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父親
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俺がまた脱走して自殺を図ると考えた大人達は、俺をベッドに拘束したままにしている。
腕にも尿道にも管を突っ込まれて、本当に死にたい気分だ。
そして何故か、傍らでリンゴの皮をむいている玲時さんがいる。
俺は生野大学病院の精神科に入院しているようだった。
院長の息子という特権を使って、面会謝絶になっている俺の病室に忍び込んだらしい。
「リンゴ切れたよ。食べられるかな」
両手足を拘束されている俺に、玲時さんが均等に切ったリンゴを食べさせようとする。
「玲時さん。こんな所にいていいのか。あんたが留年することは、生野家にとって犯罪を犯すに等しいんでしょ」
「うまいこと言うね」
玲時さんがリンゴを皿に戻して笑った。
笑っている場合じゃないだろ。
「人が良すぎると、この世界では生きていけないみたいですよ。そんな性格で、この病院を継げるんですか?」
「無理かもね。それに、僕は人が良いわけじゃないよ」
「いい人過ぎです。俺の高校受験の時も今も、俺みたいなクズに構って自分の時間を無駄にしてるんですから。計画的反抗期はもう終わったはずですよね」
「覚えていたのか。恥ずかしいな」
玲時さんはぼんやり窓の外を見つめた。
「あんなの、格好つけただけだよ。ただ家の重圧や大学の課題から逃げ出したんだ。その為に、薬人君を利用したんだよ。君は僕の言うことを聞いてくれたし、慕ってくれたし、褒めてくれた。承認欲求を満たしたかった。自分はダメじゃない。誰かの役に立っていると思いたかった。最低だろ。ごめんね」
「本当にそうだな。そんなことだろうと思っていたが」
病室の扉側から低い男性の声が聞こえた。
玲時さんは、はじかれたように振り返り立ち上がる。
玲時さんが緊張している。
病室に入って来たのは知らない男性だった。
黒髪をオールバックにし、背が高く引き締まった体系の中年男性だった。
高級そうな真っ黒なスーツを着ている。
「父さん、何故ここに」
玲時さんの声が上擦った。
父さんって、つまり俺の父親でもあるわけか。
一度だけ父親の顔を病院のホームページで見たことがあった。
生で見ると人相が悪いな。
気づかなかったよ。
「その言葉をそのまま返そう。随分と余裕だな。時間を無駄にするのが趣味なのか」
その男は、玲時さんに対して微笑んだ。
けれど、まるで玲時さんを馬鹿にしたような笑みだ。
よく自分の息子にそんな顔できるな。
玲時さんの父親が俺のベッドサイドまでゆっくり歩いて来る。
気のせいだと思うが、身にまとう空気が他の人と違うように感じる。
「はじめまして、八重藤薬人。私はこの病院の院長でこの愚息の父親、生野冬久だ」
生野冬久は俺を見下ろす。
その視線はとても冷たく、突き刺さるようだった。
「今さら何の用だ」
玲時さんに時間を無駄にするなと言ったくせに、自分だって無駄な時間を使いに来たのか。
「私と取引をしないか?」
「は?」
「お前の血でドロップヘヴンというドラッグの化学構造が手に入るらしいな。私はその化学構造から新薬を開発したい。お前の血を提供してもらいたい」
そんな理由でわざわざ俺に会いに来たのか。
ご苦労様だな。
「父さん! 何言っているんだ! いくらなんでも酷すぎるだろ」
「だからお前はダメなんだ。あやふやな感情の為に、ビジネスチャンスを逃すのは愚か者だ」
天野の言っていたことが、じわじわ伝わってくる。
ビジネスで成功するのは、いい人ではないらしい。
亮真さんと正反対の性格だ。
「ドロップヘヴンは、ただのダウナー系ドラッグだ。医薬品になんかならないぞ」
「ドラッグは立ち返れば医薬品だ。最近は愚か者どもが医薬品、サプリ、おまけに農薬まで一括りにドラッグと呼んでいるようだがな」
「じゃあ、ドロップヘブンを改良すれば、人を救えるのか?」
「そうだ」
俺の血で誰かを救えるなら、こんな血全部抜いてくれ。
「どんな薬だ」
「私の構想では、快楽を伴う致死薬だ」
玲時さんが息を呑んだ。
何だそれは。
「分からないか。要は安楽死を補助する薬だ」
「それって、人を殺す薬ってことだろ。人を救うって言ったじゃないか」
「そうだ。人を救う。死を求める人を救える」
「何言っているんだ。命を助けるのが医者だろ」
「今まではな。だが、もうすぐ時代が変わる。日本が少子高齢化社会だということくらい知っているだろ。想像してみろ。寝たきりで自ら食事も排泄もできない大量の老人達に、胃に直接栄養を流し込んで生きながらえさせる。そんな老人達で、病院のベッドは満員になる。数少ない若者達がそんな老人達の為に金と時間を奪われる。どうだ。地獄絵図だろ。幸せな死を提供してやるべきだ」
「そういう社会にしたのは、お前達大人だろ」
「そのとおり。だから、責任を取らなければならない。私の開発する新薬で、この国を救う。それに世界規模で見れば、人口は爆発寸前だ。そろそろ人間を減らさなければならない。私の薬は世界を救うかもしれない。取引してくれるなら、お前の名前を世界が注目する論文に載せてやる。お前は英雄になれるだろう」
それが、英雄なのか。
俺が昔憧れていたヒーローとは全く違う。
むしろ、世界を滅ぼす魔王のようじゃないか。
表の世界と裏の世界が反転している。
「もっと、他の方法があるはずだ」
「例えば? 是非、教えてほしいものだな」
世界中の偉い大人達が考え続けている問題の解決策が、俺のような馬鹿から生まれるはずがない。
「父さん。日本は安楽死を認めていない。そんな薬を開発しても、使えないよ」
玲時さんが委縮しながら、それでも反論した。
「本当にダメなやつだ。今を見てどうする。その先を見ろ。時代を切り開くのは、未来を見通すことができる人間だけだ。この国と世界は、いずれ限界を迎える。その時、私の薬が開発されていれば市場を独占できる」
なんて、恐ろしい男だ。
「でも、開発段階で致死薬だったら国から止められるよ」
玲時さんが頑張っている。
「何とでも言えるだろ。表向きは、抗うつ薬にしておく」
「だったら、それでいいじゃないか。うつ病で苦しんでいる人を助けられるだろ」
俺だって、エデンに何度も助けられた。
「周りと同じことをするのは、凡人だ。最近、強力な抗うつ薬が開発されたばかりだしな。人真似をしても世界を変えることはできない」
こいつは本気で人類を救おうとしているのか。
「俺は死ぬことができないで、こんな所で拘束されているのに、人を殺す薬を開発する為に手伝えって言うのかよ!」
「ならば、死にたい人間の気持ちが分かるだろ。適材適所だな。この国は、国民に生きる権利を与えても死ぬ権利は与えてはくれない。前向きな死を語ることは許されない。切腹していた国だというのに。私と一緒にこの国を変えよう。世界を救おう。死にたいなら、その後で死ね」
何度も夢に見た、初めての父と子の会話とは全く違った。
こんな話をされるなら、永遠に父親との会話が無い方がマシだった。
「もちろん、ただでとは言わない。金をやる。学費も出してやる。大学に行って好きなことを学べばいい」
「俺みたいな人間が、大学に行ってどうしろと。学びたいことなんて無い。意欲も無い」
「そうか。それなら、お前はあの落ちぶれた八百屋と腐っていくんだな」
今何て言った。
叔父さんを馬鹿にしやがった。
「取り消せ、その言葉!」
「状況が分からなければ、立て直しようもない。今のお前に何ができるか言ってみろ。学びたいことが無いなんて甘えているようなら、それまでだ。あの八百屋が大事なら、経営を学べ。ドラッグを開発したいなら薬学を学べばいい。医者でもいいぞ。高額な学費をあの八百屋は出せないだろうが、私にとっては端金だ」
生野冬久が薄ら笑いを浮かべる。
俺は歯を食いしばることしかできない。
殴ることもできない。
「私は忙しい。お前と交渉できる時間にも限りがある。お前が取引に応じないなら、それでも私は構わない。代替案は他にもあるし、やらなければならない仕事も山積みだ」
生野冬久はベッドの上にあるテーブルに、コツコツと爪で一定のリズムを刻み始めた。
制限時間のつもりか。冗談じゃない。
こんなやつと手を組むもんか。
そう思ったが、生野冬久の背後に天野空の幻覚が佇んでいる。
俺を眺めながら嘲笑する。
そしてこう言う。
君のそのちっぽけなプライドを守って、その先に何があるんだい?
あいつを教師と認めるなら、習ったことを活かしてみようか。
利用できるものは利用する。
地べたを這いつくばれだったか。
なぜ、そんなことをしなければならない。
俺は無力だからだ。
死なせてくれないなら、こいつを利用して力をつけるしかない。
「分かった。取引する。金をくれるなら、実験台のモルモットよりはマシだよな」
「薬人君……」
「そうか。思ったよりも愚か者じゃないようで、安心した。早速手続きを進めさせてもらうぞ。臨床試験という形をとるから、未成年者だと保護者の同意が必要なんだが」
そういう部分を律義に守るのか。
そもそも、自分の病院に入院しているなら勝手に血を抜いて研究すればいいのに。
矢田硝子が言うように、欲に目がくらんで迂闊な行動をとると命取りになるのか。
賢い大人は足をすくわれないように行動するもんなんだな。
「叔父さんに同意をもらえるように説得してみる」
「面倒だな。お前を認知してやる。正式に私の息子になれば、その手間は省けるだろ。後々、訴訟されても面倒だしな」
「え!」
どこまでも用意周到な男だ。
「私の後ろ盾は便利だ。お前にとっても悪い話ではないだろう。喜べ玲時。これで、薬人は正式にお前の弟だ。だが、次留年したら今度はお前が生野家を出て行く番だ。分かったらこんな所で油を売っていないで勉強しろ」
玲時さんは拳を握りしめていた。
一体、どういう気持ちでいるのだろう。
「玲時さんを責められる立場かよ。今度浮気する時は、避妊しろよ。俺みたいな馬鹿が生まれるぞ」
生野冬久が鼻で笑う。
「浮気じゃない。性欲を処理する為にプロを雇っただけだ。お前の母親は避妊薬を飲んだと嘘をついた。私が医者だと知って、子供を作って脅そうとしたのだろう。相手を間違えたな。そんな小物の女一人に、私が屈するように見えるか」
全く見えない。
それよりも、恋愛関係ですらなかったことを知って俺は久しぶりにショックなんだけど。
「これで契約は成立だな。ドラッグのコミュニティでドロップヘヴンとお前の母親の噂を耳にしてから探偵に頼んでわざわざお前を探し出し、そのドラッグをまだ所持しているか探りを入れていたのだが。準備が難航している間に、三下のドラッグ研究員達もおかしな動きをし始めて面倒だった。奴らが揃って失踪してくれて大助かりだ」
「揃って失踪?」
「ニュースも観ないのか。まずはそこから教育が必要だな」
生野冬久が病室から出て行った。
廊下で誰かと会釈している。
そして、久しぶりに叔父さんが病室に入って来た。
面会謝絶だって言っているのに、皆俺の言うことを聞いてくれない。
「叔父さん、今の話聞いちゃってた?」
バッドタイミングだよ。
母親のことを、生野冬久に完全に論破されてしまった。
「聞いていたよ。俺は良かったと思う。姉さんとあの人に感謝だな」
「何で?」
「こんなに可愛い、甥っ子と出会えたから」
叔父さんは笑いながら、俺の頭を乱暴に撫でた。
「そうですね。僕に可愛い弟ができたという点では、あの父親に感謝するしかないですね」
玲時さんが微笑む。
叔父さんと玲時さんが、ニヤニヤして俺を見てくる。
俺はもどかしくて、布団を頭までかぶりたかった。
腕を拘束されていて、それは無理だった。
腕にも尿道にも管を突っ込まれて、本当に死にたい気分だ。
そして何故か、傍らでリンゴの皮をむいている玲時さんがいる。
俺は生野大学病院の精神科に入院しているようだった。
院長の息子という特権を使って、面会謝絶になっている俺の病室に忍び込んだらしい。
「リンゴ切れたよ。食べられるかな」
両手足を拘束されている俺に、玲時さんが均等に切ったリンゴを食べさせようとする。
「玲時さん。こんな所にいていいのか。あんたが留年することは、生野家にとって犯罪を犯すに等しいんでしょ」
「うまいこと言うね」
玲時さんがリンゴを皿に戻して笑った。
笑っている場合じゃないだろ。
「人が良すぎると、この世界では生きていけないみたいですよ。そんな性格で、この病院を継げるんですか?」
「無理かもね。それに、僕は人が良いわけじゃないよ」
「いい人過ぎです。俺の高校受験の時も今も、俺みたいなクズに構って自分の時間を無駄にしてるんですから。計画的反抗期はもう終わったはずですよね」
「覚えていたのか。恥ずかしいな」
玲時さんはぼんやり窓の外を見つめた。
「あんなの、格好つけただけだよ。ただ家の重圧や大学の課題から逃げ出したんだ。その為に、薬人君を利用したんだよ。君は僕の言うことを聞いてくれたし、慕ってくれたし、褒めてくれた。承認欲求を満たしたかった。自分はダメじゃない。誰かの役に立っていると思いたかった。最低だろ。ごめんね」
「本当にそうだな。そんなことだろうと思っていたが」
病室の扉側から低い男性の声が聞こえた。
玲時さんは、はじかれたように振り返り立ち上がる。
玲時さんが緊張している。
病室に入って来たのは知らない男性だった。
黒髪をオールバックにし、背が高く引き締まった体系の中年男性だった。
高級そうな真っ黒なスーツを着ている。
「父さん、何故ここに」
玲時さんの声が上擦った。
父さんって、つまり俺の父親でもあるわけか。
一度だけ父親の顔を病院のホームページで見たことがあった。
生で見ると人相が悪いな。
気づかなかったよ。
「その言葉をそのまま返そう。随分と余裕だな。時間を無駄にするのが趣味なのか」
その男は、玲時さんに対して微笑んだ。
けれど、まるで玲時さんを馬鹿にしたような笑みだ。
よく自分の息子にそんな顔できるな。
玲時さんの父親が俺のベッドサイドまでゆっくり歩いて来る。
気のせいだと思うが、身にまとう空気が他の人と違うように感じる。
「はじめまして、八重藤薬人。私はこの病院の院長でこの愚息の父親、生野冬久だ」
生野冬久は俺を見下ろす。
その視線はとても冷たく、突き刺さるようだった。
「今さら何の用だ」
玲時さんに時間を無駄にするなと言ったくせに、自分だって無駄な時間を使いに来たのか。
「私と取引をしないか?」
「は?」
「お前の血でドロップヘヴンというドラッグの化学構造が手に入るらしいな。私はその化学構造から新薬を開発したい。お前の血を提供してもらいたい」
そんな理由でわざわざ俺に会いに来たのか。
ご苦労様だな。
「父さん! 何言っているんだ! いくらなんでも酷すぎるだろ」
「だからお前はダメなんだ。あやふやな感情の為に、ビジネスチャンスを逃すのは愚か者だ」
天野の言っていたことが、じわじわ伝わってくる。
ビジネスで成功するのは、いい人ではないらしい。
亮真さんと正反対の性格だ。
「ドロップヘヴンは、ただのダウナー系ドラッグだ。医薬品になんかならないぞ」
「ドラッグは立ち返れば医薬品だ。最近は愚か者どもが医薬品、サプリ、おまけに農薬まで一括りにドラッグと呼んでいるようだがな」
「じゃあ、ドロップヘブンを改良すれば、人を救えるのか?」
「そうだ」
俺の血で誰かを救えるなら、こんな血全部抜いてくれ。
「どんな薬だ」
「私の構想では、快楽を伴う致死薬だ」
玲時さんが息を呑んだ。
何だそれは。
「分からないか。要は安楽死を補助する薬だ」
「それって、人を殺す薬ってことだろ。人を救うって言ったじゃないか」
「そうだ。人を救う。死を求める人を救える」
「何言っているんだ。命を助けるのが医者だろ」
「今まではな。だが、もうすぐ時代が変わる。日本が少子高齢化社会だということくらい知っているだろ。想像してみろ。寝たきりで自ら食事も排泄もできない大量の老人達に、胃に直接栄養を流し込んで生きながらえさせる。そんな老人達で、病院のベッドは満員になる。数少ない若者達がそんな老人達の為に金と時間を奪われる。どうだ。地獄絵図だろ。幸せな死を提供してやるべきだ」
「そういう社会にしたのは、お前達大人だろ」
「そのとおり。だから、責任を取らなければならない。私の開発する新薬で、この国を救う。それに世界規模で見れば、人口は爆発寸前だ。そろそろ人間を減らさなければならない。私の薬は世界を救うかもしれない。取引してくれるなら、お前の名前を世界が注目する論文に載せてやる。お前は英雄になれるだろう」
それが、英雄なのか。
俺が昔憧れていたヒーローとは全く違う。
むしろ、世界を滅ぼす魔王のようじゃないか。
表の世界と裏の世界が反転している。
「もっと、他の方法があるはずだ」
「例えば? 是非、教えてほしいものだな」
世界中の偉い大人達が考え続けている問題の解決策が、俺のような馬鹿から生まれるはずがない。
「父さん。日本は安楽死を認めていない。そんな薬を開発しても、使えないよ」
玲時さんが委縮しながら、それでも反論した。
「本当にダメなやつだ。今を見てどうする。その先を見ろ。時代を切り開くのは、未来を見通すことができる人間だけだ。この国と世界は、いずれ限界を迎える。その時、私の薬が開発されていれば市場を独占できる」
なんて、恐ろしい男だ。
「でも、開発段階で致死薬だったら国から止められるよ」
玲時さんが頑張っている。
「何とでも言えるだろ。表向きは、抗うつ薬にしておく」
「だったら、それでいいじゃないか。うつ病で苦しんでいる人を助けられるだろ」
俺だって、エデンに何度も助けられた。
「周りと同じことをするのは、凡人だ。最近、強力な抗うつ薬が開発されたばかりだしな。人真似をしても世界を変えることはできない」
こいつは本気で人類を救おうとしているのか。
「俺は死ぬことができないで、こんな所で拘束されているのに、人を殺す薬を開発する為に手伝えって言うのかよ!」
「ならば、死にたい人間の気持ちが分かるだろ。適材適所だな。この国は、国民に生きる権利を与えても死ぬ権利は与えてはくれない。前向きな死を語ることは許されない。切腹していた国だというのに。私と一緒にこの国を変えよう。世界を救おう。死にたいなら、その後で死ね」
何度も夢に見た、初めての父と子の会話とは全く違った。
こんな話をされるなら、永遠に父親との会話が無い方がマシだった。
「もちろん、ただでとは言わない。金をやる。学費も出してやる。大学に行って好きなことを学べばいい」
「俺みたいな人間が、大学に行ってどうしろと。学びたいことなんて無い。意欲も無い」
「そうか。それなら、お前はあの落ちぶれた八百屋と腐っていくんだな」
今何て言った。
叔父さんを馬鹿にしやがった。
「取り消せ、その言葉!」
「状況が分からなければ、立て直しようもない。今のお前に何ができるか言ってみろ。学びたいことが無いなんて甘えているようなら、それまでだ。あの八百屋が大事なら、経営を学べ。ドラッグを開発したいなら薬学を学べばいい。医者でもいいぞ。高額な学費をあの八百屋は出せないだろうが、私にとっては端金だ」
生野冬久が薄ら笑いを浮かべる。
俺は歯を食いしばることしかできない。
殴ることもできない。
「私は忙しい。お前と交渉できる時間にも限りがある。お前が取引に応じないなら、それでも私は構わない。代替案は他にもあるし、やらなければならない仕事も山積みだ」
生野冬久はベッドの上にあるテーブルに、コツコツと爪で一定のリズムを刻み始めた。
制限時間のつもりか。冗談じゃない。
こんなやつと手を組むもんか。
そう思ったが、生野冬久の背後に天野空の幻覚が佇んでいる。
俺を眺めながら嘲笑する。
そしてこう言う。
君のそのちっぽけなプライドを守って、その先に何があるんだい?
あいつを教師と認めるなら、習ったことを活かしてみようか。
利用できるものは利用する。
地べたを這いつくばれだったか。
なぜ、そんなことをしなければならない。
俺は無力だからだ。
死なせてくれないなら、こいつを利用して力をつけるしかない。
「分かった。取引する。金をくれるなら、実験台のモルモットよりはマシだよな」
「薬人君……」
「そうか。思ったよりも愚か者じゃないようで、安心した。早速手続きを進めさせてもらうぞ。臨床試験という形をとるから、未成年者だと保護者の同意が必要なんだが」
そういう部分を律義に守るのか。
そもそも、自分の病院に入院しているなら勝手に血を抜いて研究すればいいのに。
矢田硝子が言うように、欲に目がくらんで迂闊な行動をとると命取りになるのか。
賢い大人は足をすくわれないように行動するもんなんだな。
「叔父さんに同意をもらえるように説得してみる」
「面倒だな。お前を認知してやる。正式に私の息子になれば、その手間は省けるだろ。後々、訴訟されても面倒だしな」
「え!」
どこまでも用意周到な男だ。
「私の後ろ盾は便利だ。お前にとっても悪い話ではないだろう。喜べ玲時。これで、薬人は正式にお前の弟だ。だが、次留年したら今度はお前が生野家を出て行く番だ。分かったらこんな所で油を売っていないで勉強しろ」
玲時さんは拳を握りしめていた。
一体、どういう気持ちでいるのだろう。
「玲時さんを責められる立場かよ。今度浮気する時は、避妊しろよ。俺みたいな馬鹿が生まれるぞ」
生野冬久が鼻で笑う。
「浮気じゃない。性欲を処理する為にプロを雇っただけだ。お前の母親は避妊薬を飲んだと嘘をついた。私が医者だと知って、子供を作って脅そうとしたのだろう。相手を間違えたな。そんな小物の女一人に、私が屈するように見えるか」
全く見えない。
それよりも、恋愛関係ですらなかったことを知って俺は久しぶりにショックなんだけど。
「これで契約は成立だな。ドラッグのコミュニティでドロップヘヴンとお前の母親の噂を耳にしてから探偵に頼んでわざわざお前を探し出し、そのドラッグをまだ所持しているか探りを入れていたのだが。準備が難航している間に、三下のドラッグ研究員達もおかしな動きをし始めて面倒だった。奴らが揃って失踪してくれて大助かりだ」
「揃って失踪?」
「ニュースも観ないのか。まずはそこから教育が必要だな」
生野冬久が病室から出て行った。
廊下で誰かと会釈している。
そして、久しぶりに叔父さんが病室に入って来た。
面会謝絶だって言っているのに、皆俺の言うことを聞いてくれない。
「叔父さん、今の話聞いちゃってた?」
バッドタイミングだよ。
母親のことを、生野冬久に完全に論破されてしまった。
「聞いていたよ。俺は良かったと思う。姉さんとあの人に感謝だな」
「何で?」
「こんなに可愛い、甥っ子と出会えたから」
叔父さんは笑いながら、俺の頭を乱暴に撫でた。
「そうですね。僕に可愛い弟ができたという点では、あの父親に感謝するしかないですね」
玲時さんが微笑む。
叔父さんと玲時さんが、ニヤニヤして俺を見てくる。
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