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友達のあっくん
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血だまりの真ん中に立っている母親が、俺に言った。
お前が悪いと。
そうだね。
俺が悪いよね。
俺はあんたを殺して、そのことを忘れていたんだから。
そして、あんたをずっと待っていた叔父さんに世話になっていたんだから。
謝って済む問題じゃないよな。
こういう場合、どうやって責任取ればいいんだよ。
学校でそんなこと教えてくれなかったよ。
いや、俺が授業を聴いていなかったからいけないのかな。
涙が頬を伝う感触。
埃っぽい匂い。
背中に広がる、手術台よりは柔らかい何か。
俺の体は覚醒してしまった。
目に映る太陽の光が鬱陶しい。
死ぬほど怠いけど、体を起こしてみた。
辺りを見ると、保健室のような場所だった。
もしかして、全部ただの夢だったのか。
夢落ちなのか。
サッカーの練習中にぶっ倒れて、保健室で寝ていたとか。
でも、俺が通っている高校の保健室ではない。
じゃあ、他校へ試合に行って倒れたとかどうだろう。
なんて、馬鹿みたいに妄想してみた。
こんな保健室あり得ない。
だって、床や棚は埃まみれで、天井には所どころ蜘蛛の巣が張ってある。
窓も汚い。
俺が寝ていたベッドも、シーツは破れ、マットレスから綿が飛び出している。
モンスターペアレントじゃなくても、文句を言いに来るだろう。
ふと扉がある方へ視線を向けると、フードを被った何者かが立っていた。
俺は思わずびくついた。
固まっている俺のもとへそいつは近づいて来る。
そして、俺の目の前に白く濁った液体が入ったペットボトルを突き出してきた。
反射的に受け取ってしまう。
そのまま黒いフードは俺を観察している。
視線と沈黙に耐え切れず、俺はペットボトルの中身を口にした。
その味は、よく知っている。
部活の後によく飲んでいた、定番のスポーツ飲料。
俺の気持ちとは裏腹に、体はその水分を欲していた。
思わず一気飲みしてしまう。
飲むだけで体力を使ってしまい、俺の呼吸は荒くなった。
「一気飲みは体に悪い」
フードがハスキーな声で呟いた。
飲んだ後に言われてもどうすることもできない。
「何を食べる?」
フードの男がベッドの上に市販のパンやおにぎり、それにお菓子をばら撒き始める。
食欲は無い。
俺が首を横に振ると、フードの男はおにぎりを拾い上げ、パッケージを開けた。
「米は元気になる」
そう言って、俺の口元に優しくおにぎりを押し当てる。
こんなもので元気になるなら苦労しない。
俺は一口かじった。
俺が呑み込むと、フードはまた口元におにぎりを当てる。
全部食べ終わるまで、やめてくれなさそうだ。
ゆっくりと時間をかけて、俺は小さなおにぎりを食べ終えた。
「あの。あんた誰ですか?」
落ち着いてから、俺は尋ねた。
すると目の前の人物はフードを取り、その顔を見せる。
その顔は色とりどりの幾何学模様が描かれている。
針金のような黒髪には艶がなく、ボサボサだった。
その風貌を見た俺は、口を間抜けに開けた。
「友達のあっくん」
その男が名乗った、あっくん。
その響きは例のドラッグで思い出していた。
小さい頃の俺にできた、唯一の友達だった青年だ。
当時は、そんな刺青だらけの顔じゃなかった。
「何でここにいるの?」
聞きたいことはいろいろあったのに、俺はそれしか言えなかった。
「やっくんが捕まったって聞いた」
昔もそう呼ばれていた。
俺は薬人だからやっくん。
この人の本名は何だっけ。
ドラッグでも思い出せない。
俺の中でこの人は、あっくんと認識していたのだろう。
「あの二人は、もしかして死んだのか」
俺は手術台の上から見た光景を思い出した。
夢か幻覚でなければ、あの二人の頭は無残な状態になっていた。
思い出したら、さっき食べたおにぎりが胃から戻ってきそうになる。
「死んだ。死体は捨てた」
淡々と答えるあっくんは、顔色一つ変えない。
よく思い返してみれば、当時もあっくんは怪しい人物だった。
朝から昼までその辺をフラフラして、小学生だった俺と遊んでいた。
森でドングリを拾ったり、海岸の波打ち際で走りまわったりした。
アンダーグラウンドというか、表の世界の人間じゃなかったんだな。
そうでなければ、日本で拳銃を所持できるわけない。
そして重要なことを忘れていた。俺が殺した母親を、あっくんに処理してもらったんだった。
当時は混乱していて、あっくんが母親の死体をどうしたか覚えていないけど。
「どうしたい?」
頭の中でぐるぐる考えていた俺に、あっくんは唐突に尋ねる。
「何を?」
俺が聞き返すと、あっくんは手を差し出した。
手の平に二つの錠剤が乗っている。
一つは、黒い楕円形。
もう一つは真っ赤な球体だった。
「おすすめは、この二つ。どちらか」
これはドラッグなのか。
黒い方は見覚えがあるような気がする。
「黒いのは、前にもあげた。記憶が消える」
そうだった。
母親を殺してしまい、その死体をあっくんに処理してもらった後で、俺はこのドラッグをもらった。
今までのことを忘れたいかと聞かれたから、幼く単純な俺はそれを望んだ。
だから何もかも忘れてしまっていたんだ。
「通称エムクラッシュ。トラウマを抱えた精神障害を治す為に開発された。でも、効力が強すぎて服用する以前の記憶がほとんど消える。表向きは違法薬物」
確か白衣の男も、そんな名称を言っていたような気がする。
「これを飲んだら、全部忘れるのか。母親のことだけじゃなくて」
叔父さんの家に引き取られ、初めて愛情を受けたこと。
公平に出会って、一緒に遊んだこと。
腹違いの兄から勉強を教わり、受験に合格したこと。
サッカー部の全国大会でベストエイトに入ったこと。
そして、奏ちゃんとお弁当を食べたことも。
「今のところ、記憶を細かく操作できるドラッグは無い。記憶を消せて、副作用が少ないのはこれ」
あっくんは、エムクラッシュをつまんで掲げる。
全部忘れて、どうしろと言うのだ。
「こっちは?」
俺は赤い球体を指差した。
こっちは記憶に無い。
「これはエデン。俗に言う、アッパー系ドラッグ」
「飲んだらどうなる?」
「気分の高揚、頭が冴えわたる。用法を守れば、副作用無く快適な日常が送れる」
それだけかよ。
全て思い出したまま、日常に戻れというのか。
何がエデンだ。
ふざけるな。
「手っ取り早く死ねるドラッグは無いのか?」
俺の言葉にも、あっくんは顔色一つ変えない。
「死ねるドラッグはある。でも、手っ取り早くはない。苦しむ場合がある。一度で死ねない場合もある」
記憶を消したり蘇らせたりするドラッグがあるのに、なんで簡単に死ねるドラッグが無いんだよ。
人類は何をやっているんだ。
「苦しむのは、別にいいや」
むしろ楽に死ぬことなんて、俺に許されるのだろうか。
「死に方と死ぬタイミングは?」
あっくんが普通の会話でもするように言う。
そんな質問、初めてされた。
「俺に選ぶ権利はないよ」
「俺が叶えるよ。やっくんが死にたい方法と、死にたいタイミングを言って」
これは優しさなのか。
あの二人から俺を助けてくれたんじゃないのか。
その俺が死にたいと言ったら、死なせてくれるのか。
「どうして、そんなことしてくれるんだ」
「友達だから」
とてもシンプルな答えだった。
公平とは違うタイプの友達だ。
「死ぬのは人生で一度きり。せっかくなら、よく考えて」
そんなの当たり前だ。
でも、今の俺にはそんな思考力が残っていない。
自分という存在を、すぐにでも消してしまいたい。
それだけしか考えられない。
「死ぬのはいつでもできる。これを飲んで、頭を覚醒させて考えたらどうだ」
あっくんはエデンを俺に差し出した。
思考力をほとんど失っている俺は、何も疑わずにそれを受け取り飲んだ。
だって、何を考える必要があるんだよ。
騙されていて毒薬だったとしても、それは俺が望んでいることなんだから。
残念ながら騙されていなかった。
エデンを飲んで数分経つと、俺の頭は冴え始めた。
今まで味わったことがないくらい、スッキリとした気分になる。
頭が回り始めると余計なことを考えられるようになってきた。
そもそも、ここはどこなのか。
俺の服装が変わっていることにも気づいた。
ズタズタにされていた制服は見当たらず、紺色のつなぎを着ている。
「どうする?」
あっくんの問いは、俺の死に方のことか。
そんなに急かされても困る。
「まだ決まらないなら、外行こうか」
あっくんは俺の腕を掴んで立ち上がらせた。
俺が履いていたスニーカーを差し出してくる。
言われるがままされるがまま、俺は靴を履いた。
そして、あっくんに手をつながれ保健室から廊下へと移動する。
そこは学校の渡り廊下だった。
何だか懐かしいような、初めて見るような変な気分になる。
「ここは、やっくんが通っていた小学校」
そうか。
だから少しだけ懐かしい気持ちになったのか。
でも、保健室と同じように埃まみれで汚れていた。
割れている窓もある。
「これ、学校として機能してるのか?」
「廃校になってから数年経っている。費用がかかるから、取り壊していないだけ。再開の目途も無い」
そういうことか。
「じゃあ、ここは俺の故郷?」
あっくんは頷いた。
だったら、見ておきたい場所がある。
「俺の家の場所、分かるか?」
あっくんはまた頷く。
「そこに行きたい。場所を教えて」
「分かった。連れて行く」
俺はあっくんと手をつなぎ、俺がかつて通っていた学校を後にした。
あっくんの車に乗り込み、俺は助手席から窓の外を眺めた。
都市開発などされている様子はなく、昔とあまり変わらない光景が広がっていた。
この前行った新宿とは全く違い、人を見かけない。
そして、知っている道に近づいてきた時、俺の心はざわつき始めた。
怖いのか楽しいのか、興奮しているのか萎えているのか。
「家があった場所はここ」
車から降りたあっくんが、林が生い茂り雑草だらけの一角を指差す。
でも、そこには俺の記憶の中にあるボロい家は無かった。
その理由は、あの日燃やしてしまったから。
「あの後、火事にならなかったのか?」
「他の民家から離れていたから、被害は無かった」
俺も車から降りて、家があった場所に近づいた。
実物は無くても、記憶の中には存在する。
それを実感したくて、俺はその周辺をうろうろと歩き始めた。
そうやって記憶の答え合わせをする。
間違いない。
俺はここにいた。
しばらく置いてきぼりにしていた、もう一人の自分と再会したような高揚感と絶望感に俺はしばらく身動きが取れなかった。
日が傾き始めて、やっと我に返る。
「ごめん」
俺をずっと眺めていたあっくんに謝った。
「別に」
あっくんの表情はずっと同じだ。
彼が何を考えているのか、いまいちよく分からない。
「もう大丈夫。ここから離れよう」
もうたくさんだ。
俺はあっくんの車に戻った。
後からあっくんも車に乗り込んでくる。
「どこに行きたい?」
行きたい場所なんて、この世にはない。
「行きたい場所が無いなら、風呂に行こう」
俺は頷いた。
車が発進する。
母親との思い出の日々が、遠ざかっていく。
「俺の母親をどこにやったの?」
「隠した」
「そっか。大変だった?」
「別に。よくやる」
あっくんにとっては、珍しいことではないらしい。
「俺の母親はドラッグを持ってた?」
白衣の男が言っていたことは本当なのか。
「持っていた。ほとんど使ってしまっていたが。欲しいか?」
「持ってるの?」
「あの日、家を燃やす前に盗んだ。売ってしまったが、一つ残してある」
「あっくんは何者?」
「やっくんの友達」
そういう意味じゃないんだけど。
とりあえず、世間的には危ない人なのだろう。
「俺の血液から、そのドラッグ反応が出たのは何でだろう」
「やっくんの母親が妊娠中にドラッグを服用していたからだろう。母親が摂取したものは、胎児に影響を与える。あのドラッグは人体にとどまり続けて、抜けない特徴があった」
知ってか知らずか、俺の母親は俺を宿していたにも関わらず、認可されていないドラッグに手を出したのか。
やっぱり俺の出生はろくなもんじゃない。
「やっくんに副作用や中毒症状はない。健康面の心配はない」
確かに俺の体は丈夫で、生活面に困ったことはなかった。
「俺の血から、そのドラッグが作れるのは本当?」
「化学構造さえ分かれば、可能だ」
「そのドラッグは、一体どんな効果があるんだ?」
「試作段階の名称は、ドロップヘヴン。強力な快楽作用だ」
「それだけ?」
「それだけ」
馬鹿馬鹿しい。
そんな物の為に、わざわざ高校生のガキ一人誘拐しなければならなかったのか。
そのせいで死ぬなんて、ホノカと白衣の男は救えない奴らだ。
もう死んでいるけど。
しばらくして、あっくんの車は止まった。
場所は少し寂し気な旅館の駐車場。
「今日はここに泊まろう」
そういえば今何時なのか考えていなかったが、辺りは暗くなり始めている。
風呂って温泉のことだったのか。
俺はあっくんの顔を見つめた。
無理だろ。
「あっくん。温泉って刺青まずいんじゃないか」
「刺青じゃない。化粧だ」
意味が分からず俺は黙ってしまった。
あっくんはどろっとした液体を手のひらに浸し、そのまま顔をこすりはじめた。
顔を拭うと、先程までの刺青が消えて普通の男性が現れた。
フェイスペイントだったようだ。
さらにあっくんはボサボサの髪をワックスでなでつけ始める。
フード付きのぶかぶかな服を脱ぎ、黒いトレンチコートに身を包んだ。
あっという間に、身なりが整った男性になってしまった。
死神が人間に化けたようだ。
記憶の中にいた青年の面影がある。
「何で、あんな格好してたんだよ」
わけが分からず思わず聞いてしまった。
「変装しないと生きられないから」
聞かない方が良かったかもしれない。
じゃあ、化粧落として平気なのだろうか。
あっくんに連れられて、旅館の玄関を開いた。
木造の質素な空間が広がっている。
「予約していた八重藤です」
あっくんが受付の女将にそう言った。
俺の名前で予約していたのかよ。
何でだ。
問いただす暇も無く、女将に部屋へと案内される。
わりと広い畳が広がる部屋だった。
「温泉行こう」
あっくんは二人分の浴衣を持ち、俺の手を引いた。
この旅館はあまり繁盛していないのか、温泉には俺とあっくんしか入っていない。
貸し切り状態で少しだけテンションが上がる。
ヒノキの良い香りがした。
露天風呂からは夜空が見えた。
星が綺麗だと感じた。
俺は一体、何をしているのだろう。
血行が良くなったからか、徐々に自分の今の状況について冷静に考え始めていた。
温泉からあがり、部屋へ戻るとすぐに料理が運ばれてきた。
山菜や刺身、鍋やお肉がテーブルに並べられていく。
呆気に取られている俺に気づかない女将は、料理を並べ終わると部屋からすぐに出て行ってしまった。
あっくんがグラスにジュースを注いで、俺の前に置いた。
「払えないよ」
俺の声は震えていた。
「いらない。食べて」
あっくんは俺を見つめる。
また俺が食べるまで観察するつもりか。
仕方なく、目の前にあったマグロの刺身を醤油につけて食べた。
最悪なことに、こんな状況にも関わらず美味しいと感じてしまった。
俺はお腹が空いていたと自覚して、次々と食べ物を口に運ぶ。
箸が止まらない。
口に広がった懐かしい苦みはピーマンと人参の添え物だった。
叔父さんにも食べさせてあげたい。
そう思った途端、涙が溢れ始めた。
小さく嗚咽する。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、俺は料理を食べ続けた。
本当に何をしているんだ、俺は。
「まだ死にたい?」
食べ過ぎて気分が悪くなっている俺に、あっくんはまた尋ねてきた。
死にたいかは分からない。
でも、死んだ方がいいのだろう。
「やり残したことはない?」
確かに、死ぬ前に身辺整理をするべきだ。
どうせ死ぬなら、綺麗に死にたいな。
すぐに頭に浮かんだ顔は、やっぱり叔父さんだった。
あの人は、俺の母親を自分の姉を待ち続けている。
真実を伝えなければ、あまりにも不憫じゃないか。
もう待たずに、自由に生きていいと言わなければ。
俺もいなくなるから、好きに生きてくれと言わなければ。
自由になって、恋愛をして、結婚をして、俺なんかじゃない本当の子供ができたらいいな。
それだけで、俺は幸せになれる。
俺は幸せになってはいけないかもしれないけど、叔父さんは幸せになるべきだ。
「家に帰る。そして、叔父さんに全てを告白する」
やっと自分がすべきことが分かった。
死ぬのはその後でもいいだろう。
「分かった。明日、送って行く」
あっくんは快く了承してくれた。
その日は疲れていたようで、布団にもぐるとすぐに眠ってしまった。
翌朝、昨日のような爽快さが無かった。
頭も体も重く、サッカー部に入った当初の練習後の疲労感より酷い。
「エデンは二十四時間しか効かない。辛ければ、またこれを飲んで」
あっくんの手のひらに赤い球体がある。
そんなに飲んでしまって良いのだろうか。
でも、家に帰ってちゃんと叔父さんに話すためにはドラッグの力を借りるしかない。
俺はまたエデンを飲み込んだ。
すぐに頭が軽くなる。
ゲームに出てくる魔法の薬のようだ。
「エデンは一日一錠だけ。それを守れば、とても優秀なドラッグだ。後でまとめて渡しておく」
「ありがとう。でも、叔父さんに告白したらすぐに死ぬから、そんなにいらないよ」
そうだ。
俺のすべきことは、それしかない。
これ以上あっくんに迷惑はかけられない。
旅館をチェックアウトし、あっくんの車に乗り込んだ。
あっくんが俺にコンビニのビニール袋を差し出してくる。
中には昨日食べなかったパンとお菓子が入っていた。
車のドリンクホルダーに、またスポーツ飲料が置いてある。
車が発進した。
昨日と違って俺はパンとお菓子に手をつけた。
叔父さんの所へ帰る前に、俺はできる限りあっくんから情報を聞き出すことにした。
俺が打たれたドラッグは、認知症やアルツハイマー病といった記憶障害を治療する為に開発された医薬品であり、激しい頭痛以外の副作用はないらしい。
ただ実際の患者に対しては一時的に記憶が戻っても、病状そのものの改善にはならず、開発途上の薬だという。
俺が誘拐されてから十六日は経っているみたいだった。
今日は日曜日。
俺を誘拐して監禁した白衣の男はドラッグ開発会社の研究員だったようだ。
その研究員が勤めている会社がかつて開発途中だったドラッグが、母親が持ち逃げしたドロップヘヴン。
ドラッグは開発後、臨床試験で問題が無ければ正式に国から認可される。
問題があればもちろん販売は許可されず、化学構造のデータごと破棄される決まりになっているという。
ドロップヘヴンは服用した者にとてつもない快楽を与えるかわりに、切れた時とのギャップが激しく中毒者が続出したそうだ。
当時東京で水商売をしていた俺の母親は金欲しさに被験者になったらしいが、中毒になり提供者を騙してほとんどのドラッグを持ち逃げした。
そして、茨城県まで逃げ延びた。
ドラッグ漬けの母親からドラッグ漬けの俺が生まれて、後は記憶にあるとおりだろう。
母親の死体と家を処理したあっくんは、施設に俺を一時的に預けた。
あっくんは俺の親戚を調べ上げ、母親になりすまして叔父さんに手紙を送った。
人のいい叔父さんが、俺を迎えに来てくれてめでたしめでたしというわけだ。
全くめでたくない話だけどな。
ホノカは後ろ暗い女のようで、いくつか犯罪に手を染めていたらしい。
今回の誘拐事件について、あっくんは推測して俺に話してくれた。
白衣の男は、闇市場で高額で取引されているドロップヘヴンがかつて自分の会社で開発されていたことを知り、金に目がくらみいろいろ調べた結果俺の母親に辿り着いた。
母親の行方を調べているうちに、当時母親と同じ地域に住んでいたホノカとつながる。
さらに最悪なことに、俺がサッカーの全国大会でテレビ中継され、ホノカの目にとまる。
二人は結託し、俺を誘拐し、そして命を落とした。
めでたしめでたし。
エデンの影響なのか、あっくんの説明をどこか他人ごとのように聞けている自分がいる。
そして、無くしていたジグソーパズルのピースがそろったように気持ちがいい。
もう十分だ。
昔から心の中でもやもやしていた自分の出生の秘密が解き明かされた。
死ぬ前に知れて良かった。
一度パーキングエリアで休憩し、フードコートで醤油ラーメンを食べた。
意外とおいしいものだと感動した。
隣の席であっくんはブラックコーヒーを飲みながら、おにぎりを食べていた。
その後、お土産売り場をうろついた。
叔父さんに何か買って行ってあげたかったけど、面倒なことになると思って我慢することにした。
そして夕方には、家の近くに着いた。
だんだん緊張してきた。
大丈夫だ。
落ち着け。
俺は自分に言い聞かせる。
「やっくん、これ」
あっくんが車のトランクから荷物を取り出し、それを俺に渡してきた。
それは誘拐される直前まで俺が持っていた学校鞄だった。
監禁されていた場所から、持ってきてくれたんだ。
中にはいつもの持ち物の他に、新品の制服と、手のひらサイズの白い缶が入っていた。
缶を開けるとエデンが何十粒も入っていた。
こんなにいらないのに。
缶をしまった俺にあっくんは、名刺サイズのカードを渡してくる。
ラメが入った毒々しいピンク色のショップカードだ。
「この店の店主に、やっくんだと言えばエデンをもらえる。他に欲しいドラッグがあれば、伝えておいて。後日預けておく」
死ねるドラッグもくれるのかな。
俺はあっくんの車から降りた。
何から何まで世話になってしまった。
ここまでしてくれる理由が分からない。
「ありがとう。本当に」
俺はそれだけ言えた。
あっくんは流し目で俺を見る。
終始無表情だったな、この人。
「また」
あっくんは短く返答し、車を走らせた。
俺は車が見えなくなるまでそこにいた。
お前が悪いと。
そうだね。
俺が悪いよね。
俺はあんたを殺して、そのことを忘れていたんだから。
そして、あんたをずっと待っていた叔父さんに世話になっていたんだから。
謝って済む問題じゃないよな。
こういう場合、どうやって責任取ればいいんだよ。
学校でそんなこと教えてくれなかったよ。
いや、俺が授業を聴いていなかったからいけないのかな。
涙が頬を伝う感触。
埃っぽい匂い。
背中に広がる、手術台よりは柔らかい何か。
俺の体は覚醒してしまった。
目に映る太陽の光が鬱陶しい。
死ぬほど怠いけど、体を起こしてみた。
辺りを見ると、保健室のような場所だった。
もしかして、全部ただの夢だったのか。
夢落ちなのか。
サッカーの練習中にぶっ倒れて、保健室で寝ていたとか。
でも、俺が通っている高校の保健室ではない。
じゃあ、他校へ試合に行って倒れたとかどうだろう。
なんて、馬鹿みたいに妄想してみた。
こんな保健室あり得ない。
だって、床や棚は埃まみれで、天井には所どころ蜘蛛の巣が張ってある。
窓も汚い。
俺が寝ていたベッドも、シーツは破れ、マットレスから綿が飛び出している。
モンスターペアレントじゃなくても、文句を言いに来るだろう。
ふと扉がある方へ視線を向けると、フードを被った何者かが立っていた。
俺は思わずびくついた。
固まっている俺のもとへそいつは近づいて来る。
そして、俺の目の前に白く濁った液体が入ったペットボトルを突き出してきた。
反射的に受け取ってしまう。
そのまま黒いフードは俺を観察している。
視線と沈黙に耐え切れず、俺はペットボトルの中身を口にした。
その味は、よく知っている。
部活の後によく飲んでいた、定番のスポーツ飲料。
俺の気持ちとは裏腹に、体はその水分を欲していた。
思わず一気飲みしてしまう。
飲むだけで体力を使ってしまい、俺の呼吸は荒くなった。
「一気飲みは体に悪い」
フードがハスキーな声で呟いた。
飲んだ後に言われてもどうすることもできない。
「何を食べる?」
フードの男がベッドの上に市販のパンやおにぎり、それにお菓子をばら撒き始める。
食欲は無い。
俺が首を横に振ると、フードの男はおにぎりを拾い上げ、パッケージを開けた。
「米は元気になる」
そう言って、俺の口元に優しくおにぎりを押し当てる。
こんなもので元気になるなら苦労しない。
俺は一口かじった。
俺が呑み込むと、フードはまた口元におにぎりを当てる。
全部食べ終わるまで、やめてくれなさそうだ。
ゆっくりと時間をかけて、俺は小さなおにぎりを食べ終えた。
「あの。あんた誰ですか?」
落ち着いてから、俺は尋ねた。
すると目の前の人物はフードを取り、その顔を見せる。
その顔は色とりどりの幾何学模様が描かれている。
針金のような黒髪には艶がなく、ボサボサだった。
その風貌を見た俺は、口を間抜けに開けた。
「友達のあっくん」
その男が名乗った、あっくん。
その響きは例のドラッグで思い出していた。
小さい頃の俺にできた、唯一の友達だった青年だ。
当時は、そんな刺青だらけの顔じゃなかった。
「何でここにいるの?」
聞きたいことはいろいろあったのに、俺はそれしか言えなかった。
「やっくんが捕まったって聞いた」
昔もそう呼ばれていた。
俺は薬人だからやっくん。
この人の本名は何だっけ。
ドラッグでも思い出せない。
俺の中でこの人は、あっくんと認識していたのだろう。
「あの二人は、もしかして死んだのか」
俺は手術台の上から見た光景を思い出した。
夢か幻覚でなければ、あの二人の頭は無残な状態になっていた。
思い出したら、さっき食べたおにぎりが胃から戻ってきそうになる。
「死んだ。死体は捨てた」
淡々と答えるあっくんは、顔色一つ変えない。
よく思い返してみれば、当時もあっくんは怪しい人物だった。
朝から昼までその辺をフラフラして、小学生だった俺と遊んでいた。
森でドングリを拾ったり、海岸の波打ち際で走りまわったりした。
アンダーグラウンドというか、表の世界の人間じゃなかったんだな。
そうでなければ、日本で拳銃を所持できるわけない。
そして重要なことを忘れていた。俺が殺した母親を、あっくんに処理してもらったんだった。
当時は混乱していて、あっくんが母親の死体をどうしたか覚えていないけど。
「どうしたい?」
頭の中でぐるぐる考えていた俺に、あっくんは唐突に尋ねる。
「何を?」
俺が聞き返すと、あっくんは手を差し出した。
手の平に二つの錠剤が乗っている。
一つは、黒い楕円形。
もう一つは真っ赤な球体だった。
「おすすめは、この二つ。どちらか」
これはドラッグなのか。
黒い方は見覚えがあるような気がする。
「黒いのは、前にもあげた。記憶が消える」
そうだった。
母親を殺してしまい、その死体をあっくんに処理してもらった後で、俺はこのドラッグをもらった。
今までのことを忘れたいかと聞かれたから、幼く単純な俺はそれを望んだ。
だから何もかも忘れてしまっていたんだ。
「通称エムクラッシュ。トラウマを抱えた精神障害を治す為に開発された。でも、効力が強すぎて服用する以前の記憶がほとんど消える。表向きは違法薬物」
確か白衣の男も、そんな名称を言っていたような気がする。
「これを飲んだら、全部忘れるのか。母親のことだけじゃなくて」
叔父さんの家に引き取られ、初めて愛情を受けたこと。
公平に出会って、一緒に遊んだこと。
腹違いの兄から勉強を教わり、受験に合格したこと。
サッカー部の全国大会でベストエイトに入ったこと。
そして、奏ちゃんとお弁当を食べたことも。
「今のところ、記憶を細かく操作できるドラッグは無い。記憶を消せて、副作用が少ないのはこれ」
あっくんは、エムクラッシュをつまんで掲げる。
全部忘れて、どうしろと言うのだ。
「こっちは?」
俺は赤い球体を指差した。
こっちは記憶に無い。
「これはエデン。俗に言う、アッパー系ドラッグ」
「飲んだらどうなる?」
「気分の高揚、頭が冴えわたる。用法を守れば、副作用無く快適な日常が送れる」
それだけかよ。
全て思い出したまま、日常に戻れというのか。
何がエデンだ。
ふざけるな。
「手っ取り早く死ねるドラッグは無いのか?」
俺の言葉にも、あっくんは顔色一つ変えない。
「死ねるドラッグはある。でも、手っ取り早くはない。苦しむ場合がある。一度で死ねない場合もある」
記憶を消したり蘇らせたりするドラッグがあるのに、なんで簡単に死ねるドラッグが無いんだよ。
人類は何をやっているんだ。
「苦しむのは、別にいいや」
むしろ楽に死ぬことなんて、俺に許されるのだろうか。
「死に方と死ぬタイミングは?」
あっくんが普通の会話でもするように言う。
そんな質問、初めてされた。
「俺に選ぶ権利はないよ」
「俺が叶えるよ。やっくんが死にたい方法と、死にたいタイミングを言って」
これは優しさなのか。
あの二人から俺を助けてくれたんじゃないのか。
その俺が死にたいと言ったら、死なせてくれるのか。
「どうして、そんなことしてくれるんだ」
「友達だから」
とてもシンプルな答えだった。
公平とは違うタイプの友達だ。
「死ぬのは人生で一度きり。せっかくなら、よく考えて」
そんなの当たり前だ。
でも、今の俺にはそんな思考力が残っていない。
自分という存在を、すぐにでも消してしまいたい。
それだけしか考えられない。
「死ぬのはいつでもできる。これを飲んで、頭を覚醒させて考えたらどうだ」
あっくんはエデンを俺に差し出した。
思考力をほとんど失っている俺は、何も疑わずにそれを受け取り飲んだ。
だって、何を考える必要があるんだよ。
騙されていて毒薬だったとしても、それは俺が望んでいることなんだから。
残念ながら騙されていなかった。
エデンを飲んで数分経つと、俺の頭は冴え始めた。
今まで味わったことがないくらい、スッキリとした気分になる。
頭が回り始めると余計なことを考えられるようになってきた。
そもそも、ここはどこなのか。
俺の服装が変わっていることにも気づいた。
ズタズタにされていた制服は見当たらず、紺色のつなぎを着ている。
「どうする?」
あっくんの問いは、俺の死に方のことか。
そんなに急かされても困る。
「まだ決まらないなら、外行こうか」
あっくんは俺の腕を掴んで立ち上がらせた。
俺が履いていたスニーカーを差し出してくる。
言われるがままされるがまま、俺は靴を履いた。
そして、あっくんに手をつながれ保健室から廊下へと移動する。
そこは学校の渡り廊下だった。
何だか懐かしいような、初めて見るような変な気分になる。
「ここは、やっくんが通っていた小学校」
そうか。
だから少しだけ懐かしい気持ちになったのか。
でも、保健室と同じように埃まみれで汚れていた。
割れている窓もある。
「これ、学校として機能してるのか?」
「廃校になってから数年経っている。費用がかかるから、取り壊していないだけ。再開の目途も無い」
そういうことか。
「じゃあ、ここは俺の故郷?」
あっくんは頷いた。
だったら、見ておきたい場所がある。
「俺の家の場所、分かるか?」
あっくんはまた頷く。
「そこに行きたい。場所を教えて」
「分かった。連れて行く」
俺はあっくんと手をつなぎ、俺がかつて通っていた学校を後にした。
あっくんの車に乗り込み、俺は助手席から窓の外を眺めた。
都市開発などされている様子はなく、昔とあまり変わらない光景が広がっていた。
この前行った新宿とは全く違い、人を見かけない。
そして、知っている道に近づいてきた時、俺の心はざわつき始めた。
怖いのか楽しいのか、興奮しているのか萎えているのか。
「家があった場所はここ」
車から降りたあっくんが、林が生い茂り雑草だらけの一角を指差す。
でも、そこには俺の記憶の中にあるボロい家は無かった。
その理由は、あの日燃やしてしまったから。
「あの後、火事にならなかったのか?」
「他の民家から離れていたから、被害は無かった」
俺も車から降りて、家があった場所に近づいた。
実物は無くても、記憶の中には存在する。
それを実感したくて、俺はその周辺をうろうろと歩き始めた。
そうやって記憶の答え合わせをする。
間違いない。
俺はここにいた。
しばらく置いてきぼりにしていた、もう一人の自分と再会したような高揚感と絶望感に俺はしばらく身動きが取れなかった。
日が傾き始めて、やっと我に返る。
「ごめん」
俺をずっと眺めていたあっくんに謝った。
「別に」
あっくんの表情はずっと同じだ。
彼が何を考えているのか、いまいちよく分からない。
「もう大丈夫。ここから離れよう」
もうたくさんだ。
俺はあっくんの車に戻った。
後からあっくんも車に乗り込んでくる。
「どこに行きたい?」
行きたい場所なんて、この世にはない。
「行きたい場所が無いなら、風呂に行こう」
俺は頷いた。
車が発進する。
母親との思い出の日々が、遠ざかっていく。
「俺の母親をどこにやったの?」
「隠した」
「そっか。大変だった?」
「別に。よくやる」
あっくんにとっては、珍しいことではないらしい。
「俺の母親はドラッグを持ってた?」
白衣の男が言っていたことは本当なのか。
「持っていた。ほとんど使ってしまっていたが。欲しいか?」
「持ってるの?」
「あの日、家を燃やす前に盗んだ。売ってしまったが、一つ残してある」
「あっくんは何者?」
「やっくんの友達」
そういう意味じゃないんだけど。
とりあえず、世間的には危ない人なのだろう。
「俺の血液から、そのドラッグ反応が出たのは何でだろう」
「やっくんの母親が妊娠中にドラッグを服用していたからだろう。母親が摂取したものは、胎児に影響を与える。あのドラッグは人体にとどまり続けて、抜けない特徴があった」
知ってか知らずか、俺の母親は俺を宿していたにも関わらず、認可されていないドラッグに手を出したのか。
やっぱり俺の出生はろくなもんじゃない。
「やっくんに副作用や中毒症状はない。健康面の心配はない」
確かに俺の体は丈夫で、生活面に困ったことはなかった。
「俺の血から、そのドラッグが作れるのは本当?」
「化学構造さえ分かれば、可能だ」
「そのドラッグは、一体どんな効果があるんだ?」
「試作段階の名称は、ドロップヘヴン。強力な快楽作用だ」
「それだけ?」
「それだけ」
馬鹿馬鹿しい。
そんな物の為に、わざわざ高校生のガキ一人誘拐しなければならなかったのか。
そのせいで死ぬなんて、ホノカと白衣の男は救えない奴らだ。
もう死んでいるけど。
しばらくして、あっくんの車は止まった。
場所は少し寂し気な旅館の駐車場。
「今日はここに泊まろう」
そういえば今何時なのか考えていなかったが、辺りは暗くなり始めている。
風呂って温泉のことだったのか。
俺はあっくんの顔を見つめた。
無理だろ。
「あっくん。温泉って刺青まずいんじゃないか」
「刺青じゃない。化粧だ」
意味が分からず俺は黙ってしまった。
あっくんはどろっとした液体を手のひらに浸し、そのまま顔をこすりはじめた。
顔を拭うと、先程までの刺青が消えて普通の男性が現れた。
フェイスペイントだったようだ。
さらにあっくんはボサボサの髪をワックスでなでつけ始める。
フード付きのぶかぶかな服を脱ぎ、黒いトレンチコートに身を包んだ。
あっという間に、身なりが整った男性になってしまった。
死神が人間に化けたようだ。
記憶の中にいた青年の面影がある。
「何で、あんな格好してたんだよ」
わけが分からず思わず聞いてしまった。
「変装しないと生きられないから」
聞かない方が良かったかもしれない。
じゃあ、化粧落として平気なのだろうか。
あっくんに連れられて、旅館の玄関を開いた。
木造の質素な空間が広がっている。
「予約していた八重藤です」
あっくんが受付の女将にそう言った。
俺の名前で予約していたのかよ。
何でだ。
問いただす暇も無く、女将に部屋へと案内される。
わりと広い畳が広がる部屋だった。
「温泉行こう」
あっくんは二人分の浴衣を持ち、俺の手を引いた。
この旅館はあまり繁盛していないのか、温泉には俺とあっくんしか入っていない。
貸し切り状態で少しだけテンションが上がる。
ヒノキの良い香りがした。
露天風呂からは夜空が見えた。
星が綺麗だと感じた。
俺は一体、何をしているのだろう。
血行が良くなったからか、徐々に自分の今の状況について冷静に考え始めていた。
温泉からあがり、部屋へ戻るとすぐに料理が運ばれてきた。
山菜や刺身、鍋やお肉がテーブルに並べられていく。
呆気に取られている俺に気づかない女将は、料理を並べ終わると部屋からすぐに出て行ってしまった。
あっくんがグラスにジュースを注いで、俺の前に置いた。
「払えないよ」
俺の声は震えていた。
「いらない。食べて」
あっくんは俺を見つめる。
また俺が食べるまで観察するつもりか。
仕方なく、目の前にあったマグロの刺身を醤油につけて食べた。
最悪なことに、こんな状況にも関わらず美味しいと感じてしまった。
俺はお腹が空いていたと自覚して、次々と食べ物を口に運ぶ。
箸が止まらない。
口に広がった懐かしい苦みはピーマンと人参の添え物だった。
叔父さんにも食べさせてあげたい。
そう思った途端、涙が溢れ始めた。
小さく嗚咽する。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、俺は料理を食べ続けた。
本当に何をしているんだ、俺は。
「まだ死にたい?」
食べ過ぎて気分が悪くなっている俺に、あっくんはまた尋ねてきた。
死にたいかは分からない。
でも、死んだ方がいいのだろう。
「やり残したことはない?」
確かに、死ぬ前に身辺整理をするべきだ。
どうせ死ぬなら、綺麗に死にたいな。
すぐに頭に浮かんだ顔は、やっぱり叔父さんだった。
あの人は、俺の母親を自分の姉を待ち続けている。
真実を伝えなければ、あまりにも不憫じゃないか。
もう待たずに、自由に生きていいと言わなければ。
俺もいなくなるから、好きに生きてくれと言わなければ。
自由になって、恋愛をして、結婚をして、俺なんかじゃない本当の子供ができたらいいな。
それだけで、俺は幸せになれる。
俺は幸せになってはいけないかもしれないけど、叔父さんは幸せになるべきだ。
「家に帰る。そして、叔父さんに全てを告白する」
やっと自分がすべきことが分かった。
死ぬのはその後でもいいだろう。
「分かった。明日、送って行く」
あっくんは快く了承してくれた。
その日は疲れていたようで、布団にもぐるとすぐに眠ってしまった。
翌朝、昨日のような爽快さが無かった。
頭も体も重く、サッカー部に入った当初の練習後の疲労感より酷い。
「エデンは二十四時間しか効かない。辛ければ、またこれを飲んで」
あっくんの手のひらに赤い球体がある。
そんなに飲んでしまって良いのだろうか。
でも、家に帰ってちゃんと叔父さんに話すためにはドラッグの力を借りるしかない。
俺はまたエデンを飲み込んだ。
すぐに頭が軽くなる。
ゲームに出てくる魔法の薬のようだ。
「エデンは一日一錠だけ。それを守れば、とても優秀なドラッグだ。後でまとめて渡しておく」
「ありがとう。でも、叔父さんに告白したらすぐに死ぬから、そんなにいらないよ」
そうだ。
俺のすべきことは、それしかない。
これ以上あっくんに迷惑はかけられない。
旅館をチェックアウトし、あっくんの車に乗り込んだ。
あっくんが俺にコンビニのビニール袋を差し出してくる。
中には昨日食べなかったパンとお菓子が入っていた。
車のドリンクホルダーに、またスポーツ飲料が置いてある。
車が発進した。
昨日と違って俺はパンとお菓子に手をつけた。
叔父さんの所へ帰る前に、俺はできる限りあっくんから情報を聞き出すことにした。
俺が打たれたドラッグは、認知症やアルツハイマー病といった記憶障害を治療する為に開発された医薬品であり、激しい頭痛以外の副作用はないらしい。
ただ実際の患者に対しては一時的に記憶が戻っても、病状そのものの改善にはならず、開発途上の薬だという。
俺が誘拐されてから十六日は経っているみたいだった。
今日は日曜日。
俺を誘拐して監禁した白衣の男はドラッグ開発会社の研究員だったようだ。
その研究員が勤めている会社がかつて開発途中だったドラッグが、母親が持ち逃げしたドロップヘヴン。
ドラッグは開発後、臨床試験で問題が無ければ正式に国から認可される。
問題があればもちろん販売は許可されず、化学構造のデータごと破棄される決まりになっているという。
ドロップヘヴンは服用した者にとてつもない快楽を与えるかわりに、切れた時とのギャップが激しく中毒者が続出したそうだ。
当時東京で水商売をしていた俺の母親は金欲しさに被験者になったらしいが、中毒になり提供者を騙してほとんどのドラッグを持ち逃げした。
そして、茨城県まで逃げ延びた。
ドラッグ漬けの母親からドラッグ漬けの俺が生まれて、後は記憶にあるとおりだろう。
母親の死体と家を処理したあっくんは、施設に俺を一時的に預けた。
あっくんは俺の親戚を調べ上げ、母親になりすまして叔父さんに手紙を送った。
人のいい叔父さんが、俺を迎えに来てくれてめでたしめでたしというわけだ。
全くめでたくない話だけどな。
ホノカは後ろ暗い女のようで、いくつか犯罪に手を染めていたらしい。
今回の誘拐事件について、あっくんは推測して俺に話してくれた。
白衣の男は、闇市場で高額で取引されているドロップヘヴンがかつて自分の会社で開発されていたことを知り、金に目がくらみいろいろ調べた結果俺の母親に辿り着いた。
母親の行方を調べているうちに、当時母親と同じ地域に住んでいたホノカとつながる。
さらに最悪なことに、俺がサッカーの全国大会でテレビ中継され、ホノカの目にとまる。
二人は結託し、俺を誘拐し、そして命を落とした。
めでたしめでたし。
エデンの影響なのか、あっくんの説明をどこか他人ごとのように聞けている自分がいる。
そして、無くしていたジグソーパズルのピースがそろったように気持ちがいい。
もう十分だ。
昔から心の中でもやもやしていた自分の出生の秘密が解き明かされた。
死ぬ前に知れて良かった。
一度パーキングエリアで休憩し、フードコートで醤油ラーメンを食べた。
意外とおいしいものだと感動した。
隣の席であっくんはブラックコーヒーを飲みながら、おにぎりを食べていた。
その後、お土産売り場をうろついた。
叔父さんに何か買って行ってあげたかったけど、面倒なことになると思って我慢することにした。
そして夕方には、家の近くに着いた。
だんだん緊張してきた。
大丈夫だ。
落ち着け。
俺は自分に言い聞かせる。
「やっくん、これ」
あっくんが車のトランクから荷物を取り出し、それを俺に渡してきた。
それは誘拐される直前まで俺が持っていた学校鞄だった。
監禁されていた場所から、持ってきてくれたんだ。
中にはいつもの持ち物の他に、新品の制服と、手のひらサイズの白い缶が入っていた。
缶を開けるとエデンが何十粒も入っていた。
こんなにいらないのに。
缶をしまった俺にあっくんは、名刺サイズのカードを渡してくる。
ラメが入った毒々しいピンク色のショップカードだ。
「この店の店主に、やっくんだと言えばエデンをもらえる。他に欲しいドラッグがあれば、伝えておいて。後日預けておく」
死ねるドラッグもくれるのかな。
俺はあっくんの車から降りた。
何から何まで世話になってしまった。
ここまでしてくれる理由が分からない。
「ありがとう。本当に」
俺はそれだけ言えた。
あっくんは流し目で俺を見る。
終始無表情だったな、この人。
「また」
あっくんは短く返答し、車を走らせた。
俺は車が見えなくなるまでそこにいた。
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