少年ドラッグ

トトヒ

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天野空という美術教師

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公平と別れて、俺は美術室へと入った。
ほとんどの女子達が、例の美術教師を取り囲んでいる。
公平のみならずクラスの男子達にとっても、その光景はあまり面白くないようだ。
呆れながら愚痴をこぼしている。

「君がお休みしていた八重藤君だね。会うのを楽しみにしていたよ」

授業が始まって早々に、俺はそのイケメン教師に標的にされてしまった。

天野空あまのそらです。今後ともよろしくね」

天野というその美術教師は、とても爽やかに微笑んだ。
その笑顔だけで、女子達がそわそわし始める。
確かに顔は整っていた。
テレビで見る男性アイドルのような、中性的な顔立ちをしている。
ダークブラウンの髪が少しウェーブがかっていて、アーモンド型の目が左右対称に並び、鼻筋が通っている。
形のいい首に、しっかり見える喉仏が男性らしい。
これじゃ、女子生徒が騒ぐのも無理はない。
この学校の全男性教師の中でダントツでかっこいい。
男子生徒ですら、このレベルはあまりいないかもしれない。

「親睦を深めるために、課題を回収する係りに任命するよ。放課後、プリントを回収して美術室まで提出しに来てくださいね、八重藤君」

「え!」

勘弁してくれ。
余計な気を使わないでくれよ。
ちょっと休んでいたからって、あえてコミュニケーションとらなくていいから。
教師というものは、本当に面倒な奴らだと思う。
周りの女子から羨ましがられているのを、視線で感じる。俺はとても迷惑そうな表情をしているのに、天野先生は気付かないようで授業を始めてしまった。
そして、今日の授業について感想を書くというシンプルな課題を皆に配った。
こんなの課題でも何でもないじゃないか。
授業の後半に書かせてくれれば、手間が省けるのに。
これは絶対に俺との距離を縮めようと、天野先生があえて考えたくだらない課題に違いない。

「本当に心配したんだから。もう、勝手にいなくならないでね」

お昼休みになり、久しぶりに奏ちゃんとお昼ごはんを食べることになった。
これから、どうしたものかな。

「ごめん」

心配をかけた件については謝った。
俺は次の手を考えなければならない。
どうやってこの関係を終わらせようか。

「勝手に、新山君にいろいろ聞いちゃった。ごめんね」

奏ちゃんが俯いている。
彼女には、叔父さんと二人暮らしで母親とは離れて暮らしているということしか言っていなかった。
記憶を失っているとは普通思わないだろう。
公平からはそのことと、新宿の話を聞いたのだろう。
隠し事をしていた俺の方が悪いのに、謝られてしまった。

「話せなくてごめん」

俺は大嘘つきで隠し事をする、最低な彼氏です。
どうか別れてください。

「何があったか、聞かない方がいい?」

奏ちゃんは、ためらいがちにこちらを見つめる。
聞かれても答えられることが一つもない。

「奏ちゃんは、他に好きな人っていないのか?」

「え?」

俺は奏ちゃんからの質問を、意味不明な質問で返してしまった。
こういう時、馬鹿は困る。

「どうして分かったの?」

奏ちゃんの予想外の返答に俺は驚き、危うく弁当箱をひっくり返すところだった。
マジかよ。
ショックだけど、これは良いことだ。
まさか、こんなに上手くことが運ぶとは思わなかった。

「誰?」

でも、奏ちゃんが好きな人を知りたい。
付き合っている人がいながら、誰かを好きになるような子に見えなかったんだけどな。
いや、人は見かけによらないし。
人が人を好きになるのは、誰にも止められないって叔父さんも言っていた。

「私最近、バッドドラッグのヴォーカルのゲンエイが好きになっちゃったの」

「は? 誰だそれ」

「薬人君知らないの? 最近人気のバンドグループよ。ドラマの主題歌も歌っているから、曲聴いたらきっと知っているわよ」

何を言っているのか途中まで分からなかったけど、好きな人って芸能人のことか。
そうじゃなくて、クラスメイトとか先輩とか近所の奴とかそういう話だったんだけど。

「友達にライブに行こうって誘われているんだけど、薬人君ってそういうの反対するタイプ?」

「何で俺が、ライブに行くのを反対するんだ?」

「結構多いらしいわよ。彼女が男性アイドルとかアーティストのライブ行ったり、グッズ買ったりすることを嫌がる彼氏。私の友達の彼氏も、嫉妬深くて大変なの」

芸能人相手に嫉妬するのか。
馬鹿な奴だな。
そんな資格、俺じゃなくても無いだろう。
でも、俺がこんな状況じゃなければ奏ちゃんが人気歌手にときめいていたら、嫉妬するかもしれない。
芸能人じゃなくても、さっきの天野先生をかっこいいと思っていたらちょっと面白くないな。

「俺は大丈夫だよ。ライブ楽しんできて」

「薬人君はそう言ってくれると思っていたわ」

奏ちゃんは無邪気に笑った。
やっぱり別れるのは辛いな。
もう少しだけ一緒にいたいな。
ここまで嘘をついてしまったんだ。
高校を卒業するまでは、恋人関係でいても問題ないんじゃないだろうか。
優秀な彼女はきっといい大学へ進学する。そうしたらきっと、この関係は自然消滅するだろう。
彼女はいい大学のいい彼氏を見つけて、順風満帆な道を歩んで行くんだ。
俺のことはすぐに忘れてくれる。
今俺が余計なことをして、彼女を傷つけてしまう方が問題だ。
高校生活の中で、彼女が本当に他に好きな人ができて俺を振ってくれれば一番問題ない。
でも、俺から別れを切り出すのは彼女にとって不名誉なことだ。
危なかったぞ。
俺はとんでもないミスをするところだった。
一つ問題が解決して俺は少しだけ安心した。

久しぶりの学校は楽しく無事に終わった。
一つ面倒なのは、回収したプリントを美術室まで届けに行かなければならないことだ。
天野先生はきっと何かしら話題をふってくるだろうし、軽く受け流して帰ろう。美術室へ向かう前に、女子生徒から天野先生に宜しく伝えてくれと言われた。
教師との会話を引き延ばしたくないから却下だ。

「失礼します。プリントを持ってきました」

俺は美術室へ入った。
天野先生は一人、美術室の中心でキャンバスに向かって絵を描いていた。
俺が入室すると、先生はゆっくり振り向く。
窓から入ってくる光が、少し色素が薄いその髪を照らしている。
これは俺より女子が来るべきだったのだろう。
ここで教師と生徒の禁じられた恋愛が始まるんだ。
ドラマでよくあるやつだ。現実だとかなり問題になるけど。
じゃあ、やっぱり女子が来なくて正解だったな。

「やあ。ちゃんと来てくれて嬉しいよ」

天野先生は優しく微笑んだ。

「プリントどこに置きますか?」

「適当に置いてくれればいいよ」

ほらな。
俺の予想どおりだ。
どうでもいい課題だったんだな。
俺は近くの机にプリントを置き、足早に出て行こうとした。

「ちょっと待って」

天野先生が俺を呼び止める。
きたぞ。
ちょっとお話でもしようとか言ってくるに違いない。

「何ですか?」

教師の言うことをあまり邪険にもできない。
俺は無事に高校を卒業しなければならない。

「君の絵を描きたいんだけど、モデルになってくれないかな」

「は?」

何で俺の絵を描きたいんだよ。
まさかその為に、わざわざ放課後呼び出したのか。

「何故ですか?」

「ピンときたから」

やっぱり芸術というものは分からない。
芸術家はもっと分からない。

「時間がある時で構わないんだけど、ダメかな?」

天野先生は人懐っこい表情を向けてくる。
俺なんて描いても価値がないと思うんだが。

「八重藤君はあまり美術の成績が良くなかったね。モデルになってくれれば、成績調整してあげてもいいよ」

何なんだこの交渉は。
これってかなり問題発言なんじゃないか。
こんな取引ばれたら、また美術教師が変わることになるぞ。
でも、面倒な課題を提出しなくても赤点にされないのは俺にとっても都合がいい。

「本当ですか? 時間がある時なら、モデルになってもいいですよ」

モデルって、とりあえずじっとして動かなければいいだけだろ。

「ありがとう! 今週の土日は部活ある? 無ければ僕の家に来てくれないかな」

「先生の家? ここじゃないんですか?」

「うん。さすがに美術室で生徒を裸にするわけにはいかないからね」

今何て言った?
裸って何だ。

「何で裸になるんですか?」

「ヌードモデルをやってほしいから」

待てよ、これはからかわれているに違いない。
見た目によらず質が悪いな。

「何だ、冗談だったんですね。美術の課題から解放されると思ったのに、酷いじゃないですか」

「いやだな、冗談じゃないよ。ヌードモデルになってくれれば、課題の提出もしなくていいし、テストがどんなに酷くても百点にしてあげるよ」

天野先生の顔はとてもにこやかだった。
どうしよう。
面倒くさいぞこの人。

「ちょっと俺、ヌードは無理です」

俺もできるかぎり、笑顔で答えた。

「え、ダメ? ちょっと家に来て、服脱いでベッドの上で寝てくれればいいんだけど」

問題にならない部分はどこだ。
例え嘘でも、その発言自体がアウトだ。

「先生、それはダメですよ。問題になります」

「何が問題になるの? これは芸術活動だよ」

「だったら、プロにお願いした方がいいですよ。ヌードモデルのプロとかいますよね」

「僕は君を描きたいんだよ。あ、そうか。お金だね。謝礼を払えばやってくれる? そうしたら、君もプロってことだよね。問題無いよね」

こいつとは話がかみ合わない。
からかわれているわけでなく、本気なら相当ヤバい奴だぞ。
女子の皆は騙されている。
会って早々悪いが、こいつはとんでもない変態教師だ。

「俺、部活に行かないといけないので失礼しますね」

「来週までに考えておいて」

俺は美術室から逃げた。
自分の教室まで走り、机の脇にかけてある鞄を取ろうとした。
何故か俺の鞄が無かった。
天野のこともあり、軽くパニックになる。
誰かに鞄を取られた。幸いエデンは家に置いてきていた。
少しだけスマートフォンでエデンについて調べてみたが、そんな名称のドラッグは出てこなかった。
あまりメジャーなドラッグじゃないみたいだ。
違法だった場合、学校の持ち物検査に引っかかったら全てが終わる。
エロ本が見つかるのとはわけが違う。
自分の部屋にある机の引き出しの一番奥に隠した。
それは良かったが、定期券を取られたのはいたいな。帰りが困る。

「おい、遅いぞ!」

机を見つめながら考え事をしていた俺に、後ろから如月が声をかけてきた。
俺は思わずのけぞった。
如月が俺の鞄を肩からかけていた。
何をしてんだお前は。

「どこ行っていた。もうすぐ練習が始まるぞ」

俺が逃げないように待ち構えていたわけか。
そして、鞄を人質にされている。
何で俺の周りにはおかしい奴しかいないんだ。
如月は俺の鞄を持ちながら、教室を出て歩いて行ってしまった。
仕方なく後を追うしかない。

「如月、俺は最近運気が悪いと思う。俺がサッカー部で練習をすると、周りにも悪い影響を与えるかもしれない」

「何、女子みたいなこと言っている。休んでいる間に、頭打ったか」

頭は打っていないが、ドラッグを打たれた。
とか馬鹿みたいなことを考えている場合ではない。
女子が好きそうな占いの話を、俺は全く信じたことがなかった。
でも、今ならちょっと分かる。
誰か俺の運勢を占ってくれ。絶対今は、運気が悪いに違いない。
連続していろいろなことが起きすぎて恐ろしい。
サッカーの練習中に、ボールにぶつかって死ぬんじゃないだろうか。

そんなことにはならず、無事練習が終わって帰宅することができた。
如月にはかなりしごかれたが、練習に没頭することで頭を空っぽにすることができた。
叔父さんが言ったとおり、スポーツは素晴らしい。余計なことは考えず、俺は秘密を守り通し大切な人を傷つけずに過ごす。
そう誓った。

俺は毎日エデンを飲んで、快適な高校生活を送れていた。
朝目が覚めると気持ちが落ち込んでいる。
エデンは俺の救世主だった。あっくんに感謝しなければならない。
そして、恐怖の美術の日がやってきた。
俺は、女子から人気ナンバーワン教師の天野が完全に苦手になっていた。
廊下で見かけたら、遠回りをしてでも避けるように努力した。
でも、授業は出ないわけにはいかない。
そして案の定、またくだらない課題を回収して放課後に美術室まで届けろと言われた。
気が重い。
エデン助けてくれ。

「どうだい。モデルになる気になった?」

仕方なく課題を回収し、再び美術室へ訪れた。
天野は先週と同じように絵を描いていた。
そしてこの発言だ。
本当に冗談じゃなかったのか。
馬鹿なんじゃないか。

「すみません。無理です。お断りします」

とりあえず怒らせないように、丁寧に謝った。
何で俺が謝らなければならないんだ!

「美術の点数を満点にして、謝礼も払うけど、それでもダメかな?」

天野は整った笑顔で、とんでもない提案を口にする。
ちょっと感覚がおかしいのだろう。
芸術家というものは、きっとそうなんだ。
前任の美術教師も何を考えているのか分からなかったし。
それでも天野よりはマシだったと思う。

「すみません。美術の課題はちゃんとやります」

もし天野を怒らせたら、美術の課題をやっても赤点にされてしまうのではないか。
美術のせいで留年なんて御免だ。
でも、さすがにそれはないだろう。
ここはそんなに厳しい学校じゃないし。
他の先生も助けてくれるんじゃないだろうか。
大人に翻弄されてたまるか。

「まあ、予想通りかな」

天野が詰まらなそうに呟いた。
諦めてくれたみたいだ。

「君って案外、社会のルールに縛られるタイプなんだね」

本当にこいつは教師なのか。

「先生の方こそ、ルールに厳しいべきですよ」

「僕はね、教師である前に芸術家でありたいんだよ」

天野は笑った。
先日と何か違う、不気味な笑い方だった。
キャンバスに絵を描き始める。

「君、長く休んでいたよね」

急に話題を変えられ、俺の顔は引きつった。
けれど、当初予想していた会話だ。

「ちょっといろいろ考えたくて。すみませんでした」

これで家出をした、ただの生徒とそれを心配するただの教師という関係に戻れる。

「謝る必要なんてないよ。君は悪くないじゃないか」

「いえ、皆に迷惑をかけてしまったので」

「でも、不可抗力でしょ?」

何で不可抗力なんだ。
俺が家出していたことくらい、他の先生から聞いているだろ。

「家出するなんて馬鹿でした」

「家出って自分の意思で出ていくことだよね。君の場合だと、その表現は適切ではない」

何だろう。
こいつとはどうも会話が成り立たない。
でも、何か違和感がある。

「君をさらったあの二人は、どこへ行ったんだろうね」

油絵具の強烈な匂いが急激に嗅覚を奪ってくる。
どうしてそんなことを知っているんだ。

「完成した。あまり良いできじゃないな。モデルが悪いからかもね」

天野は今まで描いていたキャンバスを俺に見せてくる。
俺は思わず後ずさりした。
背中に机がぶつかる。
その絵に描かれていたのはホノカによく似た女だった。
頭に赤い花が咲いている。
それはまるで、あの日の光景を物語っているような美しい絵だった。

「その表情いいね。モデルになってくれないかな?」

天野は目を細めて、白い歯をのぞかせて笑った。
成績で脅された方がマシだった。
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