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四章
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「お迎えにあがりました。理由は言わなくても、わかりますね?」
いつも通り、ガルシェを見送って。そうやって、ただ留守番している日々。そんな時に、玄関からノック音がして。居留守を使うわけにもいかず、嫌だなって気持ちを隠して。外面だけでも良く思われようと、元気よく返事をしながら扉を開ければ。無表情の、猫科の顔が。僕を見下ろしていたのだった。今からでも居留守、使っちゃ駄目だろうか、駄目か。
開口一番、そう言ったのは。見た事ある人だった。黒毛だから、記憶をそう掘り起こさなくても。思い当たった。前に見た軍服らしき服装で。背筋を真っすぐ後ろ手に、踵を少し開いて、無表情なその顔を暫し眺めた後。目線を滑らせながら腰のホルスターに、しっかりと銃があるのをそれとなく確認した。特徴的な黒豹だったから。名前は存じ上げないけれども。一度は配給所で、そして、二度目は所長と共にこの家の前まで。僕を訪ねて来た、人だったから。会話自体は直接そんなに交わしていなくとも、強く印象に残っていたのだった。
突如ガルシェが留守の状況で、この人が僕を訪ねてきたとしても、自然と受け入れていた。驚きはそこまでなかった。だから。
「はい、着替えて来ます。それぐらいは待ってくれますか?」
「問題ありません」
「……家の中で待ちますか?」
「お気遣い、ありがとうございます。自分はここで結構です」
上っ面だけの僕の気遣いめいた言葉を見透かされたのか、それとも。そう短くやり取りして、扉を閉めた。振り返り、部屋を見回して。換気の為に、開け放たれた窓を見て。そこから逃げるという考えが一瞬過った。そんな事、相手も思い当たるだろう。中で監視しないのは、逃げられやしないと。高を括っているからか。それは、その通りではあるのだけれど。深読みのし過ぎか。
部屋着から、外出用の着替えを手に取りながら。考えを巡らせる。たとえ僕が従わず、拒否するのは一番の愚策であった。人間に、そんな権限がないのは。今に始まった事ではない。無理に抗えばただ、僕を保護しているガルシェに迷惑がかかるだけであった。大人しく従うのが正しい。あの時と違い、彼がタイミングよく帰って来るのを期待するのも。時間帯的に、無駄であった。あまり待たせるのも良くないと、さっさと着替えて。そうして、一つ書置きを残す。それぐらいは良いだろうか。豹の人が、迎えに来た。それだけで、たぶん伝わるだろう。
特に荷物もない僕は、それだけで身支度を終えてしまうから。そのまま、玄関から再び顔を出せば。思ったより早いと思われたのか、意外そうに黒豹が首を傾げていた。仕事が滞りなく進んで、彼としても都合が良いだろうに。僕もそう思い、鏡映しのように首を傾ければ。それもすぐに、戻ってしまったけれど。ただ、着いて来てくださいと。そう言われるがまま、その背を追った。ゆらゆらと揺れている、猫科の太く長い尻尾が。目の前にあるのが新鮮だった。狼の尾は、見慣れているけれど。そういえば、猫科とは関りがあまりなかったから。知り合いは犬科ばかりであった。
住宅区を抜けると、大通りへと出て。なだらかな坂で一旦立ち止まると、それをそのまま登っていく。向かう先は、どうやら学校らしい。ガルシェではない人に連れられている僕が珍しいのか、街の人々の視線が突き刺さる。まぁ、まるっきり連行されているし。たとえ人間である僕じゃなくても、野次馬の視線が向かうだろうか。
そういう意味では、人間である僕は目立つから。書置きなどしなくても、いずれガルシェの耳には入ったのだろう。人伝よりも、家に帰って何か残しておいた方が。それを目にした銀狼も冷静に対処してくれるだろうし、何よりも安心させたいという意味もあった。拒否権はないが、強引に力づくでというわけではないのだから。抵抗した場合、圧倒的な力の差を思い知らされる結果を見るか。最悪射殺されていた可能性も考慮できたけれど。現状、手錠すらされていない。何かの罪状で連行されているわけではない気がした。
学校の敷地を跨げば、真昼間だから。遠目にグラウンドでは、訓練に勤しむレプリカントの人々が多かった。そういえば、明るい内に来るのは初めてであった。アカデミーの人だろうか。ガルシェも昔、ああして訓練していたのだろうか。銀狼の過去を想像しながら、そんな不特定多数のレプリカントの軍人らしき人達を眺めていると。振り返った黒豹の、無表情の顔が。いつの間にか僕を見つめていたのだった。足が止まっているのを無言で指摘されているのだと気づいたから、慌てて少し離れた彼との距離を縮める。
学校の中へ入れば、やけに響く足音。本来は上履きに履き替えたりするけれど、そんな習慣も今では捨てられた文化と言えた。そのせいで外からひっぱった土で薄汚れた廊下。このまま、独房でも連れていかれるのかな。そう思っていたけれど。ここですと、そう促されて入った部屋は。思ったよりもまともだった。生活感があって、資料とかが机の上で山を作っていたから。一瞬資料室かと見間違えたが、隅に二段ベッドがあったから。誰かここで暮らしているのだろうか。僕が部屋の中に入ったら、黒豹の人はそのまま。自分は入らず、トイレに行くならあちらですと。そう指で示して必要最低限だけ教えると扉を閉めてしまったし。
鍵は内側にあったから、別に閉められてもいない。本当に、僕の自由意志に任されているのだなと感じた。逃げるも、従うも自由だった。自由とは名ばかりの、見えない鎖に雁字搦めではあったけれど。
最初、ガルシェの家を訪れた時みたいに。散らかってるなと思った。ただ足の踏み場もないあれと比べるのは、ちょっと失礼か。一応床は見えている。一階のこの部屋が、誰のか。そんな疑問もあったが。そんな事この際どうでもよかった。窓に近づくと透明度の低い窓ガラスがはまっていて。この街で作られたのかな。古い物は、割れてしまっただろうし。透明度の高いガラスは再現が難しそうだ。外がよく見えないと、窓を開けるとさっき見たグラウンドの景色が別の角度でそこにあった。吹き込んで来る風が露出した肌を撫でるけれど、温度のせいかそこに鳥肌が立つ。
あんなにも、離れたくない。ガルシェが許す限り。彼が番を得るまで。それまでは。そう思って、あの家にはタイムリミット付きで居られると思っていたのに。他人の干渉で、こうも容易く。そんな生活も終わりを迎えるんだなって。ただ、そう感じていた。本当に、呆気なかった。
恐らく、上から命令されて。僕を連れて来ただろう、黒豹の人には。お仕事ご苦労様ですという、それ以上の感情は抱かなかった。よくもとか、そんな逆恨みはなかった。思った以上に、この状況を受け入れている自分が。一番驚きではあったからとも言えた。
どうなるのかな、これから。そんな不安だけ残して。この部屋にただ居ろと、そういう事なのかなと。折檻とかそういった事をされやしないかと、そういう面の恐怖に怯えていたけれど。
その日は、大人しくしているだけで。終わった。食事も何も運ばれるわけでもなく。暗くなっていく風景を。グラウンドから、やがて人の姿が消えていくのを。観賞して終わった。楽しいとは感じない。
薄暗い室内。電気をかってに付けていいのかもわからず、月明りだけを頼りに。誰かが使った形跡がある二段ベット。上の段を覗けば、そちらは綺麗なままで。誰も使っていないようであったから、そっちの方へなら後で咎められないかなと思い。靴を脱いでから寝転ぶと。空腹を意識しないように、眠った。
ガルシェ、心配してないだろうか。書置きを残したから、大丈夫だと思うけれど。ちゃんと、晩御飯食べたかな。それだけが、一番気がかりだった。自分の置かれた状況よりも、ずっと。
鳥の囀りが聞こえて、それで目が覚めて。起き上がると、天井が思った以上に近くて違和感。無意識に起き上がった勢いのままいつもの感覚で頭をぶつける心配は、天井自体が高いから大丈夫だったけれど。そうだった、今は二段ベッドの、それも上の段に居るんだ。いつもと違くて、慣れないな。
布団もなくて、そんな状態で寝たからか体温が下がっている。マットだけあるからマシではあったけれど、それも硬いから。身体が凝ってしまっていた。半年ぶりに、一人で寝たんだな。意外に寝られるものだ。記憶がない状態で目覚めて、そこから常にガルシェが傍に居た状況が続いたから。ある意味、生まれて初めての独り寝とも言える。そう考えていると、くしゃみをしてしまう。起き上がったままぼんやりしてるけれど、身体が思った以上に冷えていた。いつも、とても温かい毛皮の塊が傍にいるから。寒さで震えた経験がなかった。隣に手を滑らせても、だいたい僕より早く起きる事がない彼は当然寝ては居ない。
どうやら、季節は思った以上に巡り。冬に近付いてるらしい。そうなると、僕の服装は薄着と言えた。ベッドから抜け出すと手始めに、軽くストレッチをして。筋肉を解す。寒さを紛らわしたいという意図もあった。そうしていると、もう既にグラウンドには人が居たらしい。朝日が出た段階で、彼らの訓練は始まっているのだった。思い描いていたよりも、厳しいのかもしれない。軍隊っぽいと感じていた心象は、それ程間違いではなかった。
一夜明かしたからといって、それで何かあるわけでもなく。起きたから、目についた椅子に座って。ただ誰か来るかなと待ってみても。時間だけが経過して。別に朝食を用意されるわけでもなく、時計の針だけ動いて、真上を示す。お昼だった。もう二十四時間、お腹に何も入れていないと意識すると。余計空腹を感じた。もしかして、このまま餓死させる気だろうか。というより、忘れられてると言った方がしっくりくる状況ではあった。
餓死させたいなら、縄で縛ったり。身動きを封じるべきだ。この部屋から、普通に廊下に出て。トイレにも行けるから。その線は薄い。暇潰しにと、外の景色を眺めていると。時折廊下の前を通る誰かの気配。その一つが、扉の前で止まったから。意識を窓から、室内へと向ける。
そうするとノックもなしに扉が開かれて、もし、訪ねてくるのなら。三人の内誰かなって。一番来て欲しい人と、そうではない人、その答えはすぐにわかった。所長呼ばれていた、一番来て欲しくはない人ではなかったけれど。市長さんが、そこに立っていた。今日も、眉間に皴が寄ってるなと。その顔をただ見つめていると。断りもなく入って来る。僕の部屋ではないから、それも当然か。
「おはようございます、よく眠れましたか」
今日も、比較的綺麗に整えられたスーツを着た相手に。どの口がと思いかけたけれど、朝まで一度も目を覚まさなかったから。よく眠れたのは、同意できるなと。そんなひねくれてるのか真面目なのか自分でもよくわからない思考をしていた。
「貴方をここに呼んだのは、私ですよ。昨日は時間が取れなくて、戻れませんでしたけれど。ここで生活してもらいます。ガルシェには、私から言っておきました。安心してください」
本当だろうか。正直疑わしいけれど、この人が僕にわざわざ嘘をつくメリットも見当たらなかった。それにこれは自惚れでも何でもないが、あの銀狼の性格を考えると。何も言ってなければ何をかってにと乗り込んで来そうだ。何気に彼は直情的な。むやみやたらに暴力を振るうわけではないけれど。不快さを隠したりはしない。だというのに、こうして何事もなく朝を迎えたという事実が。そうであると説得力があった。それで、納得したんだ、ガルシェ。そっか。そっか……。
僕の反応が薄くて。納得がいかなかったらしい。市長さんが目と鼻の先に近づいて来る。だから、しっかりと向き合い。見上げて、その瞳を見つめ返すと。やっぱり、琥珀みたいに感じるその目まで。似てるんだなって、場違いにも感じて。
「今日から、私が貴方の。そうですね、飼い主です。異論は?」
それをした理由を言う気はないのか。ただ、結果だけを突き付けられていた。実の息子であるガルシェにも、相談を日頃からしているふうではなかったし。これがこの人の、性格なのかもしれなかった。それでまかり通る、権力を持っているのだから。たちが悪い。
「ありません」
あっても、それを言う権限自体。僕には微塵もないでしょうと。あるのは、ただはいと機械的に頷くのを要求されていて。あまりに素直な僕が気に食わないのか、見上げて無防備に晒されている顎に。男の手が添わされる。少し顎を持ち上げられて、より角度がきつくなり首が痛んだ。表情には出してやらないが。怖くないと言えば嘘になるが。この街で、ずっと怖い思いをしてきた僕は。それで怯む程ではなかった。
無言の睨み合いが続いたけれど。だからと、それ以上。別に危害を加える気もないのか。そっと顎から、市長の手が離れた。新しい飼い主と自分で言うのだから。精々世話して貰わないといけないなと。そんな邪な考えが巡る。だから、お腹を軽く。これ見よがしに擦りながら。さも、困り果てたと。そんな顔をして。
「その、お腹すきました」
そう言ってやった。狼の眉が、僕の言葉で反応を示して。それ以上表情は変わらなかったけれど、それで尻尾の先が少し揺れたのを僕は見逃さなかった。飼い主なんでしょ。ペット様が空腹だぞと言ってみたけれど。怒るかな。面の皮厚く、それなら衣食住を提供する義務が発生するぞと。遠まわしに、昨日夕食を食べそびれて。放置された腹いせに。そう言ったのだった。
黙ったままの、市長の口が重く開く。腕組みして、見下ろされ続けるのは居心地が悪い。
「貴方、思ったより図々しいですね」
迷惑をかけるのは得意だからなと。内心ほくそ笑むが、まるでかっこよくないし。言いたい事がそれかよと、ガカイドが聞けば情けないと馬鹿にされそうだ。そうは言っても、力で敵うわけもないし。か弱い人間だから。これくらいが限界であった。ほら、ご主人様。嘆息した自分よりも大きな相手に対して。これには笑みを隠さなかった。愛想は大事。
着いて来なさいと、市長さん直々に学校の中を案内されて到着した場所は。どうやら目に入る器具や家具からして、元は設備的に学食を提供していたらしい。なるほど、職員の人は皆ここで食べているのか。食べたら、自分で部屋に戻ってなさいと。そう言われたら、仕事に戻るのか。市長さんは僕を監視するでもなく、早々僕から離れてしまった。放し飼いってわけか。忠誠心なんて微塵もないから、この灰狼の元へ帰属本能なんてないのだけれど。命を握られているから、目に見えないリードと首輪はありそうだった。
何気なく、首を擦る。狼の歯形は、薄れているそこを。見えるような場所は止めて欲しいな。発情期の彼は、噛み癖が酷いと思う。本能的にやってしまうようであるが。最終日、せっかく用意した口輪も。僕が居なければ。もう、使う機会訪れないであろうか。
「せっかく食堂に寄ったならちゃんと食べてください」
「必要な栄養は取ってます、私は忙しいんです。急を要する場合じゃないなら、後にしてください」
話し声がして、カウンターでどうやって注文するのかなと。他の人の動きを眺めていた僕は。それで振り返ると、立ち去ろうとした市長さんと、それを呼び止めた別の大人のレプリカントの人が多少言い合いしていた。それも、一方的に市長さんが打ち切り歩きだすと。それ以上は追いかけるでもなく、ただ頭を抱えて。立ち尽くしていたけれど。
僕の目線に気づいたのか、市長さんに声を掛けていた人の顔がこちらに向く。そのまま近づいて来るから、見てませんとそんなふりをする暇さえなかった。近づいてくると、また首が痛かった。それもその筈だ。この街で、たぶん誰よりも大きかっただろうから彼は。大型肉食獣の虎の顔をしている。その人。ガルシェが倒れた時、助けに呼んだ。医師の人だった。ガルシェも先生と、そう呼んでいたけれど。
二日連続で、猫科の人に縁があるなと思った。ただそれよりも、言わなくちゃけない事があった。次の日にでも、挨拶に伺うべきだったけれど。あの後ずっとばたばたしてたし、忘れていた。
「あの時は、碌に礼もできず。ありがとうございました」
「いえ、大事なくて良かったです。どうやら、お互い相談して解決したようですね」
彼を直接診断した人だから、原因を察しているのか。そう言われてしまう。解決したかは、正直そうであると自信を持って返事できなかったから。はいともいいえとも言えず、曖昧な表情だけで返事するしかなかった。でも、僕があの家にいない方が。そのリスクも発生しないんだなと、虎の先生と話している最中で気づいてしまった。僕が原因で、そうなったのなら。
どうやら、この虎の先生も休憩時間を利用して。食事をしに来たらしい。それにしても、相変わらずでかい。僕からするとガルシェも身長が高いけれど、二メートルを優に超えているその背丈。目測で二メートル半はあると思うその身体に窮屈そうに、一応羽織った白衣が可哀想だ。そんなに、筋肉は必要ないと思うのにと感じたが。痛みで暴れる患者を押さえるのはかなり力がいるんですよと。そうおどけて虎の先生は力こぶを作って見せられた。ああ、なるほど。ガルシェみたいな筋骨隆々な人が暴れたら、確かに大変そうだ。特にこの学校に在籍している軍服を着用しているような男の人は、皆例外なく鍛えているのだし。
どうやら、どうやって食事を注文するシステムなのか。初めて訪れた僕がわからないのを理解したのか。人である僕を気にせず連れて、一緒にカウンターに近づいてくれる。そのまま注文する様子まで実演して。料金は発生するのか、そういう心配も。ここに務めているなら、よっぽど食い過ぎなければ無償で提供されてるらしい。いや、僕は勤めてないけれど。人間である僕がここで働いていないのは周知の事実であったから。注文を受けた人は僕の分を出すのを渋っていたけれど、市長のツケだと虎が言えば、受付の人もそれで納得していた。権力って凄い。若干、虎の先生の圧が強かったのも、あったかもしれなかったが。
何より幸運なのは、こうして。知り合いと巡り会えた事だろうか。僕を邪険にしない、分け隔てなく接してくれるような人、という条件を満たした。開いてる席へ、向かい合って座ると。僕と虎の目の前に、あれよあれよと、食事が運ばれてくる。僕が頼んだのは、一つだけ。殆ど、虎の先生が食べる分であった。この医者、どれだけ食うのと。呆気に取られていると、せっかく温かい料理が冷めますよと。そう言われてしまったのだった。みるみる消えていく料理、それに対して見た目はお上品に食べている気がするのに。それでも、食べるペースが速い。よっぽど食い過ぎなければ、そう注釈していたのは虎であった筈であるのだが。これは、何も言われないのだろうか。他に食事をしている人も、一度もこちらに関心を示さないし。もしかしたら、日常的な光景なのかもしれなかった。身体の大きさが、胃袋の大きさだろうか。
「市長さんって、どんな人なんですか?」
この建物で、唯一。それ程気兼ねなく質問できそうな人であったから。新しい飼い主である、あの灰狼の事を聞いていた。この街では有名な人であっても、これまで僕とは関わりのない人ではあったから。何も知らないのだった。ただ、凄い人なんだなって。ぐらい。後、厳しい人なんだろうなって。ガルシェと会話していた姿から。
いけない。何かを考える時。すぐガルシェが出てくる。
僕の質問に、食べる手を止めて。ナプキンで口元を拭いていた虎は、暫し思案顔をして。ただ一言。
「仕事命、でしょうね」
目線を、どこかへ向けながら。そう言っていた。あ、うん。そうですね、そんな感じがしますと。相槌をしていた。二言目には、忙しいと口にしているような人であったし。それは、そうなんだろうなって。聞けたのは、何も知らない僕でも。感じていた事だった。
「ガルシェ。息子さんが産まれて、番が亡くなる前までは。あれ程酷くはなかったのですが、彼も」
気にかかる事を、言いかけて。そこで、廊下から虎の先生を呼ぶ人の声がした。それに、慌てて、これには行儀悪く口の中へと残っていた皿の上の物を押し込めると。詰め込み過ぎてだろうか、喋れないからと手を合わせて、ごめんねと仕草で伝えながら。早足に自分の食器を返却スペースに運ぶと、駆け足で廊下の方へと向かっていた。慌ただしいけれど、恐らく急患だろうか。手短に話を聞くと、呼んだ人を連れて黄色と黒の縞模様がある巨体も視界から消えた。
気にはなっても、答えてくれる人がもう居ないんじゃ。どうしようもないなと、半分程残ってる自分の食事を食べ終えると。同じように、食器を返却スペースへと運び。受け取ってくれた職員の人にごちそうさまですと。それだけ告げて、僕も食堂を後にした。ちょっとだけ、その時耳に入ったのは。やはり断水のせいか。調理をしている人の愚痴だった。予想通り、かなり街全体に影響が出てるんだな。
そう思っても、僕にできる事なんてないから。向かうのは、一応与えられた埃臭い書類の山があるあの部屋で。逃げる気は、なかった。たぶん、この学校の敷地内から出なければ。何も言われないような気もしたが、用もないのに部屋から出ないに越した事はないであろうし。もしも、所長に鉢合わせたらと考えると。避けたかったのもあった。この学校で働いてるかどうかはわからないけれど、その可能性は高いとも言える。後、職員さん達から寄せられる久しぶりに多く感じる好奇の目線も鬱陶しいと思うのもあった。
だから、部屋に戻って。扉を閉めた段階で、自然と息を重く吐いていたのだと思う。吸い込んだ息が、あまり好ましくないのもあるが。許可は貰ってないけれど、控えめだった昨日と違い窓を全部開けて換気する。そうすると、外から吹き込んだ風で。毛と、埃と、それと数枚書類が舞った。見てもわからない物ばかりと思ったけれど。色褪せたファイルが混ざっていたから、何となく手に取れば。どうやら、この街の事じゃないらしい。分厚いファイル、側面にしっかりと。内容を示す、文字があって。掠れているけれど、これが外から持ち運ばれたのは痛み具合から感じられた。ただ、それよりも、その名前に目が離せなかった。
――レプリカント計画。そう、書かれていたから。彼らの出生に関わる事であるのは、確実であった。こんな重要そうな物が、この部屋に無造作に置かれているのも驚きであった。けれど、よくよく見渡せば。ガルシェの家から持ち去った荷物が部屋の隅にあったから。もしかして、ここは市長の部屋であるのだろうか。そうであるのなら、一応は納得できてしまうけれど。もっと厳重に管理しても良い気がしたが。盗まれる可能性も、隠す必要もないのか。それとも。中身を見てしまって良いだろうか。幸い、僕一人しか今はこの部屋にはいない。机の引き出しに、鍵をかけて仕舞われていたわけでもない。開いてみると、中身は。形式ばった機密文書とかではなく、どちらかと言うと。誰かの日記めいていた。日付から始まり、その日起きた実験結果をただ書き連ねて。次の日と。著者の人はとても几帳面な人なんだな、特に何も起きなくても。一応毎日つけているようであった。目を通している途中で。突然横開きの扉が、ガラガラと音を立てて開いたのを耳にして。だから思わず勢いよくファイルを閉じる。かってに見ているという、やましい気持ちがそうさせた。そのままの流れで背に、ファイルを隠すと。廊下には、扉を開けた。市長さんが居て。僕の変な挙動を見て、訝しんでいた。
「……何をしてるんですか、貴方は」
何もと、慌てて首を振るが。たぶん何かを見ていたのはバレバレであっただろう。それでも、僕に用があるわけではないのだろうか。後ろ手に扉を閉めながら早足で、部屋に入ると。片手に持った書類をそのまま、先ずは部屋の隅にある机へと放って。それから、僕の方へと向かって来た。手のひらを上にして、こちらへと手を差し出すから。無言で、持ってる物をよこせと、そう示されてしまった。そこまでされると、隠しきれていない。後ろ手に持っているファイルを、おずおずと差し出す。それを受け取ると、灰狼は。それが何か、確かめているようであった。でも、だからと。叱られるような事はなかったが。
問題はなかったのか、元あった場所へと戻さず。僕の手元でもなく、机の上に放っていた。物の扱いが雑だなと、その動きを目で追いながら。内心、ほっとしていた。見ても良かったのかと。ただ、それで部屋から立ち去らず。持って来た書類を置いた机に向き合うと、そのまま椅子に腰かけて。事務仕事を始めてしまったから、市長さんの傍に置かれたファイルをまた手に取り。続きに目を通そうかなって、そんな度胸はなかった。
部屋に、カリカリと。ペンを走らせる音が響く。そう間を空けず、机の引き出しを引く音がして。何を取り出すのかなって。手の動きを目で追っていると。中から、使い古した眼鏡を取り出していた。それをそのまま、マズルの上にちょこんと載せると。耳に引っ掛ける部分、モダンだっけか。その部分に紐が括られており、それはそのまま反対のモダンに繋がっていた。頭の後ろに緩く引っ掛けると、位置に違和感があるのか。頭の上にある、獣の耳がなんどか動いていた。見るからにフレームの形も人用のであるのだろうし、そのままだと落ちてしまうから苦肉の策だろうか。
狼の顔に、人用の眼鏡を掛けたスーツ姿の男。白髪のせいで銀色を損なった為に初老にも見えるし、ただ実年齢のわからない。そんなレプリカントの男性は、また書類と向き合うと。再度ペンを走らせる。その様子を、別にする事がない僕は適当な場所に座ると。実際に仕事をする銀狼の父に当たる人の背を見ていた。ガルシェと、この人、血が繋がってるんだよなって。狼の後頭部に穴が開くんじゃないかってぐらい。暫くすると、目元を指で抑えて。呻き声を出して、また書類仕事に没頭する。それを繰り返してるのを。頻度が多いし、四度目ぐらいから僕の中で湧いて来た疑問。眼鏡の度数がもしかして彼の視力と合っていないのかなとか。そんな事を思いながら。
やがてひと段落したのか。眼鏡を大切そうに引き出しに仕舞うと、それで。書類を纏めて、机に整える為かトントンと軽く打ち付けて。僕を居ないものとして扱うようであった。こんなに見つめているのに、一度も振り返らないのがいっそ清々しい。そのまま、出来上がった書類をどこかへと持っていくのか。立ち去るその姿まで、人間の目線がずっと追いかけてるのも。きっと気づいているだろうに。
扉を開け、また閉めて、姿が見えなくなった途端。立ち上がり、先程彼が腰かけていた机に近づく。かってに机を物色する。期待していた、レプリカント計画と書いてあったタイトルのファイルはなかった。どうやら、一緒に持って行ったらしい。残念だ。という事は、やっぱり僕の目に触れて良い物ではなかったのか。今の所、市長さんから受けた印象からすると。であれば、怒られてそうなのに。
一番気になっていた物がなければ、次に僕の気を引いたのは。机にある引き出しで。そうすると、先程彼が使っていた眼鏡をそう時間がかからず発見した。物珍しかったのもあった、この街でそんな物を使ってる人自体。見かけた事がなくて。試しに、特に目が悪いわけでもないのに僕も掛けようとして。止めた。視界にレンズ部分が被さった瞬間。あまりに、度がきつかったのもある。慣れない目に痛みを感じたからだった。
もしかして、裸眼の時。ずっと眉が寄って不機嫌そうなのって。目が悪いから、遠くを見ようとして。とか? まさかねと、普段使いには向かない。度がきつ過ぎる眼鏡を。元あった場所に、そっと戻す。物色している間、不意に戻って来やしないか。内心そわそわしていたけれど。懸念とは裏腹にそれきり、市長さんが戻って来る事はなかった。
たぶん、ベッドの一段目は。彼の寝床だと思うのだけれど。もしかして、あまり寝にも帰ってこないのだろうか。暗くなったら、寝るだけの僕は。二段目のベッドに上がる為に。梯子に足を掛けながら、視界に入った昨日と変わらない乱れ方をしたシーツを見て。そんな考えが過る。僕が、彼の心配をする筋合いはこれっぽっちもないのだけれど。
夜ご飯を食べに行く選択もあったが。一人で食べるのも、その間じろじろ見られる心労も考慮すると。今日一日動いてないから、十分かと。それはしなかった。都合よく、昼間みたいに虎の先生に会えるとも限らない。
冷たいベッドに横になれば。思い出すのは、いつだってガルシェの事だった。毛布すらないから、余計に彼の温もりを意識させられるのだと思う。マットの上で、身体を丸めながら。寒さに震える。換気の為に開けていた窓も、もう閉めたというのに。部屋の温度は下がったままだった。こんな時、彼らのように毛皮があればなと。そうすれば、同じ種族なら。人の目も気にせず、こうして寒さもまだマシであったろうに。
サモエドのおばちゃんの元で、仕事させて貰っている時。その通う道中だって一人であったのに。勇気をくれていた人がいなくなった途端、その時は気にしないでいられた人の目線が余計に煩わしくなるなんて。
プレハブ小屋のあの家と、そう断熱具合は変わらなさそうなのに。こうも、寒く感じる別の何かがあった。アーサー、ちゃんとご飯貰えてるかな。ガルシェって、結構忘れっぽいし。あげるの忘れて、その狼の顔を蹴られたりしていないだろうか。僕がいなくなって、丸一日が経って。訪ねて来ないのが。ちょっとだけ悲しかった。
そうやって、僕の事も。いずれ忘れてしまうのかもしれないと。そう暗闇の中で、自分の二の腕を擦りながら。だって、別に彼は。この学校に普通に来れる筈だったから。顔ぐらい、見に来てくれてもいいだろうに。彼が顔を出さないのが、お前の存在などその程度でしかないと。誰かに言われてるような気がした。一緒に暮らして、深まった見えない絆は。幻想で。僕だけがかってに抱いていたまやかしであって。ガルシェにとっては、本当に取るに足らない。ペットでしかなくて。愛着なんて。いや、彼の性格を知っているのだから。そう思うのは彼が僕にくれた優しさに対する侮辱でもある。この思考は心細さがそうさせた。肌寒さが。そうさせたと、言い切れるのだろうか。こうして、一人になって。彼との日常を俯瞰すると。そうだと、ただ僕が思いたいだけじゃないのかと。悪い方向ばかりへと、考えてしまうのは悪い僕の癖だった。そうわかっているのに、止められないのだから。身体が痒い。お風呂入りたい、もう入れなくて何日経っただろうか。一人は寂しい。ガルシェ。ガルシェ。
心の中で名を呼んでも、答えてくれるわけもないのにな。隣に誰もいない、マットの感触を感じながら。
「おやすみなさい」
習慣付いているから。昨日寝る前には言わなかったけれど。試しにそう言ってみても。部屋に虚しく僕の声が響いただけだった。返事してくれる人は、居ないのだから。それで返事があれば、心霊現象であるけれど。
言えば、寝られると思った。思考ばかりかってに動いてしまうから、今日は寝難いとも思ったから。だから、目を瞑って、少しして寝返りをして。足先を擦り合わせる。自分のにおいも、銀狼のにおいもしないから。安心感は得られない。彼らみたいに、人間である僕はそこまでにおい情報でコミュニケーションをするわけではないから。それに重きを置いていないのに。今は、彼の体臭が感じられないのが。目を瞑って世界を視界から遮断しても、五感の内、視覚を封じても、嗅覚が訴えてくる。聴覚も、僅かに聞こえる寝息もない。僕の呼吸音だけ。
寝られないまま、真っ暗な中でまた寝返りをうっていると。静かに開けられる引き戸、それでもローラー部分がそれなりな音を立てていたけれど。時間帯からか、昼間よりはその音は小さかった。人が入って来る気配。足音と、そして服を脱いでいるのか。布が擦れ合うのが聞こえる。薄目を開ければ、机の小さなライトを付けたのか。二段ベッドから下がほんの少し明るかった。部屋の電気は付ければ、もっと明るいのに。見えない誰かは、僕が既に寝ていると思っているから気を遣ってくれているのだろうか。それが誰かなんて、この部屋の主以外ありえないのだけれど。
紙を捲り、ペンがその上を動くのが。誰かの呼吸音に飢えていた聴覚から、人は相手が何をしているか状況を読み取る。時間は見えないけれど、もう真夜中もいいところだろうに。また仕事してるのか。寝たふりをしながら。そんな事を思った。寝に帰って来たと最初はそんなふうに思ったけれど。どうやら違ったようだった。
部屋に誰かの存在を感じて、心細さはなくなったけれど。こんどは逆に、物音が気になって寝れなくなっていた。あのまま、もう少し一人であったなら。寝られたかというとそうでもない気がしたけれど。いったい、いつ寝ているのだろうか。あの人は。
そんな疑問も、途絶えた音で払拭する事となる。あれ、と思い。寝たふりをしていた手前、物音をこちらはさせないように。ほんの少し身を起こし、二段ベッドの上から。顔だけを出す。耳の良い異種族の彼らであるから、どうなってるのか覗いた途端。目が合ったりしたら恐ろしいけれど。ただ、灰色の狼が。ぼんやりとしたスタンドライトに照らされて、机にうつ伏せになって動かない姿がそこにあった。握っていたであろうペンが、手の中から抜け出し。書類の上に転がっている。まさか、倒れたのかと思ったが。肩が緩やかに上下しているから。呼吸は安定しているらしい。となれば、恐らくは。
「寝落ち?」
つい、そう小声ではあったけれど。声に出してしまったから、慌てて口を手で押さえる。出した音は、それでなかった事にはできないけれど。それで灰狼が起きるような事態には陥らなかった。這い出して、梯子を静かに降りていく。最後の段でギィって、そんな軋みを梯子はさせたけれど。それでも起きない。限界まで我慢していたのだろうか。
そんな背を見つめれば、今はスーツの上は脱いだ後なのか。中に着ていたシャツだけとなっていた。ちょっと視線をズラせば、書類の山を隠すように上着であるジャケットと、その上に解かれたネクタイがあった。皴になるなって、気になった僕は。それを拾うと、ハンガーを探した後。壁の引っ掛けられる出っ張りに吊るす。これで良し、そう思って一人仁王立ちして納得していたけれど。いったい、何をしてるんだとふと我に返った。ついつい、ガルシェとの暮らしで。世話を焼くのが癖になっていた。あの銀狼も、服をどこでも脱ぐし。
やってちょっと後悔。今からでも、スーツが皴になるようにご丁寧に元の位置へ戻すべきか。横目に狼の寝顔を見れば眉間に皴が寄っていて、寝ている時まで不機嫌そうだった。ちょっとだけ、その眉の部分が解れないか、試しに触れたい衝動に駆られるけれど。そんな事したら、秒で起きそうだと我慢する。今もいつ起きるかわかったもんじゃないのに。
普段見慣れてる寝顔と比べてみて。あの銀狼は、目つきが悪いけれど。寝てる時は可愛らしいぐらい、安らかに寝てるけれど。一度寝ると、起こそうとしてもなかなか起きないし。血を受け継いでいるとは思えないぐらい、その寝顔は違っていたのだった。母親似、なのだろうか。
どうして、そこまで頑張るのだろうか。寝る間も惜しんで。市長、だからだろうか。立場がそうさせたのだろうか。こんな姿を見て、ただ連れてこられただけの僕に。どうしろって言うんだ、特に誰も問うてはいないけれど。覗き込んでいた姿勢を戻して。椅子から納まらず、垂れ下がり床にまで達してる大きな尾を踏まないように避けながら。そうしたら、一度、寝落ちした狼へ振り返って。
そうやって、最初と同じように。音を立てないように気を遣いつつ。二段ベッドに戻る。僕が一度こっそりと降りたせいで、変わった事と言えば。スーツのジャケットが放置されておらず、壁にちゃんと掛けられている事と。追加でもう一つ。
シャツ姿で寒そうなその背に。毛布が一枚。追加された程度だった。二段ベッドの下の段部分、恐らく彼が寝る場所だったそこからかってに拝借した物であった。対して僕は、やっぱり何も身体を覆わず。二段ベッドの上の部分に寝転がるだけだったけれど。満足感があって、寂しさで寒がっていた心だけは。今は温かかった。
別に、あの灰狼自体は。どちらかと言えば、その人の事を好きか、嫌いか。その括りで言ったとしたら、マイナスに近いのに。そのまま放置して、もう一度寝ようと努力する事は。どうしてもできなかった。お節介な僕からすると。
丸まって寝転がると。あれだけ寝られなかったけれど、二度目の挑戦では。不思議と先程のが嘘のように睡魔がやって来た。あんなに寝られなくて、寝返りを意味もなく繰り返していたのが何だったのだ。感覚的にはちょっとだけ目を瞑って、意識が一瞬途絶えたなって感じて。次に目を開けたら、周りが明るくて。朝になっていた。
睡眠時間が少ないせいか、あの銀狼に比べて朝には強いのに。珍しく意識が覚醒してもまだ眠いと感じる。目を擦りつつ、ダルいなって思いながら身を起こせば。自分の身体から何かがずり落ちるのを感じた。そう思って、下半身を見やれば。心当たりのない毛布。でも見覚えがあって。
そのまま、昨日はそこに居た筈の灰狼を探すけれど。椅子が引かれたまま、今は影も形もなかった。昨日僕が掛けた毛布も、彼が持ってきて仕事してた書類も。毛布は、最初あった位置にあるのかなと思っても。下の段を覗き込んでも、そこにはなくて。とすると、今僕に掛けられているのは。
朝の早い時間だよねって、時計を見て。確認して。そこでくしゃみ。やっぱり、朝はさらに冷える。雪降るのかな。雨が少ない土地だから、雪もあまり降らなそう。地下水は豊富みたいだから水不足自体はないけれど。それも、ろ過しなければ泥水だから飲めないのが。
梯子を降りながらそんな事を考えていたのがいけなかったのか、そう多くない梯子で踏み外して。一瞬転げ落ちそうになる。咄嗟に掴み直したから、怪我とかはしなかったけれど。何だか身体が普段よりも重い。額に手を当てて、平熱であると。体感も加味して判断して。これは今日も大人しくしていた方が良いな、元々外出して良いかも聞きそびれていたけれど。行く当てもないが。最近、本当に引きこもってばかりで身体が鈍ってしまう。サモエドのおばちゃんの所で働いていた時は、もっぱらお会計で、後は立ってるだけが多かったけれど。少ないとはいえ、それなりに食べ物とか食材を運んだりといった事もするから。家事だって、わりと動くから体力がいる。このままだと、ただでさえひょろい自分が。最低限の筋肉まで落ちて、ただのガリガリの骨になりそうだ。
それで、この部屋で腕立て伏せとか。筋肉がこれ以上落ちないように、わざわざ筋トレとか努力したりする気骨なんてあるような人間でもないけれど。
暇潰しになりそうな物でもないかなと、書類の山を漁れば。失った技術を取り戻そうとしてか、報告書とかよりも。そういった参考書めいた物が多かった。古く、劣化し。物によっては焼けて殆ど読めない本から、書き写す途中らしき。そんな本と、紙の痕跡すらあって。文字が擦れて、本自体はそこまで損傷していなくても。肝心な部分が読めないといったものも。
そんな中でも、復元した資料を使って。ここまでこの街は文明を取り戻して来たのだろうか。違う本を手に取っては、ページを捲りつつ。そんな事を思う。その恩恵に少なからず、僕もあやかっているのだから。逞しいな、人って。僕が目覚めたあの廃墟ばかりの都市部では、もうどこも機能しなさそうで。直せそうなんて思えないのに。今僕が暮らしてるユートピアと呼ばれるここは。自分達の手で、完全とはいかないまでも。水道だって、電気だって、使えてるんだから。そりゃ、パソコンとか見かけないし。僕の記憶と照らし合わせると、再現するには足りない物ばかりであったけれど。
だけど、けれどもだ。こうして、資料を見ていると。まだ実現できていない、事の方が多いのだなと。計画書まであって。それは、もっと大きなろ過施設の建設だとか。街全体のさらなる発展。壁の増設、畑が作れる土地の確保。畜産の幅を広げる。問題ばかり、解決しても次から次へと。せっかく作った真新しい手書きの資料は、大きく赤ペンでチェックが入れられて。一度丸めたのか皴がついていた。考えても、無理だと判断する方がずっと多いのだろうか。人材も、資源も、何もかも。本当に足りないのだろう。赤文字で、下の方に再現不可能と追記されているのも。重機の絵があった。スケッチだろうか、誰が見てもそれがショベルカーだとわかるぐらい。市長さん、絵が上手いな。修理に必要な部品、なし。一部機材に、担当の者がまだそれが何か、修理自体が知識不足で試みる事ができないといった。そんな事が書かれていた。それは、そうだろう。ここには、そんな専門的な職業訓練所とかない。半導体だって、作れないだろう。設備もなければ、必要な知識も欠落している。そんなものを持った、人間って。今でも居るのだろうか。僕も、車とか、テレビとか。どう使うかは知ってはいても、一から創れるわけではない。機械知識なんて、プラスとマインスがどうとか、電池が直列と並列でどうだとか。低レベルな、発展にはまるで役に立てそうもない。
表面的な部分でしか、知らないんだなって。それって、この半年。一緒に暮らしたガルシェでも、そうなのだけれど。本音を聞くのが怖いから、どうして僕を匿ってるのか。ずっと聞けないままで。聞けないのをそのままに、こうして離れてしまった。
人間に近い知性があり、暮らしはとても似通ってる。社会性も、参考にしているのだろうか。となると、やはり疑問になるのは彼らはどこから来たか。手掛かりとなる例のファイルは取り上げられてしまって、辛うじて読めた部分は前半もごく一部で。著者の人がしたためた内容的に何かを研究してるんだなってぐらいだった。
なら、彼らは。人間が。考え事をしていると、やけに廊下が騒がしいのに気づいた。引き戸に設けられた磨りガラス越しに、人型のシルエットが一方方向へと。駆け足で通り過ぎて行くのが見えた。何だろうか。手に持っていた、食料不足を訴える報告書を机に元あった場所に置いて。窓に近づく。当然こちらもそのままでは、外がぼんやりとしか見えないから。少しだけ開け、様子を窺うと。訓練していた筈の人達まで、中止して。どこかへと走っていくようだった。事件だろうか。にしては、遠目からでも辛うじて見えた彼らの表情は。鬼気迫るものではなく、どちらかというと。
人の気配が薄くなって、窓を閉めると。こんどは正反対の位置にある廊下へと続く引き戸へ。そーっと開け、顔だけ出して。左右確認。よし、誰もいない。見張りなんて元々立ってるわけではないから、こうも警戒しなくても良いのだが。雰囲気作りは大事だった。中腰で外へ出ると、素早く振り返り。静かに扉を閉める。落下防止か、基本学校の窓は全部立った状態だとお腹よりも上の位置にあるから。こうしてしゃがんだまま移動すれば、僕の姿は外からは見えない。長い廊下では、背後か、正面からだと丸見えではあったが。太い柱の陰にその時は身を隠せば良いかな。スパイ映画の真似事とばかりに、壁伝いに暫く歩いて。中腰のまま移動すると、思ったより腰が痛いなって。結局は数部屋過ぎた段階で普通に歩く事にした。人に見られたら恥ずかしいってのも、少なからずあった。
普段は職員の人が誰かしら居るのに、今はもぬけの殻だった。こうして、人の目がないから。ぶらぶらと歩いて探検していると。やっぱりそこそこ大きい学校だったのだろうな。部屋によっては、武器庫らしき部屋になってたりするから。もう生徒が授業を受けていた名残はなさそうで、扉も厳重に管理されているのか。扉の取っ手には大きな南京錠が二つもあった。小さいと、レプリカントの人達なら腕力だけでこじ開けられそうだ。
本来とは違う用途で使われているこの建物を、目的もなく徘徊するだけで。そこそこワクワクする。娯楽に飢えていたから、見るだけで面白い。この部屋は鍵が掛かっていないのを確認して、扉を開けて覗き込めば。職員の部屋なのか。複数のベッドがあった。共同で寝泊まりしているのか。少し物が散らかってて、でもゴミが散乱してるわけではなく。丁度いい生活感があった。廊下の空気と混ざろうとしたのか、部屋からこちらへと、むわっとする臭いがして。扉を閉めた。どうやら、干してあった洗濯物の中にあった下着とかを鑑みるに。男部屋らしかった。凄く雄臭いし。バーベルが床に転がってたし。不在だからと他人の部屋に踏み入る礼儀知らずなわけでもないから。ガルシェと二人で暮らしてるだけで、それなりに大変でプライベートな空間なんてないのに。それよりも人数が多いと何かと大変そうだな。色々と。
部屋と部屋の間に。同時に複数人が通れる、大きな階段があったから。どうやらここから二階に上がれるらしい。ここは一階であるから、下へと降りるわけではなく。また別の通路になってて。違う校舎へと続いているようだった。二階はどうなってるのかなと、とても気にはなったけど。頭が重くて、これ以上歩き回るのは。しんどさの方が勝った。ああ、これってやっぱり。気分的には、もっと見て回りたいが。どうやら僕の身体の方が限界らしい。元来た道を戻ろうとして。振り返った瞬間。さっきまでなかった壁にぶつかった。布と柔らかさの中に、鋼のような感触が顔全体に伝わる。ゆっくりとした動作だった為に、それで後ろに倒れたりはしなかったけれど。ふらつきはして。どうやら僕が気付かない内に誰かが後ろから迫っていたようだった。服らしきものが見えるし。背後に立った段階で、知らず振り返ってお腹に衝突したらしい。なら感じた感触は、相手の腹筋か。
ふらついて、倒れると思ったのか。ぶつかられた相手は、咄嗟に僕の肩を掴んだ。力強く、太い手首。覆う真っ黒な毛皮。お礼でも、ぶつかった事による謝罪よりも。相手が誰か咄嗟に確認して。見上げた先。僕を見つめる獣の瞳。無表情な黒豹の顔があった。ただ、瞳の中にある瞳孔だけは。目が合った瞬間、細く変化していたけれど。未だに名前も知らない、黒豹の人だった。だとしたら、もしかしてかってに抜け出した僕を探して追いかけて来たのだろうか。身体が大きいのに足音がしなかったから、僕よりよっぽど潜入に向いているなって。先程そんな子供のごっこ遊びみたいな事をしてた僕からの感想。だから傍から見たら恥ずかしいなって、早々止めたのだけれど。この人がやったら、かっこいいかもしれない。軍服の迷彩柄も相まって。ただ、今日に限って言えば。彼の服装は軍服ではなく、随分ラフな格好だった。
ぼんやりと、見つめている人と。その人間の肩を掴んだまま、固まってしまっている黒豹。お互い喋らないまま、時間だけが経過していく。何か待ってるのかなって。纏まらない思考で。ああ、そっか。
「あ、すみません。ありがとうございます、大丈夫です」
ぶつかって、それと掴まれた肩の手。もう放して欲しいという意図もあってそう言った。黒い毛皮だから、白く長く横に伸びた髭が震えるとよく目立つ。僕の声が聞こえてるとは思うんだけど、反応があったのは。それから五秒ぐらい経った頃で。掴まれた、ガルシェと違い常に爪が出ていない。ちょっと丸みのある手が離れて。良かったと、油断していると。もう少しだけ持ち上がり、僕の額に片手が触れた。手が大きいから、視界まで隠れて。相手の顔が見えない。その代わり、ピントが合わないぐらいの至近距離にピンク色の肉球。ほのかに香る、レプリカントの人からは珍しい汗の臭い。
「熱があるようですが」
僕の髪を掻き上げていた、彼の手が離れると。落ちついた、声がする。職務中だと、ハキハキと喋っているけど。今は勤務外なのか。声量は抑えられていた。だから、今日は軍服を着ていないのかと納得して。いけない、また反応が遅れた。
「たぶん、風邪、だと思います。でも大丈夫です、もう部屋に戻りますから」
もしも追いかけて来たなら、先手にと。帰る旨を伝える。強引に連れ戻されたら、しんどいというのもあったし。そう言って置けば怒られないかなって。やはり、かってに出歩いては駄目だったろうか。そもそも、何も言われていないのだけれど。
「顔色も、少々赤いようですが」
黒豹の視線が、僕の顔から一切逸らされない。無表情なのも相まって、居心地が悪いけれど。どうしてこうも、見つめられているのか。それは合点がいった。僕の顔色が悪いからか。羞恥を感じて赤面したわけでもなく、確かに顔がちょっといつもより温い。どうやらじわじわと熱が上がっているようだ。今しかないと、大人しくしていようと思っていた矢先。出歩いたのは間違いであったか。でも暇だったし。頭の中で自分に言い訳をしながら、大丈夫と言い。相手の横を通り過ぎようとした。何を考えてるかこの人あまり読めないし、鍛えてる大人のレプリカントの男性に見下ろされるのは威圧感が凄いから。逃げたいという、草食獣めいた本能が働いた。相手、肉食の大型猫科動物の顔をしてるし。隣まで来たら、僕の進行方向を遮るように。彼の太く長い尻尾が鞭のようにしなり、ぽすりと胸を叩いた。結構思い通りに動かせるんだなって、その尻尾の動きを目で追っていると。僕の胸から離れていく。そして視界から廊下が消えて、突然天井が見えそうになって。背に、硬い感触がして。続いて、足裏から床を踏みしめている感触が消えた。
膝裏と、背を支えられて。腰や、片腕に相手の胸が当たり。そして、ずっと近い距離に。黒豹の頭があった。どうしてそんな所に、彼の顔が。そんな疑問が浮かんで。
「この程度の衝撃で倒れるのに。ぜんぜん大丈夫じゃないようですが」
無表情の顔に変化が、どうやらちょっと呆れてるようだった。そんな事ないと、動きたかったが。足を動かしても空中を蹴るばかりで。そこで、自分が姫抱きされている事に気づいてしまった。男の僕が、そんな状態になっていると認識すると。風邪とは別に、さらに顔が赤みを帯びていくのを自覚する。そんな僕の顔を見た黒豹の人が、ほらとばかりに肩を竦めて。かってに歩き出してしまう。
僕の意思を介さず、自動で視界に写る風景が横に流れて行く。密着していると、男らしい体臭が感じられて。抱えられて、支える為に触れている手の部分から。じんわりと湿り気が伝わった。非番なのに鍛錬にと、何か運動でもしていたのだろうか。実直そうだし。相手をよく知りもしないのに、そんなかってな偏見。揺れは思ったより少ない、しなやかな身のこなしが。足音の少なさも相まって、思ったより乗り心地というか、運ばれ心地は良かった。とある扉の前で立ち止まると。太い尾を使って、取っ手に引っ掛けると。引き戸を手も使わずに開ける。太い分、それなりに筋力がありこんな事もできるのか。狼の尾と違い、多機能だなと感心していると。どうやら、市長の部屋ではなく。さっき見た、共同部屋らしかった。複数の雄の臭いの中に、確かに。今僕を抱えている、彼のが混じっている気がする。人間の鼻は犬科のガルシェよりも、性能は劣るから。そうだと断じるわけもなく。ただ気がするというだけで。ただ、近くにバーベルが転がってるベッドに。黒豹の人が近寄り。そしてそのまま、自分のベッドであろう場所へと僕を静かに寝かせた。てっきり、市長の部屋へ運ばれるものと思っていた僕は。それで頭の上にクエスチョンマークを大量に出してしまう。漫画みたいに実際に出してるわけではなく、気分的に。
それに、迷惑だろうと。そんな考えもあった。非番らしい彼に、手を煩わすのは。寝かせたら、膝立ちでベッドの傍で僕を観察していた黒豹が。そんな不安と、困惑と、申し訳なさで眉尻を下げている人間の顔を見て。
「心配しなくても、市長から昼間は貴方の面倒を見るように仕事を任されています。明日から、ですけど」
だからと、何も自分の部屋に運ぶ必要は絶対なかった筈で。それだけ言うと、掛け布団を僕の身体に掛けてしまう。だから大人しくしていろとも、布団が示しているような気がした。僕が何か言う前に、立ち上がり。黒豹は部屋を出て行ってしまった。
どうしよう、かってにベッドから出て。市長の部屋に一人で戻るのも、もう手遅れで。それに、冷静に言われた内容を振り返れば。しれっと、明日から。そう言っていたから。内心、迷惑だとも感じている可能性もある。本当に表情があまり変わらないから。実際どう思われてるかは、わからないけれど。僕だったら、休みの日まで仕事はしたくない。これ以上、手を煩わすのは。でも、休みの日にまで仕事をさせるのは。あーでもない、こーでもないと。ちょっと霞がかりだした思考で。考えて、考えて、止めた。最後に、あーもうって。声も出して。意味もなく布団を叩いて。黒い獣毛が舞う。それで、普段から彼がここで寝起きしてるんだなって確信を得た。やっぽり、男臭い。この部屋。換気しちゃ駄目だろうか。それぞれのベッドの傍に、洗濯籠があり。脱いだ服や、使用済みのタオル等が入っていた。こうして、部屋の中で黒豹を待っていると。言っては何だが、僅かに性臭も感じた。市長の部屋は、埃と、煙草の臭いの方が鼻についたが。銀狼の初めて訪れた際に感じた、生ゴミの臭いがしないのは。マシと言えるけれど。ゴミ部屋凄い。ワースト一位が不動のままだ。それを掃除して綺麗にした僕もっと凄い。いろんな人の部屋を目にする度、ガルシェの掃除をできなさが痛感する。僕が居なくなって、大丈夫だろうか。寂しさで彼の事を考えているのに。最終的にはまるで、ちゃんと食べてるかとか。母親のような思考ばかりになってしまう。なんでだ。恐らくこんな思考になるのも家事を一任されていたせいだ。好きでやってたから良いのだけれど。
布団の上でうだうだ唸っていると、扉が開かれて。再び黒豹が現れた。彼の部屋だから当然なのだけれど。ただ、その手には。手で行く時にはなかった、ステンレス製のコップと、洗面器があって。洗面器の縁に小さいタオルが掛けられており。もしかしてと、帰って来た相手を、それをどうするのかなって見ていると。予想通り、並々と入れられた水にタオルを浸し。絞ると、額に置かれた。とても、冷たい。でも、そんな事よりも。今は断水の影響で、どうして。
「……水」
僕が無意識にそう呟くと、反応した黒豹の手。タオルを絞った際に、彼の毛皮は少々濡れて小さな棘みたいに毛先が立ってしまっていた。その行先は、枕元近くにある。小さいキャスター付きの机で。どうやら、そこに先程のコップは置かれていたようだった。それを手に取ると、自分で飲むわけではなく、僕の方へと差し出して来るから。僕の発言から、水分を欲していると勘違いしたようだった。慌てて違うと、手を振りながら。断水の状況で、飲み水は蓄えがあるだろうけれど。洗面器に並々と注がれた量は、節水を考えると無駄遣いも良い所だ。しかも、人間である僕相手に。
「先程。ろ過施設が復旧したと報告がありました」
机へと、コップを戻しながら。そう教えてくれる黒豹。僕は、それで驚きと、次いで喜びで安堵する。そうか、良かった。次に考えるのはこれで洗濯できると、家に溜まったあれこれで。そんな自分の主婦めいた思考が嫌になった。ガルシェが頑張ってくれたのだろうか。技術者の人も、当然尽力してくれただろうけれど。でも、一番に考えているのは銀狼の事であった。
てことは、もしかして。学校が騒がしく、そして誰も居なくなったのて。そのろ過施設が復旧したからだったのであろうか。
「皆、やっと水が使えると。仕事を止めて祝いに行きました。同室の者は元々昼間は出払ってるので、夜になるまで帰って来ません。安心して寝てて良いですよ」
補足説明してくれる、そんな黒豹に。それでも、非番の日に。ごめんなさいと。それだけ伝えたのだった。それに対しては、黙ってしまったけれど。もしかしたら、この人も。その場に行きたいかもしれなかったし。というより、この街の人ってイベント事が好きなのだろうか。自分の仕事をほっぽりだしてまで。僕の中の社会人だと、喜びはしても、そのまま仕事してそうだから。それだけ、皆、大変な思いをして。そして、重要なのだろうけれど。命に係わるのだし。僕の普通なら、数日そこら不便ではあるけれど。断水しても、それなりに何とかなるし。それも、起きたとしても家だけで。コインランドリーとか、補助してくれる施設なんていくらでもある。感じる重みが違うとも言えた。
「そっか。良かった」
静かに呟いたけれど。隣には、それで十分聞こえる距離に人が居たから。それで、獣の唸り声みたいなのが聞こえて。びくりと、身体が反応した。天井を向いていた頭を、横へと向ければ。当然、僕を見つめている黒豹の人が居て。その手は、自身の喉を軽く押さえていた。僕が唸り声に反応したから、誤魔化すように尻尾が彼の背中でメトロノームのように揺れる。
「まるで自分の事のように、嬉しそうな顔をするのですね」
「えっ、あ、はい。僕も、それなりに、困ってましたし。あの家で水が使えないとやっぱり不便で」
「……そうですか」
「そう、ですね。そうです」
そうですけど、何か問題がありましたかと。内心焦る。無表情な顔が、じわじわと迫ってるのもあった。興味深げに、表情を覗かれてるとしても。ベッドに寝転がってるから、逃げる場所もなくて。ただ、ベッドの上に乗りあがって来る程ではなかったから。どうやら、何もするつもりはないらしい。彼を怒らせたのかと、思った。あまり相手の考えてる事が、表情が読めないと。こうも、怖いのだな。市長さんは、常に不機嫌そうだから。それはそれで、怖いというより。この人めんどくさいなと思うのだけれど。会話する内容も、何だか上手く行ってるとは言えなくて。ガルシェとはまた違ったタイプの、無口な人だった。必要がなければ喋らないだけだけれど、彼は。ぶっきらぼうとも言える。その分、スキンシップは最近激しかったけれど。黒豹の人は、意図が透けないから。ちゃんと会話のキャッチボールが成立しているか不安になる。
「えっと、ずっと見ていなくて、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
「そうですか」
そうです、ですからどうか。ずっと見つめるのは止めて欲しいのですが。そう目線でも訴えても、ただ見つめ返されるだけで。どうやらどこへも、もう行く気はないらしい。突然用事を思い出してもくれそうにもない。正直居心地が悪いので、早急に止めて欲しかった。ここで休んでいろって事なんだろうけれど。全然心が休まらない。気になってしかたがなかった、特に人の目線を気にしてしまう僕のような人間では特に。もうこの時には、相手に迷惑だとか。そういった考えは消えていた。
目を瞑り、静かにしてれば。相手も寝始めたからと、安心して。その内これも止めるだろう。だから、気になる視線をあえて無視して。意識から除外する。見えなければいいのだ。だから呼吸を落ち着け、寝る体勢に入る。まだ明るく、別に眠気もないから。寝られるわけではないけれど。こうでもしないと、目を離してくれる気配がなかったから。
感覚的に、どれくらい経っただろうか。布団の中でもぞもぞと動いて、他人のベッドではやっぱり落ち着かないのだった。視覚を遮断すれば、聴覚に頼らざるをえないわけで。そうすると、自分のミスが浮き彫りになった。かの黒豹は、足音を立てない特技があった。聴覚では、彼が離れたのか、もう見てないのか。まるでわからない。目を開けて確認するべきだろうか。いや、でも。まだこちらを見ていたら、それは目線が合うわけで。そうなると、とても気不味い。呼吸音から探ろうとしても、気配を断つのが上手な獣は。人如き、さらには別に武芸に精通してるわけでもない僕では。そんな達人みたいに、心眼で状況を把握する等とできるわけもなく。
さすがに、もう見てはないであろう。そう思いたい。体感時間的に、長針が半分は動いていてもおかしくはないであろう。あまり誇れるものはないけれど。体内時計にだけは、自信があった。だから。薄っすら目を開けて、周囲の様子を確認して。勢いよく、寝返りをうち。このベッドは壁際にあるから、自然と僕の正面にはそれで壁が来る事になるのだけれど。
まだこちらを見つめていた黒豹の瞳と、ばっちり合ってしまったため。急遽体勢を逃げるように動いたから、そうなったのだった。なんで。なんでまだ見てるのこの人と、心の中で叫ぶ。しんどいと、寝ている筈なのに。心の中では波乱万丈に、動き回って、大騒ぎしていた。休むどころではなかったと言える。背中に突き刺さる視線。観念して、首だけ軽く振り返った。
寝る前と、全く変わらぬ姿勢で。黒豹の人が座っていた。
「あの……」
「はい」
控えめに、名前を知らないから。失礼かもしれないが、どうしようもないしそう呼びかけて。相手も、淡々と返事してくれる。布団を深く被りながら、口元を隠す。嫌そうな顔をあまり見られたくないというのもあったし、看病しようとしてくれてる相手に。そんな顔を見せるのもなってのもあった。仕事だろうし、そして非番なのにそれを強いて。間が悪く体調を崩したのは僕なのだから。
「見られてると、気になって寝られないです」
でも、言わないとわかってくれないだろうし。だから言った。そうすると、大きな身体で隠れていた尻尾がぴんと後ろで伸びたのがわかって。対する表情は、それでも動いてないのがさすがだなと思った。表情筋、死んでる? 看病してくれてる相手に抱くには失礼な考え。動物だから表情豊かなのは限られていて、でも犬科と猫科って割と人間みたいに。ちゃんところころと色々な表情を見せてくれるよね。ガルシェだって、むすっとしてたり。不機嫌そうな顔が多いけれど。そういう時は決まって舌打ちするし。それでも、時折見せる穏やかな笑う姿にドキドキして。寝顔だって可愛いのに。狼だから、普通にしてたらカッコいいと思うけど。顔立ちで言えば、この黒豹の人だって。整った顔をしている気がする。気がするってだけで動物の美醜って僕の視点からすると、正しいのかは定かではないが。ずっと僕を見つめていた彼は、そこで漸く動きをみせた。今までが、まるで銅像のように動きがないとも言えたけれど。僕がどうして寝られないのか、得心がいったのか。ベッド傍で監視する為に座っていた姿勢から、立ち上がるのを見て。これで安心して寝られると。僕も、安心してもう一度寝ようとした。した、のだけど。
何か動く音と、金属がぶつかり合って。小さく鳴って。そこに、合間に小さく。溜めて吐くような呼吸音がしだして。ゆっくりと閉じた瞼が、こんどは勢いよく開き。眠気なんて、やっぱり来ない。
僕を眺める事を止めてくれた黒豹は。それで良かったのだけれど、次はダンベルをどこからか持って来て。それを両手に持ち、交互に持ち上げて居た。腕を胸近くまで寄せる度に、膨らむ上腕二頭筋。ラフな格好だからか、露出した腕まわりは毛皮で覆われていても。隆起する姿が良くわかった。背中をこちらに向けているから、肩甲骨を覆う僧帽筋まで。ぐっと動くのも。銀狼に負けず劣らず、鍛えられた肉体が。さらに痛めつけられて進化しようと、筋肉繊維を酷使し、新たな出会いを産むのだ。肉体を包む、一番信頼できる。友達。発汗する部位は手のひらと足裏ぐらいなのに、今は全身から湯気が出ているように錯覚する。その暑苦しさに。実際に部屋の気温は寒いから、温度差に出ててもおかしくはなかった。
男らしい、喘ぎ声ではなくても。負荷が掛かった声。表情は変わらず、でも唇が薄く開き。上の犬歯がちらりと見えた。規則正しい、リズムで。持ち上げられるダンベル、振られる度にまた金属の音がした。棒状のに、円盤状の重しを変えられるタイプらしい。そして装着されてるのは、横に書かれてる文字からニ十キロはあるようだった。それを両手に二つ、事も無げにこなしていた。僕程度、軽く持ち上げられるわけだ。でも、今しなくても。そんな他人の部屋で自分かってな思考。だって、正直ふんふんうるさい。あと、目に悪い。男色の趣味はあんまりないが。ガルシェとそういう事をしてしまった為に、あんまりと言わざるを得ないのが解せぬ。でも実際、不特定多数の男に性的な目線で見てるわけでもないから。そう言うしかなく。それでも、雄としての魅力に溢れているその姿は。どこか、色気を感じたのも。また確かであった。体格が銀狼と似ているから、彼を思い出すのも。一役買っていたかもしれない。
無心で、重りを持ち上げていたのに。だらりと、突然脱力すると。黒豹は不思議そうに、首を傾げ。天井を見るようして顔を上げた。そして、スンスンと。聞こえたのは、においを嗅ぎ鼻を鳴らしていて。肉球と同じ色をした、鼻が動く。センサーのように、横向きに伸びた白い髭が扇状に広がった。そして、黒豹が。僕の方を向いた事で。どうしてそんな事したのか。経験則から、嫌な予感がした。銀狼に身をもって教えられたとも。
だから、次に彼が取る行動は。ダンベルを静かに床に置くと、相変わらず足音のしないその身のこなしで。ベッドでちゃんと大人しく寝ている僕に近づいて来る。内心は、来ないでと。言っていた。黒豹の片膝がベッドの上に乗せられ、加重を加えられた分軋む。そして両手が。僕が頭を預けている、枕の両隣へと置かれる。覆いかぶさるようにして、細められた獣の瞳がそこにあって。視界の殆どを塞ぐ、男の上半身。両肩から時折、尻尾の先が見え隠れしてるから。だいぶ忙しなく動いてるらしかった。
こうして、至近距離で改めて見ると光の加減で黄色いと思っていた彼の瞳は。部屋の明かりを背にすると、本当の姿を僕に見せていて。翡翠のようで綺麗だった。
「風邪をひいてるのに。もしかして、人種ってこうやって発情して、誘うんですか」
「違います!」
男の問いに、即座に否定していた。どうして、こうなるのか。ガルシェ曰く、どうやら彼らはその卓越した嗅覚を使い。感情を身体から発せられるにおいで。だいたいどう思ってるか察せられるらしく、それは僕がえっちな事を考えていると。発情臭めいた、そんなにおいをさせるらしい。共に暮らしている銀狼が、嗅ぎ続け、そして禁欲を続けたから。身の中で小さく燻ぶる欲の蓄積で、結果倒れるに至るぐらいの。自分ではわからない体臭が。そんなに、とも思うけど。こうして、全く別の相手にまで。指摘されたら真実なのであろう。より多くの意見は大事だけれど、これはいらなかったと思う。というより、嗅がれたくなかった。人の筋トレ姿に、ガルシェのあれこれを思い出して。変な事を考えてるお前が悪いと言われたら、それはそうなのだけれど。複数の男のにおいがこびりついたこの部屋で、多少は誤魔化せる事を期待したかったが。残念ながら、そうはいかなかったらしい。僕って、もしかして臭いのだろうか。お風呂数日入ってないし、そうかもしれない。断水が直ったなら、絶対お風呂に入る。明日にでも。そんな急遽僕の中だけでたてられた予定も、体調が悪化していない。という前提の元ではあったが。
目元まで布団を手繰り寄せて、身を隠す。目に見えて拒否の姿勢にと。額に置かれたタオルが、摘ままれ、端からゆっくりと剥がされた。代わりに、猫科特有の、横長のT字みたいな形をした鼻が寄せられる。鼻先を使い、前髪を退けながら。そうして、直に嗅がれていた。鼻息が湿った額に、ちょっと擽ったい。次に何をされるんだと、戦々恐々としていると。嗅いで満足したのか。それで身を起こした男は。持ったタオルを近くにある洗面器に再び浸して、水気を絞ると。また額に置いてくれた。膝立ちだったから、先程よりも強調されている。股間部分の不自然な盛り上がりが、表情よりも雄弁に男として彼が今どういった状態か十二分に僕へと伝えていて。それでも、手を出してくるような事はなかった。
「少し出てきます。暫くは戻りません。……余計な事は考えずちゃんと寝ていろ」
「あ、はい」
喉元を押さえながら、唸らないように気にしているのか、立ち上がりながらそう言われてしまった。でもそんな状態でどこへ。さっきまで寝ようとする僕から、離れようとしなかったのに。
「えっと、どこへ?」
「トイレだ」
湧いた疑問のまま発した言葉に、彼はこちらを一瞥すると。聞き取り辛かったが最後にそう一言告げたら僕を置いて、早々出て行ってしまう。ずっとズボンは突っ張ったままで、ちょっと歩き難そうだなと感じたけれど。見えなくなるまで素知らぬ顔だった。最後の方の台詞だけ、僅かに零れた敬語を使い隠していた雄の気配。ただ、なんでこのタイミングでトイレ。そう思って。そう経たず思い当たった答えに。また顔が、熱く感じた。熱、上がったかな。上がったな。足をばたつかせると、また黒い動物の毛が空中を舞うのだった。
関節が痛い、布団が掛かってるのに。寒さを感じる。なのに、汗がじんわりと身体から噴き出すのが不思議だった。頭が眠る前よりも重い。というより、脳の中心から額にかけて鈍い痛みが。ぼやけた視界と意識で、誰かが二人。話し合ってるのが聞こえる。ただ内容だけは理解できない。
ただ、知ってる人だってのはわかった。声から判断するに、一人は僕を自室へと運び看病してくれた黒豹の人。そしてもう一人は、あの虎の先生のものであった。黒豹の人、帰りに先生を呼びに行ってくれたのだろうか。それだけは辛うじて考えられた。でも凄くぼーっとするし、あまり思考を働かせるとやっぱり頭が痛んだ。体温を奪われた程度で、本当に弱いな僕の身体って。
縞模様が綺麗な、大きな手が。僕の腕に紐を巻きつけていた。ぐっとキツく、血流を阻害されるぐらい巻かれそこで固定される。続いて、肌を虎の手が撫でて何かを探している仕草。そんな感触だけを頼りに、何をされてるんだろうって。思っていると。突如として、身体に尖った物を突き立てられた。間髪を入れずそこから吸われて、液体を強制的に抜かれていく鋭い痛みが走る。襲い掛かる痛みに、暴れそうになるが。自分の肉体は脱力したままで、まるで鉛のようであった。表情だけは動くからと、顔を顰めていると。額に、黒い影が被さる。それはそのまま、左右へと緩い力加減で動くから。誰かの手だと認識したら。撫でられてるんだなって。翡翠石があった。宝石が空中に二つ、僕の眼前に浮いていた。そんなものどうして。
「解熱効果のある薬も置いておきます。念のために、抜いた血は現状でできるだけの血液検査も。人と我々が罹る病気は違いますけど、万が一、もありますから」
ちょっとだけ、意識がはっきりしてきたから。先生の言葉がちゃんと脳へと入って来る。でもその分、瞼が重くなってきた。黒豹と虎が、また会話してる。そこで、また、意識が飛んだ。
続いて、意識がまた浮上した時。周辺がとても騒がしくなってるのに気付いた。
「おいおい、人間じゃん」
「何、病気? てかお前、そいつの面倒見るの明日からじゃなかったか」
「そうだな」
「サイナンだよな、人間のお世話なんて」
声が四人分。一人は、黒豹のもので。残りの三人は知らない男性のものだった。同室の者は夜になるまで帰ってこないと言っていたから。じゃあ、もう夜なんだ。感覚的には、一回瞬きしたぐらいなのに。結構寝ていたんだな。それも、人のベッドを占領して。とても申し訳ない気がして来たけれど。知らないレプリカントの人が、さらに三人も居るこの状況で。起きるのは躊躇われた。ただ単に、僕が好意的ではない目線に今。晒されたくないというのもあったし、起きたら。直接僕に対して投げかけられる言葉に、上手に返せるかといった不安で。とても、しんどいと身体が訴えている状態で。心にもそれは影響していて、余裕のない自分が。つい、相手を怒らせる事を言わないか。自信がなかった。怒らせたら、人間である僕は。簡単に殺されるぐらいの、身体的な性能の差があって。一発でも殴られれば、首や顔の骨が折れるやもしれない。まして、黒豹と同室の人って事は。同じ軍属なわけで、鍛えた体躯はそれだけで凶器だった。
穏やかな呼吸が乱れないように、気を遣っていた。狸寝入りがバレやしないかと。やっぱり、迷惑だったろうか。黒豹の彼は、今日は非番で。基本レプリカントの人達の、人間に対する反応は三者三葉で。サモエドのおばちゃんや、ルオネといった人達は、偏見もなく比較的に穏やかに接してくれる。でもそれは残念ながら少ない部類で。多くは、言ってはなんだが。今は友達として接しているガカイドですら、最初はあまり壁を感じたように。良く思われていない。それはやっぱり、異種族という部分が大きく。
自分達よりも非力で、平均身長もレプリカントの人達の方が高く。彼らの視点から見れば、小さくも感じるだろう。それを、可愛らしいと思うか。自分達とまるで違う姿に嫌悪を抱くか。この街に来た当初、それは僕自身。彼らに抱いていた部分でもあった。差別意識とはいかないまでも。
だって、皆。僕より大きくて、力が強くて。目だって鋭い人が多く、何かされてもないのに怖いって感じてしまう。それは、相手をまるで知らないって部分もあって。人は知らない事に酷く恐怖や、拒絶感を抱いてしまう生き物だ。知性が、そうさせるのか。そして、同じぐらい見てくれは獣でも。彼らも人間と同じぐらい考える力があって。お互いに、知らない相手を遠ざけようとしてしまうのかもしれなかった。
でも、僕はガルシェのおかげで。あの銀狼の優しさに触れて。こうして、だいぶそういった畏怖は消え去って。でもそれは、完全にではなくて。こうして、誰も守ってくれるわけではない場所で。一人、複数の相手に囲まれたら。布団の中に押し込められた、手が震える。レプリカントの人を怖がるのは、同時にガルシェを怖がるようで。ごめん、でも、やっぱり怖い。
そう、あの美しいと感じた。銀の毛をした人に心の中で謝った。その人も、今は僕を守ってくれやしない。傍にはいない。
この黒豹の人だって、仕事で。しかたなく僕の世話をしてるに過ぎない。信用できる人がいない状態で。僕はどうすればいいのだろうか。心が弱ったいる今、風邪ひいていなくても。ネガティブな思考に走りがちな僕は。ただ、寒さでなく。身を震わせる。いけない、寝たふりをしなくちゃ。気づかれる。
額にあった。濡れたタオルが新しい物に代えられて、ひんやりとした冷感が伝わる。そうして、僕の頬を誰かが触った。
「市長直々に指名されたとはいえ、マメだよな、お前。そんなの適当でいいのに、めんどくさくないわけ?」
「そうだな、正直めんどうだ」
僕がいるのに、そんな会話が続けられる。ほら、やっぱり。黒豹の人もそう思ってる。異種族の、しかも良くも知りもしない相手に。僕だって、突然部屋で看病してくれってなったら。めんどうだと感じるかもしれない。しかも自分のベッドを占領されて。他に寝る場所もなければ。部屋を覗いた時、この相部屋には人数分しかなく、予備なんてなかった。
めんどうだと、肯定した僕の頬を撫でてるだろう。黒豹の声で、ぴくりと眉が反応してしまった。本当に極僅かな動きではあったけれど、眠る前。彼がずっと僕を見張っていた時みたいに、今も顔から目を逸らさず見つめていると。どこか確信めいたものがあった。それに、頬を撫でていた指が。それで止まったから。起きているのがバレたと、悟ったのだった。
そんな時。僕を支えてるベッドがほんの僅かに、傾いた。
「……そう怯えたにおいを出すな、俺以外にも気づかれるぞ」
男性の声が。耳元で、そう小さく囁かれた。身を起こしたのだろうか、ベッドの傾きが元に戻る。
「ん、なんか言ったか? レリーベ」
「いや、なんでもないさ」
「てかっ、人間がいたら気になって寝る前の日課できねぇーじゃん!」
「いやいや、普通にトイレでしてこいよ。皆やってるだろ」
「あそこ、いろんな奴がぶっ放してクセェから嫌なんだよぉ……」
なんか。とんでもない会話をしている気がするけれど。そんな事よりも。レリーベと呼ばれたであろう、黒豹の人が気になった。そもそも、においで僕が起きてるのは早々看破されていたようで。でもだからといって、どうやら彼は僕の狸寝入りに協力してくれるらしい。たぶん、どうしてそんな事してるかなんて。いくら今抱いてる感情がにおいでわかると言っても、それはおおまかなだけで。僕の心の声が聞こえてるわけではないから、理由までは知らないだろうけれど。どうして。同室の者からの問いに、めんどうだと返していたのに。なぜ、庇うのだろうか。
そして、直接聞いたわけでも。名乗られたわけでもないのに、やっと。黒豹の人。レリーベ、さんの名前が知れたのだった。次起きたら、お礼を言わなければ。僕の世話係になったという事は、これからなんども顔を合わせるのだろうし。ある程度は、仲良くしとかないと後々不利になる。ちょっと、彼との会話を試みるのは難儀しそうではあったが。完全に嫌われて、市長にある事ない事報告されたりしないようにはしないと。上手く立ち回らなければ、死ぬかもしれないという。そんな予感がした。それはきっと、間違ってはいない。僕の命なんて、この街では羽より軽い。
レリーベさん以外に、悟られない程度に。深呼吸して、また意識を手放そうとする。ちょっと騒がしいけれど。健全な男が四人も集まれば、こんなものか。その内の一人は物静かではあったが。また、頬を撫でる事にしたらしい。細かい毛が、柔らかく当たる。指の背で撫でてるのだろうか。肉球の感触はなかった。ガルシェもそうだけれど、銃器を扱ったり、日頃から鍛えてる人達だから。肉球が柔らかくて、いつまでも触っていたくなるような。そんな魅惑溢れる感触はしていないのが残念だと思う。それを言うと、家事をしている僕の手も。あかぎれであったり、そこまで綺麗な手をしてるわけではなかったが。でも、人の手というのは。その人達の歩んで来た、これまでの過程の一部を体現してるようで。たとえ硬くとも、カサついてても、タコがあっても、僕は嫌いではなかった。欲を言えば、柔らかいぷにぷにを堪能したくなかったのかと聞かれたら。頷くしかないのだけど。爪が出し入れ可能な為に、指が太く、どこかクリームパンを連想させる。猫科の手が。僕の頬を飽きずに撫で続けてるから。
そういえば、クリームパン。食べたいな。この街には無論ないけれど。あったら誘惑に負けて、値が張っても恐らく買っている。甘味が先ず手に入らないし、調理方法も失われてそうだった。そんなどうでも良い事で頭の中を埋め尽くす頃には。就寝時間だ、寝るぞと。誰かの掛け声と共に。瞼を閉じていても透かして見えていた、部屋の人工的な明かりが消される。
皆、自分のベッドに入って寝る体勢になったらしい。一人だけ、まだ文句を垂れ流していたけれど。黒豹の人。レリーベさんはどうするのだろう、まさか、床で寝るのだろうか。そんな人間の心配を余所に、またベッドが軋み、少し傾いたのが感じられた後。大きな気配が、隣に添うようにして密着してくるのがわかった。こればかりは、驚きに狸寝入りしていたのを忘れ。目を開けて、隣を見る羽目になってしまう。これまでの苦労が水の泡になるかもしれないのに。でも、皆自分のベッドで寝転び。部屋の電気も消えたとなっては、簡単には僕の様子など見えやしなかった。対面に位置する、人なら。丁度こちら側を見ていれば、わかったかもしれないが。黒豹の大きな身体が、間を遮っているのもあった。
自分のベッドに入る事に、誰も咎める者もいやしないだろう。ただそこに人間が寝ているのを除けば、だが。声に出すわけにはいかず。それでも無反応なのも無理で。口パクだけで、どうしてと慌てて聞いていた。こちらに、横向きになって。自身の頭を手で支えた黒豹の顔へ向かって。暗闇では、その瞳が月明りを反射して煌めいていたから。暗い中でも、どこに顔があるか、あまり見えない状況の僕でもわかるのだった。
「おやすみ」
胸の上に、載せられる重み。それが一定のテンポで無くなっては、また重みを感じるから。どうやら、気にせずいいから早く寝ろという事らしい。僕へ向けられただろう夜の挨拶。でもそうとは気づいていない同室の者達がそれに対して、おやすみ、レリーベと、それぞれの言い方で返していた。無表情で、言葉のキャッチボールが下手だなと。失礼にも思っていたが、同室の人との仲は悪くないらしい。
この状況で、布団から今更抜け出すのも。そして、出て行けとも言えず。なら、残された僕が取るべき選択肢は。思考を放棄して、この心地よさに身を任せるに尽きる。子供扱いされている事に、思う所はあったが。なんだか、ガルシェと一緒に寝てる時を。そして僕が泣いて、彼が慰めてくれる為に一緒に寝たあの時を思い出していた。
まるで、今も添い寝してくれてるようで。疑似的にも、安心感が。正直、味方のいないこの学校では常に張り詰めている状態が続いていて。とても、ストレスなのだと感じる。一人で寝るのが心細かったのもある。仮初めかもしれなくとも、優しさを見せてくれる他人の存在が、今はありがたかった。少なくとも、どこか。僕に対して、そう嫌な感情を持っていなさそうな。この黒豹であるのも。これは、僕の憶測でしかないけれど。めんどくさいなら、こんな事、普通しない気がした。面倒見が良いのかもしれない。それとも、兄弟とか。居るのだろうか。もしそうなら、僕は歳の離れた弟か。
声に出して返事するわけにはいかないから。だから、唇の動きだけで。顔があるであろう方向へと向かって、ゆっくりと動かす。それで、目を瞑ったけれど。隣から、ふっと。どこか、笑ったような気配を感じた。それは、本当にそう感じただけで。見えたわけでもなかったけれど。目、瞑っちゃったし。
おやすみなさい。レリーベさん。おやすみ、ガルシェ。
いつも通り、ガルシェを見送って。そうやって、ただ留守番している日々。そんな時に、玄関からノック音がして。居留守を使うわけにもいかず、嫌だなって気持ちを隠して。外面だけでも良く思われようと、元気よく返事をしながら扉を開ければ。無表情の、猫科の顔が。僕を見下ろしていたのだった。今からでも居留守、使っちゃ駄目だろうか、駄目か。
開口一番、そう言ったのは。見た事ある人だった。黒毛だから、記憶をそう掘り起こさなくても。思い当たった。前に見た軍服らしき服装で。背筋を真っすぐ後ろ手に、踵を少し開いて、無表情なその顔を暫し眺めた後。目線を滑らせながら腰のホルスターに、しっかりと銃があるのをそれとなく確認した。特徴的な黒豹だったから。名前は存じ上げないけれども。一度は配給所で、そして、二度目は所長と共にこの家の前まで。僕を訪ねて来た、人だったから。会話自体は直接そんなに交わしていなくとも、強く印象に残っていたのだった。
突如ガルシェが留守の状況で、この人が僕を訪ねてきたとしても、自然と受け入れていた。驚きはそこまでなかった。だから。
「はい、着替えて来ます。それぐらいは待ってくれますか?」
「問題ありません」
「……家の中で待ちますか?」
「お気遣い、ありがとうございます。自分はここで結構です」
上っ面だけの僕の気遣いめいた言葉を見透かされたのか、それとも。そう短くやり取りして、扉を閉めた。振り返り、部屋を見回して。換気の為に、開け放たれた窓を見て。そこから逃げるという考えが一瞬過った。そんな事、相手も思い当たるだろう。中で監視しないのは、逃げられやしないと。高を括っているからか。それは、その通りではあるのだけれど。深読みのし過ぎか。
部屋着から、外出用の着替えを手に取りながら。考えを巡らせる。たとえ僕が従わず、拒否するのは一番の愚策であった。人間に、そんな権限がないのは。今に始まった事ではない。無理に抗えばただ、僕を保護しているガルシェに迷惑がかかるだけであった。大人しく従うのが正しい。あの時と違い、彼がタイミングよく帰って来るのを期待するのも。時間帯的に、無駄であった。あまり待たせるのも良くないと、さっさと着替えて。そうして、一つ書置きを残す。それぐらいは良いだろうか。豹の人が、迎えに来た。それだけで、たぶん伝わるだろう。
特に荷物もない僕は、それだけで身支度を終えてしまうから。そのまま、玄関から再び顔を出せば。思ったより早いと思われたのか、意外そうに黒豹が首を傾げていた。仕事が滞りなく進んで、彼としても都合が良いだろうに。僕もそう思い、鏡映しのように首を傾ければ。それもすぐに、戻ってしまったけれど。ただ、着いて来てくださいと。そう言われるがまま、その背を追った。ゆらゆらと揺れている、猫科の太く長い尻尾が。目の前にあるのが新鮮だった。狼の尾は、見慣れているけれど。そういえば、猫科とは関りがあまりなかったから。知り合いは犬科ばかりであった。
住宅区を抜けると、大通りへと出て。なだらかな坂で一旦立ち止まると、それをそのまま登っていく。向かう先は、どうやら学校らしい。ガルシェではない人に連れられている僕が珍しいのか、街の人々の視線が突き刺さる。まぁ、まるっきり連行されているし。たとえ人間である僕じゃなくても、野次馬の視線が向かうだろうか。
そういう意味では、人間である僕は目立つから。書置きなどしなくても、いずれガルシェの耳には入ったのだろう。人伝よりも、家に帰って何か残しておいた方が。それを目にした銀狼も冷静に対処してくれるだろうし、何よりも安心させたいという意味もあった。拒否権はないが、強引に力づくでというわけではないのだから。抵抗した場合、圧倒的な力の差を思い知らされる結果を見るか。最悪射殺されていた可能性も考慮できたけれど。現状、手錠すらされていない。何かの罪状で連行されているわけではない気がした。
学校の敷地を跨げば、真昼間だから。遠目にグラウンドでは、訓練に勤しむレプリカントの人々が多かった。そういえば、明るい内に来るのは初めてであった。アカデミーの人だろうか。ガルシェも昔、ああして訓練していたのだろうか。銀狼の過去を想像しながら、そんな不特定多数のレプリカントの軍人らしき人達を眺めていると。振り返った黒豹の、無表情の顔が。いつの間にか僕を見つめていたのだった。足が止まっているのを無言で指摘されているのだと気づいたから、慌てて少し離れた彼との距離を縮める。
学校の中へ入れば、やけに響く足音。本来は上履きに履き替えたりするけれど、そんな習慣も今では捨てられた文化と言えた。そのせいで外からひっぱった土で薄汚れた廊下。このまま、独房でも連れていかれるのかな。そう思っていたけれど。ここですと、そう促されて入った部屋は。思ったよりもまともだった。生活感があって、資料とかが机の上で山を作っていたから。一瞬資料室かと見間違えたが、隅に二段ベッドがあったから。誰かここで暮らしているのだろうか。僕が部屋の中に入ったら、黒豹の人はそのまま。自分は入らず、トイレに行くならあちらですと。そう指で示して必要最低限だけ教えると扉を閉めてしまったし。
鍵は内側にあったから、別に閉められてもいない。本当に、僕の自由意志に任されているのだなと感じた。逃げるも、従うも自由だった。自由とは名ばかりの、見えない鎖に雁字搦めではあったけれど。
最初、ガルシェの家を訪れた時みたいに。散らかってるなと思った。ただ足の踏み場もないあれと比べるのは、ちょっと失礼か。一応床は見えている。一階のこの部屋が、誰のか。そんな疑問もあったが。そんな事この際どうでもよかった。窓に近づくと透明度の低い窓ガラスがはまっていて。この街で作られたのかな。古い物は、割れてしまっただろうし。透明度の高いガラスは再現が難しそうだ。外がよく見えないと、窓を開けるとさっき見たグラウンドの景色が別の角度でそこにあった。吹き込んで来る風が露出した肌を撫でるけれど、温度のせいかそこに鳥肌が立つ。
あんなにも、離れたくない。ガルシェが許す限り。彼が番を得るまで。それまでは。そう思って、あの家にはタイムリミット付きで居られると思っていたのに。他人の干渉で、こうも容易く。そんな生活も終わりを迎えるんだなって。ただ、そう感じていた。本当に、呆気なかった。
恐らく、上から命令されて。僕を連れて来ただろう、黒豹の人には。お仕事ご苦労様ですという、それ以上の感情は抱かなかった。よくもとか、そんな逆恨みはなかった。思った以上に、この状況を受け入れている自分が。一番驚きではあったからとも言えた。
どうなるのかな、これから。そんな不安だけ残して。この部屋にただ居ろと、そういう事なのかなと。折檻とかそういった事をされやしないかと、そういう面の恐怖に怯えていたけれど。
その日は、大人しくしているだけで。終わった。食事も何も運ばれるわけでもなく。暗くなっていく風景を。グラウンドから、やがて人の姿が消えていくのを。観賞して終わった。楽しいとは感じない。
薄暗い室内。電気をかってに付けていいのかもわからず、月明りだけを頼りに。誰かが使った形跡がある二段ベット。上の段を覗けば、そちらは綺麗なままで。誰も使っていないようであったから、そっちの方へなら後で咎められないかなと思い。靴を脱いでから寝転ぶと。空腹を意識しないように、眠った。
ガルシェ、心配してないだろうか。書置きを残したから、大丈夫だと思うけれど。ちゃんと、晩御飯食べたかな。それだけが、一番気がかりだった。自分の置かれた状況よりも、ずっと。
鳥の囀りが聞こえて、それで目が覚めて。起き上がると、天井が思った以上に近くて違和感。無意識に起き上がった勢いのままいつもの感覚で頭をぶつける心配は、天井自体が高いから大丈夫だったけれど。そうだった、今は二段ベッドの、それも上の段に居るんだ。いつもと違くて、慣れないな。
布団もなくて、そんな状態で寝たからか体温が下がっている。マットだけあるからマシではあったけれど、それも硬いから。身体が凝ってしまっていた。半年ぶりに、一人で寝たんだな。意外に寝られるものだ。記憶がない状態で目覚めて、そこから常にガルシェが傍に居た状況が続いたから。ある意味、生まれて初めての独り寝とも言える。そう考えていると、くしゃみをしてしまう。起き上がったままぼんやりしてるけれど、身体が思った以上に冷えていた。いつも、とても温かい毛皮の塊が傍にいるから。寒さで震えた経験がなかった。隣に手を滑らせても、だいたい僕より早く起きる事がない彼は当然寝ては居ない。
どうやら、季節は思った以上に巡り。冬に近付いてるらしい。そうなると、僕の服装は薄着と言えた。ベッドから抜け出すと手始めに、軽くストレッチをして。筋肉を解す。寒さを紛らわしたいという意図もあった。そうしていると、もう既にグラウンドには人が居たらしい。朝日が出た段階で、彼らの訓練は始まっているのだった。思い描いていたよりも、厳しいのかもしれない。軍隊っぽいと感じていた心象は、それ程間違いではなかった。
一夜明かしたからといって、それで何かあるわけでもなく。起きたから、目についた椅子に座って。ただ誰か来るかなと待ってみても。時間だけが経過して。別に朝食を用意されるわけでもなく、時計の針だけ動いて、真上を示す。お昼だった。もう二十四時間、お腹に何も入れていないと意識すると。余計空腹を感じた。もしかして、このまま餓死させる気だろうか。というより、忘れられてると言った方がしっくりくる状況ではあった。
餓死させたいなら、縄で縛ったり。身動きを封じるべきだ。この部屋から、普通に廊下に出て。トイレにも行けるから。その線は薄い。暇潰しにと、外の景色を眺めていると。時折廊下の前を通る誰かの気配。その一つが、扉の前で止まったから。意識を窓から、室内へと向ける。
そうするとノックもなしに扉が開かれて、もし、訪ねてくるのなら。三人の内誰かなって。一番来て欲しい人と、そうではない人、その答えはすぐにわかった。所長呼ばれていた、一番来て欲しくはない人ではなかったけれど。市長さんが、そこに立っていた。今日も、眉間に皴が寄ってるなと。その顔をただ見つめていると。断りもなく入って来る。僕の部屋ではないから、それも当然か。
「おはようございます、よく眠れましたか」
今日も、比較的綺麗に整えられたスーツを着た相手に。どの口がと思いかけたけれど、朝まで一度も目を覚まさなかったから。よく眠れたのは、同意できるなと。そんなひねくれてるのか真面目なのか自分でもよくわからない思考をしていた。
「貴方をここに呼んだのは、私ですよ。昨日は時間が取れなくて、戻れませんでしたけれど。ここで生活してもらいます。ガルシェには、私から言っておきました。安心してください」
本当だろうか。正直疑わしいけれど、この人が僕にわざわざ嘘をつくメリットも見当たらなかった。それにこれは自惚れでも何でもないが、あの銀狼の性格を考えると。何も言ってなければ何をかってにと乗り込んで来そうだ。何気に彼は直情的な。むやみやたらに暴力を振るうわけではないけれど。不快さを隠したりはしない。だというのに、こうして何事もなく朝を迎えたという事実が。そうであると説得力があった。それで、納得したんだ、ガルシェ。そっか。そっか……。
僕の反応が薄くて。納得がいかなかったらしい。市長さんが目と鼻の先に近づいて来る。だから、しっかりと向き合い。見上げて、その瞳を見つめ返すと。やっぱり、琥珀みたいに感じるその目まで。似てるんだなって、場違いにも感じて。
「今日から、私が貴方の。そうですね、飼い主です。異論は?」
それをした理由を言う気はないのか。ただ、結果だけを突き付けられていた。実の息子であるガルシェにも、相談を日頃からしているふうではなかったし。これがこの人の、性格なのかもしれなかった。それでまかり通る、権力を持っているのだから。たちが悪い。
「ありません」
あっても、それを言う権限自体。僕には微塵もないでしょうと。あるのは、ただはいと機械的に頷くのを要求されていて。あまりに素直な僕が気に食わないのか、見上げて無防備に晒されている顎に。男の手が添わされる。少し顎を持ち上げられて、より角度がきつくなり首が痛んだ。表情には出してやらないが。怖くないと言えば嘘になるが。この街で、ずっと怖い思いをしてきた僕は。それで怯む程ではなかった。
無言の睨み合いが続いたけれど。だからと、それ以上。別に危害を加える気もないのか。そっと顎から、市長の手が離れた。新しい飼い主と自分で言うのだから。精々世話して貰わないといけないなと。そんな邪な考えが巡る。だから、お腹を軽く。これ見よがしに擦りながら。さも、困り果てたと。そんな顔をして。
「その、お腹すきました」
そう言ってやった。狼の眉が、僕の言葉で反応を示して。それ以上表情は変わらなかったけれど、それで尻尾の先が少し揺れたのを僕は見逃さなかった。飼い主なんでしょ。ペット様が空腹だぞと言ってみたけれど。怒るかな。面の皮厚く、それなら衣食住を提供する義務が発生するぞと。遠まわしに、昨日夕食を食べそびれて。放置された腹いせに。そう言ったのだった。
黙ったままの、市長の口が重く開く。腕組みして、見下ろされ続けるのは居心地が悪い。
「貴方、思ったより図々しいですね」
迷惑をかけるのは得意だからなと。内心ほくそ笑むが、まるでかっこよくないし。言いたい事がそれかよと、ガカイドが聞けば情けないと馬鹿にされそうだ。そうは言っても、力で敵うわけもないし。か弱い人間だから。これくらいが限界であった。ほら、ご主人様。嘆息した自分よりも大きな相手に対して。これには笑みを隠さなかった。愛想は大事。
着いて来なさいと、市長さん直々に学校の中を案内されて到着した場所は。どうやら目に入る器具や家具からして、元は設備的に学食を提供していたらしい。なるほど、職員の人は皆ここで食べているのか。食べたら、自分で部屋に戻ってなさいと。そう言われたら、仕事に戻るのか。市長さんは僕を監視するでもなく、早々僕から離れてしまった。放し飼いってわけか。忠誠心なんて微塵もないから、この灰狼の元へ帰属本能なんてないのだけれど。命を握られているから、目に見えないリードと首輪はありそうだった。
何気なく、首を擦る。狼の歯形は、薄れているそこを。見えるような場所は止めて欲しいな。発情期の彼は、噛み癖が酷いと思う。本能的にやってしまうようであるが。最終日、せっかく用意した口輪も。僕が居なければ。もう、使う機会訪れないであろうか。
「せっかく食堂に寄ったならちゃんと食べてください」
「必要な栄養は取ってます、私は忙しいんです。急を要する場合じゃないなら、後にしてください」
話し声がして、カウンターでどうやって注文するのかなと。他の人の動きを眺めていた僕は。それで振り返ると、立ち去ろうとした市長さんと、それを呼び止めた別の大人のレプリカントの人が多少言い合いしていた。それも、一方的に市長さんが打ち切り歩きだすと。それ以上は追いかけるでもなく、ただ頭を抱えて。立ち尽くしていたけれど。
僕の目線に気づいたのか、市長さんに声を掛けていた人の顔がこちらに向く。そのまま近づいて来るから、見てませんとそんなふりをする暇さえなかった。近づいてくると、また首が痛かった。それもその筈だ。この街で、たぶん誰よりも大きかっただろうから彼は。大型肉食獣の虎の顔をしている。その人。ガルシェが倒れた時、助けに呼んだ。医師の人だった。ガルシェも先生と、そう呼んでいたけれど。
二日連続で、猫科の人に縁があるなと思った。ただそれよりも、言わなくちゃけない事があった。次の日にでも、挨拶に伺うべきだったけれど。あの後ずっとばたばたしてたし、忘れていた。
「あの時は、碌に礼もできず。ありがとうございました」
「いえ、大事なくて良かったです。どうやら、お互い相談して解決したようですね」
彼を直接診断した人だから、原因を察しているのか。そう言われてしまう。解決したかは、正直そうであると自信を持って返事できなかったから。はいともいいえとも言えず、曖昧な表情だけで返事するしかなかった。でも、僕があの家にいない方が。そのリスクも発生しないんだなと、虎の先生と話している最中で気づいてしまった。僕が原因で、そうなったのなら。
どうやら、この虎の先生も休憩時間を利用して。食事をしに来たらしい。それにしても、相変わらずでかい。僕からするとガルシェも身長が高いけれど、二メートルを優に超えているその背丈。目測で二メートル半はあると思うその身体に窮屈そうに、一応羽織った白衣が可哀想だ。そんなに、筋肉は必要ないと思うのにと感じたが。痛みで暴れる患者を押さえるのはかなり力がいるんですよと。そうおどけて虎の先生は力こぶを作って見せられた。ああ、なるほど。ガルシェみたいな筋骨隆々な人が暴れたら、確かに大変そうだ。特にこの学校に在籍している軍服を着用しているような男の人は、皆例外なく鍛えているのだし。
どうやら、どうやって食事を注文するシステムなのか。初めて訪れた僕がわからないのを理解したのか。人である僕を気にせず連れて、一緒にカウンターに近づいてくれる。そのまま注文する様子まで実演して。料金は発生するのか、そういう心配も。ここに務めているなら、よっぽど食い過ぎなければ無償で提供されてるらしい。いや、僕は勤めてないけれど。人間である僕がここで働いていないのは周知の事実であったから。注文を受けた人は僕の分を出すのを渋っていたけれど、市長のツケだと虎が言えば、受付の人もそれで納得していた。権力って凄い。若干、虎の先生の圧が強かったのも、あったかもしれなかったが。
何より幸運なのは、こうして。知り合いと巡り会えた事だろうか。僕を邪険にしない、分け隔てなく接してくれるような人、という条件を満たした。開いてる席へ、向かい合って座ると。僕と虎の目の前に、あれよあれよと、食事が運ばれてくる。僕が頼んだのは、一つだけ。殆ど、虎の先生が食べる分であった。この医者、どれだけ食うのと。呆気に取られていると、せっかく温かい料理が冷めますよと。そう言われてしまったのだった。みるみる消えていく料理、それに対して見た目はお上品に食べている気がするのに。それでも、食べるペースが速い。よっぽど食い過ぎなければ、そう注釈していたのは虎であった筈であるのだが。これは、何も言われないのだろうか。他に食事をしている人も、一度もこちらに関心を示さないし。もしかしたら、日常的な光景なのかもしれなかった。身体の大きさが、胃袋の大きさだろうか。
「市長さんって、どんな人なんですか?」
この建物で、唯一。それ程気兼ねなく質問できそうな人であったから。新しい飼い主である、あの灰狼の事を聞いていた。この街では有名な人であっても、これまで僕とは関わりのない人ではあったから。何も知らないのだった。ただ、凄い人なんだなって。ぐらい。後、厳しい人なんだろうなって。ガルシェと会話していた姿から。
いけない。何かを考える時。すぐガルシェが出てくる。
僕の質問に、食べる手を止めて。ナプキンで口元を拭いていた虎は、暫し思案顔をして。ただ一言。
「仕事命、でしょうね」
目線を、どこかへ向けながら。そう言っていた。あ、うん。そうですね、そんな感じがしますと。相槌をしていた。二言目には、忙しいと口にしているような人であったし。それは、そうなんだろうなって。聞けたのは、何も知らない僕でも。感じていた事だった。
「ガルシェ。息子さんが産まれて、番が亡くなる前までは。あれ程酷くはなかったのですが、彼も」
気にかかる事を、言いかけて。そこで、廊下から虎の先生を呼ぶ人の声がした。それに、慌てて、これには行儀悪く口の中へと残っていた皿の上の物を押し込めると。詰め込み過ぎてだろうか、喋れないからと手を合わせて、ごめんねと仕草で伝えながら。早足に自分の食器を返却スペースに運ぶと、駆け足で廊下の方へと向かっていた。慌ただしいけれど、恐らく急患だろうか。手短に話を聞くと、呼んだ人を連れて黄色と黒の縞模様がある巨体も視界から消えた。
気にはなっても、答えてくれる人がもう居ないんじゃ。どうしようもないなと、半分程残ってる自分の食事を食べ終えると。同じように、食器を返却スペースへと運び。受け取ってくれた職員の人にごちそうさまですと。それだけ告げて、僕も食堂を後にした。ちょっとだけ、その時耳に入ったのは。やはり断水のせいか。調理をしている人の愚痴だった。予想通り、かなり街全体に影響が出てるんだな。
そう思っても、僕にできる事なんてないから。向かうのは、一応与えられた埃臭い書類の山があるあの部屋で。逃げる気は、なかった。たぶん、この学校の敷地内から出なければ。何も言われないような気もしたが、用もないのに部屋から出ないに越した事はないであろうし。もしも、所長に鉢合わせたらと考えると。避けたかったのもあった。この学校で働いてるかどうかはわからないけれど、その可能性は高いとも言える。後、職員さん達から寄せられる久しぶりに多く感じる好奇の目線も鬱陶しいと思うのもあった。
だから、部屋に戻って。扉を閉めた段階で、自然と息を重く吐いていたのだと思う。吸い込んだ息が、あまり好ましくないのもあるが。許可は貰ってないけれど、控えめだった昨日と違い窓を全部開けて換気する。そうすると、外から吹き込んだ風で。毛と、埃と、それと数枚書類が舞った。見てもわからない物ばかりと思ったけれど。色褪せたファイルが混ざっていたから、何となく手に取れば。どうやら、この街の事じゃないらしい。分厚いファイル、側面にしっかりと。内容を示す、文字があって。掠れているけれど、これが外から持ち運ばれたのは痛み具合から感じられた。ただ、それよりも、その名前に目が離せなかった。
――レプリカント計画。そう、書かれていたから。彼らの出生に関わる事であるのは、確実であった。こんな重要そうな物が、この部屋に無造作に置かれているのも驚きであった。けれど、よくよく見渡せば。ガルシェの家から持ち去った荷物が部屋の隅にあったから。もしかして、ここは市長の部屋であるのだろうか。そうであるのなら、一応は納得できてしまうけれど。もっと厳重に管理しても良い気がしたが。盗まれる可能性も、隠す必要もないのか。それとも。中身を見てしまって良いだろうか。幸い、僕一人しか今はこの部屋にはいない。机の引き出しに、鍵をかけて仕舞われていたわけでもない。開いてみると、中身は。形式ばった機密文書とかではなく、どちらかと言うと。誰かの日記めいていた。日付から始まり、その日起きた実験結果をただ書き連ねて。次の日と。著者の人はとても几帳面な人なんだな、特に何も起きなくても。一応毎日つけているようであった。目を通している途中で。突然横開きの扉が、ガラガラと音を立てて開いたのを耳にして。だから思わず勢いよくファイルを閉じる。かってに見ているという、やましい気持ちがそうさせた。そのままの流れで背に、ファイルを隠すと。廊下には、扉を開けた。市長さんが居て。僕の変な挙動を見て、訝しんでいた。
「……何をしてるんですか、貴方は」
何もと、慌てて首を振るが。たぶん何かを見ていたのはバレバレであっただろう。それでも、僕に用があるわけではないのだろうか。後ろ手に扉を閉めながら早足で、部屋に入ると。片手に持った書類をそのまま、先ずは部屋の隅にある机へと放って。それから、僕の方へと向かって来た。手のひらを上にして、こちらへと手を差し出すから。無言で、持ってる物をよこせと、そう示されてしまった。そこまでされると、隠しきれていない。後ろ手に持っているファイルを、おずおずと差し出す。それを受け取ると、灰狼は。それが何か、確かめているようであった。でも、だからと。叱られるような事はなかったが。
問題はなかったのか、元あった場所へと戻さず。僕の手元でもなく、机の上に放っていた。物の扱いが雑だなと、その動きを目で追いながら。内心、ほっとしていた。見ても良かったのかと。ただ、それで部屋から立ち去らず。持って来た書類を置いた机に向き合うと、そのまま椅子に腰かけて。事務仕事を始めてしまったから、市長さんの傍に置かれたファイルをまた手に取り。続きに目を通そうかなって、そんな度胸はなかった。
部屋に、カリカリと。ペンを走らせる音が響く。そう間を空けず、机の引き出しを引く音がして。何を取り出すのかなって。手の動きを目で追っていると。中から、使い古した眼鏡を取り出していた。それをそのまま、マズルの上にちょこんと載せると。耳に引っ掛ける部分、モダンだっけか。その部分に紐が括られており、それはそのまま反対のモダンに繋がっていた。頭の後ろに緩く引っ掛けると、位置に違和感があるのか。頭の上にある、獣の耳がなんどか動いていた。見るからにフレームの形も人用のであるのだろうし、そのままだと落ちてしまうから苦肉の策だろうか。
狼の顔に、人用の眼鏡を掛けたスーツ姿の男。白髪のせいで銀色を損なった為に初老にも見えるし、ただ実年齢のわからない。そんなレプリカントの男性は、また書類と向き合うと。再度ペンを走らせる。その様子を、別にする事がない僕は適当な場所に座ると。実際に仕事をする銀狼の父に当たる人の背を見ていた。ガルシェと、この人、血が繋がってるんだよなって。狼の後頭部に穴が開くんじゃないかってぐらい。暫くすると、目元を指で抑えて。呻き声を出して、また書類仕事に没頭する。それを繰り返してるのを。頻度が多いし、四度目ぐらいから僕の中で湧いて来た疑問。眼鏡の度数がもしかして彼の視力と合っていないのかなとか。そんな事を思いながら。
やがてひと段落したのか。眼鏡を大切そうに引き出しに仕舞うと、それで。書類を纏めて、机に整える為かトントンと軽く打ち付けて。僕を居ないものとして扱うようであった。こんなに見つめているのに、一度も振り返らないのがいっそ清々しい。そのまま、出来上がった書類をどこかへと持っていくのか。立ち去るその姿まで、人間の目線がずっと追いかけてるのも。きっと気づいているだろうに。
扉を開け、また閉めて、姿が見えなくなった途端。立ち上がり、先程彼が腰かけていた机に近づく。かってに机を物色する。期待していた、レプリカント計画と書いてあったタイトルのファイルはなかった。どうやら、一緒に持って行ったらしい。残念だ。という事は、やっぱり僕の目に触れて良い物ではなかったのか。今の所、市長さんから受けた印象からすると。であれば、怒られてそうなのに。
一番気になっていた物がなければ、次に僕の気を引いたのは。机にある引き出しで。そうすると、先程彼が使っていた眼鏡をそう時間がかからず発見した。物珍しかったのもあった、この街でそんな物を使ってる人自体。見かけた事がなくて。試しに、特に目が悪いわけでもないのに僕も掛けようとして。止めた。視界にレンズ部分が被さった瞬間。あまりに、度がきつかったのもある。慣れない目に痛みを感じたからだった。
もしかして、裸眼の時。ずっと眉が寄って不機嫌そうなのって。目が悪いから、遠くを見ようとして。とか? まさかねと、普段使いには向かない。度がきつ過ぎる眼鏡を。元あった場所に、そっと戻す。物色している間、不意に戻って来やしないか。内心そわそわしていたけれど。懸念とは裏腹にそれきり、市長さんが戻って来る事はなかった。
たぶん、ベッドの一段目は。彼の寝床だと思うのだけれど。もしかして、あまり寝にも帰ってこないのだろうか。暗くなったら、寝るだけの僕は。二段目のベッドに上がる為に。梯子に足を掛けながら、視界に入った昨日と変わらない乱れ方をしたシーツを見て。そんな考えが過る。僕が、彼の心配をする筋合いはこれっぽっちもないのだけれど。
夜ご飯を食べに行く選択もあったが。一人で食べるのも、その間じろじろ見られる心労も考慮すると。今日一日動いてないから、十分かと。それはしなかった。都合よく、昼間みたいに虎の先生に会えるとも限らない。
冷たいベッドに横になれば。思い出すのは、いつだってガルシェの事だった。毛布すらないから、余計に彼の温もりを意識させられるのだと思う。マットの上で、身体を丸めながら。寒さに震える。換気の為に開けていた窓も、もう閉めたというのに。部屋の温度は下がったままだった。こんな時、彼らのように毛皮があればなと。そうすれば、同じ種族なら。人の目も気にせず、こうして寒さもまだマシであったろうに。
サモエドのおばちゃんの元で、仕事させて貰っている時。その通う道中だって一人であったのに。勇気をくれていた人がいなくなった途端、その時は気にしないでいられた人の目線が余計に煩わしくなるなんて。
プレハブ小屋のあの家と、そう断熱具合は変わらなさそうなのに。こうも、寒く感じる別の何かがあった。アーサー、ちゃんとご飯貰えてるかな。ガルシェって、結構忘れっぽいし。あげるの忘れて、その狼の顔を蹴られたりしていないだろうか。僕がいなくなって、丸一日が経って。訪ねて来ないのが。ちょっとだけ悲しかった。
そうやって、僕の事も。いずれ忘れてしまうのかもしれないと。そう暗闇の中で、自分の二の腕を擦りながら。だって、別に彼は。この学校に普通に来れる筈だったから。顔ぐらい、見に来てくれてもいいだろうに。彼が顔を出さないのが、お前の存在などその程度でしかないと。誰かに言われてるような気がした。一緒に暮らして、深まった見えない絆は。幻想で。僕だけがかってに抱いていたまやかしであって。ガルシェにとっては、本当に取るに足らない。ペットでしかなくて。愛着なんて。いや、彼の性格を知っているのだから。そう思うのは彼が僕にくれた優しさに対する侮辱でもある。この思考は心細さがそうさせた。肌寒さが。そうさせたと、言い切れるのだろうか。こうして、一人になって。彼との日常を俯瞰すると。そうだと、ただ僕が思いたいだけじゃないのかと。悪い方向ばかりへと、考えてしまうのは悪い僕の癖だった。そうわかっているのに、止められないのだから。身体が痒い。お風呂入りたい、もう入れなくて何日経っただろうか。一人は寂しい。ガルシェ。ガルシェ。
心の中で名を呼んでも、答えてくれるわけもないのにな。隣に誰もいない、マットの感触を感じながら。
「おやすみなさい」
習慣付いているから。昨日寝る前には言わなかったけれど。試しにそう言ってみても。部屋に虚しく僕の声が響いただけだった。返事してくれる人は、居ないのだから。それで返事があれば、心霊現象であるけれど。
言えば、寝られると思った。思考ばかりかってに動いてしまうから、今日は寝難いとも思ったから。だから、目を瞑って、少しして寝返りをして。足先を擦り合わせる。自分のにおいも、銀狼のにおいもしないから。安心感は得られない。彼らみたいに、人間である僕はそこまでにおい情報でコミュニケーションをするわけではないから。それに重きを置いていないのに。今は、彼の体臭が感じられないのが。目を瞑って世界を視界から遮断しても、五感の内、視覚を封じても、嗅覚が訴えてくる。聴覚も、僅かに聞こえる寝息もない。僕の呼吸音だけ。
寝られないまま、真っ暗な中でまた寝返りをうっていると。静かに開けられる引き戸、それでもローラー部分がそれなりな音を立てていたけれど。時間帯からか、昼間よりはその音は小さかった。人が入って来る気配。足音と、そして服を脱いでいるのか。布が擦れ合うのが聞こえる。薄目を開ければ、机の小さなライトを付けたのか。二段ベッドから下がほんの少し明るかった。部屋の電気は付ければ、もっと明るいのに。見えない誰かは、僕が既に寝ていると思っているから気を遣ってくれているのだろうか。それが誰かなんて、この部屋の主以外ありえないのだけれど。
紙を捲り、ペンがその上を動くのが。誰かの呼吸音に飢えていた聴覚から、人は相手が何をしているか状況を読み取る。時間は見えないけれど、もう真夜中もいいところだろうに。また仕事してるのか。寝たふりをしながら。そんな事を思った。寝に帰って来たと最初はそんなふうに思ったけれど。どうやら違ったようだった。
部屋に誰かの存在を感じて、心細さはなくなったけれど。こんどは逆に、物音が気になって寝れなくなっていた。あのまま、もう少し一人であったなら。寝られたかというとそうでもない気がしたけれど。いったい、いつ寝ているのだろうか。あの人は。
そんな疑問も、途絶えた音で払拭する事となる。あれ、と思い。寝たふりをしていた手前、物音をこちらはさせないように。ほんの少し身を起こし、二段ベッドの上から。顔だけを出す。耳の良い異種族の彼らであるから、どうなってるのか覗いた途端。目が合ったりしたら恐ろしいけれど。ただ、灰色の狼が。ぼんやりとしたスタンドライトに照らされて、机にうつ伏せになって動かない姿がそこにあった。握っていたであろうペンが、手の中から抜け出し。書類の上に転がっている。まさか、倒れたのかと思ったが。肩が緩やかに上下しているから。呼吸は安定しているらしい。となれば、恐らくは。
「寝落ち?」
つい、そう小声ではあったけれど。声に出してしまったから、慌てて口を手で押さえる。出した音は、それでなかった事にはできないけれど。それで灰狼が起きるような事態には陥らなかった。這い出して、梯子を静かに降りていく。最後の段でギィって、そんな軋みを梯子はさせたけれど。それでも起きない。限界まで我慢していたのだろうか。
そんな背を見つめれば、今はスーツの上は脱いだ後なのか。中に着ていたシャツだけとなっていた。ちょっと視線をズラせば、書類の山を隠すように上着であるジャケットと、その上に解かれたネクタイがあった。皴になるなって、気になった僕は。それを拾うと、ハンガーを探した後。壁の引っ掛けられる出っ張りに吊るす。これで良し、そう思って一人仁王立ちして納得していたけれど。いったい、何をしてるんだとふと我に返った。ついつい、ガルシェとの暮らしで。世話を焼くのが癖になっていた。あの銀狼も、服をどこでも脱ぐし。
やってちょっと後悔。今からでも、スーツが皴になるようにご丁寧に元の位置へ戻すべきか。横目に狼の寝顔を見れば眉間に皴が寄っていて、寝ている時まで不機嫌そうだった。ちょっとだけ、その眉の部分が解れないか、試しに触れたい衝動に駆られるけれど。そんな事したら、秒で起きそうだと我慢する。今もいつ起きるかわかったもんじゃないのに。
普段見慣れてる寝顔と比べてみて。あの銀狼は、目つきが悪いけれど。寝てる時は可愛らしいぐらい、安らかに寝てるけれど。一度寝ると、起こそうとしてもなかなか起きないし。血を受け継いでいるとは思えないぐらい、その寝顔は違っていたのだった。母親似、なのだろうか。
どうして、そこまで頑張るのだろうか。寝る間も惜しんで。市長、だからだろうか。立場がそうさせたのだろうか。こんな姿を見て、ただ連れてこられただけの僕に。どうしろって言うんだ、特に誰も問うてはいないけれど。覗き込んでいた姿勢を戻して。椅子から納まらず、垂れ下がり床にまで達してる大きな尾を踏まないように避けながら。そうしたら、一度、寝落ちした狼へ振り返って。
そうやって、最初と同じように。音を立てないように気を遣いつつ。二段ベッドに戻る。僕が一度こっそりと降りたせいで、変わった事と言えば。スーツのジャケットが放置されておらず、壁にちゃんと掛けられている事と。追加でもう一つ。
シャツ姿で寒そうなその背に。毛布が一枚。追加された程度だった。二段ベッドの下の段部分、恐らく彼が寝る場所だったそこからかってに拝借した物であった。対して僕は、やっぱり何も身体を覆わず。二段ベッドの上の部分に寝転がるだけだったけれど。満足感があって、寂しさで寒がっていた心だけは。今は温かかった。
別に、あの灰狼自体は。どちらかと言えば、その人の事を好きか、嫌いか。その括りで言ったとしたら、マイナスに近いのに。そのまま放置して、もう一度寝ようと努力する事は。どうしてもできなかった。お節介な僕からすると。
丸まって寝転がると。あれだけ寝られなかったけれど、二度目の挑戦では。不思議と先程のが嘘のように睡魔がやって来た。あんなに寝られなくて、寝返りを意味もなく繰り返していたのが何だったのだ。感覚的にはちょっとだけ目を瞑って、意識が一瞬途絶えたなって感じて。次に目を開けたら、周りが明るくて。朝になっていた。
睡眠時間が少ないせいか、あの銀狼に比べて朝には強いのに。珍しく意識が覚醒してもまだ眠いと感じる。目を擦りつつ、ダルいなって思いながら身を起こせば。自分の身体から何かがずり落ちるのを感じた。そう思って、下半身を見やれば。心当たりのない毛布。でも見覚えがあって。
そのまま、昨日はそこに居た筈の灰狼を探すけれど。椅子が引かれたまま、今は影も形もなかった。昨日僕が掛けた毛布も、彼が持ってきて仕事してた書類も。毛布は、最初あった位置にあるのかなと思っても。下の段を覗き込んでも、そこにはなくて。とすると、今僕に掛けられているのは。
朝の早い時間だよねって、時計を見て。確認して。そこでくしゃみ。やっぱり、朝はさらに冷える。雪降るのかな。雨が少ない土地だから、雪もあまり降らなそう。地下水は豊富みたいだから水不足自体はないけれど。それも、ろ過しなければ泥水だから飲めないのが。
梯子を降りながらそんな事を考えていたのがいけなかったのか、そう多くない梯子で踏み外して。一瞬転げ落ちそうになる。咄嗟に掴み直したから、怪我とかはしなかったけれど。何だか身体が普段よりも重い。額に手を当てて、平熱であると。体感も加味して判断して。これは今日も大人しくしていた方が良いな、元々外出して良いかも聞きそびれていたけれど。行く当てもないが。最近、本当に引きこもってばかりで身体が鈍ってしまう。サモエドのおばちゃんの所で働いていた時は、もっぱらお会計で、後は立ってるだけが多かったけれど。少ないとはいえ、それなりに食べ物とか食材を運んだりといった事もするから。家事だって、わりと動くから体力がいる。このままだと、ただでさえひょろい自分が。最低限の筋肉まで落ちて、ただのガリガリの骨になりそうだ。
それで、この部屋で腕立て伏せとか。筋肉がこれ以上落ちないように、わざわざ筋トレとか努力したりする気骨なんてあるような人間でもないけれど。
暇潰しになりそうな物でもないかなと、書類の山を漁れば。失った技術を取り戻そうとしてか、報告書とかよりも。そういった参考書めいた物が多かった。古く、劣化し。物によっては焼けて殆ど読めない本から、書き写す途中らしき。そんな本と、紙の痕跡すらあって。文字が擦れて、本自体はそこまで損傷していなくても。肝心な部分が読めないといったものも。
そんな中でも、復元した資料を使って。ここまでこの街は文明を取り戻して来たのだろうか。違う本を手に取っては、ページを捲りつつ。そんな事を思う。その恩恵に少なからず、僕もあやかっているのだから。逞しいな、人って。僕が目覚めたあの廃墟ばかりの都市部では、もうどこも機能しなさそうで。直せそうなんて思えないのに。今僕が暮らしてるユートピアと呼ばれるここは。自分達の手で、完全とはいかないまでも。水道だって、電気だって、使えてるんだから。そりゃ、パソコンとか見かけないし。僕の記憶と照らし合わせると、再現するには足りない物ばかりであったけれど。
だけど、けれどもだ。こうして、資料を見ていると。まだ実現できていない、事の方が多いのだなと。計画書まであって。それは、もっと大きなろ過施設の建設だとか。街全体のさらなる発展。壁の増設、畑が作れる土地の確保。畜産の幅を広げる。問題ばかり、解決しても次から次へと。せっかく作った真新しい手書きの資料は、大きく赤ペンでチェックが入れられて。一度丸めたのか皴がついていた。考えても、無理だと判断する方がずっと多いのだろうか。人材も、資源も、何もかも。本当に足りないのだろう。赤文字で、下の方に再現不可能と追記されているのも。重機の絵があった。スケッチだろうか、誰が見てもそれがショベルカーだとわかるぐらい。市長さん、絵が上手いな。修理に必要な部品、なし。一部機材に、担当の者がまだそれが何か、修理自体が知識不足で試みる事ができないといった。そんな事が書かれていた。それは、そうだろう。ここには、そんな専門的な職業訓練所とかない。半導体だって、作れないだろう。設備もなければ、必要な知識も欠落している。そんなものを持った、人間って。今でも居るのだろうか。僕も、車とか、テレビとか。どう使うかは知ってはいても、一から創れるわけではない。機械知識なんて、プラスとマインスがどうとか、電池が直列と並列でどうだとか。低レベルな、発展にはまるで役に立てそうもない。
表面的な部分でしか、知らないんだなって。それって、この半年。一緒に暮らしたガルシェでも、そうなのだけれど。本音を聞くのが怖いから、どうして僕を匿ってるのか。ずっと聞けないままで。聞けないのをそのままに、こうして離れてしまった。
人間に近い知性があり、暮らしはとても似通ってる。社会性も、参考にしているのだろうか。となると、やはり疑問になるのは彼らはどこから来たか。手掛かりとなる例のファイルは取り上げられてしまって、辛うじて読めた部分は前半もごく一部で。著者の人がしたためた内容的に何かを研究してるんだなってぐらいだった。
なら、彼らは。人間が。考え事をしていると、やけに廊下が騒がしいのに気づいた。引き戸に設けられた磨りガラス越しに、人型のシルエットが一方方向へと。駆け足で通り過ぎて行くのが見えた。何だろうか。手に持っていた、食料不足を訴える報告書を机に元あった場所に置いて。窓に近づく。当然こちらもそのままでは、外がぼんやりとしか見えないから。少しだけ開け、様子を窺うと。訓練していた筈の人達まで、中止して。どこかへと走っていくようだった。事件だろうか。にしては、遠目からでも辛うじて見えた彼らの表情は。鬼気迫るものではなく、どちらかというと。
人の気配が薄くなって、窓を閉めると。こんどは正反対の位置にある廊下へと続く引き戸へ。そーっと開け、顔だけ出して。左右確認。よし、誰もいない。見張りなんて元々立ってるわけではないから、こうも警戒しなくても良いのだが。雰囲気作りは大事だった。中腰で外へ出ると、素早く振り返り。静かに扉を閉める。落下防止か、基本学校の窓は全部立った状態だとお腹よりも上の位置にあるから。こうしてしゃがんだまま移動すれば、僕の姿は外からは見えない。長い廊下では、背後か、正面からだと丸見えではあったが。太い柱の陰にその時は身を隠せば良いかな。スパイ映画の真似事とばかりに、壁伝いに暫く歩いて。中腰のまま移動すると、思ったより腰が痛いなって。結局は数部屋過ぎた段階で普通に歩く事にした。人に見られたら恥ずかしいってのも、少なからずあった。
普段は職員の人が誰かしら居るのに、今はもぬけの殻だった。こうして、人の目がないから。ぶらぶらと歩いて探検していると。やっぱりそこそこ大きい学校だったのだろうな。部屋によっては、武器庫らしき部屋になってたりするから。もう生徒が授業を受けていた名残はなさそうで、扉も厳重に管理されているのか。扉の取っ手には大きな南京錠が二つもあった。小さいと、レプリカントの人達なら腕力だけでこじ開けられそうだ。
本来とは違う用途で使われているこの建物を、目的もなく徘徊するだけで。そこそこワクワクする。娯楽に飢えていたから、見るだけで面白い。この部屋は鍵が掛かっていないのを確認して、扉を開けて覗き込めば。職員の部屋なのか。複数のベッドがあった。共同で寝泊まりしているのか。少し物が散らかってて、でもゴミが散乱してるわけではなく。丁度いい生活感があった。廊下の空気と混ざろうとしたのか、部屋からこちらへと、むわっとする臭いがして。扉を閉めた。どうやら、干してあった洗濯物の中にあった下着とかを鑑みるに。男部屋らしかった。凄く雄臭いし。バーベルが床に転がってたし。不在だからと他人の部屋に踏み入る礼儀知らずなわけでもないから。ガルシェと二人で暮らしてるだけで、それなりに大変でプライベートな空間なんてないのに。それよりも人数が多いと何かと大変そうだな。色々と。
部屋と部屋の間に。同時に複数人が通れる、大きな階段があったから。どうやらここから二階に上がれるらしい。ここは一階であるから、下へと降りるわけではなく。また別の通路になってて。違う校舎へと続いているようだった。二階はどうなってるのかなと、とても気にはなったけど。頭が重くて、これ以上歩き回るのは。しんどさの方が勝った。ああ、これってやっぱり。気分的には、もっと見て回りたいが。どうやら僕の身体の方が限界らしい。元来た道を戻ろうとして。振り返った瞬間。さっきまでなかった壁にぶつかった。布と柔らかさの中に、鋼のような感触が顔全体に伝わる。ゆっくりとした動作だった為に、それで後ろに倒れたりはしなかったけれど。ふらつきはして。どうやら僕が気付かない内に誰かが後ろから迫っていたようだった。服らしきものが見えるし。背後に立った段階で、知らず振り返ってお腹に衝突したらしい。なら感じた感触は、相手の腹筋か。
ふらついて、倒れると思ったのか。ぶつかられた相手は、咄嗟に僕の肩を掴んだ。力強く、太い手首。覆う真っ黒な毛皮。お礼でも、ぶつかった事による謝罪よりも。相手が誰か咄嗟に確認して。見上げた先。僕を見つめる獣の瞳。無表情な黒豹の顔があった。ただ、瞳の中にある瞳孔だけは。目が合った瞬間、細く変化していたけれど。未だに名前も知らない、黒豹の人だった。だとしたら、もしかしてかってに抜け出した僕を探して追いかけて来たのだろうか。身体が大きいのに足音がしなかったから、僕よりよっぽど潜入に向いているなって。先程そんな子供のごっこ遊びみたいな事をしてた僕からの感想。だから傍から見たら恥ずかしいなって、早々止めたのだけれど。この人がやったら、かっこいいかもしれない。軍服の迷彩柄も相まって。ただ、今日に限って言えば。彼の服装は軍服ではなく、随分ラフな格好だった。
ぼんやりと、見つめている人と。その人間の肩を掴んだまま、固まってしまっている黒豹。お互い喋らないまま、時間だけが経過していく。何か待ってるのかなって。纏まらない思考で。ああ、そっか。
「あ、すみません。ありがとうございます、大丈夫です」
ぶつかって、それと掴まれた肩の手。もう放して欲しいという意図もあってそう言った。黒い毛皮だから、白く長く横に伸びた髭が震えるとよく目立つ。僕の声が聞こえてるとは思うんだけど、反応があったのは。それから五秒ぐらい経った頃で。掴まれた、ガルシェと違い常に爪が出ていない。ちょっと丸みのある手が離れて。良かったと、油断していると。もう少しだけ持ち上がり、僕の額に片手が触れた。手が大きいから、視界まで隠れて。相手の顔が見えない。その代わり、ピントが合わないぐらいの至近距離にピンク色の肉球。ほのかに香る、レプリカントの人からは珍しい汗の臭い。
「熱があるようですが」
僕の髪を掻き上げていた、彼の手が離れると。落ちついた、声がする。職務中だと、ハキハキと喋っているけど。今は勤務外なのか。声量は抑えられていた。だから、今日は軍服を着ていないのかと納得して。いけない、また反応が遅れた。
「たぶん、風邪、だと思います。でも大丈夫です、もう部屋に戻りますから」
もしも追いかけて来たなら、先手にと。帰る旨を伝える。強引に連れ戻されたら、しんどいというのもあったし。そう言って置けば怒られないかなって。やはり、かってに出歩いては駄目だったろうか。そもそも、何も言われていないのだけれど。
「顔色も、少々赤いようですが」
黒豹の視線が、僕の顔から一切逸らされない。無表情なのも相まって、居心地が悪いけれど。どうしてこうも、見つめられているのか。それは合点がいった。僕の顔色が悪いからか。羞恥を感じて赤面したわけでもなく、確かに顔がちょっといつもより温い。どうやらじわじわと熱が上がっているようだ。今しかないと、大人しくしていようと思っていた矢先。出歩いたのは間違いであったか。でも暇だったし。頭の中で自分に言い訳をしながら、大丈夫と言い。相手の横を通り過ぎようとした。何を考えてるかこの人あまり読めないし、鍛えてる大人のレプリカントの男性に見下ろされるのは威圧感が凄いから。逃げたいという、草食獣めいた本能が働いた。相手、肉食の大型猫科動物の顔をしてるし。隣まで来たら、僕の進行方向を遮るように。彼の太く長い尻尾が鞭のようにしなり、ぽすりと胸を叩いた。結構思い通りに動かせるんだなって、その尻尾の動きを目で追っていると。僕の胸から離れていく。そして視界から廊下が消えて、突然天井が見えそうになって。背に、硬い感触がして。続いて、足裏から床を踏みしめている感触が消えた。
膝裏と、背を支えられて。腰や、片腕に相手の胸が当たり。そして、ずっと近い距離に。黒豹の頭があった。どうしてそんな所に、彼の顔が。そんな疑問が浮かんで。
「この程度の衝撃で倒れるのに。ぜんぜん大丈夫じゃないようですが」
無表情の顔に変化が、どうやらちょっと呆れてるようだった。そんな事ないと、動きたかったが。足を動かしても空中を蹴るばかりで。そこで、自分が姫抱きされている事に気づいてしまった。男の僕が、そんな状態になっていると認識すると。風邪とは別に、さらに顔が赤みを帯びていくのを自覚する。そんな僕の顔を見た黒豹の人が、ほらとばかりに肩を竦めて。かってに歩き出してしまう。
僕の意思を介さず、自動で視界に写る風景が横に流れて行く。密着していると、男らしい体臭が感じられて。抱えられて、支える為に触れている手の部分から。じんわりと湿り気が伝わった。非番なのに鍛錬にと、何か運動でもしていたのだろうか。実直そうだし。相手をよく知りもしないのに、そんなかってな偏見。揺れは思ったより少ない、しなやかな身のこなしが。足音の少なさも相まって、思ったより乗り心地というか、運ばれ心地は良かった。とある扉の前で立ち止まると。太い尾を使って、取っ手に引っ掛けると。引き戸を手も使わずに開ける。太い分、それなりに筋力がありこんな事もできるのか。狼の尾と違い、多機能だなと感心していると。どうやら、市長の部屋ではなく。さっき見た、共同部屋らしかった。複数の雄の臭いの中に、確かに。今僕を抱えている、彼のが混じっている気がする。人間の鼻は犬科のガルシェよりも、性能は劣るから。そうだと断じるわけもなく。ただ気がするというだけで。ただ、近くにバーベルが転がってるベッドに。黒豹の人が近寄り。そしてそのまま、自分のベッドであろう場所へと僕を静かに寝かせた。てっきり、市長の部屋へ運ばれるものと思っていた僕は。それで頭の上にクエスチョンマークを大量に出してしまう。漫画みたいに実際に出してるわけではなく、気分的に。
それに、迷惑だろうと。そんな考えもあった。非番らしい彼に、手を煩わすのは。寝かせたら、膝立ちでベッドの傍で僕を観察していた黒豹が。そんな不安と、困惑と、申し訳なさで眉尻を下げている人間の顔を見て。
「心配しなくても、市長から昼間は貴方の面倒を見るように仕事を任されています。明日から、ですけど」
だからと、何も自分の部屋に運ぶ必要は絶対なかった筈で。それだけ言うと、掛け布団を僕の身体に掛けてしまう。だから大人しくしていろとも、布団が示しているような気がした。僕が何か言う前に、立ち上がり。黒豹は部屋を出て行ってしまった。
どうしよう、かってにベッドから出て。市長の部屋に一人で戻るのも、もう手遅れで。それに、冷静に言われた内容を振り返れば。しれっと、明日から。そう言っていたから。内心、迷惑だとも感じている可能性もある。本当に表情があまり変わらないから。実際どう思われてるかは、わからないけれど。僕だったら、休みの日まで仕事はしたくない。これ以上、手を煩わすのは。でも、休みの日にまで仕事をさせるのは。あーでもない、こーでもないと。ちょっと霞がかりだした思考で。考えて、考えて、止めた。最後に、あーもうって。声も出して。意味もなく布団を叩いて。黒い獣毛が舞う。それで、普段から彼がここで寝起きしてるんだなって確信を得た。やっぽり、男臭い。この部屋。換気しちゃ駄目だろうか。それぞれのベッドの傍に、洗濯籠があり。脱いだ服や、使用済みのタオル等が入っていた。こうして、部屋の中で黒豹を待っていると。言っては何だが、僅かに性臭も感じた。市長の部屋は、埃と、煙草の臭いの方が鼻についたが。銀狼の初めて訪れた際に感じた、生ゴミの臭いがしないのは。マシと言えるけれど。ゴミ部屋凄い。ワースト一位が不動のままだ。それを掃除して綺麗にした僕もっと凄い。いろんな人の部屋を目にする度、ガルシェの掃除をできなさが痛感する。僕が居なくなって、大丈夫だろうか。寂しさで彼の事を考えているのに。最終的にはまるで、ちゃんと食べてるかとか。母親のような思考ばかりになってしまう。なんでだ。恐らくこんな思考になるのも家事を一任されていたせいだ。好きでやってたから良いのだけれど。
布団の上でうだうだ唸っていると、扉が開かれて。再び黒豹が現れた。彼の部屋だから当然なのだけれど。ただ、その手には。手で行く時にはなかった、ステンレス製のコップと、洗面器があって。洗面器の縁に小さいタオルが掛けられており。もしかしてと、帰って来た相手を、それをどうするのかなって見ていると。予想通り、並々と入れられた水にタオルを浸し。絞ると、額に置かれた。とても、冷たい。でも、そんな事よりも。今は断水の影響で、どうして。
「……水」
僕が無意識にそう呟くと、反応した黒豹の手。タオルを絞った際に、彼の毛皮は少々濡れて小さな棘みたいに毛先が立ってしまっていた。その行先は、枕元近くにある。小さいキャスター付きの机で。どうやら、そこに先程のコップは置かれていたようだった。それを手に取ると、自分で飲むわけではなく、僕の方へと差し出して来るから。僕の発言から、水分を欲していると勘違いしたようだった。慌てて違うと、手を振りながら。断水の状況で、飲み水は蓄えがあるだろうけれど。洗面器に並々と注がれた量は、節水を考えると無駄遣いも良い所だ。しかも、人間である僕相手に。
「先程。ろ過施設が復旧したと報告がありました」
机へと、コップを戻しながら。そう教えてくれる黒豹。僕は、それで驚きと、次いで喜びで安堵する。そうか、良かった。次に考えるのはこれで洗濯できると、家に溜まったあれこれで。そんな自分の主婦めいた思考が嫌になった。ガルシェが頑張ってくれたのだろうか。技術者の人も、当然尽力してくれただろうけれど。でも、一番に考えているのは銀狼の事であった。
てことは、もしかして。学校が騒がしく、そして誰も居なくなったのて。そのろ過施設が復旧したからだったのであろうか。
「皆、やっと水が使えると。仕事を止めて祝いに行きました。同室の者は元々昼間は出払ってるので、夜になるまで帰って来ません。安心して寝てて良いですよ」
補足説明してくれる、そんな黒豹に。それでも、非番の日に。ごめんなさいと。それだけ伝えたのだった。それに対しては、黙ってしまったけれど。もしかしたら、この人も。その場に行きたいかもしれなかったし。というより、この街の人ってイベント事が好きなのだろうか。自分の仕事をほっぽりだしてまで。僕の中の社会人だと、喜びはしても、そのまま仕事してそうだから。それだけ、皆、大変な思いをして。そして、重要なのだろうけれど。命に係わるのだし。僕の普通なら、数日そこら不便ではあるけれど。断水しても、それなりに何とかなるし。それも、起きたとしても家だけで。コインランドリーとか、補助してくれる施設なんていくらでもある。感じる重みが違うとも言えた。
「そっか。良かった」
静かに呟いたけれど。隣には、それで十分聞こえる距離に人が居たから。それで、獣の唸り声みたいなのが聞こえて。びくりと、身体が反応した。天井を向いていた頭を、横へと向ければ。当然、僕を見つめている黒豹の人が居て。その手は、自身の喉を軽く押さえていた。僕が唸り声に反応したから、誤魔化すように尻尾が彼の背中でメトロノームのように揺れる。
「まるで自分の事のように、嬉しそうな顔をするのですね」
「えっ、あ、はい。僕も、それなりに、困ってましたし。あの家で水が使えないとやっぱり不便で」
「……そうですか」
「そう、ですね。そうです」
そうですけど、何か問題がありましたかと。内心焦る。無表情な顔が、じわじわと迫ってるのもあった。興味深げに、表情を覗かれてるとしても。ベッドに寝転がってるから、逃げる場所もなくて。ただ、ベッドの上に乗りあがって来る程ではなかったから。どうやら、何もするつもりはないらしい。彼を怒らせたのかと、思った。あまり相手の考えてる事が、表情が読めないと。こうも、怖いのだな。市長さんは、常に不機嫌そうだから。それはそれで、怖いというより。この人めんどくさいなと思うのだけれど。会話する内容も、何だか上手く行ってるとは言えなくて。ガルシェとはまた違ったタイプの、無口な人だった。必要がなければ喋らないだけだけれど、彼は。ぶっきらぼうとも言える。その分、スキンシップは最近激しかったけれど。黒豹の人は、意図が透けないから。ちゃんと会話のキャッチボールが成立しているか不安になる。
「えっと、ずっと見ていなくて、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
「そうですか」
そうです、ですからどうか。ずっと見つめるのは止めて欲しいのですが。そう目線でも訴えても、ただ見つめ返されるだけで。どうやらどこへも、もう行く気はないらしい。突然用事を思い出してもくれそうにもない。正直居心地が悪いので、早急に止めて欲しかった。ここで休んでいろって事なんだろうけれど。全然心が休まらない。気になってしかたがなかった、特に人の目線を気にしてしまう僕のような人間では特に。もうこの時には、相手に迷惑だとか。そういった考えは消えていた。
目を瞑り、静かにしてれば。相手も寝始めたからと、安心して。その内これも止めるだろう。だから、気になる視線をあえて無視して。意識から除外する。見えなければいいのだ。だから呼吸を落ち着け、寝る体勢に入る。まだ明るく、別に眠気もないから。寝られるわけではないけれど。こうでもしないと、目を離してくれる気配がなかったから。
感覚的に、どれくらい経っただろうか。布団の中でもぞもぞと動いて、他人のベッドではやっぱり落ち着かないのだった。視覚を遮断すれば、聴覚に頼らざるをえないわけで。そうすると、自分のミスが浮き彫りになった。かの黒豹は、足音を立てない特技があった。聴覚では、彼が離れたのか、もう見てないのか。まるでわからない。目を開けて確認するべきだろうか。いや、でも。まだこちらを見ていたら、それは目線が合うわけで。そうなると、とても気不味い。呼吸音から探ろうとしても、気配を断つのが上手な獣は。人如き、さらには別に武芸に精通してるわけでもない僕では。そんな達人みたいに、心眼で状況を把握する等とできるわけもなく。
さすがに、もう見てはないであろう。そう思いたい。体感時間的に、長針が半分は動いていてもおかしくはないであろう。あまり誇れるものはないけれど。体内時計にだけは、自信があった。だから。薄っすら目を開けて、周囲の様子を確認して。勢いよく、寝返りをうち。このベッドは壁際にあるから、自然と僕の正面にはそれで壁が来る事になるのだけれど。
まだこちらを見つめていた黒豹の瞳と、ばっちり合ってしまったため。急遽体勢を逃げるように動いたから、そうなったのだった。なんで。なんでまだ見てるのこの人と、心の中で叫ぶ。しんどいと、寝ている筈なのに。心の中では波乱万丈に、動き回って、大騒ぎしていた。休むどころではなかったと言える。背中に突き刺さる視線。観念して、首だけ軽く振り返った。
寝る前と、全く変わらぬ姿勢で。黒豹の人が座っていた。
「あの……」
「はい」
控えめに、名前を知らないから。失礼かもしれないが、どうしようもないしそう呼びかけて。相手も、淡々と返事してくれる。布団を深く被りながら、口元を隠す。嫌そうな顔をあまり見られたくないというのもあったし、看病しようとしてくれてる相手に。そんな顔を見せるのもなってのもあった。仕事だろうし、そして非番なのにそれを強いて。間が悪く体調を崩したのは僕なのだから。
「見られてると、気になって寝られないです」
でも、言わないとわかってくれないだろうし。だから言った。そうすると、大きな身体で隠れていた尻尾がぴんと後ろで伸びたのがわかって。対する表情は、それでも動いてないのがさすがだなと思った。表情筋、死んでる? 看病してくれてる相手に抱くには失礼な考え。動物だから表情豊かなのは限られていて、でも犬科と猫科って割と人間みたいに。ちゃんところころと色々な表情を見せてくれるよね。ガルシェだって、むすっとしてたり。不機嫌そうな顔が多いけれど。そういう時は決まって舌打ちするし。それでも、時折見せる穏やかな笑う姿にドキドキして。寝顔だって可愛いのに。狼だから、普通にしてたらカッコいいと思うけど。顔立ちで言えば、この黒豹の人だって。整った顔をしている気がする。気がするってだけで動物の美醜って僕の視点からすると、正しいのかは定かではないが。ずっと僕を見つめていた彼は、そこで漸く動きをみせた。今までが、まるで銅像のように動きがないとも言えたけれど。僕がどうして寝られないのか、得心がいったのか。ベッド傍で監視する為に座っていた姿勢から、立ち上がるのを見て。これで安心して寝られると。僕も、安心してもう一度寝ようとした。した、のだけど。
何か動く音と、金属がぶつかり合って。小さく鳴って。そこに、合間に小さく。溜めて吐くような呼吸音がしだして。ゆっくりと閉じた瞼が、こんどは勢いよく開き。眠気なんて、やっぱり来ない。
僕を眺める事を止めてくれた黒豹は。それで良かったのだけれど、次はダンベルをどこからか持って来て。それを両手に持ち、交互に持ち上げて居た。腕を胸近くまで寄せる度に、膨らむ上腕二頭筋。ラフな格好だからか、露出した腕まわりは毛皮で覆われていても。隆起する姿が良くわかった。背中をこちらに向けているから、肩甲骨を覆う僧帽筋まで。ぐっと動くのも。銀狼に負けず劣らず、鍛えられた肉体が。さらに痛めつけられて進化しようと、筋肉繊維を酷使し、新たな出会いを産むのだ。肉体を包む、一番信頼できる。友達。発汗する部位は手のひらと足裏ぐらいなのに、今は全身から湯気が出ているように錯覚する。その暑苦しさに。実際に部屋の気温は寒いから、温度差に出ててもおかしくはなかった。
男らしい、喘ぎ声ではなくても。負荷が掛かった声。表情は変わらず、でも唇が薄く開き。上の犬歯がちらりと見えた。規則正しい、リズムで。持ち上げられるダンベル、振られる度にまた金属の音がした。棒状のに、円盤状の重しを変えられるタイプらしい。そして装着されてるのは、横に書かれてる文字からニ十キロはあるようだった。それを両手に二つ、事も無げにこなしていた。僕程度、軽く持ち上げられるわけだ。でも、今しなくても。そんな他人の部屋で自分かってな思考。だって、正直ふんふんうるさい。あと、目に悪い。男色の趣味はあんまりないが。ガルシェとそういう事をしてしまった為に、あんまりと言わざるを得ないのが解せぬ。でも実際、不特定多数の男に性的な目線で見てるわけでもないから。そう言うしかなく。それでも、雄としての魅力に溢れているその姿は。どこか、色気を感じたのも。また確かであった。体格が銀狼と似ているから、彼を思い出すのも。一役買っていたかもしれない。
無心で、重りを持ち上げていたのに。だらりと、突然脱力すると。黒豹は不思議そうに、首を傾げ。天井を見るようして顔を上げた。そして、スンスンと。聞こえたのは、においを嗅ぎ鼻を鳴らしていて。肉球と同じ色をした、鼻が動く。センサーのように、横向きに伸びた白い髭が扇状に広がった。そして、黒豹が。僕の方を向いた事で。どうしてそんな事したのか。経験則から、嫌な予感がした。銀狼に身をもって教えられたとも。
だから、次に彼が取る行動は。ダンベルを静かに床に置くと、相変わらず足音のしないその身のこなしで。ベッドでちゃんと大人しく寝ている僕に近づいて来る。内心は、来ないでと。言っていた。黒豹の片膝がベッドの上に乗せられ、加重を加えられた分軋む。そして両手が。僕が頭を預けている、枕の両隣へと置かれる。覆いかぶさるようにして、細められた獣の瞳がそこにあって。視界の殆どを塞ぐ、男の上半身。両肩から時折、尻尾の先が見え隠れしてるから。だいぶ忙しなく動いてるらしかった。
こうして、至近距離で改めて見ると光の加減で黄色いと思っていた彼の瞳は。部屋の明かりを背にすると、本当の姿を僕に見せていて。翡翠のようで綺麗だった。
「風邪をひいてるのに。もしかして、人種ってこうやって発情して、誘うんですか」
「違います!」
男の問いに、即座に否定していた。どうして、こうなるのか。ガルシェ曰く、どうやら彼らはその卓越した嗅覚を使い。感情を身体から発せられるにおいで。だいたいどう思ってるか察せられるらしく、それは僕がえっちな事を考えていると。発情臭めいた、そんなにおいをさせるらしい。共に暮らしている銀狼が、嗅ぎ続け、そして禁欲を続けたから。身の中で小さく燻ぶる欲の蓄積で、結果倒れるに至るぐらいの。自分ではわからない体臭が。そんなに、とも思うけど。こうして、全く別の相手にまで。指摘されたら真実なのであろう。より多くの意見は大事だけれど、これはいらなかったと思う。というより、嗅がれたくなかった。人の筋トレ姿に、ガルシェのあれこれを思い出して。変な事を考えてるお前が悪いと言われたら、それはそうなのだけれど。複数の男のにおいがこびりついたこの部屋で、多少は誤魔化せる事を期待したかったが。残念ながら、そうはいかなかったらしい。僕って、もしかして臭いのだろうか。お風呂数日入ってないし、そうかもしれない。断水が直ったなら、絶対お風呂に入る。明日にでも。そんな急遽僕の中だけでたてられた予定も、体調が悪化していない。という前提の元ではあったが。
目元まで布団を手繰り寄せて、身を隠す。目に見えて拒否の姿勢にと。額に置かれたタオルが、摘ままれ、端からゆっくりと剥がされた。代わりに、猫科特有の、横長のT字みたいな形をした鼻が寄せられる。鼻先を使い、前髪を退けながら。そうして、直に嗅がれていた。鼻息が湿った額に、ちょっと擽ったい。次に何をされるんだと、戦々恐々としていると。嗅いで満足したのか。それで身を起こした男は。持ったタオルを近くにある洗面器に再び浸して、水気を絞ると。また額に置いてくれた。膝立ちだったから、先程よりも強調されている。股間部分の不自然な盛り上がりが、表情よりも雄弁に男として彼が今どういった状態か十二分に僕へと伝えていて。それでも、手を出してくるような事はなかった。
「少し出てきます。暫くは戻りません。……余計な事は考えずちゃんと寝ていろ」
「あ、はい」
喉元を押さえながら、唸らないように気にしているのか、立ち上がりながらそう言われてしまった。でもそんな状態でどこへ。さっきまで寝ようとする僕から、離れようとしなかったのに。
「えっと、どこへ?」
「トイレだ」
湧いた疑問のまま発した言葉に、彼はこちらを一瞥すると。聞き取り辛かったが最後にそう一言告げたら僕を置いて、早々出て行ってしまう。ずっとズボンは突っ張ったままで、ちょっと歩き難そうだなと感じたけれど。見えなくなるまで素知らぬ顔だった。最後の方の台詞だけ、僅かに零れた敬語を使い隠していた雄の気配。ただ、なんでこのタイミングでトイレ。そう思って。そう経たず思い当たった答えに。また顔が、熱く感じた。熱、上がったかな。上がったな。足をばたつかせると、また黒い動物の毛が空中を舞うのだった。
関節が痛い、布団が掛かってるのに。寒さを感じる。なのに、汗がじんわりと身体から噴き出すのが不思議だった。頭が眠る前よりも重い。というより、脳の中心から額にかけて鈍い痛みが。ぼやけた視界と意識で、誰かが二人。話し合ってるのが聞こえる。ただ内容だけは理解できない。
ただ、知ってる人だってのはわかった。声から判断するに、一人は僕を自室へと運び看病してくれた黒豹の人。そしてもう一人は、あの虎の先生のものであった。黒豹の人、帰りに先生を呼びに行ってくれたのだろうか。それだけは辛うじて考えられた。でも凄くぼーっとするし、あまり思考を働かせるとやっぱり頭が痛んだ。体温を奪われた程度で、本当に弱いな僕の身体って。
縞模様が綺麗な、大きな手が。僕の腕に紐を巻きつけていた。ぐっとキツく、血流を阻害されるぐらい巻かれそこで固定される。続いて、肌を虎の手が撫でて何かを探している仕草。そんな感触だけを頼りに、何をされてるんだろうって。思っていると。突如として、身体に尖った物を突き立てられた。間髪を入れずそこから吸われて、液体を強制的に抜かれていく鋭い痛みが走る。襲い掛かる痛みに、暴れそうになるが。自分の肉体は脱力したままで、まるで鉛のようであった。表情だけは動くからと、顔を顰めていると。額に、黒い影が被さる。それはそのまま、左右へと緩い力加減で動くから。誰かの手だと認識したら。撫でられてるんだなって。翡翠石があった。宝石が空中に二つ、僕の眼前に浮いていた。そんなものどうして。
「解熱効果のある薬も置いておきます。念のために、抜いた血は現状でできるだけの血液検査も。人と我々が罹る病気は違いますけど、万が一、もありますから」
ちょっとだけ、意識がはっきりしてきたから。先生の言葉がちゃんと脳へと入って来る。でもその分、瞼が重くなってきた。黒豹と虎が、また会話してる。そこで、また、意識が飛んだ。
続いて、意識がまた浮上した時。周辺がとても騒がしくなってるのに気付いた。
「おいおい、人間じゃん」
「何、病気? てかお前、そいつの面倒見るの明日からじゃなかったか」
「そうだな」
「サイナンだよな、人間のお世話なんて」
声が四人分。一人は、黒豹のもので。残りの三人は知らない男性のものだった。同室の者は夜になるまで帰ってこないと言っていたから。じゃあ、もう夜なんだ。感覚的には、一回瞬きしたぐらいなのに。結構寝ていたんだな。それも、人のベッドを占領して。とても申し訳ない気がして来たけれど。知らないレプリカントの人が、さらに三人も居るこの状況で。起きるのは躊躇われた。ただ単に、僕が好意的ではない目線に今。晒されたくないというのもあったし、起きたら。直接僕に対して投げかけられる言葉に、上手に返せるかといった不安で。とても、しんどいと身体が訴えている状態で。心にもそれは影響していて、余裕のない自分が。つい、相手を怒らせる事を言わないか。自信がなかった。怒らせたら、人間である僕は。簡単に殺されるぐらいの、身体的な性能の差があって。一発でも殴られれば、首や顔の骨が折れるやもしれない。まして、黒豹と同室の人って事は。同じ軍属なわけで、鍛えた体躯はそれだけで凶器だった。
穏やかな呼吸が乱れないように、気を遣っていた。狸寝入りがバレやしないかと。やっぱり、迷惑だったろうか。黒豹の彼は、今日は非番で。基本レプリカントの人達の、人間に対する反応は三者三葉で。サモエドのおばちゃんや、ルオネといった人達は、偏見もなく比較的に穏やかに接してくれる。でもそれは残念ながら少ない部類で。多くは、言ってはなんだが。今は友達として接しているガカイドですら、最初はあまり壁を感じたように。良く思われていない。それはやっぱり、異種族という部分が大きく。
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でも、僕はガルシェのおかげで。あの銀狼の優しさに触れて。こうして、だいぶそういった畏怖は消え去って。でもそれは、完全にではなくて。こうして、誰も守ってくれるわけではない場所で。一人、複数の相手に囲まれたら。布団の中に押し込められた、手が震える。レプリカントの人を怖がるのは、同時にガルシェを怖がるようで。ごめん、でも、やっぱり怖い。
そう、あの美しいと感じた。銀の毛をした人に心の中で謝った。その人も、今は僕を守ってくれやしない。傍にはいない。
この黒豹の人だって、仕事で。しかたなく僕の世話をしてるに過ぎない。信用できる人がいない状態で。僕はどうすればいいのだろうか。心が弱ったいる今、風邪ひいていなくても。ネガティブな思考に走りがちな僕は。ただ、寒さでなく。身を震わせる。いけない、寝たふりをしなくちゃ。気づかれる。
額にあった。濡れたタオルが新しい物に代えられて、ひんやりとした冷感が伝わる。そうして、僕の頬を誰かが触った。
「市長直々に指名されたとはいえ、マメだよな、お前。そんなの適当でいいのに、めんどくさくないわけ?」
「そうだな、正直めんどうだ」
僕がいるのに、そんな会話が続けられる。ほら、やっぱり。黒豹の人もそう思ってる。異種族の、しかも良くも知りもしない相手に。僕だって、突然部屋で看病してくれってなったら。めんどうだと感じるかもしれない。しかも自分のベッドを占領されて。他に寝る場所もなければ。部屋を覗いた時、この相部屋には人数分しかなく、予備なんてなかった。
めんどうだと、肯定した僕の頬を撫でてるだろう。黒豹の声で、ぴくりと眉が反応してしまった。本当に極僅かな動きではあったけれど、眠る前。彼がずっと僕を見張っていた時みたいに、今も顔から目を逸らさず見つめていると。どこか確信めいたものがあった。それに、頬を撫でていた指が。それで止まったから。起きているのがバレたと、悟ったのだった。
そんな時。僕を支えてるベッドがほんの僅かに、傾いた。
「……そう怯えたにおいを出すな、俺以外にも気づかれるぞ」
男性の声が。耳元で、そう小さく囁かれた。身を起こしたのだろうか、ベッドの傾きが元に戻る。
「ん、なんか言ったか? レリーベ」
「いや、なんでもないさ」
「てかっ、人間がいたら気になって寝る前の日課できねぇーじゃん!」
「いやいや、普通にトイレでしてこいよ。皆やってるだろ」
「あそこ、いろんな奴がぶっ放してクセェから嫌なんだよぉ……」
なんか。とんでもない会話をしている気がするけれど。そんな事よりも。レリーベと呼ばれたであろう、黒豹の人が気になった。そもそも、においで僕が起きてるのは早々看破されていたようで。でもだからといって、どうやら彼は僕の狸寝入りに協力してくれるらしい。たぶん、どうしてそんな事してるかなんて。いくら今抱いてる感情がにおいでわかると言っても、それはおおまかなだけで。僕の心の声が聞こえてるわけではないから、理由までは知らないだろうけれど。どうして。同室の者からの問いに、めんどうだと返していたのに。なぜ、庇うのだろうか。
そして、直接聞いたわけでも。名乗られたわけでもないのに、やっと。黒豹の人。レリーベ、さんの名前が知れたのだった。次起きたら、お礼を言わなければ。僕の世話係になったという事は、これからなんども顔を合わせるのだろうし。ある程度は、仲良くしとかないと後々不利になる。ちょっと、彼との会話を試みるのは難儀しそうではあったが。完全に嫌われて、市長にある事ない事報告されたりしないようにはしないと。上手く立ち回らなければ、死ぬかもしれないという。そんな予感がした。それはきっと、間違ってはいない。僕の命なんて、この街では羽より軽い。
レリーベさん以外に、悟られない程度に。深呼吸して、また意識を手放そうとする。ちょっと騒がしいけれど。健全な男が四人も集まれば、こんなものか。その内の一人は物静かではあったが。また、頬を撫でる事にしたらしい。細かい毛が、柔らかく当たる。指の背で撫でてるのだろうか。肉球の感触はなかった。ガルシェもそうだけれど、銃器を扱ったり、日頃から鍛えてる人達だから。肉球が柔らかくて、いつまでも触っていたくなるような。そんな魅惑溢れる感触はしていないのが残念だと思う。それを言うと、家事をしている僕の手も。あかぎれであったり、そこまで綺麗な手をしてるわけではなかったが。でも、人の手というのは。その人達の歩んで来た、これまでの過程の一部を体現してるようで。たとえ硬くとも、カサついてても、タコがあっても、僕は嫌いではなかった。欲を言えば、柔らかいぷにぷにを堪能したくなかったのかと聞かれたら。頷くしかないのだけど。爪が出し入れ可能な為に、指が太く、どこかクリームパンを連想させる。猫科の手が。僕の頬を飽きずに撫で続けてるから。
そういえば、クリームパン。食べたいな。この街には無論ないけれど。あったら誘惑に負けて、値が張っても恐らく買っている。甘味が先ず手に入らないし、調理方法も失われてそうだった。そんなどうでも良い事で頭の中を埋め尽くす頃には。就寝時間だ、寝るぞと。誰かの掛け声と共に。瞼を閉じていても透かして見えていた、部屋の人工的な明かりが消される。
皆、自分のベッドに入って寝る体勢になったらしい。一人だけ、まだ文句を垂れ流していたけれど。黒豹の人。レリーベさんはどうするのだろう、まさか、床で寝るのだろうか。そんな人間の心配を余所に、またベッドが軋み、少し傾いたのが感じられた後。大きな気配が、隣に添うようにして密着してくるのがわかった。こればかりは、驚きに狸寝入りしていたのを忘れ。目を開けて、隣を見る羽目になってしまう。これまでの苦労が水の泡になるかもしれないのに。でも、皆自分のベッドで寝転び。部屋の電気も消えたとなっては、簡単には僕の様子など見えやしなかった。対面に位置する、人なら。丁度こちら側を見ていれば、わかったかもしれないが。黒豹の大きな身体が、間を遮っているのもあった。
自分のベッドに入る事に、誰も咎める者もいやしないだろう。ただそこに人間が寝ているのを除けば、だが。声に出すわけにはいかず。それでも無反応なのも無理で。口パクだけで、どうしてと慌てて聞いていた。こちらに、横向きになって。自身の頭を手で支えた黒豹の顔へ向かって。暗闇では、その瞳が月明りを反射して煌めいていたから。暗い中でも、どこに顔があるか、あまり見えない状況の僕でもわかるのだった。
「おやすみ」
胸の上に、載せられる重み。それが一定のテンポで無くなっては、また重みを感じるから。どうやら、気にせずいいから早く寝ろという事らしい。僕へ向けられただろう夜の挨拶。でもそうとは気づいていない同室の者達がそれに対して、おやすみ、レリーベと、それぞれの言い方で返していた。無表情で、言葉のキャッチボールが下手だなと。失礼にも思っていたが、同室の人との仲は悪くないらしい。
この状況で、布団から今更抜け出すのも。そして、出て行けとも言えず。なら、残された僕が取るべき選択肢は。思考を放棄して、この心地よさに身を任せるに尽きる。子供扱いされている事に、思う所はあったが。なんだか、ガルシェと一緒に寝てる時を。そして僕が泣いて、彼が慰めてくれる為に一緒に寝たあの時を思い出していた。
まるで、今も添い寝してくれてるようで。疑似的にも、安心感が。正直、味方のいないこの学校では常に張り詰めている状態が続いていて。とても、ストレスなのだと感じる。一人で寝るのが心細かったのもある。仮初めかもしれなくとも、優しさを見せてくれる他人の存在が、今はありがたかった。少なくとも、どこか。僕に対して、そう嫌な感情を持っていなさそうな。この黒豹であるのも。これは、僕の憶測でしかないけれど。めんどくさいなら、こんな事、普通しない気がした。面倒見が良いのかもしれない。それとも、兄弟とか。居るのだろうか。もしそうなら、僕は歳の離れた弟か。
声に出して返事するわけにはいかないから。だから、唇の動きだけで。顔があるであろう方向へと向かって、ゆっくりと動かす。それで、目を瞑ったけれど。隣から、ふっと。どこか、笑ったような気配を感じた。それは、本当にそう感じただけで。見えたわけでもなかったけれど。目、瞑っちゃったし。
おやすみなさい。レリーベさん。おやすみ、ガルシェ。
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