レプリカント 退廃した世界で君と

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三章

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 耳に入って来るのは子供達の楽しそうな、高い声。そこに時折混じる獣の唸り声。それは別に怒りを孕み、縄張りに入って来た侵入者に対して威嚇しているだとか。特に意味があったわけではない。ただ、跳ねたボールを追いかけていた群衆。先頭を走っていた者が追いつき、ボールを掴んだ際に生じた僅かな減速。そこにあったとても僅かな隙を、すぐ傍に居た者が掠め取る際に発したものであった。
 進行方向を変えて、追いかけている先頭を走る者の顔も変わり。でも、皆に共通しているのは誰が一番長くボールを保持していられるか。その一つだけ。狩りに見立て、誰もが全力で。時折誰かが転びそうになって、見ている僕は少しハラハラしてしまうが。たとえ転んでも、しなやかに受け身を取り。慣性を殺さず、そのまま。また。追従する群れの輪に合流するのだろう。
 だって彼らには、素肌を覆う。服とは違う毛皮があって。そして喉から鳴らす唸り声は、つい発してしまう癖のようなものであった。頭部は僕と比べてしまうと、とても口先が前へと突き出ていて。例に漏れず、素肌と同じく細かい毛に覆われて保護されていた。人間の身体に、動物の顔がくっついているのだから。獣の唸り声をさせても、違和感はあまり感じず。どちらかと言うと納得してしまえて。
 木陰から、人間ではない異形の存在。それもその幼体にあたる幼き者達をただ眺めている僕は、そう思った。日差しが高く登り、白い肌には刺すように感じられ。少し痛いかな。僕も彼らのように素肌全部を毛皮で覆われていれば、この日差しの中でも快適かと思考して。冬着を強制されているような気がするから、籠り続ける熱に、たちまち暑さでバテて倒れるのがオチだろうか。
 ここは、彼ら。人間ではない異種族。獣の特徴を持つ。人の言葉を使い、人と似た営みと、独自の理の中で繁栄し紡がれてきた街。名をユートピア。理想郷。荒野の中、ただぽつりとある学校の跡地。そこから周辺を突貫工事とばかりに、いつ崩れるかわかったもんじゃない荒くたい増設を繰り返されて建造された。ツギハギの街。さらに、街をぐるりと鋼鉄の鉄板で囲い。強固に守られた砦とも言える。彼ら、自らの種族名をレプリカントと、そう呼称する者達が住む街であった。
 そんな場所に、ただ独り。異質な存在。人間の僕からすれば。彼らの方がそう言えてしまうのに。獣の大群の中にただ独り、人が混じるとなれば。異質なのは誰かなど、問いを投げるのも億劫だ。
 いろいろな獣の特徴を持つ者達。そんな彼らの中に紛れてもとても目立つ素肌を晒した。狼の頭をさせた男に拾われて。僕は今。ここで暮らしていた。その人と、共に。名を、ガルシェ。二メートルはある大柄な体躯で、戦う為の鍛え方をしているからか、種族柄筋肉が付きやすいのに二の腕も、腹筋も、胸筋も、脹脛だって雄として逞しい。毛皮のボリュームで輪郭をぼやかしながらも、それに負けていない主張。自身の肉体こそが武器の一つと言ってしまえて。ただでさえ、その肉体美に注目を集めそうなのに。彼の毛皮は銀色に輝いていて。太陽の下ならそれは顕著で、反射していっそう光り輝くだろう。そして、とても、とても目つきの悪い。でも。どこの馬の骨とも知れない。異種族の、人間の僕を拾い。この街に連れて来て、同じ屋根の下。同じ食事を食べ、眠る事を許すぐらいには。優しい。
 僕は、ルルシャ。そんな銀狼に拾われ。彼に名を付けられた。記憶喪失の人間だった。何も覚えていない、と言い切れない。中途半端な。人間が自分の生活を守るために、死んだ目をして。電車や自家用車に揺られ、辛い辛いと言いながら。その辛い仕事場へと向かい。下げたくもない頭を下げ、心労を患いながら。それに見合わぬお金を握りしめて、家に帰るだけの。そんな生活の風景は思い出せる。そんな。
 名前と、自分が生まれた場所。親や親しい人の顔。そういった事だけが思い出せず、物や、そういった一般常識だけは覚えているといった。そんなもので。だから思い出せないからと、その部分に悲しみに囚われる事はなく。ただ、焼き付いた記憶と。今目の前にある現実との違いに。それすら本当に正しいのか。僕にはもう、自信がなかった。
 だって、廃墟で目覚めた時から。僕が目にして来たものは、残った記憶とすら乖離していて。崩れた建物。森に飲み込まれた車、だったもの。荒れ果てた荒野。吹きすさぶ砂煙に晒された、民家。この街から遠く見える、巨大なクレーター。そして、目の前で楽しそうに遊ぶ、人ではないもの達。
 一度、文明をリセットして。人間が滅び、新たに動物が進化し、栄えたらこうなるのだろうか。同じ地球、だと思うけれど。まるで、そういった映画の中に突如放り出されたかのように錯覚してしまえる。でもそうじゃないのは、皆ちゃんとそこに魂があって。傷つけば血を流し、生きているのだ。映画のように用意されたストーリに添って、動くわけでも。ゲームに居るNPCのように、ただ同じ台詞を言うわけじゃない。
 僕のする行動で、話しかけた言葉一つで、別に何もしなくても。怒ったり、笑ったり、泣いたり。動物の顔を様々に歪め人間のように表情豊かに変わるのだ。だから僕は、主人公でもなくて。ごく一般の。どちらかというと特に特技もなく、力も強くない。本当に場面の端に居るような存在で。そんな僕に、まるでヒーローのような。銀狼が傍に居てくれるのだった。
 共に暮らしながら。贔屓目に見ても、彼が狼の雄として凄く強くて。皆からとても頼りにされているのだなと。感じた。その能力を街の外で護衛など仕事に発揮しながら。その分、妬みとかそういったものも向けられているのも。
 共に暮らしていると、とてもだらしない一面ばかり見てしまうから。僕からすると。普通の。ただのめんどくさがり屋の男としてしか。僕の中の普通という枠組みから、その獣の顔と毛皮と尻尾といった見た目だけで、簡単にはみ出してしまっているけれど。
 思い返すと、どの日も濃密で。退屈と感じられる日などないと、言えてしまえた。毎日が新しい発見と、衝撃で、自分の中のあってないような常識が次々に覆っていく。そんな生活に。
 異種族と共に暮らす中で。塗り替えられていく。僕の心と一緒に。
 一緒に暮らすガルシェに、芽生えた感情を自覚してからというもの。こうして、彼の事を振り返る事が増えた。同じベッドで寝て、朝食を作り、僕が起こして。眠そうにしながら用意した食事をその大きな口で咀嚼する姿だったり。仕事へ出かけ、夕方には土埃を服にくっつけてただいまと、そう言う姿に。夜。人に言えないような、姿に。
 動物の姿に似ている彼。彼らは。そういった特徴を色濃く残していて。不意に頬を擦り付けて来たり、舌で肌を舐めて来たり。至近距離でにおいをあからさまに嗅いだり。そういった人間ではしないコミュニケーションを取る事が多かった。
 最初。僕はそれにとても驚いて、少なくない拒絶反応も出てしまう事もあった。実際に今でも、突然されると身体が強張ったり。近づいて来た動物の顔を押しのけてしまう事だってある。親しい関係でないと、そこまでに至らないとしても。ガルシェに。居候させてもらっている、彼にそうされるのは。慣れても、慣れない。恥ずかしくてどうしても、やめてよと。拒絶してしまう。嫌、なわけではない。ただ、恥ずかしいのだ。成人男性に、日常生活で舐められたり、顔を擦り付けられたりするのだと考えると。やっぱり絵面としてよろしくない。
 動物の顔をしていなければ、警察がいればそく逮捕ものだ。たちが悪いのが、この街で、道の往来で。人の目があったとしても、ガルシェは僕にそれを気にせずしてくるし。街の人達も好奇の視線はよこしても、何も言わず通り過ぎるのだから。ただただ、レプリカントと人間が親しそうにしている光景が珍しいと。そういうふうに映るのだろうか。僕は気にしてしまうのに。だからこそ、慣れても、慣れない。
 最近。そういったスキンシップがエスカレートしているような気がしてしまう。親しくなったと、ただ言えたならそうなのだけれど。彼はペットの動物ではなく、人なのだから。ああ、やっぱりたちが悪い。過保護な彼が、僕を守るために。におい付けと称し、マーキング行動の類だとはわかっている。強い雄のにおいを付けておけば、余計なちょっかいはかけられないとそう彼なりに考えての事だった。だが、当の本人が自ら危険な場所に足を運んでしまうのだから。そんな人間に対して、銀狼が不機嫌を隠しもせず、唸りながら睨んでくるのだが。
「ルルシャ」
 そんな学ばない人間に後方から声が掛けられる。別に僕はそれに対して驚く事はしなかった。こうして、住宅区の中で子供達の遊び場としてある広場において。隅の方、日陰で物思いに耽り。無防備な人間を見張る人物が後方に居るのは、すでに知っていたから。
 振り返れば、退屈そうに建物と建物の隙間。そこに腕を組み、壁に背を預けてこちらを見る狼の鋭い瞳孔。毛並みは、今まで考えていた銀色ではなく。赤茶色をしていて。くたびれた無地のTシャツと、七分のズボン。これも端がほつれていて、使い古していた。筋肉質だけれど、細マッチョに分類される彼の体形は。栄養が足りてないのか、ほっそりとした印象を与えていて。手入れが行き届いてないのも相まって毛皮はとてもボサボサとして。路地裏にいる野良犬、失礼だが一言で表すとそんな感じであった。野良狼が正しいだろうか。どちらにせよ失礼か。
 痩せているといっても、簡単に僕など組み伏せる膂力があるのは。以前身をもって二度程味わっているのだが。
 ガルシェの同期で、幼馴染であるレプリカントの雄。名をガカイド。なんとなく、この広場に暇だから遊びに来たら。レプリカントの子供達がボールを持って突撃してきたから、つい目立たぬように隅の方に隠れてしまって。そんな事をするものだから、子供達もこちらの様子を窺いつつも。声を掛けられる事もなく、一定の距離感で。居ない者として扱われていた。
 それでも、視界にはどうしても入るから気になるのか。小さな瞳がこちらへ向くのは、気づいていた。気づいていても、それで何か反応を返そうとはしないのだが。暇と感じないぐらい、と少し前に思い返していたのに。現在進行形で暇だった。訂正。
 それもこれも、ガルシェが勝手に僕の仕事を休みにして。そのくせ、当の銀狼は用事があると家を出て行って不在なのだ。部屋の掃除でもしようかなと思っても、普段からあまり溜まらないようにしているから。部屋の中はそう時間がかからずに終わってしまって。試しに、家の前のちょっとしたスペース。玄関周りを掃除してみようなんて思いつき。
 前は人目につかないように、用事がなければさっさと家の中に引っ込んでいたけれど。この街で暮らすようになって。多少は慣れて来たと言える程度には、僕も順応して。行動範囲を少しずつ広げるようにしていた。
 真っ先に道を覚えたのが、散々行くなと忠告された治安の悪い学校の裏通りなのだけれど。箒と塵取りを手に、靴を履き、外へと出てみれば。ただ錆びた手すりが先ず視界に入り、横に向けばそのまま一階へと、これまた錆びていつ踏板が取れてしまわないか心配になる階段。立地的にはこの家は二階部分に当たって、プレハブ小屋を連結しただけのとても簡易的なもの。電気と水道が通っているから、生活水準としてはこの街の中でも高い部類なのだが。
 レンガ造りの家の上に、木造の家が建っていたりと。建築の統一性がない住宅区。人が増えたら、空いてるスペースに無理やり増設を繰り返した家々はある意味芸術的で。区画整理が気になる人が見れば発狂ものであろうか。その為に道は入り組んでいて、僕も散々迷って。
 どこからか、風に乗って舞い込んだ落ち葉や埃を集めながら。壁にある表札がふと気になった。家主であるガルシェの名が走り書きで彫られているのは、当然なのだけれど。家に帰る度に目にしているけれど、こうしてしっかりと見つめた事はなくて。だからこそ、小さな違和感に気づいたのだった。
 薄っすらと、居ない銀狼の名の下に。元々何かの塗料で書かれていただろう文字。それは人の名前らしきもので、それも。二人分。上下に。上書きするように、鋭利な物でガルシェと刻まれているのだった。前に、ガルシェ以外が住んでいた?
 表札をもっと近くで、目を凝らして見る為に。壁に近付いた段階で。せっかく集めたゴミを散らそうとする、悪戯な風に乗って異臭を嗅ぎ取った。ツンと、刺激してくるそれに。思わず顔を顰めて、腕で鼻を覆いながら壁から離れる。臭いの元はどこから。気になった僕は、嫌だけれど。もう少しだけわざと鼻呼吸の間隔を狭めて、探る。そうすると、表札より下。壁と床の境目辺りであると。
 接する程、嗅がなくても薄っすらとそこだけ変色していたから。ここなんだろうなと。何か、液体でも垂らしたのか。変色したプレハブの塗装。雨風に晒されただけではないだろうけど、擦っても取れなさそう。掃き掃除だけで、さすがに家の壁とかを拭き掃除までしようとは最初から考えていなかったから。その汚れは放置するけれど。嫌な予感がして、妙に引っ掛かった。
 止まっていた手を、再開させ。集めたゴミを箒を使って塵取りで回収していく。後はゴミ袋に入れて、とりあえず外の掃除は終わり。
 家の中に戻り、時計を見れば。想定した以下の時間しか経過しておらず、またやる事がなくなってしまった。かといって、家にテレビゲームといった娯楽は何一つないのだから。家で出来る事などあまりにもなかった。誰かの家に遊びに行くだとか、そんな選択肢も。気安い友達なんていない僕にはなくて。
 だからと、今目の前で繰り広げられている。丸い玉を一緒に追いかけようなんて気持ちにはならなかったが。自分より小さい背丈をしているのに、僕が出せる全力よりも余程早い速度で駆けている光景を見てしまえば。混ざろうなんて気持ち、湧くわけもない。
 呼び掛けられたのだから、無視するのもどうかと。振り返ったけれど。僕よりも高い視線が、ただ見下ろしているだけで。呼んだのだから、用があるだろうに。軽く赤茶色の毛皮を纏った、狼の首が動くと。その首元で、キラリと。路地に僅かに射しこむ光を反射してアクセサリーが胸元で主張していた。動物の牙と、瞳の色と同じ宝石を紐で通した。独特の装飾品。
 彼が身に着けている物で、とても大切な。それを一瞥して。自然と、頬が緩んでいた。対する狼の顔は、渋面を作り。結局何も言わず。ガカイドが呼んだのに違う方向へと顔を向けて、鼻をフンと鳴らしてまでいた。
 彼ら。レプリカントの雄が皆持っている。重要な意味が込められたそれ。雌に対して贈り、それがそのまま番の証になるのだと言う。常に肌身離さず身に着けているから、自分のにおいが強く残り、そして瞳の色と一緒な宝石が。雌が誰の雄の物か、示す為に。雄が所持していないという事は、つまりは番持ちであるとい証明でもあるのだが。
 でもとある一件で一度、彼の手から離れ。拾った僕の手を経由し、今はまた。持ち主の胸元でしかと存在を主張している事に。人は微笑んでいたのだった。内心を主張するように、組んだ腕にある、片手の人差し指が。苛立たしげにトントンとリズムを刻んでいた。
 それがただ。僕の表情を見て。彼が不機嫌になったと言うと、そうではなく。なんとなく照れているのかなと、かってに想像していた。返そうとして、いらないと拒否された事もあったけれど。彼は過去に、自身でもどうしようもない事故に巻き込まれ。そのせいで番を持つ資格を得る前から、剥奪されて。その身に。今は上着を着ている為に見えないが。右脇腹部分に焼き印を押されてしまったのだから。
 それでも、再びあるべき場所にその首飾りがちゃんとある事に。他人事ながら僕は嬉しいのだ。本当は、ガカイドも大切にしていた品であって。でも、それが二度と。彼が望んだ番に渡す事は叶わないとしても。そこにある事実に、意味があるのだと。お節介な人間の、おこないであったが。
「あまり一人でいると、またガルシェの奴が心配するぞ」
 別の方向に向いたままの、狼の口からそんな言葉が放たれる。広場の端に、何をするでもなく。子供達の遊んでいる姿を見ていたら、いつの間にか路地の影から姿を現したのがガカイドだった。そして、別に用事があって僕の傍に居るわけではなく。話し相手になってくれるわけでもなく、無言で近くの壁にもたれかかって。ただそこに居るのだから。
 烙印を押された理由が理由だから、彼はあまり自身が住んでいる裏通りからあまり表通りの方へは来ないのに。それでも居座っているのは、たぶん。それはきっと僕、なのであろうか。
「もしかして、心配してくれた?」
 試しに聞いてみた。実際、獣の顔をした人達が住む街で。人間は僕だけで、力も弱いのだから恰好の的で。攫うには造作もないのであろう。人通りの多い表通り、商業区辺りであれば大丈夫であろうが。こういった細道が多い住宅区は、一度暗がりに引っ張り込めば裏通りへ直行されて。身体を好きにされる危険性もあるのだなと。
 僕自身、自分にそこまで価値があるとは思えないのだけれど。珍しい異種族のひ弱そうな奴っていうのは、他人から見るとそうではないようで。
「……別に。風に乗ってお前とガルシェのにおいがしたから。あいつに用があっただけだ。俺様が人間の心配なんてするわけないだろ」
 突き放すように言われてしまったけれど。ふわりと一度跳ねた尻尾の動きを見て、つい笑いを堪えていると。こちらへと向いた、怖い怖い狼の顔が睨みつけてくる。それもそうかと、表面上は僕も彼の言葉に同意して。また広場の方へと向き直る。高くボールが跳ね、猫科の子がそれに合わせてジャンプする。一メートル以上飛んでないかな、あれ。
「前よりもさらにマーキング濃くなってねぇか?」
 耳元でした、男の声で。これには驚いて思わず屈む。見上げてみれば、僕の頭があった位置に前屈みになって鼻先を寄せたガカイドの顔があった。何してんだこいつと、目が語っている。言語以外にも。におい情報も、立派なコミュニケーションな彼らにとって。相手のにおいを嗅ぐという動作は、失礼に当たらないのだろうけれど。人間である僕は、やはり突然されると驚いてしまう。それも警戒してなかった後ろからともなれば、過剰に反応してしまうのはしかたがなかった。
「ほんと、過保護だよな。番ぐらいにしかしないぜ、そこまでのは。あいつ、昔からその手の誘いは断ってたから他の雄とはしない筈なのに。……まさかだけど、ヤった?」
 そういう事。僕には嗅ぎ取れない、身に纏った共に暮らす狼の雄の臭い。ヤったとは。そこまで考えて、お風呂場での出来事が思い浮かんで。慌てて首を振る。顔の体温が上昇している感じがして、否定しても。目の前では。ははーんと、意味深口元を歪め、意地悪にも笑う赤茶色の狼の顔に。意味があったかと言えば、自信がない。
「お前、見た目はちっこくてひょろいから可愛いもんな。見た目は」
 二度も言い、見た目はと強調するガカイド。そうは言うが、普通の男であるし。鏡で見た自分の容姿もそこまで可愛いとは思えず、賛同はできなかった。平均身長が人間よりも高い、異種族の視点から見れば。ちっこくて可愛いと、誰でも思えるのではないかなと。そんな考えがよぎる。後、性格は可愛くないみたいに言うのは止めて欲しい。
「ガカイドも、素直じゃないところが可愛いと思うよ」
「そういうところだぞ」
 ちょっとだけ、そのニヤニヤした顔がムカついたから。そんな表情を消せた事に、満足する。僕の台詞に、若干怒ったふうに。眉間の皴を深くする狼。立ち上がった僕は、前屈みの姿勢のままな彼と見つめ合って。そしてどちらかともなく、今度は僕も、声を押さえず笑う。目の前で肩を揺らす彼と共に。ボール遊びに夢中だった子供達がこちらを見ているのも気にせず。
 そこで一旦会話は途切れて。そういえば、風に乗ってここに居ない筈の。ガルシェのにおいがするってガカイドは言っていたから。試しに自分自身の体臭を嗅いでみるけれど、これといって。と、思ったけれど、思ったよりは服についていた。共に暮らせば、自然とつくものだけれど。鼻が利く相手には二人とも居ると錯覚させてしまう程なのか。それは考えものであった。
 邪な感情を抱いた相手が、迂闊に手を出さないように。銀狼が僕に触れあって、施した残り香。においでコミュニケーションを取る彼らにとっては、とても効果的らしい。実際に、ガルシェはとても強い雄であるから。そうそう変な場所に行かなければ大丈夫であるのだろう。お守りみたいなものであった。
 自分から裏通りへ行ったらその限りではないけれど。前にそれで、暴漢に追いかけられた苦い記憶が。服を掴み、見つけた銀の毛を摘まみ地面に落としながら。くっついているのは、においだけではなかった。
「ありがとう」
 広場に向いた状態で、後ろに居る者に対して礼を言う。何に対してかは。察したのか、護衛とばかりに傍から離れない気配が少し和らいだ気がした。
「あいつには借りがあるからな」
 背中にそんな事を言われる。やっぱり、素直じゃないと思う。ちょっと機嫌が悪そうなのも。本当はあまり長いはしたくないのだろうな。人の目を気にするのは僕も一緒だったけれど。暇なら商業区の方へと行けばいい気もしたが。働かせてもらっているサモエドによく似た姿をした、店長であるおばちゃんに休みなのに会うのには気が引けた。
「で、ガルシェとはヤったのかよ」
 終わったと思っていたのに。余程気になるのか、ガカイドがまたその話題を出す。マーキングが強い理由に心当たりがある僕は、先程首を振り、否定はしたけれど。お風呂場で、そういった事をした。のは事実であった。実際に彼とセックスをしたわけではないけれど。それでも、近い事はしたのだった。
 季節外れの発情期で、暴走気味な彼を大人しくさせる為という理由ではあったけれど。それなら手でも、良い気もしたのに。僕が取った行動は、逆に彼を誘い、素股という。だいぶ特殊な選択で。太腿の内側を、彼の太いモノが素早く往復する感触までも思い出してしまい。慌てて思考を散らす。
 身体が反応してしまいそう、っていうのも理由であったのだが。それよりも、鼻が利く彼らには僕の抱いている感情の揺らぎをある程度においで察してしまえるのだから。嘘をつけば、汗とかそういったものでわかるらしい。それは当然、僕が卑猥な事を考えても。そういった大きな感情の揺れ動きに伴い、体臭も変化する。だから、すぐ傍に居る彼に嗅ぎ取られるのは避けなければいけないと。水面下で、慌てて。
「してないよ」
 あまり感情を挟まず、振り向かずに言う。性処理の内であり。でも、背後から抱きしめられて。それもお互いに裸で。お風呂場だから裸なのは当然だけれど。彼の滾りを地肌に擦りつけられたから、自ずと強いマーキングになってしまったのであろう。だから、ヤっていないとも言えたから。嘘、とはならないと思う。本当の事は言ってもいないけれど。
 落ち着かない僕にだけ聞こえる自身の心音。僕は否定しているけれど、変化した体臭を嗅ぎ取っている背後の狼は。何かしら感じているのであろう。沈黙が、それを示していた。
 ガルシェは、番とだけ。そういう事をしたいと言っていたし。ずっと誰ともそういう触れあいをしてこなかったらしいから。僕との一件は彼にとって不名誉な事であろう。だからこそ、吹聴するような行動は止めるべきだ。僕も恥ずかしいから言いたくないが。
 極度の禁欲で、それは僕も関係しているのだけれど。ガルシェがそうなったのだから。ある意味病気の治療とも言えた。
 女の人との肉体的接触を制限されている彼らにとって。男同士で、性処理する事も普通の事で。それは、いたずらに子供を増やさない為で。食糧問題が常に議題に上がるこの街でのルールであった。繁殖力の高い彼らは、それで問題が起きた過去を抱えているから。だからこそ、番、結婚に当たるそれも資格を得なければおいそれとできないのであった。
 なのに、性欲だけは強いし。においで、誰と誰がそういう事をしたと。バレバレだしと、性にわりかしオープンなのも。こうして、ガカイドがデリカシーもなく聞いてくるのも。普通なのかな。異種族の性事情まで首を突っ込みたくはないのが本音ではあるのだが。共に生活する上で、切っても切れない問題でもあった。生理現象はどうしようもないし。
 男の人と、そういう性的な事をするって。未だに違和感がある僕には。なのに。ガルシェの事を。そう思っているのだから。笑えないな。ちぐはぐな心に。でも愛してるとまではいかないのが、今だけは救い。だったのだろうか。
 好き、ではあるけれど。あるのだけれど。でもガルシェは、番を求めて。同じ狼の雌とそうなる為に、ずっと性処理であっても他の男の誘いを断り。貞操を守り続けていたのだから。だから、僕との関係がそっちの方へとなるのは考えられなかった。だからこそ、治療に当たるとはいえ。僕が彼の性処理を手伝うのは、余計なお世話とも言えるのだろう。
 強い発情に襲われて、僕を求めるような素振りをするのも。そういった事をしてこなかったのに、突然他者から与えられる快感を覚えてしまって。また欲しいと。理性が溶けてしまった、雄の思考であって。それに惑わされてはいけなかった。彼の気持ちを蔑ろにはしてはいけない。理性と心が時として全く別の事をする、彼らの生態を尊重して。
 今も発情期である筈なのに、いったい、どこへ行ったのやら。波があるから、落ち着いている今が用事を済ませる短いチャンスでもあるのかもしれなかったけれど。我慢強い彼が、それでも唸りながら僕に襲い掛かる寸前まで行くのだから。どれほどの衝動が、彼の中で暴れてるのか。想像もできない。人間である僕が試しに体験できたら、耐えられず狂ってしまうのかな。
 男が好き、というより。ただガルシェが好きになってしまったのだった。それも、異種族の僕が。だから都合の良いように、受け取ってはいけないと自分を律する。
「さっきから、忙しいな、お前。こんどは悲しそうなにおいさせてるぞ、ガルシェと何かあったのかよ」
「……何もないよ」
 そう、彼との間には何もない。あっては。いけない。それが今の嘘偽りのない僕の答えであった。異性愛者であろうガルシェと、同性愛者で異種愛者に片足をつっこんだ僕の。ただこの街で、平穏に、悩まず暮らせれば。どれだけいいのだろうか。生きているからこそ、悩むのであるが。
 元々、記憶を失くす前から。僕自身、同性愛者だったのかそれとも資質があったのか。でも他の人と、もしも、そういったイメージを抱けない自分がいた。好きの度合いを自ら推し量り、彼と実際にどうなりたいか。そこを明確にできないでいた。傍に居たい。けど、それだけ。では友達のままでいいのでは。それも違う。
 友達として、彼の傍に。別の誰か、番がいたとしたら。それは嫌だなと、感じてしまう。けれど、なら自分が番になるといった想像はできないでいた。芽生えた気持ちは、あまりにも不定形で。好意すら自信が持てないでいるのだから。我ながら情けない。
 なんでも、感情の動きを知られるのは。やっぱり嫌だな。隠したいのに、暴かれるのは。不快だ。だから心配そうな声音に対して。僕の返答は自分で聞いても、冷たい音をしていた。
 僕の返事を聞いて、それ以上ガカイドが言葉を発する事はなかった。それでよかった。あまり、しつこくされてしまうと。気持ちをはっきりできない、そんな自分が悪いのに。後ろの彼に八つ当たりしそうであったから。きっとガカイドも、僕の声音から。これ以上は怒らせると察したのだろう。相手に気を遣わせるように、わざと態度に出すのだから。卑怯だな。僕は。
 荒波のように、感情が落ちつかないまま。目線はボールを追いかけて。そんな時、視界に見知った顔を発見する。広場の入口に佇む。小さなシルエット。その子の顔は柴犬の特徴があって、自分の服の裾を掴んで。寂しそうに先に遊んでいる子達を遠目に見てるのだから。今日は一緒に居た騎士様はいないのだろうか。あまり親しくないのか、一人で声を掛ける勇気がないのか、尻尾がボールが跳ねる度に動いてるのに。それでも混ざろうとしない。
 そんな様子を広場の隅から窺う僕は、なかなかに不審者めいていた。こちらから声を掛けるのもなと、多少心配する気持ちはあれど。あまり人間の僕が介入するのも良くないし、突然子供達を呼び止め。この柴犬の子とも遊んであげてと、言うのも。お節介だし、場合によっては柴犬の子を傷つけるだけだろう。静観が正しいであろうと。そうしていると。
 柴犬の子が目を瞑り、突然マズルを空へ向け。何かを嗅ぐ仕草をする。クンクンって、音が聞こえてきそうだった。その様子に何だか嫌な予感。嗅ぐのを止めた柴犬の子が、空から水平にマズルを戻すと少しだけ横へと顔を向けて。その先には日陰で立っている僕がいるのだが。目と目が合うと、その子の尻尾と耳が大袈裟なぐらい跳ねた。見られているとは思わなかったのか、遠目からでもわかるぐらい。瞳に怯えが混ざる。
 ああ、また。別に怖がらしたくはなかったのだけれど。走って逃げるのかなって、そう思っていると。予想に反し、恐る恐る。遊んでる子供達ではなく、僕の方へとその短い手足を動かして近づいてくるのだから。まって、なんでこっちに来るの。顔には出さないけれど、内心かなり慌てて。怯えてるのなら、わざわざこっちに来なくてもいいのに。
 距離にして残り二メートルぐらいの位置で、目の前で立ち止まった子は。やっぱり人間が怖いのか、お腹付近の上着の裾をぎゅーって握りしめて。上目遣いで見上げて来て。改めて見るとやっぱり小さいと思った。身長は五十、六十センチぐらいだろうか。今は小さいけれど、大人に、後数年すればガルシェ達ぐらいの大きさになるのかな。柴犬だからもう少しだけ、小柄だろうか。
 小首を傾げ、鼻を鳴らすその子は。不安そうにただ。
「……ガルシェ?」
 そう言ったのだった。やっぱりそんなに臭うのだろうか。柴犬の子が近づくにつれ、気配を消した後方に居る筈の狼と一緒で。この子もまた、においに騙されたのか。僕以外そこに居ないと感づいたのか。不安そうな顔は一転、今にも泣きだしそうに眼が潤んだ。
「ごめんね、ガルシェはいないんだ」
 見下ろすのは良くないと。レプリカントの大人達に見下ろされてばかりの僕は、慌てて屈む事で。小さな子と視線の高さを合わす。そうやって、意識しながら。極力優しく、刺激しないように声を発して。つい先ほど、氷のように冷たい音を発した。同じ喉で。
 僕が取った態度で、その大きな瞳から涙が零れるような事はなかったけれど。二メートルあった距離が、僕の言葉を聞いて、さらに縮まって。一メートルもないぐらい。僕が手を伸ばせば届く距離。そんな位置で、また目を瞑り。無防備に鼻を鳴らす柴犬の顔。
「でも、ガルシェのにおい、するよ?」
 納得がいっていないのか、さらに嗅ごうとしてるけれど。無意識なのか、一歩、また一歩と。柴犬君は誘われるように足を動かして。危なっかしいなと思っていると。別に小石とか何もないのに、つまづいて。綺麗に前へと倒れてくる。わわっ! そんな子供の声を発しながら、倒れた先には勿論僕がいるのだから。咄嗟に腕を広げて、受け止めた。
 やってしまった。でも受け止めないという選択肢もこの状況ではなかったのだけれど。極力接触は避けていたのに。抱きとめると、見た目よりも過重がかかり。そして、伝わる命の温かさ。僕の胸元に柴犬君のマズルが埋まって。向こうも、突然僕の胸の中に居るこの状況に最初。驚いていたけれど。転んだのを受け止めて貰えたと遅れて気づいたのか。目元が緩んで。すー、と。深呼吸しながら。また直接においを嗅がれて。ズボンから飛び出している特徴的な巻き尻尾が、それで大きく揺れ出した。
「お兄ちゃんと、ガルシェの、匂い……」
 引き離そうにも、いつの間にかこちらの脇腹あたりには、小さな手がしっかりと服を握りしめていて。子供にしては強い力で。ふんすふんすと、湿った吐息が胸元でして。蒸れる。ちょっとだけ恥ずかしそうな表情をさせて、胸の中から見上げてくるその幼い獣の瞳。それでも止める気はないのか。
「気に入りられたようだな」
 僕でも、柴犬の子でもない、第三者の声がして。触れた小さな身体があからさまに跳ねる。背後に居る、気配を消していたガカイドのであった。僕はわかっていたけれど、柴犬の子はそうではなかったようで。覗き込んで来る狼の大きな顔を見上げて。静かに泣き出してしまった。
 胸元に顔を埋めて、表情を見えなくした柴犬の後頭部を撫でながら。無言で見上げる。驚かすなと。言外に。対する狼は、俺様が悪いのかよと。肩を竦めていたけれど。折角泣かせないようにしてたのに、僕の努力が水の泡じゃないかと。口の動きだけで文句を言う。撫でる手は止めずに。
 そうすると、彼も僕に倣って。声は出さず、顎だけ開閉させながら。手を大袈裟に動かして。何かしらを言っていた。子供は苦手なんだよと、地団駄を踏む。大きな男。最終的に俺様は悪くないといじけてそっぽを向いてしまったけれど。
 別に僕だって、得意というわけではないのに。どうすればいいかわからず、途方に暮れる。ただ撫でてあげる事しかできないでいた。実際、僕でも大人のレプリカントに見下ろされると体格差から怖く感じるから。この子みたいにさらに小さいと、もっと怖く感じるのかなと。そこだけは共感できて。だからこそ、屈んで目線を合わせるって咄嗟にできたのだけれど。
 ガルシェが以前、僕にしてくれたから。その記憶がこびりついていたから。取れた行動でもあった。
 ぐずついてはいるけれど、漸く泣き止んでくれたかと。胸の中に居る柴犬の子を見下ろして安堵する。ただ、服を握りしめているのはそのままで。離してはくれない。無理に引きはがせば、大事な服が破れそうだ。銀狼がお古にとご近所さんから貰ってきてくれたものであったけれど。
「あー。泣かれると困るんだよ、本当。雄ならそんな簡単に泣くんじゃねぇよ。驚かしたのは謝るからよ」
 僕の隣にしゃがんだガカイドが、迷惑そうに。けれど、どこか心配そうな気配を滲ませて。そのように言うから。もう少し言い方というものがあるだろうと。ツッコミたい気もしたが、ここで口喧嘩でもしようものならまた泣き出してしまいそうだ。
 撫でるのから、背中を弱い力で叩くのに切り替えた僕は。そんな赤茶色の狼を睨む。そうすると、唇の部分をへの字にしていた。狼の口で、器用だな。
 柴犬の子を観察していると、どうやらもう怯えてはいないようだけれど。ただ、じっと。ガカイドの方ばかり気にしているようであった。試しに大丈夫かと、優しく聞いてみれば。小さな頭を大きく一度縦に振りながら。うん、って返事してくれて。でも、隣の男からの呼びかけに対してだけ無視をしている事に気づいた。おや、と。
「ガキんちょ、どうして皆の方へ行かないんだよ。遊びたいなら自分から声かければいいだろ」
 言い方はキツいけれど、ガカイドなりに気を遣って話しかけてるのに。無視を続けて、次第に狼の額に笑顔を作りながらも青筋が見えた気がした。毛皮があるからわからないけれど。
 嫌って無視してるとは、どこか違うようで。話しかけられて、ちゃんと聞こえてるのは、その可愛らしいお耳がピコピコ反応しているから間違いない。
「前に一緒に居た子は、今日は一緒じゃないの?」
 この子がボール遊びしている際に、何もしていないのに僕から庇うように。この子の前へと立ったレプリカントの子供を思い出していた。犬科ではなかった気がしたから、兄弟ではなく友達なのだろうけれど。あの様子から、常に傍に居そうなのに。
「うん。あーちゃんはね、家のお手伝いでいそがしいの」
 僕達の会話を聞きながら、剣呑さを増していく狼の顔。そして、徐々に。柴犬の表情も、罪悪感からか暗く変わっていっているから。無視しているけれど、本当はそうしたくない。のかな。僕にはちゃんとこうして素直に返事してくれるし。
「どうして、隣の怖い狼さんにはお返事してあげないの?」
 怖い。その部分にどういう意味だよと。僕の顔に視線が突き刺さる気がしたけれど無視する。柴犬の子と違い、これっぽっちも罪悪感は湧かなかった。僕の問いに、これにはどう答えようか渋る様子を見せていたけれど。おずおずと。
「お母さんがね。ガカイドとはお話ししちゃダメって」
 教えてくれた理由に。ぐっと押し黙ってしまう。それは、隣にいるガカイド当人もそうであったようで。二人して、柴犬の子を見つめてしまって。沈黙が重かったのか、へにゃりと茶色いお耳が平らに倒れてしまって。
 言ってはいけない事を言ってしまったと、子供心ながらでも。場を満たす空気から察してしまったのだろう。僕の胸の中で、慌てていた。予想できた事でもあった気がしたけれど、僕からすると。本当にただ、普通で。関係がなくて。だからこそ、気安く話しているけれど。彼は裏道の方に住んでいる。そこでしか暮らせない。そんな人であるのを、つい忘れてしまっていた。
「ガカイドは、僕に悪い事してないのに。どうしてお話し、しちゃ、いけないの?」
 とても不安そうに。たどたどしい口調で、首を傾げた柴犬からの追撃に。その場の気温が下がった気がした。実際には変わっていないのだろうけれど。それを聞いた、赤茶色の狼の顔から。表情が抜け落ちてしまったから。
 だから、屈んでいた姿勢から立ち上がり。無言で見下ろしてくる。能面のような狼の顔を見上げて。日陰のせいもあってか、そうすると余計。影が濃くなったように感じる。僕が何か言う前に。
「俺様、帰るわ。ルルシャも早く家に戻れよ」
 そう手短に言い切ると。こちらの返事を待つ事なく、すぐ傍の路地へと入って行く男の背中。遅れて彼の名を呼ぶけれど、それで振り返る事はなくて。歩く度に揺れる、尻尾の先が暗闇に消えるのをただ見送るしかなかった。いつもそうだ。その光景が、どうしても相容れない隔たりに、暮らす世界が違うように感じてしまう。ただ、だから。僕はそこへ飛び込んでいくわけでもなく。
 胸の中から、苦しそうな声がして。僕は知らず知らず。抱きしめる力を強くしてしまっていたのか、慌てて腕の力を緩めた。ごめんねと、言葉にするのも忘れない。特に、柴犬の子は気にしていないようであったが、それよりも。ガカイドが消えた路地の方が気になるのか。
 やがて、見上げてくるその幼い顔は。先程の問いの答えを欲している気がした。どうして。そう悪気がないとても素直な疑問を。
「どうしてだろうね……」
 本当に、どうしてだろうね。知れば知る程、無責任に彼は悪くないと言えなくなっていく。そんな弱い自分が居た。ただの事故で、しかたないと今でも思っているのに。口にしようとすると、どこでその時の被害者がいるのかわからないから。言えないで。
 答えを持ち合わせていない僕は。部外者でしかない、人間の僕は。ただその子の頭を優しく撫でてあげるしか。できなかった。
「あっ! ガルシェ!」
 柴犬の子が突如大きな声を出す。また、僕の身体に残ってる銀狼のにおいを嗅いでそう言ったのかなって。最初は勘違いしてしまったけれど。この子が僕ではなく、もっと別の方向。遊んでいる子供達でもなく、広場の外。僕が歩いて来た方角へ向いてるのを察して。一緒になって、同じ方向へと顔を向ける。
 陽の光に照らされて。光を反射し、まるで自ら発光してるみたいに。そう感じさせる美しい毛皮を纏った大柄な男性が遠くからこちらを見ていた。黒い革製のジャンパー。胸元は解放されているから、その下の白いTシャツはそのまま窺えて。無理に押し込められた豊富な銀の胸毛が、襟首からはみ出していた。青く色褪せたジーンズは膝部からにかけて少し多めに破れて、ダメージジーンズとしてはやり過ぎであろうか。それも内側から膨張する太腿の厚み故か。その内完全に破れて半ズボンに生まれ変わりそうだった。山歩きに適した、ブーツを履いて。いつものスタイル、彼のお気に入りの服装でそこに居た。
 どこもかしこも、筋肉質な身体故か。被毛の上から服で締め付けられたそれは、間隔の狭い緩やかなラインを強調し。狼型のレプリカントは皆犬科の中でもさらに身長が高く大柄で、彼もまた二メートルはあるその背丈と、それに負けない猛々しさを漲らせ。雄らしい雄とは彼の事を言うのかもしれなかった。先程まで居たガカイドも、それなりに鍛えられた身体をしているけれど。ガルシェと比べてしまうと控えめで。同じぐらいの身長だけれど、本当に同じ種族には顔の部分を隠せばぱっと見では思えない。ガカイドの場合、栄養不足も関係しているのかもしれないけれど。異種族というのを差し引いても、人間で、ひょろい僕では彼らと比べるのも馬鹿らしいのだが。
 だからその男性と目が合うのは必然で、どうやらかの銀狼は。家に帰っても一緒に暮らしている人間が居なくて、探しに来たのか眉間に深く皴を刻んで。元々悪い目つきがさらに恐ろしく変わっていた。
 しまった。書置きもしておらず出て来てしまったのだった。ちょっと散歩したらすぐ帰るつもりだったのに、思ったより時間が過ぎていたようだ。
「ガルシェ」
 僕が小さな声でそう呟くと、遠くにある狼の耳がぴくりと反応した。たぶん聞こえてはいなかったと思うけど、僕の口が動いたから聞き逃さないように無意識にそうしたのかもしれない。だって、それを機にこちらへと歩みを進めだしたから。
「……帰るぞ、ルルシャ」
 低い、機嫌の悪い男性の声。十中八九原因は人間であり。それが僕の耳に届いた時。僕の胸の中に居た柴犬が、そこで弾丸のように元気よく駆けだした。その対象は現れた銀狼。真っすぐに、両手を前に突き出して。僕を見つめていたガルシェは、自分に向ってくる小さな子にそこで漸く気づいたのか。ちょっと手前でジャンプしてお腹に突撃してきた子を、持ち前の反射神経を使い危なげなく受け止めていた。結構な勢いがついていたから、もしも僕ならそのまま後ろに倒れてしまいそうなのに。鍛えられた肉体はそんな事でびくともしないのか、重心に乱れがなかった。
「どうしたんだ、シュリ。アズィは一緒じゃないのか。まだ小さいんだからあまり一人で出歩いちゃだめだろう」
「うん。だからルルシャがかわりに遊んでくれてたの!」
 抱きとめたらそのまま、ガルシェは柴犬の子を抱きかかえ。自身の腕に座らせる。もう片方の手で背を支え、落ちないように。シュリって言うんだ、あの子。でも、別に僕は特に遊んであげていた覚えはなくて。二人の会話に違和感を抱く。
「だからね、だからね。ルルシャを怒らないであげて?」
 柴犬の子。シュリの言葉を聞いて、ガルシェが僕へと一瞥する。本当か。そう聞かれている気がしたが、嘘をつく理由も、心配をかけた負い目もあり。それには苦笑いで返すのだった。だから、銀狼はシュリの優しい嘘でだいたい状況を察したのだろう。肩を竦め、目を瞑り、溜息を少々ついていたけれど。再び瞳が開かれていた時には、幾分か緩め。抱きかかえた子に対して、笑顔を見せていた。
「そうか、人見知りなのにシュリはルルシャの事が気に入ったんだな」
「うん! お母さんとあーちゃんと同じで、とっても優しいにおいがするよ!」
 二人の会話を邪魔しないように、座っていた姿勢から立ち上がり。彼らの傍へと近づいていく。手を大きく動かしながら、必死で気持ちを伝える柴犬の子に。そうかそうかと、笑いながら。頬へと舌を伸ばし。軽くぺろりと舐めていた。それでキャッキャと、シュリくんがはしゃいで。お返しにと、ガルシェの顔を舐めようとする。だが、まだ短い舌では上手くできないのか。口に銀の毛が絡まり食んでしまい、ムーッと唸り声を出していた。
 その様子を見ていると、顔は狼と犬だが。まるで親子みたいでとても微笑ましい。もしかして。ガルシェが子供の扱いに慣れてそうなのは、たまにシュリくんの世話をしていたのだろうか。めんどくさがりな性格からすると、ちょっと意外に感じるけれど。今の彼らの仲を見てしまえば、その可能性は高かった。それは、僕がこの街に来る前。という事になるけれど。
 僕が居候を始めて、ガルシェは極力僕の傍に居ようとしてくれていたから。この子と触れあうのもたぶん久しぶりになる筈だ。思った以上に、僕は彼から親しい人達との関わりを奪っていたのだろうか。自分の時間は有限で、それを誰に使うか。そこ自体は本人の意思次第ではあったが。家にずっと居る僕という存在は。
 微笑ましいのに、ちょっとだけ。二人の仲睦まじい姿にそんな事を考えてしまう。慕われる相手は多そうなのだけれど、気を許せる相手となると。この銀狼は少ないように感じた。ガカイドや、ルオネ。がその区分に入るのであろうが。最初の出会いから、僕は彼らに傷つけられて。それを気にしてか、会わせないようにしていてくれたから。それはガルシェ自身、彼らと会えない事も意味していて。
 食事会で、久しぶりに会えたのが。酒の席で、彼も楽しそうに。幼馴染と会話する姿は記憶に新しい。それすらずっと、今まで奪っていたのかと。そう考えてしまう。
 そうやって、一人かってに意味のない罪悪感に囚われてしまう。優しい彼の事だから、もしもそうなのって直接聞いてもそんな事はないと。否定してくれるのだろうけれど。見上げていた僕に二人が気づいて、そして柴犬らしい。茶色に、手先がまるで真っ白な手袋を履いてるような小さい手が。こちらに伸ばされていた。ガルシェは、高さが合うように屈むと。シュリくんを僕へと渡してくる。
 つい受け取ってしまうのだけれど。小さいとはいえ、見た目以上にずっしりとくる子供の体重。重い。それで少しフラついてしまうが、背に銀狼の手がいつの間にかあった。あまり長時間は抱き上げていられないだろうけれど。嬉しそうにする柴犬の顔を見てしまうと、もう少しだけ頑張ろうかなって思えてしまった。
 そんなマズルが近づいて、ガルシェにしたように。小さい舌が人の頬へ這う。毛皮など持っていない僕は。この子にとってとても舐めやすいのか、さっきみたいに毛が絡まないのを良い事に。遠慮なくぺろぺろとされてしまう。シュリくんを抱きかかえてるから、身を捻ろうとその舌から逃げられなくて。子犬が甘える仕草といえばそうなのだけれど。
 たまりかねて、降ろそうかなと考え始めた頃。僕の腕から重みが消える。急に離れていくシュリくんの顔。舌が伸びきったままの犬の表情は、何が起きたか。まるでわかっていないようで。そんな犬の顔のすぐ上に、狼の顔が並んでいて。銀狼が、自分で渡した癖に、人から柴犬を奪い去ったのだった。
 舐められる事に、内心嫌がってると気づいてくれたのかなって思ったけれど。ガルシェが柴犬の後頭部を見つめる姿はそうではない気がした。ちょっと睨んでいるし。なんでだろうと、不思議そうにシュリくんが振り返る時には。そんな表情隠していたけれど。
「ほら、俺達も帰るから。シュリも早くお母さんのところに帰れ」
 不満そうにしていたシュリくんが、何か文句を言う前に。地面へと降ろした銀狼は、ちょっとだけ強い口調で。そう言っていたのだった。本当は、もっと遊び足りないであろうに。僕の方を気にしながらも。様子が変わった大人の雄に逆らう気はないのか。最終的には首を縦に振っていた。
 またねーって、大きく背伸びしながら手を振る柴犬の子を見送ると。未だ賑やかにボールで遊ぶ子供達を背に。銀狼に急かされて、帰路へと。当然、僕の手を握り。逃がさないといわんばかりに、目の前をずんずん歩く大きな背中を見て。
 一度は矛を収めたけれど、探させて心配させたのだから、怒ってるのかなって。その背中を逆らわず見つめながらついて行く。一度、振り返って。シュリくんが消えた路地を見て。
「ガルシェって、子供。好きなの」
 そう呟いていた。ちょっとその怒りを誤魔化そうかなとか、そんな気持ちもあったけれど。純粋に、ただ疑問に思った事だった。聞こえてるのは、こちらを見てはないけれど。後方へと動いた狼の耳が雄弁に語っていて。立ち止まらず、暫し考えたら。
「好きだぞ。ちっこくて、可愛いし。なんでか俺に懐いてくるし」
 なんでか。その部分はたぶん。自分でも厳つい顔をしている自覚があるのであろうな。でも子供っていうのは案外本質を見抜く力に長けていたりする。見た目は威圧感があっても、この銀狼がとても優しい心を持っているのを。自然と見抜いているのではなかろうか。実際に触れあって、構ってくれる大人の雄というのは人気者であろうし。逞しく、力強い者に憧れを抱いたりするものだ。
 ガルシェぐらいの鍛えられた雄ともなると、同じ大人からも。羨望の眼差しを向けられたりするのかもしれない。最近、雌からもモテているという情報を得ている僕は。そんな結論に至る。
「ルルシャは、子供は。好きか」
 突然立ち止まって、振り返る銀狼。それに僕はぶつかりそうになって、少しだけたたらを踏む。またいつかの時みたいに、大きな尻尾に埋もれそうだった。本当に、素朴な疑問を投げかけたに過ぎなくて。まさか、自分にその質問が返されるとは思ってもみなくて。たじろいでしまう。考えてもみなかった。もっと別の事を考えてたのもあって、返答に詰まる。
 それでも、ただじっと。僕が答えるのを待つガルシェ。その琥珀のように綺麗な瞳に宿る何かが、気になったけれど。それが何か、わからないから。ただ、質問に答える事に意識を向ける。自分自身は成人してると思っているのだけれど。実年齢も思い出せないから、鏡で見た容姿でしか判断はできないのだが。でも、心はちゃんと大人をしているかと聞かれると。そうではない気がして。
 そんな自分から見た、小さな子供って。
「わからない」
 嫌いではないと思う。でも、どう接すればいいか。おっかなびっくりで。いつ泣かせてしまうか。簡単に傷つけてしまいそうで、恐怖の方が。好きより勝ってしまうから。だから、あれこれと深く考えてしまうと。ただわからないと、答えていた。
 とてもはっきりとしない。僕の返答ではあったけれど。それで銀狼が表情を変えるような事もなく。それで前を向いて、また歩き出してしまう。手を繋いでいるから、僕も歩かなければ前へと倒れてしまうから。止めていた足の動きを再開させて。
 今の。問われた理由が何であったのだろうか。僕に聞かれたから、ガルシェも聞いただけに過ぎないのは。そうで。そうであるのだろうけれど。どこか真剣身を帯びていたから。含まれた意味を探してしまう。
 考えても真相のわからぬ答えに。そうこうしていると、見慣れた錆びた階段が見えて来て。家に着いたんだなって。銀狼の体重を支え、軋み、大きな音を立てる踏板。それに遅れて、それよりは小さな軋む音が続く。合鍵で鍵を閉めて出た扉を、ポケットから出した鍵で。開錠するとさっさと僕を連れて入り、代わりに僕が開けた扉を閉める。
 そうすると、玄関には無造作に置かれている袋。どうやら、これを手に入れる為に外出していたのか。中身のわからない袋が目に入って。でもそれは、銀毛がすぐさま遮る形で隠れてしまった。
 手を離したと思ったら、両肩に狼の大きな手が置かれて。その持ち主の顔が迫る。思わず顔を逸らすけれど、構わず相手はその湿った鼻を頬へと近づけて。
「マーキングが薄れてる」
 そう呟くと。一度動物の顔らしく、低く唸った。獣の目線がそのまま人の顔から、下り。僕もそうすれば、目を凝らせば服には茶色い抜け毛。それを確認したら、ガルシェの手が肩からそのまま上着を脱がそうと素早くたくし上げてくる。
 どうやら、機嫌を損ねた一番の原因はこれだったらしい。上半身を裸にされるのは、本来抵抗しても良い筈なのだが。理由に思い至った僕は、バンザイするように腕を上げ。脱がせる彼に逆に手助けする格好を取った。
 そうされながら。柴犬がつけたにおいに、嫉妬してるのかなって。子供相手に。興奮しているのか、少し息を荒げ始めた雄の姿を見て。ただ遠くへ放り捨てられる自身が今着ていた服を目で追った。
「子供のした事だよ」
 首筋にねっとりとした動きをする舌を這わされながら、冷静にそう言っていた。無視されたけれど。どうやら、例の波が来たらしい。彼は今、季節外れの発情期で。僕のにおいを嗅いで、そして禁欲し続けたのも合わさって。そうなり、一度、倒れるまでに至ったのだった。
 それで、お節介な僕の性格が災いし。その性処理。手淫ではあったけれど、僕が直接触った事で。性的対象と本能が完全に誤認したのか。彼の自身でも抑えきれない性欲を同性で、人間である僕にぶつけるこの状況を作り出していた。始まりは、起因は全て、元を辿れば僕であった。
 彼の心は、そうしたいわけではないのか。暴走しそうになる度に。悲しそうにしながら、謝られるのだけれど。波以外にも、ガルシェがつけたにおい。マーキングが他者のおこないで薄れたりすると、独占欲めいたものが刺激されるのか。理性を削いでいた。
 僕の首筋を舐めながら、もう窮屈になりだした自身の股間を気にしているのか。舐めるのを止めないままベルトのバックルを乱暴に外すと、破きそうな手付きで。ジーンズ、股間部分にあるファスナーを下げると。指先を突っ込み、中身を取り出していた。毛皮で包まれた鞘、そこから顔を出している赤黒い突起。先からは水滴が湧きだしていて、それが視界に入ったらつい目を逸らす。鼻につく、雄の臭い。それに顔を顰めそうになったが、表情には出さなかった。
「頼むから、動かないでくれ。無理やり襲いそうなんだ」
 もう襲ってる。そんな言葉が出かかったが、飲み込む。この男を、好いてはいても。こういった動物めいた発情とか、実際に生殖器を突き付けられると。内心狼狽えてしまうのだった。怯えに近いのかもしれない。食らい、漁られそうな危うさが垣間見えるから。それでも、これまで過ごした日々。それから来る信頼関係が。逃げ出すという選択を、僕は選ばないでいた。
 本格的な発情期に入ってから。こうして、毎日のように。僕は彼の衝動を相手していた。彼がその衝動をぶつける先が、他に居ないというのもあった。ただ幸いなのは、ガルシェが僕を無理やり押し倒し、組み付き。犯すといった段階まで踏み込まず。手淫や、素股で留まってくれていてくれるのが。この危うい関係を続けられている一番の要因で。もし、強姦されていたら。この抱いた好きという気持ちも。変わっていたのだろうか。
 友達とも、恋人でもない。この家主と、居候というには歪んだ関係。結局この関係に陥った原因も、僕のせいであるのだが。
「ガルシェ、お風呂場に行こう」
 逸らした視線の先。脱衣所、彼と入ると窮屈だと感じるお風呂場へと続く扉を見つめながら。これも無視されて。無言で僕のズボンに彼の手が掛けられる事で、まだ理性が多少なりとも残ってる筈なのに玄関ですると決めたのだと。彼の考えを自ずと悟る。ある程度、行動に付き合うと決めている僕は。そこで漸く覚悟を決めた。彼は凄く汚すから、できれば洗い流せるお風呂場で行動に及びたかったのだけれど。
 パンツと一纏めに無理やり脱がそうとする手を、僕の手が上から抑え、制し。自分で脱ごうとして、そういえば靴すらまだ脱いでいないのを思い出した。いつの間に脱いだのか、僕が履いているブーツよりも二回りもサイズの違うブーツが二つ。横に倒れ転がっていたが。
 服を着たまま、前を寛げたガルシェに対して。僕が一糸纏わぬ裸になると。淫らなのはまるで人間の方だと、傍から見たら思われそうだった。ただ脱ぐのも我慢できない程、彼が興奮しているとも言えるのだけれど。靴を脱いで玄関から一段上がり、フローリングへと膝立ちになると。ガルシェも逃げないと感じ、落ち着いたのか。急かされるような動きを静め。呼吸は荒いままであったけれど、僕を嗅ぐ事に集中していた。嗅ぎ、そこにある僕でも、銀狼のでもない臭いを見つけると舌を押し付け。唾液で上書きする。
 どっしりと、重い腰を床へと落ちつけ。毛の束でできた尻尾がばさりと横たわる。鼓膜を震わせる。動物のちょっとだけ抑えようとして、それでも零れる唸り声と。ぴちゃり、ぴちゃりと。舌が肌に触れる度に立てる音と。目を瞑ると、四足の獣に味見されてるように感じられてしまうから。逆にガルシェのする行動を、観察していた。そうしないと、思わず取り乱してしまいそうであるというのも、あったのだけれど。
 熱心に、裸の人間を舐める。狼に対して。不意に。ねぇ、そう声を掛ける。行動は続けながら、目線だけでなんだと。そう聞いてくる男。
「家の壁に、なんか変な汚れがあったんだけど」
 今日の朝。掃除をして、発見した痕跡を思い出し。彼の好きにさせながら。狼の太い首に手を伸ばし、一番毛の量が多い首元へと。指先を突っ込めば。簡単に指先が埋もれて。そうして、少し掻き分けて。地肌に触れると。大きく浮き出た喉仏を見つけて。軽く指を立てて、掻く。そうすると、ほんの少しだけ開いていた瞳が細まり。気持ちよさそうに、唸りではなく、ガルシェが喉を鳴らす。
 興奮した時。僕が撫でたりすると、焼け石に水かもと思えるけれど。多少なりとも落ち着きを取り戻すから。あまりに行き過ぎた行動をすると撫でるようにしてるから。自然とそうしていた。そうしながら。
「凄く。すっごく、失礼な質問なのはわかってるんだけどさ」
 そう前置きしながら。喉を掻けば。舐めるのを止めて。まじかにある狼の頭が、傾く。不思議そうにした獣の瞳。本当に、服を着ていなければ。喋らなければ、野生の狼そっくりだ。でもその魂は限りなく人間だし。
 確証は得られないけれど。ふと浮かんだ考え。浮かんでは否定して。けれど彼の口から、マーキングとか出るから。完全に消え去る事ができなくて。ならばと、直接聞く事にした。人に聞くのはとても、失礼だとわかりつつも。
「もしかして、家におしっこひっかけてないよね」
 何を馬鹿なと、自分でも思う。立ちションとかは、ちょっとトイレに間に合わなければ人でも隠れて茂みにしたりは男なら大きな声では言えないけれど、したりするのだけれど。ただ、意味合いを変えれば。途端に。
 あまりに、においという情報に重要な意味を見出す。異種族の雄相手に。もしやと。飼っている犬が、散歩の途中でする行動が連想されて。同じ、動物の顔をしているからと。それをするとは。動物扱いはいくら似ているからと人に対して、とても失礼であろうと。そう僕は思っていた。思っていたけれど、今、つい聞いてしまうに至ったのは。勘が、可能性は零じゃないと。そう言っているからで。
 ふんっ。鼻息が顔に吹きかけられ。なんだ、そんな事かと。言葉にはしておらず、まるで興味ないとばかりに。別に否定も、肯定もしていなかったけれど。その態度で、確信を得てしまって。僕はてっきり。舐めたり、身体を擦りつけたりと。そういった、親しい間柄でしか強いマーキング方法はないものと思っていたから。だからこそ、最初ガルシェもそれをするのはなと。躊躇している節があったのに。発情期でだいぶタガが外れた今。あるじゃないか、もっと確実で。臭いの強いのが。
 だから、彼らにとってはもしかしたら当たり前なのかもしれないけれど。人間の僕にとってはまさかと、そう思いさすがに嫌悪する行動を。思い描いて。しないとは思う。そう思いたいけれど。
「舐めるのは我慢するけれど。汚いから。僕にはしないでよ」
 目を気持ちよさで細めたのとは違う意味で形を変え、じっとりとこちらを見ながら。意味深に、また狼の舌が鎖骨のラインを辿る。この銀狼を怒らせるのは、別の意味で危険だと感じた。思わず頭を抱えたくなったが。きっと、そうするに至る時。僕にとって最悪の方法を彼が取る時、だいたいは僕が悪いのだろうな。心配をかけてばかりだから。
 無警戒に、他人に身体を触れあわせるのは。でも今回のも、というかこれまでも。基本は不可抗力だと思うのだけど。
 今、ジーンズからはみ出している逸物。それを野外で。自分家の壁に、向きを調整し。ガルシェがその排泄器としても機能する生殖器を向ける姿を。ついつい想像し。その赤黒く、尖った先からジョロジョロと湯気を立ち上らせながらおしっこする光景を。そこまで想像して、嫌悪感に。これには顔を顰めた。
 動物なら普通。普通だけれど。彼は一応人だ。人の筈なのに、最近動物的な側面を多く見せられて。僕が普段接しているこの男が、人であると自信がなくなってきた。いや、異種族であるのだから。同じ人間の尺度で考える事自体が間違ってるとも言えるが。物事に対して、柔軟な考えが求められた。肌の色とか、生活様式とかだけではないのだから。そう言い聞かせても、嫌だと感じるものは。やっぱり嫌だった。
 本当に、記憶喪失なのに人間として中途半端に残った常識は。この街で暮らすには、時として邪魔になってしまう。受け入れ難い事柄が多く存在したのだった。
 考えるのも嫌になり。問題は先送りにして。喉を掻いていた手をそのまま、下へと。フローリングに一緒に座った男。その股間に息づいている熱気へ向けて。手を伸ばす。そっと触れると、嬉しそうに。先から蜜を零し、早々手のひらを汚された。
 犬科の生殖器。まだ殆ど、その全貌を表していないから。毛皮の鞘ごと掴めば。また先からぴゅって、先走りが発射されて。今度はそのまま小さく放物線を描き。胡坐をかいたガルシェの脹脛、ジーンズを濡らし。色褪せた青を、染め直したわけでもないのに色濃く変える。
 目を瞑り、一度ぶるりと上半身を震わせると。口角を上げて。気持ちよさそうにするガルシェ。こうやって、人には言えない触れあいにお互い慣れてくると。垣間見える表情。行動に伴う快感に、とても素直に反応するのだった。この男は。それだけ理性を欠いていると言えばそうだが。普段の彼からすると、たぶん恥ずかしがったりするのだろうけれど。僕の方も、いろいろ考える余裕が生まれる程度には。また、慣れてるのも。事実であった。
 ゆるゆると毛皮の上から刺激すると。その都度、先端から液体を飛翔させる。ふにふにと、握ると形を変えるから。まだ勃起という現象を起こしていない異種族の男性器が。僕の手の中にあって。でも芯には陰茎骨という骨が存在するから。折れ曲がる程ではない。雌に挿入する際に手助けするらしいその部分。僕のちんちんには存在しないから、ちょっとだけ不思議。
「ッ、はぁ。もっと強く。触ってくれ」
 顔を耳元まで近づけた狼からの催促に、素直に従い。握る力を強くする。そうすれば、手の中にあるのだから変化は数秒の遅延も起こさず。僕に伝わって来る。ぴくりと反応した雄は、少しずつその体積を増し。露出する面積を多くする。僕が包皮みたいな毛皮の鞘を剥かなくても、勝手に剥き出てくる。血液が充満し、彼の高い体温が直接触れあうから一番熱い部位に感じる。
 そうやって、彼の身体の変化を視覚でも、質感からも、嗅覚からでも。感じていると。僕まで、興奮を露わにしていく部位。耳元で獣の吐息を聞きながら、やがて、フローリングまで小さな水溜まりが点々とガルシェの先走りによって散乱する頃。勃起した男の生殖器が二つ。同じ空間に存在していた。人と、獣と、そういう違いはあったけれど。
 棒状の粘膜を指先で撫でながら、体格相応のペニスを。擦る。犬科だから当然根本には瘤状の部位があって。交尾した相手を逃がさないように、繋ぎ止め、出した精液が零れないよう栓をするその器官。五本の指で包み込めば、狼のマズルが思わず零れた吐息と共に人の首に擦りつけられる。
 最初見た時、丸いボールが根本についていると思っていたけれど。こうやって、冷静に、ゆっくりと触りながら観察すれば。結構歪な形をしているのだとわかった。睾丸がもう一対、ペニスの根本に寄り添うように。横に張り出したかのように膨らんでいて。その瘤状の部分と、棒状との境目に、くびれがあって。ゴツゴツしている。握りこぶしを作った手の甲を撫でたらこれに近いのかな。ボコッと出っ張ってる。亀頭球と呼ばれるそこが、彼にとって一番気持ちがよく。敏感で、傷つきやすい部位でもあった。人の亀頭のように。
 レプリカントの、成熟した雄に施す性処理。それ以上でも以下でもないのだけれど。好きな相手の淫らな姿に、どれだけ言い訳を並べても。自分の股間部分が痛いぐらい、同じように張り詰めてるのだから。僕が性的な考えをすると、それで発する発情臭をすぐさま嗅ぎ取り。彼をより刺激してしまうのだった。
 狼の雄は雌が発情した際に出す、発情フェロモンを嗅いで。それで雄も発情する。だから雌が先で、雄が後の構図ができあがるのだが。僕の醸し出すそれを嗅いで、ガルシェもまた、なぜか興奮するのだから。
 日常において、意識してそういった事をあまり考えないようにしないと。不用意に刺激してしまうと気をつけているのだが。こうして、実際に行動に移している今は。彼を焚きつける要素として、自分を使う事もできた。僕で興奮していると思うと、瞳の奥に情欲を湛えながらも本能に支配され過ぎないようにする姿は。可愛らしくも感じられる。
 鼻を鳴らし、首筋に顔を埋める大男。嗅がれてるんだなって、実感しながら。指で相手の性器を刺激し続けているのだから。粘膜ですと、言いたげに。一見臓物にも見える、異種族の生殖器を触る際に。どうしても恐る恐る、傷つけやしないかと不安が付きまとう。その都度、痛くないか本人に聞いたりするのだけれど。緩んだ目をさせて、涎が垂れる口元を隠しもせず。気持ちが良いと、狼の顔が欲を含んだ笑みを形作るのだった。
 今日は手で終わり。僕がそうかってに思って、行動を続けていたけれど。蓄積される快感に。腰の奥に溜まりだした疼きに。グルルと唸り声を聞いたら。ガルシェが大きく口を開け、僕の肩を咬もうとした。時折、彼は興奮のあまり咬む癖があった。それは素股という、より本来の交尾の姿勢に近ければ近い程。するように思えたけれど、感情を開放しつつある雄は。どうやら僕が思った以上に、昂っていたようで。だから、来るであろう痛みを覚悟して。
 別に、その牙が人の柔らかい皮膚を裂くわけではない。ただ、朱く歯形を残すだけであるから。ぐっと食い込むと、痛いだけで。我慢できない程ではない。でも片目を瞑り、強張った身体に対し。咬むだろうとしたガルシェの顎は。寸でで止まっていた。
 どうして、咬まないのだろうか。我慢したらそれだけ、苦しくなるのは彼なのに。僕の方が一瞬だけ、代わりに我慢すれば済む話で。だから不思議とその横顔を見つめていた。鼻筋に深く刻まれた皴を見ながら。
「……くそっ。チンコ疼いて忘れてた」
 舌打ちが聞こえた。そうやって、彼の身体が離れていく。当然、僕が握っていたペニスも。初めてだった。行動を彼から中断するのは。僕から何かする時、興奮を落ち着ける為に撫でながら頼む事はあっても。事の成り行きを、手持ち無沙汰で居ると。玄関に置きっぱなしで放置されていた袋を漁りだす。そうやって出て来た用途不明な、見慣れない筒状の道具を取り出して。
 帯状のパーツがくっついているから、何かに固定する為のだろうか。何に使うのだろうかと、この場にそぐわぬそれに。でもガルシェは、手に持ったそれを。何の躊躇もなく、突き出た口へと。被せてしまった。
 だから、そこまでされて。それが、いったいなんであるか。僕でも理解してしまえた。装着した道具。口輪であった。吠え癖が酷い、ペットに使う。人に使う筈のない。けど、彼の顔は狼に酷似していたから。とても、異質な筈なのに。綺麗にフィットしていた。
 自ら、帯を掴み頭の後ろを一周させると。パチリ。そんな留め具に嵌る音をさせて。ああ、そんな。どうして。上手く口が開かないのか。籠った声がした。でも、今着けたのと。それを彼が選んだ理由に。何を言ってるかなんて。
 ――これで咬まなくて済むだろ。
 狼が目線を逸らしながら。身を寄せてくる。肩に再び寄せられる。口輪を装着して、咬む事が封じられたマズル。それが乗せられると、プラスチックでできてるのか。ひんやりとした。そういえば、彼は。行動の際につい咬んでしまうと。毎回、終わった後。僕の肌を見つめていた。悲しそうに。朱く残ったその跡を。僕はただ、抑えられない衝動に。人間にぶつけている自分に。心が傷ついてるのかなって思っていた。でも勘違いであったと。今日、ガルシェがわざわざ出かけてまで取って来た。口輪の示す意味で。
 傷ついてはいたのだろう。でもそれは、人の肌を。僕を傷つける事に。心を痛めていたのだ。この性行動自体を止める気はないのであろう。視線を逸らしながら。僕の手を引き。自らの恥部へと誘うのだから。
 本当に不器用な男だった。でも、その遠まわしであっても。それでもしっかりと伝わって来る優しさ。これだ。これがあるから。好きになってしまったのだった。咬めば良いのに。咬んで楽になるならそれで、良いのに。ちょっとぐらい。僕だって我慢できるのに。
 彼の熱い滾りにまた触れ、そしてもう片方の手で。その口輪越しに、狼のマズルを撫でる。嫌じゃ、ないの。こんな物つけて。人としてのプライドが。普通、許さないんじゃないの。尊厳を。自分自身で、着けてしまったのだから。
 なんだか鼻の奥が、ツンとした。目元に、溜まる。触発された想い。硬い無機物に隔てられた。彼の口に。目を瞑り僕も自らの頬を擦りつける。今だけは、この感情に身を任せても。良いよね。
 そうしたら。ゆっくりと、瞼を開くと。とっても近い所に。彼の瞳があって。僕の顔が映りこんでいた。きっと僕の瞳にも、彼の顔が。瞬きする度に、何かを伝えたいと思うのに。つい彼の性器を握る僕の手が、止まっていても。それについてガルシェは何も言わなかった。僕の普段見せない反応に、戸惑っているのか。見つめ返すだけで。
 カチカチと、音がなる。軽く狭い空間で顎を動かし、牙同士を打ち付けたのだろう。うん。ごめん。続きを、しようね。早くこんな事終わらせよう。そうすれば、それだけ彼が口輪を着けている時間も少なくて済む。
 そう思って。行動を再開しようとしたのに。何を思ったのか。銀の腕が動いて。僕の両脇に差し込まれる。そうやって軽々と持ち上げられると。胡坐をかいた彼の股座に向かい合う姿勢のまま、降ろされて。
 裸なのだから、当然。露出している彼のペニスに。僕の感情が違う方法へ向いたから萎え、垂れ下がるちんちんが接触する。硬い雄棒に対して、柔らかく変形する僕のが。背に、男の逞しい腕が回ると。もう一つの手が、僕のに触れた。
 対面座位で、ガルシェが股間を見つめながら。自分のではなく人のを再び勃たそうとしていた。そんな気分ではなかったが、直接的な刺激に。肉球の柔らかくも、一部が力仕事で硬質化して硬くも感じる。不思議な感触をさせて。揉むようにして。腰が逃げようと身を捩るが、そうさせないように背に。彼の手が支える意味でも、当てられていて。
「ガルシェ、僕のはいいよ……」
 彼のを満足させたら。それでいいのに。聞く耳を持たない。収音性の高い耳を持っているのに。目の前の狼は、無言で手を動かし続ける。男の性か、抵抗したくても鎌首を持ち上げた僕のを確認すると。そのまま、自身のと一纏めにして。大きな手を最大限活用し、包み込まれてしまった。そこまでしたら、彼がどうしたいのか。わかったけれど。上下しだした手の動きのせいで、止めようとしても。ただか細い声を出して、彼の厚い胸板を感じつつも着ている上着を。つい掴んでしまうだけだった。革のジャンパーを握って。そういえば彼は服を着たままで。
 人の僕だけ裸で。胡坐をかいた彼の胸の中で。一緒くたに性器を抜かれていた。自慰に近いのに。僕のが寄り添うようにあるからそうではなくて。お互い性器を勃起させて、くっつければ大きさの違いが。瘤で僕の陰嚢がむにゅりと押しつぶされ。人のよりもさらに伸びあがった、先細りの狼のペニスが。ぐっと押し付けられる。裏筋から尿道を通る膨らみにかけて、熱い。僕の鼓動に合わせて、小さく脈動する人のと。ガルシェの鼓動に合わせて、びくびくと震えている性器同士が触れあえば。まるで小さな心臓同士をくっつけているようで。
 彼と違い、とろりとしたカウパーが少量。亀頭にある鈴口から零れて。彼の水っぽい液体と合わさり。お互いの重ねた股間部から、いやに音量の高い。水音がする。手を上へと上げて、雁首に肉球が柔く引っ掛かりながら。素早く下ろされると、亀頭の表面を撫でながら陰茎全体をしっかりと包み込まれて。彼の手の中に僕のが消える。
 暫く、そんな変わらぬテンポで。強すぎない握力で握られ続けられていたら。僕の腰の奥に。じりじりとした。確かな快感の蓄積が感じられた。射精の準備を始めた身体は。垂れ下がっていた陰嚢を引き上げ。まるで彼の亀頭球みたいに、根本に寄り添う形を取る。
 肌色で、先っぽだけ赤いのと。全体的に赤黒く、血管が透けているグロテスクな見た目にかなりの違いはあったが。
「が、ガルシェ。ダメだよ、これ。僕のは、いいよ」
 与えられる刺激に、堪えて普通に喋ろうにもかってに声が弾む。僕を見下ろすガルシェもまた、口輪の中で鼻息を大きくさせていた。肩が、呼吸に合わせて上下して。呼吸も、少しし辛いのであろう。それでも、外す事はしなかった。口輪のまま、たまに首筋や肩に。彼のマズルが体当たりしてくるから。なかったらその時咬まれていたのだろう。また、カチカチと狼の牙が鳴る。
 背筋を駆け上って来る、じりじりと焼きつくような快感、それに耐えかね。彼の胸元に額をぶつければ。僕の絶頂が近い事を悟った意地悪な男は。手の握力をもう少しだけ強め。そうして手の動きをさらに素早く変える。追い立てられるようにして。腰の奥に燻ぶる熱が、彼の手によって急かされ。我慢しようとすればする程。その熱は肥大して。ついには、ぐっとちんちんがさらに硬くなるような感覚がして。弾けた。
 胸元で彼の名を呼びながら、情けなくも絶頂する。一気に視界が狭まる。呼吸が詰まる。思考が濁る。尿道を駆け上るどろりとした、白濁が。彼の肉球を汚すと。立ち上って来る、独特の臭気。僕よりも嗅覚のよい彼が、それを嗅ぎ漏らす事もない。
 一心不乱に、手の動きを乱暴に。先に達した人を狼が臭いを辿りながら早足で追いかけるように。射精中の僕とって、行き過ぎた快感という暴力が襲う。それも。
「……ぅ、ッあ、射精るっ!」
 噛み殺したような、男の喘ぎ声と宣言が聞こえたと思った時。僕の欲望を吐き出し、それでも残尿感のような感じを残して痙攣するだけになったちんちんに遅れて。狼の生殖器もまた、自身の遺伝子を噴き上げた。彼に握られすっぽり覆われて隠れている僕のに対し、巨根故に狼の手から先っぽと少しが飛び出している。尖った場所にある尿道口から。僕の顎目掛けて。真っ白な液体がびちゃりと飛んでくる。
 見えたのはそこまで。目に入ったら大変だと。咄嗟に瞳を瞑ったから。後は、鼻先に、頬に、また顎に。喉仏に。熱い間欠泉が当たるのを、肌で感じていた。僕が出したのよりもずっとずっと、多く。生臭いそれが。射精とは、こうするんだぞって実演するみたいに。とても勢いの良い、力強い生命を実感させるそんな顔射だった。
 彼の胸元に額を当てるように、俯いていなければ。こうはならなかっただろうが。不幸にも僕は、彼の絶頂を顔で受けるはめになってしまって。いまさら顔を背けようにも、抑えるように力んだ彼の手があるから。それもできなかった。
 そして、僕の陰嚢に伝わる。どくんどくんと震えながら亀頭球が膨らんで。圧迫してくるのまで。視界を奪われて、より感じ取ってしまう。人の睾丸を押し潰そうとするかのように、押し付けられたまま。肥大する瘤。
 そんな射精の勢いも、落ちつきを見せるのは。瘤が最大まで膨れて少し経った頃で。続いて第三の射精を開始するガルシェは。気持ちよさそうに、息を深く吐いていた。まだ、彼の先からは透明な液体を吐き出しているけれど。もう顔まで飛んでくる事はなく、僕のお腹とか、そのまま手に垂れるぐらいであった。
 だから、目元を指で拭い、彼の精液が入らないようにしながら。漸く目を開ける事が叶う。瘤の刺激を止める事を嫌うから、彼は僕のちんちんごと握りこんだままであったけれど。動き自体は、びくびくと狼のペニスが震えるだけとなった。
 顔を上げて、自分と、彼とを見回して。至るところに飛んだ、彼の欲望の証を一つ一つ。目で追って。革ジャンも、Tシャツも、ジーンズも。そして僕の顔も、胸元も、お腹も。お互いの股間も。酷いありさまであった。
「うわ……、めちゃくちゃ汚れちゃったじゃん」
「そう言うな」
 嫌がる僕に対して、くつくつと何が面白いのか。口輪のせいで喋り難そうにしながらも、肩を揺らす目の前の男。彼の大きな身体に遮られ、少ししか見えないが。後ろで尻尾が揺れているの窺えた。僕の身体中に、ぶっかけて。汚した雄の優越を噛み締めているのだろうか。自分の身体が、酷く生臭い。饐えた臭いがするから、眉が自然と寄る。
 そうしていたら、ガルシェが。僕の背に合った手を離し。自身の首輪を人差し指にある爪で、コツコツと強調する。その動きで、どうして欲しいのか。何となく察した僕は。自由な両手で、彼の口を拘束する。その留め具を外す。そうしたら。口輪からマズルを抜き取ると、そのまま床へと放り捨てて。僕の衣服の傍に転がった。
 窮屈だったのであろう。なんどか試しに、試運転とばかりに。彼のが大きく開口し。そうして嚙み合わせを確かめて。異常がないのを確認すると。べろりと、大きな舌が視界を覆った。目元を、舐められていた。自分の精液がついているのも構わずに。
「ちょっと!」
「俺が汚したからな、綺麗にしてやる」
 押しのけようとする、人の手を掻い潜りながら。狼の顔が負けじと接近しては、また舐められて。綺麗にとは言うだけで、精液の代わりに彼の唾液が付着していくだけであった。というより、折角の彼の一張羅が台無しだ。本人が気にしてないのなら僕は別に構わないのだけれど。いや、革ジャンとかどう洗うんだ。普通に洗って良い物なのか。わかないぞ。全然構う。やっぱり、強引にでもお風呂場で。彼も脱いでもらいするのが最善であった。そうなると素股を強請られるのだろうけれど。
 口輪も咬みつきそうになるその刹那まで、忘れていたから。たぶんお風呂場では狼の歯形がいつも通り僕の肩や首筋についていた可能性があった。それで最後。彼の悔やんでいる顔を見なくて済んだなら。別に許容できる犠牲であっただろうか。結局僕に関して言えば、身体に跡が残るか。後片付けに手を焼くかの違いでしかないけれど。フローリングにも、少なからず彼のが飛んでいた。水っぽい彼のと違い、粘ついている僕のが。自身のペニスに絡むのが新鮮で、気持ちが良いのか。ゆるゆると、小さな動きで手を動かしていた。僕のも当然、そのままだからイったばかりなのに。刺激を与えられると気持ちが良いよりも、擽ったさのが勝る。嫌がる僕に気づいた男が、それで手を止めてくれてなければ。無理やりにでも抜け出そうと暴れていたかもしれない。
「もう少しだけ、付き合ってくれ……」
 僕の顔を舐めて満足したのか、肩に顎を乗せて来たガルシェは。そう言い、リラックスするように身体から力を抜いていた。いつも、ここからが長い。彼の射精。身体の作りが全然違う異種族とはいえ、その精力に呆れてしまう。びゅっ、びゅって、元気良く。今も彼のは震えながら腰を震わせては、透明な液を吐き出し続けている。精子が大量に含まれているらしい本命はもう終わったけれど。僕の顔を汚す事で。
 今は前立腺液だけを射出するだけとなっていた。先に出した精子を、さらに奥へ流し込む為。だとか。犬科の交尾の仕組みに、どんどん嫌でも詳しくなっていくのが。これも全部ガルシェのせいだと。寝顔のように、穏やかにこちらに頭を預けた。顔を見やって。文句の一つでも言ってやりたかった。でも。その顔を見てしまうと。まあ、いいかと。思えてしまうのだから。これも、好きになった僕の負い目かなと。鼻にかかった、息をする。狼を困った顔で、ただ見つめるだけにしておいた。
 自分の射精が長い事を、十二分に自覚している男は。だからこそ、もう少しだけ付き合ってくれと口にしたのだった。彼にお願いされたら、断れないのに。こちらの気もしならいで。本当、ズルいなと。そう思う。気持ちを言ってないのだから。それも当然であったが。
 伝える気もないのだし。これ以上、好きになりたくは。ないな。
「どうした?」
 不意にガルシェが怪訝そうな表情をさせて、こちらを見つめていた。先程まで目を瞑っていたのに、いつから僕の表情を見ていたのか。何でもないと、首を振る。大した事ではなかったと、そういう意味で。
 肩から重みが消える。それは銀狼が頭を持ち上げたからで。背を丸めていたのから彼が身を起こすと、胡坐の上に僕は座っているのに。元々の身長差からやはり見下ろされる形になる。唾液が乾いてきた僕の顔面に、犬科の湿った鼻が寄せられる。彼が不快に感じるにおいとやらは、落ちただろうか。僕は、今、汚れて大変不快なのだけれど。
 お尻に当たる肉と、太い骨の感触。ずっと座っていると一部分だけ血流が悪く、薄っすらと痛みを感じ始めた頃。彼の胸の中で位置を調整する。長時間じっとしていなければいけないから、犬科って大変だなって。完全に萎えた僕のはそんな動きで、ぬるりと白濁にまみれながらも狼の手から先に抜け出してしまった。良かった。あまり刺激を受けているとまた勃ちそうだったから。それに気づいた銀狼は嬉しそうに刺激してきそうであったし。いや、たぶん、する。僕が別にいいって言っても、毎回射精させられるし。
 雄として、彼なりの秩序があるのか。必ず一緒にイかされる。それは素股の時もそうで。彼の性処理と思ってしてるのだから、僕はいいのに。雰囲気に流されて、どうしても勃起してしまう僕も僕であったが。
 他人の手でされるのは、自分でするよりは気持ちが良いとは思えるけれど。それは否定しない。実際ガルシェは、人間の手や肌の感触が好きとそう言ったわけではないが。雰囲気で何となくわかる。お気に入りのようであった。自分の肉球とも、毛皮とも違う刺激に。自慰しか経験がない雄が、覚えたばかりの事に夢中なだけとも言える。
 自分の亀頭球を握り、僕の背を支えながら。身じろぎした事に気づいた彼は。綺麗にすると言った時とは違う舐め方で、口元へ舌を這わしてきた。とても優しい目つきでそうされると。勘違いしそうになるけれど。
 この光景をさっき見たなと。柴犬の子。まだ小さな子供であるシュリくんを抱きかかえ、顔を舐めている時と。一緒だと。毛繕いのようなものであろうか。もしくは、人が撫でるみたいに。あやしてるとも言えて。子供扱いされてるように感じて。つい。一度引っ込んだ黒い唇の間からまた肉厚で、長い人外の舌が出てこないように。マズルを掴んだ。
 優しそうと感じたが、ちょっとだけ目が据わる。そうして、大きく狼の頭が左右に振られ。振り解かれてしまった。
「おい。べつに咬んでないぞ!」
 やっぱり、口が開かないというのは不快なのか。僕が彼のマズルを掴めていたのはごく短い時間であった。ということは、口輪はあまり本人も好んで着けたくないという事で。その事実がわかって。眼前には怒りに唸り、マズルに皴を寄せる狼の顔があったとしても。僕は悪びれもせず、口元が緩んでいた。それで余計、彼を怒らせるかもしれないのに。
「なんでもないよ」
 顔を舐められるのがあまり好ましくないのもそうだが。先程の問いに対しても。僕がした行動についても。全部ひっくるめて、そう答えていた。突然掴んで来た人間がそのように返せば、彼がそれで納得する筈もなく。後頭部にかけての毛が逆立つのが見えた。顔は怒っていても、それでも射精は止まっていないのだから。呼吸は、じんわりと上って来る射精の快感で乱れたままで。背にある、僕を支える為の手が。彼の方へと突如、強引に引き寄せられた。そうすると、迫る胸。僕は裸なのだから、革ジャンにあるボタンやファスナーが当たって痛い。
 でもそれ以上に。僕がそれで怯んだ隙に、怒った狼が肩に牙を押し当てていたのだった。
「ウルルル……」
 喉から鳴る。獣の声。でも、横目に見つめてくるガルシェの表情は。どちらかと言うと。ゆっくりと、顎を開き、唾液が糸を引く。結局。僕の肩には口輪まで使って我慢したのに、彼の歯形がくっきりと残ってしまった。
「意味ないじゃん」
 血が出てはいないのを確認して、そんな素直な感想を述べる。僕の身体との密着を強めながら、ガルシェは明後日の方向を向いてしまった。その態度から、まるでお前が悪いと言われたようで。ガルシェ、拗ねてる。
 怒らせはしても、拗ねるような事はしただろうかと考えて。そうしていると、背だけではなく腰の部分にも。狼の手が添えられて。触れられた場所が、びちゃりと濡れた感触がした。当然、ずっと自身のペニスを握り。精液も前立腺液も大量に、肉球にも、手の甲にある毛皮にもしみこませた。べとべとのそれで。その精液には出した量の差から割合は少ないであろうけれど、僕のも混ざっていて。ああ、射精、終わったんだなと。遠い目をするしかなかった。このさい汚れただどうだは、置いといて。
 ぐっと、視界の高さが上昇する。僕を抱えたまま。銀狼が立ち上がっていた。そうして、歩きだすと。水溜まりの上を歩くみたいな音までさせている。掃除が大変だ、絶対に手伝わそう。フローリングで本当に良かった。絨毯や畳だったら目も当てられない。
 それよりも、一番問題なのは。身体の前同士を密着させている状態で、運ばれるという事は。自ずと股間部分も擦れ合うというわけで。瘤が縮みだしても、まだ大きいままのガルシェのペニスと。僕の萎えたちんちんが衝突する。そんな刺激ですら、時間をおいた為に一度射精に至った筈の僕のは。反応を示していて。それに、慌てた。離して欲しくて、彼の手から逃れたくて、暴れようとしても。想像以上に彼の手がしっかりと僕を保持している。落とさないように気をつけているとも言えるのだが。
 床に彼の足の裏にある、肉球の形をかたどった体液の足跡が。彼が歩いた後方に続く。向かってる先は、どうやらお風呂場のようで。暴れる僕をものともせず、結局運ばれてしまった。馬鹿力めと罵る暇もなかった。
 脱衣所に降ろされる頃。裸で、またぴんと上向きになったちんちんをぶらぶらさせている。人間が居て。目の前には不思議そうに、そんな僕を見下ろす。こちらもまた、赤黒いペニスを勃起させたままのレプリカントが居て。僕がどうしてこうなってるのか、銀狼はわかってないのか不思議そうな顔して。
「俺は一応落ち着いたけど、もう一回するか?」
 自身の服を脱ぎながら。目に見えて、そしてにおいでも、人間が発情しているのはわかっている大男は。そんな事をストレートに聞いて来るのだった。顔を真っ赤にさせながら、なんども首を横に振るしかなかった。違う。これは性処理ではあるけれど。それはガルシェの。であって。僕のではない。違う違うと。否定し続けるけど。脱衣所にある籠へと、雑に脱いだ服を入れたら。ルルシャもえっちだなと、嬉しそうに手を伸ばしてくる雄相手に。あまり効果はなかったように思う。尻尾も緩やかに振られているのだし。何がそんなに楽しいのだろうか。
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 思わずガルシェの手首を掴んで、それよりも動かないようにしようとしても。指先は自由なのをいいことに。柔く揉むように動かされると、か細く声を漏らしてしまった。この普段とは違う状況を楽しんでる男は。
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「あっ」
 ぺろりと、ガルシェの舌が見せつけるように。根本から頂上へと向かって。根本を掴んで固定したちんちんの表面を、ゆっくりと狼の唾液を塗りつけながら上って来る。手でされるのとは、まったく別の。強い直接的な刺激だった。ちんちんの肌を撫で、舌が雁首に触れた途端。敏感な粘膜同士の接触で、舌の表面にある小さなつぶつぶまで感じられ。それがじりっと、熱を持つような気持ちよさが生まれたのだが。腰が思わず引けて、壁にお尻が当たった。粘膜同士が触れあうと、こんな。ちんちんの先、ゴールへと辿り着いたら。絞られて出た、僕の興奮の証すら舐め取られてしまったのだった。
 僕の反応に一度、満足そうに狼の顔が笑みを作ると。
「ルルシャのちんちん、食べちゃうけど。いいよな?」
 がぱりと、大口を開けて。これ見よがしに、喉チンコまで窺えるぐらい。銀狼が一度舌なめずりすると。開口したのだった。僕の股間に顔を寄せたまま。なんなら目と鼻の先に人の性器がある状態で。実際に何を食べるかを言葉にもして。僕ですら、彼のを舐めたりといった。口淫などした事がなかった。そんな発想に至らなかったとも言えるが。
 だってそこは。喋る器官で、食べ物を咀嚼する場所で。性交に使う場所じゃないと思うのに。疑問符を投げかけてはいたけれど、僕が驚いて固まってるのを良い事に。そのまま、先っぽを自身の方へ向けたまま。口を閉じていく。僕の意思を無視して上顎と、下顎が近づいていく。その間には僕のちんちんがあるのに。そんな人の葛藤などつゆ知らず。ぱくりと、呆気なくも。閉じられてしまうと、次に襲ったのは恐怖だった。
 ガルシェの顔は狼のそれで、なら人と違い鋭い犬歯があって。急所を食いちぎられそうな本能的な恐怖。事前に食べると前置きまでされたのも後押ししたように思う。肩が、快楽を感じたわけじゃなく跳ねた。
 狼の顔は人がした反応。それが思ったものではなかったからか、ちょっと顔を顰めていた。それはそうだろう、口の中で。硬く、興奮の証としていきり勃っていた僕のが。柔らかくなりだしたのだから。せっかく咥えたモノを、そのまま吐き出すと。銀狼はどこか、気まずそうにしていた。それは、僕も一緒であった。男として、途中で萎えるというのは恥ずかしい事のようにも感じられたから。ただ、突然そうされるとどうしても。若干パニックになっていたのもある。
 僕の様子に、迷う素振りをしていた。
「……あー。もしかして、怖かったか?」
 目論見が上手く行かなかったガルシェは。僕の太腿を撫でながら。立ち上がっていた耳を倒して、そう上目遣いで聞いて来た。それに対して。迷いつつも。こくりと、静かに頷く。僕の萎えた性器から手を離すと。立ち上がり、後頭部を意味もなく乱雑に掻くガルシェの姿がそこにあった。
 実際、相手の性器を口で咥えるといった行動は。それなりに勇気とか、決心が必要な気がする。僕でも躊躇する。素股までしてしまっていたからどの口が言うのだろうと、内心で自分にツッコミを入れるのだけれど。でも正直な所、彼とどこまで踏み込んで良いのか。僕もわからないでいたのだった。番を求める彼に、どこまでして。どこまでしちゃだめなのか。既に、踏み込み過ぎているとも感じているのに。
 発情期という僕にはない、とてもプライベートな部分に。関わってしまっているのだから。
「なんか、悪かった。そうだよな、調子にのりすぎた。……ヤる気分でもなくなったな。風呂、入るか」
 沈黙が気まずいなと思っていると。先に銀狼の方が、本来の目的である。脱衣所から先の空間を手で指し示す。彼なりに気を遣っているのだろうか。僕は、悪くないのに。そんなふうにされると、罪悪感が多少なりとも湧いてくる。僕は悪くないのに。
 隅に立てかけてあった大きなタライを掴むと、そのままお風呂場へと先に入って行くガルシェ。いつの間にか、彼のペニスも。毛皮の鞘の中に、自然と引き込まれ。見えなくなっていた。どうしても歩く度に大きな玉が二つ、揺れるのは目に入って来るけれど。なんだか、そういう気分にも確かにならなかった。僕が発情臭を出して、彼を刺激しないという点で言えば。良い筈なのに。なぜだか釈然としない。どうしてだろう。
 洗えば。このもやもやも一緒に洗い流されて、スッキリするのだろうか。準備する彼の背に近付いて。カランを操作する手元を見ていると。水が勢いよくシャワーノズルから出て。でも、壁の中から何か詰まったような、無理にひねり出してるような。ゴボゴボといった音をさせた後。出ていた流水が、止まる。これまでにない挙動に二人して、お互いの顔を見合い。また再度、ガルシェがカランを操作して水を出そうとするけれど。こんどは全く変化がなかった。シャワーノズルからは水滴がぽたぽたと、垂れるだけで。
 二人して、首を傾げて。もしかしてと、たぶん。同じ考えが浮かんだのだろうか。別に示し合わせたわけではなかったけれど。
「壊れた?」
 人と、狼の声が。見事にお風呂場で揃い。響いていた。隣に居る銀狼の被害は服を着たまましたからそうでもないが。問題は、僕だ。まって。断水だとでも言うの。洗えないかもしれない、そんな状況に立たされて。人は、唖然としてしまう。
 え、嘘でしょう。だって顔はガルシェの唾液が乾いて変な臭いがするし。胸から下半身なんてもっと酷い。青臭く。饐えた臭いが、ずっと纏わりついているのに。このままだとでも言うの。
「ガルシェ、頑張って!」
「何をだよ!」
 とにかく、大きな背中を思いっきり叩いて。急かす。その背には豊富な毛の防御力に阻まれ、乾いた音など鳴らず間抜けな音がしただけであったが。一大事であった。いつにない、人の迫力に。狼がたじろぐ。珍しく、大人しい相手の鬼気迫る勢いというのは。いくら小柄で力の差があろうとも、突然に来ると付き合いが長くなるほど。知らない一面故に、ビビってしまうもので。
「ガルシェ!」
「お、おうっ!」
 名を呼ばれ、銀狼の身が一瞬。毛が逆立ち、膨らむ。三度目の正直とばかりに、カランに手を掛けた。自然と、息を呑む二人。大きく、無骨な手に。人と狼が注目して。意を決して捻ると。ただ、キュッといった。小動物の鳴き声のような、可愛らしい摩擦音だけが鼓膜を震わせた。
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