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序章

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 小さな物音で意識が覚醒する。耳に入ってくる、鳥だろうか。ピー、ピーって、どこかで鳴いている。息を吸う。そして、吐く。心臓が動いている。血の巡りを、見えてはいないが確かに感じる。指先を動かして、軽く握る。何もない、ただ指先に手のひらの感触。
 何も、見えない。どうしてだろうか。それはただ単に、瞳を閉じているからだった。なら、瞼を押し上げて。見てみないと。それをする前に穏やかに、そして柔らかく撫でる心地よい空気。背中に感じる硬い感触。少しだけ背中を擦りつけるみたいに身じろぎしてみると、小石だろうか。それが悪さをして痛みを感じる。平衡感覚もしっかりしてくると、自分がどこかに横たわっていると気づいた。僕は。そう、僕だ。
 そこで初めて、己という個を認識した。もう一度、鼻から空気を取り込んで。そうやって肺いっぱいに。僅かな草のにおい。そして少し、かび臭い。僕は今、どこにいるのだろうか。
 その答えを求めるには、やはり視覚情報を獲得するところからであった。ゆっくりと、瞼を持ち上げると。飛び込んで来た眩しさに、せっかく開いたというのにたまらず閉じてしまう。どうやら、光が真上から降り注いでいるようだ。ずっと閉じられていた僕の瞳孔は、とてもびっくりしてしまって。けれど、大丈夫。慣れたら見える筈だ。そう自分に言い聞かせて。再び。そう、再チャレンジだ。
 もう一度。ゆっくり。慎重に。とても時間をかけて、瞳の中にある小さな水晶体。それを縮めたりする筋肉が動く感覚。ぼやけた視界、ピントを徐々に合わせて。
「青い」
 視界いっぱいに広がる。広い、どこまでも、ずっと。綺麗な青。だから無意識に口を動かすと。僕の耳には子供っぽい、まだ声変わりの途中。大人になりきれない。男の子の声。これが、自分の声なんだと。新たな発見。
 ぱちぱちと瞬きしてみて、じっと見つめていると。やがて身体は大地から離れ。そうやって空へと。あの青空へと吸い込まれてしまいそうな、恐怖を感じるけれどその美しさに見惚れて。そこに、横合いから通り抜けていく一つの飛翔体。ピー、ピー。最初に聞こえた、あの鳴き声が右から左へと流れて行く。そうか、僕を起こしてくれたのはあの鳥さんなんだ。
 なんとなく、片手を持ち上げて。そうやって真っすぐに伸ばして、指先も全部広げて、あの飛ぶ鳥に。ぐっ、ぱっ。手を閉じて、開いて。遠くに飛んでいる鳥を掴めるわけもないのに。でも、僕の視界の中ではたしかに覆い隠して。手の中からするりと小さな鳥は逃げていく。感触は当然ない。なんどか遊んで。それに飽きると、首を動かしてみる。
 視界を埋め尽くしていた青が消えて。伸びあがってくるコンクリート。それは壁。崩れて、まるで虫食いみたいにぼろぼろになり鉄筋が剝き出しに。自分が横たわってる地面も、タイルが割れ。そして錆びた鉄、文字のH形だったりL形だったりする鉄の塊。真っすぐなのもあれば、途中で折れ曲がってるものまで、多種多様な赤く蝕まれた金属。あたり一面にそんな物が散乱していた。
 情報をここで整理すると、天井が崩れ。吹き抜けになった部屋。人間の男の子、一人が寝られる隙間。そのど真ん中に僕は横たわっているんだ。でも、どうして?
 一つ謎が解消されると、そこでまた新たな疑問。状況を確認したら、こんどは理由を探して。でも、思い当たる事がない。ここに寝ている前の記憶が。ない。眉間に力を入れ。んー、そう唸ってみても答えは浮かんでこない。わからないのが恐ろしい。そして、こんなところにただ独り。存在しているのが、寂しい。
 そんな感情を自覚して、漸く上半身だけを起こす。自分の身体。着ている服。そして靴。部屋の荒れ具合と正反対に、買って間もないのか。ほつれも、靴底の擦り減りもない。試しに上着に触れると、とても手触りのよい。肌を刺激しない、けれど丈夫な。伸ばしていた足を曲げてみると、違和感はなく。どこも突っ張らず、履いているズボンは伸縮して僕の動きについて来てくれる。
 曲げた事で足裏が地面へと触れる。手を横について、軽くお尻を持ち上げる。長くこんな硬い床で寝ていたからか、数センチ浮き上がっただけで。タイルへと僕のお尻はただいまをする。脹脛に、太腿に。腕に、肩に。力をどんどん追加していく。ぐんぐん視界が上昇して。一度だけふらついたけれど、僕はちゃんと立ち上がる事ができた。
 嬉しくて、ばんざいのポーズで一時停止する。まるで初めて立てたかのように。頬の筋肉まで、自然と。唇の端が持ち上がる。やった。できた。立てただけで喜んでいると、キラリと視界に入ってくる光。上からではなく横から。眩しい光線を飛ばしてくる元凶、光の差す方へと眩しさを辿ると。数メートル先、床に散らばるガラス片。それが太陽光を反射し、立ち上がった僕の顔を照らしていたのだった。一歩、そちらへと踏み出すと僕の体重によって。劣化したタイルが割れる。
 パキリ、パキパキ。そんな音をBGMに。足裏に伝わる、割れる心地いい感触を楽しみながら。ガラス片まで辿り着くと。それは踏まないように気をつけつつ。覗き込む。元は透明度が高かったのだろう。それも周りの仲間達と同じく劣化し、曇り、以前の輝きを失っていた。それでも照り返しに、人型を発見。屈みこんで、床に散乱する一番大きいガラス片。そこを覗き込むと人型も同じように近づいただけ大きく。その中にいる、僕を。見つけた。
 綺麗に整えられた髪、肌荒れ一つない肌。不思議そうな表情をする青年の顔。どこか幼さを残した。首を動かすと目の前の顔の角度が変わる。ずっと合わさった目線。どこからどう見ても、人間の男。僕の顔。昨日を思い出せないけれど、その顔が僕だとちゃんと認識していた。声だけだと、もっと自分の年齢は低いと思っていたけれど。顔が合わさるとそれも引き上げられる。追加される情報に、脳内のデータをアップデートしつつ。先程確かめた。綺麗な服を着た、ガラスに映りこむ自分を見つめる。僕。
 眉毛を動かし、頬を動かし。顎を動かし。表情を作っていると何かきっかけに思い出すかもと。そうしてみても、ただ時間だけが過ぎて。
 そこに、どこからか転がって来た石がガラスの中の僕を砕く事で終わりを迎える。なにするんだよと、見下ろしていた目線を、こんどは上へと跳ね上げて。降って湧いた理不尽を見上げる。軽く口が開いて、あー、そんな間抜けな声が出て。何かを噛むみたいに突如閉じる。それは、別の視線と目が合ってしまったからで。
 金色の瞳。そのまわりにある細やかな灰色の毛。横ではなく、頭の上に一対ある三角形の耳。長く突き出た鼻と口。それは獣の口吻、平べったい人の顔とは違う。最初、姿から記憶と照らし合わせていると犬だと思った。犬が、上から覗き込んでいると。でも違った、僕の記憶の中にあのように鋭い目をした犬はいない。あんなに大きい顔はしていない。僕よりも大きいその顔、まだ首から下は隠れて見えないけれど。もしかして、僕よりも大きいのでは。そこまで想像して、その生き物が犬ではないと悟る。あれは、そう。狼。狼だ。
 肉食動物である狼に見つめられていると理解して、背筋に冷たいものが這う。僕よりも大きいかもしれない、狼。それが上から見つめているんだ。でも僕が住んでいた場所では狼は存在しなかった筈なのに。人々がたくさん、肩が触れそうな程ひしめく箱。電車。高層ビル、渋滞した車の行進。そんな光景が浮かんできて。断片的な映像が頭に流れる。でもそれどころではなかった。ゆっくりと、片足を後ろへ。目線は合わせたまま。僕の動きに対して、身体の中、心臓はとても早く脈を打つ。音を立てて刺激したくないのに、心音がとてもうるさい。離れていてもあの耳に拾われそうで。
 僕の動作を見て、狼も動きを見せる。すっと覗き込んでいた姿勢から立ち上がった。天井の瓦礫から顔だけ出していたのに、肩、そして上半身が露わになり。そして縁へとブーツを履いた片足がかけられる。そう、四足であの狼は立ち上がったのではなかった。覗き込んでいた姿勢から、二足で。黒い革ジャンを着た、ダメージジーンズと呼ぶには限度がある太腿の毛が露出した青が色褪せたジーンズ。驚愕に逃げようとしていた足が止まる。
 狼が、服を着ていた。人間みたいに。二足で直立して。背丈は、目測で二メートルを超えているかもしれない。とても大きい、胸元を押し上げるパツパツのインナー。そして閉じる事を放棄した革製のジャンパー。光の加減で、灰色と思った毛並みは銀へと煌びやかに輝いてもいて。その毛並みの美しさにほんの少しだけ視線が釘付けになる。綺麗。
 異形の存在、あんな生き物知らない。驚きに、声もでない。なのに、見下ろしてくる目を細めた狼に。僕は目が離せなかった。野生動物から目線を外してはいけない、そんな意味合い、とうに忘れて。でも、もう一つ鈍く光を反射する物体を見つけて。鋭い爪を露出した指を隠しもしない。革ジャンに合わせてるのか、黒いオープンフィンガーグローブ。それに握られたこれまた黒い、鉄の。シルエットから、それは。銃。
 人間みたいに二足で立ち上がり。人間みたいに服を着て。人間みたいに銃を携帯した。狼の顔をした人の形をした何か。人狼、ワーウルフ、獣人。化け物。単語が脳内を駆け巡る。
 そして再び、死の警報が鳴り響く。喰い殺されるのではない、もしかしたら撃ち殺される。腰だめに小銃を持ち、それに繋がるベルトが肩へとかけられていて。銃口は未だ、こちらへと向けられていない。けれど、注がれる狼の鋭い視線は。それだけで僕を射殺しそうであった。狼の口吻。黒い鼻の下にある唇が開いていく、そうすると鋭い牙が徐々に露わになって。その者は、狼の鳴き声を発するのか、それとも人の言葉を喋るのか。聴こうと、聴覚に意識を集中すると。自分の唾液を飲み干す音がいやに大きく鼓膜を振動させる。
 そこに突如。壊れたラジオのスピーカーみたいな、けたたましい異音。そしてガシャガシャと慌ただしく近づいてくる音。先程の僕と同じ、それよりももっと大袈裟に、タイルを割り崩れた壁の隙間から飛び込んで来たのは鋼鉄の身体。四つ足の爪のみたいな足をモーターの駆動音をさせながら上下に動かし、ドラム缶のような胴体。そして赤く灯るランプに似た、一つの瞳。何かを探すように部屋の中をぎょろぎょろと動かし、内部の無機質なレンズが駆動する。上から微かに聞こえた舌打ち。そして、すぐ隣に重い物が落ちて来たのか大量に床のタイルが粉砕される音。
 慌てて、不思議な機械から視線を外し、横へと顔を向けると。着地し毛をなびかせる狼の横顔。重力から一時解放され、ジーンズの後ろから飛び出た。上へと浮き上がった銀色の長い尻尾。着地にと踏ん張った太腿が一回り膨張し、ジーンズの破れ具合が少し拡張されたのか、びりっと。タイルの割れる音に混じって繊維が悲鳴をあげた気がした。
 横へと、金の瞳が動き。隣の僕へと一瞬、狼が一瞥すると。銃を両手で保持していたのに。片方だけ離れ、左手が素早く僕の手首へと伸びてくる。そして前へと向いた彼の視線が機械を睨むのと、狼の顔をした、僕と同じ五本指が人の手首を掴む。
「逃げるぞ」
 そう低い声が聞こえるのはほぼ同時で。僕の前を通り過ぎていく大きな身体。その生き物から発せられた声は男性なのかと、呑気に考えている僕の身体がぐんと引っ張られる。彼が行った方へと、ジーンズから生えた尻尾に倣う様に。引きずられるに近い勢いで。そうして、僕らが先程居た場所が噴火した。どこかで聞いたエラー音のような、そのちょっと間抜けにも思える音。そんなものが背中越しにして。そして空気が焼けたと感じた時には、床が爆発していた。細かく砕けたタイルが、よくも踏んだなと怒りに雨のように降ってくる。それを気にする猶予を与えられるわけもなく、目の前を走る狼に腕を掴まれた僕は必死に、足をもつれさせながら。走っていた。こけそうになると、地面へと倒れる前に掴まれた腕がさらに引かれて無理やり姿勢を直される。掴まれた腕が、肩が抜けそうで痛んだ。
 自分で出せるとは思えない速度、目まぐるしく変わる景色。千切れた電線。窓ガラスが割れ、タイヤが裂け空気が全部抜けたのとは違う、ゴムが溶け地面へとへばりつき。走る事が叶わぬ寝そべる車。窓ガラスが残ってる方が珍しい建物。骨組みだけに変わり果てた、丸い机から伸びたパラソル。足が折れ倒れてしまった椅子。カフェテラスだったのだろうか、そう想像させるだけで古び壊れてしまった物達。それも走りながら、流れて行く景色を目で追っていると、途端に緑が埋め尽くす。踏みしめていたアスファルトの感触が消えて、土のそれに変わる。そして後ろから追ってくる、騒がしい電子音。そしてまた独特のエラー音をさせて、真横を一瞬通り過ぎる赤い光線。隣にあった木の真ん中に、とても風通しのよい穴が開く。そこは焦げたのか、穴からぷすぷすと煙を上げて。
 増える木の密度、生い茂る草。それを巧みに利用し、左右に動きながら相手の射線を気にしながら隠れ、逃げる。それでも、追ってくる機械の化け物と僕を引っ張る狼の化け物の距離は縮まりつつある。それを狼はわかっているのか、こちらへと走りながら振り向き。不機嫌そうに眉を寄せる。動物の顔で器用に表情を作るものだなと感心するも、その表情は走るのが遅いと言外に伝えていて。これ以上は無理だと、息切れする僕の肺。酸素が不足し、筋肉が悲鳴を上げ自分の感じる身体の重さが増していく。
 そしてまた、聞こえた舌打ち。僕を掴んだ手とは逆、小脇に抱えた小銃から手を離し腰へとグローブをつけた狼の手が動く。ポーチや、装飾品の多さが目立つ装備の中に手で握れるぐらいの筒。それを腰の留め具から抜き取ると、上に着いた蓋を親指だけで外し、露出した赤いボタンを押し込む。小声で聞こえる、三、二。数字を数える男の声。それを認識した時には、走っていた動きに急ブレーキをかけた狼が、勢いよく振り向く。そうすると手を引かれていた僕の身体は、狼を起点に慣性を殺せず振り回されて。足が地面から浮く中。辛うじて見えた、狼が握った筒状の物を追いかけて来た機械の化け物の方へと、放り投げる姿が見えたのも一瞬。手首を離してくれないのだから、そのまま狼の背に吸い込まれるように、毛並み豊かな尻尾の海へと飛び込んで。そして、炸裂音。
 間近で響いたつんざくようなそれに、耳鳴りがする。狼の耳が防御にとぺったりと倒れ、向こう側で青白い閃光が走る。花火みたいに、弾け、そしてドラム缶に四本の足を生やした機械のお化けは不規則に痙攣し電子音でもわかる悲鳴を森に。爪のような四本の足が身体を支えるのを止め、崩れ落ちようとする。先程狼が投げた筒状の何かが、真ん中あたりから開き放電していた。それは数秒間だけの短いものであったが、機械の肉体であるドラム缶の化け物には効果覿面であったようで。動作をぎこちなくしながらも、それでもこちらへと足を数歩動かしたのを最後に。横へと倒れ、小枝を折りながら地面へと転がった。
 銃口を向けたまま、油断なく相手を見据えていた狼も。もう動かないと判断したのか、小さく息を零し、肩から力を抜いていた。あんな、小さな物体で、目に見える程の電気を放電するなんてと。ただ唖然としていると。
「……おい」
 苛立った男の声ではじかれるように、狼の顔の方へと意識が引き戻されて。膝立ちで首が痛くなるほど見上げると、鼻筋に皴を寄せた恐ろしい顔。牙を、歯茎を剝き出しに。一緒にあれから逃げてきたのに、やっぱり食べるのかと肉食動物の恐ろしい表情に身を竦ませ、手に力が入ると。目の前の男の身体が不自然に跳ねた。そこで、彼の視線が僕ではなく。僕の手元へと注がれている事に気づいて。
「あっ」
 緊張に強く握りしめた、もふもふの、でも中にしっかりと芯のある。銀色をした。狼の尻尾。狼の顔と、尻尾と、交互に目線を動かして。グルルッ、そう唸られて熱い物でも触れた時みたいに急いで手を離す。手で軽く握られ箇所を、乱れた毛並みを整えながら。荒く、ふんっ、そう鼻を鳴らしていた。
「あ、その、ごめんなさい?」
 思わずその様子に謝罪を口にして、でも言葉尻自体は疑問形から抜け出せていなくて。動物の尻尾は敏感で、触ると嫌がる子が多いのはペットを飼っていなくても知っているぐらいの知識。目の前の不思議な生物にもそれはきっちり当てはまったようで。申し訳なさに、罪悪感が少しだけ顔を出す。
 地べたに座り込んで、手を右往左往している僕の事を睨んでいた狼さんは尻尾の毛並みが満足いくものになると。肩からかけられた小銃をしっかり持ち、そしてその銃口を僕へと向けた。より目になりながら、筒状の、弾丸の出口になる先っぽを見つめる。トリガーに太い指がかけられ、今か今かとGOサインを待ってる状態だ。それは僕の眉間へと、だ。
「いいか、簡潔に、しっかりと答えろ。嘘はなしだ」
 頭上から聞こえて来た、とても冷たい声音。細められた瞳、そこから覗く金色の瞳孔は僕を品定めしていて。上から下まで、じっくりと動いていく。不審な動作をすればすぐに射殺する意思が感じられた。先程の機械の化け物から一緒に逃げて来たのに、助けてくれたわけではなかったのだと。そう思った。
「一つ、なぜあそこに居た」
「わ、わかりません!」
 あの場所で寝ていた僕には、そう、ただ正直に答える以外はなかった。それよりも前の記憶がなく、自分が誰なのかすら。僕は、誰。そう自問して、名前すら出てこない事に気づく。顔を見た時、確かに自分だと認識した。なのに。目の前にいる狼の眉間の皴が深くなっていく。銃口は、ブレない。
「一つ、お前は何者だ」
「わかりません」
 僕は、人間で。そして、なんだ。目の前で僕に銃を向けている、この男も、誰で。何者なんだ。なぜ銃を向けられているんだ、僕は何も悪い事なんてしていないのに。目覚める以前の事は、わからない。
「一つ、ならその身なりはなんだ。まるで、おろしたてのように綺麗な服だ。どこで手に入れた、今時そこまで上等な服、そうはない」
 そう言われ、改めて狼さんが着ている服を見る。羽織っている革製の黒いジャンパー、それは中古品の如く汚れ、一部の繊維がほつれていた。中に着ている白いシャツも、そして履いているジーンズも。いや、ジーンズは太い太腿の膨張に負けて破けているだけのような気がする。でもなんども洗ったのか。とても色褪せたそれはとても年月が経過している気がして、買い替えてもいいような。しっかりと太い足先、そこを覆うブーツ。傷が細かく入り、紐が片方千切れたのか代用品で色違いになっていた。
 狼の男が着ている服装は、正直言って、みすぼらしい。それは自分が着ている服と比べてしまうと余計に、だ。彼の問いに、やはり自分が持ち合わせている答えは決まっていて。鋭く睨まれても、銃口を突き付けられても、それは何も変わる事はなく。
「……わか、りません」
 何もわからない自分に、命を摘み取られそうなこの状況に。何もかもわからないというのに、状況は待ってくれなくて。なんだか悲しくなってくる。本当に、僕が何をしたというのだろうと。目元にじんわりと水滴が溜まる。零れそうで、そこまでには至らないそんな瀬戸際。僕の表情を見てか、それとも一向に同じ返答しかしない相手に焦れてか。狼は舌打ちをすると、ずっと突き付けていた銃口を静かに下ろした。
 それによって場を満たしていた緊張も解けた気がしたが、だからといって僕の気分が浮上するわけではなく。項垂れていると、頭上でガシガシと乱暴に何かを掻きむしる音。上目遣いに見上げてみると、眉を寄せ、眼を瞑り。自身の後頭部を乱雑に片手で乱していた。
「あー、もう。めんどくせぇ……」
 餓鬼が。そう小さく吐き捨てた男は、肩頬を軽く痙攣させ、また見下ろしてくる。その目から伺わせる感情はどういったものか。銃を握っている親指部分だけが素早く上へと動き、暴発防止にとセーフティーをかけたためかカチリと音がした。空いてる方の片手がずいっと伸びてくる。人差し指が先程の銃口の代わりにと、眉間へと向けられ。鋭い爪がそこに。
「いいか! そこを動くなよ」
 強く、言い聞かせるように。そう言い放つと、すたすたと僕から離れていく男。振り向くさいに、尻尾が勢いよく顔にぶつかり頬を柔らかくビンタされる。唖然とする僕。離れていくその背を追っていると、背の低い枝を掻き分け、へし折る音がこんどは聞こえだした。がむしゃらに腕を動かす後ろ姿。確かそこには、僕達を追ってきた機械の化け物が。
 そう考えていると、大きな音と共にゴロゴロと足で蹴りながら転がされてきたのは、やはり。ドラム缶に似てると思ったその形状。横倒れになった今はとても転がしやすいのか。それとも狼の力が凄いのか、簡単に近くまで移動される。
 転がし終わると、その場にしゃがみ、目を細めながらぶつぶつ呟く狼の顔。腰についたポーチから小道具を取り出すと、どうやら解体作業に入ったようで。僕から興味が移ったようであった。小さな蓋を外し、パチパチとニッパーで何かを切り、そしてまたドライバーらしきものでネジを外す姿。お目当ての物でないのか、時折取れた物を眺めては適当に投げ捨てる。
 今なら、逃げられるのではないか。そう、狼が集中しだしたからか。僕にも余裕が生まれて、そんな考えがよぎる。今なら、森のなかだ。銃の射線もそう通らない。作業が終わればどうせ、よからぬ事になりそうだ。でなければこの男が、狼が、意味もなく僕へ銃を向けまい。今なら。
「逃げてもお前のにおいは覚えたから無駄だ」
 動こうと、腰を上げかけて。その気配を敏感に察した男が、見てもないのにそう釘を刺してきた。機械から顔をあげ、自身の黒く濡れた鼻を、人差し指でトントンと。強調するように軽く叩く。見かけだけではないと、その機能は動物並みだと言っているようであった。ならば、たとえ運良く狼を撒けても疲れ果てた途端追いつかれるのであろうと。そう、感じた。
 だから僕がゆっくりと、もう一度地面へ座りなおすのをじっと見つめていた狼は一言。
「いい子だ」
 意地悪に、片方の口の端だけ持ち上げて。嗤う。どうやら、あの時。崩れた天井から彼が僕を見つけた時。運命の流れは決まっていたようで。逃げられる可能性はなかったのだ。作業に戻った男を眺める気分でもなくなった僕は、また俯き。そこで震えている足を見た。ああ、これでは。逃げても満足に走れなかったなと。実行に移さなくて良かったと、無気力になった思考で。身体の疲れを感じ。そしてじくじくと、何か、片腕に違和感を感じて。なんだろうかと、不思議に違和感の正体を探す。
 腕を上げて、そこをどうなってるか観察すると。狼に強く握られ、肉球の形に軽く跡が残っていた。圧迫されすぎて痛覚が麻痺していたのだろうか、じんわりと滲む。それは、血だった。そういえば、彼の手には鋭い爪が伸びていたなと。他人事のように、その傷を眺める。腕を上げると。滲んだ、とろみのある液体は重力に従い肌を伝い。手首から肘へと流れて行く。
 呆然と、血の行く末を目で追い。それが地面へと垂れるのまで見送ると、視界の端にブーツの先。そして、僕の周りだけ暗くなる。それは、いつの間にか作業を終えた男が近づき。上から覗き込むように見下ろしてるからで。
 見上げれば当然、金色の瞳があって。それが真っすぐに、傷口へと向かっていた。鼻を鳴らし、血の臭いを嗅ぎ取ったのか。首を傾げ、片目を瞑るその顔。狼なのに、こうも表情が豊かなのだなと。傷つけられておいて、他人の表情ばかり気にして。といっても獣の顔だったが。
「……人間って脆いのな」
 そう自分勝手に、自分でつけときながら言い。また手が伸びてくる。こんどは傷つけた方ではなく、まだ傷一つない腕の方へ。また、それでもたらされる痛みを予想して。思わず身体を捻り、腕を隠す。そこまで痛いわけではないが、自ら好んで傷つけられる事をよしとはできなかったのだから。僕の咄嗟にとった行動は自分でも納得できるもので。だが、銃を持った相手に。抵抗とも取れる行動に、やってから、しまったと。遅れて思った。
 掴もうとして、空中でからぶった手。自分よりも大きな、簡単に僕の頭すら握りつぶせそうな。指の部分だけ覆われていないグローブ。また、狼の舌打ちが聞こえた。それにびくりと肩を震わせて。空気が、少しぴりついた気がした。
「……いいから、来い」
 再び手首を目指した狼の手は、逃げたいのにそうできない人の手首を呆気なく捕まえて。引っ張られる。簡単に浮く僕の身体。片腕で、いとも容易く。左手で僕を捕まえたまま、抵抗しないのを確認した男は。右手で銃を構え直し、周辺を警戒しながら歩を進めだした。どこか、目的地があるのかその歩みに迷いはなく。多少ふらつく僕の足などお構いなしに、手首を掴んだ手は離れない。だが、逃げて来た時のように強い力で握っていない事を圧迫感の違いから感じ。爪が刺さらないようにか、その力加減は幾分か緩い。痛みは感じないが、それでもやはり少し強めで力加減を模索しているようであった。もしかして、気にしている?
 身長の高い、男の背。革ジャン越しでもわかる、筋肉の凸凹がはっきりと浮かんだ力強い背。それに聞く事はできなくて。ただ黙って、連行される。数分歩いただろうか。見知らぬ森を目印もなく、先導されるまま歩いたから道など覚えられるわけもなく。狼の身体に当たり、しなった枝が後ろに居る僕へと襲い掛かるため。それを避けるのに必死でもあったから。覚える努力すらできなかった。
 走る時よりも精神をすり減らす時間が終わったのは、遠目にドーム型のテントらしき物が森の中、急に表れたからで。大自然の中に突如として出現した人工物。周囲に擬態するためか、迷彩柄であっても近づけば簡単に発見できて。でも急に表れたと感じたのは、それだけ遠目からでは発見が困難だという事で。
 テントの隣に燃え移らないように適当な石で囲われた焚火の跡、その近くまで連れて来られると漸く離れる狼の手。試しに確認してみても、右手首みたいに鬱血も、擦傷もなかった。僕が手首を眺めている間、テントの中へと消えた狼さんは。そう間をおかず、手に荷物を持って帰って来た。小さな箱を子気味良い音をさせて開くと、取り出したのは液体が入った小瓶と綿。それで、どうするのだろうか。
 綿を掴み、液体を垂らすとそのまま。片腕で逃げないようにか、僕の腕を再び掴んで来た男は。もう片方の手。人差し指と親指で掴んだ、何かの液体で濡らされた綿を、今度は僕の右手首へと押し付けて来て。途端、ぴりぴりと細かく刺すような痛み。軽い力で、ぽんぽんと何度も押し当ててるだけなのに。痛覚を刺激される。たまらず身じろぎすると。
「動くな、消毒しているだけだ」
 冷たく言い放たれて。でも、動作は思ったよりは優しくて困惑する。そうやって粗方消毒を終えると、綿を地面へと不法投棄していた。使った物をゴミ箱ではなく森へ捨てる行為に、自然と僕の眉間に力が入るのを感じる。痛みよりも、そちらの方がよっぽど気になった。
 次いで、しゅるしゅると音が聞こえて。目線を戻すと、真新しい包帯を器用に巻き付けているところであった。自身の日焼けしていない色白の肌に、もっと白いのが巻き付いて。最後に紙テープらしき物で止めて、応急処置は完了とばかりに。持ってきた物をさっさと男は片付けだした。
 じっと、不思議に見つめいていた。助けたり、銃で脅したり、こうして手当てしたり。男の真意が読めなくて。警戒していいのか、距離感が掴めない。味方なのか。
「……あ? なんだよ」
 何も言わず視線を投げていた事に気を悪くしたのか。不機嫌を隠しもせず。三眼目がこちらへ向く。狼独特の鋭さだけではなく、この男は人相が悪い気がした。動物の顔の違いなど細かく気にした事はなかったが。表情をこうも変え、人の言葉を使うからか。自分はそんな相手をしきりに観察してる事に気づいた。言葉遣いも、正直短い時間からも粗暴と感じる。
「医者に簡単にかかれないから、小さい傷もほっとかないのは常識だろ。なに不思議そうにしてるんだよ、バカかよ」
 紡がれた単語。その中に自分を直接的に蔑む単語があり、むっと下唇を持ち上げる。既に狼の顔は違う方向へと、言いながら向けられてしまったから、見られる事はなかったが。片耳だけ、なんどかパタパタと動くその後頭部。この男が傷を作っておきながらと、内心むかむかと。胸の内に湧いてくる感情。かさり。足元から音が不意に聞こえ。僕の手当をするためか、見ると狼の長い尾がしゃがんでいるために地面に触れていて。木の葉を箒のように動かしていた。挙動不審なその動作を見て。
 こちらへ顔を合わせようとしない態度。動く耳と尾。自身の巻かれた包帯を見て。暫く思案する。自身の置かれた状況を。手当てされてしまったから、言わなければいけない気もした。気もしたが、そうする事に躊躇して。その何かを待っているような背に向けて。
「ありがとう?」
 なんとなく、そう口にしていた。ただの勘だった。だが、動きの速くなった木の葉を集める動きに。もしかして、悪い人ではないのかもしれないと。少しだけ思った。ほんの少しだけ。傷をつけたのは目の前の男なのだから、やはり釈然としないが。
 小さな箱、恐らくは救急箱であったのであろう。それを片付けて。肩にかけた銃はそのままに、男は火を起こそうとしているみたいであった。まだ全て燃え切っていない焚火の跡。かけていた砂を落とし、再度軽く組みなおしたら落ちていた木の葉と、紙切れを隙間に入れ。
 ポケットを漁っていた手は、小さな箱状の物を取り出す。きらりと彼の毛並みとは違う銀色に反射する表面は、綺麗に磨かれているようで。その上部を親指で弾くと耳当たりの良い音がした。上に弾いた親指が、今度は下へと素早く動くと、しゅぼっ、そう小さな音をさせながら火が生まれた。ジッポライターだ、あれ。
 どう火を起こすのかなと、まさか木を擦り合わせるとは思ってなかったが。動物の顔をしているから。原始的なのを想像して。でもちゃんと便利な道具を持っていた。実際服を着て、銃を携帯した目の前の男は。蛮族とも違う。文明人、と言えるのであろうか。
 そのまま、枝達を炙ると。燃え移りやすい紙などに引火して、それはやがて乾いた枝へと。だんだんと大きく、力強く、暖かな炎となって。
 狼の手が、いつのまにか取り出した紙煙草。焚火を見ながら、まだ消していないジッポライターを口元、咥えた煙草の先へと向かわせ。カチンッ。蓋を閉じると深く息を吸いながら、狼のマズルが空へと向かう。そうして、咥えた煙草の隙間から、大きく膨れた胸が萎むのに合わせて、煙が噴き出て。
「お前、名は」
 一服し始めた狼の顔を見ていた僕は、唐突に投げかけられた質問に反応が遅れる。夕日に照らされて、銀色が紅く反射してとても綺麗で。見惚れていたのもあった。夕日、そうか。もう日が落ち始めているのか。だから仮の拠点にしているテントへ連れて来たのかと。焚火をつけて、夜を此処で明かすつもりなのだ。この男は。
 だが、自分の名前を聞かれている事に遅れて気づいても。僕は、やはり考えてみても、思い出す事もできておらず。
「あんだろ、名前ぐらい」
 再度、わかってないと思ったのかそう口にする狼の顔。動物の口で、鋭い牙が覗き、長い舌が時折見えるのにどうやって発音しているのだろうかと。不思議で。起きてから不思議が抱えきれないぐらいたくさん、僕の処理能力では既にオーバーしていて。されど、解消されるのはとても少なかった。
 答えられない自分に、どかりと地面に腰を落ち着けた男は。暫く待っていたのだが、考えていた事が纏まったのか。確信を持てなさそうな声音で。
「……お前、まさか、記憶が?」
 半信半疑。自分の考えを自分でまさかなと否定しながらも。それでも問いかけずにはいられなかったのか。僕がそれにだけ黙ったままでも、確かに頷いてしまうものだから。予感が的中し吸ってる事を忘れたのか、長く伸びた煙草の灰が胡坐をかいた男の脹脛にぽとりと落ちた。あー、まじかよ。そんな声まで聞こえてくる。
 僕は悪くないと思いたいのに、なぜか罪悪感が襲う。されど、だからといって何も思い出せないのだけど。二人に沈黙が訪れて、僕がただ佇んでどうしようもなくなっているだけであった。咥えていた煙草を、フィルター部分ギリギリまで吸いきったのをいい機会と。立ち上がった狼の顔させた男は、地面に落とした吸い殻をブーツで踏みつける。また、捨ててる。そう目線でつい追ってしまう。
「あーもう、辛気臭ぇ。飯だ、飯」
 テントの中へと、再び身体を突っ込んで。先程よりも長い時間物色していた男は、二つ、缶詰を取り出すと。その内の一つを投げてよこした。慌てて、受け取ろうとするが。あまり反射神経はよくなかったみたいで、胸を強打しつつも抱きとめるように受け取って。耳に、何してんだよと、そんな声。
 ブーツで土を踏みしめながら、近づいて来た男は。今度は手渡しにと何かを差し出す。二つ一緒に握られたそれは、スプーンで。ただ、少々欠けたりと痛んでいた。くたびれたそれ。僕が片方だけ掴んだのを確認すると先程座っていた位置に戻っていく銀色の尾。
「今日は何味かな」
 ここに来て、初めて狼のご機嫌な声。何をと、自分の缶詰を確認するとラベルが剥がれ中身がわからなかった。中身がわからないのなら、男の発言も頷ける。食を楽しみにしているのだろうか、中身がわからないのならランダム性を娯楽として一緒に味わうのも一つの趣かもしれない。
 パキリ。大きめのプルタブを爪を引っかけて開けた狼は舌なめずりしながら缶詰の中身を嗅いでいた。メトロノームのように後ろで揺れる尻尾の激しさ。スプーンを突き刺し、口元へ運んではばくりと。大きく開いた口が、閉じる。プラスチックでできたスプーンすら噛み砕きそうな勢いで齧り付く。もごもごと口を動かし、ゴムパッキンみたいな唇の端から抜け出て来た唾液濡れのスプーンは無事のようで。ちょっとだけひやひやした胸を撫でおろす。自分の分に渡された缶詰。それをひっくり返したりして、日付をつい確認する。だが、ラベルと一緒で削られてしまったのかどこにも書いていない。
 古そうだが、たしか痛んだ缶詰は中身が膨張すると聞いたような気がするし。たぶん大丈夫だろう。たぶん。そう言い聞かせながら。先に食事を始めた狼に倣い、人の丸く整えられた爪を苦労して引っかける。弱いのか、プルタブを起こすだけで少し爪が剥がれそうで痛い。でも苦労して開けると、やっと僕の分の食事と出会えて。完全には取らず、蓋を真っすぐ立てた後、
覗き込んで。中身を。
「っ!!」
 思わず缶詰を遠くに持ちながら、スプーンを持った手で鼻を摘まむ。鼻腔に飛び込んで来た異臭。美味しそうに狼が食べているから、中身は見ていないのに美味しい物だと、そう勝手に期待していた。のだが。恐る恐るもう一度顔の前まで持ってきて、鼻を摘まむ指の力を緩めて。試しに嗅いでみても。やはり、突き刺すような。腐った臭い。空腹を自覚し始めたお腹なのに、胃が拒絶反応を示し。胃酸が登って来るのが感じられた。唾液が溢れる前に、嘔吐物が口から零れそうで。
 缶詰から目線を離し、焚火を挟んで順調に食べ進めている狼の姿を確認して。また缶詰へ。中身をスプーンの先でつんつんとつつきながら、食べようか悩む。これは、どう考えても。缶詰は缶詰でも、人用のではなく。ドッグフードだった。
 あまり息を吸わないようにしながら、漂う不快な臭いを一緒に吸わないように悪足掻きする。軽くつつく動作から、ゆっくりと突き刺していくと柔らかい感触。ずぶずぶと沈む、へどろのような茶色く他にもいろいろ混ざった緑とか黒い小さな固形物。見た目でも食欲が促進されない。賞味期限とかの前に、人が食べても大丈夫なのであろうか。そんな不安がよぎる。
 上へと、スプーンを水平にしながら持ち上げると。ぷるぷるとゼリー状の部分が含まれた、肉を摺り潰したであろう何かの塊が乗っている。せっかく僕の分にと用意してくれたのだし、食べなければ無作法であろうか。そう葛藤しながら口元へ近づけて、手が震える。
 大丈夫、食べても死なない。大丈夫。そう言い聞かせる事しかできない。意を決して、大きく開いた口に。放り込むようにして、口と一緒に目を瞑って。舌の上に乗った塊が味蕾を刺激し、脳へと味を伝達するのと同時に。口から鼻の奥へと逆流してくる香りに、一度も咀嚼する事も叶わず、気づいた時には吐き出していた。
 それでも気を遣い、缶詰の中身を零さないようにしながら。盛大に咽る。一欠けらも飲み込めず、吐き出す。涙まで出て来た。
「おい、大丈夫か?」
 慌てて、大きな気配が近づいてくる。僕が握っていた缶詰を奪い取り、しきりに異常がないか嗅ぐ銀狼。毒物か、腐っていたのかと、確認してくれてるようで。最終的には中身を食べて、結局異常は見つけられなかったのだろうか。咽るのが落ちつき、スプーンを握ったまま座っている僕を訝しんでいた。
 どうやら、味覚に決定的な差異があるようだった。僕には、とても、お世辞にも美味しいとは感じられず。というより、身体が食べ物と認識してくれなかった。記憶をなくし、目覚めてから初めての食事は、ワースト一位を独走して終わった。
「こんなにうめぇのに……」
 自分の分をたいらげたら。僕が一口だけ食べた缶詰も、半分ほど食べ進めた段階でそう漏らしていた、目の前の男。偏食だなお前。そんな目で見つめられても、無理なものは無理で。今は保存食である、とてもパサパサしたビスケットを代用品に渡されて、僕は咀嚼していた。噛み締めれば噛み締めるほど、歯茎にへばりつき、口内の水分を吸いつくすそれ。もそもそと食べ辛いのを、苦労しながら喉へと通す。
 テントの中から持ってきた大きめのリュックサック、その中から缶詰も、そして今食べているビスケットも出てきたのだが。僕より先に缶詰を二つ完食した男は、水筒を取り出すと口を付け、傾ける。ごくっ、ごくっ、そう音をさせながら。毛皮があってもはっきり太い首に浮かび上がる喉仏が大きく動く姿に。思わず僕まで喉が鳴る。乾きが凄かった。口の中が。
 飲みながら、横目に僕の表情を読み取った狼は。水筒から口を離すと、手の甲で拭った後。蓋を綺麗に閉め。そしてまた、軽い掛け声と共に投げ渡してくる。缶詰よりも中身が減った水筒は、思ったよりは軽く、今度は失敗する事なく空中で掴む事に成功する。
 蓋を開け、飲み口を見る。先程狼が口を付けていたそこ。間接的に。そう思うと躊躇してしまうが、今の喉の渇き具合では些末な事と。先程の缶詰を食べる事よりは抵抗が薄かったのもあり、口を付ける。傾け、唇に当たる冷えていない生温い水の感触。唇に隙間を作ると、流れ込み始める液体。舌へと触れると乾きを潤しながら、正直口当たりは硬く、あまり美味しくはないと思えたのだが。不思議と勢いよく嚥下できたから、思った以上に喉が渇いていたのだった。
「おい、それしかないんだから全部飲むなよ!」
 止まらない勢いに、慌てた男の声が聞こえて。今までの扱いと、手首の傷もあったから。さして一気飲みできない量ではないのもあって。取り上げられる前に、全てを飲み干す事で男へ対する小さな仕返しとした。残念そうに大声を上げ、水筒を逆さにする大男の姿は。少しだけ溜飲が下がる気がした。
 恨めしそうに睨みつけてくる視線。別に銃を向けられてるわけではないから、そしてそれをしようとしないからか。最初よりも余裕を持って対応していた。素知らぬ顔で。案外僕って図太い性格をしているのかもしれない。驚く事ばかりで、麻痺し始めたとも言えたが。
 夜も更けてくると、風が出て来たためか少し肌寒く感じた。焚火との距離を少しだけ縮め、自身を抱きしめながら二の腕を擦る。目の前で揺れる炎。時折弾ける火花。風向きのせいか、温もりが近いのに、遠い。
 末端から体温が奪われていく。とても仕立てのいい服だが、薄着なせいか防寒性能は心許ない。耐えようとしていると、生理現象で軽く身体が一度ぶるりと震え。向かいに居る狼を見る。風に揺られる毛並み。月光に上から照らされ、顎下にかけてを焚火による炎で影が揺れる。銀色の毛並みは、光の質を変えれば、見え方が変わり。どの時も、同じ様に映すことはなく。とても、綺麗で。口を開かなければ、とても美しい生き物に思えた。片足を立て、肘をそこに置いて座るその姿は。
 炎を見つめる金色の目。赤が付加され、橙色に輝く。瞳孔が小さくなった獣の瞳。自分とは、人間の僕とはどこもかしこも違う。同じ言葉を喋り、同じ物を食べ、生きてる事以外まるで違うのに。不思議な生物だ。記憶の中、断片的な常識の範疇では存在しないのが。実際に目の前で喋って、食べて、呼吸をしているのが。自然体で服を着て。
 考え事をしながら、夜風に当たる。森の中だから、焚火の灯りが消えてしまえば月明りだけで。とても暗い夜道を歩ける気がしない。地肌を冷えた空気が包み、また身体が震える。
 炎を見つめていた筈の狼の瞳。それが不意に下から上へと動いて、ちょうど僕と目線が合う場所で止まる。ばちりと合ったそれに、すぐに視線をズラし貴方の顔など見ていませんと白を切る。目が合ったのに、意味はない。文句でも言いたいのか、静かに立ち上がる男。ただでさえ体格差があるというのに、向こうが立ち上がり、こちらが座ったままとなれば。見上げると首が痛い。そんな狼さんは何か言いたいのか、口をもごもごとさせ、難しい顔。
 焚火を回り込んで、隣に立たれるといよいよもって威圧感が増す。少しだけ、座ったままたじろいでしまって。睨みつけてくる相手の視線に、そして、素早く動いた彼の手に。目を瞑り、肩を竦ませる。間。何かされると思ったのだが、訪れる痛みはなく。そして怒号も。何もない、何も。だが、ふわりと肩に掛かる重み。そこからじんわりと伝わる熱。目を閉じ、真っ暗な視界で遠ざかっていく気配。恐る恐る、瞼を開けて。元の位置、真向いに胡坐をかいて、頬杖をつき、不機嫌そうな顔はそのままに。顔はてんで別の方向。何だろうか。そして、気づく。彼の服装が変わっている事に、一枚、特徴的な物が欠けていた。
 黒い革製のジャンパー。それがなくなり、上半身は白いシャツ一枚が彼の恰好に変わっていて。では、革ジャンはどこへ。寒さに腕を擦ろうとして、硬い生地の感触に阻まれる。目線を、彼から、自分自身へと移すと。消えた革ジャンの行方。それは、僕の肩へと大雑把にかけられていた。
 先程まで彼が着ていた服。体温が僕よりも高いのか、革ジャンに残った熱は人の僕よりもとても暖かく。そして夜風を遮るには、生地の厚さがとても適していた。
「……寒いんだろ」
 慣れない生地の手触りに、なんども撫でていると。耳に入ってくる低い男の声。意地でも目線を合わせようとしない、狼の姿。ばつが悪そうに。片耳だけパタパタと忙しない。もう一度、今度は自分でちゃんと羽織る。身を縮こまらせて、鼻を寄せると。狼の獣臭、そして銘柄はわからないが彼の愛用であろうしみついた煙草の臭い。あまり好んで嗅ぐものではないのに、今だけはそれすら温かさを纏っている気がした。
 だから、小さく、くすりと笑う。収音性が高い狼の耳はしっかりと聞こえたようで、また舌打ちをするのを僕の人の耳でも捉える。彼の癖なのだろうか。あまり褒められたものではないが、ちょっとだけそれを可愛いと思うのは。自身の警戒心が少しずつ消えているからで。
 いや、初めて会ったあの時。彼の毛並みに見惚れたのだから、命が脅かされないのであれば既に警戒心など存在していなかったのかもしれない。ただ、生存本能で身体が動くだけで。
「ありがとう」
 疑問符でもなく、つっかえる事もなく、裏表もない。ただ素直に、彼にそう言えた。僕のお礼の言葉に、返事はなかったけれど。彼の眉間の皴が幾分か解れたのだけ、暗がりでもわかった。
 本来は上半身だけを覆い隠すそれは、体格のいい男が着ていたサイズのであって。僕みたいな小柄な人間では、座った状態であれば下半身も隠せてしまえた。顔だけ出して、それ以外は中へとしまうと。それ以降寒さに震える事はなかった。
「ガルシェ」
 唐突に聞こえた単語。何を指し示すものか、それだけでは判断材料が不足し。首を傾げてしまう。頬杖をつくのをやめた狼の顔をした男は、少しだけ態勢を変えながら。しっかりとこちらへ向きと合う。真っすぐ今度は逸らされない瞳。それに、なんだかドキリとしてしまって。
「名前だ、俺の」
 さらに追加された単語。そこで僕は納得して。今、名乗られているのだ。走って逃げ、連行され、手当てを受け。そして食事を共にし、服を借りた今更。高い知性のある生き物であるのだからそれは当然、狼さんなどと勝手に呼んでいたけれど。個別に識別する名前があって当然で。学名でも、姿で似ている生き物で呼ぶでもない。彼を、彼たらしめる。名前。僕に、ない。思い出せない、それ。
「……ガルシェ」
「ああ、そうだ」
 オウム返しに、呟いて。狼のマズルが上下し、頷かれる。名乗られたなら、名乗り返すのが礼儀だろう。なのに。
「僕は……」
 そうしようとして、記憶が浮上してくる事はなく。言おうとして、途切れる。僕は。そう口を開いて、吐息だけが虚しく出た。言えて当然なのに。僕も。
「本当に記憶がないのか?」
 確認にと、再び聞かれる。だからそれに頷き、ぽつり、ぽつりと。自分があそこで目覚めて、そしてそれより以前の記憶がない事を伝える。ぼんやりと、日常生活に困らない程度の。物などに関する記憶はある。けれど、自分に関してだけは綺麗に抜けていた。まるで、そこだけ意図して消されたかのように。
 話しを聞いた狼さん。ガルシェは。腕を組み、目を瞑ったままうんうん唸っていた。記憶がないせいで、彼を困らせている事に。申し訳なさと。どうしようもないのに。怪しさ満点の僕にこうして食事を提供し、寒さに震えていれば服を貸す目の前の男が。悪い人ではないのだと、最初に銃口を向けられたとしても。あんな機械の化け物が襲ってくる恐ろしい土地で、彼も身を守るためにそうしたのではと考えれば、納得してしまえて。もう、その事に対してとやかく言う気にはなれなかった。手首のも、一応仕返しはしたのだし。
 行く当ても、どこから来たかも、そして自分が誰かもわからない。情報を持ち合わせていない自分は。
「……俺の家に来いよ」
 何かを思いついたのか、口角を上げた男は突拍子もなくそんな提案をする。こんな、得体のしれない人間相手に。そして、僕にとっても得体のしれない。異種族の男の住処へと行くのには抵抗があって。
「会って間もない人にご厄介になるのは……」
 これは建前が半分。本音は本当は少し垣間見えた優しさは全部嘘で、着いて行ったが最後。あの狼の口でバリボリと咀嚼され夜ご飯にされるのを危惧して。それか、よくて奴隷紛いに。自分と同じ人間がいるかもわからない土地で、異種族の住処へ行くのはリスクが高すぎた。本当は彼の種族と人間が戦争をしていたり、何かしらいざこざがあってもおかしくない。もしくは、人間自体がおらず。珍しい生き物として商品にされるか。
 人間って脆いのな。少し前の男の口振りから、人間が存在しない線は一応消えていて。慎重に、身の振り方を決めないといけなかった。記憶がないからと、なんでもほいほいと鵜呑みにしたり、着いていくのは止めるべきだ。
「んだよ、信用ならないか?」
 上がっていた口角が下がり、睨まれる。だが、そんな表情はまた意地悪な狼らしい表情に変わり。愉快そうに、自身の太腿を男は叩いた。
「言っとくが拒否権はないぞ、インセクトカスクから助けるさいに使ったボム。あれ、弁償してもらわなきゃいけないしな」
「なっ!?」
 とんでもない条件を出されて、驚きに立ち上がる。ニシシと、声に出してこちらを嗤う男。相手の革ジャンを羽織ったまま前のめりに言い返そうとして。
「それに、一人であいつらから逃げられるとでも? たとえ逃げられても、どうやって食べていくんだ?」
 喉から上へと、口にしようとした反論は押しとどめられて。ぐうの音も出ない。銃も扱えない、逃げ足も遅い、戦えない身であんなのがうようよしているのだとしたら。この男と一緒に行く方がまだマシなのではと思えた。
 さて、どうする? そう余裕たっぷりに、こちらの答えを待つ狼。銀の毛が風に靡き、鋭い目線が不必要に相手を威圧する。答えを選ばせているようで、既に決まっている気がした。何も言えずにいると。決まりだなと。そう判断される。
「よし、それじゃ明日は早くから移動するし寝るぞ」
 一声、僕へそう言うと。慣れた手付きで、焚火に砂をかけ。最初と同じように後始末をしだすガルシェ。石で囲われ、焼く領域は定められ制限されていたとはいえ、メラメラと力強く燃え盛っていた炎はあっさりとそれで鎮火して。ふっ、と。火でもたらされる灯りで慣れていた人の目では、一瞬で黒が場を覆い視界が奪われて。不安に。胸元、革ジャンにあるファスナーを握る。唐突に訪れた暗闇に。眼球を左右に動かしても、何も見通せない。
「ガルシェ」
 鎮火してしまった焚火を挟んで向こう側にいる筈の彼へと、呼びかける。何か、他に明かりを。
「なんだ?」
 僕の焦りとは正反対に男性の呑気な声。前ではなく、横。それも思ったよりも近くから。革ジャン越しに触れる、肩を掴まれる感触。息遣いを感じて。そこに、いるのであろう方向へと。そうすると、暗闇で何も見えないと思っていたのに。二つ、宝石のように薄っすらと輝く物が少し上にあった。それが、消えたり、現れたり。彼が瞬きすると、そうなるんだと。狼の瞳は、この闇の中でもしっかりと人間である僕が見えているのか。見下ろしていて。
「テントはあっちだぞ」
 軽く背を押される。抵抗すればこけてしまうと思い、素直に押されていくと。その頃になって漸く、目が慣れて来たのか。月光の淡い光でも、多少は見えて来て。目の前にはテントの入口らしき。そこに先に入っていくガルシェ。そしたら、中から大きな手のひらが伸びてきて。僕の前で止まる。
 じっと、空中で停止しているそれは。僕が中へ入るのを助けるためで、ゆっくりと手を上げ。その手のひらに、比べてしまうと小さな人間の手を乗せる。そのまま中へと、引き込まれていく。大きな体躯の異種族のテントは、僕にとっては入ってみると意外に広々としていて。それでも中で彼が寝転ぶと足を完全に伸ばす事はできないのか、窮屈そうにしていた。床に広げられた毛布、そしてもう一枚をガルシェは手繰り寄せると。己と僕、いっぺんに被せてくる。横になると、着ている革ジャンのボタンやファスナーの部分がゴツゴツと当たり寝心地が悪い。
 毛布に包まれた状態で一度脱ぎ、返そうとして。
「俺は毛皮があるから使っとけ、風邪をひかれた方が困る」
 拒否された。実際毛布とはいってもそう分厚くはなく。革ジャンを脱いでみると、テントが風を遮ってくれてはいたのだが。気温が下がっているのか。焚火に当たっていた時と違い、炎の温もりもないのだから寒さを再び自覚して。お言葉に甘える事にした。着るのではなく、自分の上半身に布団代わりにと。そしてその上に毛布。隣に異種族の男性。
 何も言わず、自身の腕を枕にして向こう側へ横向きに。小銃を手放す事はなく、抱きかかえるように寝てしまった狼の後頭部。それを確認して、真上を向く。テントの天井には一応ランプを吊るす金具が見えたが、それは使われていないようで。そのまま辿ると支える骨組み。肩が露出したままだと、冷えそうで。もう少しだけ毛布を上へと引き上げて。口元すら隠してしまう。
 革ジャンと毛布。ガルシェの臭いがこびりついた。他人の体臭と煙草の臭い。片方の肩に少しだけ、触れてはいないが感じる自分以外の、生き物の熱。目を閉じてみると、思ったよりも早く睡魔が訪れて。一人起きているとあれこれと考えそうで、それに安心感を抱いた。おやすみなさい。言葉にはせず、頭の中で呟いて。異種族とこんな距離で一緒に寝る事になってしまい、心臓を落ち着ける為に深呼吸する。彼が同じ言葉を使うせいか、それとも、まだ触手の塊とか四足の巨大な動物でもなく。異形感が薄く。物語におけるウェアウルフ等の特徴として見られる獣頭でとどまっているからか。ある程度は、見た目の違う異種族相手へ抱く畏怖という壁を取り払われてもいた。自分の認識が、ガラの悪い男性という枠組みに納まっているのもあったと思う。だからこうして、隣で流れに身を任せて寝られるのか。すん、そうやって鼻呼吸して。やっぱり。煙草臭いな。
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