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58.誰よりも怖い男
しおりを挟むこの声……悠か──!?
声のトーンがいつもより低いけど、この美声は間違えようもねぇ。アイツだ!
何でここに──と確認するより早く、マッチョが警戒も露わに身を翻した。
もちろんヘッドロックされたままの俺の身体も、一緒に引きずられる。
「ぃっ?……うわっ!!」
傾ぐ感覚と首を引っ張られる痛みに、思わず目を瞑る。
一瞬の回転だったとは言え、絞めつけられる喉の苦しさに「ぐぇっ」となったんだが。
頼むから首を掴んだだけの状態で、引っ張り回すな。首が死ぬ!
つか、何なんだ?一体。
向きを反転した直後から、背後にいるマッチョの息が荒くてキモい。
背中越しに感じるマッチョの心臓も、すげーバクバク言ってるし。
お前、もしかしてさっきの動きだけで、こんなに息が上がってんの?
マッチョのくせに、体力無さすぎじゃね。
見掛け倒しもいいとこだけど、疲労困憊しているなら丁度いいや。
ゲホッと噎せながらも、マッチョの腕から逃げ出すチャンスを探る。
十分に時間も稼いだし、そろそろ警察も到着する頃だよな。
ならここから抜け出した後は悠と二人、俺の部屋で立て篭りながら警察を待てばいい。
頭の中であれこれシミュレーションを繰り返してから『よし!』と気合を入れた。
イケる!
絶対にこのまま、コイツ等の好きにはさせてやらねぇ!
電気が点いてないせいで廊下は暗いけど、俺の匂いがよっぽど臭かったのか、男が耐えられずに玄関のドアを開け放ってくれたおかげで、外からの光が中に入ってきている。
うん、足元は見えてるからまだ大丈夫だ!
とりあえず様子見も兼ねて、軽く身じろいでみる。
途端──ん? んんん?
逃げるどころか……よけいに首の絞め付けが強まったんだけど。
くそっ、元気じゃねぇかコイツ。
仕方ねぇ。
また抜け出すチャンスが来るまで大人しくしとくか、と動くのを止めたってのに、マッチョの怒りは治まらないのかブルブルと震えたまま、絞めつけだけが酷くなっていく。
待った!待った!
もう俺、動いてないって!
「ぐ……うぅう……っ」
おい、マジでどうした竿役…!
そんなに絞めつけたら、俺死んじゃうぞ?
なぁ、本当に苦しいって!
冗談じゃなく、お前の絞めつけがどんどん強くなってんだけど。
マジで殺そうとしてるだろ、お前っ。
洒落にならない力に、思わず首に巻き付く腕に爪を立てる。
それでも弱まらなくて、今度は噛み付いてもみた。なのに全然力が弱まらねぇ。
(おい、俺をレイプするために、ここまで来たんじゃねぇのかよお前!)
まさかの展開に、冷や汗が吹き出す。
このままじゃ殺されるっつーのに、何で誰もコイツを止めねーの?
静止の声すらかからないって、異様じゃね?
さっきまではゲハゲハ笑う声が聞こえてたってのに、今はそれすらない。
何でこんなに家ン中が静まってんだよっ。
苦しさに瞑っていた瞼を開きながら、玄関に視線だけを送ると、みんな唖然としたようにこっちを見ているだけで、近寄ってくる素振りもねぇ。
くそっ、マジで殺す気かよ。
見てねーで助けろや。
「は…っく、助け……!」
ギギギ…と必死に爪を立てていると、突然寒気が来るような気配を感じて、思わずブルリと身体が震えた。
何だ?ときつく閉じていた瞼をこじ開けて、ギョッとする。
目の前に悠が立っていた。
苦しさに喘いでいるうちにすっかり忘れていたけど、やっぱさっきの声は幻聴じゃなかったか。
つか、何で部屋から出て来ちゃってんの?
俺がやべぇように見えたんだろうけど(実際今も殺されかけてるけど)大人しく隠れてろって言ったじゃん、俺!!
ってか──それよりも、顔……。
なぁ、お前の顔がヤバいって…。
下から見上げる顔のヤバさに、喉がヒュッと鳴った。
美人が怒ると夜叉になるって聞くけど……。
あれ、本当だったよ姉ちゃん。
ただ黙って立っているだけなのに、凄絶な怖さが悠から漂ってんだけど。
唾を飲み込みたくても、口内がカラカラに乾いているせいか、上手く飲み込めれねぇ。
怯える俺を見ながら、悠がさらに一歩近づく。
途端、後ろのマッチョが「ヒッ」と叫びながら距離をとるけど、悠はただ眉を顰めただけだ。
なのに異様なプレッシャーを悠から感じる。
味方の姿に怯えるって意味が分かんねぇけど、怖いもんは怖いんだってっ。
恐ろしすぎて、逆に悠から視線を逸らせなくなっていた俺の頬に、その時ポタリと何かが落ちてきた。
「~~~~~~~──っ!!」
ギョッとして視線を上向けると、滝のような汗を額から垂れ流しているマッチョがいる。
俺に構う余裕もないのか、ハァハァと荒い呼吸を吐き出しながら、悠の一挙手一投足に怯えるように血走った目を悠に向けている。
てか、さっき何でこんなに息が荒いのかと思っていたけど、この『怒れる悠』が原因だったのか。
(そういやブルブル震えてたもんな……)
首の絞めつけが強まったのも、恐慌状態に陥ったマッチョの、必死の抵抗だったのかも。
──にしてもだ。
この上からどんどん流れ落ちてくる汗を前に、逃げることも出来ねぇ俺はどうすりゃいいの!?
つーか、首に巻き付く腕もすげー汗ばんでるじゃねーか! キモっ!!
マッチョのヌルヌル肌か、それとも静かに怒りを滲ませる悠か。
どちらも『近づかないでくれ』と言いたい二人に挟まれたまま、蒼白な顔で震えていたら。
「──離せ」
悠が眇めた目をマッチョに向けながら、腕を伸ばして来る。
「ひぁ……っ、来るな!!」
引き攣るような声を上げながら、必死に俺を抱え込むマッチョ。
その姿は何というか……あれだ。
人質にされているというより、悠に対しての盾代わりにされてるんじゃねーか、これ……。
だってほら、完全にマッチョの腰が引けてるし。
分かる。俺も今の悠は激しく怖いもん。
だからと言って、必死に抱え込むのは勘弁願いたい。
苦しい上に、フーフーと威嚇するように吐き出された息が、耳にかかって気持ちが悪い。
案の定、俺なんかが盾になるはずもなく。
怯えるマッチョの額を、躊躇もない動作で悠が掴みにかかる。
そのまま額を片手でぐっと握りしめただけで、マッチョの口からもの凄い悲鳴が溢れた。
「ひっ…あ、あぁあああっっ」
「離せと言っている」
言いながらもう片方の手で、俺の首に巻き付いていた腕に指をかけると、めり込むような力で引き離しにかかった。
「いっ、いでぇ……っ、は、離じで…っ!」
「離すのはお前の方だろう」
ど……どうしよう。
悠が怖すぎて、首の拘束が解けているにもかかわらず、ここから動く事も出来ねぇ。
目の前にある、悠に掴まれたままのマッチョの太腕が、ギシギシと軋むような音を立てている。
……おい、ちょっと待て。
お前確か身体測定の時に、驚異の握力を披露してなかったか?
つーことはこのまま放っておくと、マッチョの太腕がりんごみたいにプシッと握りつぶされちゃうんじゃねーの?
「~~~~っっっっっ!!」
嫌だっ、何それめっちゃ怖いっ!
目の前で人が握りつぶされる所なんて、見たくねーよっ!!
(止めろ…止めろって、悠…っ)
どうしよう。
止めに入りたくても、怖くて声が出せねぇ…!
目を見開きながら震える事しか出来ない間も、マッチョの悲鳴は続いている。
もうやだ。ほんとやだ!
(だ……誰かっ!!)
頭の中で叫んだ声が通じたのか。
「……チッ。αの番がいるなんて聞いてねーぞ、こっちは……」
すっかり存在を忘れかけていた男の声に、慌てて玄関を見遣る。全員鍛えられた肉体をしているくせに、仲間を助けるどころか、怯えたようにこっちを見ているだけだ。
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「悪いがそいつを離してくれねぇか? もうその坊やには、手は出さねぇからよ」
「…………」
「αなら知ってんだろ。Ωに下手に手を出したら、αどころか国にも目を付けられるって。そんな危ない橋を渡る気はねーよ」
へ? そうなの?
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マジかよっ。
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何でΩと勘違いされたのかは分かんねーけど、このまま見逃してもらえるなら全力でΩのフリくらいしてやるっ。
内心ガッツポーズを決める俺とは逆に、男の周りにいるマッチョが焦ったように。
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「前金なんかこの際どうでもいい。おい、それよりもどういうつもりだテメェ。この状況でうっかり名前を呼んでんじゃねーよ!」
「ヒィッ、す、すいません!!」
「それよかもう手は出さねーって言ってんだろ。そろそろソイツの手を離してやってくれねーか?」
西條って奴の言う通りだ。
さっさと手を離して、さっさと帰ってもらいたい。
コクコク頷きながら悠を仰ぎ見て──ギクリとする。
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立ち昇る恐怖の色に、悲鳴を上げることさえ出来ねぇ。
(…………ッッ!!)
「人の番をここまで怯えさせたんだ。このままあっさり、済ますはずがないだろう」
低い声から悠の本気を感じて、ゾワッと総毛立つ。
いやいやいやいやっ!
一番怯えさせてんのはお前だっての!!!
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