその顔を見れないと。躊躇しながらではあったが。周囲の状況を読み取れるだけの余裕ができると、ずっとあった肌寒さに。身を震わせる。体温を奪われてしまって、寒いと。自覚して。そうするとより、彼のペニスが温かく感じて。そこから暖を取っているようであった。本当に、火傷しそうなぐらい。僕からするとそこは、熱く感じられるから。でもそれは手のひらだけで、即席カイロでも持っているに近い状態であったから。十分とは言えず。人が震えていると、眼前の男は気づいたらしい。後ろについていた手を、タイルから離し。支えなくていいように身を起こすと、自由になった腕が。僕を引き寄せて。太腿でも挟むようにして、密着を強める。途端に、身体を覆う湿った毛皮が。僕を温めるように包んでくれて。震えはしだいに止まった。
「ちょっと、お互い。頭、冷やそう。ルルシャ」
「そう、だね……」
カランを捻れば、冷水が頭上から降って来るのだけれど。ガルシェが言っているのは、そういう意味ではなく。一方方向しか見えていない、そんな思考を一度停止させ。脳の余分な情報を消し、リセットしようと。感情すら、抜きにして。
彼のを握ったままであったけれど、どうやら。この状態であっても、僕がどうしてこの家を出て行くって。そんな考えに至ったのか。早く理由を聞きたいようであった。冷静になろうとして、そんな思考を下半身からこみ上げるものが邪魔をする。自動で動き続ける前立腺が、今は憎いとばかりに。顔を顰めて。眉間に皴がよれば、どこか。灰狼を彷彿とさせて。それを言ったら、きっと似ていないと怒るのは目に見えているけれど。早めに終わらせる手伝いに、緩く。射精中はあまり刺激し過ぎると辛いのは知っているから。そうはなり過ぎない程度に、握る強さを変えて。彼のペニス。その瘤よりも上、尖った先へ向かうように竿部分をむにむにと、親指で押すように揉む。尿道にある液体を、押し出すように。そしたらガルシェが身を捩らせて。低く唸っては、腰が逃げたいけれど、瘤を握られている圧迫感を失いたくもないと。腰をくねらせていた。僕の背にある、男の手が震えて。抱く力が強まったりと、忙しない。足を擦り合わせるようにすれば、それは僕に太腿を擦り付けるようであって。ウウゥ。そう声を出して。疑似的な性交を体験しながら、本番を想像しているのか。僕の肩に顔を埋めては。また興奮が高まりだしたのか、息が荒くなりつつある。手から伝わる、獣根は。勢いよく、射精を繰り返していて。僕のお腹を熱い液体で汚して。
もう少しだけ、彼のそこが満足するまでは。付き合う必要があって。一回の交尾時間が長い犬科の性が、答えを求める狼を焦らしているようであった。それでも、今までで一番。最短記録で、彼の瘤に変化が現れ。縮みだしたから、本当に。内心は、えっちな気持ちなんてなく。生理的反応で射精したんだなって。もしも、もっと精神的にも満たされた上で。本人もその気であったなら、こんなものではなかったであろう。萎え始めたから、僕は彼のそこから手を離せば。自動的に、先に瘤の部分だけ捲れていた鞘が戻り。隠してしまう。まだそのシルエットは大きいままだったから、中身の存在感をそのままに。歪に膨らんでいたが。
射精も終われば。もう逃げ口実もないと、僕も観念して。至近距離で見つめ、答えないなら咬みついてでも問いただすとばかりに。静かな怒りを抱えたままの男が。ちょっと怖くて。本当に、凄んだ時の狼の顔は相手を脅す効力が高いものだと感じた。脅されているのは、当事者である僕だけれど。
だから、ガルシェが。番を、雌の狼を。得られるようにしたいと。そういうふうに、幸せになる事を望んで。出て行こうと、短慮であったと。玄関でのやり取りを反省しながらも。その意思自体は変わってない事を告げる。別に、市長さんに言われたからとか。そういうわけではないと。あくまでこれは、元々持っていた僕の意思であって。灰狼のそれは、後押ししたに過ぎないとも。
大人しく、人の言い分をその一対ある三角形の耳を震わせながら。聞いていた、ガルシェ。狼の喉がぐっと息を呑んで、そして。
「ルルシャも、俺の幸せを。親父と一緒で、かってに決めつけるんだな」
僕のそんな言い分を、暫し考えた後。悲しそうに、そして。その顔には落胆が浮かんでいた。いっそ、人間に対して。僕個人に対して、失望したとも取れる。言い方で。銀狼に、そう言われて。そんなわけないと。言いたいのに。でも、確かに。灰狼が、している事と何一つ変わらないのだなと。事前に敷かれたレールの上を、ただ走って欲しいという。それは自己満足めいた、幸せになって欲しいという善意の押し付けでしかなくて。本当に相手が、何を求め、欲しているのか。そこだけは考慮されておらず。僕の気持ちだけが先行していた。市長さんに、どうして話し合わないのと。無責任に聞いた僕が、こんなありさまだった。それを彼から。ガルシェから指摘されるまで、気づかないなんて。
なら、この失望に。僕の顔を見つめながら、表情を曇らしては。その内、無表情にと消しつつある狼が。今、どんな気持ちかなんて。でも、それでも。だって、僕は。君とは違うんだ。僕は、人間で、男なんだと。
「僕は、君の隣に、居るべきではないよ」
「言うな」
咎めるようでいて、お願いのようであって。ガルシェの顔が見えなくなる。それは僕の肩に、狼の顎を置いたために。僕の視界には、彼の毛皮と筋肉質な肩、それと片耳しかなくて。こんなにも、身体を温めてくれる相手がいるのに。僕の心はどうしてか、冷えていく。それは、僕の言葉を聞いている銀狼もそうであったのかもしれない。彼には立派な毛皮があるのだから、この寒さでも。大丈夫である筈なのに、小刻みに震えて。震えては、縋るような、手が。僕の背にあって。
「ガルシェ、僕は」
「わかったから。もう。言わないでくれ。今は聞きたくない、聞きたくなんか、ねぇよ。そんなこと」
彼が身をさらに密着させた事で、僕と彼の胸の間で。カチャリと、動物の牙と琥珀みたいな鉱石に穴を空けて紐を通した。特徴的なネックレスが擦れ合って音を立てる。番の証。彼の伴侶へと贈られるべきもの。たぶん彼も。立場からして、本当は理解しているのだと思う。最初から。口酸っぱく、親からも言われて、そうやって生きて来たのに。そんな生き方しか知らなかったのに。そこに、僕というイレギュラーがやってきて。人間で、男で。狼でも、雌でもない。どうして、こんなにも仲良く。お互いの心の中に、互いを住まわせてしまったのだろうか。望んで好きになったわけではない。気づいたら、そうだったのだ。
こんなにも、僕は君が好きに。好きになってしまったのに。君は、僕の事。好きだけど、その好きの形は、家族や兄弟に向けるものに近いんじゃって。恋愛と勘違いしてやしないかと。なまじこういうふうに、性的な関係すら持ってしまったがために。本人も誤認している可能性に、僕は気づいてしまった。ただ一緒に居たい、そう言う銀狼に。そこだけ、市長さんの読みは外れていたのだろう。
もっと他の人と深く関わって、性的な事も僕だけではなく。別にヤりまくれとかそういう意味ではないけれど、精神的成長を促すには、どうしても一人では限界がある。他人と関わる事で、そういったものは促される筈だと。僕はそう思う。狼の気質を考慮し、息子の人間関係までも絞り、コントロールしてきたばかりに。欠陥が生じたのではないかと、考えていた。孤独に対して、あまりに耐性がないのだから。それなのに、仲のいい友達はあの赤茶狼と白狼二人だけ。素直に寂しくて、誰かに頼ろうとか。頼り方すらわからない彼が。どうして部屋の中に、雌鶏であるアーサーを飼っているのか。それは親から制限された人間関係において、抜け道として。彼がどうにかしてでも、孤独を埋めようとしていたのではないか。そんな時に、やって来た僕が。半年も一緒に暮らして、生活を共にしたばかりに。銀狼が、依存先を見つけてしまったのではないか。
親からの言いなりに、不本意ながらもそうやって今まで生きてきた彼が。自主性を欠いて。噂では、つい最近まで仕事に対してもやる気がなさそうだって。あまりいい噂よりも、悪い噂ばかり、ガルシェの事を聞く方が多かった。最初、それは市長の息子だから。それで七光りとか、妬みから来るものだと今までガルシェをよく思っていない人達のかってな言動。そう思っていたそれらが、過去の職務態度から来る彼自身にも原因があったのだとしたら。
この家に暮らしてるだけの間は、見えていなかった側面。でも、変わったのは、人間が来てからでもあって。頑張ってる姿も、知っているけれど。頑張ろうとも、それが正しく伝わらなければ。他人の評価が全てだった。僕が離れている間に、ストレスでこうも身なりが崩れてしまうのも。
最初、彼が学校まで僕を取り返そうと。直談判してくれていたのは、ただ嬉しいと素直に感じてもいたけれど。もしもそうなら、話は変わってくる。好きな人に求められるのは好ましくても、極度に依存して欲しいわけではない。そんな歪んだ関係を望んではいなかった。立派になって欲しい、彼の隣は僕でなくても良いと、そんな気持ちが芽生えた今。なら、これから僕がどうすればいいか。彼を正しく導ける程、かといって僕も立派な人間ではないのが問題ではあった。
実際にどういう目で僕を見ているのか。ガルシェにとって都合の良い人になる自信も、そうなりたいとも思ってはいない。性処理をしたいのなら、街の人達みたいに裏通りとかに行けば良いし。家の事をして欲しいのなら、そういった人を雇うか自分で片付ければいい。彼はできないわけではなく、面倒くさがってしないだけだ。財力だって、平均よりもそれなりに稼いでるのだから。パートナーが欲しいのなら、結局。結論としては全てを満たせる、狼型レプリカントの女性と。結婚するのが一番理想と言えた。僕が介入する余地はなく、いらないとすら。だからこそ、彼を手伝うなら、支えるなら。友としての距離感を保ちつつ、この家から出ていくのが良いとさえ思ったのだけどな。家主からの返答は、拒絶の言葉と。動物が縄張りを主張する、本当の意味でのマーキングというあんまりなものであったが。早まった考えではあったけれど。僕の発情臭で、彼が反応する以上。またあの時みたいに倒れないとも限らないのだから。前までは共に居る前提で、僕がえっちな事とかそういうのを考えなければ。彼が定期的に、性欲を発散すれば。それで良いのではと解決策を探っていたけれど。そもそもの話。僕が隣に居なければ、彼は好きな時に好きなだけ。自慰できるのだし。プライベートな時間が戻り。元凶を嗅ぐ機会もなくなる。彼の身体の事を思うと、やはり。状況が、答えを指し示していた。お互いの気持ちを、考慮しなければ。
「ルルシャ」
僕の肩に頭を預けたまま。彼が僕の名前を呼ぶ。硬い声音だった。いつも、ガルシェが僕を呼ぶ時。贔屓目なしで、優しく。そう呼ぶのに。暫く二人とも、抱き合ったまま。何も言わなかったけれど。僕が思考している時間。同じように彼もまた、何か考えていたのだろうか。だとしたら。何を言うつもりなのか。緩やかに、背にある手が離れて。そして、身体も離されて。そうやって。お互いの顔が見えるようにされた。
「お前は。俺の。ッ……ペットだから、かってに出て行く事は、許さない」
感情を殺した。何も瞳に宿さない、銀色の毛皮を纏った狼の男が。ただ、人の処遇に対して判決を下していた。市長さんの元から、再び。ガルシェの元へと、その身が戻れば。それは、殺生与奪の権利もまた、彼に戻る事を意味していて。ただ、これまで彼の人間に対する扱いは。あくまでも平等であり、そう接していてくれたのに。この街の人は、皮肉ってか、それとも面白半分にか。あまり僕達の関係をよく知らない人に限っては、僕の事を七光りのペットと。そう言っている事を知っていた。外から拾って来て、家で飼っていると。最初の方はそうで、あながち間違ってもないし。僕はそこまで気にしてはなかったけれど。だんだんと、この街で仕事を始めて。店長のお店へ通い、市場で夕ご飯の材料を買ったりして。そうやって、彼らの生活に馴染む内に。そんな声も、あまり聞こえなくなっていった。皆、見慣れた人間に興味を失ったとも取れる。ただ、最近。お世話になっていた彼の父親に。嫌がらせという意味では、そう呼ばれていたけれど。逆にそれを利用して、灰狼を揶揄うといったりと。僕はそのような事もしてしまっていたけれど。だってあの人、微妙に腹が立つ事平気で言ってくるし。ただ、彼が。銀狼だけがそれを口にしたとなれば。ずっと、僕を大事に。一人の人間として、ずっと僕を近くで見守っていてくれた人が。それを言ったら。苦渋の決断だったのだろうか。どうにかして、手元に置いておきたい。彼なりに考えた結果なのだろうか。だとしたら。
「なにそれ」
だから。馬鹿にしたように、僕が鼻で笑うのも。しかたがなかった。どうして、そうなるのかなって。どうして、そんな事を言ってしまうのかなって。どうして。そうやって頭の中は、彼がそんな考えに至った理由を探してはいたけれど。ただ。ただただ、残念な気持ちになってしまった。先に彼を絶望させ、落胆させたのはこちらだというのにだ。胸が、とても重い物でも乗せられたような気がする。それは錯覚で、僕の素肌を晒した無防備な地肌の上には。何もない。
おかしくて、静かに笑えば。自身の精液で下半身といわず胸元まで汚した男が、こちらをただ無表情に見ているのがわかっていても。どうしてか、笑いがこみ上げてくるのだから。ああ、でも。嫌われるのはある意味。都合がいいのかもしれない。僕から、彼の気持ちが離れたら。そうしたら、僕の思惑と。市長さんの思惑は、似ているから両方叶う。叶うのだから、嬉しいと感じられる筈だ。筈なのに。ねぇ、ガルシェ。
狼の瞳に映る、人の顔は。笑ってるのに。これっぽっちも楽しそうではなかった。僕は、彼の心を壊しはしなかったのであろう。ただ、別の方法へと。仕向けてしまって。本当に、何をやっても。僕って、上手くいかないな。誰かを好きになって。その誰かに好きになってもらって。誰かの役に立ちたくて。ただ、ここに居ていいよって言って欲しくて。それだけなのに。
思い返せば。この街に来てからというもの、失敗ばかりだった。その失敗で何かを学べたら良かったけれど。僕って進歩がない。ガルシェの事をとやかく言う資格なんてなかった。やった行動も。抱いた気持ちも。何もかもが。全部が裏目に出て。本当にただ。好きな人の顔を、見つめ返して。いつも柔らかい表情をさせて、僕を見ていた狼は消えて。僕の反応に怒ってもいいのに。いつもの彼だったら、悪態の一つや。癖の舌打ちだってしただろうに。何も感じていないかのように。笑顔を消してしまった。そんな相手の表情を見て、今。人が素直に思った事を、心の中だけで述べたなら。
――君にそんな顔。させたいわけではなかったのにな。
学校の運動場で、市長さんと二人並んで待っていると。門を越えて、外から走って来る人の姿は遠目からでも体格がよいのだとわかり。低い男の声が、弾んだ調子のまま僕の名を呼んだ。誰よりも、何よりも、焦がれた人の声。なのに、どうしてこんなにも心は凪いでいて。嬉しくないのか。離れていた分だけ、恋しかったのに。
そんな僕の背を、軽く押される。それは隣に立っている灰狼に違いなく。隣に居るのだから、そちらの方向を見上げると。当然白髪の混じった毛を風で靡かせながら、こちらを見下ろしていた人と目が合う。広いグラウンドを風が通り過ぎれば、遠くで土煙すら舞っていた。一つ、頷いて。言葉にはせず行きなさいと、訴えかけてくれる。
だから、一歩。前へと踏み出せば。とても足が重いと感じたのに。次にもう一歩と、そうしたら。前から走って来る相手と同じように、僕まで走り出しそうになっていて。でもそれをするよりもずっと、銀狼が僕を捕らえるのはずっとずっと早かった。膝が、土で汚れるのも構わず。少し勢いを殺しきれずに、擦らせながら。手を広げて、僕を抱きしめるに至った。ぐりぐりと、大きな狼の頭が。僕の顔にぶつかってくる。骨同士が当たって、鈍く痛みを感じるぐらい。その擦り付け方は強かった。暫く、そんなガルシェになすがままになってるとも。逃げたくても、抱きしめる彼の腕の締め付けが強くて。逃げられないとも言える。そんな状況に身を任せていると。僕よりも先、肩に頭を乗せて。銀狼が唸った。しっかりと威嚇に、敵意を剥き出しにして。どこを睨んでるかなんて簡単に察する。だって僕の後ろには市長さんが居て。それをされた人はやれやれと、肩を竦めていたけれど。
堪らず、そんな銀狼の耳を引っ張って止めさせた。そんな事、しちゃだめだよと。親に向ってそんな顔をするもんじゃない。より、二人の関係が僕のせいで険悪になるのは避けたかった。僕の弱い力でも、ダメージを与えられる唯一の部位であるから。ガルシェは痛がって、唸るのは止めてくれたけれど。こんどは僕が、険しい表情をさせた銀狼に至近距離で睨まれてしまう。何をするんだよって、そんな感情がダイレクトに伝わって。でも、人間が。そんな狼の表情を見てなお。困ったような表情をしていたから、途端にばつが悪そうにして。自身の後頭部を軽く掻き毟ってもいた。
後生の別れでもないし、別にまた仕事をしにここへと来るのだから。市長さんとの挨拶はとても軽く済ませた。というより、僕が彼と話していると。隣に居る人がどんどん機嫌が悪くなっていくのもあって。できなかったとも言えた。そんな貧乏揺すりしながら待つガルシェを見て、市長さんが余裕たっぷりの体で。面白そうに自身の息子相手に、クスクスと口元を手で隠して挑発するように笑うものだから。余計に。
「それではまた」
「ええ、また明日」
話が済んだら、僕の手を取ったガルシェが。引きずるようにして、少しでも早くこの場を去りたいのか。険しい表情のまま。学校の敷地内から出て。歩幅が違うから、着いて行くのがやっとだったのだけれど。今はそんな僕の事を気遣ってくれる余裕もないらしい。
「なんで、親父と親しそうなんだよ……」
振り返りもせず。そのような事を言われて。その不機嫌な雰囲気を隠しもしない狼の後頭部を見つめながら、はたと考える。嫉妬ではなく、ただ単に。嫌いなお父さんと僕が、仲良く喋ってたら。普通に笑顔を見せている事に対して、不満なのであろう。連れ去られるようにして、ガルシェが不在の間に出て来て。それに、お父さんに何か言われたりと。僕の事を心配していた節があるし。だというのに、暫く見ない内に。どうしてかガルシェから見て、僕と市長さんの関係がそういうふうに見えたら、面白くないのかもしれない。
そんなに、親しくなったという実感はないのだけれど。僕にとっては今もなお、上司にあたる人であるし。ペットと飼い主という詭弁めいた、関係は早々終わりを迎えて。そのような関係に今は収まっていた。こうなるとは、全く予想してはいなくて。別にそうなりたいとも、思ってはなくて。なるようになれとばかりに、ただ流れに身を任せていただけだというのに。
「そうかな?」
だから、軽く僕がとぼけて見せると。立ち止まったガルシェが、振り返り。狼の口吻を器用にへの字にして、訝しんで来る。実際に何があったか。僕の口から言うつもりはないし、それは灰狼も望んではいまい。と言っても、僕が何かしたかと言うとそういうわけではなく。ただ市長さんから、寄り添ってくれたに過ぎないと感じているから。これに嘘はなく、ガルシェからはそう見えたんだなって。そんな他人事めいた感想しかなかった。
ただ、市長さんの元で働くようになったから。これからはガルシェの家から通うねって、そう告げると。はぁ!? そんな大きな声を出して、毛を逆立てていたけれど。どういう事だと、肩を揺さぶられても。いや、そうなってしまったんだから。しかたないじゃんと、白を切る。この街の最高権力者の言う事だぞ、僕は逆らえない。君が思っている以上に、人間の首なんて簡単に飛ぶんだよ。そう手でなだめながら。僕の言い分に、納得がいっていない銀狼が。それでもマズルに皴を刻んで、軽く唸られてしまう。落ち着かせようといつものように撫でようとしたら、今は手に咬みつかれそうだった。あまり、お父さん関連の事でからかうような態度や。わざと神経を逆なでるのはよくないなと。もう決まった事だからと、僕も拒否できないんだ。それと、お給金結構良いんだよって。おどけても見せる。心は正直複雑に絡まって、楽しくも何ともないけれど。わざと久しぶりに会えて嬉しいと。そうガルシェに対して振る舞えば。言いたい事はあるのだろうけど、満更でもないのか。ぐっと狼の口が噤んで。控えめにフリフリと尾が揺れ始める。こういうガルシェのとても素直に、身体へと気持ちが表現されるのが羨ましくも、微笑ましい。
「俺も、会いたかった」
引っ張っていた手を離し、学校でしたように。またしゃがんで視線の高さを合わせてくれると。もの儚げな顔して。そういうふうに、飾らずに言われてしまうと。内心は困り果ててしまうのだけれど。そこで漸く、僕にも嬉しいって実感が湧いた。ずっと、直談判しに僕には会えずとも学校自体には来てくれていたらしいし。それもなんども、なんども、だ。僕の為に、嬉しがるなと言われても。無理だった。照れくさくて、そこまでは言えなかったけれど。今なら、良いかなって。だから彼の頬に。いつもそうしていたように。ムニムニと頬を揉むようにすると。ボサボサになった毛並みが人の手を出迎えてくれて。だいぶ、この人も。灰狼に負けず劣らずやつれている事に気づいた。ちゃんと食べて、寝なきゃ駄目だよって。トイレで別れたのを最後に。久しぶりに身を寄せてくる人の体臭は、とても獣臭い。断水はとっくの昔に直ってるのに。後、衣服から香る。煙草の臭いもキツかった。
臭いよガルシェ。そう指摘すれば。しゅんと耳を寝かせて。別に強く叱ったわけでもないのに。僕が居ないからって、めんどくさがってお風呂入らないのは駄目だよって。そう言えば、なぜか困った顔とは正反対に。嬉しそうに尾が揺れる幅を大きくする。ちゃんと聞いてる? そう声を試しに強くしてみても。ただ片目を瞑りちょっと身を竦ませるだけで、口元は笑ってたり。よく、わからない反応を見せた。
「ルルシャが、怒ってる」
最後にはそう言って、これ以上僕が何か言う前に。また強く、抱きすくめてくるのだけれど。なんなんだよもうと、頬を膨らませれば。肩を揺らして、狼が笑ってるのが。身を触れあわせてるのだから、そんな振動が直接伝わって来た。どうしてか、怒れば怒る程。喜ぶ不思議な男に対して。最終的に僕も苦笑いで済ませてしまうのだけれど。離れている間に、ガルシェが虐められて喜ぶ変態になっていたらどうしよう。ただ、そういうふうではないのは。何となくわかるのだけれど。どうして、怒られて笑ってるのって聞いても。この男はそれで、教えれくれるわけではなかった。本当に、なんなんだろう。
そこで、突然襲った浮遊感。足裏から触れていた筈の地面の感触が消えた。覚えのある感覚に、身は本能的に竦んだけれど。心は落ち着いていた。ただ、銀狼が人間を抱き上げただけであった。彼の腕に座らされるようにして、肩幅が広い。逞しいそこに、身を預ければ。僕の胸の中には、狼が上目遣いで見上げていて。前も見辛いだろうに、それで安定したのを確認したらガルシェは歩き出してしまった。学校から、ゲートへと一直線に貫かれた。長い一本道になっている、広いメインストリートを。ただ、それで。僕らに視線が集まるといった事にはならなかった。広いと今まで感じていたこの道が、今だけはとても狭いように感じてしまったから。だから、降ろしてよと。かってに抱えた相手に抗議する前に、僕の意識はその光景へと奪われてしまって。最低限通れるように、道は確保されていたけれど。両脇には、大勢のレプリカントの人達が。地べたに座り込んでいたから。
簡易的なテントを使ってる人や、屋根もなくシートだけ敷いて寝ている人だっていた。どの人も共通しているのは、どこか怪我していたり。暗い顔をしている所で。広かった道を埋め尽くすその人達が、誰か。どこから来たか。僕はすぐに思い至った。聞き耳を立てて、噂話とか情報収集に余念がなかったから。
「フォードの。難民」
僕がそう呟いた瞬間。人を抱えた銀狼の隣を、荷物を抱えた人達が早足で通り過ぎていく。腕が当たりそうだったから、ガルシェが咄嗟に身を逸らし。避けてくれていた。僕の呟きに、意外そうにしていたけれど。同じ方向を向いた狼の鋭い瞳が、よりいっそうそれを強くする。
「そうか、知ってるのか。最近、急に流れ込んで来て。どこもこんな感じだ。都合よく空いてる土地なんて、壁で囲まれたここにあるはずないのにな」
レプリカントの親子が、身を寄せ合って。そうして、母親に抱きしめられた子供が。僕とふいに目が合って。そんな小さな子がさせるような、させていいものではない。仄暗い何かを湛えた瞳に怯んだ。人間を視界に入れた子供のレプリカント。ごくりと、その子の喉が動いた。そんなタイミングで。ガルシェが焦ったように声を掛けてくる。僕の意識をそこから逸らすように。連れ戻すように。聞いてるかと、心配そうに顔を覗き込んで来るから。曖昧に、返事してしまうのだった。
「医療物資も、食料もたりてないのに。まだ逃げ込んで来る奴が後を絶たないらしい。その内、ここも、歩ける場所すらなくなるかもな」
歩き出したガルシェのお陰で、もう見えなくなった親子の姿。大通りを途中で曲がり、小道へと入れば。よく知る住宅区へと、向かう道で。だんだんと彼と一緒に暮らしていた家へと近づいているというのに。先程見た光景が、目に焼き付いてしまって。それどころではなかった。それに比べて、いつになく人間に対して楽しそうに話しかけてくる銀狼が周囲の状況故に浮いていた。
もしかして僕を開放したのも。市長さんがさらに、僕を構っている余裕がなくなると踏んで。そうしたのかもしれなかったと気づいた。だとしたら、この問題をどうするつもりなのだろうか。ガルシェも、避難誘導とか。街の警護に走り回っていたようであるけれど。上がどう対応するかまでは、まだ知らされておらず。現状は受け入れている状況が続いており。それももう、限界だと言う。
もしかしたら、ゲートを閉める事になるかもって。これ以上難民が流入すれば、こんどは自分たちが危険だと。皆、薄々は感じているらしい。同僚達とも、そういう話題で持ち切りで。でも、無視できないのもまた。助け合いたいという、気持ちにも。限度があると。誰かを疎ましく思う気持ちはいくらでも湧いてくるけれど、それに対して施せる善意は有限だったのだ。それでも、よくやってる方ではあったのであろう。そんな内情を知って、責める気持ちなんてこれっぽっちも僕は抱かなかった。既に、この街は自分達が生きるので精いっぱいなのを。前々から知っているのだから。それでも、助け合って。どうにか暮らしを続けてこられたというのに。これでは。
逼迫した状況と言えるのだろうか。このようになって、サモエドの女性が経営する。あの飲食店がどうなってるのか、それが気がかりではあった。こんな時こそ手伝いを欲しているのではと。
「ついたぞ、ルルシャ」
「えっ、あっ、うん。みたいだね」
また考え事をしていて、心ここにあらずになってしまっていたから。ガルシェに声を掛けられるまで、家の前に到着してる事にすらまるで気づかなかった。特徴的な、錆びついて軋みをよく立てる階段を上る音にすら。久しぶりに見た、プレハブ小屋。それだけは変わっていなくて。変わったのは、僕の心情で。人の様子に銀狼は不思議がっていたけれど、考え事をする事が前々から多かったからさして気にするものでもないと思ったのか。それよりも、僕を連れ帰れて嬉しいのか。ポケットから鍵を取り出すその手は、淀みなく。ちょっと浮ついている気すらした。
そんな銀狼の姿に何とも言えないものを感じてしまう。ただいまと、自分の家なのだから当然の決まり文句を言い。僕を抱えたまま敷居を跨ぐ大きな足。見えた室内の様子に、ちょっとこれはどういう事だとばかりに。目が据わったと自分でも感じられたけれど、それを止める気も起きず。そんな状態で胸元にある狼の顔を見て。人に見つめられた狼は視線を泳がせては、揺られていた尻尾を緊張にか。小刻みに振るわせて。僕が出て行く前は綺麗に片付けていたのに、残念ながら既にその場はゴミ屋敷へと姿を変えようとしていた。初めて訪れた時よりは、まだマシとも言えたけれど。僕の許容できる範囲を超えていた。それでも、転がった酒瓶とか。何かを包んでいたらしい、タレがついて乾ききった紙袋とか。夏場ではなくて良かった、きっと酷い悪臭に部屋が染まっていただろう。それでも気化したアルコールが、室内で吸った煙草の臭いと混ざり。それなりに気分のよいものではなかった。それと、ガルシェから漂う獣臭もより強く、部屋に残っているのが問題で。僕がいなければ、こうなるのかと狼に抱っこされたまま呆れ果てていた。部屋の様子を見て、怒られると思ったのか。さすがにこれには、気まずいと思ったのか。先程の喜ぶ変な素振りはなかったけれど。彼の胸を軽く叩き、降ろして欲しくて合図をすれば。恭しく、まるで大切な姫を大地へと降ろすようであったけれど。その大地は穢れているから、綺麗な絵面とはならなかった。姫ではなく、ただの人間の男であったし。
玄関でやっと床に触れて、そのまま玄関と部屋とを分ける段差になってる部分に座り。ブーツを脱ぐのだけれど。隣で銀狼は、適当にブーツを脱ぎ揃えもせず放置して。そしてそのまま、立ち上がろうとする僕をそれよりも先に、押し倒すようにして。馬乗りになってきた。突然の事に、背中をフローリングへとしたたかに打ち付けて。大の字になった拍子に、たまたま手に当たった酒瓶が転がり。別の酒瓶と衝突して、軽い音をさせてもいた。
僕の腰上に、ガルシェが居ても重くはなく。それは膝立ちになった彼が、体重を掛けないように自身の腰を軽く持ち上げたままにしてくれてるからだった。本当に乗られたら、潰れてしまうのだし。
抵抗に身を起こすより、狼のマズルが僕の首元へとすぐさま埋められて。すんすんとにおいを嗅いでるらしい。そうして、さっきまで機嫌よさげにしていたのに。今では不機嫌そうに、においを一つ吸引しては唸り声を出していて。喉元付近でそれをされると、心がざわついて、怖いからやめて欲しいのだけれど。こちらの話なんて聞いてやしない勢いがあった。親父の臭いがする、そう言いながらもうここにはいない。あの人に対して怒ってるようでもあった。怒りの度合いが、彼の呼吸の乱れから察する。深く息をしては、唸って。牙をむき出しにしていた。僕の身体から、嫌いな人のにおいが色濃く残っているのだから。彼にとっては、穏やかではなかったのかもしれない。
「……何もされてない、よな?」
自分の玩具を他人に貸して、戻って来たら壊れてないか。しきりに確認するように、痕跡がないか。狼の鼻が嗅ぎまわる。首元にある服の襟首からマズルを突っ込んだり、服をたくし上げたり。ズボンを脱がそうと、大きな手が掴んで来た時には。さすがにそれはと、僕が抵抗の意思を明確に示した。それで銀狼の眉間がより険しくなろうとも、普通に上半身はまだしも。下半身を脱がされるのは恥ずかしいというのがあったからだった。一緒の部屋で生活していたのだから、それなりに。付着しているのだろう。撫でて、撫でられて、スキンシップもしたし。動物の顔をしてるから、ついつい緩んでしまうけれど。貞操観念的に、かなり危ういのかと。ふと思った。いや、別にまだ。浮気をしてないか、責め立てるみたいな様子のこの男と。明確に付き合ってすらいないのだから。責められる謂れはないと思うのだけれど。ただ、市長さんが言っていたように。多少なりとも、僕に対して。そういった感情が芽生えているのだとしたら。ちょっとだけ悪い事をしただろうかと。眼前の銀狼に対して罪悪感も生じて。
起きた出来事と、出会った人達と、それら全部を加味して。何もなかったよと、それだけ言うにとどめておいた。共同風呂に入る時は、それなりに刺激的な光景を目にはしたが。別に手を出されたとかは全くないし。逆に異種族の人間相手に、そういう事をしようという人自体。あまりいないと思う。そう思いたい。僕はそんな他者を魅力するような身体ではないと。自分自身では思ってるのだし。女性であったなら、また違ってくるのだけど。男、だしな。そういう誘いも、特になかった。同性同士で、性処理がそれとなくおこなわれていたとしても。ただそんな話自体は聞く事があっても。当事者になるような場面は、欠片も。どちらかと言うと、身の危険を感じるのは。いつだって、僕をよく押し倒している銀狼なのだが。その事はわかっているのだろうか。マーキングにしては、度が過ぎていると。いろいろな人達を見て来て、他のレプリカントの生活模様を見て。改めて思うのだった。
ズボンを脱がそうとして止めた、細く小さい人の手を毛むくじゃらで大きく無骨な手が掴んで。肉球があるにしては、強く圧迫されて。平たい爪がぐっと当たる。鋭かったら皮膚を裂いていただろうか。そう、爪だ。爪が切られている。僕が切ったのはだいぶ前で、既に長く伸びていてもおかしくない月日が流れているというのにだ。なら、誰が。
彼の爪の事にばかり気にしている内に、床に縫い付けるように。彼の手で僕の腕が押えつけられてしまった。どうやらこれ以上脱がすのは諦めたらしい。ただ、それで終わってはくれず。狼が口を開いたら、鋭い牙同士から唾液を滴らせて。粘液でぬめった、赤い舌が。そのまま僕の首へと這わされる。びくりと、肩が跳ねた。
それで一瞬、ガルシェは動きを止めたけれど。ただ擽ったくて僕がそうなったと思ったのか、行動自体はまた再開されて。ゆっくりと、下から上へと。舌が動く度に。ぴちゃり、ぴちゃり、そう粘着質な音をさせながら。ふんふんと、僕を押し倒す男の鼻息が荒い。生温かい呼吸がこちらの耳あたりを擽った。
実際の所、捕食される前の味見のように思えて。恐怖に身を強張らせたというのが、正解に近かった。前までは、おっかなびっくりある程度受け入れていた事であったのに。いろんな事を知った今、前とは僕の身体の反応は違っていて。これはマーキング。これはマーキング。そう頭の中で言葉を繰り返す。でも、さらに口を大きく開いて。牙を僕の顎辺りに当てようとした段階で。つい、嫌っ! そう声にまで出して、顔を背けてしまった。咬まれる。そう思ってしまった。彼の事だからただの甘噛みであって、狼の愛情表現の一つと頭ではわかっていても。本にもそう書いてあった。わかっているのに。離れていた時間が、信頼関係を知らず知らず薄めて。ただ恐怖を誘う行動へと変質してしまっていた。僕の心を侵す知識という名の、過去の出来事が。そうさせた。彼は、関係ないとしても。ガルシェは変わっていない。ただそうしたいから、してるに過ぎない。動物的な行動ではあったけれど。悪意はなかった。どちらかというと、愛情すら抱いていてくれたかもしれないのに。なら変わったのは人側だった。変わってしまったのは、僕だった。
だから、そんな条件反射的な事をしてしまった後で。ハッとなり、顔を正面に戻せば。とても傷ついた顔をさせた、銀狼が居て。口を開けたまま、唖然と固まっていた。そんな顔をさせたかったわけではないのに。動揺して、押えつけていた彼の手が離れた事で。身軽になる。身を起こして、ただこちらを見下ろす相手が。僕のとった反応に、信じられないとばかりに動揺してるのが見て取れた。ごめんと、すぐに謝れば。固まっていた表情が動きだして、普段の顔つきに戻るけれど。それでも、内心の動揺が耳と尻尾に現れていた。あ、いや。そう言葉を漏らす男に、自分の取った行動をどう説明したものかと。嫌ではない、彼にされるのは大丈夫であったのに。どうして。
「……やっぱり、誰かと。交尾したのか?」
「えっ、なに」
思考停止していた、銀狼の脳が正常に動きだした筈なのに。そこから吐き出された台詞は予想もしていなかったもので、聞き返してしまう。ただ、彼の視点から見ると。下半身を脱ぐのだけ抵抗し、甘噛みを拒絶するその人間の姿は。離れている間に、別の人とそういう関係を持ち。彼から心が離れてしまったと、そう感じさせるにたるおこないであったのだろうか。全然そんな事はなく、学校での暮らしで。この男の事を忘れた時など、ないというのに。俺がずっと、心配して。なんども学校に行っていたのに、その間に。お前は新しい相手と、そういう事をしていたのかよって。そう問い詰められたのならば。心当たりはなくとも、少しだけこちらも頭にくるというもの。嫉妬心めいたものを剥き出しにして、怒りを露わにするガルシェを見てるいると。そんな一瞬湧いた感情も、フラットに戻るのだけれど。自分よりも取り乱した相手を見ると、逆に落ち着く現象だろうか。ただ、確信した。この男が僕に対してどう思ってるのか。市長さんが言っていた事が、間違っていなかったのだと。嬉しくもあり、そして。残念でも、あった。
だから。せっかく連れ帰ってくれたのに。僕は一つ。覚悟を決めた。僕がどうした方が良いか自体は。もう決まっていたのだから。後は。好きな人を目の前にして、こんなにも揺らいでいた心次第で。今なら、立ち向かえる気がした。大好きだから。大好きだからこそ。
「ガルシェ」
「……なんだよ」
「僕、出てくよ」
「えっ」
不貞腐れて、ぶっきらぼうに返事していた男は。突然人間が放った言葉を。何を言ってるのか、理解できないと。ガルシェは、戸惑ったまま僕を見ていた。きっと、また二人の生活が始められると。そう思っていただろうから。ずっと、帰り道であんなにも周りが大変そうなのに。それなのに。それらには目もくれず、僕の事ばかり見て、嬉しそうにしていたのだから。
どこから出て行くかを明確に。もう一度。この家から出て行くと、その旨を告げた瞬間。
「それはダメだっ!」
狼が大声で吠えていた。耳鳴りがするぐらい、大きい声が苦手な僕は。またそれで、身体を震わせてしまう。咄嗟に出てしまったのだろうけれど、僕のそんな姿を見て失敗したとばかりに顔を歪めて。でも、止める気はないのか。肩を掴んで来て。いくら爪が切られているとはいえ、彼の握力を考えず。加減の利いていないそれは、骨が軋んで痛みを訴えた。
ただ、言ってしまって。この銀狼の動揺具合だけが、予想外だった。もう少し、渋りはしても。あの時みたいに、ガカイドの首飾りを持っていたのを見られた時のように。そうかよって、突き放すものと思っていたから。僕の想定よりも、市長さんの想定よりもずっと。ガルシェが僕に向ける感情が、肥大してるなんて。
「どうしてだ、もしかして部屋が散らかってるからか。す、すぐに片付けるから。まさか本気で怒ったのか? なあ、何か言ってくれよ、ルルシャ。お前は、俺が拾って来て、俺の物で。お前も、俺の事。だって、においだって、こんなに甘く。それなのに、どうしてそんな事言うんだ。また、親父に何か言われたのか。脅されたのか!? なら今すぐ、ここに居られるように交渉してくるから」
しきりに、空気中のにおいを。僕の感情を嗅ぎ取りながら、自分自身の優れた鼻すら疑って。狼狽えて、慌てたまま、考えも纏まらないまま何かを言っている銀狼。その慌てようが、いっそ、可愛らしく感じてしまうのは。場違いだとわかってはいても。落ちつき、微笑ましいとすら思い。そんな彼を見つめる僕の表情を見て、狼の頭が突進してきて。僕の胸元を探る。その拍子にシャツの下、胸元に押し込めていた。彼のネックレスが慣性に乗って飛び出て来た。番に渡す筈のそれ。僕に渡すべきではない、それ。ああ、本当に。この狼が、愛おしいと。僕の感情が、遠くに逃げていく。
好きで満たされて、好きが溢れて。愛に変わっていくのが、自分の心模様が。そっか。においで相手の感情がわかるのだから。それは、嘘とか、そういった悪意だけではなく。好意だって。それは、盲点だったな。隠したがっていた、僕の気持ちなんて。とっくの昔に知られていたのだと。いまさら気づいた。一言もそんな事告げていないのに、告げないように、告げてはいけないと我慢していたのに。やっぱりその鼻は、卑怯だ。
「風呂、入ってないからか。俺、人間にとってそんなに臭かったか!?」
ううん。獣臭いだけで、人のように全身で汗を掻く生き物ではないから。顔を顰める程ではないけれど、臭くないかと聞かれると。素直に否定はできない。というか、怒られる前に入れよと。冷静な思考が、ツッコミを入れていた。興奮していた際に、水をぶっかけた時みたいに。鼻を鳴らし、きゅーん。そう子犬のように、鳴く大男を見て。頭を撫でる。ゴワついてしまった、その毛並み。そのまま首の後ろを探るようにすると、触れる地肌の面積がそこだけ広くて。円形脱毛症が、悪化してるのがわかった。長い毛を掻き分けないと、他の人はきっと気づかない程度にまだ収まっているだろうけれど。こうして触れるとそうではない。そんなに、ストレスを感じていたのだろうか。結構、繊細だよね。ガルシェって。僕がそんな事をしていると、腕ごと抱きしめられて。狼の頭が自身の胸に押し付けるようにして、僕の頭頂部を押した。そうすれば、彼の胸元に揺れていたネックレスが当たって。痛い。
「ルルシャ、どうしてなんだよ。どうして。俺は、このままが良いって。ただルルシャと、ずっとこのまま暮らしたいだけなのに。どうして。俺を、親父みたいに、捨てないでくれっ」
つッ。息が、詰まった。捨てる。誰が。僕が、ガルシェを。そんなわけない。そんな事。だって捨てるとしたら、人間を飽いたこの狼が。そうするぐらいで、それを恐れて。僕は最初、気に入られようと。していたのに。なのに、どうして。彼の口から、そのような言葉が出てくるのだろうか。それを言わせてしまったのは。愚かな、とても愚かな、人間だった。
そして、幼少期に育児放棄のように。家に一人残されて。小さい頃に、感じていたであろう気持ち。この狼は、孤独に対して強い拒絶反応を見せていた。いっそトラウマを抉ってしまったとも取れる。
それと。ただガルシェは、僕と一緒に居たいだけなんだなって。彼の。その好きの形と、僕の好きの形は違うんだとも。気づいてしまった。強い感情を向けてはいたとしても。
何も言えなくて。彼の胸の中、俯いていると。少しだけ身を離した銀狼が。僕の頭を見下ろしているのを感じる。そんな視線を感じていたら、どこか。部屋の空気が重く、纏わりつくようなものに徐々に変わりつつある事に気づいて。どうしてそうなったのか。だから、僕が見上げて。そうしたら。銀狼の、琥珀のようで綺麗だと感じていた。そんな瞳と僕の人間の瞳がぶつかって。ただ、それを見て悠長に綺麗だとか。そんな感想は出てこなかった。だって、色合いは変わってない筈なのに。どこか、黒く。仄暗いものが侵食し始めているように。これは、さっき見た難民の子供がさせていたのに。似ていた。なら、この色合いは。名前を付けるのなら。きっと。そう。
――絶望。
僕を抱いたまま、立ち上がった男は。無言で人間をどこかへと運ぶ。苦虫を噛み潰したように、表情を歪めたまま。そして、そう広くない部屋を通り過ぎると。扉を一つ開けて、中へ。ここは、お風呂場へと続く脱衣所で。僕をそこへ連れてくると、ただ一言。脱げ。そう告げて。ガルシェは自分の着ていた衣服を、乱暴に脱いでは。床へと放り捨てていた。それを、茫然と見てるだけで。命令されたのに、従わない人間相手に焦れた狼が。引き裂くように、力任せに。僕が着ている服を引っ張った。ビリビリと音をさせながら、伸びきったまま戻らなくなってしまう上着。留めていたボタンが弾け飛び、固定できなくなり。落ちるズボン。あんなにも、理性を欠いてても。我慢強い彼が。今は、ちゃんと理性があるのに。その動きは、どうしようもなく。暴漢のそれだった。だから、抵抗をしても。あまり意味はなく。しただけ、強く握られた部位が血が堰き止められて鬱血しそうになりかける。そうして、脱衣所からその先。お互いが裸になった上で。お風呂場へと続く扉を開けたら。僕の鼻腔に飛び込んで来た。湿気を含んだとても雄臭い。生乾きの、腐ったようなそれら。ここで、何がおこなわれていたのか。言葉にする必要もないぐらい濃密に。戸惑いに、足が竦んでるのも構わず。ガルシェが背を押す。有無を言わさず、入れと。逃げ場のない密室へと。そんな中で、遅れてやってきた肌寒さに鳥肌が立った。
正直、裸になるには辛い季節で。ただ、ここまで声も出さなかったのは。そうしながらも、そうしているガルシェが一番。辛そうな顔をしていたからで。別に、彼にどうされようと。逆上した銀狼に喰い殺されようと。それもまたいいかもしれないと、思い始めていたから。そんな顔を見てしまうと、心苦しくて。何も言えなくなってしまったのもあったのだった。彼の幸せを願い、そうしようとしたのに。どうして、こうまでも。彼の心を傷つけているのだろうか。手遅れかもしれないと言っていた、灰狼の言葉が。いまさら重く、胸の内を響いた。
興奮に息を荒げて、こちらを見下ろす屈強な男。お互い裸体を晒し、このお風呂場を満たす臭気も饐えた酷いもので。でも、どこにも。お互いに性的に興奮してるかと言われると、そんな事はなかった。ただ、そうなろうと。ガルシェが自身の性器を鞘の上から握り、刺激して。その手付きは心の荒れようも表していて、荒く。痛みすら感じていそうなものであった。唸りながら、歯茎を剥き出しにして。銀狼の顔が苦悶に歪む。本来は直接的な刺激で、勃起するか。朝の生理現象で、そうなるのに。今では持ち主の気持ちに答える事はなく、ただ沈黙を貫いていて。乾いた擦れる音だけが、虚しくお風呂場で響いていた。垂れ下がる大きな玉が、びたびたと自身の内股を打ち付けながら揺れ。手が上下する度に、鞘から赤黒いものが見えては隠れるを繰り返す。いつまで経っても、大きくならないから。クソっ。そう口汚く、思い通りにならない自分の身体に。銀狼が吐き捨てるようにして言い。手を止めた。
多少なりとも、空気に触れた粘膜部分が空気中に溶けて。僕の鼻にまで強く、獣臭さに混じって新鮮な雄の臭いが漂ってくる。お風呂場に残留していた古いものではない。ただ、熟成された。海産物を想像させる。そこにツンと、アンモニア臭が自己主張していて。それは、嗅覚の優れたガルシェ自身もそうであったのであろう。不快げにしていた。ところが、何か思いついたかのように。細められていた瞳が開く。
もう一度挑戦しようというのか、また自身の生殖器を握った銀狼は。ただそれで、こちらを見つめた。先程のように荒々しく抜くでもなく。ゆっくりと包皮を剥くようにして、握った手を引き下げると。ガルシェの普段は隠れている、性器の先端が露出する。勃起してないと流入している血液の量が少ないからか。赤みが薄く、色合いがピンクっぽくて可愛らしくもあるのだが。尖った先に小さくある穴。尿道口。露出した先端はそのままだと天を向いた位置で固定されてる為に、銀狼が手首を捻ると。水平へと。その切っ先の向きを変えた。丁度、正面に居る僕へと向けるように。彼の自慰を見ているつもりだった僕は、行動の意味合いがまるで違うのだとそこで気づいて。嫌な予感がして、逃げようと慌てた。でもここは密室で、狭い空間はただシャワーノズルと浴槽があるだけだった。扉がある方向は、生憎と巨体が居座っていて退かせそうにない。
「が、ガルシェ? なにをっ」
「ルルシャは、俺のだ。俺のなんだ。もっと強く、マーキングしなきゃ。どこにも行けないように。もっと、強いの……」
うわ言のように、どこか。錯乱したかのような雰囲気で。僕の声など届いていやしなかった。自身の性器を僕へと向けたまま、一歩。狼の足が前へと踏み出す。手と違い、足は爪を切っていないのであろう。彼が歩けば、タイルと接触して小さくも硬質な音をさせる。距離を詰められながら、僕はただ背中に壁を感じて。その時を待った。逃げられないのなら、いっそ。無防備に揺れている弱点を蹴りあげる事もできたが。同性として、それだけはやっちゃ駄目だと踏みとどまっていた。切迫したように、呼吸を乱して。体温がいつも以上に高まってるのか、冷たい空気のせいで。彼のマズルが白い息で覆われる。そうして、ぶるりと。身体を震わせた男と。僕へと突きつけられた、尿道口から液体が飛び出すのはほぼ同時で。最初。その勢いはちょろっ、そんな控えめなもので。一瞬だけ途切れたと思ったら、もう一度、同じ勢いでまた液体が。彼の性器から飛び出ては、こんどは徐々にその勢いを増しながら。その着弾点を、僕の足元のタイルから。足の指先、足首、脛。ジョロロロロと、勢いを増した分だけ。聞こえてくる液体の衝突音も大きく、お風呂場の壁に反響しながら木霊して。肌に当たる衝撃。人体から射出されたにしては、圧を感じるぐらい勢いが強く。太腿へと、掛けられたら。足元から立ち上って来る。濃い湯気が二人の間を霧のように満たしていく。排泄されたばかりで、薄く黄色が入ってるその液体が尿であるのはわかりきっているが。アンモニア臭はまだ、そこまで強くなかった。まだ含まれている尿素が分解されておらず、新鮮な尿というのはあまり臭くないから。思ったよりも不快感は襲わず、ただ僕の尊厳を穢すようなおこないに。驚きで固まっていたというのが、正しかった。彼のお腹が力むと、強調される割れた腹筋。その時は膀胱に加わる内圧が変わるのか、ジャーって水音を強めて耳に入って来る音までも変えていた。お風呂場で、お湯が出てくれたらな。なんて考えた事が多かったから、温かい液体が肌を濡らすのはいっそ恋しく感じるぐらいで。それがおしっこでなければ、喜べたのにと。ショックから回復したら、そんな気持ちにもなった。
身体が大きい分、一度に排出されるそれも多いのであろう。コップで受け止めていたら余裕で溢れていただろうなと、足裏に感じる水溜まりを作るそれを眺めながら。やがて、満足そうな吐息をさせたガルシェが。最後の仕上げとばかりに、自身のペニスを軽く振りながら。剥いていた鞘を戻し、尿道内に残ったものまで絞るようにして水滴として飛ばす。それが僕の胸元まで散って。おしっこを掛けている際に跳ね返ったりした分が、彼の膝や足部分の毛皮を濡らしていた。ほかほかと湯気を立てるから、人間よりも平熱が高い異種族のそれが。この場の湿度と、気温まで上げようとしてるようで。
排泄が済んで、お互いに押し黙ったまま。時間だけが過ぎれば。熱を保持していた液体も、冷たい気温に容赦なくその温かさを奪われながら。排水口へと消えて行った。ただ、僕の肌を濡らした分は。まだ張り付いていて。毛穴はとても小さいのに、浸透してきそうだった。これで。彼のペニスから出る。先走りも、精液も、尿も。全部、身体に掛けられる経験をコンプリートしてしまった。達成感とか、そんなものはないが。早く洗い流さないと、異臭がし始めるのに。だというのに動けないでいた。それはそれをやった、銀狼も一緒のようで。自身の手すら汚した液体と、僕の身体を見ては。やってしまったとばかりに、口が引き結ばれていた。その事から、本来。レプリカント同士でも、あまりしない行動なのであろうと。彼の反応から窺えた。酔っ払いがトイレに間に合わず粗相をしたとわりきれば、強い拒絶反応はなく。自分でも意外な程、落ち着き払っていた。だからこの後、彼がどうするつもりなのか。何を言うつもりなのか、様子見している意味合いの方が強かったとも言える。ただ、この行動の意味が。かなりとんでもないのだとは、におい情報をコミュニケーションにする彼らにとって。とても重く、罪深い行動でもあると理解していて。
ただそれで、ガルシェを責めたり、叱ったりする気は起きなかった。好きが、愛へと花開いた後にされたから。というのもあった。出会った当初にされていたら、また違った反応をした気もしたが。今だから、これ以上彼を傷つけずにいられた。きっと、罵り。なんて事するんだと、言っている自分が居た事だろう。そうならないで良かった。ただし状況は脱していない。彼が取りうる、取れる選択肢は多く。逆に、人間である僕は。とても少ない。その気になれば、いつだって八つ裂きにできるのだから。これまで築き上げて来た、お互いの信頼関係に。ひびが入ったように感じた。そう感じたのは、銀狼も一緒だったのかもしれない。何か言おうとしては、躊躇っていた。俺。違う。お前が。俺は悪くない。時折聞き取れる言葉から、いっそ目の前の男が哀れに思えてしまう。だから、僕が悲しげに。眉を下げたら、人の表情をつぶさに見ていた狼が。また慌てて。
「俺、俺さ。ちゃんと爪だって毎日切って。それで、その」
そのさ。その言葉の続きが、紡がれようとして。止まる。性器を露出したまま、僕を見つめて何かを言っている銀狼は。いっそ滑稽に映った。そのペニスが、少しだけ触れてもないのに露出しだしたのも。雄というものは、潜在的に汚したい、穢したいという欲求が少なからずあるという。それは自分だけのものにしたいといった、欲求の現れで。漂う性臭が遅れて、彼の本能を刺激したのか。はたまた、僕の肌を汚したから。背徳感に、煽られたのかもしれない。僕の目線がどこに向いてるか、彼がその目線を追って。自分のペニスがどういう反応を示しているか、それには気づいていなかったのか。辛そうに。狼の手が、人の目線からいまさら男性器を隠す。おしっこをしたばかりだというのに。まるでその仕草は、膀胱が決壊しそうなのにトイレが使用中で、焦ってる人にもどこか似ていた。
首を振り、違う、これは違うと。涙目になりつつある、大男を見て。どうすればいいか、冷静に僕は考えていた。心がぐちゃぐちゃになって、本能と理性がぶつかり。思考か支離滅裂に。その証拠に、違うと言いながら。彼の目が尿で汚した人の部位を見ては、口角が緩やかに、ひくつきながらも上がっていた。それを見て、人が嘆息すれば。それで、怯えたようにして。狼の尾が内股へと隠れようとする。彼の今の姿は、自分の感情をどこに向けていいか。わからなくなっている、子供にすら思えた。自分よりもとても大きな身体が、今だけはとても小さく見えた。実年齢は六歳なのだから。大人になろうと、背伸びして、そうあれと状況がそうさせたのに。それだけ、彼の気高い心が追いつめられて。追いつめてしまったのだとも。それをしたのが、ただの人間であって。
そんなだらしなかったり、情けない彼の見てはいけない一面を見ては。ちょっとだけそんな場面に立ち会う自分に、特別感や優越感を抱いては。そんな感情はよくないと。自制して来たのに。これは、本当によくない。いっそ、関係だけでなく。銀狼の、その精神すらも壊れかかってるようにも感じられた。それぐらいの、危うさがあった。ここで、僕が間違えれば。取り返しのつかない事になる気がした。市長さんが恐れていた以上に。僕が、恐れていた以上に。壊してしまう。戦士で、優しかった、彼という存在を。獣の心と、人の心、両方を持った。姿は違えど、一人の人間を。
固まっていた身体を、動かして。前へと。僕から歩み寄る。そうすると、怯えて。子犬のように震える相手に。その自身の股間を押さえる手に、そっと触れる。
「る、ルルシャ」
僕の行動に、考えが追いつかないのだろう。拒むように、手を退けようとせず。嫌々をするように首を振る。目を瞑って、こちらを見なくなった相手に。それでも、触れたままの手から逃れたいのか。彼が逃げようとして、足元が濡れているから。それで体勢を崩し、そのまま尻もちをついてしまうから。僕も一緒に屈んで、銀狼の両膝の間に。自らを割り込ませる。そして、自分でも驚く程優しい声音でもって。
「ガルシェは、発情期だもんね」
「あっ、えっ?」
固く目を瞑っていたそれが、弾かれるようにして。開くと、その琥珀みたいな宝石に。黒い瞳孔を一点、落としたような。動物の瞳が、僕の顔を映しながら動揺に揺れる。緩んだ腕の力をいい事に、その隙間に人の細い指が差し込まれ。守られていた防壁を崩し、もっと先。棒状の毛皮でできた袋に触れる。ぱたん、そう彼の背後で一度尻尾が襲った刺激に驚いて跳ねたのか。強くタイルを叩いた音をさせていた。僕が言ったのは。とても、甘い、甘い。毒。堕落させる、淫魔のようなそれ。この状況を脱したくて、示したのは。逃避だった。現実から目を背けるような行動を、彼にさせようとして。穏やかな顔をさせながら、内心。自分の悪辣な所業に、吐き気さえ催した。灰狼が、人間は嘘吐きだと言っていたけれど。どうやら、僕も例外ではなかったらしい。きっと今、とても醜い心で、汚らわしい臭いをさせてるのだろうな。彼がした罪は、理性を損失し、本意ではないと。そういうふうに、情報を上書きしていく。僕は既に、彼を許していたけれど。正義感の強い銀狼が、自分自身を許してなくて。責め立てているから。その矛先を変える。軽く、痛くないように。温かな熱を秘めたそれを持ったなら。彼のように荒々しくならないように、ちゃんと快感を汲み取れるように。ゆっくりと上下させる。そうすれば、露出したペニスの先から。早々先走りだろう、透明な液体が飛び出して。鍛えられた狼の大胸筋へと向かい着弾した。彼は、僕からの手淫が好きだったから。その反応は予想通り顕著だった。ただ、今それをされたいかは。完全に、今の彼の心を無視してもいたが。
「我慢、してたんだね。大丈夫。大丈夫だよ、ガルシェ。大丈夫だから、ね」
あ、あっ。そう声を漏らしながら。快楽に素直な、彼の良い所でもあるその部分が。今だけは、僕の愚行を手助けしていた。考えようとした、狼の脳が。自身のペニスからびりびりと駆け上って来る刺激に、霞んでしまうのだろう。冷静にさせてはいけない。今だけは。迷いも、葛藤も、罪悪感も。何もかもから目を背けて、即物的な快楽と。僕にだけ集中させる。僕を引き離そうと、肩を掴まれて押されかけるけれど。もう少し強く握り、動かす手を速めれば。滴った先走りが、鞘の中までも満たし。手の中からくちゅくちゅと湿った音をさせて。その分増した刺激に、押しのけようとしていた男の手が。逆に、僕を引き寄せるようにして。額に、彼の吐息が当たる。口呼吸していたけれど、そのタイミングで鼻呼吸に切り替えたのか。しきりに前髪を、ストレスからか少し乾いた鼻で掻き分けながら。僕の薄く掻いた汗で、湿り気を取り戻していく。ふんっ、すーっ、ふっ。鼻息にしては、とてもうるさい。興奮と、戸惑いが混ざって。鼻呼吸では足りない酸素に、肺が急いて。
さすがに、もっと淫魔になりきって。おちんちんから精液ぴゅっぴゅっしようねとか。そんな卑猥な事は思いついても、言う勇気はなかったけれど。僕からしたら十二分過ぎる程に、今の彼にしている行動は大胆であって。相手の性器を刺激して、甘い言葉を吐くのって。思った以上に、やる側も恥ずかしいんだなって。これが、僕も情欲に濡れて。興奮に染まっていれば違ったかもしれないが。傷ついた狼の、繊細な心に対する。ケアに近いような気がしたから。自分のそこが反応する事はなかった。ずっと、ごめんねって。相手に対して心の中で謝り続けながらしているのも、理由にあったかもしれない。かって知ったるとはこの事かと、ガルシェの性器が。どこをどう刺激すれば、気持ちいいか。僕は知り尽くしてしまっているから、抜きながら強弱をつけ。そうして、完全に根本まで毛皮が後退すれば。露出した瘤、そこも余った手で握り。やわやわと揉めば、狼の口から零れる悲鳴がより甲高くなった。刺激に、今ではしっかりと勃起して。交尾の為に、大きく成長し。長く、太くなった人外の生殖器。太い血管が蔦のように巻き付き、もう一つの心臓のように。鼓動して、息づいている。その間に大量に放出された先走りであり、一段階目の射精。精子が含まれていない液体が。僕の手と言わず。膝を立てて、いつの間にか後ろ手に上半身を支えるように姿勢を変えた自身までも。人間に自分の性器を好きかってされて。毛皮で覆われた股間も、腹筋も、胸も、太腿も。彼の尿で僕がそうされたみたいに、びしょびしょにさせて。本当に、いっぱい出すなって。本来は、円滑油の代わりにもなる。交尾をスムーズにおこなう為の進化の賜物であるのだろうけれど、今だけは。ただの性処理である、自慰行動の延長線上においては。全く意味をなさない。僕が彼のを抜く、手のひらとペニスに生じる摩擦が減り、楽になるぐらいだった。そういえば、初めて彼にこうした時も最初、ガルシェはこんな事を望んでないと。言っていたなと思い出してもいた。いつだって、彼の意に沿わない事を僕はするのだなって。
否定していたのだろう。発情期なんて、全くの嘘であって。彼は別に禁欲をしていないし、僕の発情臭だって過剰に嗅いでいない。そんな状態に陥る筈もなかった。時期的に、早めに発情した雌の狼のそれを嗅いだとしたら。そんな可能性もあったかもしれないが。学校へ迎えに来た時点で、そんな兆候も。家に帰ってからも、なかったのだから。お互いに、嘘だとわかりきっていた。だというのに、銀狼の腰は。タイルの上で揺れて、自身の生殖器を。人の手へと、自ら擦り付け始めていた。試しに、手を止めても。気づかず、んっ、そう声を漏らし。目を瞑り、快感を味わいながら。ルルシャ、駄目だ。そう言うくせに。上っ面だけ抵抗の言葉を発しながら。腰が振られる。きっと、これを指摘したら。彼の自尊心を傷つけるのであろうから。ちょっとだけ、その様子を楽しんだら。彼が、人がもう動いてないのを察する前に。しっかりと握ってやり、ラストスパートとばかりに。素早く動かす。激しくなった動きに、輪っか状にした指から飛沫があがり。ぶるぶると、狼の尻尾が震える。垂れ下がっていた被毛に覆われた二つの玉が、いつの間にか根本へと引き上げられ。弛んでいた皮が引き締まり、その中身の輪郭を強く主張していた。射精間近であると、生殖器が律義にも刺激を与える相手に教えてくれているのだった。僕の額を嗅いでいた彼が、牙を打ち鳴らし。さも咬みたそうにする。そこで薄く開いた、彼の目が。獲物に狙いを定めて。でも、また、顎を開いては閉じて。咬まないように、それだけはと、耐えてるようでもあった。今は、口輪もなく。興奮のままにそうしたなら、どうなるか。よくよく理解しているのだろう。欲に濡れながらも、発情期でないのだから。耐えられるだけの理性が残されていた。本当は、咬みたくて、咬みたくて。その柔らかい肌に、牙を突き立てたくても。堪えてるのが、手に取るように。握ったペニスから、彼の感情まで流れ込んでくるようだった。それはびくびくと震え、興奮と、射精欲に塗り潰されたものであったのであろうが。
「ルルシャっ、もう、射精るッ! 俺っ、お前を。あっ、ぐっ。でっグルル、ガァッ!」
自身がどうなるか、体内で起きている反応を。僕に懸命に伝えながら。今よりも、その先、もっと深い。交わりを求めている、雄の狼は。でも、行動を止めるつもりも、逆に追い立てるような。そんな人の手の動きと。自身でも追い求めた、腰振りによって。柔らかく、瘤を包んでいた手のひらに。どくんっ。そう強い脈打ちと、そして肥大していく感触が。苦しそうに、いっそ身体が裂けそうな。そんな衝動を、ペニスから解放したのだった。最大限、滾らせた逸物から。透明なものでもない。真っ白な液体を。噴き上げた。我慢できなかったのであろうか、空中を咬んでいた彼のマズルが。不意に僕の頬をなぞりながら、そして。耳たぶをかぷりと、咥えた。牙が、軟骨をこりこりと刺激して。咬み千切られそうな恐怖と、微弱な背筋を走る。こそばゆさに、悲鳴を共に上げて。ふっー、ふっー、そう息を深く吐き出しながら。腰を震わせて、射精を続ける一匹の雄の狼。もっと気持ちよく、出しきれるように。僕は握った瘤を、本来は雌の中で膨らませて、抜けなくするそれを。強く握りしめて、圧迫する。途端に、ガルシェの目元が蕩けた。一番、男として、生物として無防備な一瞬。人だと、数秒で終わる絶頂が。じわじわと、緩やかに落ち着きながらも。間延びして、ずっと続く。びゅっ、びゅっ、びゅるっ。そう拒否していた心とは正反対に、生殖器は役目を全うしようと。元気に遺伝子情報を吐き出していて。お風呂場の空気を、孕まそうと。空中を舞っては、僕の手や、彼の毛皮の上へと落ちていた。途端に香る、咽かえるような。生臭さ。ガルシェの精液は。無臭な先走りと違い、とても生臭い。それは、それだけその一滴一滴に。真っ白な色から察するに、大量に精子が含まれているからで。比重がずいぶんと重いのであろう。時間が経過したせいで、僕の身体から漂う。アンモニア臭も加わり、きっと今のお風呂場は。かなり暴虐じみた、鼻が曲がりそうなものであったろうか。そこに最初から居た僕らは、感覚が麻痺していて。それを感じている余裕もなかったけれど。今は、お互いだけが全てで。荒く呼吸する、ガルシェに。僕も思考が殆ど占められていて。それはきっと、射精中の彼も同じであったのであろう。ジャガイモのように大きな、二つの陰嚢から作られたそれを、夥しい精子を吐き出して。今は、三段階目。精子に活力を与える、前立腺液をじわじわと、追い打ちの如く。出している状態になって。そこで、しだいに呼吸が落ちつきながらも。でも快感は続いてるのか、目元は蕩けたまま。僕を、見ていた。愛おしいと、情欲に染まりながらもその目が訴えていた。そんな感情を、浅ましい僕なんかに向けて欲しくなくて。つい、目を逸らすと。こりっ、また耳たぶを甘噛みされて。変な声が出た。どうやら、歯応えが気に入ったらしい。はむはむと、熱心に黒い唇が動いて。愛撫みたいで、これには僕がたまらないと。逃げようにも、思ったよりしっかりと咥えられていて。狼の口はその場に留まったままであったから引っ張られ、耳が痛かった。ガルシェが耳を僕に引っ張られて、痛いと叫んでいる気持ちが今、共有された。
耳を寝かせ、眉も困ったふうに。気持ちよさが持続しているとはいえ、頭はもう冴えて来てるのかもしれなかった。僕がどうしてこのような事をしたのか。強行したのか、考えてるようであった。でも、ガルシェは。それを指摘せずに。ただ、熱心に甘噛みに夢中になっている。絶頂で馬鹿になった脳をさせた、そんな愚狼を演じていた。演じてくれていた。彼の悩ましげな表情から、それがわからぬ程。僕も愚かになりきれなかった。
「ごめんね、ガルシェ」
狼の、熱の籠った視線に目を合わせられもせず、謝罪だけを口にしいた。どくどくと、手に伝わる脈動を感じながら。気まずくて。しっかり握った相手のペニスが。場違いなまでに、活き活きとしていて。耳たぶからの刺激が途絶え、ガルシェが。僕の名を呼んで。それで、漸く目を合わす事ができた。随分と、迷って、やっぱりその顔を見れないと。躊躇しながらではあったが。周囲の状況を読み取れるだけの余裕ができると、ずっとあった肌寒さに。身を震わせる。体温を奪われてしまって、寒いと。自覚して。そうするとより、彼のペニスが温かく感じて。そこから暖を取っているようであった。本当に、火傷しそうなぐらい。僕からするとそこは、熱く感じられるから。でもそれは手のひらだけで、即席カイロでも持っているに近い状態であったから。十分とは言えず。人が震えていると、眼前の男は気づいたらしい。後ろについていた手を、タイルから離し。支えなくていいように身を起こすと、自由になった腕が。僕を引き寄せて。太腿でも挟むようにして、密着を強める。途端に、身体を覆う湿った毛皮が。僕を温めるように包んでくれて。震えはしだいに止まった。
「ちょっと、お互い。頭、冷やそう。ルルシャ」
「そう、だね……」
カランを捻れば、冷水が頭上から降って来るのだけれど。ガルシェが言っているのは、そういう意味ではなく。一方方向しか見えていない、そんな思考を一度停止させ。脳の余分な情報を消し、リセットしようと。感情すら、抜きにして。
彼のを握ったままであったけれど、どうやら。この状態であっても、僕がどうしてこの家を出て行くって。そんな考えに至ったのか。早く理由を聞きたいようであった。冷静になろうとして、そんな思考を下半身からこみ上げるものが邪魔をする。自動で動き続ける前立腺が、今は憎いとばかりに。顔を顰めて。眉間に皴がよれば、どこか。灰狼を彷彿とさせて。それを言ったら、きっと似ていないと怒るのは目に見えているけれど。早めに終わらせる手伝いに、緩く。射精中はあまり刺激し過ぎると辛いのは知っているから。そうはなり過ぎない程度に、握る強さを変えて。彼のペニス。その瘤よりも上、尖った先へ向かうように竿部分をむにむにと、親指で押すように揉む。尿道にある液体を、押し出すように。そしたらガルシェが身を捩らせて。低く唸っては、腰が逃げたいけれど、瘤を握られている圧迫感を失いたくもないと。腰をくねらせていた。僕の背にある、男の手が震えて。抱く力が強まったりと、忙しない。足を擦り合わせるようにすれば、それは僕に太腿を擦り付けるようであって。ウウゥ。そう声を出して。疑似的な性交を体験しながら、本番を想像しているのか。僕の肩に顔を埋めては。また興奮が高まりだしたのか、息が荒くなりつつある。手から伝わる、獣根は。勢いよく、射精を繰り返していて。僕のお腹を熱い液体で汚して。
もう少しだけ、彼のそこが満足するまでは。付き合う必要があって。一回の交尾時間が長い犬科の性が、答えを求める狼を焦らしているようであった。それでも、今までで一番。最短記録で、彼の瘤に変化が現れ。縮みだしたから、本当に。内心は、えっちな気持ちなんてなく。生理的反応で射精したんだなって。もしも、もっと精神的にも満たされた上で。本人もその気であったなら、こんなものではなかったであろう。萎え始めたから、僕は彼のそこから手を離せば。自動的に、先に瘤の部分だけ捲れていた鞘が戻り。隠してしまう。まだそのシルエットは大きいままだったから、中身の存在感をそのままに。歪に膨らんでいたが。
射精も終われば。もう逃げ口実もないと、僕も観念して。至近距離で見つめ、答えないなら咬みついてでも問いただすとばかりに。静かな怒りを抱えたままの男が。ちょっと怖くて。本当に、凄んだ時の狼の顔は相手を脅す効力が高いものだと感じた。脅されているのは、当事者である僕だけれど。
だから、ガルシェが。番を、雌の狼を。得られるようにしたいと。そういうふうに、幸せになる事を望んで。出て行こうと、短慮であったと。玄関でのやり取りを反省しながらも。その意思自体は変わってない事を告げる。別に、市長さんに言われたからとか。そういうわけではないと。あくまでこれは、元々持っていた僕の意思であって。灰狼のそれは、後押ししたに過ぎないとも。
大人しく、人の言い分をその一対ある三角形の耳を震わせながら。聞いていた、ガルシェ。狼の喉がぐっと息を呑んで、そして。
「ルルシャも、俺の幸せを。親父と一緒で、かってに決めつけるんだな」
僕のそんな言い分を、暫し考えた後。悲しそうに、そして。その顔には落胆が浮かんでいた。いっそ、人間に対して。僕個人に対して、失望したとも取れる。言い方で。銀狼に、そう言われて。そんなわけないと。言いたいのに。でも、確かに。灰狼が、している事と何一つ変わらないのだなと。事前に敷かれたレールの上を、ただ走って欲しいという。それは自己満足めいた、幸せになって欲しいという善意の押し付けでしかなくて。本当に相手が、何を求め、欲しているのか。そこだけは考慮されておらず。僕の気持ちだけが先行していた。市長さんに、どうして話し合わないのと。無責任に聞いた僕が、こんなありさまだった。それを彼から。ガルシェから指摘されるまで、気づかないなんて。
なら、この失望に。僕の顔を見つめながら、表情を曇らしては。その内、無表情にと消しつつある狼が。今、どんな気持ちかなんて。でも、それでも。だって、僕は。君とは違うんだ。僕は、人間で、男なんだと。
「僕は、君の隣に、居るべきではないよ」
「言うな」
咎めるようでいて、お願いのようであって。ガルシェの顔が見えなくなる。それは僕の肩に、狼の顎を置いたために。僕の視界には、彼の毛皮と筋肉質な肩、それと片耳しかなくて。こんなにも、身体を温めてくれる相手がいるのに。僕の心はどうしてか、冷えていく。それは、僕の言葉を聞いている銀狼もそうであったのかもしれない。彼には立派な毛皮があるのだから、この寒さでも。大丈夫である筈なのに、小刻みに震えて。震えては、縋るような、手が。僕の背にあって。
「ガルシェ、僕は」
「わかったから。もう。言わないでくれ。今は聞きたくない、聞きたくなんか、ねぇよ。そんなこと」
彼が身をさらに密着させた事で、僕と彼の胸の間で。カチャリと、動物の牙と琥珀みたいな鉱石に穴を空けて紐を通した。特徴的なネックレスが擦れ合って音を立てる。番の証。彼の伴侶へと贈られるべきもの。たぶん彼も。立場からして、本当は理解しているのだと思う。最初から。口酸っぱく、親からも言われて、そうやって生きて来たのに。そんな生き方しか知らなかったのに。そこに、僕というイレギュラーがやってきて。人間で、男で。狼でも、雌でもない。どうして、こんなにも仲良く。お互いの心の中に、互いを住まわせてしまったのだろうか。望んで好きになったわけではない。気づいたら、そうだったのだ。
こんなにも、僕は君が好きに。好きになってしまったのに。君は、僕の事。好きだけど、その好きの形は、家族や兄弟に向けるものに近いんじゃって。恋愛と勘違いしてやしないかと。なまじこういうふうに、性的な関係すら持ってしまったがために。本人も誤認している可能性に、僕は気づいてしまった。ただ一緒に居たい、そう言う銀狼に。そこだけ、市長さんの読みは外れていたのだろう。
もっと他の人と深く関わって、性的な事も僕だけではなく。別にヤりまくれとかそういう意味ではないけれど、精神的成長を促すには、どうしても一人では限界がある。他人と関わる事で、そういったものは促される筈だと。僕はそう思う。狼の気質を考慮し、息子の人間関係までも絞り、コントロールしてきたばかりに。欠陥が生じたのではないかと、考えていた。孤独に対して、あまりに耐性がないのだから。それなのに、仲のいい友達はあの赤茶狼と白狼二人だけ。素直に寂しくて、誰かに頼ろうとか。頼り方すらわからない彼が。どうして部屋の中に、雌鶏であるアーサーを飼っているのか。それは親から制限された人間関係において、抜け道として。彼がどうにかしてでも、孤独を埋めようとしていたのではないか。そんな時に、やって来た僕が。半年も一緒に暮らして、生活を共にしたばかりに。銀狼が、依存先を見つけてしまったのではないか。
親からの言いなりに、不本意ながらもそうやって今まで生きてきた彼が。自主性を欠いて。噂では、つい最近まで仕事に対してもやる気がなさそうだって。あまりいい噂よりも、悪い噂ばかり、ガルシェの事を聞く方が多かった。最初、それは市長の息子だから。それで七光りとか、妬みから来るものだと今までガルシェをよく思っていない人達のかってな言動。そう思っていたそれらが、過去の職務態度から来る彼自身にも原因があったのだとしたら。
この家に暮らしてるだけの間は、見えていなかった側面。でも、変わったのは、人間が来てからでもあって。頑張ってる姿も、知っているけれど。頑張ろうとも、それが正しく伝わらなければ。他人の評価が全てだった。僕が離れている間に、ストレスでこうも身なりが崩れてしまうのも。
最初、彼が学校まで僕を取り返そうと。直談判してくれていたのは、ただ嬉しいと素直に感じてもいたけれど。もしもそうなら、話は変わってくる。好きな人に求められるのは好ましくても、極度に依存して欲しいわけではない。そんな歪んだ関係を望んではいなかった。立派になって欲しい、彼の隣は僕でなくても良いと、そんな気持ちが芽生えた今。なら、これから僕がどうすればいいか。彼を正しく導ける程、かといって僕も立派な人間ではないのが問題ではあった。
実際にどういう目で僕を見ているのか。ガルシェにとって都合の良い人になる自信も、そうなりたいとも思ってはいない。性処理をしたいのなら、街の人達みたいに裏通りとかに行けば良いし。家の事をして欲しいのなら、そういった人を雇うか自分で片付ければいい。彼はできないわけではなく、面倒くさがってしないだけだ。財力だって、平均よりもそれなりに稼いでるのだから。パートナーが欲しいのなら、結局。結論としては全てを満たせる、狼型レプリカントの女性と。結婚するのが一番理想と言えた。僕が介入する余地はなく、いらないとすら。だからこそ、彼を手伝うなら、支えるなら。友としての距離感を保ちつつ、この家から出ていくのが良いとさえ思ったのだけどな。家主からの返答は、拒絶の言葉と。動物が縄張りを主張する、本当の意味でのマーキングというあんまりなものであったが。早まった考えではあったけれど。僕の発情臭で、彼が反応する以上。またあの時みたいに倒れないとも限らないのだから。前までは共に居る前提で、僕がえっちな事とかそういうのを考えなければ。彼が定期的に、性欲を発散すれば。それで良いのではと解決策を探っていたけれど。そもそもの話。僕が隣に居なければ、彼は好きな時に好きなだけ。自慰できるのだし。プライベートな時間が戻り。元凶を嗅ぐ機会もなくなる。彼の身体の事を思うと、やはり。状況が、答えを指し示していた。お互いの気持ちを、考慮しなければ。
「ルルシャ」
僕の肩に頭を預けたまま。彼が僕の名前を呼ぶ。硬い声音だった。いつも、ガルシェが僕を呼ぶ時。贔屓目なしで、優しく。そう呼ぶのに。暫く二人とも、抱き合ったまま。何も言わなかったけれど。僕が思考している時間。同じように彼もまた、何か考えていたのだろうか。だとしたら。何を言うつもりなのか。緩やかに、背にある手が離れて。そして、身体も離されて。そうやって。お互いの顔が見えるようにされた。
「お前は。俺の。ッ……ペットだから、かってに出て行く事は、許さない」
感情を殺した。何も瞳に宿さない、銀色の毛皮を纏った狼の男が。ただ、人の処遇に対して判決を下していた。市長さんの元から、再び。ガルシェの元へと、その身が戻れば。それは、殺生与奪の権利もまた、彼に戻る事を意味していて。ただ、これまで彼の人間に対する扱いは。あくまでも平等であり、そう接していてくれたのに。この街の人は、皮肉ってか、それとも面白半分にか。あまり僕達の関係をよく知らない人に限っては、僕の事を七光りのペットと。そう言っている事を知っていた。外から拾って来て、家で飼っていると。最初の方はそうで、あながち間違ってもないし。僕はそこまで気にしてはなかったけれど。だんだんと、この街で仕事を始めて。店長のお店へ通い、市場で夕ご飯の材料を買ったりして。そうやって、彼らの生活に馴染む内に。そんな声も、あまり聞こえなくなっていった。皆、見慣れた人間に興味を失ったとも取れる。ただ、最近。お世話になっていた彼の父親に。嫌がらせという意味では、そう呼ばれていたけれど。逆にそれを利用して、灰狼を揶揄うといったりと。僕はそのような事もしてしまっていたけれど。だってあの人、微妙に腹が立つ事平気で言ってくるし。ただ、彼が。銀狼だけがそれを口にしたとなれば。ずっと、僕を大事に。一人の人間として、ずっと僕を近くで見守っていてくれた人が。それを言ったら。苦渋の決断だったのだろうか。どうにかして、手元に置いておきたい。彼なりに考えた結果なのだろうか。だとしたら。
「なにそれ」
だから。馬鹿にしたように、僕が鼻で笑うのも。しかたがなかった。どうして、そうなるのかなって。どうして、そんな事を言ってしまうのかなって。どうして。そうやって頭の中は、彼がそんな考えに至った理由を探してはいたけれど。ただ。ただただ、残念な気持ちになってしまった。先に彼を絶望させ、落胆させたのはこちらだというのにだ。胸が、とても重い物でも乗せられたような気がする。それは錯覚で、僕の素肌を晒した無防備な地肌の上には。何もない。
おかしくて、静かに笑えば。自身の精液で下半身といわず胸元まで汚した男が、こちらをただ無表情に見ているのがわかっていても。どうしてか、笑いがこみ上げてくるのだから。ああ、でも。嫌われるのはある意味。都合がいいのかもしれない。僕から、彼の気持ちが離れたら。そうしたら、僕の思惑と。市長さんの思惑は、似ているから両方叶う。叶うのだから、嬉しいと感じられる筈だ。筈なのに。ねぇ、ガルシェ。
狼の瞳に映る、人の顔は。笑ってるのに。これっぽっちも楽しそうではなかった。僕は、彼の心を壊しはしなかったのであろう。ただ、別の方法へと。仕向けてしまって。本当に、何をやっても。僕って、上手くいかないな。誰かを好きになって。その誰かに好きになってもらって。誰かの役に立ちたくて。ただ、ここに居ていいよって言って欲しくて。それだけなのに。
思い返せば。この街に来てからというもの、失敗ばかりだった。その失敗で何かを学べたら良かったけれど。僕って進歩がない。ガルシェの事をとやかく言う資格なんてなかった。やった行動も。抱いた気持ちも。何もかもが。全部が裏目に出て。本当にただ。好きな人の顔を、見つめ返して。いつも柔らかい表情をさせて、僕を見ていた狼は消えて。僕の反応に怒ってもいいのに。いつもの彼だったら、悪態の一つや。癖の舌打ちだってしただろうに。何も感じていないかのように。笑顔を消してしまった。そんな相手の表情を見て、今。人が素直に思った事を、心の中だけで述べたなら。
――君にそんな顔。させたいわけではなかったのにな。
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