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二章
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昨日の一件があり、思っていたより疲れていたのか。珍しくガルシェと同時に起床してしまった。狭い台所。そこにある一枚の鏡に向かって二人並んで歯を磨く。前歯を磨き終わるとそのまま右奥歯へと歯ブラシを向かわせると、隣でガルシェも動きがシンクロしていて。同じ方向、左斜め下を見るようにしていた。
左手に持った、水の入ったコップ、それを口に含んで。ゆすぐ。流し台へ吐き出すタイミングまで一緒で、頭をぶつけないようにお互い気をつけてはいたけれど。なんだか可笑しい。水を吐き出して顔を上げると、同じ事を思っていたのか。何とも言えない狼の表情、瞼の開き具合が眠気がまだ残っているのを伝えていた。
そうやって、身支度を整えながら。朝食は残念ながら調理してる暇はないので、久しぶりに缶詰のお世話になる。アーサーがどことなく、使わないのかと。自身が産んだ卵が冷蔵庫へとしまわれるのを悲しげに見ていた気がした。彼女は自身の部屋へと、とぼとぼとした足取りで戻っていく後ろ姿は罪悪感を誘った。ごめんね、今日の夜か、明日纏めてなら贅沢に二個使うから。
卵の代わりに、ラベルのない缶を取り出したガルシェ。湿った高性能鼻センサーを頼りに。選ばれた一つを手渡されて、蓋を開けると。白い果肉が入っていて、とても甘い匂いが鼻腔を刺激した。どうやら桃の缶詰であったようだ。朝からちょっと、甘ったるい気がしたが開けてしまったのだから。そのままありがたく頂く。目の前ではどうやらミートボールだったのか、上機嫌に尾を振りながら食べている狼の姿があって。あちらは別の意味で重い朝食であったが、本人が気にしていないのであれば、いいのか。目線を外し、一つ。桃をフォークで刺して、口へと運ぶ。ううん、美味しい。美味しいけれど。やっぱり甘い。
いつもは僕よりも早めに家を出るガルシェ、その姿を毎回見送るようにしていたのに。今日はそのまま一緒になって家の戸締りをして。朝日が顔を出したばかりの、まだまだ人が起き出していない時間帯。そんな道を、二人して歩く。昨日の夜とは違って、人がいないから。誰も気にせず並んで歩けるのは良いなと、隣の仏頂面の狼を見上げて。僕がどうして、共に家を出て、大通りでいつもは別れるのに。それはせず、ゲートへ向かうのかを理解しているから。どうやらその理由に良い顔をしていないようであった。僕としては今日の朝にしかないのだから、どうしても外せない用事であって。多少なりとも彼が不機嫌になろうとも強行する腹積もりであるのだが。
そうやって、隣にミートボールを食していた時の上機嫌な姿は何処へやら。両手をズボンに突っ込み、少し前かがみに歩く姿は何処からどう見てもヤンキーで。ただでさえ目つきの悪い三白眼が、さらに悪くっていた。ゲートに近付くにつれ、早朝でも人が多いから。それなりに人通りも増えて来て。道行く人がガルシェに声を掛けようとして、その表情を見てそっと道を開けていた。関係ない人まで威嚇しないで欲しい。隣に歩いてる僕が何か恥ずかしいではないか。その不機嫌な理由を作ったのが僕なのは、棚に上げて。
ゲートの受付付近まで来ると、入って来る集団とは別。この街から出ようとする集団の列に、僕が珍しくこちらへと訪れる理由となった人達の姿を発見して。ガルシェはガルシェで、自分の今日の仕事の確認もあるのだからと。僕の傍を離れたがらなかったけれど、大丈夫だからと言い。警備隊なども控えている、控室の方へとその背を押す。渋々、背というより腰を押している僕に無言の抗議とばかりに尻尾がばふばふ顔に当たっていたけれど。列に並ぶ好奇の目線が注がれている事に気づいたのか、それで僕から離れて行った。
途中なんどか振り返る狼に、手を振りながら控室に消えるのを見送って。やっとガルシェの姿が見えなくなったところで、溜息を吐く。昨日の今日であるのだから、心配する気持ちはわからなくはない。心配を掛けた張本人であるのだけれど。なんか過保護力がレベルアップしてる気がする。過保護力ってなんだ。
僕一人になっても、多少なりとも視線を感じる。この街でただ一人の人間なのだから、それは当然で。そんなのに晒されるのにもある意味、慣れた。ようは気にしなければいいのだ、気にしなければ。表の連中は特に何もしてこないのだし。そしてその好奇な視線を投げかけてくる集団、列を成すレプリカントの人達へと僕自ら近づいていく。正しくは、その中に居る。蜥蜴の集団にだ。
後ろ姿しか見えないアドトパは護衛の人と何か話しているようで。主との話しに夢中かと思われた、その護衛の人が先に僕の存在に気づく。視線が合うと、片目に傷のある、一番大きい蜥蜴の兵隊長さんだった。それを機に、煙草を吹かしたり。武器を意味もなくなんどもチェックしたりしていた、他の蜥蜴の隊員さん達もこちらに気づいて。姿勢を正していた。そして最後に、アドトパがこちらに振り向く。
「おはようございます」
そう、なるべく元気よく挨拶する。そうすると、隊長とアドトパ以外の全員が。それは見事な敬礼を一秒のズレもなく僕へとして、声を揃えてとても大きな声でおはようございます。と返されたから、圧倒され少したじろいでしまった。せっかく元気よく挨拶したのに。他に並んでいた毛皮のある別のレプリカントの人達が、うるさそうに耳を失礼にならない程度にそれとなく手で塞いでいる。早朝だから、ちょっと迷惑そう。僕のせい、じゃないと思う。というより、なんだろうこの反応。全員がキラキラとした目で見てくるから。居心地が悪い。
「奥様だ」
「奥様が来たぞ」
「男なのに奥様っておかしくないか?」
「いいんだよ、若が娶るならなんでも」
「やっぱり若と一緒に行くつもりなんだ」
「おい、誰か携帯食持ってないか。もてなせ」
「くそ、ない。おやつの乾燥イナゴならあるぞ」
「ばか、人間が食うかよ」
それぞれが小声で話しているけれど、しっかり僕に聞こえてしまっていた。ああ、うん。この兵隊さん達も、きっと良い人なんだな。それだけはわかる。喋ってる内容はわからないけれど。というより、わかりたくないのだけれど。早々帰りたくなった。また、隊長さんが顔を手で覆っていた。なんだか本当に、気苦労が酷そうだ。大丈夫かな。馬鹿共が、とかそんな事を呟いてるのが聞こえる。そんな集団から、自信たっぷりの男が一歩前へと出てくる。自身の容姿に気を遣いそしてそれを誇示するかの如く、堂々としていて。そして旅装束には似つかわしくない、ただオシャレの為だけに着ているコートをはためかせて。アルマジロトカゲが。
「おはよう、ルルシャ。部下がごめんね。まさか見送りに来てくれるとは思わなかった。嬉しいよ。それとも、部下達の期待通り。私と一緒に?」
「おはようございます、アドトパさん。いや、ううん。大丈夫。というより、とても慕われているんですね。あと、ただ見送りに来ただけだから、その。ごめんなさい」
アドトパは僕が言った事に対して、そっか、と言って。部下達と違い、そう期待していなかったのか簡単に引き下がる。もう少し、押してくると思ったから。そこだけ意外であった。お店で僕を口説いているそんな姿ばかり見ていたから。余計に。僕と主人の会話を少し離れたところで、隊員さん達全員が顔を寄せてこちらを見ていた。全員逞しい男なのに、そんなに密着して暑苦しくないのかな。蜥蜴だから体温はそんなに高くなく、ひんやりしているのだろうか。
「昨日は、お礼も言えず、すみません。助かりました」
「いやいや、私は何もしていないよ。どちらかと言うと、部下が頑張ってくれたからね。お礼なら彼らに」
一歩、アドトパが身を引き。手で護衛の人達へと促される。一度も話した事はないから、どう言おうか迷って。とりあえず、頭を下げた。そうやって、頭を上げた頃には。全員がニコニコとして、尻尾を垂直に真っすぐ立てて、先だけ手を振るみたいに振っていた。暑苦しい集団から少し離れた、隊長さんも。傷ありの強面な顔に、控えめながらも笑顔を作って。笑顔だよね、あれ。
「それにしても、急ですね。何かあったんですか?」
「ああ、最近機械達が大人しくなって。行商ルートがそれなりに安全だったから油断していたんだけれど、他の街で襲撃があったそうでね。救援物資と、ついでに稼ぎにいこうかなと。戦にはなにかと入用だからね。それと、私の部下は拠点防衛にも役に立つから」
そういえば、街の人々の噂話を聞いてると。それとなく外の情報を聞く事は少なからずあって。ただ、街の中で暮らしているだけの僕には。関係ないと意識の外へと追いやっていた。あまり、気にしてなかったけれど。常に、機械達に脅かされて、戦いながら生きているのだと。久しぶりに平和ボケした頭を働かせる。アドトパは行商人を家業にしているみたいだけれど、そうか。護衛業も生業にしているのか。確かに、路地裏で見せた一糸乱れぬ隊員達の動きは。素人目線であっても、目を見張るものがあった。連携して戦えば、彼らはとても強いのだろうな。
それにしても、フットワークが軽いのだな。話を聞いて、即決断したのだろうか。昨日お店に尋ねて来た時は、そんな素振り欠片も見せなかったのに。その決断力が、成功への秘訣なのだろうか。
「もう少し、ルルシャとは。仲を深めたかったのに、残念だな」
コートが汚れる事も厭わず、土埃に汚れた石床に膝を付けたアドトパ。見上げていた僕の顔の角度が、少し戻って。目線を合わせてくれたのだな。そう思っていると、手を取られて。そのまま僕の手が蜥蜴の頬へと導かれて。頬擦りされる。角ばった、鱗をさせた蜥蜴の頬は。ちょっと硬かったけれど、顎下の細かい部分は思ったより柔らかく。それは服の隙間から見える、首筋からにかけて胸元へと続いていて。たぶん、内側は比較的柔らかいのだな。助けられた恩義があるから、つい断りもなく触られたのに何も言わずそのままにしていると。本当に愛おしそうに頬擦りされてしまって。反応に困ってしまう。
やっぱり、こうして好意を一方的にぶつけられるのには。慣れなかった。後方で話を聞いていた隊員さん達は、僕が来ないとわかったのか。大袈裟に男泣きする人までいて。それをとても冷めた目で隊長さんが眺めていた。さすがに、周囲の関係ない毛皮があるレプリカントの人達は。迷惑そうな顔を隠すのをやめていた。ちょっと、うるさいな。この人達。良い人だけれど。
「お気持ちは、嬉しく思います。けれど、やっぱり、一緒には行けません」
初めて、彼にちゃんと気持ちを伝えた。はぐらかさずに。僕には、この街に留まる理由があって。ガルシェの断りもなく。そして、僕も彼に返せていない。借金返済とまではいかないまでも、色々借りがあるのだから。全てなかった事にして、良くしてくれるからと別の人に面の皮厚く、着いて行く事などできようはずがなかった。居候させてもらってるだけ、ありがたいのだ。それに、彼との生活が。何気に、楽しいと感じている自分がいるのもまた、事実であった。私生活はだらしない男ではあったけれど。とても。いや、すごく。
頬擦りをやめた、イケメンの蜥蜴は。そこでちょっとだけ苦笑いをしかけて、すぐに微笑まれてしまった。作り笑顔が得意な、商人の顔で。
「ハハ、フラれちゃったか……一応、信じてもらえないかもしれないけれど。本気だったんだけどな」
「ごめんなさい」
この人は嘘は吐かない気がした。ちょっと飄々として、軟派なところが本当かどうか怪しいと最初のころは思ったけれど。結構芯はしっかりしているのだと感じたから。でなければ、いくら口説いている相手が路地裏へと入ったからといって。護衛が追いついてくるのも待たず、一人先に駆けだして。僕を追いはすまい。もう少し、もうちょっとだけ早く。彼とちゃんと話しをするべきであった。正直、うざい客だなとか。思わずに。ちゃんと、そうしたら。友達として、もっと。もっと仲良くできたかもしれなかったのに。こうして、お別れする間際に思うのだから。遅いな、本当に。僕の人を見る目はなかった。
困った顔をしている僕に、不意に。蜥蜴の顔が接近して、彼の部下にも聞こえない声量で。そうしたら僕の耳元でだけ、そっと囁かれる。
「このまま私が一声、彼らに命令すれば。無理やり連れて行って。夜通し、私の味をその身体に教える事もできるのだけど?」
しゅるりと、背後に彼の太い尾が回り込む。握られたままの手の甲を、もう一つの彼の手が、意味深に撫でて。耳元で、蜥蜴特有の細長い舌がわざとらしく出し入れされた。
少し前の僕なら、嫌悪感に身もだえたり。小さく悲鳴を上げたかもしれなかった。けれど、今は違う。僕の中で彼という人物の認識が変わっているのだから。脅しとも取れたけれど、至って僕は平然と。とても落ち着いていた。撫でる手を跳ねのけるでもなく、すぐ傍にある、縦に裂けた瞳が。こちらを狙ってるみたいに。見つめてくるのに、見つめ返す。そして、口元を綻ばせて。
「アドトパさんは、そんな事。しないって、信じてます」
僕が言い終えると、背後の尻尾が僕の腰に纏わりつこうとしてピタリと固まる。目の前にある瞼は動かず。スッと、縦長の瞳孔がさらに細くなって。そうして、白い膜のようなものが。瞼は縦に開閉するのに、それとは別に横に一度閉じられて。あれが瞬膜だろうか、初めて見た。
背後で固い物を叩く音。なんでそんな音がしているのか、気になって。振り向くと床をアドトパの尾が激しく叩いていた。顔を戻すと、空を見上げ、目元を手で覆う。蜥蜴の姿。
「あー。そう言われてしまうと、したくてもできないじゃないか……」
――君は、ズルいな。手で顔を隠すのをやめた蜥蜴は。若と呼ばれるだけあって、商人としての顔でも、キザったらしい顔でも。ただの若い男の、苦虫でも嚙み潰したかのように。それを隠しもせず。歳相応の、雰囲気を纏っていた。ここに来て、初めて。彼の本当の素顔を見た気がした。
「そうやって、いったい何人の雄を誑かしたのかな?」
「いや、いない、筈です」
交友関係は広くない。言っては何だが、物珍しがられるだけで。本当に話しかけてくる人自体が稀で。別にアドトパ以外、言い寄られた経験もないし。そう考えて、例の赤茶色の狼の顔が浮かんで。あれは、僕で遊んでるだけだと。すぐに消す。うん、やっぱり、いない。
僕を本気で口説くなんて、貴方ぐらいですよ。アドトパ。目の前の蜥蜴は納得のいっていない顔をして。
「それと、ごめんね。同族以外だと気持ち悪がられるから普段はあまり、瞬膜でまばたきしないようにしているのだけれど。びっくりしちゃったから」
瞬膜で、あってた。と、言われても。僕の記憶の中では二足歩行して、喋る蜥蜴自体が存在しないのだから。今更、横にもう一つ動く瞼があるぐらいでそこまで。人間驚きが重なると、些細な部分はあまり気にしなくなるものだ。僕が未来にタイムスリップしたのか、地球とよく似た別の世界、パラレルワールドにでも来たのか。本当にただ、記憶をなくしているのか。ここでの生活を続ける内に、自分自身で確信が持てなくて。ガルシェ以外には、あまり身の上を話してはいないのだから。目の前で片膝をついたまま、僕を見つめる蜥蜴の男もまた。ただ、レプリカントが暮らす街で珍しく人間が暮らしている程度にしか思っていないだろう。そういった意味でいえば。この街でお互い、好奇の目で見られるのだから、似た物同士ともとれた。
毛皮を持たない、少数派。彼らになくて、僕らにはあって。そんな部分に気味悪がられたり、物珍しがられたり。そして僕は、彼が持っている。瞬膜も、鱗も、太い尻尾も。ないのだ。肉体的に、とてもか弱い生物であった。似た者同士のようで、違うのだ。彼は、それでもレプリカントなのだから。そして、僕は人なのだ。決定的に、その部分で違っていた。
だから、気持ち悪いと思う筈がなかった。ただ、そういうものなのだと。全部ひっくるめて受け止めていた。そう思わせてくれた、銀狼が先ず居てくれたのだが。
「別に、気持ち悪いとかは思わないです。どちらかと言うと、レプリカントの人からすると。僕は。毛皮も鱗もないのだから、肌が露出していて、逆に奇妙でしょう?」
自身の身体を見渡して、そうやって苦笑いしてみる。彼らからすると、普段は素肌が隠れているのだから。服をちゃんと着ているとしても、顔や、手。首筋。そういった部分はどうしてもさらけ出されていて。もし、僕がレプリカントだったら。生まれた時からそうなら。自分の身体では毛皮で覆われているのに、相手がなかったとしたら。きっと、不思議に。無防備に素肌を晒していて痛くないのかなとか、寒くないのかなとか。そういった事を考えるだろうか。
僕の言い分に、アドトパはお淑やかに。自身の顎に緩く握った拳、人差し指部分を当ててくすくすと静かに笑う。可笑しな事を言っただろうか。彼からすると、そうなのだな。僕の、人間としての、見解は。そうしたら、何か。堪えるように感情をその瞳に湛えて。そして。最後に、別れを惜しむのなら。せめて一つ、お願いを聞いてくれないかと。そう言われた。
どちらかというと、そう言うアドトパの声の感じからして。彼の方が余計、先程よりも惜しむように。普段の言動から、別れのキスとか。そういった類の事をお願いされるのではないかと、少し勘ぐってしまう。もしそうなら、即答でお断り申し上げるのだけれど。
でも、蜥蜴の横に裂けた口から紡がれたのは。全く別の、とてもささやかな。そんな事で良いのかと思えるような。そんなもので。
「他人行儀にさん付けじゃなく、私も。アドトパと、そう呼んでください」
ちょっと、照れくさいのか。首を傾けた蜥蜴は。ただ、本当にそんなささやかな願いを告げて。心の中では、正直既に呼び捨てしていたのだけれど。そうか、これも。ある意味で彼にとっては僕の作った壁と感じていたのだな。それならと、僕がその願いを聞き届けるのに。迷う事はなかった。
「さようなら、アドトパ。どうかお元気で」
「ルルシャも。もし、またこの街に立ち寄った時に、その首元が空いていれば。私のネックレスを今度こそ渡しに来るね」
自身の首元にある、番の証たるレプリカントの雄達が皆持つ。首飾り。それを触りながら、言われて。その時に、僕がまだこの街に滞在してる保障はないのだけれど。それは口には出さなかった。そして、それに対して。はいとも、いいえとも、返さず。本来それは、雌の蜥蜴に渡すべきもので。男である僕なんかに。ましてや、異種族の人間なんかに。渡して良いものではないのに。
この人も、懲りないな。元々男色の人を口説けば、もっと楽だろうに。男同士、性欲処理が普通なら。それなりに、いるのであろう。貴方がそうですかと、聞いて回る気はないが。
だから、正直。少し油断をしていて。これで終わりと。だから、再び蜥蜴の顔が近づいて来た時。また、耳元で何か言われるのかなと思った。後ろの護衛の人達が、見守っているのだし。ここは人の目も多くて。目指してるのは僕の顔のすぐ隣、それは正解であった。ただ、途中で耳ではなく。頬へと。蜥蜴の口先が逸れたのが予想外で。やんわりと、押し当てられた。僕はただ、情緒もなく目を見開き、反対に目を瞑った彼の顔を見ているだけしかできなくて。
キス。されていた。僕の頬に。イケメン蜥蜴が。片膝をつき、僕の手を取り、そして頬に口付けるその姿は。はたから見たら、きっと王子様がお姫様にそうするみたいで。だからきっと、護衛の人達が。皆、手で口を覆いながら。黄色い声援を出しているのだろう。すぐに、部隊長さんが豪快に纏めて。巨漢を活かして体当たりし、吹き飛ばしていたけれど。
映画のワンシーンのように、映像美に富んだものであったのなら。とても素敵であっただろう。画面端に花でも演出効果として、舞っていたかもしれない。ただ、そのヒロイン役が。平凡な男であったのだから。観客からは大ブーイングを貰いそうだ。
蜥蜴のスベスベした唇であったから、別にリップ音も鳴る事もなく。ゆっくりと離れていく。薄く瞳を開けた、アドトパは。少しだけせつなそうにしながら。自分が、キスした人の肌をしばし見つめて。僕が、何をするんだと言う前に。颯爽と立ち上がるとコートを翻して。背を向けてしまった。いちいち動き一つ一つが少し芝居がかっているな。商人だからお客さん相手に、そういうパフォーマンスが癖になっているのだろうか。そうして、少しだけ振り返った。片方だけこちらに見える方側の瞳で。お茶目にウインクして。今だけ、それぐらい許してねと。そう告げて。ちょうど彼らの順番が来たのか。隊長に若と、そう急かされるところへと。駆けていく姿を、ただ茫然と見送る事しかできなかった。最後の最後まで、キザだな。あの蜥蜴。
先程まで蜥蜴の口が触れていた部分を、手で触る。別にそこに何かが残ってるわけでもなかった。唾液も。毛皮を持つ者みたいに、そう簡単に毛が抜けるわけでもないから鱗も。やっぱり体温はそれ程高くないのか、温もりも。ちょっと弾力のある。表面が鱗だからサラサラとした、一番近いのはゴムでも、押し当てられた感じであった。それだけであったのに。触れていた箇所が、じわじわと熱を持つ気がして。だから、手で隠したのだった。頬を染めたわけじゃないと。でもちょっとだけ、運動したわけでもないのに。熱いな。熱い。
背後から、足音が迫る。なんとなく、誰かわかってしまって。ちょっとだけ、落ちつくまで振り返るのはよした。だって、今振り返ると。なんでそうなってるのか、聞かれそうであったから。説明が、めんどくさい。なんだか、青春的な別れ方をした気がするけれど。男同士なんだよな。僕が女の子であれば、こうも悩まなくていいのだろうか。よく、わからないな。地盤を固める事に躍起になってるのだから。恋とか、そこまでしてる余裕はない気もした。
頬を触るのをやめて。鏡はないけれど、自身の顔の熱が。少しマシになった頃。それで漸く、後ろを振り返って。目に入る、ジーパンと白いTシャツ。そして、黒い革製のジャンパー。そこからちょっと、上へと。顔の角度を変えると。僕を見下ろしている、銀色の毛を纏った。狼の顔。開かれたゲートから吹き込んで来る風で、少し毛並みを揺らしていた。
「礼は言えたのか」
「うん、ちゃんと言えた」
ガルシェも、これから街を出て。外へと仕事へと出かけるのだ。愛用の銃を肩に掛け、背にはリュックサックを。そうやって話していると、なぜか。狼の顔がどんどん険しくなる。特に何もしていないのに。すまし顔をしていた筈なのに。そうやって、前かがみになって。顔を近づけてくると。くんくんと、鼻を鳴らしていた。そこは、先程アドトパがキスした頬で。
目を細めて、無言で圧がかかる。本当に、隠し事ができないな。彼には。必要のない事まで、そう隠す気はないが。僕だって、彼の知られたくないプライベートな部分を一緒に暮らしているのだからいろいろ見聞きしてしまっているのだし。そこはある意味で、おあいこ、なのだろうか。
「……程々にしておけ」
ただ、それだけを言って。姿勢を戻すガルシェ。何の事、そう振舞うのも彼を怒らせるだけな気がして。とりあえず、ここは素直に頷いておいた。本当に、僕から特にそういう誘惑は仕掛けていないのだけれど。風評被害だ。言いがかりだ。全部あの蜥蜴が悪い。今すぐ戻って来て謝って欲しい。僕のせいじゃない。
「それじゃ行ってくる」
「うん、気をつけてね」
遠くで、今日一緒に仕事する人だろうか。似たような装備のレプリカントの人達がガルシェに向って手を振っていた。僕から離れていく銀狼。そうして、僕とは別の。同じ獣の頭をした、人達がその銀狼を出迎えて。ここからでは会話の内容は聞こえなくて。遠目からでも、仲が良さそうで。一人は、ガルシェの首に腕を掛けようとして。軽くあしらわれていた。あれが、普通なんだよな。レプリカントは、レプリカント同士。僕と違って、友達が多いのかな。最初にこの街へ来た時、ガルシェはそんなに人口が多いわけではないから。皆知り合いみたいなものだと言っていた。それだけではない気がする。彼の人柄も関係していて。一緒に暮らしてるからわかる。彼は、とてもめんどくさがりで、不愛想で。目つきが悪くて、でもそれを補うぐらい、不器用な優しさを持っていた。笑うと、子供っぽいけれど。それが怖い顔を途端に、緩和するのだから。遠くで、彼を囲む集団を眺めながら。羨ましいなと、そう思った。
僕は、どうして人間なんだろう。彼らと同じレプリカントであれば。獣の顔をして、毛皮があれば、同じ輪に。彼の隣に、なんの負い目もなく、並べたのになと。そう思った。
彼との暮らしが、楽しいと感じると同時に。余計に、異種族であるという部分を僕が意識してしまっていた。人間である事に。
でもそんな集団の中に、やっぱりそんな銀狼の事を険しい目線で見る人がいて。どうして、彼にそんなふうに見るのか。やがて、その集団も。出発すると土煙を上げながらそう時間はかからずに見えなくなってしまって。
ゲートに、ただ独り。人間だけが意味もなく佇んでいるだけとなった。
いけない。自分の仕事に遅刻する。僕はそう頭を切り替えて、来た道を少し速足で戻る。少なくとも、僕の居場所は。ここだ。ガルシェの、隣ではなく。後ろだ。それを再確認したのだった。
もっと、頑張らないと。……頑張らないと。
レジの前に立って、ただ接客する日々。だいぶ慣れたのだけれど、今日はちょっと違っていて。僕に唯一話しかけてくれていた、蜥蜴は来なくて。とても、暇だった。暇といっても、隣では店長であるサモエドのおばちゃんと食事中のお客さんとが楽しそうに談笑しているのだから。静か、というわけではなかったが。
来るわけもない、だって僕はちゃんと。彼が旅立つのを見送ったのだから。ゲートより先は手続きをしないと、出れないから。街の出入りする人はしっかりと管理しているのか、散歩程度の気軽さでは出られない。どこに、何をしに、しっかりと明確に言わなければ。だから、この街に始めて来て。それからもう、気づけば数週間になるのに。一度もあの荒野を遠目で見るばかりで、鉄の壁で囲まれたこの街を出た事がなかった。特段、別にさして用事もないし。それで不満はないのだが。出たとしても、一面荒野で。見てもつまらないだろう。それに、僕一人が出て行ったからといって。野生動物や機械に襲われないとも限らない。外は危険だ。
レジのすぐ傍の席。いつの間にか蜥蜴の男専用の席になっていたそこは、今は誰も座ろうとしない。わざわざ僕の近くに座って食事をしようなんて、レプリカントの人なんていない。本当に、変な人だったな。いなくなってから、少しだけ寂しいと感じるなんて。思わなかった。いたらいたで、ウザいなと。そんな事思ってしまうのに。勝手に触れて来るし、隙あらば口説いてくるし。二度と会えないわけではないけれど。いつ会えるかもわからない。そんな人。
「元気ないわね、ルルシャちゃん」
不意に話しかけられて、肩を跳ねさせる。暇だからと、考え事しながら。ぼーっとテーブルに頬杖ついていたのだから。声がした方に顔を向けると。犬科の顔が人の良さそうな、微笑みを湛えていて。丸っこく、毛の量が多い、サモエドの顔がそうしているのだから。年上の人ではあるが、愛嬌があって可愛いと思った。
「そう、見えますか」
「ええ。失恋した時の娘みたい」
そんなふうに、見えたのか。それはない。恋愛感情はこれっぽっちも、万に一つも。あの蜥蜴の男にはなかったのだから。それを言うと、泣いちゃいそうだな。アドトパ。
ただ、もう来ないのだなと思うと。ただ、寂しいなと。本当にそれだけであった。それだけの筈で。もしも、彼の手を取ったら。あの賑やかな蜥蜴の護衛の人達に囲まれて。とても賑やかな環境で、いろんなまだ知らない景色を見て。そして夜には、キザな台詞をたくさん並べながら。アドトパに愛を囁かれながら、同じ寝床で眠る日々を送っていたのだろうか。手などに触れていた、彼の鱗と鋭い爪がある人外の手が。僕の腰や、太腿に這わされて。ないな。うん、ない。
寒気とか、そういったものは感じなかったけれど。昼間の賑やかさはなんやかんや、嫌いではないかもしれないけれど。夜の事を考えると、途端に違和感を感じて。自分が、男の人と、そういう事をするってなると。よくわからない。嫌悪感はないから、状況に流されてしまうと、危うそうだが。同じ人間ではなく、動物とのスキンシップの延長線になるから。気持ち悪いと思わないのだろうか。舐められたり、甘噛みされたり。でも、いざそういう場面に。生殖器をこちらに向けられた時。僕がその時、どういった反応をして。相手を傷つけやしないか。それが気がかりだった。そんな場面で、相手を気遣う余裕すらないと思うし。嫌悪に、顔が歪んで。相手を失望させてしまう気がした。
そこまで考えて、ガルシェのが唐突に頭の中に浮かんで。あの、毛皮の鞘に普段は包まれているのに。お風呂場で、少しだけ見えてしまったから。赤く、舌とは違う粘膜。状況が状況であったし、ただ何も見てないフリをしたけれど。どうして、彼が少しだけ興奮を露わにしていたのか。
一緒にお風呂に入る仲だから、振り子のように揺れている大きな金玉は見慣れてしまって。それを見慣れてる自分が、嫌だな。ただ、それでも、今まで一度も。彼のペニス。その本体、先っぽだけではあったが。見た事はなくて。仕事場で何を考えているのだろうか。知らず知らずの内に、体温が上がり、頬を染めてしまっていた。いやらしい想像をしている自分が嫌で、急いでそんな考え散らす。
話の途中で、急に僕が顔を赤くしたからか。それを見て、くすりと笑われてしまう。これでは、本当に失恋して、それを指摘された人みたいではないか。違う、断固として違う。
「娘さん、いたんですね」
だから、露骨ではあったが。話題を逸らした。娘さんという事は、旦那さんがいたのだな。今、違うと強く否定しても。それで納得されず、はいはいと流されそうな気がしたし。あの男とは、本当に別に何もなかったのだし。求婚はされていたけれど、それも他に人の目もあるここで。店長もそれを見ていて。毎日。やってくれたなアドトパ。急いで戻って来て謝れ。お前が残した埋めかけた外堀のせいで、僕が今困っているのだぞ。
「そうね、いたわ。私にはもったいないぐらい、良い子だった」
店長の、昔を懐かしむような。そんな言い方。そこに引っ掛かりを覚えた。まるで過去形のようで。常にニコニコしている彼女にしては、いつになく、少し沈んだ表情で。それで、察しの悪い僕でも。嫌な予感がしてしまって。
「いたって、もしかして……」
「そうね、死んじゃったの。卒業試験中の事故で」
ふくよかな身体、そして無駄に主張しているエプロンを押し上げる胸。そこの谷間に隠れていた、ネックレスを取り出して、大事そうに動物の牙の部分を撫でていた。ああ、そこに。だからわからなかったのか。話題を逸らした先。それに後悔していた。まさか、亡くなっているなどと。とても、悪い事をしてしまった。僕を見て、何気なく呟いた店長の言葉を。強引に拾って、自分の話題にされたくない事から逃げた。罰だろうか。僕が、つられて悲しそうな顔をすれば。娘の事を口に出したのは私だから、気にしないでと言ってくれたのだけれど。調理に戻ったサモエドの手は、包丁を握り。トントントン、そうリズムよくまな板の上で野菜を刻んでいた。
事故で。そういえば、卒業試験中の事故。その単語をつい最近、とても身近に聞いた気がした。浮かんだ、銀狼ではない。狼の顔。彼の事を思い出して。
――ガカイド。
ドンッ。途端に、まな板で大きな音を店長がさせる。止まってしまった、包丁の動き。そうして、野菜を見ていたのに。僕へと振り返った、無表情なサモエドの顔。とても、小さな声で。彼の名を呼んだのに。収音性の高い獣の耳はそれを拾ってしまったのか。
感情のない、機械のような。今まで一度も見せた事ない、表情をさせていた。女性といえど、レプリカントの平均身長は高いから。横にも大きい、彼女の身体は。それによって与える威圧感にも一役買っていて、その矛先は僕へと。それで、少し怯えを見せたからか。ハっとするように、無表情だった顔に、驚きが差し込んで。まるで、自分自身のとった反応に、驚いているようであった。取り繕うように、ごめんなさい、なんでもないわ。そう言い、野菜を刻むのを再開したサモエドのおばちゃん。刻まれるリズムは、元通りだったけれど。僕は。その背を、暫く目が離せなくて。
こんなところにも、残された傷を見つけてしまった。こんなすぐ傍の人にまで。外傷はなさそうなのに、未だ癒えぬ、簡単に癒えてしまってはいけない。そんな傷跡が。そこにあってしまった。
気にしすぎ、と言われてしまうと。そうなのかもしれない。ただ、僕が今日の仕事は終わりと。言い渡されるまで、ずっと心の内に抱えていたからか。店長であるサモエドのおばちゃんにも、気を遣わせてしまった。
「これ、良ければ使って」
帰り際、差し出された紙切れ。破れにくいように、厚めに作られた厚紙。昔使われていた、紙幣ぐらいのサイズ。真ん中に何かのマークが印刷されていて、まるでライブのチケットみたいだと感じた。渡されたはいいものの、これを、どうすればいいかまるでわからない。帰ってガルシェに聞けばいいだろうか。いや、渡されたのだから店長に聞けばいいだろうに。でも僕が質問する前に、察しの良いサモエドは。僕が受け取ったチケットらしきものを指差して。
「ちょっと歩いたところにある、配給所でそれを見せたら。食料品を少し貰えるわ。良ければガルシェと美味しいものでも食べて。あの子、ルルシャちゃんを私に預けてから一度も顔を見せにこないじゃない? しっかり者の貴方がついているから、ちゃんと食べてるとは思うけれど……」
僕は、ちゃんと毎日お給料を貰っていて。それとは別に、物価が高いというのに。こんな貴重品らしき配給チケットを、貰うなど。そうやって、既に僕の手に握られている厚紙を。店長に返そうとしても。受け取ってくれなくて。いいのいいのと、おばちゃん特有の押しの強さをここで発揮される。実際、ガルシェの事を気にしている素振りをしているけれど。絶対僕に気を遣っているのは明白で。僕が勝手に気に病んでいるだけなのに。なにも知らなかったとは言え、ガカイドに。君のせいじゃないと。そう言ってしまったのだから。こんな身近に、良くしてもらっている人が、関係してるなど。思ってもみなかったのだ。もし、僕が彼にそう言ったと。娘さんを試験の事故で失った店長が知れば。怒り、この店を追い出されるだろうか。
客観的に見たら、彼のせいではないと。今でも思える。思えるけれど、それは部外者である僕の考えで。当事者達はそんな事、知った事かと。言えてしまえるだろう。なにも知らない癖にと、そう店長に言われたら。僕はただ、謝るしかないのに。無責任な発言だったろうか。でも、あの時は。僕は彼に、そう言いたかったのだ。たとえ部外者だとしても。
そんな、事をしたと知らない店長の。その気遣いが、優しさが、辛い。これを受け取る資格、僕になんて、ないのに。
「いいのよ。夫と私の稼ぎで、飢えないですんでるから。逆に余って困ってたの、良ければ使って。貴方が働き始めてから、料理に集中できて私も助かってるし。そのお礼と、これからも頑張ってねって意味もあるの。ルルシャちゃん」
そこまで言われてしまうと、断る方が失礼になってしまう。大人特有の、言いくるめにまんまとはまってしまった。世渡りが上手ければ、ここで僕がのらりくらりと躱す術があったのだろうか。だから、少しでも。なにかできないかと。今日貰った給料である、木製のお金。それを、サモエドの手のひらに差し出して。串肉を注文する。調理風景を見てから、僕は買う事をしなかったし。ガルシェもここへ来ていないのだから。食卓には並んでいない。
優しい笑顔で、頷いたら。テキパキと目の前で焼いて、袋に包んでくれる店長。食欲を誘う、肉が焼けるにおいがそこからしていて。手に持つと、じんわりと焼きたてだから熱が伝わって来る。ありがとうございますと。チケットと、そして焼いてくれた肉にと。お礼を言って。お疲れ様でしたと。お店を後にする。
ついでに、そのまま配給所へと。足を向ける。一応方角は聞いていたので、看板でもあるかなと探しながら歩いていると。チケットに印刷されたマークと全く同じ旗が風に靡いていて。そこに、野外テントと大きめのテーブル。そして受付らしきレプリカントの人が椅子に座っていて。背後には蓋が開いた木箱が並んでいた。そして、数人の列ができていて。ちょっと離れた場所で様子を窺っていると、僕が持っているチケットを受付の人に渡して。交換に品物が詰められた袋が渡されていた。
どうやら、あそこで間違いないみたい。確信を得て、近づいていくと。交換を済ませ帰路へとつく、大事そうに袋を抱えたレプリカントの少年が居た。取られやしないかと、周囲を警戒するその顔は、どこか見覚えがあって。そして、服は最低限で。何となく、目で追っていると。暗い路地へとその姿が消えていった。あっちは、裏道へと、学校の裏側へ向かう方角で。だから、その顔を何処で見たか。思い出したのだった。
道に座り込んで、自分の身体を売っていた。あの、少年だ。僕とそう年齢が変わらなさそうな。もしかしたら、年下かもしれないそんな子が。どうやって、この僕も持っているチケットを彼が手に入れたのかは。推測するまでもなかった。この、そう大きいともいえない街で。少しだけ住む環境が違えば、こうも違うのだな。本当に、僕は幸運な部類なのであろうな。あの銀狼に保護されて。彼の伝手で、こうして働けているのだから。
考え事しながら、そう人数の多くない列に並んでいれば。僕の順番なんて、すぐに来たのだった。彼らの高さに合わせられた机は、ちょっとだけ人間の僕にとっては大きくて。精一杯背伸びしながら、受付の人らしき。黒豹の顔をしたレプリカントの人に。手渡す。チケットに不正がないか、見て、そして嗅いで。確認した後、細めた鋭い視線で睨まれて。人間である僕が、持って来た事に何かしら思う事があるのか。それでも、仕事は仕事と割り切ってくれたのか。特に何も言われなかった。
「……確認した。少し、待て」
ぶっきら棒に、言われて。席を立つと、そのままテントの奥にある木箱へと黒豹の人が向かっていく。しなやかだと印象を与える肉付きをしているけれど、鍛えているのか。軍服っぽい服装は、とてもタイトだ。長い猫科の尻尾が歩く度に揺れて、ひき締まったお尻のラインが見え隠れしていた。
黒豹が戻って来た時には。手には僕が渡したチケットではなく、既に纏められていたのか。いろいろな物が詰められた袋を持っていて。机の上に袋を置くと、中の物を出しながら。一つ一つ丁寧に説明される。業務として、人間の僕相手でもとても真面目な人なのだな。
「三日分の干し肉。浄化済みの水と、乾パン。今回は少量の香辛料と酒一瓶がおまけだ」
思ったより、豪勢なラインナップだった。もっと、保存食だけ配ってるのかと。そんな先入観があったから。趣向品まで扱ってるのかと。もしかして、仕事に対する褒美的なチケットなのだろうか。僕にはもったいないのを貰った気がする。お酒に関しては、ガルシェが喜びそうだった。
中身を見せてくれた黒豹は、丁寧な手付きで。元通りに袋へと詰め直して。そうして僕へと、手渡しで渡してくれた。ムスっとしてるし、なんか威圧感を感じるけれど。怒っているのだろうか。厳つい顔の人が多い気がするな、レプリカントの男の人で。そうして戦闘を生業にする人は。
「ありがとうございます」
黒豹の手に、触れないように。ちょっと気を遣いながら。袋を受け取り、そうしてはっきりと、お礼を言う。お仕事ご苦労様ですと、人間である僕にちゃんと業務をこなしてくれて。そんな意味で放った言葉であった。だから、渡した体勢のまま硬直して。黒い毛皮だからか、横に伸びた白い髭が面白いぐらいぴくぴく動いてるのが目立っていて。背後には、垂れ下がっていたのに持ち上がった長い尻尾。何だろうか。別にそれで返事があったわけではない。僕が首を傾げながら、後ろの順番待ちしている人が待ちくたびれてはいけないと。横へとズレると、黒豹の人も直ぐに元の調子に。変わらぬ無表情をそのままに。受付の仕事を再開していた。
荷物が増えてしまったから。どうしようと思ったが。配給品の袋にまだスペースがあったから、そこにお店で買った串肉の入った袋をそのまま入れてみる。うん、これなら持ち運びしやすいだろうか。そう大きくはないけれど、水と酒が入ったボトルがあるから。それなりに腕にずっしりとくる重さであった。あまり寄り道してると、腕が疲れそうだ。
そうやって、帰ろうとして。そこで、あの少年が消えた路地が視界に入ってしまった。だから、つい、足を止めて。そこを暫く眺める。商店街へと歩いていく筈だった、僕のブーツの先は。そのまま路地へと、向かっていて。記憶の中にあるガルシェの声がよぎった。
――自分から裏通りの方へは今後行くなよ、意味がなくなる。
片手だけで袋を保持して、空いた手を自身の鼻に近づけてみる。試しに、レプリカントの人達がしているみたいに。しっかりと自身の腕を嗅いでみるけれど。特にこれといって、におわなくて。正直、銀狼には悪いとは思いつつも。いつもよりも少し早めに、交換所へ行く事も考慮してあまり遅くならないように店長は帰してくれたから。時間的にもまだ、だいぶ余裕があって。今、僕の手元には。配給品が入った袋が、というよりもお店で買った串肉が入った袋があって。本当は、焼いてもらった時は帰ってガルシェと食べようかな、なんて。そう思っていたのに。
あの身体を売っていた子が入っていく姿と、そして赤茶色の狼の姿が脳裏にチラついた。まだ、お礼を言えていないのだし。そうそう今のように、丁度よさそうな機会もないであろうか。だから、仕事で街の外へと出ているのだから。彼の耳に届く筈もないのに。
「ごめん」
ただ一言そう呟いて、僕も、明るい表通りから。暗い路地へと、消えた。大丈夫、すぐに帰れば。
ちょっと迷いそうだったけれど。一度迷ったし、帰りは銀狼に抱えられて運ばれたのもあって。冷静に道を見る事ができたからか。そう時間はかからずに、ガカイドと出会った場所まで辿り着く事ができた。道は入り組んでいるけれど、正しい道だけを通れば、とてもすぐに着いてしまうのだな。まだ、夕方にもなっていない時間だから。夜を主戦場とするこの場所は、以前訪れた時よりもより、人が少なく。とてもすっからかんとしていた。開けられていた窓の中から、こちらを窺う視線を感じたけれど。その窓も、視線を感じてから間をおかず閉じられてしまった。
さて、困った。そういえば、来てみたはいいものの。あの赤茶色の狼の住んでいる家、それ自体知らないのを失念していた。誰かに尋ねるべきかと思うも、そもそも人がいないし、居ても親切な人であるかも保証がなかった。あまりに、考えなしであったな。ちょっとだけ、試しに裏通りのメインストリートらしき場所を歩いてみる。いかがわしいお店が並んでいるばかりで、さして興味はないのだが。そんな中でも、一応飲食店らしきものもあって。天井から吊るされた、生き物の死体。その下にはタライがあって、血抜きだろうか。赤い雫がそこに溜まっていた。血臭に思わず鼻を摘まむ。ちょっと、きつかった。だから、自然と速足になって。そんなお店すら、さっさと通り過ぎてしまう。
そうしてると、やっと住人らしきレプリカントの人がたむろしていて。道の端で談笑しているのか、まだこちらには気づいていない。あの人達に話しかけて、聞いてみようか。そう思い、近づいてみたのだが。ちょっと、というか、かなり。全員が恐ろしい顔をしていて。話しかけ辛かった。見た目が怖いだけで、実際は良い人かもしれないのだけれど。腰に拳銃を、普通に携帯していたし。どうみても堅気のそれではなく。人でいうマフィアとか、ヤクザめいていたから。だから、僕みたいな人間が。そう易々と喋りかける事ができる筈もなく。真っすぐ歩いていた僕の進路方向が、唐突に横へと曲がって。気づかれる前に、横道へと入った。ううん、やはり。帰ろうかな。見つけられそうにもないし。唯一、この街で背の高い建物である。学校。その位置を確認して。目的が達成される事なく、家へと。向かおうとして。すぐ近くにある扉が蹴破る勢いで開いて、そこから何かが飛び出してくる。それは、ゴミ袋が置かれていた山に突っ込んで。中身を少し散らかしていた。それと同時にキラリと。反射する物が、空中を舞い。僕の足元へと転がって来る。
「二度とその意地汚いつら見せんなっ」
関係ない僕まで竦みあがるような怒号、そして開いた扉から顔だけ出したレプリカントの男性。その横顔に見覚えがあって。それも素早く引っ込むと、勢いよく扉が閉じてしまった。そして、鍵を掛ける音までして。
何だったんだ。喧嘩、だろうか。関わるべきではない気がしたが、足元に落ちている物を確認する為に屈むと。それは、首飾りであった。動物の牙と、黄色い、琥珀のような宝石を通した。見た事のある。一緒に暮らす銀狼のとよく似た。まさか、彼のがここにある筈もあるまい。だとしたら。
それを丁寧に拾い、そして。持ち主であろう、ゴミ袋の山に身を横たえた。人の元へと、近寄る。そうすると、足と、尻尾が飛び出していて。そこに生えている毛は、赤茶色をしていたから。僕は、歩きだった足を速め。急いで駆け寄った。
唸っている男の声。起き上がれないのだろうか、いっこうに顔が見えない。だから、持っていた袋を地面へと置いて。ゴミ袋を掻き分ける。そうすると、見えて来た男の上半身と、狼の顔。
「大丈夫? ガカイド」
声を掛けるけれど、返事はなく。ただ呻き声だけ、狼の口から漏らしていた。状態を確認すると、手酷く痛めつけられたのか。毛皮があってもわかりにくい筈なのに、そうとわかる程顔が腫れていて。少しだけ、唇の端から血を流していた。この分だと、身体の至るところ同じ状態であろうな。片方は目が開かないのか、一つだけ。金色の瞳が薄く開かれる。ちょっと焦点が合っていない気がしたけれど、誰が目の前に居るのか。それはわかったのか、何か言おうとして。上手く喋れないのか、結局呻き声だけ発していた。
とりあえず、大事な首飾りを差し出してみるけれど。それを彼は見た。見たのだけれど、動いた毛皮を纏った腕。それが受け取ると思ったのに、さっと横にはらわれて。緩く持っていた僕の手から地面へと弾かれてしまう。ちょっと、何をするの。
ちょっとだけ、怒りという感情が湧いてくるも。今の彼の状態と、そして立場を考えて。先程見えた、ガカイドをここへ放り投げただろう男の横顔を思い出して。十中八九、僕のせいなのだと思った。彼がこうまで痛めつけられる原因になったのが、だ。あの少しだけ見えた横顔。それは、昨日僕を襲おうとした二人組の内。ガカイドが相手した方であった。
僕を逃がす為に、そうして。そして、今、こうなってしまったのだとしたら。見過ごせない理由ができてしまった。だから、傷だらけの狼の傍に屈んでいた僕は立ち上がり。歩きだす。それは見捨ててこの場を離れるのではなく、弾かれて少し遠くへと転がってしまった。大切なネックレスを拾う為で。もう一度、それを拾ったら。少し迷った後、僕は自身のポケットへとしまう。そして、床に置いていた袋を片手で抱え。空いている手を使い。倒れている男の腕を取る。頭の上を跨がして、そのまま僕の肩へと上半身をもたれかからせるように。狼の脇へと、僕の身体を滑り込まして。痩せているけれど、僕よりも体格はそれでもいいから。とても重い、重いのだけど。それでも、一生懸命持ち上げようとすると。フラフラとしながらも、何とか起き上がらせるのに成功する。彼も、一応意識があるから立とうとしてくれたからかもしれない。そうやって肩を貸したまま。
「家、どこ」
ただ簡潔に、そう尋ねた。開かれた狼の瞳が、僕を見つめていて。僕の行動の意図が読めず、迷っているふうであった。人がここに来た理由も彼は、いまいちわかっていないのだろう。ただお礼を言いに、まさか訪ねて来たとは。おずおずと、毛むくじゃらの手が持ち上がり。そうして、人差し指が道を指し示す。ならばと、僕はそちらへと歩きだした。彼も歩いてくれないと倒れてしまいそうなぐらい。肩を貸した僕はとても頼りない感じではあったけれど。それでも、ガカイドも。僕の横顔をずっと、不思議そうに見つめながら歩いてくれたから。何とかなった。さらに暗い、路地を抜けると。くたびれた一軒家があって。窓ガラスが割れて、そのひび割れをガムテープで補強していた。木造の小さな家。一瞬、物置小屋かと思うぐらいの小ささであった。でも、彼の指が指し示す通りに歩いて来たのだから。ここで間違いないのであろう。
扉へと近づくと、鍵はかけていないのか。僕は彼を支えて、なおかつもう片方の腕は自分の荷物を持っているから。両手が塞がっている。だからガカイドが自分で開けてくれて。中へと。外と同じ床の高さ、中へ入ってみると。一人で暮らすには案外快適なのかもしれない。狭いけれど。奥に布団と、そして。キッチンスペースはないのか、食器だけが部屋の隅に固めて寄せられていた。一応、境目として。敷物を敷いていたから、そこを汚さないように。ガカイドを座らせ、荷物を置き、靴を脱がせる。何もする気力がないのか、僕にされるがままであった。
僕も靴を脱いで、敷物の上へと踏み入り。もう一度肩を貸して、寝床へと彼を横たえる。万年床なのか、あまり綺麗とは言えなかった。
「……何しに来たんだよ」
やっと、口を聞いてくれたと思ったけれど。開口一番の台詞が、それか。それには無視を決め込み、使えそうな物を勝手に探して物色していると。丁度よさそうな布を見つけ、そして自分が持って来た荷物から。水を取り出し、少し湿らせる。貰ってから時間が少し経過していて、あまり冷えていないけれど、即席の濡れタオルを作ると。水気を絞り、そして腫れた狼の顔に押し付けた。触れると痛いのか、文句を言いながら顔が逃げようするけれど。無言でそれでも押し付けて。たまりかねたのか僕の手から奪い取ると。自身で痛くない程度の力加減で押し当てていた。
消毒とか、手当てをしたいけれど。生憎とこの家にはそんな物なさそうで。僕の手持ちにも、ない。配給品にはお酒もあったけれど、確か消毒に使えるアルコール度数と。一般に飲まれている度数はかなり違っていて、へたに使うとかえって傷に障ると聞いたような気がする。良かった、その部分は記憶が残ってて。中途半端に、映画で見たような事を真似して悪化させなくて。
大人しく、顔に濡れタオルを乗せて。布団に転がっている男の傍に、座る。もうこれ以上できる事はないなと。枕に預けた頭、その頭頂部に。人の手がそっと触れて、乱れた毛を撫でつける。
「ごめんね、きっと、僕のせいでそうなったんだよね」
小さな声で呟くようであったけれど。でも、この距離で聞こえない筈もなくて。鼻が詰まっているのか、ピスー、ピスーって。なんとも間抜けな鼻息が狼の湿った黒い鼻からしていた。それに、笑いがこみ上げる事などなかったが。僕の撫でる手が、鬱陶しいのか。よく動く耳が手首をぺちぺちと叩いてくる。目元部分にタオルを乗せているから、表情は見えなくて。そして、僕の呟きに対して何も言ってくれない。ただ、深呼吸する仕草だけは見えた。
何も言ってくれないけれど、ただ男の頭を撫で続けた。早々立ち去る事もできたけれど。それをできないのが僕だった。申し訳ないのに、ただ傍に居る事しかできない。謝るけれど、それで何も改善はされないのを知っているのに。無力なのを痛感する。
「たまに、あいつのところで手伝って。飯、食わせてもらってたんだよ。もう来るなって、言われたけど」
主語もなく、ただ。僕を責めるでもなく。事実だけを、狼は伝えていた。それで、また黙ってしまって。僕もそれに対して、そっか。って。そして、また、ごめんね。と言う事しかできなかった。本当にそれしか、できなかった。起きてしまった出来事は、元には戻らなくて。
ただ、事実として。僕を庇ったが為に。彼は貴重な職を一つ、失ったのだった。僕の、せいで。僕のせいなのに。お前のせいだと、庇うんじゃなかったと、後悔してると。そう言ってくれればいいのに、でも。彼は。そうはせずに、ただ抵抗もせずに撫でられて。僕の声は届いてる筈なのに、何も言わずに。それ以降黙ったままで。
ごめんね、ごめんなさい。ガカイド。ごめん。どうせなら、責めて欲しかった。そうして貰った方が、僕は謝り倒して。いっそ叩かれたり、殴ってくれたら。それで少しでも彼の気が済むのなら、そうしてくれてもいいのに。それだけの事があったのに。原因は僕なのに。どうして、そう、してくれないのか。やがて、呼吸が穏やかになって。寝息に変わってしまった。気絶ではないと思いたいけれど。それぐらい、彼の身体はボロボロで。痩せ細った身体に、酷であったろうに。血痕が赤茶色の毛に不規則に散っている、その上半身裸の身体を眺めて。
不意に。強く、目の前の男が。歯を食いしばった。握りしめた拳が、少し震えている。起きたのだろうか。ああ、そうしてくれるの。いいよ、殴られても。僕はそれだけの事を。でも、そうはならなくて。ただ、小さく、何かを言っていた。起きたわけではなかったようで。何を言っているのだろうか。寝言、なのだろうか。
あまり聞いていいものではないであろうが。少しだけ、耳を近づけてみる。動いている狼の口に。そうすると。
――ごめんなさい。ごめんなさい。なにもできなかった。ごめんなさい。もう、許して。嫌だ、もう、こんなの。許して、ください。
聞いて、後悔した。そんな事を言っているのかと。魘されていた、悪夢に。起きても、彼にとっては悪夢なのだろうか。夢も、現実にも、どこにも。居場所がないのであろうか。下唇を知らず知らず噛んでいた。関係ないのに、僕は。過去に起きた事に対して。でも。自然と行動に移していた。また、痛いほど握りこまれた彼の腕を取った。そして、優しく包み込むように。僕の、人の手が被さる。
「君は、悪くないよ。悪くなんてないよ、だから、自分をもう少しだけ。許してあげて」
そっと、耳元に囁いた。本当に身勝手な、僕の言葉を。無関係な、人の台詞。あのサモエドの顔が、脳裏に蘇る。娘を失った、母の顔を。でも、それでも、止められなかった。言うしか、なかった。どうしようもなくなってしまったから。僕にできる事など、何もないけれど。なにも知らない、部外者であったのに。関係ないと、彼にも、店長にも、言われて然るべき人物であったのに。本当に無責任な言葉を。囁いていた。
誰の味方なのであろうか。八方美人とも言えた。そんな今の自分に酷く、自己嫌悪する。こんな事を言ってなにになるんだ、偽善者ぶって。本当に、僕は。何もできない癖に、こんな事を言って。
でも、僕の言葉が届いたのか。それとも自力で悪夢から抜け出したのか。乱れていた呼吸と、食いしばっていた顎から。力が抜けて、息を吸い込んで吐き出す胸の上下する動きが。少し大人しくなる。包み込んでいた手が、少し開いて。その隙間に、僕の指を入れて。握りこんだ。これぐらいしか、してあげれないけれど。してあげるなんて、おこがましい考えであったけれど。そうせずにはいられなかった。
本当に、ごめんなさい。そして、助けてくれて、ありがとう。赤茶色の狼と、銀狼。二人共にもう裏通りには行くなと言われて、その言いつけを破り。こうして、結局何をしにきたのか。何がしたかったのか。自分でも、よくわからなくなってしまった。
帰ろう。
そうだ、帰ろう。遅くなるとまたガルシェが心配する。握っていた狼の手を放し、布団へと優しく横たえる。自分の持って来た荷物を忘れないように掴んで、帰る為に靴を履こう玄関へと向かい。そこで少し逡巡してしまう。振り返って、今は安らかな寝顔になったであろう。動物の顔をした人。布で隠れたその顔を見つめて。
僕は、ガルシェと一緒に食べようと思っていた串肉をそこへ。置いた。そして、干し肉と乾パンも。おばさんから貰った配給チケットの品物を、こうして、別の。よりにもよってガカイドにあげようとしているのは。とても罪深い事のように感じた。自分で稼いだお金で買った物ではないそれまで。
でも、何の権力も、養う力もない僕には。こうして、自分の手元にある物だけで。どう扱うかしか。そうする事しかできなかったから。もう二度と会うかも叶わぬ相手に、せめてもの。
ああ、早くしないと。暗くなる。人が増えて来てしまう。帰ろう、表でしか生きていけないのだから。裏の人と関わっても、お互い不幸になるだけだ。迷惑を、かけてばかりで。かける事しかできないで。
そんなちっぽけな人間の僕は、そうやって彼の家を後にした。
左手に持った、水の入ったコップ、それを口に含んで。ゆすぐ。流し台へ吐き出すタイミングまで一緒で、頭をぶつけないようにお互い気をつけてはいたけれど。なんだか可笑しい。水を吐き出して顔を上げると、同じ事を思っていたのか。何とも言えない狼の表情、瞼の開き具合が眠気がまだ残っているのを伝えていた。
そうやって、身支度を整えながら。朝食は残念ながら調理してる暇はないので、久しぶりに缶詰のお世話になる。アーサーがどことなく、使わないのかと。自身が産んだ卵が冷蔵庫へとしまわれるのを悲しげに見ていた気がした。彼女は自身の部屋へと、とぼとぼとした足取りで戻っていく後ろ姿は罪悪感を誘った。ごめんね、今日の夜か、明日纏めてなら贅沢に二個使うから。
卵の代わりに、ラベルのない缶を取り出したガルシェ。湿った高性能鼻センサーを頼りに。選ばれた一つを手渡されて、蓋を開けると。白い果肉が入っていて、とても甘い匂いが鼻腔を刺激した。どうやら桃の缶詰であったようだ。朝からちょっと、甘ったるい気がしたが開けてしまったのだから。そのままありがたく頂く。目の前ではどうやらミートボールだったのか、上機嫌に尾を振りながら食べている狼の姿があって。あちらは別の意味で重い朝食であったが、本人が気にしていないのであれば、いいのか。目線を外し、一つ。桃をフォークで刺して、口へと運ぶ。ううん、美味しい。美味しいけれど。やっぱり甘い。
いつもは僕よりも早めに家を出るガルシェ、その姿を毎回見送るようにしていたのに。今日はそのまま一緒になって家の戸締りをして。朝日が顔を出したばかりの、まだまだ人が起き出していない時間帯。そんな道を、二人して歩く。昨日の夜とは違って、人がいないから。誰も気にせず並んで歩けるのは良いなと、隣の仏頂面の狼を見上げて。僕がどうして、共に家を出て、大通りでいつもは別れるのに。それはせず、ゲートへ向かうのかを理解しているから。どうやらその理由に良い顔をしていないようであった。僕としては今日の朝にしかないのだから、どうしても外せない用事であって。多少なりとも彼が不機嫌になろうとも強行する腹積もりであるのだが。
そうやって、隣にミートボールを食していた時の上機嫌な姿は何処へやら。両手をズボンに突っ込み、少し前かがみに歩く姿は何処からどう見てもヤンキーで。ただでさえ目つきの悪い三白眼が、さらに悪くっていた。ゲートに近付くにつれ、早朝でも人が多いから。それなりに人通りも増えて来て。道行く人がガルシェに声を掛けようとして、その表情を見てそっと道を開けていた。関係ない人まで威嚇しないで欲しい。隣に歩いてる僕が何か恥ずかしいではないか。その不機嫌な理由を作ったのが僕なのは、棚に上げて。
ゲートの受付付近まで来ると、入って来る集団とは別。この街から出ようとする集団の列に、僕が珍しくこちらへと訪れる理由となった人達の姿を発見して。ガルシェはガルシェで、自分の今日の仕事の確認もあるのだからと。僕の傍を離れたがらなかったけれど、大丈夫だからと言い。警備隊なども控えている、控室の方へとその背を押す。渋々、背というより腰を押している僕に無言の抗議とばかりに尻尾がばふばふ顔に当たっていたけれど。列に並ぶ好奇の目線が注がれている事に気づいたのか、それで僕から離れて行った。
途中なんどか振り返る狼に、手を振りながら控室に消えるのを見送って。やっとガルシェの姿が見えなくなったところで、溜息を吐く。昨日の今日であるのだから、心配する気持ちはわからなくはない。心配を掛けた張本人であるのだけれど。なんか過保護力がレベルアップしてる気がする。過保護力ってなんだ。
僕一人になっても、多少なりとも視線を感じる。この街でただ一人の人間なのだから、それは当然で。そんなのに晒されるのにもある意味、慣れた。ようは気にしなければいいのだ、気にしなければ。表の連中は特に何もしてこないのだし。そしてその好奇な視線を投げかけてくる集団、列を成すレプリカントの人達へと僕自ら近づいていく。正しくは、その中に居る。蜥蜴の集団にだ。
後ろ姿しか見えないアドトパは護衛の人と何か話しているようで。主との話しに夢中かと思われた、その護衛の人が先に僕の存在に気づく。視線が合うと、片目に傷のある、一番大きい蜥蜴の兵隊長さんだった。それを機に、煙草を吹かしたり。武器を意味もなくなんどもチェックしたりしていた、他の蜥蜴の隊員さん達もこちらに気づいて。姿勢を正していた。そして最後に、アドトパがこちらに振り向く。
「おはようございます」
そう、なるべく元気よく挨拶する。そうすると、隊長とアドトパ以外の全員が。それは見事な敬礼を一秒のズレもなく僕へとして、声を揃えてとても大きな声でおはようございます。と返されたから、圧倒され少したじろいでしまった。せっかく元気よく挨拶したのに。他に並んでいた毛皮のある別のレプリカントの人達が、うるさそうに耳を失礼にならない程度にそれとなく手で塞いでいる。早朝だから、ちょっと迷惑そう。僕のせい、じゃないと思う。というより、なんだろうこの反応。全員がキラキラとした目で見てくるから。居心地が悪い。
「奥様だ」
「奥様が来たぞ」
「男なのに奥様っておかしくないか?」
「いいんだよ、若が娶るならなんでも」
「やっぱり若と一緒に行くつもりなんだ」
「おい、誰か携帯食持ってないか。もてなせ」
「くそ、ない。おやつの乾燥イナゴならあるぞ」
「ばか、人間が食うかよ」
それぞれが小声で話しているけれど、しっかり僕に聞こえてしまっていた。ああ、うん。この兵隊さん達も、きっと良い人なんだな。それだけはわかる。喋ってる内容はわからないけれど。というより、わかりたくないのだけれど。早々帰りたくなった。また、隊長さんが顔を手で覆っていた。なんだか本当に、気苦労が酷そうだ。大丈夫かな。馬鹿共が、とかそんな事を呟いてるのが聞こえる。そんな集団から、自信たっぷりの男が一歩前へと出てくる。自身の容姿に気を遣いそしてそれを誇示するかの如く、堂々としていて。そして旅装束には似つかわしくない、ただオシャレの為だけに着ているコートをはためかせて。アルマジロトカゲが。
「おはよう、ルルシャ。部下がごめんね。まさか見送りに来てくれるとは思わなかった。嬉しいよ。それとも、部下達の期待通り。私と一緒に?」
「おはようございます、アドトパさん。いや、ううん。大丈夫。というより、とても慕われているんですね。あと、ただ見送りに来ただけだから、その。ごめんなさい」
アドトパは僕が言った事に対して、そっか、と言って。部下達と違い、そう期待していなかったのか簡単に引き下がる。もう少し、押してくると思ったから。そこだけ意外であった。お店で僕を口説いているそんな姿ばかり見ていたから。余計に。僕と主人の会話を少し離れたところで、隊員さん達全員が顔を寄せてこちらを見ていた。全員逞しい男なのに、そんなに密着して暑苦しくないのかな。蜥蜴だから体温はそんなに高くなく、ひんやりしているのだろうか。
「昨日は、お礼も言えず、すみません。助かりました」
「いやいや、私は何もしていないよ。どちらかと言うと、部下が頑張ってくれたからね。お礼なら彼らに」
一歩、アドトパが身を引き。手で護衛の人達へと促される。一度も話した事はないから、どう言おうか迷って。とりあえず、頭を下げた。そうやって、頭を上げた頃には。全員がニコニコとして、尻尾を垂直に真っすぐ立てて、先だけ手を振るみたいに振っていた。暑苦しい集団から少し離れた、隊長さんも。傷ありの強面な顔に、控えめながらも笑顔を作って。笑顔だよね、あれ。
「それにしても、急ですね。何かあったんですか?」
「ああ、最近機械達が大人しくなって。行商ルートがそれなりに安全だったから油断していたんだけれど、他の街で襲撃があったそうでね。救援物資と、ついでに稼ぎにいこうかなと。戦にはなにかと入用だからね。それと、私の部下は拠点防衛にも役に立つから」
そういえば、街の人々の噂話を聞いてると。それとなく外の情報を聞く事は少なからずあって。ただ、街の中で暮らしているだけの僕には。関係ないと意識の外へと追いやっていた。あまり、気にしてなかったけれど。常に、機械達に脅かされて、戦いながら生きているのだと。久しぶりに平和ボケした頭を働かせる。アドトパは行商人を家業にしているみたいだけれど、そうか。護衛業も生業にしているのか。確かに、路地裏で見せた一糸乱れぬ隊員達の動きは。素人目線であっても、目を見張るものがあった。連携して戦えば、彼らはとても強いのだろうな。
それにしても、フットワークが軽いのだな。話を聞いて、即決断したのだろうか。昨日お店に尋ねて来た時は、そんな素振り欠片も見せなかったのに。その決断力が、成功への秘訣なのだろうか。
「もう少し、ルルシャとは。仲を深めたかったのに、残念だな」
コートが汚れる事も厭わず、土埃に汚れた石床に膝を付けたアドトパ。見上げていた僕の顔の角度が、少し戻って。目線を合わせてくれたのだな。そう思っていると、手を取られて。そのまま僕の手が蜥蜴の頬へと導かれて。頬擦りされる。角ばった、鱗をさせた蜥蜴の頬は。ちょっと硬かったけれど、顎下の細かい部分は思ったより柔らかく。それは服の隙間から見える、首筋からにかけて胸元へと続いていて。たぶん、内側は比較的柔らかいのだな。助けられた恩義があるから、つい断りもなく触られたのに何も言わずそのままにしていると。本当に愛おしそうに頬擦りされてしまって。反応に困ってしまう。
やっぱり、こうして好意を一方的にぶつけられるのには。慣れなかった。後方で話を聞いていた隊員さん達は、僕が来ないとわかったのか。大袈裟に男泣きする人までいて。それをとても冷めた目で隊長さんが眺めていた。さすがに、周囲の関係ない毛皮があるレプリカントの人達は。迷惑そうな顔を隠すのをやめていた。ちょっと、うるさいな。この人達。良い人だけれど。
「お気持ちは、嬉しく思います。けれど、やっぱり、一緒には行けません」
初めて、彼にちゃんと気持ちを伝えた。はぐらかさずに。僕には、この街に留まる理由があって。ガルシェの断りもなく。そして、僕も彼に返せていない。借金返済とまではいかないまでも、色々借りがあるのだから。全てなかった事にして、良くしてくれるからと別の人に面の皮厚く、着いて行く事などできようはずがなかった。居候させてもらってるだけ、ありがたいのだ。それに、彼との生活が。何気に、楽しいと感じている自分がいるのもまた、事実であった。私生活はだらしない男ではあったけれど。とても。いや、すごく。
頬擦りをやめた、イケメンの蜥蜴は。そこでちょっとだけ苦笑いをしかけて、すぐに微笑まれてしまった。作り笑顔が得意な、商人の顔で。
「ハハ、フラれちゃったか……一応、信じてもらえないかもしれないけれど。本気だったんだけどな」
「ごめんなさい」
この人は嘘は吐かない気がした。ちょっと飄々として、軟派なところが本当かどうか怪しいと最初のころは思ったけれど。結構芯はしっかりしているのだと感じたから。でなければ、いくら口説いている相手が路地裏へと入ったからといって。護衛が追いついてくるのも待たず、一人先に駆けだして。僕を追いはすまい。もう少し、もうちょっとだけ早く。彼とちゃんと話しをするべきであった。正直、うざい客だなとか。思わずに。ちゃんと、そうしたら。友達として、もっと。もっと仲良くできたかもしれなかったのに。こうして、お別れする間際に思うのだから。遅いな、本当に。僕の人を見る目はなかった。
困った顔をしている僕に、不意に。蜥蜴の顔が接近して、彼の部下にも聞こえない声量で。そうしたら僕の耳元でだけ、そっと囁かれる。
「このまま私が一声、彼らに命令すれば。無理やり連れて行って。夜通し、私の味をその身体に教える事もできるのだけど?」
しゅるりと、背後に彼の太い尾が回り込む。握られたままの手の甲を、もう一つの彼の手が、意味深に撫でて。耳元で、蜥蜴特有の細長い舌がわざとらしく出し入れされた。
少し前の僕なら、嫌悪感に身もだえたり。小さく悲鳴を上げたかもしれなかった。けれど、今は違う。僕の中で彼という人物の認識が変わっているのだから。脅しとも取れたけれど、至って僕は平然と。とても落ち着いていた。撫でる手を跳ねのけるでもなく、すぐ傍にある、縦に裂けた瞳が。こちらを狙ってるみたいに。見つめてくるのに、見つめ返す。そして、口元を綻ばせて。
「アドトパさんは、そんな事。しないって、信じてます」
僕が言い終えると、背後の尻尾が僕の腰に纏わりつこうとしてピタリと固まる。目の前にある瞼は動かず。スッと、縦長の瞳孔がさらに細くなって。そうして、白い膜のようなものが。瞼は縦に開閉するのに、それとは別に横に一度閉じられて。あれが瞬膜だろうか、初めて見た。
背後で固い物を叩く音。なんでそんな音がしているのか、気になって。振り向くと床をアドトパの尾が激しく叩いていた。顔を戻すと、空を見上げ、目元を手で覆う。蜥蜴の姿。
「あー。そう言われてしまうと、したくてもできないじゃないか……」
――君は、ズルいな。手で顔を隠すのをやめた蜥蜴は。若と呼ばれるだけあって、商人としての顔でも、キザったらしい顔でも。ただの若い男の、苦虫でも嚙み潰したかのように。それを隠しもせず。歳相応の、雰囲気を纏っていた。ここに来て、初めて。彼の本当の素顔を見た気がした。
「そうやって、いったい何人の雄を誑かしたのかな?」
「いや、いない、筈です」
交友関係は広くない。言っては何だが、物珍しがられるだけで。本当に話しかけてくる人自体が稀で。別にアドトパ以外、言い寄られた経験もないし。そう考えて、例の赤茶色の狼の顔が浮かんで。あれは、僕で遊んでるだけだと。すぐに消す。うん、やっぱり、いない。
僕を本気で口説くなんて、貴方ぐらいですよ。アドトパ。目の前の蜥蜴は納得のいっていない顔をして。
「それと、ごめんね。同族以外だと気持ち悪がられるから普段はあまり、瞬膜でまばたきしないようにしているのだけれど。びっくりしちゃったから」
瞬膜で、あってた。と、言われても。僕の記憶の中では二足歩行して、喋る蜥蜴自体が存在しないのだから。今更、横にもう一つ動く瞼があるぐらいでそこまで。人間驚きが重なると、些細な部分はあまり気にしなくなるものだ。僕が未来にタイムスリップしたのか、地球とよく似た別の世界、パラレルワールドにでも来たのか。本当にただ、記憶をなくしているのか。ここでの生活を続ける内に、自分自身で確信が持てなくて。ガルシェ以外には、あまり身の上を話してはいないのだから。目の前で片膝をついたまま、僕を見つめる蜥蜴の男もまた。ただ、レプリカントが暮らす街で珍しく人間が暮らしている程度にしか思っていないだろう。そういった意味でいえば。この街でお互い、好奇の目で見られるのだから、似た物同士ともとれた。
毛皮を持たない、少数派。彼らになくて、僕らにはあって。そんな部分に気味悪がられたり、物珍しがられたり。そして僕は、彼が持っている。瞬膜も、鱗も、太い尻尾も。ないのだ。肉体的に、とてもか弱い生物であった。似た者同士のようで、違うのだ。彼は、それでもレプリカントなのだから。そして、僕は人なのだ。決定的に、その部分で違っていた。
だから、気持ち悪いと思う筈がなかった。ただ、そういうものなのだと。全部ひっくるめて受け止めていた。そう思わせてくれた、銀狼が先ず居てくれたのだが。
「別に、気持ち悪いとかは思わないです。どちらかと言うと、レプリカントの人からすると。僕は。毛皮も鱗もないのだから、肌が露出していて、逆に奇妙でしょう?」
自身の身体を見渡して、そうやって苦笑いしてみる。彼らからすると、普段は素肌が隠れているのだから。服をちゃんと着ているとしても、顔や、手。首筋。そういった部分はどうしてもさらけ出されていて。もし、僕がレプリカントだったら。生まれた時からそうなら。自分の身体では毛皮で覆われているのに、相手がなかったとしたら。きっと、不思議に。無防備に素肌を晒していて痛くないのかなとか、寒くないのかなとか。そういった事を考えるだろうか。
僕の言い分に、アドトパはお淑やかに。自身の顎に緩く握った拳、人差し指部分を当ててくすくすと静かに笑う。可笑しな事を言っただろうか。彼からすると、そうなのだな。僕の、人間としての、見解は。そうしたら、何か。堪えるように感情をその瞳に湛えて。そして。最後に、別れを惜しむのなら。せめて一つ、お願いを聞いてくれないかと。そう言われた。
どちらかというと、そう言うアドトパの声の感じからして。彼の方が余計、先程よりも惜しむように。普段の言動から、別れのキスとか。そういった類の事をお願いされるのではないかと、少し勘ぐってしまう。もしそうなら、即答でお断り申し上げるのだけれど。
でも、蜥蜴の横に裂けた口から紡がれたのは。全く別の、とてもささやかな。そんな事で良いのかと思えるような。そんなもので。
「他人行儀にさん付けじゃなく、私も。アドトパと、そう呼んでください」
ちょっと、照れくさいのか。首を傾けた蜥蜴は。ただ、本当にそんなささやかな願いを告げて。心の中では、正直既に呼び捨てしていたのだけれど。そうか、これも。ある意味で彼にとっては僕の作った壁と感じていたのだな。それならと、僕がその願いを聞き届けるのに。迷う事はなかった。
「さようなら、アドトパ。どうかお元気で」
「ルルシャも。もし、またこの街に立ち寄った時に、その首元が空いていれば。私のネックレスを今度こそ渡しに来るね」
自身の首元にある、番の証たるレプリカントの雄達が皆持つ。首飾り。それを触りながら、言われて。その時に、僕がまだこの街に滞在してる保障はないのだけれど。それは口には出さなかった。そして、それに対して。はいとも、いいえとも、返さず。本来それは、雌の蜥蜴に渡すべきもので。男である僕なんかに。ましてや、異種族の人間なんかに。渡して良いものではないのに。
この人も、懲りないな。元々男色の人を口説けば、もっと楽だろうに。男同士、性欲処理が普通なら。それなりに、いるのであろう。貴方がそうですかと、聞いて回る気はないが。
だから、正直。少し油断をしていて。これで終わりと。だから、再び蜥蜴の顔が近づいて来た時。また、耳元で何か言われるのかなと思った。後ろの護衛の人達が、見守っているのだし。ここは人の目も多くて。目指してるのは僕の顔のすぐ隣、それは正解であった。ただ、途中で耳ではなく。頬へと。蜥蜴の口先が逸れたのが予想外で。やんわりと、押し当てられた。僕はただ、情緒もなく目を見開き、反対に目を瞑った彼の顔を見ているだけしかできなくて。
キス。されていた。僕の頬に。イケメン蜥蜴が。片膝をつき、僕の手を取り、そして頬に口付けるその姿は。はたから見たら、きっと王子様がお姫様にそうするみたいで。だからきっと、護衛の人達が。皆、手で口を覆いながら。黄色い声援を出しているのだろう。すぐに、部隊長さんが豪快に纏めて。巨漢を活かして体当たりし、吹き飛ばしていたけれど。
映画のワンシーンのように、映像美に富んだものであったのなら。とても素敵であっただろう。画面端に花でも演出効果として、舞っていたかもしれない。ただ、そのヒロイン役が。平凡な男であったのだから。観客からは大ブーイングを貰いそうだ。
蜥蜴のスベスベした唇であったから、別にリップ音も鳴る事もなく。ゆっくりと離れていく。薄く瞳を開けた、アドトパは。少しだけせつなそうにしながら。自分が、キスした人の肌をしばし見つめて。僕が、何をするんだと言う前に。颯爽と立ち上がるとコートを翻して。背を向けてしまった。いちいち動き一つ一つが少し芝居がかっているな。商人だからお客さん相手に、そういうパフォーマンスが癖になっているのだろうか。そうして、少しだけ振り返った。片方だけこちらに見える方側の瞳で。お茶目にウインクして。今だけ、それぐらい許してねと。そう告げて。ちょうど彼らの順番が来たのか。隊長に若と、そう急かされるところへと。駆けていく姿を、ただ茫然と見送る事しかできなかった。最後の最後まで、キザだな。あの蜥蜴。
先程まで蜥蜴の口が触れていた部分を、手で触る。別にそこに何かが残ってるわけでもなかった。唾液も。毛皮を持つ者みたいに、そう簡単に毛が抜けるわけでもないから鱗も。やっぱり体温はそれ程高くないのか、温もりも。ちょっと弾力のある。表面が鱗だからサラサラとした、一番近いのはゴムでも、押し当てられた感じであった。それだけであったのに。触れていた箇所が、じわじわと熱を持つ気がして。だから、手で隠したのだった。頬を染めたわけじゃないと。でもちょっとだけ、運動したわけでもないのに。熱いな。熱い。
背後から、足音が迫る。なんとなく、誰かわかってしまって。ちょっとだけ、落ちつくまで振り返るのはよした。だって、今振り返ると。なんでそうなってるのか、聞かれそうであったから。説明が、めんどくさい。なんだか、青春的な別れ方をした気がするけれど。男同士なんだよな。僕が女の子であれば、こうも悩まなくていいのだろうか。よく、わからないな。地盤を固める事に躍起になってるのだから。恋とか、そこまでしてる余裕はない気もした。
頬を触るのをやめて。鏡はないけれど、自身の顔の熱が。少しマシになった頃。それで漸く、後ろを振り返って。目に入る、ジーパンと白いTシャツ。そして、黒い革製のジャンパー。そこからちょっと、上へと。顔の角度を変えると。僕を見下ろしている、銀色の毛を纏った。狼の顔。開かれたゲートから吹き込んで来る風で、少し毛並みを揺らしていた。
「礼は言えたのか」
「うん、ちゃんと言えた」
ガルシェも、これから街を出て。外へと仕事へと出かけるのだ。愛用の銃を肩に掛け、背にはリュックサックを。そうやって話していると、なぜか。狼の顔がどんどん険しくなる。特に何もしていないのに。すまし顔をしていた筈なのに。そうやって、前かがみになって。顔を近づけてくると。くんくんと、鼻を鳴らしていた。そこは、先程アドトパがキスした頬で。
目を細めて、無言で圧がかかる。本当に、隠し事ができないな。彼には。必要のない事まで、そう隠す気はないが。僕だって、彼の知られたくないプライベートな部分を一緒に暮らしているのだからいろいろ見聞きしてしまっているのだし。そこはある意味で、おあいこ、なのだろうか。
「……程々にしておけ」
ただ、それだけを言って。姿勢を戻すガルシェ。何の事、そう振舞うのも彼を怒らせるだけな気がして。とりあえず、ここは素直に頷いておいた。本当に、僕から特にそういう誘惑は仕掛けていないのだけれど。風評被害だ。言いがかりだ。全部あの蜥蜴が悪い。今すぐ戻って来て謝って欲しい。僕のせいじゃない。
「それじゃ行ってくる」
「うん、気をつけてね」
遠くで、今日一緒に仕事する人だろうか。似たような装備のレプリカントの人達がガルシェに向って手を振っていた。僕から離れていく銀狼。そうして、僕とは別の。同じ獣の頭をした、人達がその銀狼を出迎えて。ここからでは会話の内容は聞こえなくて。遠目からでも、仲が良さそうで。一人は、ガルシェの首に腕を掛けようとして。軽くあしらわれていた。あれが、普通なんだよな。レプリカントは、レプリカント同士。僕と違って、友達が多いのかな。最初にこの街へ来た時、ガルシェはそんなに人口が多いわけではないから。皆知り合いみたいなものだと言っていた。それだけではない気がする。彼の人柄も関係していて。一緒に暮らしてるからわかる。彼は、とてもめんどくさがりで、不愛想で。目つきが悪くて、でもそれを補うぐらい、不器用な優しさを持っていた。笑うと、子供っぽいけれど。それが怖い顔を途端に、緩和するのだから。遠くで、彼を囲む集団を眺めながら。羨ましいなと、そう思った。
僕は、どうして人間なんだろう。彼らと同じレプリカントであれば。獣の顔をして、毛皮があれば、同じ輪に。彼の隣に、なんの負い目もなく、並べたのになと。そう思った。
彼との暮らしが、楽しいと感じると同時に。余計に、異種族であるという部分を僕が意識してしまっていた。人間である事に。
でもそんな集団の中に、やっぱりそんな銀狼の事を険しい目線で見る人がいて。どうして、彼にそんなふうに見るのか。やがて、その集団も。出発すると土煙を上げながらそう時間はかからずに見えなくなってしまって。
ゲートに、ただ独り。人間だけが意味もなく佇んでいるだけとなった。
いけない。自分の仕事に遅刻する。僕はそう頭を切り替えて、来た道を少し速足で戻る。少なくとも、僕の居場所は。ここだ。ガルシェの、隣ではなく。後ろだ。それを再確認したのだった。
もっと、頑張らないと。……頑張らないと。
レジの前に立って、ただ接客する日々。だいぶ慣れたのだけれど、今日はちょっと違っていて。僕に唯一話しかけてくれていた、蜥蜴は来なくて。とても、暇だった。暇といっても、隣では店長であるサモエドのおばちゃんと食事中のお客さんとが楽しそうに談笑しているのだから。静か、というわけではなかったが。
来るわけもない、だって僕はちゃんと。彼が旅立つのを見送ったのだから。ゲートより先は手続きをしないと、出れないから。街の出入りする人はしっかりと管理しているのか、散歩程度の気軽さでは出られない。どこに、何をしに、しっかりと明確に言わなければ。だから、この街に始めて来て。それからもう、気づけば数週間になるのに。一度もあの荒野を遠目で見るばかりで、鉄の壁で囲まれたこの街を出た事がなかった。特段、別にさして用事もないし。それで不満はないのだが。出たとしても、一面荒野で。見てもつまらないだろう。それに、僕一人が出て行ったからといって。野生動物や機械に襲われないとも限らない。外は危険だ。
レジのすぐ傍の席。いつの間にか蜥蜴の男専用の席になっていたそこは、今は誰も座ろうとしない。わざわざ僕の近くに座って食事をしようなんて、レプリカントの人なんていない。本当に、変な人だったな。いなくなってから、少しだけ寂しいと感じるなんて。思わなかった。いたらいたで、ウザいなと。そんな事思ってしまうのに。勝手に触れて来るし、隙あらば口説いてくるし。二度と会えないわけではないけれど。いつ会えるかもわからない。そんな人。
「元気ないわね、ルルシャちゃん」
不意に話しかけられて、肩を跳ねさせる。暇だからと、考え事しながら。ぼーっとテーブルに頬杖ついていたのだから。声がした方に顔を向けると。犬科の顔が人の良さそうな、微笑みを湛えていて。丸っこく、毛の量が多い、サモエドの顔がそうしているのだから。年上の人ではあるが、愛嬌があって可愛いと思った。
「そう、見えますか」
「ええ。失恋した時の娘みたい」
そんなふうに、見えたのか。それはない。恋愛感情はこれっぽっちも、万に一つも。あの蜥蜴の男にはなかったのだから。それを言うと、泣いちゃいそうだな。アドトパ。
ただ、もう来ないのだなと思うと。ただ、寂しいなと。本当にそれだけであった。それだけの筈で。もしも、彼の手を取ったら。あの賑やかな蜥蜴の護衛の人達に囲まれて。とても賑やかな環境で、いろんなまだ知らない景色を見て。そして夜には、キザな台詞をたくさん並べながら。アドトパに愛を囁かれながら、同じ寝床で眠る日々を送っていたのだろうか。手などに触れていた、彼の鱗と鋭い爪がある人外の手が。僕の腰や、太腿に這わされて。ないな。うん、ない。
寒気とか、そういったものは感じなかったけれど。昼間の賑やかさはなんやかんや、嫌いではないかもしれないけれど。夜の事を考えると、途端に違和感を感じて。自分が、男の人と、そういう事をするってなると。よくわからない。嫌悪感はないから、状況に流されてしまうと、危うそうだが。同じ人間ではなく、動物とのスキンシップの延長線になるから。気持ち悪いと思わないのだろうか。舐められたり、甘噛みされたり。でも、いざそういう場面に。生殖器をこちらに向けられた時。僕がその時、どういった反応をして。相手を傷つけやしないか。それが気がかりだった。そんな場面で、相手を気遣う余裕すらないと思うし。嫌悪に、顔が歪んで。相手を失望させてしまう気がした。
そこまで考えて、ガルシェのが唐突に頭の中に浮かんで。あの、毛皮の鞘に普段は包まれているのに。お風呂場で、少しだけ見えてしまったから。赤く、舌とは違う粘膜。状況が状況であったし、ただ何も見てないフリをしたけれど。どうして、彼が少しだけ興奮を露わにしていたのか。
一緒にお風呂に入る仲だから、振り子のように揺れている大きな金玉は見慣れてしまって。それを見慣れてる自分が、嫌だな。ただ、それでも、今まで一度も。彼のペニス。その本体、先っぽだけではあったが。見た事はなくて。仕事場で何を考えているのだろうか。知らず知らずの内に、体温が上がり、頬を染めてしまっていた。いやらしい想像をしている自分が嫌で、急いでそんな考え散らす。
話の途中で、急に僕が顔を赤くしたからか。それを見て、くすりと笑われてしまう。これでは、本当に失恋して、それを指摘された人みたいではないか。違う、断固として違う。
「娘さん、いたんですね」
だから、露骨ではあったが。話題を逸らした。娘さんという事は、旦那さんがいたのだな。今、違うと強く否定しても。それで納得されず、はいはいと流されそうな気がしたし。あの男とは、本当に別に何もなかったのだし。求婚はされていたけれど、それも他に人の目もあるここで。店長もそれを見ていて。毎日。やってくれたなアドトパ。急いで戻って来て謝れ。お前が残した埋めかけた外堀のせいで、僕が今困っているのだぞ。
「そうね、いたわ。私にはもったいないぐらい、良い子だった」
店長の、昔を懐かしむような。そんな言い方。そこに引っ掛かりを覚えた。まるで過去形のようで。常にニコニコしている彼女にしては、いつになく、少し沈んだ表情で。それで、察しの悪い僕でも。嫌な予感がしてしまって。
「いたって、もしかして……」
「そうね、死んじゃったの。卒業試験中の事故で」
ふくよかな身体、そして無駄に主張しているエプロンを押し上げる胸。そこの谷間に隠れていた、ネックレスを取り出して、大事そうに動物の牙の部分を撫でていた。ああ、そこに。だからわからなかったのか。話題を逸らした先。それに後悔していた。まさか、亡くなっているなどと。とても、悪い事をしてしまった。僕を見て、何気なく呟いた店長の言葉を。強引に拾って、自分の話題にされたくない事から逃げた。罰だろうか。僕が、つられて悲しそうな顔をすれば。娘の事を口に出したのは私だから、気にしないでと言ってくれたのだけれど。調理に戻ったサモエドの手は、包丁を握り。トントントン、そうリズムよくまな板の上で野菜を刻んでいた。
事故で。そういえば、卒業試験中の事故。その単語をつい最近、とても身近に聞いた気がした。浮かんだ、銀狼ではない。狼の顔。彼の事を思い出して。
――ガカイド。
ドンッ。途端に、まな板で大きな音を店長がさせる。止まってしまった、包丁の動き。そうして、野菜を見ていたのに。僕へと振り返った、無表情なサモエドの顔。とても、小さな声で。彼の名を呼んだのに。収音性の高い獣の耳はそれを拾ってしまったのか。
感情のない、機械のような。今まで一度も見せた事ない、表情をさせていた。女性といえど、レプリカントの平均身長は高いから。横にも大きい、彼女の身体は。それによって与える威圧感にも一役買っていて、その矛先は僕へと。それで、少し怯えを見せたからか。ハっとするように、無表情だった顔に、驚きが差し込んで。まるで、自分自身のとった反応に、驚いているようであった。取り繕うように、ごめんなさい、なんでもないわ。そう言い、野菜を刻むのを再開したサモエドのおばちゃん。刻まれるリズムは、元通りだったけれど。僕は。その背を、暫く目が離せなくて。
こんなところにも、残された傷を見つけてしまった。こんなすぐ傍の人にまで。外傷はなさそうなのに、未だ癒えぬ、簡単に癒えてしまってはいけない。そんな傷跡が。そこにあってしまった。
気にしすぎ、と言われてしまうと。そうなのかもしれない。ただ、僕が今日の仕事は終わりと。言い渡されるまで、ずっと心の内に抱えていたからか。店長であるサモエドのおばちゃんにも、気を遣わせてしまった。
「これ、良ければ使って」
帰り際、差し出された紙切れ。破れにくいように、厚めに作られた厚紙。昔使われていた、紙幣ぐらいのサイズ。真ん中に何かのマークが印刷されていて、まるでライブのチケットみたいだと感じた。渡されたはいいものの、これを、どうすればいいかまるでわからない。帰ってガルシェに聞けばいいだろうか。いや、渡されたのだから店長に聞けばいいだろうに。でも僕が質問する前に、察しの良いサモエドは。僕が受け取ったチケットらしきものを指差して。
「ちょっと歩いたところにある、配給所でそれを見せたら。食料品を少し貰えるわ。良ければガルシェと美味しいものでも食べて。あの子、ルルシャちゃんを私に預けてから一度も顔を見せにこないじゃない? しっかり者の貴方がついているから、ちゃんと食べてるとは思うけれど……」
僕は、ちゃんと毎日お給料を貰っていて。それとは別に、物価が高いというのに。こんな貴重品らしき配給チケットを、貰うなど。そうやって、既に僕の手に握られている厚紙を。店長に返そうとしても。受け取ってくれなくて。いいのいいのと、おばちゃん特有の押しの強さをここで発揮される。実際、ガルシェの事を気にしている素振りをしているけれど。絶対僕に気を遣っているのは明白で。僕が勝手に気に病んでいるだけなのに。なにも知らなかったとは言え、ガカイドに。君のせいじゃないと。そう言ってしまったのだから。こんな身近に、良くしてもらっている人が、関係してるなど。思ってもみなかったのだ。もし、僕が彼にそう言ったと。娘さんを試験の事故で失った店長が知れば。怒り、この店を追い出されるだろうか。
客観的に見たら、彼のせいではないと。今でも思える。思えるけれど、それは部外者である僕の考えで。当事者達はそんな事、知った事かと。言えてしまえるだろう。なにも知らない癖にと、そう店長に言われたら。僕はただ、謝るしかないのに。無責任な発言だったろうか。でも、あの時は。僕は彼に、そう言いたかったのだ。たとえ部外者だとしても。
そんな、事をしたと知らない店長の。その気遣いが、優しさが、辛い。これを受け取る資格、僕になんて、ないのに。
「いいのよ。夫と私の稼ぎで、飢えないですんでるから。逆に余って困ってたの、良ければ使って。貴方が働き始めてから、料理に集中できて私も助かってるし。そのお礼と、これからも頑張ってねって意味もあるの。ルルシャちゃん」
そこまで言われてしまうと、断る方が失礼になってしまう。大人特有の、言いくるめにまんまとはまってしまった。世渡りが上手ければ、ここで僕がのらりくらりと躱す術があったのだろうか。だから、少しでも。なにかできないかと。今日貰った給料である、木製のお金。それを、サモエドの手のひらに差し出して。串肉を注文する。調理風景を見てから、僕は買う事をしなかったし。ガルシェもここへ来ていないのだから。食卓には並んでいない。
優しい笑顔で、頷いたら。テキパキと目の前で焼いて、袋に包んでくれる店長。食欲を誘う、肉が焼けるにおいがそこからしていて。手に持つと、じんわりと焼きたてだから熱が伝わって来る。ありがとうございますと。チケットと、そして焼いてくれた肉にと。お礼を言って。お疲れ様でしたと。お店を後にする。
ついでに、そのまま配給所へと。足を向ける。一応方角は聞いていたので、看板でもあるかなと探しながら歩いていると。チケットに印刷されたマークと全く同じ旗が風に靡いていて。そこに、野外テントと大きめのテーブル。そして受付らしきレプリカントの人が椅子に座っていて。背後には蓋が開いた木箱が並んでいた。そして、数人の列ができていて。ちょっと離れた場所で様子を窺っていると、僕が持っているチケットを受付の人に渡して。交換に品物が詰められた袋が渡されていた。
どうやら、あそこで間違いないみたい。確信を得て、近づいていくと。交換を済ませ帰路へとつく、大事そうに袋を抱えたレプリカントの少年が居た。取られやしないかと、周囲を警戒するその顔は、どこか見覚えがあって。そして、服は最低限で。何となく、目で追っていると。暗い路地へとその姿が消えていった。あっちは、裏道へと、学校の裏側へ向かう方角で。だから、その顔を何処で見たか。思い出したのだった。
道に座り込んで、自分の身体を売っていた。あの、少年だ。僕とそう年齢が変わらなさそうな。もしかしたら、年下かもしれないそんな子が。どうやって、この僕も持っているチケットを彼が手に入れたのかは。推測するまでもなかった。この、そう大きいともいえない街で。少しだけ住む環境が違えば、こうも違うのだな。本当に、僕は幸運な部類なのであろうな。あの銀狼に保護されて。彼の伝手で、こうして働けているのだから。
考え事しながら、そう人数の多くない列に並んでいれば。僕の順番なんて、すぐに来たのだった。彼らの高さに合わせられた机は、ちょっとだけ人間の僕にとっては大きくて。精一杯背伸びしながら、受付の人らしき。黒豹の顔をしたレプリカントの人に。手渡す。チケットに不正がないか、見て、そして嗅いで。確認した後、細めた鋭い視線で睨まれて。人間である僕が、持って来た事に何かしら思う事があるのか。それでも、仕事は仕事と割り切ってくれたのか。特に何も言われなかった。
「……確認した。少し、待て」
ぶっきら棒に、言われて。席を立つと、そのままテントの奥にある木箱へと黒豹の人が向かっていく。しなやかだと印象を与える肉付きをしているけれど、鍛えているのか。軍服っぽい服装は、とてもタイトだ。長い猫科の尻尾が歩く度に揺れて、ひき締まったお尻のラインが見え隠れしていた。
黒豹が戻って来た時には。手には僕が渡したチケットではなく、既に纏められていたのか。いろいろな物が詰められた袋を持っていて。机の上に袋を置くと、中の物を出しながら。一つ一つ丁寧に説明される。業務として、人間の僕相手でもとても真面目な人なのだな。
「三日分の干し肉。浄化済みの水と、乾パン。今回は少量の香辛料と酒一瓶がおまけだ」
思ったより、豪勢なラインナップだった。もっと、保存食だけ配ってるのかと。そんな先入観があったから。趣向品まで扱ってるのかと。もしかして、仕事に対する褒美的なチケットなのだろうか。僕にはもったいないのを貰った気がする。お酒に関しては、ガルシェが喜びそうだった。
中身を見せてくれた黒豹は、丁寧な手付きで。元通りに袋へと詰め直して。そうして僕へと、手渡しで渡してくれた。ムスっとしてるし、なんか威圧感を感じるけれど。怒っているのだろうか。厳つい顔の人が多い気がするな、レプリカントの男の人で。そうして戦闘を生業にする人は。
「ありがとうございます」
黒豹の手に、触れないように。ちょっと気を遣いながら。袋を受け取り、そうしてはっきりと、お礼を言う。お仕事ご苦労様ですと、人間である僕にちゃんと業務をこなしてくれて。そんな意味で放った言葉であった。だから、渡した体勢のまま硬直して。黒い毛皮だからか、横に伸びた白い髭が面白いぐらいぴくぴく動いてるのが目立っていて。背後には、垂れ下がっていたのに持ち上がった長い尻尾。何だろうか。別にそれで返事があったわけではない。僕が首を傾げながら、後ろの順番待ちしている人が待ちくたびれてはいけないと。横へとズレると、黒豹の人も直ぐに元の調子に。変わらぬ無表情をそのままに。受付の仕事を再開していた。
荷物が増えてしまったから。どうしようと思ったが。配給品の袋にまだスペースがあったから、そこにお店で買った串肉の入った袋をそのまま入れてみる。うん、これなら持ち運びしやすいだろうか。そう大きくはないけれど、水と酒が入ったボトルがあるから。それなりに腕にずっしりとくる重さであった。あまり寄り道してると、腕が疲れそうだ。
そうやって、帰ろうとして。そこで、あの少年が消えた路地が視界に入ってしまった。だから、つい、足を止めて。そこを暫く眺める。商店街へと歩いていく筈だった、僕のブーツの先は。そのまま路地へと、向かっていて。記憶の中にあるガルシェの声がよぎった。
――自分から裏通りの方へは今後行くなよ、意味がなくなる。
片手だけで袋を保持して、空いた手を自身の鼻に近づけてみる。試しに、レプリカントの人達がしているみたいに。しっかりと自身の腕を嗅いでみるけれど。特にこれといって、におわなくて。正直、銀狼には悪いとは思いつつも。いつもよりも少し早めに、交換所へ行く事も考慮してあまり遅くならないように店長は帰してくれたから。時間的にもまだ、だいぶ余裕があって。今、僕の手元には。配給品が入った袋が、というよりもお店で買った串肉が入った袋があって。本当は、焼いてもらった時は帰ってガルシェと食べようかな、なんて。そう思っていたのに。
あの身体を売っていた子が入っていく姿と、そして赤茶色の狼の姿が脳裏にチラついた。まだ、お礼を言えていないのだし。そうそう今のように、丁度よさそうな機会もないであろうか。だから、仕事で街の外へと出ているのだから。彼の耳に届く筈もないのに。
「ごめん」
ただ一言そう呟いて、僕も、明るい表通りから。暗い路地へと、消えた。大丈夫、すぐに帰れば。
ちょっと迷いそうだったけれど。一度迷ったし、帰りは銀狼に抱えられて運ばれたのもあって。冷静に道を見る事ができたからか。そう時間はかからずに、ガカイドと出会った場所まで辿り着く事ができた。道は入り組んでいるけれど、正しい道だけを通れば、とてもすぐに着いてしまうのだな。まだ、夕方にもなっていない時間だから。夜を主戦場とするこの場所は、以前訪れた時よりもより、人が少なく。とてもすっからかんとしていた。開けられていた窓の中から、こちらを窺う視線を感じたけれど。その窓も、視線を感じてから間をおかず閉じられてしまった。
さて、困った。そういえば、来てみたはいいものの。あの赤茶色の狼の住んでいる家、それ自体知らないのを失念していた。誰かに尋ねるべきかと思うも、そもそも人がいないし、居ても親切な人であるかも保証がなかった。あまりに、考えなしであったな。ちょっとだけ、試しに裏通りのメインストリートらしき場所を歩いてみる。いかがわしいお店が並んでいるばかりで、さして興味はないのだが。そんな中でも、一応飲食店らしきものもあって。天井から吊るされた、生き物の死体。その下にはタライがあって、血抜きだろうか。赤い雫がそこに溜まっていた。血臭に思わず鼻を摘まむ。ちょっと、きつかった。だから、自然と速足になって。そんなお店すら、さっさと通り過ぎてしまう。
そうしてると、やっと住人らしきレプリカントの人がたむろしていて。道の端で談笑しているのか、まだこちらには気づいていない。あの人達に話しかけて、聞いてみようか。そう思い、近づいてみたのだが。ちょっと、というか、かなり。全員が恐ろしい顔をしていて。話しかけ辛かった。見た目が怖いだけで、実際は良い人かもしれないのだけれど。腰に拳銃を、普通に携帯していたし。どうみても堅気のそれではなく。人でいうマフィアとか、ヤクザめいていたから。だから、僕みたいな人間が。そう易々と喋りかける事ができる筈もなく。真っすぐ歩いていた僕の進路方向が、唐突に横へと曲がって。気づかれる前に、横道へと入った。ううん、やはり。帰ろうかな。見つけられそうにもないし。唯一、この街で背の高い建物である。学校。その位置を確認して。目的が達成される事なく、家へと。向かおうとして。すぐ近くにある扉が蹴破る勢いで開いて、そこから何かが飛び出してくる。それは、ゴミ袋が置かれていた山に突っ込んで。中身を少し散らかしていた。それと同時にキラリと。反射する物が、空中を舞い。僕の足元へと転がって来る。
「二度とその意地汚いつら見せんなっ」
関係ない僕まで竦みあがるような怒号、そして開いた扉から顔だけ出したレプリカントの男性。その横顔に見覚えがあって。それも素早く引っ込むと、勢いよく扉が閉じてしまった。そして、鍵を掛ける音までして。
何だったんだ。喧嘩、だろうか。関わるべきではない気がしたが、足元に落ちている物を確認する為に屈むと。それは、首飾りであった。動物の牙と、黄色い、琥珀のような宝石を通した。見た事のある。一緒に暮らす銀狼のとよく似た。まさか、彼のがここにある筈もあるまい。だとしたら。
それを丁寧に拾い、そして。持ち主であろう、ゴミ袋の山に身を横たえた。人の元へと、近寄る。そうすると、足と、尻尾が飛び出していて。そこに生えている毛は、赤茶色をしていたから。僕は、歩きだった足を速め。急いで駆け寄った。
唸っている男の声。起き上がれないのだろうか、いっこうに顔が見えない。だから、持っていた袋を地面へと置いて。ゴミ袋を掻き分ける。そうすると、見えて来た男の上半身と、狼の顔。
「大丈夫? ガカイド」
声を掛けるけれど、返事はなく。ただ呻き声だけ、狼の口から漏らしていた。状態を確認すると、手酷く痛めつけられたのか。毛皮があってもわかりにくい筈なのに、そうとわかる程顔が腫れていて。少しだけ、唇の端から血を流していた。この分だと、身体の至るところ同じ状態であろうな。片方は目が開かないのか、一つだけ。金色の瞳が薄く開かれる。ちょっと焦点が合っていない気がしたけれど、誰が目の前に居るのか。それはわかったのか、何か言おうとして。上手く喋れないのか、結局呻き声だけ発していた。
とりあえず、大事な首飾りを差し出してみるけれど。それを彼は見た。見たのだけれど、動いた毛皮を纏った腕。それが受け取ると思ったのに、さっと横にはらわれて。緩く持っていた僕の手から地面へと弾かれてしまう。ちょっと、何をするの。
ちょっとだけ、怒りという感情が湧いてくるも。今の彼の状態と、そして立場を考えて。先程見えた、ガカイドをここへ放り投げただろう男の横顔を思い出して。十中八九、僕のせいなのだと思った。彼がこうまで痛めつけられる原因になったのが、だ。あの少しだけ見えた横顔。それは、昨日僕を襲おうとした二人組の内。ガカイドが相手した方であった。
僕を逃がす為に、そうして。そして、今、こうなってしまったのだとしたら。見過ごせない理由ができてしまった。だから、傷だらけの狼の傍に屈んでいた僕は立ち上がり。歩きだす。それは見捨ててこの場を離れるのではなく、弾かれて少し遠くへと転がってしまった。大切なネックレスを拾う為で。もう一度、それを拾ったら。少し迷った後、僕は自身のポケットへとしまう。そして、床に置いていた袋を片手で抱え。空いている手を使い。倒れている男の腕を取る。頭の上を跨がして、そのまま僕の肩へと上半身をもたれかからせるように。狼の脇へと、僕の身体を滑り込まして。痩せているけれど、僕よりも体格はそれでもいいから。とても重い、重いのだけど。それでも、一生懸命持ち上げようとすると。フラフラとしながらも、何とか起き上がらせるのに成功する。彼も、一応意識があるから立とうとしてくれたからかもしれない。そうやって肩を貸したまま。
「家、どこ」
ただ簡潔に、そう尋ねた。開かれた狼の瞳が、僕を見つめていて。僕の行動の意図が読めず、迷っているふうであった。人がここに来た理由も彼は、いまいちわかっていないのだろう。ただお礼を言いに、まさか訪ねて来たとは。おずおずと、毛むくじゃらの手が持ち上がり。そうして、人差し指が道を指し示す。ならばと、僕はそちらへと歩きだした。彼も歩いてくれないと倒れてしまいそうなぐらい。肩を貸した僕はとても頼りない感じではあったけれど。それでも、ガカイドも。僕の横顔をずっと、不思議そうに見つめながら歩いてくれたから。何とかなった。さらに暗い、路地を抜けると。くたびれた一軒家があって。窓ガラスが割れて、そのひび割れをガムテープで補強していた。木造の小さな家。一瞬、物置小屋かと思うぐらいの小ささであった。でも、彼の指が指し示す通りに歩いて来たのだから。ここで間違いないのであろう。
扉へと近づくと、鍵はかけていないのか。僕は彼を支えて、なおかつもう片方の腕は自分の荷物を持っているから。両手が塞がっている。だからガカイドが自分で開けてくれて。中へと。外と同じ床の高さ、中へ入ってみると。一人で暮らすには案外快適なのかもしれない。狭いけれど。奥に布団と、そして。キッチンスペースはないのか、食器だけが部屋の隅に固めて寄せられていた。一応、境目として。敷物を敷いていたから、そこを汚さないように。ガカイドを座らせ、荷物を置き、靴を脱がせる。何もする気力がないのか、僕にされるがままであった。
僕も靴を脱いで、敷物の上へと踏み入り。もう一度肩を貸して、寝床へと彼を横たえる。万年床なのか、あまり綺麗とは言えなかった。
「……何しに来たんだよ」
やっと、口を聞いてくれたと思ったけれど。開口一番の台詞が、それか。それには無視を決め込み、使えそうな物を勝手に探して物色していると。丁度よさそうな布を見つけ、そして自分が持って来た荷物から。水を取り出し、少し湿らせる。貰ってから時間が少し経過していて、あまり冷えていないけれど、即席の濡れタオルを作ると。水気を絞り、そして腫れた狼の顔に押し付けた。触れると痛いのか、文句を言いながら顔が逃げようするけれど。無言でそれでも押し付けて。たまりかねたのか僕の手から奪い取ると。自身で痛くない程度の力加減で押し当てていた。
消毒とか、手当てをしたいけれど。生憎とこの家にはそんな物なさそうで。僕の手持ちにも、ない。配給品にはお酒もあったけれど、確か消毒に使えるアルコール度数と。一般に飲まれている度数はかなり違っていて、へたに使うとかえって傷に障ると聞いたような気がする。良かった、その部分は記憶が残ってて。中途半端に、映画で見たような事を真似して悪化させなくて。
大人しく、顔に濡れタオルを乗せて。布団に転がっている男の傍に、座る。もうこれ以上できる事はないなと。枕に預けた頭、その頭頂部に。人の手がそっと触れて、乱れた毛を撫でつける。
「ごめんね、きっと、僕のせいでそうなったんだよね」
小さな声で呟くようであったけれど。でも、この距離で聞こえない筈もなくて。鼻が詰まっているのか、ピスー、ピスーって。なんとも間抜けな鼻息が狼の湿った黒い鼻からしていた。それに、笑いがこみ上げる事などなかったが。僕の撫でる手が、鬱陶しいのか。よく動く耳が手首をぺちぺちと叩いてくる。目元部分にタオルを乗せているから、表情は見えなくて。そして、僕の呟きに対して何も言ってくれない。ただ、深呼吸する仕草だけは見えた。
何も言ってくれないけれど、ただ男の頭を撫で続けた。早々立ち去る事もできたけれど。それをできないのが僕だった。申し訳ないのに、ただ傍に居る事しかできない。謝るけれど、それで何も改善はされないのを知っているのに。無力なのを痛感する。
「たまに、あいつのところで手伝って。飯、食わせてもらってたんだよ。もう来るなって、言われたけど」
主語もなく、ただ。僕を責めるでもなく。事実だけを、狼は伝えていた。それで、また黙ってしまって。僕もそれに対して、そっか。って。そして、また、ごめんね。と言う事しかできなかった。本当にそれしか、できなかった。起きてしまった出来事は、元には戻らなくて。
ただ、事実として。僕を庇ったが為に。彼は貴重な職を一つ、失ったのだった。僕の、せいで。僕のせいなのに。お前のせいだと、庇うんじゃなかったと、後悔してると。そう言ってくれればいいのに、でも。彼は。そうはせずに、ただ抵抗もせずに撫でられて。僕の声は届いてる筈なのに、何も言わずに。それ以降黙ったままで。
ごめんね、ごめんなさい。ガカイド。ごめん。どうせなら、責めて欲しかった。そうして貰った方が、僕は謝り倒して。いっそ叩かれたり、殴ってくれたら。それで少しでも彼の気が済むのなら、そうしてくれてもいいのに。それだけの事があったのに。原因は僕なのに。どうして、そう、してくれないのか。やがて、呼吸が穏やかになって。寝息に変わってしまった。気絶ではないと思いたいけれど。それぐらい、彼の身体はボロボロで。痩せ細った身体に、酷であったろうに。血痕が赤茶色の毛に不規則に散っている、その上半身裸の身体を眺めて。
不意に。強く、目の前の男が。歯を食いしばった。握りしめた拳が、少し震えている。起きたのだろうか。ああ、そうしてくれるの。いいよ、殴られても。僕はそれだけの事を。でも、そうはならなくて。ただ、小さく、何かを言っていた。起きたわけではなかったようで。何を言っているのだろうか。寝言、なのだろうか。
あまり聞いていいものではないであろうが。少しだけ、耳を近づけてみる。動いている狼の口に。そうすると。
――ごめんなさい。ごめんなさい。なにもできなかった。ごめんなさい。もう、許して。嫌だ、もう、こんなの。許して、ください。
聞いて、後悔した。そんな事を言っているのかと。魘されていた、悪夢に。起きても、彼にとっては悪夢なのだろうか。夢も、現実にも、どこにも。居場所がないのであろうか。下唇を知らず知らず噛んでいた。関係ないのに、僕は。過去に起きた事に対して。でも。自然と行動に移していた。また、痛いほど握りこまれた彼の腕を取った。そして、優しく包み込むように。僕の、人の手が被さる。
「君は、悪くないよ。悪くなんてないよ、だから、自分をもう少しだけ。許してあげて」
そっと、耳元に囁いた。本当に身勝手な、僕の言葉を。無関係な、人の台詞。あのサモエドの顔が、脳裏に蘇る。娘を失った、母の顔を。でも、それでも、止められなかった。言うしか、なかった。どうしようもなくなってしまったから。僕にできる事など、何もないけれど。なにも知らない、部外者であったのに。関係ないと、彼にも、店長にも、言われて然るべき人物であったのに。本当に無責任な言葉を。囁いていた。
誰の味方なのであろうか。八方美人とも言えた。そんな今の自分に酷く、自己嫌悪する。こんな事を言ってなにになるんだ、偽善者ぶって。本当に、僕は。何もできない癖に、こんな事を言って。
でも、僕の言葉が届いたのか。それとも自力で悪夢から抜け出したのか。乱れていた呼吸と、食いしばっていた顎から。力が抜けて、息を吸い込んで吐き出す胸の上下する動きが。少し大人しくなる。包み込んでいた手が、少し開いて。その隙間に、僕の指を入れて。握りこんだ。これぐらいしか、してあげれないけれど。してあげるなんて、おこがましい考えであったけれど。そうせずにはいられなかった。
本当に、ごめんなさい。そして、助けてくれて、ありがとう。赤茶色の狼と、銀狼。二人共にもう裏通りには行くなと言われて、その言いつけを破り。こうして、結局何をしにきたのか。何がしたかったのか。自分でも、よくわからなくなってしまった。
帰ろう。
そうだ、帰ろう。遅くなるとまたガルシェが心配する。握っていた狼の手を放し、布団へと優しく横たえる。自分の持って来た荷物を忘れないように掴んで、帰る為に靴を履こう玄関へと向かい。そこで少し逡巡してしまう。振り返って、今は安らかな寝顔になったであろう。動物の顔をした人。布で隠れたその顔を見つめて。
僕は、ガルシェと一緒に食べようと思っていた串肉をそこへ。置いた。そして、干し肉と乾パンも。おばさんから貰った配給チケットの品物を、こうして、別の。よりにもよってガカイドにあげようとしているのは。とても罪深い事のように感じた。自分で稼いだお金で買った物ではないそれまで。
でも、何の権力も、養う力もない僕には。こうして、自分の手元にある物だけで。どう扱うかしか。そうする事しかできなかったから。もう二度と会うかも叶わぬ相手に、せめてもの。
ああ、早くしないと。暗くなる。人が増えて来てしまう。帰ろう、表でしか生きていけないのだから。裏の人と関わっても、お互い不幸になるだけだ。迷惑を、かけてばかりで。かける事しかできないで。
そんなちっぽけな人間の僕は、そうやって彼の家を後にした。
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