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二章
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早足でガルシェの家の前まで帰って来た僕は、そこで。知らない人達が家に訪ねて来たのか。数人が玄関前で立っているのが目に入った。金属製の階段を上って来た僕の足音によって、向こうも誰かが来たのは気づいていたようで。視界に入った瞬間に、彼らと目が合う。それで、嫌な予感を感じて。
だって、僕を見る。その獣の頭をした人達の目つきは、とても厳しい。
「所長、彼です」
「人間など、この街では一人しかおらん。見ればわかる」
所長と呼ばれたレプリカントの男性。そして、その後ろに控えた黒豹の男の人。確か、今日配給所で会った人だった。そして彼ら軍属っぽい二人のさらに後ろに、昨日アドトパの護衛さんに追い払われた暴漢。そいつが、僕を指差して。何かを言っていた。耳障りな。よく見ると、ガカイド程ではないが顔が腫れているのか。昨日の記憶よりも少し、顔の形が変わっている。
「あいつです! 昨日、俺を殺そうとした、人間です!」
それで、この状況が。とっても不味いと僕は悟った。逃げようかな、そう思い足を少し後ろに引いたけれど。それを目敏い所長の視線が、いっそう鋭くなって。片手が銃のホルスターに添ったのを見た事で。それで潔く逃走は諦めた。だって、この街で僕はこの家以外行くところがなくて。すぐに見つかってしまうであろう。人間など、レプリカントの住む街では目立ってしかたない。
立ち尽くす僕に、ずんずん歩きながら肩を怒らせて。そうやって僕の前に立った所長と呼ばれた男。実際に人の上に立つ者特有の覇気を纏っていて、目深に被った軍帽の隙間から覗く。その冷たい眼からとても身を隠したかった。
「えーと、ルルシャ。だったか。貴君には、そこの男に対する殺人未遂、並びに暴行罪の容疑がかけられている。大人しく同行してもらおう。この場で抵抗の意思ありとみなせば、即刻射殺するのも厭わないのは一応警告しておく」
身に覚えのない事に、どうしたものかと。正直呆れていた。自分が何かしら罪を犯す事も、もしかしたらあるであろう。だって僕は彼らの常識をちゃんと身に着けているとは言えず、何が法に触れて、何がモラルを乱すのか。どこまで人と違うか、まだまだお勉強中の身だ。それでも、自分の中の常識の範囲内では。当たり障りのないように、振舞ってきたつもりだ。つもりだったのに。こうも、降りかかる火の粉は、どうして欲してもないのにあちらから来るのか。
冷徹な軍属の男の目に晒されながら、少しだけ彼らの後ろに居る。昨日アドトパの護衛さんに銃を向けられて逃げて行った、情けない姿が記憶に新しい男の顔を見る。軍属の背後にいるから自身の顔を見られていないとわかっているからか、僕を見つめるその顔は、とてもニタニタとしていて。人を貶めるのになんの罪悪感も抱いていない。そんな表情をしていた。
それが、所長が僕の視線の先に気づいたのか。振り向いた途端には、役者の如く泣きべそをかいて。恐ろしい人間を、どうか正しき法の元で。と乞うているのだから。こんな暮らしをしていなければ、彼は演劇の才能があったのではないだろうか。見世物をする仕事があるのかは別だが。顔つきから主役は任せられなくても、悪役で人気を博しそうだ。
男の目論見は悔しいが成功といえた。だってこの街で圧倒的少数派の僕が、多数派の意見を。同じ種族の言葉と、異種族の言葉、どちらを聞き入れるのかは。火を見るよりも明らかで。この状況に持ち込まれた時点で。僕は負けているのだ。
でも、何も言わず連行されるつもりはないのだが。本当に無実であるのだから、このまま連れていかれるのをよしとするのも。また、手ではあった。しかし、タイミングを考えると。粘ってみる価値はあった。だから。
「やってません」
堂々と言い切ってやる。正直、怖い。今でも。自分よりも大きな男女ばかりで、異種族に囲まれるのは。怖い。そして、明確に敵意を向けられると。どうしても足が竦む。でも、独り立ちを目指している僕が。このまま泣き寝入りするのだけは、我慢ならなかった。
あの時、ガカイドが。自身の尻尾を丸めるのを寸でのところで止めて。僕の為に立ち向かってくれた姿を見ているのだから。守られた僕が、何もできないからと。ただ、蹲るのだけは。嫌だった。常に見守り、いっそ疎ましく感じる事もあるだろう。異種族である、人間と共に暮らす。ガルシェにも。迷惑をかけてばかりの彼にも、情けない姿ばかり見せるのも。ちょっとだけ、勇気が欲しかった。
「ほう、抵抗する……と。そう見て、いいのかな?」
「所長!」
ホルスターから拳銃を抜いた所長。そして、その動作を見て。咄嗟に声を出した、部下であろう黒豹の男。どうやら、一応この詰問は行き過ぎたおこないであるようなのは。それで何となく感じられた。なら僅かばかりの勝機はあったのだった。それに縋るしかないとも。
目に見えての抵抗はせず、ただし。あくまでも、言葉だけで反論し続ける。それが今、僕ができる最善手であった。なんともちっぽけな抵抗ではあったが。ちっぽけな僕らしくて、いいとも言えた。
「そもそも、昨日ナイフを持って追いかけられたのは僕の方です」
「それは、君が善良な一般市民たる彼を。暴行して、抵抗にと、取り出したナイフの事か?」
ある程度、シナリオはできあがっているのか。スラスラと所長の口からありもしない昨日の出来事がでてくる。それを吹き込んだのは、後ろで事の成り行きをそわそわして見ている。元凶であろうが。銃を抜いただけで、まだこちらへ向けていないからか。黒豹の男の人も、あまり口出しする権限はないのか。黙ってしまっていた。
「それが、まず間違っています。僕が彼をボコボコにできるわけがないでしょう。顔まで手が届きません」
「……休憩に座っているところを一方的に、という可能性もあるだろう。どうなのだ?」
僕の頭からつま先まで、一度視線を上から下へと動かした後。そう言い、後ろの男へと問いかける所長。それに、ぼろが出るからかただ無言で頷く姿に。苛立ちが募る。できるのなら本当に殴ってやりたい。できないけれど。
「彼を襲う理由がありません。昨日、初めてあそこへ訪れたので面識もありませんでしたし」
「君は、ある程度稼ぎが欲しくて働いているのは調べがついている。金目当てに襲った、とも言えるだろう。誰でもよかったのではないかね」
おばちゃんのところで働いているのは知っているのか。実際に僕は目立つのだから、そう苦労しない情報であっただろうが。こう言えば、ああ言う。この詰問に、実際意味はないのだろうな。所長と呼ばれた男の視線は、人間を見下した感じがするし。理由など、そこまで重要視していないのかもしれない。
「埒が明かんな。もういい、後は署で聞こう。身体に聞けば、嫌でも吐くだろう。安心しろ、拷問は得意だ。死にはせん。二度とその減らず口を利けなくはしてやるがな」
聞きたくもない補足説明と共に。所長の手が伸びて来る。視界に入った、レプリカントの鋭い爪。それが僕の腕を取ろうとして、反射的に弾いてしまう。本当に、つい。やってしまった。あの爪にはよくない記憶しかないから。傷つけられてばかりであったから。未だに、触れられるのは苦手だった。それが、こんな場面で。でてしまった。一番、やってはいけないそんな瞬間に。
所長の雰囲気が、そこでがらりと変わる。今までは、まだ抑えていたのであろうな。銃の安全装置を外す音と、スッと目が細まって。向けられた。たった一人への明確な殺意に。喉の奥から、か細い声が僕から漏れ出た。
「痛いではないか。そうか、あくまでも抵抗するか。残念だ」
特に残念そうな素振りはなく。向けられる銃口。目覚めてから、本当に。銃を向けられてばかりだったな。せめて、もう少し別の場所が良かった。ここでは、僕の血で。ガルシェの家の前を汚してしまう。後片付けが大変だろうに。最後まで、迷惑をかけてしまうな。彼には。どうせ死ぬなら、袋の中にある酒瓶を投げつけてやろうか。そう思った時。僕が上って来た階段。そこから、誰かが段差を踏みしめる音がした。それで、所長の意識が逸れたから。この一瞬が、チャンスでもあった。逃げるなら。でも、僕はそうはしなかった。どうせ、走っても軍人の体力に敵う筈がないし。昨日の男から逃げられたのも、距離が少しあったのと。道が入り組んでいて、すぐにアドトパに確保されたからであって。捕まるのはすぐであろう。弾丸よりも、早く動ける筈もないのだし。
だから、僕も。所長と同じ方向へと。振り返って。時間稼ぎが功を奏したのか。今一番来て欲しかった男が、そこに立っていた。銀色の毛が、光を反射して眩しい。目は鋭く、子供が泣きそうで。言葉遣いも良いとは言えないけれど。とても、優しい。今、僕と一緒に暮らしてくれている。同居人が。
助けて欲しくて。彼の名を呼ぶ前に。
「おお、ガルシェ君! ちょうどいいところに」
旧友に会う親しさを滲ました、そんな声が隣でして。それは、所長のマズルから発せられていた。面識があるのは、問題ではない。ガルシェも、人口はそれ程多くないのだから。皆知り合いと、そう言っていたのだから。問題なのは、こうも親しそうに。僕を無視して、彼に歩み寄る所長の振る舞いであった。
僕を一瞥して、そして所長を見た銀狼は。綺麗な敬礼をして。そして。
「お久しぶりです、所長」
「いやー、しばらく見ない間にまた一段と逞しくなって。お父さんも誇り高いだろう、最近人間を飼っていると聞いていたよ。さぞ気苦労が絶えない事だろう」
肩を、叩きながら。そんな会話が繰り広げられていた。僕の目の前で。予想していなかった。まさか、銀狼が。向こう側の人間などと。ああ、でもそうか。彼はある意味、軍属でもあったのだ。外へと仕事へ行っているから忘れていたけれど。アカデミー出身であるのだから、兵を育成しているらしいそこで。育ったのだから。接点がない方がおかしかったのだ。
なら、僕の取った行動は。意味がなかったのかもしれない。だって、彼らの会話が進む先が。
「そういえば、お父さんから。もし人間が問題を起こせば、即処分しなさいと言われていたね。多少は一緒に暮らしていたのだし、愛着もあろうが。見てごらんなさい、彼は一般市民に怪我をさせたそうだ。なら、飼い主である君が。やらなくてはいけない事も。わかるね?」
所長は、自身が持っていた拳銃を回転させ。そうして、銀狼へと差し出した。その銃を見て、そして。ガルシェが、僕を見た。いつだって綺麗な、目つきは悪いけれど、琥珀に似た瞳をさせた。僕の好きな瞳は、今は動揺に揺れていて。なにも言えず、ただ、助けてほしくて。その目を見つめ返す事しかできなかった。
でも、その瞳も。すぐに瞑られ、顔を逸らされてしまう。再び、開いた眼は。拳銃を見ていた。
まって、ガルシェ。話を聞いて。それは違うと言ってよ。どうして、目を逸らすの。どうして、何も言ってくれないの。どうして。どうして。
僕の頭の中でどうしてと言葉がループする。彼と暮らした数週間。少しでも絆らしいものを感じていたのは、僕だけだったのだろうか。本当は、言う事を聞かない僕に。愛想を尽かしていたのだろうか。助けて欲しいと願った相手は、僕の救世主ではなかったのか。その答えは。所長の手元にある拳銃、それを銀狼が取った事で。答えとされた。
僕だけだったんだ。彼だけは。味方であってくれると。そう思っていたのに。守ってくれるって約束したのに。そう、言ってくれたのに。ガルシェ。でも、そうだね。人間だもんね。日頃から、僕が何か言う度にめんどくさいと言っていたよね。そうだよね。お風呂だって、嫌いなのに。僕がいなければ、もう少し日を空けてもいいものね。人間とは違うもんね。そうだったね。
君も、彼らと同じ。僕とは違う。レプリカントだったね。忘れてたよ。君とは違うと思いながらも、それでも、唯一の近しい人。なんであろうか、友達、でいいのだろうか。そう思っていたから。初めて出会った時と同じように、彼に銃口を向けられるのかな。誰よりも、誰にでもない、彼に。そうされるのは、なんだか、とても辛いな。原因を作ったのは、裏通りに行った僕であったけれど。
僕の軽率な行動で、彼との暮らしが。終わるんだなって。そう思った。後悔しても、もう。遅いけれど。でも、頑張ろうと思わしてくれた彼になら。僕を終わらせてもらうのもいいかなって。だって、そうすれば、もうここで頑張らなくていいんだ。楽になれるんだ。もう何も悩まなくてすむ。ただ、眠るだけで。二度と起きないだけで。
銃をしっかりと持った銀狼は、弾が入ってるのか。念の為に。一度スライドを引いた。そうすると既に装填されていた弾丸が一発。チェンバーから飛び出してくる。それが放物線を描いて、床へと落ち、甲高い音をさせた。それを立て続けに、なんども。そうすると、薬莢がどんどん落ちてくる。最後まで、出なくなるまで確認したら。足元にある薬莢を足で蹴って、ここは二階部分であったから。一階へと落ちて行ってしまう。
マガジンを抜き、本体とを別々の方向へと放り捨てた。銃も、貴重な品である筈なのに。それを僕も、所長も。黒豹の人も、免罪をかけてきた男も。口を開いて、見ていた。手ぶらになったからと、頭を掻きながら。流し目で所長を見返した銀狼。ちょっと挑発的で、でも、どこか様になってる。そんな。
「すいません、あまり小さい銃は扱いが苦手でして。なんでしたっけ、俺のルルシャが。何かその男にしましたか。銃なんか使わなくても俺が殴ったら一発で死んじゃいそうな、こんなか弱そうな人間が。成人してるレプリカントに、なにか」
「ガルシェ!」
所長の声が響く。それを、欠伸でもしそうな顔で。片耳の中に小指を差し込んで、穿ってるしまつ。さすがにその態度はどうなのかとも思ったが、明らかに相手を煽っていた。露骨なまでに。僕から、彼へと。所長の意識を向ける為に。
後ろの方で、顔を真っ赤にしている言いがかりをつけて来た男は。銀狼を指差して口をもごもご動かしているが、どう反論しようか考えているようで。咄嗟に思いつかなかったのか、脊髄反射の如く。言い返していた。
「お、お前。言わせておけば、お前だって所長さんに逆らってただですむと思うなよ!」
「へぇ、俺に文句があるなら公平に拳で勝負しますか? 俺の銃は、勿論使わないと約束しますよ。ただ、俺。今すこぶる機嫌悪いんで。手加減できないと思いますけど……」
ちらりと、いつも肩に掛けられている。彼の全長一メートはある銃を見せびらかせる。拳銃よりも、よっぽど殺傷力のある弾を、一瞬の内に何発も吐き出す。それを。でもすぐにそれは後ろへと隠して、彼はただ拳を握った。ギリギリと、力強さを秘めた剛腕。彼の二の腕から肩にかけての筋肉が盛り上がる。ここにいる誰よりも、鍛えられた、実用的な肉体をさせた。戦う為の。外で生き抜いて来た男の。もう一つの武器を。
それで、情けなくも元暴漢は、ただの傍観者へと成り果てた。ただ、所長だけは別で。ガルシェのやる事を全て、見た上で。一歩も引く事もなく。背に手を回し、まだ余裕を保っていた。
「君の意見は理解した。この事は、君のお父さんにもしっかりと報告しておく。今日のところは我々もこれで引き下がろう」
あっさりと、それだけ言うと。階段の方へ歩いていく所長。ガルシェとすれ違うさいに、少し笑っている気がした。そして。肩へと、所長の手が触れて。
「君でなければ、公務執行妨害で連れて行くところだよ」
――親に感謝しなさい。
気がしたのだが、すぐに顔が見えなくなったからわからなくて。その後を、黒豹の軍人さんが慌ててついていく。一度、ガルシェにだけ会釈をして。そして残った傍観者は。事態が終わった事に遅れて気づいたのか、俺どうしたらいいのみたいな。そんな顔をしていて。途方に暮れていた。ガルシェが一歩、僕を庇う形で前へ出た事で。昨日のように逃げて行ったが。
目の前にある垂れ下がった、銀の尾をそっと触る。そうして、最近もふもふが増して。毛艶がいいそれを掴んで。俯いた。頭の上で、銀狼が息を吐くのが聞こえる。
「よかったの、撃たなくて」
見上げて、そう呟くと。背の高い彼の、高い位置にある頭。その後頭部を見つめて。ぴくりと、獣の耳が反応した事で。聞こえてるのがわかったから。
「撃った方が、ガルシェの立場が悪くならなかったんじゃ」
言えたのは、そこまでであった。掴んでいた僕の手から、尻尾が逃げて。そうして、振り返った銀狼が屈んで。僕を抱きしめた事で、それ以上言わせてくれなかった。仕事帰りだから、荒野を疾走してきた彼は少し土埃で服がざらざらする。とても大きい身体を、押し付けられてちょっと苦しい。
「そんな悲しい事を、言うな」
「だって……」
だって、そっちの方が。よっぽど彼は楽な道であった筈だ。自分と同じ種族の意見に従い。上官かもしれない、あの男の言葉を聞いて。そうやって。ただ、金の卵かもしれないってだけで。実は何の価値もない。ただの人間なんかを。お荷物を背負い込む事なんてないのに。そこまでする理由なんてないだろうに。
身体を少し離した事で、顔が見えるようになって。至近距離に毛皮を生やした狼の頭があった。耳を寝かした、いつもは凛々しい種族特有のそれを崩してまで。
「もっと、良い方法もあっただろうが。身体の方が先に動いちまった」
そう、しかたないなと。笑う狼の顔を見て。見てしまって。自身の抑えていた、溢れ出た感情を自覚して。そこで、限界であった。死の恐怖に晒された身体が、ガタガタと震える。足から力が抜けて、こうして、抱かれていないと崩れ落ちてしまいそうで。でもしっかりと僕の身体に回された腕のおかげで、崩れ落ちる事はなかった。
再び鼻先を首筋に寄せたガルシェの動きが、そこで固まる。眉間に皴を刻んだ狼が、それで僕へと巻き付けた腕を解いて。そのまま硬い床へと、僕は尻もちをついた。痛い。後ろに手をついて、上半身を支え、見上げると。屈んでいたのから一転、立ち上がり。優しさを湛えていた瞳は、冷たさを含んでいて。そして、金の瞳孔がちょっとだけ横へとずれて。床を見つめて、狼の喉が苛立たしげに唸ったのが聞こえた。
僕も同じように、視線の先を。そういえば、親指に触れている何か。感触があって。ちょっと動かすと音が鳴った。それは、尻もちをついたさいにポケットから転がり出た。ガカイドが持っていた番の首飾りだった。置いてくるのを忘れていた、肩を貸すさいにポケットに入れてそのままであった。であれば。ガカイドの臭いを纏い、そしてこの首飾りを持っている僕は。ガルシェにとって、どう映ったのだろうか。
「……チッ、んだよ。アホかよ、俺」
吐き捨てるように言われた。自身の家の扉を開けて、僕にはもう目もくれずそのまま中へと入ろうとする。そのすぐ近くにあった尻尾。その毛先を咄嗟に掴んだ。でも止められず、掴んだ僕ごとひっぱられて。前へと倒れてしまった。ああ、お風呂の時は。彼がその気になれば振り払えたのか。弱点といえど、掴まれた程度で止まらないんだ。本当は。
床へとうつ伏せに倒れた事で、振り返った銀狼。ちょっと頬を土で汚してしまったけれど、そんな事はどうでもよかった。誤解だと、言いたかった。
「また裏通りに行って何してたのかと思ったら。それが目的かよ」
言いたかったけれど。その、あまりに冷たい言い方に。口を噤んでしまった。尾を一度大きく振られる。それで僕の手なんて、簡単に外れてしまって。まるで、彼との絆まで断たれたように感じた。違うんだ。言いつけを守らなかったのはそうで。けれど、ただお礼が言いたかっただけだ。成り行きで、持って帰ってしまったけれど。ガカイドとはそんな関係ではない。
そう言い訳をしたかったのに。彼に振り払われた尻尾の動きが、とてもショックだった。まるで、心を銃で撃たれたかのように。そこからジクジクと、血が流れて、止まらないかのように。僕の顔を見て、少しだけ罪悪感を感じたのだろうか。彼まで、何か苦痛を感じたみたいに。歯を食いしばっていた。でもその顔も玄関の方へと、向けられて。もう一度、尾を掴もうとしたけれど、するりと躱される。虚空を掴む僕の手。
「ガルシェ!」
違う、違う。違う。情けなくも、ただ名前を呼ぶだけしかできなかった。遠ざかる広い背に向って。肘をついた腕が痛い。まだ、足に力が入らない。立てない。背を向けたまま、立ち止まった彼に向って。もう一度叫ぶ。置いて行かれそうで。このまま、扉を閉じられたら。本当に終わってしまいそうで。死ぬのよりも、よっぽどそれが。怖かった。
「……うるせえよ」
肩を震わせ、拳を握り。呟かれた言葉。振り返った時。笑った顔でも、無表情でも、怒りでも。今まで見て来た。ガルシェの作る表情のどれでもなかった。ただ、ただただ悲痛に溜め込んだ何かを堪えた。牙を剥き出しにした狼の。悲しい顔。
「うるせぇよ! どいつも、こいつも、親父だなんだと。お前まで、何も言わず他の奴のところに行くのかよ! 皆、七光りだなんだって、当然だって顔しやがって」
「ガルシェ?」
何を、言っているの。何を吐き出しているの。憎々しげに、狼が誰かを恨む目をさせて。僕を見ているようで、僕を見ていなかった。どこか虚ろで、呼吸が荒い。苦しそうに、自身の胸を押さえた狼の手。僕に詰め寄るようにして、少しふらついていた。
「努力して、認められて。雌を抱いて、子供作って。それが幸せなんだろ! そうしろって言われて、けど普通に頑張ったんじゃ。誰も親父と比べて認めやしない、あの試験の一件でお前がいながらどうしてと言われて。しるかよ! ガカイド一人に、全部押し付けて。俺はのうのうと暮らして、親父が庇ったせいで」
僕に顔を寄せようとして、叫ぶ狼の口が近づいてくるが。またフラついて。すぐそこにある、扉にもたれかかろうとしたのか。肩を強くぶつけていた。片手は胸を押さえ、もう片方の手は頭を抱え。過呼吸のように、息がどんどん乱れて。何かがおかしかった。ただ怒りが、これまでの僕に対する不満が爆発したのとも。ちょっと違っていた。
ガルシェの目が、血走っていた。自身の胸を押さえていた手が、離れて。そして僕へと向かってくる。うつ伏せで、見上げてるだけの僕の肩に触れて。びくりと身体を震わせる。爪が少し食い込んで痛かった。
――お前まで、いなくなるのかよ。
そのまま、扉へともたれかかっていた彼が。僕の方へと倒れ込んで来る。でも肩を掴んでいた狼の手と一緒に、少しだけ横へと逸れて。床へと倒れ込んでしまった。荒い呼吸はそのまま、でも目は瞑り。僕の隣で突然意識を失ったのか倒れたまま起き上がる事もなく、ぴくりともしない。
「……ガルシェ?」
匍匐前進のように、足が言う事を利かないから。這う。革ジャンを羽織った、その背に。乗りあがり。そして、揺する。黒い湿った鼻は、今は別の何かで濡れていて。それは、血だった。彼は鼻血を垂らしていた。それだけで、異常事態だと知らせていた。彼の身に何が。その発端は間違いなく僕であった。彼の何に、火を付けてしまったのか。もしかして、元々身体が悪かったのだろうか。そんな素振り、これまで少しも見せなかったのに。何で。
もう一度、揺する。意識のない身体は、それで大きく揺れるけれど。反応は返ってこない。怒ってもいい。僕を殴る為でもいい、今すぐ目を開けて欲しかった。呼吸が浅い。背に耳を当てた。心臓の音は、する。けれど、いつか聞いた時よりも弱々しく感じた。だから焦りが生じる。所長と対峙していた時は、怖い気持ちを必死で抑えていたけれど。焦ったりはしなかったのに。
もがいた。未だ恐怖に震えている足を、自分から生えているその足を。拳で殴りつける。今、立てないで。何しているの。僕は。全て、僕のせいなのに。それで蹲って、大切な友達を傷つけて。そのままでいるつもりなのか。何もできない、ちっぽけな人間であったけれど。小鹿のようであったけれど、なんどもこけて、階段の手すりにしがみついて。助けを呼ばなければ。僕じゃ、何もできない。彼を助ける事ができない。誰かを、誰を。
そこで。以前手当てしてくれた。ガルシェが先生と呼んだ。一度だけ会ったレプリカントの男性を思い出した。とても大きな、ガルシェよりも。今まで見た誰よりも大柄な虎の姿を。あの人なら。あの人なら、彼を。僕では、無理だから。お願い。助けて。助けてください。
歩けるようになったら、歩幅すら歪に。手を規則正しく振る事すらせず、通りがかりの誰かにぶつかって。また転んで。この街の中心、学校へと。ただ走った。最近、走ってばかりであった。何かから逃げてばかりで、逃げて。そしてこの結果だったけれど。友達が、目の前に。もしかしたら死にそうで。その命を掴むために、友達の死から逃げたかった。
職員の人が慌てて道を譲る。廊下を、駆けて、医務室へ。
ノックもせず、扉を壊しそうな勢いで開けたら。それでも温和に、こちらを出迎えた虎の顔。でも僕の慌てた、ただならぬ雰囲気を見て、その表情を引っ込め、引き締めた。助けてください。ガルシェが、ガルシェが。彼を、助けてください。そう乞う事しかできない僕に、頷いてくれる虎の先生。
銀狼の家へと。虎の先生と一緒に急いで帰って来た僕は。彼を抱えて運ぶ事もできなくて。慌てるだけで、ただ、見ていた。先生が彼を抱えて、自身の頭を扉の縁にぶつけながら。家の中へと入って行くところを。二メートル半はありそうな、この街で目にするレプリカントの中でも一番大柄な体躯をさせた虎の先生。ガルシェが通るのでもギリギリな高さしかない入口は、とても狭いのだろう。その背を追いかけて。
ベッドへと銀狼が寝かされて。簡易的な医療道具をバッグから出しながら、腕を取り。脈を計ったら。小さなペンライトで、瞳を指でこじ開けて。軽く光を当てていた。マズルを掴んで、口内まで開かせると。喉奥まで覗き込んで。そうやって、診察をしている先生の隣で。座って見ている事しかできない僕って。何なのだろうか。彼を怒らして、元凶である僕は。
液体の入った小瓶と注射器を取り出すと、小瓶の中身を針先で吸いだして。そうして、気泡が入っていないか。確認のために少しだけ、注射器を押し、数滴垂らしていた。その鋭い先が、ガルシェの太い腕へと向けられて。針が突き立つと中身を、彼の身体の中へと送り込んでいた。そうすると、ゆっくりとガルシェに変化があって。呼吸が少しだけ落ち着いていた。苦しそうだった表情が、幾分か和らいだ気がする。
ただ、それだけであった。それ以上の処方はせず。道具を片付けだした虎の先生。それをただ見ていた僕は、それだけかと。つい、詰め寄ってしまう。あんなに、苦しそうで。今も意識が戻ってないのに。
「鎮静剤を打ちました。安心してください、すぐにどうこうといったわけではありません。ただ私にできるのは、此処までです。症状の原因は、本人が一番よくわかっている筈ですから。起きたら彼に聞いてよく話し合った方がいいでしょう」
淡々と言われてしまうと。医者の言う事に、これ以上口出しできる筈もなく。安心しろと言っても、実際に急に倒れたのに。そんな。そんな僕の考えなど放置して、それでもただ早々身支度を整えて、帰りますと腰を上げた先生に。ありがとうございますと、そう言うしかできなかった。急に呼びつけといて。ガルシェの方ばかり見ていた僕は。どうしてそうなったかは。本当に何も言ってくれず、彼の口から直接聞けという事なのだろう。最初の印象はどこへやら、笑顔を消した獰猛な虎の顔は。黙ってしまうと怖い。その顔も、外へと出て行って。すぐに見えなくなったが。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。考えても、本当に何もできなかった。ただ、汚れた服を苦労しながら脱がして。上半身だけでも裸にして。ズボンは無理であったから。足首の裾だけ捲ると、そこには小型の拳銃。いつも彼が予備で忍ばしているのを見つけて。本当に扱いが苦手なら、予備で常に持ってはいないだろうに。固定しているベルトを外し、ホルスターごと彼の身体から離す。小さいけれど、手に持ったそれはとても重く感じた。これで、誰かを殺せるのだと思うと。この重さでは、それでもたりない気がして。長い時間こんな物、持っていたくなくて。凶器をそのまま机にゴトリと、置いた。
後は。頬の毛についた汚れ等を、布で拭ってやるぐらいしか。そんな事しか、できなかった。僕だって、顔を汚しているのを。そこで気づいて。僕は、ただ、水で洗い流すだけ済んだから。本当にすぐであったけれど。
起きた時の為に、何か食事でも作るべきだろうか。それとも、コンロでお湯を沸かして。もう少しちゃんと拭いてあげた方がいいだろうか。下手に動かしすぎると、身体に障るだろうか。考えれば考える程、よけいに何もできなくなっていった。僕のせいでこうなったのに。ベッドの傍で、ただ見守るしかできないのかと。ガカイドの時もそうで。そこに居るのに、できる事って、どうしてこんなにも少ないのだろうか。居る意味は、あるのだろうか。
投げ出された手を、ガカイドにしたように。ただ握って。同じ狼のレプリカントなのに、ガルシェの方が一回り手が大きいんだなとか。鍛えた男の無骨な手は、とてもごつごつしているなとか。意識のない彼の、その身に纏う毛皮は。こんな時でも、光を反射して綺麗で。掴んだ手を、僕の額に当てる。ごめんなさい。ガルシェ。ごめんなさいしか言えないのが。
どうして、こうなったのだろうか。優しさ。だったのだろうか。僕の考えなしの行動が、どこまでこうして響いて。僕へと、思いもよらぬ形で跳ね返ってくるのか。どこまでいっても、自己本位で。自分が可愛いだけで。誰かにしたいと言いつつ、ただしてあげて。それで満足感に浸っていなかっただろうか。一時、自分にも役に立てると。僕は、この街に来て。何ができたのだ。
どんどん、自分という存在が。小さくなっていく。いっそ消えてしまいそうで。でも、消えない。居るだけで。居るだけなのに、多大な迷惑をかけてばかりで。この銀狼に、苦労を。かけてばかりで。彼のご飯を作って、掃除して、洗濯して。それで何か彼の日常に入り込んで、手伝えて、支える事ができているのだと錯覚していたのだ。だって、僕が居なくても。彼はこれまでちゃんと生きて来たのだから。必要なんて、なかったのだから。僕は。自分一人、新しい生活に。環境に浮かれていたのだろうか。異種族を怖がりつつも、その新鮮さに。スリルを味わっていただけではないだろうか。自分の名前と、親の顔と、以前居た場所を思い出せない。都合の良い記憶喪失の人間である僕は。本当に、彼との生活の中で。何をしていたのだろうか。自立したいと思っていたけれど。殆ど、この今横たわった銀狼に生活を依存している。約束も守らないで。自分勝手な。本当に、どうしようもない奴だった。こうやって後悔しても。変わらない、情けない奴な気がした。
額に当てた彼の手。そこから伝わる熱を感じながら。ガカイドの時には感じなかった。一番この街で共にした時間が長い、銀狼の力なく横たわる姿に。とても動揺して、何も手がつかなかった。お風呂とトイレ、そして鶏のアーサーがいる部屋いがいに隔てるもののないこのリビング兼寝室兼キッチンを兼用した広間は。何をするにしても、ガルシェの姿が目に入るから。暗くなってきても、食事を作る気も起きないで。少しだけお腹が空いた気がするが食べようとも思わない。今握ってる彼の手を離すのが、嫌であった。
倒れて、先生を呼んで。今は穏やかな寝息をしている彼の寝顔を見つめる。本当に死んでしまうんじゃないかとパニックになってしまったけれど。彼を失うんじゃないかと、そう考えてしまう。良くない想像ばかり逸る。どうして、こんなにも彼を失いたくないと思うのだろう。それは、自分の暮らしが彼に依存しているから。それがなくなるから。だとしたら、僕は心配しているフリをしながら。どれだけ卑しい人間であろうか。そうじゃないと思いたいけれど、事実そうであった。彼がいなければ、路頭に迷うのは。
自分自身を否定していると、それを遮るように。男の呻きが一つ。聞こえた。変化のなかった狼の顔、その瞳が薄っすらと開いてるのに。
「……ルルシャ!」
ぼんやりとしていたその瞳が、慌てたように彷徨って。何かを探していた。その瞳が狼の手を握った、人の手に行きついたら。名を呼ばれた。彼が与えてくれた、名を。それに居るよと、お返しに、彼の名を呼んで。そして握った手をさらにぎゅっと強く握る。僕の力程度では、握りつぶす心配もなかったから。
僕が傍に居る事に安堵したのか。少し持ち上げた頭を再び枕へと預けると、深く息をしていた。どうやら、玄関で起きた出来事。その記憶が少し混濁しているようで、僕に叫んだところまでは覚えているけれど。急に苦しくなって、それで倒れるまでの部分がガルシェから抜け落ちていた。だから、僕はそれから虎の先生を呼んで。身体を診てもらった事。そして、ずっと傍に居た事を伝える。それぐらいしかしてないのに。落ちついて僕の言葉を聞いていた銀狼は、僕のせいでそうなったと言うのに。ただありがとうと、そう呟いていた。
礼なんて、言われる資格もないのに。こんな時でも、彼は優しかった。憔悴した顔をしていたのか、逆に大丈夫かと。聞かれるしまつで。今は、そんな事どうでも良かった。僕の事なんて。だって、倒れたのはガルシェだ。僕じゃない。
「先生が、倒れた原因は本人に聞けって。ガルシェ、心当たり。ある?」
もし、悪い病気だったら。持病を持っていたら。そう思い、軽く問い詰める。聞くまで、この手を放してやらないとばかりに。そうすると、銀狼は眉根を寄せ。少し身体を身じろぎさせて、言葉ではなく仕草で少し嫌がった。聞かれたくない事であったのだろうか。でも、意地でも聞き出すまで離れないと感じたのか。狼の口から、ぽつり、ぽつりと。原因を話してくれる。
「その、気持ち悪がらないで聞いて欲しい」
そう、前置きまでされて。今まで生活を共にして、裸すら見た仲で何を。蜥蜴の瞬膜が、そこで脳裏によぎった。確かに、異種族では身体の構造の違いから。お互いに異質だと感じる部分はあるのであろう。アドトパもそれを気にして、普段は人にそんな自分の種族では当然な仕草を。隠して生活していたのに。もしかして、ガルシェにも何かそういったものがあったのだろうか。狼にも。
「たぶん、過度の発情が原因だと、思う。元のルーツを辿ると、犬科の雄は雌の発情臭を嗅いで、それで発情するんだが。レプリカントの俺達は、雌は種族によって発情する周期はそれぞれだが。特に雄は、それとは関係なく強い性欲に襲われる事がある。繁殖本能が強いのだろうと、思うんだが。性欲が強いのは、前にも言ったな?」
「あ、うん。ただ性交渉は、ある程度制限されてるんだよね。子供を養う余裕がないから、そこも、管理されてるって。覚えてるよ」
「そうだ。昔、それで雌を争って事件が起きて、それからできた掟だ。だから、俺達は自分で、または雄同士で発散するんだが。俺は、そういった事をするのは番とだけしたかったから。基本一人で処理していた」
お互いに真面目な顔して、重苦しい雰囲気で。僕もそうやって顔に出さないように気をつけて。聞いていたけれど。かなりつっこんだ部分。レプリカントの性事情を、さらに詳しく聞く羽目になってしまった。ガルシェが、聞かれたくない理由をなんとなく察してしまった。誰だって、こんな事。他人に話したくは、ないよね。僕も、躊躇する。
それで、今までの目の前に居る。銀狼の体調の変化と、何か前兆はなかったかと。そう考えて。直接的な単語を口にするのは、とても恥ずかしくて。できなくて。
「その、ガルシェも。処理に、して、いたんだよね」
「ああ。三日に一度か、二日に一度ぐらいだが。お前と暮らすようになる前は、それくらいの頻度で」
実際に、言われてしまうと。彼の顔が見れなくなってきた。病気の話、これは病気の話。彼の身体の話で、何もやましい事はない。自分に言い聞かせながら、落ちつきなく。ベッドの傍で座っている僕の足が意味もなく動き。少しだけ、太腿同士を擦り合わす。僕の視界外で、ひくりと。狼の鼻が動いた。
「そうやって、お前がたまに醸し出す発情臭。人間は常に発情期だなんて信じられないが、実際に暮らしてみると身をもって知った。異種族なのに、それに、俺の身体が反応するのが一番。信じられなかった。でも、一人で処理するタイミングもないし。まあいいかと我慢していると、日増しにその衝動が大きくなって。イライラして、今日の一件でひどく頭に血が上って。そしたら、後はルルシャ。お前が知る通り。倒れてた」
「それって……」
朝、彼が夢精しているのを見かけて。それを気を遣い見なかった事にして。前兆が、それだったのだ。ただ、呑気に。本当に性的な欲求も強い種族なのだなとか、そんな事を考えていた。彼も、別にその矛先を僕に向けるような事もなかったから。ただ、それが原因で倒れるまでに至るとは。まさか。
そしてその誘発している元凶が僕の出す、においで。僕が一緒に暮らしだしたから、彼の性生活を乱したせいで。つまりは、結局。全部、僕のせいであったのだ。自分が思っていた形とは、少し。違ってはいたけれど。
「過度な禁欲は。不調を招くとは、一応授業でも教わっていたが。だから、裏通りみたいなところが規制されず野放しになっているし。俺の同僚達も皆、あまり話題には出さないが通っているのはそれとなく。翌日に纏っている誰かの臭いでわかる。俺のこれも、我慢しすぎによる。ストレスホルモンの過剰な分泌、だったか。凶暴性が増したり、毛が抜けたりするし、最悪死に至るらしい」
俯いていた顔を上げると、ガルシェは僕ではなく別の方向を意味もなく見つめていて。彼もまた、目を合わせるのを避けていた。彼の顔は僕と違い被毛で覆われているから、その頬が赤く彩られているかはわからなかったけれど。狼もまた、人に説明しながら恥ずかしがっている気がした。
「ごめんね」
「……お前のせいじゃない」
思わず言った台詞ではあったけれど。ガルシェも、それに対してそう言ってくれた。でもそれは建前で。気を遣って言ったのなんて、馬鹿な僕でもわかった。僕が、彼と暮らさなければ起きなかった事だ。いくらこの街に連れて来たのは彼といっても。僕が住みだして様変わりした部屋の景色。最初はゴミだらけで、脱いだ服はそのままで。そうやって見渡しているとそういえば、また存在を忘れていた。紙袋と、そしてガカイドのネックレスが玄関から入ってすぐのところに転がっているのが目に付いた。それを見て、それよりも前に、僕が纏っているにおいを銀狼が嗅ぎとって怒らせてしまって。僕が何を見つめいているのか、横目に見たガルシェが。それで何を思ったのか。誤解をそのままにしておくのは、いけない事だった。
「あのね。ガルシェ。先ずは言いつけを守らなかったのはごめんなさい。今日、ガカイドのところに行って。昨日道に迷った僕を、助けようとしてくれた事。そのお礼を言いに行っただけなんだ。ただ彼が落とした首飾りを、返すのを忘れていて、僕が受け取ったわけじゃないよ。それだけは、本当」
その続き。信じて、とは言えなかった。あまり今の彼を刺激しない方が良いとは思うのだが。一度、やはり話し合うべきだと思った。原因を作ったのは僕であるのなら、向き合うべきだ。彼と。彼の身体の仕組みと。気持ち悪がらないで欲しいと、そう前置きまでして。本当は説明するのは嫌であったろう、自分の人には打ち明けられない部分を。曝け出してくれた狼と。僕に、何ができるだろうか。
「そうか」
僕の言葉で何か考えているようであった。ベッドから起き上がるのも億劫な狼は、短くそう返事して。横たわった、大きな身体を上から下まで観察する。首から上は狼の顔で、身体の作りはそんなに変わらない。ただ被毛に全身覆われていて、爪が鋭くて。目に見えない部分は、もっと違うのだなと。筋肉が発達した、しっかりと鍛えられ余分な脂肪などなさそうな男性の身体。今は、僕が上半身の服だけ脱がしているから。目に入る毛皮の面積が多くて、胸筋が盛り上がりできた胸の谷間に彼の首飾りが挟まってるのまで見えた。
何かできる事。そう考えて。僕は、彼が寝ているベッドへと膝立ちで乗る。そうやって、彼に近付いて。
「ルルシャ?」
僕の行動に不思議そうにする狼。今から僕がしようとする、その考えをまるでわからないと。そして僕自身も、どうしてそうしようと思ったのか。だって、僕のせいで。そうなったのなら。責任を取らないと、そんな自分自身でも理解ができない。ちょっと違う責任感めいたものが急かす。
人間の手が、彼の股間。そのジーンズの生地へと触れた事で、狼が不思議そうな表情から一転。慌てた様子で上半身を無理やり起き上がらした。そうすると、彼の顔と僕の顔の距離がぐっと近くなる。金色に近い、獣の瞳が困惑に揺れていた。
「我慢、してたんだよね。ずっと、僕のせいで。だったらさ。僕のせいなら、ならさ」
「違う、やめろ。やめるんだルルシャ。俺はお前に、そんな事望んでない、ッ……」
言葉の途中でガルシェがまるで苦痛を感じたみたいに、顔を歪ませ、びくりと身体を跳ねさせた。そうさせたのは、僕の手。彼の股間部を布越しとはいえ握ったからであった。とても大胆な行動であった。自分から他人の恥部を触りにいくなんて。僕ってこんな事できたんだと。やってしまってから、そう思った。ぐっと自分の視界が狭まっていくような感覚。部屋の中なのに、今居るベッドだけしか。この世界にはないみたいに感じてしまう。それだけ、同性の。自分にもついているとはいえ。そんなところを触るなんて。衝撃だった。自分でしておいて。
でも彼が再び止めようと、ベッドに起き上がるために手をついていたのを。こちらへと伸ばして、僕の腕を掴む前に。そうされてしまうと、力の差にどうしようもなくなってしまうから。押し切る必要があった。やってしまった勢いのままに、ジーパンの境目を少し捲り。見えたファスナー、その一番上にある金具を掴み下へと引き下げていく。そうすると、ジジ、ジジジと。僕の抱いている戸惑いと躊躇いと並行するように、勢いよくとはいかないまでも。確実に、開かれていく。彼の手が、僕の腕を掴むよりも早く。できた空間に手を突っ込む。そうして、手のひらと言わず全体に感じる彼の体温と。そして、若干の湿りけ。指先に触れた柔らかな棒状のなにか。まだ興奮していないからか、硬くなっていない。ガルシェの、男性器。それを普段から履いているトランクス越しに感じた。生地の厚いジーンズと違い、薄い布越しとなれば。生々しい感触が一気に増した。それを試しに、トランクスごと掴むと上下に扱く。たまらず目を瞑った狼、彼の腰がそれでさらに震えた。
止めようとした狼の手が、ベッドへと落ち。そしてすかさず送られてくる刺激を耐える為にか、乱暴にシーツを掴んだ。本気で抵抗すれば簡単に僕など跳ねのける事もできるのだろうが、我慢し続けた末の性的欲求が高まった彼の肉体は。それをしようと思っても、本能が阻害しているのか。理性が崩れようとしていた。人間と同じく、知性的に言葉を使うのに。今だけは、狼らしく。耐えるように唸っていた。
「我慢は、よくないよ。倒れるぐらいなんだから、人間の僕にはわからないけれど。とても、辛かったんだよね?」
言いながら。僕が手を上へ、そして下へ。彼の先から根元の方へと少しだけ動かすだけで。刺激として、布越しであったからたぶんとても弱いと思うのに。禁欲を強いたそこは、そんな刺激にすら貪欲に欲していた。暫く、緩やかに手を往復させて。慣れて来たのか、薄く目を開いたガルシェ。色欲に染まりながらも、人の真意を探るような目をしていた。
「取り出すね」
「……見て。後悔、するなよ」
一応ここまでして、確認にと声を掛けると。止める気はなくなったのか。苦し紛れに、そんな忠告をされる。トランクスの隙間から指先を使い、痛くないように気をつけながら。ファスナーの隙間から。押し込められていたガルシェの生殖器を外へと解放する。そうすると、お風呂でなんども見た。毛皮の鞘。その様子は違っていて。直接的な刺激を与えられたそこは、これまで見た時と違い。今までにないぐらい。黒い唇みたいな部分を割り開き、赤い粘膜を露出させていて。包皮が剥かれた、というより。皮を剥がれたと言った方が適している気がした。それぐらい、まるで咥内に存在する舌のように粘液でテカリ。赤だけでなく、紫の血管が透けていて。人間の僕からすると、とてもグロテスクに映った。彼が後悔するなと言ったのを、実際に見て。理解する。それで少しだけ人が怯んだのを、狼は敏感に感じ取ったようであった。忙しなく、耳を震わせている。でもここで僕に、中断するという冷静な判断力はなくなっていて。そして。禁欲を重ねた狼にも、ここまでした人間を止める言葉を持ち合わせていなかった。
窮屈そうだと感じたから、彼の陰嚢も続いて中から取り出す。ファスナーの狭い空間から性器を露出させた男は、だんだんと興奮に息を乱していた。自身のそこを、睨め付けるようであって。人など視界に入っていなかった。手の動き、指先の一つ一つが。獣特有の鋭い視線が追いかけてくる。今、ガルシェの頭の中では何が占めているのだろうか。性欲、だけなのだろうか。普段の彼から想像できない姿に、僕までなんだか変な気分になってきた。これは治療だと、自分に言い聞かせているけれど。罪滅ぼしに似た感情で始めたのに。スンスンと、嗅ぐ仕草をする狼の鼻。僕の今抱いている感情など、あれによって隠す事などできないだろう。露出した彼のペニスが、ぴくりと少し震えた気がした。
まだ多く毛皮で覆われている彼のそこを、遠慮がちに掴む。そうやって、下着の中であった状態と同じように。軽く扱くと。先端にある、小さな穴。尿道口であろうか。そこからぴゅっ、と。透明な液体が飛び出して。身を起こしたガルシェの腹筋へと、飛んだ。
びっくりして手を止めると、それ以上何も起きないから。試しに同じ行動をすると、僕の手が動けば、それだけ先からまた液体を飛ばす。もしかして、もう。でも射精とはどこか違う気がした。続けていると、毛皮の鞘から露出しているペニスがどんどん伸びていく。握っている太さも、勘違いでなければ若干、増しているような。粘膜が空気に触れて、普段彼が隠している雄の臭いが。嗅覚が狼程ではなくても、僕にも感じられて。なんだか頭が少し、くらくらした。汗をかかないからか、体臭はお風呂に入ると人間よりもずっと少ない。なのに、今だけは形容できない生臭さがあった。これが性臭なのだろうか。
垂れてきた放出され続ける液体が、僕の指に。そして毛皮で覆われた鞘に絡まり、次第に乾いた音が水気を帯びる。人間の先走りと違い、粘性はなく。さらりとしていた。でも、出る量はとっても多い。本当に、これで射精していないのだろうか。一度、手を離すと彼の体液で僕の手はびちょびちょになっていて。そして、狼のペニスは。どうして刺激を止めたのかと、不満を訴えるようにびくりびくりとまるで別の生き物のように震えていた。その時点で、最初見た時よりも大きくなっていると確かに感じて。勃起、してる。僕が与えた刺激で。
「犬科の射精は三段階あるんだ。これは最初に分泌する、尿道と入れた雌の中を洗うための液だ」
僕がよほど不思議そうな顔をしていたのか。どこか、ぼんやりとした表情をさせたガルシェは。吹っ切れたのか、今まさに自分に起きている身体の反応を教えてくれていた。洗うという単語がやけに、頭の中に残った。自身の体液で、それをすると思うと。とても卑猥に聞こえて。知らず知らずの内に、僕の股間も熱を持っているのを自覚した。やっぱりこれは射精じゃなかったのか。刺激しなければ、彼のペニスは萎えず震えているだけで。確かに液体の放出を中断していた。そうやって観察していると、鞘で隠れた部分にも変化があって。まだ露出していない部分。そこが僅かに丸く膨らんでいた。まるで、中にボールでも押し込まれているみたいに。あれは、なんだろうか。
無言でまた彼のペニスを握ると。ガルシェは何も言わなかった。抵抗するのを諦めた狼は、人にされるがままであった。最初、僕がこんな事をするのには。拒んでいたのに。それとも、与えられる久しぶりの快楽の方を優先したのだろうか。まだ、勃起したというのにふにふにと。そのグロテスクと感じる肉棒は、柔らかく。でも、中に芯があるのかちょっと硬い。人のそれとは、感触がまるで違う。人外の生殖器だった。だから、まだ隠している彼の本性を暴いてみたくなった。この鞘の中に包まれている部分を。だから、ゆっくりと包皮を剥くように根元へと引き下げていく。痛くないのか、彼の顔色を窺いながらであったけれど。
そうすると、その膨らんだ。丸いから一番太い部分でつっかえたけれど。根元は急激に元の太さに戻ったのか、ずるりと簡単に最後まで剥けてしまって。姿を現した、彼の全体像に息を呑む。
先っぽは、人間みたいに亀頭のない。円錐状で。ただ尖っていた。そこから円筒状になだらかに続いていて、根元付近で急激に膨らんで。まるでコブのような形をしていた。普段は先っぽだけしか、見た事のなかった。その全てを。今僕は目にしていて。そして、露出された、彼の唯一蒸れた部分は。むわりと、股間から性臭を醸し出していた。視界に捉えられない、煙が顔に立ち上って来るように感じて。とても、雄臭い。そして獣臭い。微量のアンモニア臭までしたから、そういえば今日はまだ彼はお風呂に入っていなくて。僕と違い毎日入ってもいないのだから、熟成されたガルシェという雄の臭いがそこの、一点に集中していた。動物と同じで汗をかかない彼の、唯一蒸れる部分。鞘で包まれたペニスは。そこから漂う臭いでまるで、先んじて鼻腔を犯されるているように感じてしまって。いつの間にか溢れた唾液を、慌てて嚥下する。臭くて、嫌悪するべきものである筈なのに。身体は生殖を誘発するものと捉えたのか、僕の考えと反応はまるで違っていた。
彼の先走りで濡れた僕の手は、擦る事に何も不自由しなくて。この液体は、こうして摩擦を軽減させて円滑な交尾をするのを手助けする為にもあるのだと感じた。筒状にした僕の手を、雌の膣と勘違いしたペニスは。しっかりと準備しようと、しているのだ。また擦っていると、やはり彼のそこは大きさを増していて。体格相応に、どんどん太く、長くなっていく。手に感じる、芯にある硬い感触とは別に。血液が充満して、張り詰めていくみたいに。
「すごい、どんどん大きくなってる」
「ハッ、クッ。犬科は、挿入して初めて勃起するんだ。まだまだ、デカく、なるぞ」
僕のとても素直な感想に。声を途切れさせながら。ガルシェが無視すればいいのに律義にまた教えてくれた。まだ、完全に勃起していないんだ。これで。先走りを飛ばし、自身のお腹と股間を汚しながら。本当にどんどん体積を増していく。熱い、血液を充填する海綿体。手で触れている僕には、人間よりも高い体温を、粘膜越しに直接感じて。まるで焼けた鉄の棒でも握っているように感じた。実際に火傷もしないし、温度としてもそこまでではないにしても。そう錯覚させた。興奮に判断力の乏しい思考では。
何よりも、僕の小さな手で。こんなにも、自分よりも大柄な男性が。息を乱し、快感を感じて肩を震わせているのが。なんだか、ちょっとだけ可愛くて、いやらしい彼の姿に。それを自分が作り出していると思うと。よけいに、昂った。上昇する身体の熱に、廃熱が追いつかないのか。ガルシェは本当の犬みたいに、口の中からまろびでた舌をぶらぶらと垂らし。口の端から涎を零し。ハッ、ハッと短く息をしていた。そうやって、刺激し続けていると。完全に勃起したのか。先走りをその切っ先から飛ばす事をやめた狼のペニスは、僕の手の中に納まる事は叶わず。というより、親指と人差し指がつかないぐらい太くなって。本当に、これが同じ。男性の生殖器なのかと疑わしくなるぐらい。大きく成長していた。相手の奥深くに、自身の遺伝子を届ける為とはいえ。目測でニ十センチは優に超えてしまっている。二メートルぐらいある身長の、筋肉で逞しい身体をさせた成人男性の持つ生殖器なのだから。体格相応であり、当たり前なのかもしれなかったが。圧倒されてしまう。雄という括りにおいて、その格の違い、であろうか。自身は曝け出していない、ズボンの中で突っ張って痛みを訴えるそこが。これを見てしまうと矮小で恥ずかしく感じてしまった。
そして、それに負けず劣らない。勃起していない彼のそこに対して大きすぎると感じていた。垂れ下がり細かい毛に覆われた陰嚢は。今では、ちょうど釣り合いが取れたのか。どちらを見ても見劣りしなかった。今はファスナーの狭い隙間から出ているからか、窮屈そうに垂れ下がって揺れる余地がなく。根元に寄り添って丸く張りがある二つのボール状になっているが。
圧巻であった。雄の象徴とも言える。本来の姿をした。生殖をする為に力を漲らせた、彼の分身に。それで手が止まってしまって。今にも破裂してしまい、大量の血液で惨劇を演出しそうなのに。そんな心配をよそに、ただ硬く張り詰め。びくん、びくんと。震え、今か今かと射精する事を期待する姿に。とても、臓物みたいに変わり果てた姿に。怖気づいてしまった。本当に、これが性器とは今でも信じられなかった。身体の作りの違いが。こんなにも、凄い。なによりも存在感を主張する、根元の瘤。腫れているわけじゃなく、元々がそうなのであろう。見た目では痛そうに感じるぐらい腫れているみたいなのに。小指が少し触れた時、一番敏感なのかガルシェは腰を震わせて。もっとと、自分から押し付けて来た。
止まってしまった人の手の動きに対して、緩く。ベッドに座りながら腰を揺らす銀狼。動き辛いのか、その前後運動はとても小さなものであったけれど。手のひらの中を行き来する雄の感触を直に感じているのだから。見なくてもわかった。そして、今までずっとシーツを握りしめていた彼の手が。持ち上がり、僕の手首を掴む。興奮からか、加減を忘れた力強さで。
勃起した狼の生殖器を見ていた僕の耳元に、それの持ち主がいつの間にかマズルを近づけていて。
「もっと、ここまできて止めないでくれ。ルルシャ、もっと、もっと触ってくれっ」
切羽詰まった、貪欲に情欲を湛えた男の低い声が。耳元でして、僕の背筋をぞくりと何かが駆け抜けた。どこまでも、みっともないおねだりに。凛々しい狼の、これまでと違う一面に。本来これは、番の雌に向けられるべきそれであろうに。人間である僕に、狼の雄が乞うていた。最初、僕にこんな事望んでないと言った同じ口で。全く真逆の事を言っていた。欲に濡れた、ギラギラとした獣の瞳が。僕の手に注がれている。この手が、気持ちよくしてくれると。覚えた狼は、獲物を見つけたみたいに。掴んだ手首を放そうとしなかった。もし、今僕がこの時点で断れば。襲われそうな気配を感じた。それぐらい、その瞳は強欲で。怖かった。僕が、始めたのに。ガルシェを、久しぶりに怖いと感じた。自分よりも体格のいい雄に。幸い、すぐに手を動かさなくても。欲に染まりながらでも辛抱強く彼は待ってくれたから。そうはならなかったけれど。
僕は見つけてしまった。僕にできる。僕なんかにでもできうる。逆に、一緒に暮らしているからこそ。他の雄とはしたがらない彼への。僕だからこそできる。こうして実際に触れて、嫌悪感を表していないのだから。たぶん、大丈夫だと確信した。彼への奉仕を。
――どうせ、ガルシェの気まぐれで飼われているお前が。いずれここに来る事になるのは、お前だってわかってるだろ。
ガカイドの言葉が。脳裏で響く。彼の言い方はちょっとあれだけれど、でもそれはひどく的を得ているとも実際わかっていた。いつ崩れてもおかしくないこの日常、今日だって。ガルシェが倒れる前、正気じゃなかった銀狼が放った言葉。その片鱗があったと感じたのだから。勃起した彼のペニスには僕の片手では、刺激が足りなくなったと判断して。こんどは両手で。僕が動こうとすると、手首を掴んだ狼の手は邪魔しないように離れてくれて。そうやって、両手で。彼の熱いそこを包み込む。彼の番だけが見る筈だった、そんなどこまでもえっちな姿を今人間の僕が知って。後ろめたいと同時に、背徳的な優越感が芽生える。これは、治療の為の性処理であったけれど。口でも、男同士では肛門性交をするとしても。やっているのは手だけで。でもそんな上手とはいえない、僕の手淫で乱れている。雄の狼が。本来は弱点である、生殖器を。他人に握らせてまで。その快楽を貪っていると考えると。高揚感を抱かずにはいられず。
片手はしっかりと陰茎を握り。もう片方は尖った先を包むように重ね、そしてこねまわした。尖っているといっても、相手を傷つけない為か思ったよりは柔らかい先っぽを。形を変えるみたいにぐにぐにと手のひらで弄ぶ。
「あっ、グゥ、ウルル……」
喉仏を晒しながら、男らしく低い声で呻いて。でもそこに、狼の顔をしているのだから。声質に隠しきれない獣性が混じる。涎を一筋胸元に垂らしていた。被さった手のひら目掛け、狼が腰を振ると。ぐちぐちと先を押し付けてくる。僕の手を膣に、そして雌を孕ませる為に。子宮口にでも錯覚しているのか。その先は執念深く、突いて、突いて、突いてくる。熱く滾った雄が手の中で上下して、腰を振る度に。ベッドのスプリングが軋む。僕が手を最初は動かしていたのに、それでも刺激が足りなかったのか。今ではオナホ代わりに人間の手を、レプリカントの成人男性が腰を振り使っていて。一緒にベッドに座っている僕まで、揺れる。彼とセックスしてるわけではないのに。ただ稚拙に、手でしているだけなのに。僕の手の中にある熱い感触は、まるで僕を犯しているようで。激しさを増していく、抜き差しに、雄の自己中心的な生殖の動き。その力強さに。そう錯覚してしまいそうになる。僕も生物学上は男であるのに、別に彼も僕の中へ種付けを願ってるわけではない。目を瞑ったその先、想像した誰か。その相手に、気持ちをぶつけているにすぎない。でも、実際に触れているのは僕であったから。生殖器から感じる血液の脈動。それと同じか、それよりも、もっと。僕の鼓動も速く。弾き飛ばされないように、固定した手に。ペニスを打ち付けてくる。一心不乱に、それに没頭するガルシェ。そうしていると、筒状にした僕の手に。根元にある、一回り太くなった瘤がなんども衝突してくる。まるで、そこへ押し込みたいかのように。
動きが、急いていた。そして、空気中に混じる。濃密な雄のフェロモン。どうやら絶頂が近いのか。余裕がなく、尻尾がなんども布団を叩いていて。もう少しなんだ。もう少しでこの目の前の雄の狼は射精するんだ。シーツの上で握りこぶしを作って。ならばと。もう少し彼の雄を握る力を強くする。締め付けて、射精に至ろうとする雄を文字通り手助けした。そうすると、歯を食いしばったガルシェが。僕の手に向って、今までで一番の突きをおみまいする。前かがみになった顔が、僕のすぐ傍にあって。鼻先が首筋へと埋もれた。普段は湿って、当たるとひんやりと冷たいのに。興奮に高まった彼の体温は、その濡れた鼻も熱くて。そうして、僕の手の中にどちゅんと勢いよく潜り込んで来た根元の瘤。毛を逆立てて、大きく唸る雄の狼は。ぶるぶると震えながら、握った手とは違う。先へと覆いかぶさって、先っぽがぐにゃりと潰れるぐらい押し付けたまま。まだ一回り膨張して。
「グルッ、イクッ! イクぞ、ルルシャ!」
怒鳴りつけるように、切羽詰まった雄が。生殖器を握った人へ対してそう叫んで。そして、弾けた。
手のひらに感じる水圧。先っぽから今まさに噴き出ているのが。彼の精液なのだと。身を震わせながら唸り、そして掴んでいたシーツを自身の爪で引き裂きながら。甘い、雄としての最大限の快感を噛み締め、耐えているのだと。その姿から感じられた。たぶん、手で覆っていなければ高く飛んでいたであろう。そんな勢いを手のひらに感じる。びゅー、びゅー、って大きくペニスを跳ねさせながら。吐き出しているのだから。でもそこで、違和感を感じて。覆った方ではない、根元の。瘤を握っている僕の手に。反発する手応え。グググとどんどん大きくなっている。最初射精の度に膨らませているのかと感じていたが、そこ単体でまだ大きくなっていた。筒状にしていた手が、割り開かれていく。内側から。膨らむ瘤のせいで。なに、これ。なんだこれ。何が起きているの。彼の身体に、何が起きているの。
「う、あっ、ルル、シャぁ……」
僕が驚愕に固まっているのをよそに、薄く目を開いた狼は。気持ちよさそうに、僕の名を呼びながら身体を震わせ射精を続けていた。噛み締めた歯の隙間から、吐息が漏れ出て。僕の鎖骨付近をその息が撫でる。そういえば、もう一分は過ぎていると思うのに。彼の射精は止まらない。手の感触から、どうやら彼の精液も人間のようにどろどろしていないのか。お湯で濡れた感触に近かった。僕の手に納まらない液体は、行き場をなくし彼の下腹部をしとどに濡らしていく。そうやって、暫くとても長い射精が続いた後。深く息を吐き出した銀狼が、前屈みとなっていた姿勢を少し戻す。手に感じる圧が弱まったから、射精が終わったのかなと。それで僕も彼の雄から手を離そうとして。膨らんでしまった瘤を握っている方側だけ、離すなとばかりに手首を掴まれる。だから自由な先っぽを押さえてた方の手を、手の甲ではなく裏返して手のひらを見えるようにすると。想像していたのとは違い。まるで牛乳みたいな、白濁していない液体が纏わりついていた。べとべとに、そしてそこからとても、饐えたにおい。とても生臭い。生き物の臭い。これ、この真っ白いの全部。ガルシェの、精子。
それを吐きだしたペニスへと視線を動かすと、射精が終わったと思ったのに。未だに、勢いは衰えたけれど。最初と同じような、透明なのをまた放出していた。そういえば、瘤を掴んだままの。彼が手首を離してくれないから、そのままであった方から感じる。ペニスの硬さは、萎えるどころか、まだまだと滾っていて。今出しているのが三段階目なのだろうか。
毛を逆立てていたのを、少しだけ元に戻しながら。ガルシェが少し落ち着きを取り戻していた。射精自体は続いているようであったけれど、安定した、と言えるのか。少しだけ理性の戻った瞳をさせていた。
「その、凄い、出たね」
「犬科は、これが……普通だ」
出たと言っても、まだまだ続いているし。彼はこれが当然だと、そういう顔をしていたから。事実、犬や狼の顔をしたレプリカントは、皆一緒なのであろう。短い毛で覆われている彼の陰嚢は、濡れてぺったりと毛が纏わりついているし。ジーンズに至っては、太腿まで液体が浸透し色合いを濃く変えていた。そして、依然と漂う生臭さに少し顔を顰めてしまう。全て、彼の体内にあったものだ。僕の両手を汚すのも、全部。
「ガルシェ、この、瘤なに? なんで、手、離してくれないの」
僕が瘤を掴んだ状態で、それを維持する為にか、さらにその人の手首を掴んだ狼の手。がっちりと固定されてしまって、手首から感じる圧迫に少し血液が遮られ。痛い。理性が少し戻ったといえど、まだ彼の様子から性的欲求は満足しておらず。続きを欲していると感じた。でも、手を動かすでもなく。ただこの状態を維持するのを、望んでいるようであった。
「本来は、雌の中で膨らませて。抜けなくするんだ。射精が終わるまでまだ、手を離さないでくれ、無性にせつなくなる」
瘤を握った僕の手に対して、擦り付けるみたいに狼の腰が動くから。まるで彼のペニスが人の手に甘えるみたいに。そんな仕草とそれを発する狼の言葉に。なんとも言えない、ムズムズする感情が揺れ動く。でも、ガルシェが手首を掴んだ力加減を忘れたそれは、耐えられるものではなく。僕が絶対に手を離さないと、なんども言い約束すると。渋々と、その大きな手が離れて解放された。少し、手の痕がついてしまった。狼の肉球の形を、はっきりと残して。
びくびくと震え、透明な液体を絶えず吐き出し続ける彼のそこは。言った通り、射精が終わるまで握りこんだ瘤も萎えず。ずっと続くみたいで。生殖の違いを、相手を孕ませる為に進化してきた生き物の違いを、実感した。抜けなくするって言っていたけれど、こんなにも膨らんだものを入れられた相手は。痛くないのだろうか。関係ないのだろうか、そんな事。人間との目的の違いだろうか。
僕が手で擦ってる時よりも、そして彼が白い液体を吐き出した。それよりもずっと。ずっと長い時間。瘤が膨らんだまま、一度に出す量はそれほど多くはなかったけれど。透明な液体を吐きだし続けるのだった、いつまでも。三段階目の射精は、一番長く続いた。枕元にある、時計が指し示す時刻。数え始めてから三十分を過ぎても、まだ、続いて。そのせいでいつまで経っても供給が途絶えないから。手が乾く事がなくて。
不意にガルシェが、上半身を前屈みへと動かす。そうすると、また僕の首筋へと狼のマズルが近づいて。体臭を勝手に嗅がれて、唸られた。
「ガカイドの臭いがする……」
射精中で蕩けた雄の頭では、別の雄の臭いは酷く不快に感じるのか。嫌悪感を露わに、鼻筋に大きく皴を刻んで。口を開け、覗く鋭い牙に一瞬身体が強張る。まさか、咬みつかれるのかと。一瞬考えてしまって。でもその心配は杞憂に終わる。それよりも、ある意味でもっと悪い状況になって。一度、伸びて来た狼の舌が僕の鎖骨の上を這った。ぬるりと、生暖かい感触に。思わずその場所が鳥肌を立てる。服の襟ぐりから覗くそこは舐め辛いのか、服が邪魔をして舐める舌に繊維が引っ掛かり。舌を収納すると口をもごもごとさせていた。そして、ガカイドに肩を貸したのだから服にも当然。僕には感じ取る事のできない。彼が言うにおいが、付着していた。僕は約束した手前、手を離せないのだけど、当の銀狼はそうではなく。比較的に自由な両腕が、僕の服を掴んで。そしてそのまま破きそうな勢いで、上へと脱がしにかかった。
視界を布で一瞬遮られて、そして、彼のそこから手が離せないから。その腕にだけぶら下がる中途半端な脱げ方をして。完全に脱がすには一度手を離すしかないのだが、それにガルシェはちょっと迷ったらしい。だけれど、一瞬でも、そんな短い時間でも今瘤の触れられている感触を失いたくないのか。完全には切り離す事のできない布に、威嚇とばかりに唸り。また、首筋を舐める事にしたようであった。
これには僕もたまらない。彼と同じく上半身裸になったけれど、彼と違い皮膚を守る被毛はないのだから。そこを遠慮なく狼の舌が、唾液を塗り付けて。においを上書きしていく。もっと強いマーキングの仕方が。まさかこれなのかと。ガルシェもさすがに躊躇した理由であった。確かに、恋人でもない相手に。誰彼構わず、このような事。本当の動物が毛繕いするみたいに。舌で直接。擽ったいような、慣れてくると、狼のぬるついた。大きくて長い舌が這う感触が。気持ちいいと、一瞬考えてしまって。愛撫のようだと、そう考えて。
舐めながら、すぐ傍にある鼻がまた嗅ぐ仕草をしていた。
「……また、エロい事考えてるだろ。可愛いな、ルルシャは」
舐めながら人間の醸し出すにおい情報を読み取り。クツクツと器用に笑う、狼の顔。だって、彼のペニスを掴んで。狼の精液濡れにされて。そして、こうしていやらしく舐められて。そう考えない方がどうかしている。彼はにおいの上書き以上の意味はないのであろうが、僕にはこれからさらにその先を進めようと、前戯をされてるみたいに感じてしまうのだから。だから頬に羞恥で熱く感じるのも。ぞくぞくと背筋を駆け抜けるのが、快感だとも。擽ったいのに身を捩るだけで、逃げないのも。全部しかたないと、そう言うしかなくて。
でも、放尿した後に自然と身体が生理反応に。ぶるりと一度身体を震わせるみたいに。銀狼が、そうしたから。それで舐めるのを中断して。自身の股間を覗き込んでいた。掴んでいる僕の手の中の、彼のペニスにも変化が感じられて。あんなに硬く張り詰めていた瘤が、少しだけ柔らかくなりだした。それでも僕にとって大きいままで。尖った先からも、いつの間にか透明な液体が出なくなっていて。ペニスの状態がこの行動の終わりを告げていた。だから、彼は何も言わなかったが。恐る恐る、瘤から僕の細い指先が離れていく。顔色を窺っても、特に咎められないから、自身の胸元まで引き寄せて。惨状に。うわぁ、とそんな感想。本当に彼の体液で満遍なく汚されて。雄の臭いを纏う僕の手は、ガルシェのペニスの臭いが滲みこんでしまっていた。濃密な、雄の性臭がだ。
それをした肉棒は、役目を終えたからか。毛皮の鞘へと、自動的に中へと既に半分程隠れてしまっていて。でもまだ萎み切っていないから、毛皮越しでも瘤の輪郭がまだぽっこりと浮き出ていた。
「ガルシェ、えーと」
汚れた自身の手をどうしたものかと、彷徨わせながら。そして視線までそうして。一応、治療は終了したとして。確認にと。満足、したんだよね。した、よね?
「その、気持ちよかった?」
「聞くな……」
冷静さが戻って来たのか、とても疲れた様子で。僕のあまりで直球な質問に対して、狼が項垂れていた。それはそうだろう、過度に発情していたとはいえ。他人の手を使い、絶頂までしたのだから。男として、恥ずかしく感じるのか。目を合わせてくれない。でも我慢し続けて、こうなったのだから。僕と一緒に暮らして、こう、なったのだから。
満足してくれたなら、手伝った甲斐もあるのだけれど。
「雌の発情臭を嗅いだ時みたいに、そしてお前にされて、本格的に今ので発情期に入ったから。暫くは続くと、思う」
良かったと、一人もう終わったと安堵していると。難しい顔をした銀狼から、そんな爆弾発言が飛び出て来て。ちょっとだけベッドの上で後ずさると、誰のせいだとばかりに睨まれてしまった。燻ぶっていた熱が、本格的に火がついたようで。けれど、本当の発情期とはまた違うとも。だから数日だけ、我慢せず発散すれば。その内治まって、普段通りの生活に戻れるとも。ガルシェは言っていた。不用意に手を出してしまって、かえって焚きつけてしまったのであろうか。けれど、そのまま放置していると。また何かのきっかけで倒れてしまって。いつかはしなきゃいけない事であった。僕が実際に手伝わなきゃいけないかは兎も角。少し僕だけ外で待っていたり、彼がお風呂場でしたらそれで済んだのではないのであろうかと。今更そんな事を思いついて。後の祭りであった。僕の手と、彼の下半身の惨状が、取り返しのつかない事だと物語っていて。
とりあえず、このままではいけないと。ガルシェをお風呂に誘おうと思って。でも、狼の頭がなぜか僕へと突撃を仕掛けて来て。それと同時に、彼の上半身が乗りかかって来て。とても、重くて。大柄な大男にそうされて、小柄な僕が支えられる筈もなく。ベッドへと押し倒されてしまう。後ろへと倒れ、スプリングで銀狼と一緒に軽く跳ねて。彼の濡れた下半身が、そのまま僕の太腿辺りを濡らす。じわじわと侵食する液体。精子が混ざったそれに。ちょっと不快感を抱いた。
「ガルシェ重――」
「眠い」
僕に覆いかぶさった狼は、どうやら性欲を満たしたら。こんどは睡眠欲を欲しているようで。眠そうに瞼をしばたたかせていた。抱き込むみたいに、下敷きにした人を狼の腕が捕らえて。ちょっと、苦しい。そして、咽かえるような臭いをさせながらまさかこのまま眠る気かと。男の身体の下で暴れるも、抜け出す事も叶わず。唯一自由な手で、軽く頭を叩いても。起きようとしない。それに、ジーンズの開きっぱなしのファスナーからは。萎えたとはいえ彼の男性器が露出したままで、なんならそれが僕の太腿に当たっているのが感触でわかる。身じろぎすれば、僕の服に染みこんで来た液体のせいで。とても生々しい感触。実際に手で触れた部位で今更と思うけれど。正常位みたいな体勢で、ガルシェに捕らわれているのだから。それが嫌であった。性的嫌悪ではないが、そのまま眠るのは気分的に気持ち悪い。おねしょしたみたいに、下半身が生暖かいのだから。余計に。夢精した時に、下着だけでなくズボンも洗っている理由をいまさら知った。これだけ出すのだから、そりゃそうなるよなと。ベッドのシーツも取り換えなければいけない。洗濯物が増えていく。
梃子でも動きそうにない、狼の頭に。今にも寝てしまいそうなその顔に。決心した事を言わなきゃと。
「これからは、我慢しないでね。僕も、協力するから。隠し事はしないでちゃんと言って欲しい、僕も、ちゃんと言うから。倒れられた時。本当に、何かの病気じゃないかって。怖かった……」
返事はなかったけれど、重しとなったガルシェはゆらりと尻尾を揺らし。三角形の耳がしっかりとこちらへと向いていた。薄目にした眼が、抱きしめた人を見つめていて。彼が治るまで、付き合うつもりでそう言ったのだった。協力といっても、できれば彼一人だけの時間を作ったりとか。そういったものの意味合いでもあったけれど。本当に、怖かった。彼が死んじゃうんじゃないかと、癌とか、そんなものではなかったけれど。でも、人間にはない病気でもあって。その原因を担った僕は。
彼に気に入られる必要があった。奉仕する必要が。見限られたら、だめで。そんな醜い気持ちも、確かにあった。僕の中には。行くところがないのだから。だから、差し出せるのが身一つしかないのなら。手だけで、いいのなら。とも考えた。洗濯物がいくら増えても、構わなかった。
その汚した元凶は、僕が言い終えるともう夢の中へと旅立ったのか。寝息を立てていたけれど。最初押し倒された時に、まさか犯されるのではと。そんな考えもあったから。狼の下で、溜息をついた。一応性処理は終わったのだと。そうすると、僕も彼に釣られてか。睡魔が押し寄せて来て。今日もまた、怒涛の勢いで日常が流れていったから。肉体も精神も疲弊していた。
また首の皮一枚で、この日常が守られたと思うと。良かったと思えた。少なからず心を許している、僕を抱きしめて眠る狼に対して。何か返せたらと、常々そう思っていたから。こんな形で、はあったけれど。
ああ、下半身が気持ち悪い。不快だ。手も、そのままだし。しれっと彼の背中や脇腹にある毛皮に擦りつけて。拭く。寝ているから怒られる事もないであろう。元々彼が出した物であるのだし。明日起きたらすぐお風呂に入ろう。そうしよう。抜け出せないのを諦めて。僕も、睡魔へと身を委ねた。それにしても、重い。
だって、僕を見る。その獣の頭をした人達の目つきは、とても厳しい。
「所長、彼です」
「人間など、この街では一人しかおらん。見ればわかる」
所長と呼ばれたレプリカントの男性。そして、その後ろに控えた黒豹の男の人。確か、今日配給所で会った人だった。そして彼ら軍属っぽい二人のさらに後ろに、昨日アドトパの護衛さんに追い払われた暴漢。そいつが、僕を指差して。何かを言っていた。耳障りな。よく見ると、ガカイド程ではないが顔が腫れているのか。昨日の記憶よりも少し、顔の形が変わっている。
「あいつです! 昨日、俺を殺そうとした、人間です!」
それで、この状況が。とっても不味いと僕は悟った。逃げようかな、そう思い足を少し後ろに引いたけれど。それを目敏い所長の視線が、いっそう鋭くなって。片手が銃のホルスターに添ったのを見た事で。それで潔く逃走は諦めた。だって、この街で僕はこの家以外行くところがなくて。すぐに見つかってしまうであろう。人間など、レプリカントの住む街では目立ってしかたない。
立ち尽くす僕に、ずんずん歩きながら肩を怒らせて。そうやって僕の前に立った所長と呼ばれた男。実際に人の上に立つ者特有の覇気を纏っていて、目深に被った軍帽の隙間から覗く。その冷たい眼からとても身を隠したかった。
「えーと、ルルシャ。だったか。貴君には、そこの男に対する殺人未遂、並びに暴行罪の容疑がかけられている。大人しく同行してもらおう。この場で抵抗の意思ありとみなせば、即刻射殺するのも厭わないのは一応警告しておく」
身に覚えのない事に、どうしたものかと。正直呆れていた。自分が何かしら罪を犯す事も、もしかしたらあるであろう。だって僕は彼らの常識をちゃんと身に着けているとは言えず、何が法に触れて、何がモラルを乱すのか。どこまで人と違うか、まだまだお勉強中の身だ。それでも、自分の中の常識の範囲内では。当たり障りのないように、振舞ってきたつもりだ。つもりだったのに。こうも、降りかかる火の粉は、どうして欲してもないのにあちらから来るのか。
冷徹な軍属の男の目に晒されながら、少しだけ彼らの後ろに居る。昨日アドトパの護衛さんに銃を向けられて逃げて行った、情けない姿が記憶に新しい男の顔を見る。軍属の背後にいるから自身の顔を見られていないとわかっているからか、僕を見つめるその顔は、とてもニタニタとしていて。人を貶めるのになんの罪悪感も抱いていない。そんな表情をしていた。
それが、所長が僕の視線の先に気づいたのか。振り向いた途端には、役者の如く泣きべそをかいて。恐ろしい人間を、どうか正しき法の元で。と乞うているのだから。こんな暮らしをしていなければ、彼は演劇の才能があったのではないだろうか。見世物をする仕事があるのかは別だが。顔つきから主役は任せられなくても、悪役で人気を博しそうだ。
男の目論見は悔しいが成功といえた。だってこの街で圧倒的少数派の僕が、多数派の意見を。同じ種族の言葉と、異種族の言葉、どちらを聞き入れるのかは。火を見るよりも明らかで。この状況に持ち込まれた時点で。僕は負けているのだ。
でも、何も言わず連行されるつもりはないのだが。本当に無実であるのだから、このまま連れていかれるのをよしとするのも。また、手ではあった。しかし、タイミングを考えると。粘ってみる価値はあった。だから。
「やってません」
堂々と言い切ってやる。正直、怖い。今でも。自分よりも大きな男女ばかりで、異種族に囲まれるのは。怖い。そして、明確に敵意を向けられると。どうしても足が竦む。でも、独り立ちを目指している僕が。このまま泣き寝入りするのだけは、我慢ならなかった。
あの時、ガカイドが。自身の尻尾を丸めるのを寸でのところで止めて。僕の為に立ち向かってくれた姿を見ているのだから。守られた僕が、何もできないからと。ただ、蹲るのだけは。嫌だった。常に見守り、いっそ疎ましく感じる事もあるだろう。異種族である、人間と共に暮らす。ガルシェにも。迷惑をかけてばかりの彼にも、情けない姿ばかり見せるのも。ちょっとだけ、勇気が欲しかった。
「ほう、抵抗する……と。そう見て、いいのかな?」
「所長!」
ホルスターから拳銃を抜いた所長。そして、その動作を見て。咄嗟に声を出した、部下であろう黒豹の男。どうやら、一応この詰問は行き過ぎたおこないであるようなのは。それで何となく感じられた。なら僅かばかりの勝機はあったのだった。それに縋るしかないとも。
目に見えての抵抗はせず、ただし。あくまでも、言葉だけで反論し続ける。それが今、僕ができる最善手であった。なんともちっぽけな抵抗ではあったが。ちっぽけな僕らしくて、いいとも言えた。
「そもそも、昨日ナイフを持って追いかけられたのは僕の方です」
「それは、君が善良な一般市民たる彼を。暴行して、抵抗にと、取り出したナイフの事か?」
ある程度、シナリオはできあがっているのか。スラスラと所長の口からありもしない昨日の出来事がでてくる。それを吹き込んだのは、後ろで事の成り行きをそわそわして見ている。元凶であろうが。銃を抜いただけで、まだこちらへ向けていないからか。黒豹の男の人も、あまり口出しする権限はないのか。黙ってしまっていた。
「それが、まず間違っています。僕が彼をボコボコにできるわけがないでしょう。顔まで手が届きません」
「……休憩に座っているところを一方的に、という可能性もあるだろう。どうなのだ?」
僕の頭からつま先まで、一度視線を上から下へと動かした後。そう言い、後ろの男へと問いかける所長。それに、ぼろが出るからかただ無言で頷く姿に。苛立ちが募る。できるのなら本当に殴ってやりたい。できないけれど。
「彼を襲う理由がありません。昨日、初めてあそこへ訪れたので面識もありませんでしたし」
「君は、ある程度稼ぎが欲しくて働いているのは調べがついている。金目当てに襲った、とも言えるだろう。誰でもよかったのではないかね」
おばちゃんのところで働いているのは知っているのか。実際に僕は目立つのだから、そう苦労しない情報であっただろうが。こう言えば、ああ言う。この詰問に、実際意味はないのだろうな。所長と呼ばれた男の視線は、人間を見下した感じがするし。理由など、そこまで重要視していないのかもしれない。
「埒が明かんな。もういい、後は署で聞こう。身体に聞けば、嫌でも吐くだろう。安心しろ、拷問は得意だ。死にはせん。二度とその減らず口を利けなくはしてやるがな」
聞きたくもない補足説明と共に。所長の手が伸びて来る。視界に入った、レプリカントの鋭い爪。それが僕の腕を取ろうとして、反射的に弾いてしまう。本当に、つい。やってしまった。あの爪にはよくない記憶しかないから。傷つけられてばかりであったから。未だに、触れられるのは苦手だった。それが、こんな場面で。でてしまった。一番、やってはいけないそんな瞬間に。
所長の雰囲気が、そこでがらりと変わる。今までは、まだ抑えていたのであろうな。銃の安全装置を外す音と、スッと目が細まって。向けられた。たった一人への明確な殺意に。喉の奥から、か細い声が僕から漏れ出た。
「痛いではないか。そうか、あくまでも抵抗するか。残念だ」
特に残念そうな素振りはなく。向けられる銃口。目覚めてから、本当に。銃を向けられてばかりだったな。せめて、もう少し別の場所が良かった。ここでは、僕の血で。ガルシェの家の前を汚してしまう。後片付けが大変だろうに。最後まで、迷惑をかけてしまうな。彼には。どうせ死ぬなら、袋の中にある酒瓶を投げつけてやろうか。そう思った時。僕が上って来た階段。そこから、誰かが段差を踏みしめる音がした。それで、所長の意識が逸れたから。この一瞬が、チャンスでもあった。逃げるなら。でも、僕はそうはしなかった。どうせ、走っても軍人の体力に敵う筈がないし。昨日の男から逃げられたのも、距離が少しあったのと。道が入り組んでいて、すぐにアドトパに確保されたからであって。捕まるのはすぐであろう。弾丸よりも、早く動ける筈もないのだし。
だから、僕も。所長と同じ方向へと。振り返って。時間稼ぎが功を奏したのか。今一番来て欲しかった男が、そこに立っていた。銀色の毛が、光を反射して眩しい。目は鋭く、子供が泣きそうで。言葉遣いも良いとは言えないけれど。とても、優しい。今、僕と一緒に暮らしてくれている。同居人が。
助けて欲しくて。彼の名を呼ぶ前に。
「おお、ガルシェ君! ちょうどいいところに」
旧友に会う親しさを滲ました、そんな声が隣でして。それは、所長のマズルから発せられていた。面識があるのは、問題ではない。ガルシェも、人口はそれ程多くないのだから。皆知り合いと、そう言っていたのだから。問題なのは、こうも親しそうに。僕を無視して、彼に歩み寄る所長の振る舞いであった。
僕を一瞥して、そして所長を見た銀狼は。綺麗な敬礼をして。そして。
「お久しぶりです、所長」
「いやー、しばらく見ない間にまた一段と逞しくなって。お父さんも誇り高いだろう、最近人間を飼っていると聞いていたよ。さぞ気苦労が絶えない事だろう」
肩を、叩きながら。そんな会話が繰り広げられていた。僕の目の前で。予想していなかった。まさか、銀狼が。向こう側の人間などと。ああ、でもそうか。彼はある意味、軍属でもあったのだ。外へと仕事へ行っているから忘れていたけれど。アカデミー出身であるのだから、兵を育成しているらしいそこで。育ったのだから。接点がない方がおかしかったのだ。
なら、僕の取った行動は。意味がなかったのかもしれない。だって、彼らの会話が進む先が。
「そういえば、お父さんから。もし人間が問題を起こせば、即処分しなさいと言われていたね。多少は一緒に暮らしていたのだし、愛着もあろうが。見てごらんなさい、彼は一般市民に怪我をさせたそうだ。なら、飼い主である君が。やらなくてはいけない事も。わかるね?」
所長は、自身が持っていた拳銃を回転させ。そうして、銀狼へと差し出した。その銃を見て、そして。ガルシェが、僕を見た。いつだって綺麗な、目つきは悪いけれど、琥珀に似た瞳をさせた。僕の好きな瞳は、今は動揺に揺れていて。なにも言えず、ただ、助けてほしくて。その目を見つめ返す事しかできなかった。
でも、その瞳も。すぐに瞑られ、顔を逸らされてしまう。再び、開いた眼は。拳銃を見ていた。
まって、ガルシェ。話を聞いて。それは違うと言ってよ。どうして、目を逸らすの。どうして、何も言ってくれないの。どうして。どうして。
僕の頭の中でどうしてと言葉がループする。彼と暮らした数週間。少しでも絆らしいものを感じていたのは、僕だけだったのだろうか。本当は、言う事を聞かない僕に。愛想を尽かしていたのだろうか。助けて欲しいと願った相手は、僕の救世主ではなかったのか。その答えは。所長の手元にある拳銃、それを銀狼が取った事で。答えとされた。
僕だけだったんだ。彼だけは。味方であってくれると。そう思っていたのに。守ってくれるって約束したのに。そう、言ってくれたのに。ガルシェ。でも、そうだね。人間だもんね。日頃から、僕が何か言う度にめんどくさいと言っていたよね。そうだよね。お風呂だって、嫌いなのに。僕がいなければ、もう少し日を空けてもいいものね。人間とは違うもんね。そうだったね。
君も、彼らと同じ。僕とは違う。レプリカントだったね。忘れてたよ。君とは違うと思いながらも、それでも、唯一の近しい人。なんであろうか、友達、でいいのだろうか。そう思っていたから。初めて出会った時と同じように、彼に銃口を向けられるのかな。誰よりも、誰にでもない、彼に。そうされるのは、なんだか、とても辛いな。原因を作ったのは、裏通りに行った僕であったけれど。
僕の軽率な行動で、彼との暮らしが。終わるんだなって。そう思った。後悔しても、もう。遅いけれど。でも、頑張ろうと思わしてくれた彼になら。僕を終わらせてもらうのもいいかなって。だって、そうすれば、もうここで頑張らなくていいんだ。楽になれるんだ。もう何も悩まなくてすむ。ただ、眠るだけで。二度と起きないだけで。
銃をしっかりと持った銀狼は、弾が入ってるのか。念の為に。一度スライドを引いた。そうすると既に装填されていた弾丸が一発。チェンバーから飛び出してくる。それが放物線を描いて、床へと落ち、甲高い音をさせた。それを立て続けに、なんども。そうすると、薬莢がどんどん落ちてくる。最後まで、出なくなるまで確認したら。足元にある薬莢を足で蹴って、ここは二階部分であったから。一階へと落ちて行ってしまう。
マガジンを抜き、本体とを別々の方向へと放り捨てた。銃も、貴重な品である筈なのに。それを僕も、所長も。黒豹の人も、免罪をかけてきた男も。口を開いて、見ていた。手ぶらになったからと、頭を掻きながら。流し目で所長を見返した銀狼。ちょっと挑発的で、でも、どこか様になってる。そんな。
「すいません、あまり小さい銃は扱いが苦手でして。なんでしたっけ、俺のルルシャが。何かその男にしましたか。銃なんか使わなくても俺が殴ったら一発で死んじゃいそうな、こんなか弱そうな人間が。成人してるレプリカントに、なにか」
「ガルシェ!」
所長の声が響く。それを、欠伸でもしそうな顔で。片耳の中に小指を差し込んで、穿ってるしまつ。さすがにその態度はどうなのかとも思ったが、明らかに相手を煽っていた。露骨なまでに。僕から、彼へと。所長の意識を向ける為に。
後ろの方で、顔を真っ赤にしている言いがかりをつけて来た男は。銀狼を指差して口をもごもご動かしているが、どう反論しようか考えているようで。咄嗟に思いつかなかったのか、脊髄反射の如く。言い返していた。
「お、お前。言わせておけば、お前だって所長さんに逆らってただですむと思うなよ!」
「へぇ、俺に文句があるなら公平に拳で勝負しますか? 俺の銃は、勿論使わないと約束しますよ。ただ、俺。今すこぶる機嫌悪いんで。手加減できないと思いますけど……」
ちらりと、いつも肩に掛けられている。彼の全長一メートはある銃を見せびらかせる。拳銃よりも、よっぽど殺傷力のある弾を、一瞬の内に何発も吐き出す。それを。でもすぐにそれは後ろへと隠して、彼はただ拳を握った。ギリギリと、力強さを秘めた剛腕。彼の二の腕から肩にかけての筋肉が盛り上がる。ここにいる誰よりも、鍛えられた、実用的な肉体をさせた。戦う為の。外で生き抜いて来た男の。もう一つの武器を。
それで、情けなくも元暴漢は、ただの傍観者へと成り果てた。ただ、所長だけは別で。ガルシェのやる事を全て、見た上で。一歩も引く事もなく。背に手を回し、まだ余裕を保っていた。
「君の意見は理解した。この事は、君のお父さんにもしっかりと報告しておく。今日のところは我々もこれで引き下がろう」
あっさりと、それだけ言うと。階段の方へ歩いていく所長。ガルシェとすれ違うさいに、少し笑っている気がした。そして。肩へと、所長の手が触れて。
「君でなければ、公務執行妨害で連れて行くところだよ」
――親に感謝しなさい。
気がしたのだが、すぐに顔が見えなくなったからわからなくて。その後を、黒豹の軍人さんが慌ててついていく。一度、ガルシェにだけ会釈をして。そして残った傍観者は。事態が終わった事に遅れて気づいたのか、俺どうしたらいいのみたいな。そんな顔をしていて。途方に暮れていた。ガルシェが一歩、僕を庇う形で前へ出た事で。昨日のように逃げて行ったが。
目の前にある垂れ下がった、銀の尾をそっと触る。そうして、最近もふもふが増して。毛艶がいいそれを掴んで。俯いた。頭の上で、銀狼が息を吐くのが聞こえる。
「よかったの、撃たなくて」
見上げて、そう呟くと。背の高い彼の、高い位置にある頭。その後頭部を見つめて。ぴくりと、獣の耳が反応した事で。聞こえてるのがわかったから。
「撃った方が、ガルシェの立場が悪くならなかったんじゃ」
言えたのは、そこまでであった。掴んでいた僕の手から、尻尾が逃げて。そうして、振り返った銀狼が屈んで。僕を抱きしめた事で、それ以上言わせてくれなかった。仕事帰りだから、荒野を疾走してきた彼は少し土埃で服がざらざらする。とても大きい身体を、押し付けられてちょっと苦しい。
「そんな悲しい事を、言うな」
「だって……」
だって、そっちの方が。よっぽど彼は楽な道であった筈だ。自分と同じ種族の意見に従い。上官かもしれない、あの男の言葉を聞いて。そうやって。ただ、金の卵かもしれないってだけで。実は何の価値もない。ただの人間なんかを。お荷物を背負い込む事なんてないのに。そこまでする理由なんてないだろうに。
身体を少し離した事で、顔が見えるようになって。至近距離に毛皮を生やした狼の頭があった。耳を寝かした、いつもは凛々しい種族特有のそれを崩してまで。
「もっと、良い方法もあっただろうが。身体の方が先に動いちまった」
そう、しかたないなと。笑う狼の顔を見て。見てしまって。自身の抑えていた、溢れ出た感情を自覚して。そこで、限界であった。死の恐怖に晒された身体が、ガタガタと震える。足から力が抜けて、こうして、抱かれていないと崩れ落ちてしまいそうで。でもしっかりと僕の身体に回された腕のおかげで、崩れ落ちる事はなかった。
再び鼻先を首筋に寄せたガルシェの動きが、そこで固まる。眉間に皴を刻んだ狼が、それで僕へと巻き付けた腕を解いて。そのまま硬い床へと、僕は尻もちをついた。痛い。後ろに手をついて、上半身を支え、見上げると。屈んでいたのから一転、立ち上がり。優しさを湛えていた瞳は、冷たさを含んでいて。そして、金の瞳孔がちょっとだけ横へとずれて。床を見つめて、狼の喉が苛立たしげに唸ったのが聞こえた。
僕も同じように、視線の先を。そういえば、親指に触れている何か。感触があって。ちょっと動かすと音が鳴った。それは、尻もちをついたさいにポケットから転がり出た。ガカイドが持っていた番の首飾りだった。置いてくるのを忘れていた、肩を貸すさいにポケットに入れてそのままであった。であれば。ガカイドの臭いを纏い、そしてこの首飾りを持っている僕は。ガルシェにとって、どう映ったのだろうか。
「……チッ、んだよ。アホかよ、俺」
吐き捨てるように言われた。自身の家の扉を開けて、僕にはもう目もくれずそのまま中へと入ろうとする。そのすぐ近くにあった尻尾。その毛先を咄嗟に掴んだ。でも止められず、掴んだ僕ごとひっぱられて。前へと倒れてしまった。ああ、お風呂の時は。彼がその気になれば振り払えたのか。弱点といえど、掴まれた程度で止まらないんだ。本当は。
床へとうつ伏せに倒れた事で、振り返った銀狼。ちょっと頬を土で汚してしまったけれど、そんな事はどうでもよかった。誤解だと、言いたかった。
「また裏通りに行って何してたのかと思ったら。それが目的かよ」
言いたかったけれど。その、あまりに冷たい言い方に。口を噤んでしまった。尾を一度大きく振られる。それで僕の手なんて、簡単に外れてしまって。まるで、彼との絆まで断たれたように感じた。違うんだ。言いつけを守らなかったのはそうで。けれど、ただお礼が言いたかっただけだ。成り行きで、持って帰ってしまったけれど。ガカイドとはそんな関係ではない。
そう言い訳をしたかったのに。彼に振り払われた尻尾の動きが、とてもショックだった。まるで、心を銃で撃たれたかのように。そこからジクジクと、血が流れて、止まらないかのように。僕の顔を見て、少しだけ罪悪感を感じたのだろうか。彼まで、何か苦痛を感じたみたいに。歯を食いしばっていた。でもその顔も玄関の方へと、向けられて。もう一度、尾を掴もうとしたけれど、するりと躱される。虚空を掴む僕の手。
「ガルシェ!」
違う、違う。違う。情けなくも、ただ名前を呼ぶだけしかできなかった。遠ざかる広い背に向って。肘をついた腕が痛い。まだ、足に力が入らない。立てない。背を向けたまま、立ち止まった彼に向って。もう一度叫ぶ。置いて行かれそうで。このまま、扉を閉じられたら。本当に終わってしまいそうで。死ぬのよりも、よっぽどそれが。怖かった。
「……うるせえよ」
肩を震わせ、拳を握り。呟かれた言葉。振り返った時。笑った顔でも、無表情でも、怒りでも。今まで見て来た。ガルシェの作る表情のどれでもなかった。ただ、ただただ悲痛に溜め込んだ何かを堪えた。牙を剥き出しにした狼の。悲しい顔。
「うるせぇよ! どいつも、こいつも、親父だなんだと。お前まで、何も言わず他の奴のところに行くのかよ! 皆、七光りだなんだって、当然だって顔しやがって」
「ガルシェ?」
何を、言っているの。何を吐き出しているの。憎々しげに、狼が誰かを恨む目をさせて。僕を見ているようで、僕を見ていなかった。どこか虚ろで、呼吸が荒い。苦しそうに、自身の胸を押さえた狼の手。僕に詰め寄るようにして、少しふらついていた。
「努力して、認められて。雌を抱いて、子供作って。それが幸せなんだろ! そうしろって言われて、けど普通に頑張ったんじゃ。誰も親父と比べて認めやしない、あの試験の一件でお前がいながらどうしてと言われて。しるかよ! ガカイド一人に、全部押し付けて。俺はのうのうと暮らして、親父が庇ったせいで」
僕に顔を寄せようとして、叫ぶ狼の口が近づいてくるが。またフラついて。すぐそこにある、扉にもたれかかろうとしたのか。肩を強くぶつけていた。片手は胸を押さえ、もう片方の手は頭を抱え。過呼吸のように、息がどんどん乱れて。何かがおかしかった。ただ怒りが、これまでの僕に対する不満が爆発したのとも。ちょっと違っていた。
ガルシェの目が、血走っていた。自身の胸を押さえていた手が、離れて。そして僕へと向かってくる。うつ伏せで、見上げてるだけの僕の肩に触れて。びくりと身体を震わせる。爪が少し食い込んで痛かった。
――お前まで、いなくなるのかよ。
そのまま、扉へともたれかかっていた彼が。僕の方へと倒れ込んで来る。でも肩を掴んでいた狼の手と一緒に、少しだけ横へと逸れて。床へと倒れ込んでしまった。荒い呼吸はそのまま、でも目は瞑り。僕の隣で突然意識を失ったのか倒れたまま起き上がる事もなく、ぴくりともしない。
「……ガルシェ?」
匍匐前進のように、足が言う事を利かないから。這う。革ジャンを羽織った、その背に。乗りあがり。そして、揺する。黒い湿った鼻は、今は別の何かで濡れていて。それは、血だった。彼は鼻血を垂らしていた。それだけで、異常事態だと知らせていた。彼の身に何が。その発端は間違いなく僕であった。彼の何に、火を付けてしまったのか。もしかして、元々身体が悪かったのだろうか。そんな素振り、これまで少しも見せなかったのに。何で。
もう一度、揺する。意識のない身体は、それで大きく揺れるけれど。反応は返ってこない。怒ってもいい。僕を殴る為でもいい、今すぐ目を開けて欲しかった。呼吸が浅い。背に耳を当てた。心臓の音は、する。けれど、いつか聞いた時よりも弱々しく感じた。だから焦りが生じる。所長と対峙していた時は、怖い気持ちを必死で抑えていたけれど。焦ったりはしなかったのに。
もがいた。未だ恐怖に震えている足を、自分から生えているその足を。拳で殴りつける。今、立てないで。何しているの。僕は。全て、僕のせいなのに。それで蹲って、大切な友達を傷つけて。そのままでいるつもりなのか。何もできない、ちっぽけな人間であったけれど。小鹿のようであったけれど、なんどもこけて、階段の手すりにしがみついて。助けを呼ばなければ。僕じゃ、何もできない。彼を助ける事ができない。誰かを、誰を。
そこで。以前手当てしてくれた。ガルシェが先生と呼んだ。一度だけ会ったレプリカントの男性を思い出した。とても大きな、ガルシェよりも。今まで見た誰よりも大柄な虎の姿を。あの人なら。あの人なら、彼を。僕では、無理だから。お願い。助けて。助けてください。
歩けるようになったら、歩幅すら歪に。手を規則正しく振る事すらせず、通りがかりの誰かにぶつかって。また転んで。この街の中心、学校へと。ただ走った。最近、走ってばかりであった。何かから逃げてばかりで、逃げて。そしてこの結果だったけれど。友達が、目の前に。もしかしたら死にそうで。その命を掴むために、友達の死から逃げたかった。
職員の人が慌てて道を譲る。廊下を、駆けて、医務室へ。
ノックもせず、扉を壊しそうな勢いで開けたら。それでも温和に、こちらを出迎えた虎の顔。でも僕の慌てた、ただならぬ雰囲気を見て、その表情を引っ込め、引き締めた。助けてください。ガルシェが、ガルシェが。彼を、助けてください。そう乞う事しかできない僕に、頷いてくれる虎の先生。
銀狼の家へと。虎の先生と一緒に急いで帰って来た僕は。彼を抱えて運ぶ事もできなくて。慌てるだけで、ただ、見ていた。先生が彼を抱えて、自身の頭を扉の縁にぶつけながら。家の中へと入って行くところを。二メートル半はありそうな、この街で目にするレプリカントの中でも一番大柄な体躯をさせた虎の先生。ガルシェが通るのでもギリギリな高さしかない入口は、とても狭いのだろう。その背を追いかけて。
ベッドへと銀狼が寝かされて。簡易的な医療道具をバッグから出しながら、腕を取り。脈を計ったら。小さなペンライトで、瞳を指でこじ開けて。軽く光を当てていた。マズルを掴んで、口内まで開かせると。喉奥まで覗き込んで。そうやって、診察をしている先生の隣で。座って見ている事しかできない僕って。何なのだろうか。彼を怒らして、元凶である僕は。
液体の入った小瓶と注射器を取り出すと、小瓶の中身を針先で吸いだして。そうして、気泡が入っていないか。確認のために少しだけ、注射器を押し、数滴垂らしていた。その鋭い先が、ガルシェの太い腕へと向けられて。針が突き立つと中身を、彼の身体の中へと送り込んでいた。そうすると、ゆっくりとガルシェに変化があって。呼吸が少しだけ落ち着いていた。苦しそうだった表情が、幾分か和らいだ気がする。
ただ、それだけであった。それ以上の処方はせず。道具を片付けだした虎の先生。それをただ見ていた僕は、それだけかと。つい、詰め寄ってしまう。あんなに、苦しそうで。今も意識が戻ってないのに。
「鎮静剤を打ちました。安心してください、すぐにどうこうといったわけではありません。ただ私にできるのは、此処までです。症状の原因は、本人が一番よくわかっている筈ですから。起きたら彼に聞いてよく話し合った方がいいでしょう」
淡々と言われてしまうと。医者の言う事に、これ以上口出しできる筈もなく。安心しろと言っても、実際に急に倒れたのに。そんな。そんな僕の考えなど放置して、それでもただ早々身支度を整えて、帰りますと腰を上げた先生に。ありがとうございますと、そう言うしかできなかった。急に呼びつけといて。ガルシェの方ばかり見ていた僕は。どうしてそうなったかは。本当に何も言ってくれず、彼の口から直接聞けという事なのだろう。最初の印象はどこへやら、笑顔を消した獰猛な虎の顔は。黙ってしまうと怖い。その顔も、外へと出て行って。すぐに見えなくなったが。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。考えても、本当に何もできなかった。ただ、汚れた服を苦労しながら脱がして。上半身だけでも裸にして。ズボンは無理であったから。足首の裾だけ捲ると、そこには小型の拳銃。いつも彼が予備で忍ばしているのを見つけて。本当に扱いが苦手なら、予備で常に持ってはいないだろうに。固定しているベルトを外し、ホルスターごと彼の身体から離す。小さいけれど、手に持ったそれはとても重く感じた。これで、誰かを殺せるのだと思うと。この重さでは、それでもたりない気がして。長い時間こんな物、持っていたくなくて。凶器をそのまま机にゴトリと、置いた。
後は。頬の毛についた汚れ等を、布で拭ってやるぐらいしか。そんな事しか、できなかった。僕だって、顔を汚しているのを。そこで気づいて。僕は、ただ、水で洗い流すだけ済んだから。本当にすぐであったけれど。
起きた時の為に、何か食事でも作るべきだろうか。それとも、コンロでお湯を沸かして。もう少しちゃんと拭いてあげた方がいいだろうか。下手に動かしすぎると、身体に障るだろうか。考えれば考える程、よけいに何もできなくなっていった。僕のせいでこうなったのに。ベッドの傍で、ただ見守るしかできないのかと。ガカイドの時もそうで。そこに居るのに、できる事って、どうしてこんなにも少ないのだろうか。居る意味は、あるのだろうか。
投げ出された手を、ガカイドにしたように。ただ握って。同じ狼のレプリカントなのに、ガルシェの方が一回り手が大きいんだなとか。鍛えた男の無骨な手は、とてもごつごつしているなとか。意識のない彼の、その身に纏う毛皮は。こんな時でも、光を反射して綺麗で。掴んだ手を、僕の額に当てる。ごめんなさい。ガルシェ。ごめんなさいしか言えないのが。
どうして、こうなったのだろうか。優しさ。だったのだろうか。僕の考えなしの行動が、どこまでこうして響いて。僕へと、思いもよらぬ形で跳ね返ってくるのか。どこまでいっても、自己本位で。自分が可愛いだけで。誰かにしたいと言いつつ、ただしてあげて。それで満足感に浸っていなかっただろうか。一時、自分にも役に立てると。僕は、この街に来て。何ができたのだ。
どんどん、自分という存在が。小さくなっていく。いっそ消えてしまいそうで。でも、消えない。居るだけで。居るだけなのに、多大な迷惑をかけてばかりで。この銀狼に、苦労を。かけてばかりで。彼のご飯を作って、掃除して、洗濯して。それで何か彼の日常に入り込んで、手伝えて、支える事ができているのだと錯覚していたのだ。だって、僕が居なくても。彼はこれまでちゃんと生きて来たのだから。必要なんて、なかったのだから。僕は。自分一人、新しい生活に。環境に浮かれていたのだろうか。異種族を怖がりつつも、その新鮮さに。スリルを味わっていただけではないだろうか。自分の名前と、親の顔と、以前居た場所を思い出せない。都合の良い記憶喪失の人間である僕は。本当に、彼との生活の中で。何をしていたのだろうか。自立したいと思っていたけれど。殆ど、この今横たわった銀狼に生活を依存している。約束も守らないで。自分勝手な。本当に、どうしようもない奴だった。こうやって後悔しても。変わらない、情けない奴な気がした。
額に当てた彼の手。そこから伝わる熱を感じながら。ガカイドの時には感じなかった。一番この街で共にした時間が長い、銀狼の力なく横たわる姿に。とても動揺して、何も手がつかなかった。お風呂とトイレ、そして鶏のアーサーがいる部屋いがいに隔てるもののないこのリビング兼寝室兼キッチンを兼用した広間は。何をするにしても、ガルシェの姿が目に入るから。暗くなってきても、食事を作る気も起きないで。少しだけお腹が空いた気がするが食べようとも思わない。今握ってる彼の手を離すのが、嫌であった。
倒れて、先生を呼んで。今は穏やかな寝息をしている彼の寝顔を見つめる。本当に死んでしまうんじゃないかとパニックになってしまったけれど。彼を失うんじゃないかと、そう考えてしまう。良くない想像ばかり逸る。どうして、こんなにも彼を失いたくないと思うのだろう。それは、自分の暮らしが彼に依存しているから。それがなくなるから。だとしたら、僕は心配しているフリをしながら。どれだけ卑しい人間であろうか。そうじゃないと思いたいけれど、事実そうであった。彼がいなければ、路頭に迷うのは。
自分自身を否定していると、それを遮るように。男の呻きが一つ。聞こえた。変化のなかった狼の顔、その瞳が薄っすらと開いてるのに。
「……ルルシャ!」
ぼんやりとしていたその瞳が、慌てたように彷徨って。何かを探していた。その瞳が狼の手を握った、人の手に行きついたら。名を呼ばれた。彼が与えてくれた、名を。それに居るよと、お返しに、彼の名を呼んで。そして握った手をさらにぎゅっと強く握る。僕の力程度では、握りつぶす心配もなかったから。
僕が傍に居る事に安堵したのか。少し持ち上げた頭を再び枕へと預けると、深く息をしていた。どうやら、玄関で起きた出来事。その記憶が少し混濁しているようで、僕に叫んだところまでは覚えているけれど。急に苦しくなって、それで倒れるまでの部分がガルシェから抜け落ちていた。だから、僕はそれから虎の先生を呼んで。身体を診てもらった事。そして、ずっと傍に居た事を伝える。それぐらいしかしてないのに。落ちついて僕の言葉を聞いていた銀狼は、僕のせいでそうなったと言うのに。ただありがとうと、そう呟いていた。
礼なんて、言われる資格もないのに。こんな時でも、彼は優しかった。憔悴した顔をしていたのか、逆に大丈夫かと。聞かれるしまつで。今は、そんな事どうでも良かった。僕の事なんて。だって、倒れたのはガルシェだ。僕じゃない。
「先生が、倒れた原因は本人に聞けって。ガルシェ、心当たり。ある?」
もし、悪い病気だったら。持病を持っていたら。そう思い、軽く問い詰める。聞くまで、この手を放してやらないとばかりに。そうすると、銀狼は眉根を寄せ。少し身体を身じろぎさせて、言葉ではなく仕草で少し嫌がった。聞かれたくない事であったのだろうか。でも、意地でも聞き出すまで離れないと感じたのか。狼の口から、ぽつり、ぽつりと。原因を話してくれる。
「その、気持ち悪がらないで聞いて欲しい」
そう、前置きまでされて。今まで生活を共にして、裸すら見た仲で何を。蜥蜴の瞬膜が、そこで脳裏によぎった。確かに、異種族では身体の構造の違いから。お互いに異質だと感じる部分はあるのであろう。アドトパもそれを気にして、普段は人にそんな自分の種族では当然な仕草を。隠して生活していたのに。もしかして、ガルシェにも何かそういったものがあったのだろうか。狼にも。
「たぶん、過度の発情が原因だと、思う。元のルーツを辿ると、犬科の雄は雌の発情臭を嗅いで、それで発情するんだが。レプリカントの俺達は、雌は種族によって発情する周期はそれぞれだが。特に雄は、それとは関係なく強い性欲に襲われる事がある。繁殖本能が強いのだろうと、思うんだが。性欲が強いのは、前にも言ったな?」
「あ、うん。ただ性交渉は、ある程度制限されてるんだよね。子供を養う余裕がないから、そこも、管理されてるって。覚えてるよ」
「そうだ。昔、それで雌を争って事件が起きて、それからできた掟だ。だから、俺達は自分で、または雄同士で発散するんだが。俺は、そういった事をするのは番とだけしたかったから。基本一人で処理していた」
お互いに真面目な顔して、重苦しい雰囲気で。僕もそうやって顔に出さないように気をつけて。聞いていたけれど。かなりつっこんだ部分。レプリカントの性事情を、さらに詳しく聞く羽目になってしまった。ガルシェが、聞かれたくない理由をなんとなく察してしまった。誰だって、こんな事。他人に話したくは、ないよね。僕も、躊躇する。
それで、今までの目の前に居る。銀狼の体調の変化と、何か前兆はなかったかと。そう考えて。直接的な単語を口にするのは、とても恥ずかしくて。できなくて。
「その、ガルシェも。処理に、して、いたんだよね」
「ああ。三日に一度か、二日に一度ぐらいだが。お前と暮らすようになる前は、それくらいの頻度で」
実際に、言われてしまうと。彼の顔が見れなくなってきた。病気の話、これは病気の話。彼の身体の話で、何もやましい事はない。自分に言い聞かせながら、落ちつきなく。ベッドの傍で座っている僕の足が意味もなく動き。少しだけ、太腿同士を擦り合わす。僕の視界外で、ひくりと。狼の鼻が動いた。
「そうやって、お前がたまに醸し出す発情臭。人間は常に発情期だなんて信じられないが、実際に暮らしてみると身をもって知った。異種族なのに、それに、俺の身体が反応するのが一番。信じられなかった。でも、一人で処理するタイミングもないし。まあいいかと我慢していると、日増しにその衝動が大きくなって。イライラして、今日の一件でひどく頭に血が上って。そしたら、後はルルシャ。お前が知る通り。倒れてた」
「それって……」
朝、彼が夢精しているのを見かけて。それを気を遣い見なかった事にして。前兆が、それだったのだ。ただ、呑気に。本当に性的な欲求も強い種族なのだなとか、そんな事を考えていた。彼も、別にその矛先を僕に向けるような事もなかったから。ただ、それが原因で倒れるまでに至るとは。まさか。
そしてその誘発している元凶が僕の出す、においで。僕が一緒に暮らしだしたから、彼の性生活を乱したせいで。つまりは、結局。全部、僕のせいであったのだ。自分が思っていた形とは、少し。違ってはいたけれど。
「過度な禁欲は。不調を招くとは、一応授業でも教わっていたが。だから、裏通りみたいなところが規制されず野放しになっているし。俺の同僚達も皆、あまり話題には出さないが通っているのはそれとなく。翌日に纏っている誰かの臭いでわかる。俺のこれも、我慢しすぎによる。ストレスホルモンの過剰な分泌、だったか。凶暴性が増したり、毛が抜けたりするし、最悪死に至るらしい」
俯いていた顔を上げると、ガルシェは僕ではなく別の方向を意味もなく見つめていて。彼もまた、目を合わせるのを避けていた。彼の顔は僕と違い被毛で覆われているから、その頬が赤く彩られているかはわからなかったけれど。狼もまた、人に説明しながら恥ずかしがっている気がした。
「ごめんね」
「……お前のせいじゃない」
思わず言った台詞ではあったけれど。ガルシェも、それに対してそう言ってくれた。でもそれは建前で。気を遣って言ったのなんて、馬鹿な僕でもわかった。僕が、彼と暮らさなければ起きなかった事だ。いくらこの街に連れて来たのは彼といっても。僕が住みだして様変わりした部屋の景色。最初はゴミだらけで、脱いだ服はそのままで。そうやって見渡しているとそういえば、また存在を忘れていた。紙袋と、そしてガカイドのネックレスが玄関から入ってすぐのところに転がっているのが目に付いた。それを見て、それよりも前に、僕が纏っているにおいを銀狼が嗅ぎとって怒らせてしまって。僕が何を見つめいているのか、横目に見たガルシェが。それで何を思ったのか。誤解をそのままにしておくのは、いけない事だった。
「あのね。ガルシェ。先ずは言いつけを守らなかったのはごめんなさい。今日、ガカイドのところに行って。昨日道に迷った僕を、助けようとしてくれた事。そのお礼を言いに行っただけなんだ。ただ彼が落とした首飾りを、返すのを忘れていて、僕が受け取ったわけじゃないよ。それだけは、本当」
その続き。信じて、とは言えなかった。あまり今の彼を刺激しない方が良いとは思うのだが。一度、やはり話し合うべきだと思った。原因を作ったのは僕であるのなら、向き合うべきだ。彼と。彼の身体の仕組みと。気持ち悪がらないで欲しいと、そう前置きまでして。本当は説明するのは嫌であったろう、自分の人には打ち明けられない部分を。曝け出してくれた狼と。僕に、何ができるだろうか。
「そうか」
僕の言葉で何か考えているようであった。ベッドから起き上がるのも億劫な狼は、短くそう返事して。横たわった、大きな身体を上から下まで観察する。首から上は狼の顔で、身体の作りはそんなに変わらない。ただ被毛に全身覆われていて、爪が鋭くて。目に見えない部分は、もっと違うのだなと。筋肉が発達した、しっかりと鍛えられ余分な脂肪などなさそうな男性の身体。今は、僕が上半身の服だけ脱がしているから。目に入る毛皮の面積が多くて、胸筋が盛り上がりできた胸の谷間に彼の首飾りが挟まってるのまで見えた。
何かできる事。そう考えて。僕は、彼が寝ているベッドへと膝立ちで乗る。そうやって、彼に近付いて。
「ルルシャ?」
僕の行動に不思議そうにする狼。今から僕がしようとする、その考えをまるでわからないと。そして僕自身も、どうしてそうしようと思ったのか。だって、僕のせいで。そうなったのなら。責任を取らないと、そんな自分自身でも理解ができない。ちょっと違う責任感めいたものが急かす。
人間の手が、彼の股間。そのジーンズの生地へと触れた事で、狼が不思議そうな表情から一転。慌てた様子で上半身を無理やり起き上がらした。そうすると、彼の顔と僕の顔の距離がぐっと近くなる。金色に近い、獣の瞳が困惑に揺れていた。
「我慢、してたんだよね。ずっと、僕のせいで。だったらさ。僕のせいなら、ならさ」
「違う、やめろ。やめるんだルルシャ。俺はお前に、そんな事望んでない、ッ……」
言葉の途中でガルシェがまるで苦痛を感じたみたいに、顔を歪ませ、びくりと身体を跳ねさせた。そうさせたのは、僕の手。彼の股間部を布越しとはいえ握ったからであった。とても大胆な行動であった。自分から他人の恥部を触りにいくなんて。僕ってこんな事できたんだと。やってしまってから、そう思った。ぐっと自分の視界が狭まっていくような感覚。部屋の中なのに、今居るベッドだけしか。この世界にはないみたいに感じてしまう。それだけ、同性の。自分にもついているとはいえ。そんなところを触るなんて。衝撃だった。自分でしておいて。
でも彼が再び止めようと、ベッドに起き上がるために手をついていたのを。こちらへと伸ばして、僕の腕を掴む前に。そうされてしまうと、力の差にどうしようもなくなってしまうから。押し切る必要があった。やってしまった勢いのままに、ジーパンの境目を少し捲り。見えたファスナー、その一番上にある金具を掴み下へと引き下げていく。そうすると、ジジ、ジジジと。僕の抱いている戸惑いと躊躇いと並行するように、勢いよくとはいかないまでも。確実に、開かれていく。彼の手が、僕の腕を掴むよりも早く。できた空間に手を突っ込む。そうして、手のひらと言わず全体に感じる彼の体温と。そして、若干の湿りけ。指先に触れた柔らかな棒状のなにか。まだ興奮していないからか、硬くなっていない。ガルシェの、男性器。それを普段から履いているトランクス越しに感じた。生地の厚いジーンズと違い、薄い布越しとなれば。生々しい感触が一気に増した。それを試しに、トランクスごと掴むと上下に扱く。たまらず目を瞑った狼、彼の腰がそれでさらに震えた。
止めようとした狼の手が、ベッドへと落ち。そしてすかさず送られてくる刺激を耐える為にか、乱暴にシーツを掴んだ。本気で抵抗すれば簡単に僕など跳ねのける事もできるのだろうが、我慢し続けた末の性的欲求が高まった彼の肉体は。それをしようと思っても、本能が阻害しているのか。理性が崩れようとしていた。人間と同じく、知性的に言葉を使うのに。今だけは、狼らしく。耐えるように唸っていた。
「我慢は、よくないよ。倒れるぐらいなんだから、人間の僕にはわからないけれど。とても、辛かったんだよね?」
言いながら。僕が手を上へ、そして下へ。彼の先から根元の方へと少しだけ動かすだけで。刺激として、布越しであったからたぶんとても弱いと思うのに。禁欲を強いたそこは、そんな刺激にすら貪欲に欲していた。暫く、緩やかに手を往復させて。慣れて来たのか、薄く目を開いたガルシェ。色欲に染まりながらも、人の真意を探るような目をしていた。
「取り出すね」
「……見て。後悔、するなよ」
一応ここまでして、確認にと声を掛けると。止める気はなくなったのか。苦し紛れに、そんな忠告をされる。トランクスの隙間から指先を使い、痛くないように気をつけながら。ファスナーの隙間から。押し込められていたガルシェの生殖器を外へと解放する。そうすると、お風呂でなんども見た。毛皮の鞘。その様子は違っていて。直接的な刺激を与えられたそこは、これまで見た時と違い。今までにないぐらい。黒い唇みたいな部分を割り開き、赤い粘膜を露出させていて。包皮が剥かれた、というより。皮を剥がれたと言った方が適している気がした。それぐらい、まるで咥内に存在する舌のように粘液でテカリ。赤だけでなく、紫の血管が透けていて。人間の僕からすると、とてもグロテスクに映った。彼が後悔するなと言ったのを、実際に見て。理解する。それで少しだけ人が怯んだのを、狼は敏感に感じ取ったようであった。忙しなく、耳を震わせている。でもここで僕に、中断するという冷静な判断力はなくなっていて。そして。禁欲を重ねた狼にも、ここまでした人間を止める言葉を持ち合わせていなかった。
窮屈そうだと感じたから、彼の陰嚢も続いて中から取り出す。ファスナーの狭い空間から性器を露出させた男は、だんだんと興奮に息を乱していた。自身のそこを、睨め付けるようであって。人など視界に入っていなかった。手の動き、指先の一つ一つが。獣特有の鋭い視線が追いかけてくる。今、ガルシェの頭の中では何が占めているのだろうか。性欲、だけなのだろうか。普段の彼から想像できない姿に、僕までなんだか変な気分になってきた。これは治療だと、自分に言い聞かせているけれど。罪滅ぼしに似た感情で始めたのに。スンスンと、嗅ぐ仕草をする狼の鼻。僕の今抱いている感情など、あれによって隠す事などできないだろう。露出した彼のペニスが、ぴくりと少し震えた気がした。
まだ多く毛皮で覆われている彼のそこを、遠慮がちに掴む。そうやって、下着の中であった状態と同じように。軽く扱くと。先端にある、小さな穴。尿道口であろうか。そこからぴゅっ、と。透明な液体が飛び出して。身を起こしたガルシェの腹筋へと、飛んだ。
びっくりして手を止めると、それ以上何も起きないから。試しに同じ行動をすると、僕の手が動けば、それだけ先からまた液体を飛ばす。もしかして、もう。でも射精とはどこか違う気がした。続けていると、毛皮の鞘から露出しているペニスがどんどん伸びていく。握っている太さも、勘違いでなければ若干、増しているような。粘膜が空気に触れて、普段彼が隠している雄の臭いが。嗅覚が狼程ではなくても、僕にも感じられて。なんだか頭が少し、くらくらした。汗をかかないからか、体臭はお風呂に入ると人間よりもずっと少ない。なのに、今だけは形容できない生臭さがあった。これが性臭なのだろうか。
垂れてきた放出され続ける液体が、僕の指に。そして毛皮で覆われた鞘に絡まり、次第に乾いた音が水気を帯びる。人間の先走りと違い、粘性はなく。さらりとしていた。でも、出る量はとっても多い。本当に、これで射精していないのだろうか。一度、手を離すと彼の体液で僕の手はびちょびちょになっていて。そして、狼のペニスは。どうして刺激を止めたのかと、不満を訴えるようにびくりびくりとまるで別の生き物のように震えていた。その時点で、最初見た時よりも大きくなっていると確かに感じて。勃起、してる。僕が与えた刺激で。
「犬科の射精は三段階あるんだ。これは最初に分泌する、尿道と入れた雌の中を洗うための液だ」
僕がよほど不思議そうな顔をしていたのか。どこか、ぼんやりとした表情をさせたガルシェは。吹っ切れたのか、今まさに自分に起きている身体の反応を教えてくれていた。洗うという単語がやけに、頭の中に残った。自身の体液で、それをすると思うと。とても卑猥に聞こえて。知らず知らずの内に、僕の股間も熱を持っているのを自覚した。やっぱりこれは射精じゃなかったのか。刺激しなければ、彼のペニスは萎えず震えているだけで。確かに液体の放出を中断していた。そうやって観察していると、鞘で隠れた部分にも変化があって。まだ露出していない部分。そこが僅かに丸く膨らんでいた。まるで、中にボールでも押し込まれているみたいに。あれは、なんだろうか。
無言でまた彼のペニスを握ると。ガルシェは何も言わなかった。抵抗するのを諦めた狼は、人にされるがままであった。最初、僕がこんな事をするのには。拒んでいたのに。それとも、与えられる久しぶりの快楽の方を優先したのだろうか。まだ、勃起したというのにふにふにと。そのグロテスクと感じる肉棒は、柔らかく。でも、中に芯があるのかちょっと硬い。人のそれとは、感触がまるで違う。人外の生殖器だった。だから、まだ隠している彼の本性を暴いてみたくなった。この鞘の中に包まれている部分を。だから、ゆっくりと包皮を剥くように根元へと引き下げていく。痛くないのか、彼の顔色を窺いながらであったけれど。
そうすると、その膨らんだ。丸いから一番太い部分でつっかえたけれど。根元は急激に元の太さに戻ったのか、ずるりと簡単に最後まで剥けてしまって。姿を現した、彼の全体像に息を呑む。
先っぽは、人間みたいに亀頭のない。円錐状で。ただ尖っていた。そこから円筒状になだらかに続いていて、根元付近で急激に膨らんで。まるでコブのような形をしていた。普段は先っぽだけしか、見た事のなかった。その全てを。今僕は目にしていて。そして、露出された、彼の唯一蒸れた部分は。むわりと、股間から性臭を醸し出していた。視界に捉えられない、煙が顔に立ち上って来るように感じて。とても、雄臭い。そして獣臭い。微量のアンモニア臭までしたから、そういえば今日はまだ彼はお風呂に入っていなくて。僕と違い毎日入ってもいないのだから、熟成されたガルシェという雄の臭いがそこの、一点に集中していた。動物と同じで汗をかかない彼の、唯一蒸れる部分。鞘で包まれたペニスは。そこから漂う臭いでまるで、先んじて鼻腔を犯されるているように感じてしまって。いつの間にか溢れた唾液を、慌てて嚥下する。臭くて、嫌悪するべきものである筈なのに。身体は生殖を誘発するものと捉えたのか、僕の考えと反応はまるで違っていた。
彼の先走りで濡れた僕の手は、擦る事に何も不自由しなくて。この液体は、こうして摩擦を軽減させて円滑な交尾をするのを手助けする為にもあるのだと感じた。筒状にした僕の手を、雌の膣と勘違いしたペニスは。しっかりと準備しようと、しているのだ。また擦っていると、やはり彼のそこは大きさを増していて。体格相応に、どんどん太く、長くなっていく。手に感じる、芯にある硬い感触とは別に。血液が充満して、張り詰めていくみたいに。
「すごい、どんどん大きくなってる」
「ハッ、クッ。犬科は、挿入して初めて勃起するんだ。まだまだ、デカく、なるぞ」
僕のとても素直な感想に。声を途切れさせながら。ガルシェが無視すればいいのに律義にまた教えてくれた。まだ、完全に勃起していないんだ。これで。先走りを飛ばし、自身のお腹と股間を汚しながら。本当にどんどん体積を増していく。熱い、血液を充填する海綿体。手で触れている僕には、人間よりも高い体温を、粘膜越しに直接感じて。まるで焼けた鉄の棒でも握っているように感じた。実際に火傷もしないし、温度としてもそこまでではないにしても。そう錯覚させた。興奮に判断力の乏しい思考では。
何よりも、僕の小さな手で。こんなにも、自分よりも大柄な男性が。息を乱し、快感を感じて肩を震わせているのが。なんだか、ちょっとだけ可愛くて、いやらしい彼の姿に。それを自分が作り出していると思うと。よけいに、昂った。上昇する身体の熱に、廃熱が追いつかないのか。ガルシェは本当の犬みたいに、口の中からまろびでた舌をぶらぶらと垂らし。口の端から涎を零し。ハッ、ハッと短く息をしていた。そうやって、刺激し続けていると。完全に勃起したのか。先走りをその切っ先から飛ばす事をやめた狼のペニスは、僕の手の中に納まる事は叶わず。というより、親指と人差し指がつかないぐらい太くなって。本当に、これが同じ。男性の生殖器なのかと疑わしくなるぐらい。大きく成長していた。相手の奥深くに、自身の遺伝子を届ける為とはいえ。目測でニ十センチは優に超えてしまっている。二メートルぐらいある身長の、筋肉で逞しい身体をさせた成人男性の持つ生殖器なのだから。体格相応であり、当たり前なのかもしれなかったが。圧倒されてしまう。雄という括りにおいて、その格の違い、であろうか。自身は曝け出していない、ズボンの中で突っ張って痛みを訴えるそこが。これを見てしまうと矮小で恥ずかしく感じてしまった。
そして、それに負けず劣らない。勃起していない彼のそこに対して大きすぎると感じていた。垂れ下がり細かい毛に覆われた陰嚢は。今では、ちょうど釣り合いが取れたのか。どちらを見ても見劣りしなかった。今はファスナーの狭い隙間から出ているからか、窮屈そうに垂れ下がって揺れる余地がなく。根元に寄り添って丸く張りがある二つのボール状になっているが。
圧巻であった。雄の象徴とも言える。本来の姿をした。生殖をする為に力を漲らせた、彼の分身に。それで手が止まってしまって。今にも破裂してしまい、大量の血液で惨劇を演出しそうなのに。そんな心配をよそに、ただ硬く張り詰め。びくん、びくんと。震え、今か今かと射精する事を期待する姿に。とても、臓物みたいに変わり果てた姿に。怖気づいてしまった。本当に、これが性器とは今でも信じられなかった。身体の作りの違いが。こんなにも、凄い。なによりも存在感を主張する、根元の瘤。腫れているわけじゃなく、元々がそうなのであろう。見た目では痛そうに感じるぐらい腫れているみたいなのに。小指が少し触れた時、一番敏感なのかガルシェは腰を震わせて。もっとと、自分から押し付けて来た。
止まってしまった人の手の動きに対して、緩く。ベッドに座りながら腰を揺らす銀狼。動き辛いのか、その前後運動はとても小さなものであったけれど。手のひらの中を行き来する雄の感触を直に感じているのだから。見なくてもわかった。そして、今までずっとシーツを握りしめていた彼の手が。持ち上がり、僕の手首を掴む。興奮からか、加減を忘れた力強さで。
勃起した狼の生殖器を見ていた僕の耳元に、それの持ち主がいつの間にかマズルを近づけていて。
「もっと、ここまできて止めないでくれ。ルルシャ、もっと、もっと触ってくれっ」
切羽詰まった、貪欲に情欲を湛えた男の低い声が。耳元でして、僕の背筋をぞくりと何かが駆け抜けた。どこまでも、みっともないおねだりに。凛々しい狼の、これまでと違う一面に。本来これは、番の雌に向けられるべきそれであろうに。人間である僕に、狼の雄が乞うていた。最初、僕にこんな事望んでないと言った同じ口で。全く真逆の事を言っていた。欲に濡れた、ギラギラとした獣の瞳が。僕の手に注がれている。この手が、気持ちよくしてくれると。覚えた狼は、獲物を見つけたみたいに。掴んだ手首を放そうとしなかった。もし、今僕がこの時点で断れば。襲われそうな気配を感じた。それぐらい、その瞳は強欲で。怖かった。僕が、始めたのに。ガルシェを、久しぶりに怖いと感じた。自分よりも体格のいい雄に。幸い、すぐに手を動かさなくても。欲に染まりながらでも辛抱強く彼は待ってくれたから。そうはならなかったけれど。
僕は見つけてしまった。僕にできる。僕なんかにでもできうる。逆に、一緒に暮らしているからこそ。他の雄とはしたがらない彼への。僕だからこそできる。こうして実際に触れて、嫌悪感を表していないのだから。たぶん、大丈夫だと確信した。彼への奉仕を。
――どうせ、ガルシェの気まぐれで飼われているお前が。いずれここに来る事になるのは、お前だってわかってるだろ。
ガカイドの言葉が。脳裏で響く。彼の言い方はちょっとあれだけれど、でもそれはひどく的を得ているとも実際わかっていた。いつ崩れてもおかしくないこの日常、今日だって。ガルシェが倒れる前、正気じゃなかった銀狼が放った言葉。その片鱗があったと感じたのだから。勃起した彼のペニスには僕の片手では、刺激が足りなくなったと判断して。こんどは両手で。僕が動こうとすると、手首を掴んだ狼の手は邪魔しないように離れてくれて。そうやって、両手で。彼の熱いそこを包み込む。彼の番だけが見る筈だった、そんなどこまでもえっちな姿を今人間の僕が知って。後ろめたいと同時に、背徳的な優越感が芽生える。これは、治療の為の性処理であったけれど。口でも、男同士では肛門性交をするとしても。やっているのは手だけで。でもそんな上手とはいえない、僕の手淫で乱れている。雄の狼が。本来は弱点である、生殖器を。他人に握らせてまで。その快楽を貪っていると考えると。高揚感を抱かずにはいられず。
片手はしっかりと陰茎を握り。もう片方は尖った先を包むように重ね、そしてこねまわした。尖っているといっても、相手を傷つけない為か思ったよりは柔らかい先っぽを。形を変えるみたいにぐにぐにと手のひらで弄ぶ。
「あっ、グゥ、ウルル……」
喉仏を晒しながら、男らしく低い声で呻いて。でもそこに、狼の顔をしているのだから。声質に隠しきれない獣性が混じる。涎を一筋胸元に垂らしていた。被さった手のひら目掛け、狼が腰を振ると。ぐちぐちと先を押し付けてくる。僕の手を膣に、そして雌を孕ませる為に。子宮口にでも錯覚しているのか。その先は執念深く、突いて、突いて、突いてくる。熱く滾った雄が手の中で上下して、腰を振る度に。ベッドのスプリングが軋む。僕が手を最初は動かしていたのに、それでも刺激が足りなかったのか。今ではオナホ代わりに人間の手を、レプリカントの成人男性が腰を振り使っていて。一緒にベッドに座っている僕まで、揺れる。彼とセックスしてるわけではないのに。ただ稚拙に、手でしているだけなのに。僕の手の中にある熱い感触は、まるで僕を犯しているようで。激しさを増していく、抜き差しに、雄の自己中心的な生殖の動き。その力強さに。そう錯覚してしまいそうになる。僕も生物学上は男であるのに、別に彼も僕の中へ種付けを願ってるわけではない。目を瞑ったその先、想像した誰か。その相手に、気持ちをぶつけているにすぎない。でも、実際に触れているのは僕であったから。生殖器から感じる血液の脈動。それと同じか、それよりも、もっと。僕の鼓動も速く。弾き飛ばされないように、固定した手に。ペニスを打ち付けてくる。一心不乱に、それに没頭するガルシェ。そうしていると、筒状にした僕の手に。根元にある、一回り太くなった瘤がなんども衝突してくる。まるで、そこへ押し込みたいかのように。
動きが、急いていた。そして、空気中に混じる。濃密な雄のフェロモン。どうやら絶頂が近いのか。余裕がなく、尻尾がなんども布団を叩いていて。もう少しなんだ。もう少しでこの目の前の雄の狼は射精するんだ。シーツの上で握りこぶしを作って。ならばと。もう少し彼の雄を握る力を強くする。締め付けて、射精に至ろうとする雄を文字通り手助けした。そうすると、歯を食いしばったガルシェが。僕の手に向って、今までで一番の突きをおみまいする。前かがみになった顔が、僕のすぐ傍にあって。鼻先が首筋へと埋もれた。普段は湿って、当たるとひんやりと冷たいのに。興奮に高まった彼の体温は、その濡れた鼻も熱くて。そうして、僕の手の中にどちゅんと勢いよく潜り込んで来た根元の瘤。毛を逆立てて、大きく唸る雄の狼は。ぶるぶると震えながら、握った手とは違う。先へと覆いかぶさって、先っぽがぐにゃりと潰れるぐらい押し付けたまま。まだ一回り膨張して。
「グルッ、イクッ! イクぞ、ルルシャ!」
怒鳴りつけるように、切羽詰まった雄が。生殖器を握った人へ対してそう叫んで。そして、弾けた。
手のひらに感じる水圧。先っぽから今まさに噴き出ているのが。彼の精液なのだと。身を震わせながら唸り、そして掴んでいたシーツを自身の爪で引き裂きながら。甘い、雄としての最大限の快感を噛み締め、耐えているのだと。その姿から感じられた。たぶん、手で覆っていなければ高く飛んでいたであろう。そんな勢いを手のひらに感じる。びゅー、びゅー、って大きくペニスを跳ねさせながら。吐き出しているのだから。でもそこで、違和感を感じて。覆った方ではない、根元の。瘤を握っている僕の手に。反発する手応え。グググとどんどん大きくなっている。最初射精の度に膨らませているのかと感じていたが、そこ単体でまだ大きくなっていた。筒状にしていた手が、割り開かれていく。内側から。膨らむ瘤のせいで。なに、これ。なんだこれ。何が起きているの。彼の身体に、何が起きているの。
「う、あっ、ルル、シャぁ……」
僕が驚愕に固まっているのをよそに、薄く目を開いた狼は。気持ちよさそうに、僕の名を呼びながら身体を震わせ射精を続けていた。噛み締めた歯の隙間から、吐息が漏れ出て。僕の鎖骨付近をその息が撫でる。そういえば、もう一分は過ぎていると思うのに。彼の射精は止まらない。手の感触から、どうやら彼の精液も人間のようにどろどろしていないのか。お湯で濡れた感触に近かった。僕の手に納まらない液体は、行き場をなくし彼の下腹部をしとどに濡らしていく。そうやって、暫くとても長い射精が続いた後。深く息を吐き出した銀狼が、前屈みとなっていた姿勢を少し戻す。手に感じる圧が弱まったから、射精が終わったのかなと。それで僕も彼の雄から手を離そうとして。膨らんでしまった瘤を握っている方側だけ、離すなとばかりに手首を掴まれる。だから自由な先っぽを押さえてた方の手を、手の甲ではなく裏返して手のひらを見えるようにすると。想像していたのとは違い。まるで牛乳みたいな、白濁していない液体が纏わりついていた。べとべとに、そしてそこからとても、饐えたにおい。とても生臭い。生き物の臭い。これ、この真っ白いの全部。ガルシェの、精子。
それを吐きだしたペニスへと視線を動かすと、射精が終わったと思ったのに。未だに、勢いは衰えたけれど。最初と同じような、透明なのをまた放出していた。そういえば、瘤を掴んだままの。彼が手首を離してくれないから、そのままであった方から感じる。ペニスの硬さは、萎えるどころか、まだまだと滾っていて。今出しているのが三段階目なのだろうか。
毛を逆立てていたのを、少しだけ元に戻しながら。ガルシェが少し落ち着きを取り戻していた。射精自体は続いているようであったけれど、安定した、と言えるのか。少しだけ理性の戻った瞳をさせていた。
「その、凄い、出たね」
「犬科は、これが……普通だ」
出たと言っても、まだまだ続いているし。彼はこれが当然だと、そういう顔をしていたから。事実、犬や狼の顔をしたレプリカントは、皆一緒なのであろう。短い毛で覆われている彼の陰嚢は、濡れてぺったりと毛が纏わりついているし。ジーンズに至っては、太腿まで液体が浸透し色合いを濃く変えていた。そして、依然と漂う生臭さに少し顔を顰めてしまう。全て、彼の体内にあったものだ。僕の両手を汚すのも、全部。
「ガルシェ、この、瘤なに? なんで、手、離してくれないの」
僕が瘤を掴んだ状態で、それを維持する為にか、さらにその人の手首を掴んだ狼の手。がっちりと固定されてしまって、手首から感じる圧迫に少し血液が遮られ。痛い。理性が少し戻ったといえど、まだ彼の様子から性的欲求は満足しておらず。続きを欲していると感じた。でも、手を動かすでもなく。ただこの状態を維持するのを、望んでいるようであった。
「本来は、雌の中で膨らませて。抜けなくするんだ。射精が終わるまでまだ、手を離さないでくれ、無性にせつなくなる」
瘤を握った僕の手に対して、擦り付けるみたいに狼の腰が動くから。まるで彼のペニスが人の手に甘えるみたいに。そんな仕草とそれを発する狼の言葉に。なんとも言えない、ムズムズする感情が揺れ動く。でも、ガルシェが手首を掴んだ力加減を忘れたそれは、耐えられるものではなく。僕が絶対に手を離さないと、なんども言い約束すると。渋々と、その大きな手が離れて解放された。少し、手の痕がついてしまった。狼の肉球の形を、はっきりと残して。
びくびくと震え、透明な液体を絶えず吐き出し続ける彼のそこは。言った通り、射精が終わるまで握りこんだ瘤も萎えず。ずっと続くみたいで。生殖の違いを、相手を孕ませる為に進化してきた生き物の違いを、実感した。抜けなくするって言っていたけれど、こんなにも膨らんだものを入れられた相手は。痛くないのだろうか。関係ないのだろうか、そんな事。人間との目的の違いだろうか。
僕が手で擦ってる時よりも、そして彼が白い液体を吐き出した。それよりもずっと。ずっと長い時間。瘤が膨らんだまま、一度に出す量はそれほど多くはなかったけれど。透明な液体を吐きだし続けるのだった、いつまでも。三段階目の射精は、一番長く続いた。枕元にある、時計が指し示す時刻。数え始めてから三十分を過ぎても、まだ、続いて。そのせいでいつまで経っても供給が途絶えないから。手が乾く事がなくて。
不意にガルシェが、上半身を前屈みへと動かす。そうすると、また僕の首筋へと狼のマズルが近づいて。体臭を勝手に嗅がれて、唸られた。
「ガカイドの臭いがする……」
射精中で蕩けた雄の頭では、別の雄の臭いは酷く不快に感じるのか。嫌悪感を露わに、鼻筋に大きく皴を刻んで。口を開け、覗く鋭い牙に一瞬身体が強張る。まさか、咬みつかれるのかと。一瞬考えてしまって。でもその心配は杞憂に終わる。それよりも、ある意味でもっと悪い状況になって。一度、伸びて来た狼の舌が僕の鎖骨の上を這った。ぬるりと、生暖かい感触に。思わずその場所が鳥肌を立てる。服の襟ぐりから覗くそこは舐め辛いのか、服が邪魔をして舐める舌に繊維が引っ掛かり。舌を収納すると口をもごもごとさせていた。そして、ガカイドに肩を貸したのだから服にも当然。僕には感じ取る事のできない。彼が言うにおいが、付着していた。僕は約束した手前、手を離せないのだけど、当の銀狼はそうではなく。比較的に自由な両腕が、僕の服を掴んで。そしてそのまま破きそうな勢いで、上へと脱がしにかかった。
視界を布で一瞬遮られて、そして、彼のそこから手が離せないから。その腕にだけぶら下がる中途半端な脱げ方をして。完全に脱がすには一度手を離すしかないのだが、それにガルシェはちょっと迷ったらしい。だけれど、一瞬でも、そんな短い時間でも今瘤の触れられている感触を失いたくないのか。完全には切り離す事のできない布に、威嚇とばかりに唸り。また、首筋を舐める事にしたようであった。
これには僕もたまらない。彼と同じく上半身裸になったけれど、彼と違い皮膚を守る被毛はないのだから。そこを遠慮なく狼の舌が、唾液を塗り付けて。においを上書きしていく。もっと強いマーキングの仕方が。まさかこれなのかと。ガルシェもさすがに躊躇した理由であった。確かに、恋人でもない相手に。誰彼構わず、このような事。本当の動物が毛繕いするみたいに。舌で直接。擽ったいような、慣れてくると、狼のぬるついた。大きくて長い舌が這う感触が。気持ちいいと、一瞬考えてしまって。愛撫のようだと、そう考えて。
舐めながら、すぐ傍にある鼻がまた嗅ぐ仕草をしていた。
「……また、エロい事考えてるだろ。可愛いな、ルルシャは」
舐めながら人間の醸し出すにおい情報を読み取り。クツクツと器用に笑う、狼の顔。だって、彼のペニスを掴んで。狼の精液濡れにされて。そして、こうしていやらしく舐められて。そう考えない方がどうかしている。彼はにおいの上書き以上の意味はないのであろうが、僕にはこれからさらにその先を進めようと、前戯をされてるみたいに感じてしまうのだから。だから頬に羞恥で熱く感じるのも。ぞくぞくと背筋を駆け抜けるのが、快感だとも。擽ったいのに身を捩るだけで、逃げないのも。全部しかたないと、そう言うしかなくて。
でも、放尿した後に自然と身体が生理反応に。ぶるりと一度身体を震わせるみたいに。銀狼が、そうしたから。それで舐めるのを中断して。自身の股間を覗き込んでいた。掴んでいる僕の手の中の、彼のペニスにも変化が感じられて。あんなに硬く張り詰めていた瘤が、少しだけ柔らかくなりだした。それでも僕にとって大きいままで。尖った先からも、いつの間にか透明な液体が出なくなっていて。ペニスの状態がこの行動の終わりを告げていた。だから、彼は何も言わなかったが。恐る恐る、瘤から僕の細い指先が離れていく。顔色を窺っても、特に咎められないから、自身の胸元まで引き寄せて。惨状に。うわぁ、とそんな感想。本当に彼の体液で満遍なく汚されて。雄の臭いを纏う僕の手は、ガルシェのペニスの臭いが滲みこんでしまっていた。濃密な、雄の性臭がだ。
それをした肉棒は、役目を終えたからか。毛皮の鞘へと、自動的に中へと既に半分程隠れてしまっていて。でもまだ萎み切っていないから、毛皮越しでも瘤の輪郭がまだぽっこりと浮き出ていた。
「ガルシェ、えーと」
汚れた自身の手をどうしたものかと、彷徨わせながら。そして視線までそうして。一応、治療は終了したとして。確認にと。満足、したんだよね。した、よね?
「その、気持ちよかった?」
「聞くな……」
冷静さが戻って来たのか、とても疲れた様子で。僕のあまりで直球な質問に対して、狼が項垂れていた。それはそうだろう、過度に発情していたとはいえ。他人の手を使い、絶頂までしたのだから。男として、恥ずかしく感じるのか。目を合わせてくれない。でも我慢し続けて、こうなったのだから。僕と一緒に暮らして、こう、なったのだから。
満足してくれたなら、手伝った甲斐もあるのだけれど。
「雌の発情臭を嗅いだ時みたいに、そしてお前にされて、本格的に今ので発情期に入ったから。暫くは続くと、思う」
良かったと、一人もう終わったと安堵していると。難しい顔をした銀狼から、そんな爆弾発言が飛び出て来て。ちょっとだけベッドの上で後ずさると、誰のせいだとばかりに睨まれてしまった。燻ぶっていた熱が、本格的に火がついたようで。けれど、本当の発情期とはまた違うとも。だから数日だけ、我慢せず発散すれば。その内治まって、普段通りの生活に戻れるとも。ガルシェは言っていた。不用意に手を出してしまって、かえって焚きつけてしまったのであろうか。けれど、そのまま放置していると。また何かのきっかけで倒れてしまって。いつかはしなきゃいけない事であった。僕が実際に手伝わなきゃいけないかは兎も角。少し僕だけ外で待っていたり、彼がお風呂場でしたらそれで済んだのではないのであろうかと。今更そんな事を思いついて。後の祭りであった。僕の手と、彼の下半身の惨状が、取り返しのつかない事だと物語っていて。
とりあえず、このままではいけないと。ガルシェをお風呂に誘おうと思って。でも、狼の頭がなぜか僕へと突撃を仕掛けて来て。それと同時に、彼の上半身が乗りかかって来て。とても、重くて。大柄な大男にそうされて、小柄な僕が支えられる筈もなく。ベッドへと押し倒されてしまう。後ろへと倒れ、スプリングで銀狼と一緒に軽く跳ねて。彼の濡れた下半身が、そのまま僕の太腿辺りを濡らす。じわじわと侵食する液体。精子が混ざったそれに。ちょっと不快感を抱いた。
「ガルシェ重――」
「眠い」
僕に覆いかぶさった狼は、どうやら性欲を満たしたら。こんどは睡眠欲を欲しているようで。眠そうに瞼をしばたたかせていた。抱き込むみたいに、下敷きにした人を狼の腕が捕らえて。ちょっと、苦しい。そして、咽かえるような臭いをさせながらまさかこのまま眠る気かと。男の身体の下で暴れるも、抜け出す事も叶わず。唯一自由な手で、軽く頭を叩いても。起きようとしない。それに、ジーンズの開きっぱなしのファスナーからは。萎えたとはいえ彼の男性器が露出したままで、なんならそれが僕の太腿に当たっているのが感触でわかる。身じろぎすれば、僕の服に染みこんで来た液体のせいで。とても生々しい感触。実際に手で触れた部位で今更と思うけれど。正常位みたいな体勢で、ガルシェに捕らわれているのだから。それが嫌であった。性的嫌悪ではないが、そのまま眠るのは気分的に気持ち悪い。おねしょしたみたいに、下半身が生暖かいのだから。余計に。夢精した時に、下着だけでなくズボンも洗っている理由をいまさら知った。これだけ出すのだから、そりゃそうなるよなと。ベッドのシーツも取り換えなければいけない。洗濯物が増えていく。
梃子でも動きそうにない、狼の頭に。今にも寝てしまいそうなその顔に。決心した事を言わなきゃと。
「これからは、我慢しないでね。僕も、協力するから。隠し事はしないでちゃんと言って欲しい、僕も、ちゃんと言うから。倒れられた時。本当に、何かの病気じゃないかって。怖かった……」
返事はなかったけれど、重しとなったガルシェはゆらりと尻尾を揺らし。三角形の耳がしっかりとこちらへと向いていた。薄目にした眼が、抱きしめた人を見つめていて。彼が治るまで、付き合うつもりでそう言ったのだった。協力といっても、できれば彼一人だけの時間を作ったりとか。そういったものの意味合いでもあったけれど。本当に、怖かった。彼が死んじゃうんじゃないかと、癌とか、そんなものではなかったけれど。でも、人間にはない病気でもあって。その原因を担った僕は。
彼に気に入られる必要があった。奉仕する必要が。見限られたら、だめで。そんな醜い気持ちも、確かにあった。僕の中には。行くところがないのだから。だから、差し出せるのが身一つしかないのなら。手だけで、いいのなら。とも考えた。洗濯物がいくら増えても、構わなかった。
その汚した元凶は、僕が言い終えるともう夢の中へと旅立ったのか。寝息を立てていたけれど。最初押し倒された時に、まさか犯されるのではと。そんな考えもあったから。狼の下で、溜息をついた。一応性処理は終わったのだと。そうすると、僕も彼に釣られてか。睡魔が押し寄せて来て。今日もまた、怒涛の勢いで日常が流れていったから。肉体も精神も疲弊していた。
また首の皮一枚で、この日常が守られたと思うと。良かったと思えた。少なからず心を許している、僕を抱きしめて眠る狼に対して。何か返せたらと、常々そう思っていたから。こんな形で、はあったけれど。
ああ、下半身が気持ち悪い。不快だ。手も、そのままだし。しれっと彼の背中や脇腹にある毛皮に擦りつけて。拭く。寝ているから怒られる事もないであろう。元々彼が出した物であるのだし。明日起きたらすぐお風呂に入ろう。そうしよう。抜け出せないのを諦めて。僕も、睡魔へと身を委ねた。それにしても、重い。
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