人を愛したら魔女と呼ばれていた

トトヒ

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第22章

トリンの回顧録「信じたい人のためにこの力を使うと決めた」

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ハモネーの田舎にある集落でトリンは誕生する。
両親の潜力は非常に高かったが、生まれてきたトリンはそれを遥かに上回る潜力があった。
その地域では、潜力を利用して集団で農業を営み作物を育てることを主な生業としていた。
潜力が高いことは力仕事に役立つため、トリンの能力値の高さに誰もが喜んだ。
しかし、トリンが農業の手伝いをするようになると問題が発覚する。
トリンの潜力はその地域の誰よりも高く、不器用な為コントロールができない。
田畑を耕しているつもりで荒らしてしまい、作物を刈り取ろうとすると潰して台無しにしてしまう。
農業に使う道具も次々と破壊し、しまいには家畜を殺してしまった。
その地域を取り締まっている権力者の怒りを買い、トリンの一家は追放されてしまう。
両親が土下座をしている姿を、トリンは泣きながら見ているしかなかった。
けれどもトリンの両親は娘を責めることはせず、娘に相応しい環境を探し始めた。
今までとは全く違う都市部へ引っ越し、学校へ通わせることにする。
都市部の方が潜力の指導方法が整っていると考え、不器用な娘でも力の加減を覚えられるだろうと両親は考えた。

今まで勉学をまともにやってこなかったトリンは、学校という環境について行くことに苦労する。
トリンが唯一興味をもった科目は歴史だった。
ハモネーの歴史は潜力が高い者達で作られた。
そして国をまとめたのはサンドローザという女性であり、トリンはその英雄と自分を重ねて彼女のファンとなっていた。
都市部の広場にはサンドローザの銅像が建っており、トリンは毎日そこへ通って祈りを捧げていた。
自分が生まれ育った地域では高い潜力のせいで皆に迷惑をかけたが、いつかサンドローザのような英雄になることを夢見るようになった。
けれど現代では、トリンの夢は時代錯誤だった。
平和になってしまったハモネーは英雄を望んでいない。
潜力が高いことだけが良しとされる時代はとうに過ぎ去っていた。
都心部に暮らす少女達の話題は、流行りのタレントやファッションについてだった。
当然トリンは話題について行けない。

「ねえ、その服変だよ」

ある日トリンはクラスメイトに話しかけられた。
クラスで一番オシャレで可愛いと言われていた少女だった。

「ど、どこか変?」

トリンは自分の見た目に無頓着だった。
服が変というのは、どこかほつれていたり穴が開いているという意味かと思ってしまう。

「何か全体的に茶色っぽいし、ぶかぶか。どこで買ったの?」

「これは、お母さんが作ってくれたの」

トリンが生まれ育った地域は、ほとんどの事を自給自足で行っていた。
食べる物も着る物も自分達の手で作る。
トリンが来ていたセーターも、母親が編んだものだった。

「その服やめた方がいいよ。私がファッション教えてあげるよ」

「え、でも、私この服好きだから……」

クラスのファッションリーダーを気取っていたその少女は、トリンが自分の申し出を断ったことにむっとする。
トリンのセーターを乱暴に引っ張った。

「こんなのダサいからダメ!」

「はなして!」

母親が編んでくれたセーターを破られると思ったトリンは、その少女を突き飛ばしてしまった。
危害を加えるつもりは無かったが、トリンは力をコントロールできなかった。
その少女は吹き飛ばされ、大きな音をたてて床に倒れる。
教室にいたクラスメイトがトリンに注目し、沈黙する。
倒れた少女は震えていた。

「ご、ごめんなさい! 大丈夫?」

トリンが慌てて近づき手を差し伸べたが、少女はまるでトリンを鬼か何かを見るように怯える。

「やめて! こっちに来ないで!」

クラスメイトの誰かが呼んできた教師が教室に駆け付け、少女を連れて保健室へ向かう。
トリンは職員室に呼ばれ、事情を聴かれることになった。
トリンは故意に危害を加えたわけでなく、大したお咎めは無かったが、噂は学校中に広まってしまう。
トリンが突き飛ばした少女は腕を骨折する重傷を負っていた。
少女も服装を理由に話しかけようとしただけであり、悪気があったわけでは無かった。
トリンはすぐに手をあげる乱暴者というレッテルを貼られてしまう。
体育の授業でも、トリンは力をコントロールできずに同級生と同じカリキュラムで授業を受けることができなかった。
それは教師ですら持て余す力であり、トリンだけ一人特別授業を受けることになる。
それからトリンは完全に腫物扱いになってしまった。

「生まれてくる時代を間違えてしまったね」

ある日教師から言われたその言葉は、トリンを深く傷つけた。
教師は慰めるつもりだったのかもしれない。
しかし、トリンはサンドローザにはなれずこの時代に馴染むこともできないと感じた。
学校に提出しなければならない進路希望調査に何も書けない。
潜力はハモネーでは重宝されるが、使いこなせなければどうしようもない。
勉強も苦手で進学も厳しい。
問題だらけの自分に就ける職なんてない。
自分の力は人を助ける事はできず、人を傷つけるだけ。
トリンは学校へ通うことが困難となり、自宅で引きこもる生活を送るようになった。

月日は流れ、ひたすら繰り返す日常の中でエネミーパニックという事件が起きる。
ハモネーのエリート集団だった国家防衛管理局の戦闘課は、一気に株を落とす事態となっていた。
連日彼らを誹謗中傷する報道が続く。
映像放送で毎日その報道を見続けていたトリンは、高い潜力をもっていても引きこもり続けている自分を情けなく感じた。

「ねえ、お母さん。私が戦闘課にいたら、この事件は防げたと思う?」

トリンは食事中の雑談の中で、母に尋ねた。

「そうかもねー」

トリンの母親はおかずをつまみながら、適当に相槌を打っていた。

「管理局に就職しようかな」

トリンの母は娘のその言葉に箸を止め、笑い出した。

「何言ってるのよ、無理よ。あそこはエリート集団よ。潜力が高いだけじゃダメなんだから」

国家防衛管理局の戦闘課は潜力が高いのは必須条件だが、ある程度の頭脳が無ければ入社できない。
勉強が不得意な娘には無理だと母親は笑い飛ばした。
トリンの母はそのまま食事を再開させる。
トリンも自分の戯言をもみ消すように食事を続けた。

けれどもトリンはその日からエネミーパニックについて気になるようになっていた。
他にやることも無く、連日の報道を眺める。
徐々に事件について詳しい情報が流れ始め、戦闘課ですら歯が立たなかった化け物について報じられる。
幼き日の夢がトリンの胸を焦がす。
そして、亡くなった戦闘課のフィアンセが記者会見を行った。
彼女の言葉に感極まったトリンは涙を流す。
自分は一体何をやってきたんだ。
有り余る潜力を誰かの為に役立てるチャンスはこれしか無いのではないか。
今まで無駄にしてきた人生を挽回したい。
その日からトリンは猛勉強を始める。

しかし、物事はそう上手くいかない。
もともと勉強が苦手な上に、長年触れもしなかった為取り戻すのは想像以上に苦労する。
諦めかけた時、その年の管理局入社試験は潜力が高ければ優遇されるという知らせを聞く。
管理局側としてはすぐにでも人員を確保したかったからだった。
トリンはすぐさま母親と父親に、自分の進路を伝えた。

「いくらお前でも、危険なんじゃないか?」

父親は渋った。

「でも、やり直すならここしか無いと思う。今までお父さんとお母さんに迷惑をかけてきたけど、今度は自分の力を役立てて生きてみたい」

トリンは両親に土下座をした。

「いつ迷惑をかけたの?」

母親は少しだけ驚いたように呟いた。

「農業が上手くできなくて、集落を追い出されたり。学校で友達を怪我させたり。引きこもったり」

トリンが吐露する言葉を聞き、母親は溜息をついた。

「もし、恩返しでもしようと思ってエリート集団の仲間入りをしようとでも考えているならやめときなさい。こっちは迷惑だなんて思ったことないのよ。勘違いしないでちょうだい」

母親が少し怒りながら語る言葉を聞き、トリンは頭を上げた。

「死んだ戦闘課の親の気持ちを考えたら、そんなアホみたいな考え方はできないわよ。死ぬくらいなら一生引きこもってほしいわ」

母親は腕を組んでトリンを見下ろしている。
トリンは母の言葉に涙を浮かべた。

 「どうなの? そうなの? それとも、本当にやりたいの? どっち?」

トリンは目をつぶり真剣に考える。
確かに負い目はあった。
けれど、トリン自身誰かの役に立ちたいという気持ちは強かった。
サンドローザのようになることが、自分の夢だったからだ。
そしてトリンは、夢を叶えたいと両親に訴える。
すると、先程まで眉間に皺を寄せていた母親が笑顔になった。

「だったら、私と父ちゃんは全力で応援するよ。頑張りなさい」

トリンの母親は楽観的だが優しい性格だった。

「僕達はこれがトリンの運命だと信じるよ」

父親も納得し、トリンを激励した。
トリンは改めて両親に感謝し、2人のもとへ生まれたことを幸福に思った。

国家防衛管理局の入社試験の日、何もかもが久々すぎてトリンは緊張で爆発しそうだった。
母お手製のセーターをお守り替わりに着込んで出発する。
候補者は都市から離れた広場に集められる。
そこで各々の潜力を披露するため、近隣に危害が無いように考慮された試験会場だった。
試験内容は原始的で、好きなように潜力を披露すれば良かった。
トリンは上手い方法が思いつかず、地面に拳を打ち付けて地割れを起こした。
他の候補者が若干引いている中、潜力が高いことは証明され、見事合格となった。
その年は応募者が例年より少なかったこともあり、そこに集められた候補者は潜力が一定以上高ければ全員合格していた。
トリンは自分が運が良かったと喜んだ。

両親に見送られ、トリンは一人暮らしをすることになった。
管理局近くのアパートへ引っ越す。
適当に洋服を揃え、新生活をスタートさせる。
トリンは期待と不安で胸を膨らませた。

「お前らは今の状況が分かって入社してきたと思うが、国家防衛管理局は今危機的状況だ! 生半可な訓練じゃ死ぬと思え!」

入社式の日、新人を前にして声高らかに発言したのはジェイドという強面の男だった。

「おい、あれがエネミーパニックの生き残りだぞ」

「知ってる知ってる。戦闘課のエースだよな」

「さすがの迫力だな。超怖い」

戦闘課への志願者にとってジェイドは有名であり、トリンの同期が噂していた。
見た目も中身も鬼のようだとささやかれているのを聞き、トリンも気を引き締めた。
言われた通り訓練し、足を引っ張らないようにしようと心に決める。

家で引きこもっていたトリンは、最初体力作りに苦労した。
ランニングが周回遅れになり、ジェイドの罵声が飛んでくる。
ジェイドの表情は正しく鬼の形相で、彼の黄金の瞳がトリンを射貫く。
本気で殺されるのでは無いかと思い、トリンは懸命に訓練を続けた。
しかし、ジェイドは訓練時は恐ろしい程厳しかったがそれ以外の場面では愛嬌のある男だった。
トリンに対しても訓練以外では何も文句は言わない。
後輩達を気遣っていた。
思っていたよりも悪い環境では無かったことにトリンは安心した。
しかしある日、遂に騒動を起こしてしまう。

国家防衛管理局に新しく導入された最新マシーンで、今までの訓練結果と潜力の測定をすることになった。
戦闘課一同は自分の潜力を最大限に高め、そのマシーンに拳を振るう。
トリンも訓練に真剣に取り組んでおり、体力に自信が出てきた頃だった。
ジェイドは大声で「自分の限界までマシーンに力を加えろ」と吠えていたので、トリンは言われた通りに殴った。
すると大掛かりなマシーンだったにも関わらず、軽々と吹っ飛び壁にめり込んでしまった。
一瞬の出来事で轟音が鳴りやむと、辺りが静まり返った。
その場にいた社員は顔を青くさせる。
壁にめり込んだマシーンにジェイドが近づいて行き、しばらく眺めた後トリンに向き直る。
いつもの恐ろしい形相では無く、唖然とした表情をしていた。
トリンはどうすれば良いか分からず固まる。

「ねえ……これマズイわよね」

「ああ。これ、相当な金がかかった最新マシーンだって聞いたぜ」

「また税金泥棒って、世間で叩かれるんじゃないか?」

社員がざわつき始めた。
トリンは昔の記憶がよみがえる。
いつも自分は物を壊し、皆に迷惑をかけてしまう。
潜力が強い人間が集まる戦闘課なら、自分も溶け込めるのではないかと思っていた。
けれど、結局自分はどこへ行っても失態ばかりしてしまう。
世間からの風当たりが弱まって来たとはいえ、また戦闘課に悪い影響を与えてしまうのでは無いかと不安にかられる。
萎縮したトリンに、ジェイドが近づいて来る。
怒られるか殴られるか、トリンは目を固くつぶった。
周囲にいる社員も固唾を飲んで見守る。

「お前、マジか」

ジェイドは一言そう言った。
目を開けたトリンが見たジェイドの表情は半笑いしていた。

「すすすす、すみませんでした!」

トリンは頭を下げて謝るしかなかった。

「お前の力やべーな」

「すみません! すみません! どうお詫びしてよいか」

ジェイドは頭を掻いて、再び破壊されたマシーンを顧みた。

「とりあえず、事務課に報告してくるな」

ジェイドはトリンを咎めることはせず、踵を返して歩き出してしまった。
トリンは先輩に迷惑をかけてしまうと感じ、ジェイドについて行くことにした。

「私が壊したので、私も一緒に謝りに行きます」

「いい心がけだな。じゃあ、行くか」

トリンの不安をよそに、ジェイドからは怒っている様子が感じられない。
そのよく分からない態度が、トリンを一層不安にさせる。

事務課のフロアへ続く廊下が、トリンにとっては処刑台への道のようだった。

「私は、クビでしょうか?」

沈黙に耐え切れず、前を歩くジェイドへ尋ねる。

「それは無いだろ。この人手不足の時に」

ジェイドは振り返りもせず、普通の会話のように答えた。

「あのエネミーとやり合うには、高い潜力が必要だ。お前が処分されないように、頼んでみるよ」

ジェイドの言葉にトリンは感謝しつつも、申し訳なさで胸がいっぱいになる。
先輩に尻拭いをさせてしまうことを恥じた。
黙っているトリンの気持ちを察したように、ジェイドが振り返る。

「事務課に俺の親友がいるから大丈夫だって。そいつなら話が通じるはずだ」

これから自分の失態を報告へ行く人物が、ジェイドの親友と聞いて少しだけトリンは安心した。
親友のジェイドが口利きをすれば、何とか許してもらえるのではないかと考える。

「どんな人ですか? あの、優しい人でしょうか?」

トリンが恐る恐る尋ねると、ジェイドは目を輝かせる。

「優しい優しい。天使みたいな奴だ」

「天使?」

「優しいだけじゃないぞ。頭がめちゃくちゃ良くて、仕事が早い。アイツの判断は100パーセント正しいんだ」

ジェイドの声は弾んでいた。
その様子から、とても素晴らしい人格者なのだとトリンは感じる。

「そんな方が、ジェイド先輩の親友で良かったです! 何とかなりますかね」

トリンの言葉を聞いたジェイドは、一瞬苦笑いをした。

「悪い、ちょっと嘘ついた」

「え?」

「親友っていうか、俺の片思い中」

「片思い? 女性なんですか?」

「いや、男」

雲行きが怪しくなってきたと思ったトリンは、再び不安に襲われる。
ジェイドの話からは、片思いの親友の立場が完全に上だった。
100パーセント正しい判断をする人物ということは、トリンをクビにするという判断をした場合ジェイドは反論できないのではないか。

「あ、いた。アイツだ」

事務課のフロアに着き、入り口からジェイドが指さした人物を見てトリンは絶望感を味わった。
灰色の長い前髪に銀縁眼鏡をかけた、細身の男がデスクで仕事をしていた。
その男が漂わせる雰囲気は、ジェイドとは違った恐ろしさだった。
トリンは思わずジェイドの腕を引っ張る。

「天使というより、死神みたいじゃないですか」

トリンの言葉にジェイドは爆笑した。

「言うねー。顔面は鉄仮面だからな。でも中身は天使だぞ」

ジェイドはトリンの制止をきかず、フロア内に足を踏み入れて進んで行ってしまった。
仕方なくトリンは遅れてついて行く。

「よお、ルチル。今ちょっといいか?」

「はい。何でしょう」

ルチルの返事は抑揚など全く無く、無機質だった。
デスクワークを中断し、ジェイドを見上げたその瞳は冷徹な印象を与える。
なぜこの人物をジェイドが親友と呼んだのか、トリンには理解できない。
自分を安心させようとジェイドが嘘をついたのではないかと思う。

「あのさ、この前導入された潜力測定器あるじゃん?」

「SR-MAXのことでしょうか?」

「そう! それそれ。壊しちまったんだけど、何とかならないかなあ?」

ジェイドの口調は軽かった。
あたかもそんなに深刻な問題ではないとでも言うように。
けれど、破壊されたマシーンを見た時の社員の様子から、さすがにトリンも自分がとんでもない失態を犯したと自覚していた。

「どの程度でしょうか?」

ルチルは狼狽えることなく業務的に尋ねた。
程度という言葉を聞き、ようやくジェイドも困った表情をする。

「たぶん、全壊。修理は無理だと思う。おまけに、壁にめり込んでるから壁の修理も必要だ」

ジェイドは顔の前に手を合わせて謝罪のポーズをした。
トリンは背中に汗を掻いた。

「ジェイドさんが壊したのですか?」

ルチルはデスクの引き出しからボードを取り出し、そこに何かメモし始めた。
何の感情も読み取れない。
淡々と業務を進めるだけのルチルにトリンは恐怖する。
けれどジェイドが自分を庇おうと口を開いたのが分かり、トリンはその場で土下座した。

「申し訳ございませんでした! 私がやりました!」

トリンの声は大きく、事務課のフロアにいた社員の注目を集める。

「力の加減ができず、高い機械を壊してしまいました! 私のような新人が問題を起こしてしまい、申し訳ございませんでした!」

トリンには言い訳も取り繕う術も無く、ただひたすら謝り真実を告げることしかできなかった。

「トリンさんに問題はありません」

頭上から聞こえる冷静な声に、トリンは耳を疑った。
見上げるとデスクから身を乗り出してこちらを見下ろすルチルと目が合う。
先程まで冷徹な瞳だと思っていたそれは、近くで見ると透き通っていた。
トリンの時間が停止する。

「正規の方法で使用し、壊れたのですよね?」

ルチルの問いかけに我に返り、トリンは首を縦に振る。

「では、あなたに問題はありません。謝罪の必要はありませんよ」

ルチルに言われている内容が理解できず呆然としていたトリンを、ジェイドは腕を掴んで立たせた。
そして、状況を確認したいというルチルと共に再度トレーニングルームへ戻る。

無残に破壊され壁にめり込んだマシーンを観察しながら、ルチルは素早くメモをとっていた。
トリンやジェイドにもいくつか質問し、ルチルは無表情のまま作業を終える。
他の戦闘課社員もその様子を不安そうに見守っていた。

「だいたいの事は分かりました。僕から上に報告しておきますので、皆さんは訓練に戻ってください。後日業者が壁の修理に来ますので、それまでこのままでお願いします」

ルチルは一礼してその場を去ろうとした。

「あの、本当にすみませんでした! 私が壊してしまって、迷惑をかけてしまい」

ルチルもジェイドも自分を咎めなかったが、トリンは再びやってしまった失態を詫びなければならないと感じた。
自分の為に動いてくれたジェイドやルチルだけでなく、管理局全体に迷惑がかかってしまう。
去るルチルを呼び止め、頭を下げる。

「壊れる方が悪いのですよ」

振り返ったルチルの言葉が、トリンの頭で反響する。
今まで自分の力のせいで物を壊し、人を傷つけてきた。
悪いのは間違いなく自分だった。
それなのに目の前にいるルチルという男は、それを全否定している。
トリンの頭は上手く回らない。

「で、でも、私が問題を起こしたせいで、管理局に迷惑が。また、税金を使って修理や新しい機械を買わなければならないですし」

「先程も言いましたが、トリンさんに問題はありません。問題があるのは、潜力に耐えられなかったこのSR-MAXと、これを開発した業者です」

唖然としているトリンに、ルチルは淡々と続ける。

「そもそもこのマシーンは潜力を計測する為の物です。にも関わらず、その潜力に耐えられず壊れるなど言語道断です。おまけにそのせいで、壁が破壊されてしまいました。被害者はどう考えてもこちらです。これは不良品ということで、業者に訴えます。新型マシーンの補償と壁の修理はそちらでもってもらいます。ですので、問題ありません」

「でも……業者の方に恨まれませんか?」

ルチルの強気な発言に喜びつつ、不安にもなる。
トリンは自分の潜力の異常さを自覚していた。
おそらく自分が破壊してしまったマシーンは不良品などでは無い。
桁違いの力のせいで破壊してしまったのだと分かっていた。

「むしろ感謝されるべきですね」

「え?」

「潜力関係の機械を開発する為なら、より高い潜力のデータが必要なはずです。今回の事は、業者側にもメリットがあります。研究と開発の為に、管理局と提携していますから。利害関係は一致していますので、それも問題ありません」

トリンはルチルの話した内容を整理するのに時間がかかる。
目を泳がせて考えた。
トリンが理解していないのをルチルは察する。

「要するに、トリンさんのお陰で業者はより強度の高いマシーンを開発できるわけです。管理局としても良いデータが取れました。上に報告しておきます。それでは」

ルチルは再び一礼してその場を去った。
トリンはその背中を見つめたまま動けない。
そんなトリンの肩に、ジェイドが手を置く。

「なあ、クールな天使だろ?」

ジェイドは尊敬の眼差しでルチルの背中を見送っていた。
それから他の社員もトリンの周りに集まる。

「良かったな!」

「お前ってすごい奴だったんだな!」

「すごいね! その力があれば、エネミーも敵じゃ無いんじゃない?」

トリンの驚異的な力に圧倒されていた社員達は、ルチルの発言を聞き前向きに考えることができた。
トリンの周りに人が集まり、潜力を褒められる。
トリンにとって、自分の力を肯定的に捉えられることは生まれて初めてだった。
緊張の糸が切れたと同時に、トリンの目には涙が溢れ泣き始める。
ジェイドを含め他の社員達は、そんなトリンを微笑みながら慰めてくれた。
泣き止むどころか嬉し泣きが止まらなかった。

以前よりもやる気をみなぎらせたトリンは、トレーニングに精を出す。
しかし、不器用さは抜けず空回ることは多い。
気を付けてはいても、トレーニングマシンを破壊し上官に説教される。
他の社員も呆れてはいたが、肯定的にとらえ見守っていた。
口が悪いジェイドから罵声は浴びせられるが、フォローもしてくれる。
トリンは仲間達に感謝し、訓練を続けた。

そんなある日、管理局の廊下でルチルとその上司が話している所を目撃する。
立ち聞きをするつもりは無かったが、話の内容が自分のことだと気づき隠れて聞いていた。
最近トレーニングマシンが破壊される件数が多く、その事に関して上司がルチルをなじっていた。
しっかり指導しているのか、管理不足なのでは無いか。
その度にルチルは頭を下げて謝っている。
自分の力について前向きになってきたトリンは、また落ち込み始めた。
誰かに迷惑をかけていることに変わりは無いと。
上司とルチルの話が終わり、ルチルが一人歩き出す所へトリンは思わず飛び出していた。

「ルチルさん! すみません! 私のせいで怒られて」

突然飛び出してきたトリンに、ルチルは一瞬驚いたがすぐに無表情に戻る。

「問題ありません。仕事ですから」

「私が壊しているのに、ルチルさんが怒られるなんておかしいです!」

「戦闘課は潜力を出し切って訓練することが仕事です。それ以外をフォローするのが、僕達事務課の仕事です。おかしいことはありませんよ」

「でも、でも……」

「戦闘課の皆さんは命がけでエネミーと闘います。それに比べたら、僕の仕事は取るに足らないですよ。気にする必要は全くありません。トリンさんは今まで通り、訓練に励んでください」

ルチルは一礼し、歩き出す。

ルチルの言っていた事も分かるが、トリンはこのままではいけないと思った。
その時、ジェイドがよくルチルに訓練のアドバイスを聞きに行っている光景を思い出す。
ジェイドが言うには、ルチルの助言のお陰でエネミー討伐が上手くいっているとのことだった。
トリンも自分に何かアドバイスをもらえないか、ルチルを追いかけ聞いてみることにした。

「そのままで良いのでは?」

自分の力をコントロールする方法をルチルに聞くと、簡素な返事が返って来た。

「ダメですよ! 毎回マシーンを壊してしまいます」

「壊れる方が悪いんです」

ルチルは前と同じ発言をした。

「でも、新しいマシーンが届くまで他の社員は訓練があんまりできなくなるんです。それに、対人訓練でも力が強すぎて怪我をさせてしまうかもしれません」

「なるほど、機械相手なら僕も構わないと思っていましたが、人間相手だと話は違いますね。訓練中に事故を起こし、戦闘課の人員がこれ以上減るのは避けるべきでしょう」

トリンの話に、ルチルは納得したようだった。
ルチルは眼鏡を押し上げて、トリンを見つめる。
トリンはなぜかその仕草に心臓が跳ね上がる感覚を覚えた。

「トリンさんは自分の潜力がどれ程かイメージできていますか?」

トリンは黙って首を横に振る。

「自分の力が分かっていないなんて、情けないです」

トリンは項垂れた。

「仕方ないことです。あのSR-MAXを吹き飛ばすくらいですからね。国内最先端の研究所が開発した機械でも歯が立たなかったなら、ご自身の力の最大限は分からないでしょう」

「すみません! あの時は」

「問題ありません。開発者も喜んでいました」

自分のせいで機械を破壊してしまったのに、開発者が喜んでいたという事実はトリンに理解できなかった。
けれど、ルチルが言っていたことが正しかったことだけは分かる。

「研究所の分析によると、トリンさんは少なくとも国民平均の10倍の潜力を持っていることが分かりました。戦闘課で例えるなら、ジェイドさんの5倍です」

トリンの頭にクエスチョンマークが浮かぶ。

「すみません。よく分からないのですが」

「トリンさんの力は、ジェイドさん5人分と言えばイメージが湧くでしょうか?」

「ええ!」

トリンは驚き大声を上げてしまう。
管理局の廊下に声が響き渡り反響する。
トリンは慌てて口をおさえた。
あの戦闘課エースでとても強いジェイドの5人分だと聞き、トリンは狼狽える。
ルチルは無表情のままだった。

「トリンさんは恐らく真面目な性格だと思いますので、上官やジェイドさんのアドバイスを真剣に聞いてしまいますよね。全力で力を入れろと言われれば、そのとおりにしてしまう。しかし、ジェイドさんの全力とトリンさんの全力には5倍もの違いがあるのです。エネミー討伐では全力を出す必要がありますが、マシーンを壊さない為、人を怪我させないためには言葉は悪いですが手を抜く必要があります」

「私は、どうすれば良いでしょうか?」

「トリンさんの力はトリンさん自身で調整するしかありません。少なくともジェイドさんの5倍ということしか分かっていませんから。僕の予想ではもう少し高いと思います。まずは微量な力から試し、徐々に強くしてみてください。最初から全力を出さないということです」

「難しいですね。自信無いです」

トリンは俯いた。

「訓練だと身構えず、日常生活のような感覚で取り組んでみてください。日常で使う潜力程度から徐々に力加減を覚えれば大丈夫です」

「そんな悠長な訓練で良いのでしょうか?」

「トリンさんには生まれながらにして、すばらしい潜力があります。焦る必要は何もありません」

ルチルの真剣な眼差しは、トリンを何か強い力で引き付ける。
今までに感じたことのない感情が生まれる。
それは、自分の能力を肯定された喜びとは何か違っていた。
けれど、その時のトリンはその感情の名前を知らない。
ただ、ルチルという男をもう少し知りたいと思った。

ルチルに言われた通り訓練すると、トリンは自分が思っていたよりも弱い力を加えるだけで他の社員と同じような成果が出ることが分かってきた。
ルチルが訓練の視察に訪れると、ジェイドと共に直接アドバイスをもらいに行くようになる。
トリンはその時間がとても楽しく感じていた。
自分の能力が向上することだけが理由でなく、ルチルと話している時間を楽しみにしていた。
ジェイドとはルチルについて褒め合い、よくつるむようにもなる。

エネミー討伐もトリンは難なく終わらせた。
自分に向かって来たエネミーは片手の拳で事足りてしまう。
それ以外に、ジェイドがほとんど一人で倒してしまうことも理由だった。

そして翌年新入社員が入社し、トリンにとって初めての後輩ができた。
ブライトはジェイドが教育係を務めていることもあり、必然的に仲良くなっていく。

「僕じゃSR-MAX2は破壊できませんでした。トリン先輩の伝説を更新したかったのですが」

戦闘課恒例の潜力測定を終え、ブライトはトリンにそう言った。
それを聞きトリンは慌てる。

「ダメですよ! 壊したら大変なんですから!」

「だってかっこいいじゃないですか! 僕も訓練したら、壁まで飛ばせるようになりますかね」

誰から聞いたのか、トリンが入社そうそうにやらかした測定器大破事件をブライトは武勇伝と捉えていた。
近くにいたジェイドが大笑いしている。

「あの時は正直ビビったぜ。今はいい思い出だよな」

当時は本気でクビになるとまで思っていたが、今や先輩にとっては笑い話、後輩達からは伝説となっていた。
トリンは複雑な気持ちだったが、ありがたいと思った。
何より、このような空気にしてくれたルチルに再び感謝した。
管理局の戦闘課はトリンに初めてできた友達、先輩、後輩、仲間だった。

戦闘課は団結力があり、仲間達と共に食事に行くこともある。
トリンは充実した日々を過ごしていた。
けれど、その集まりで談笑している時に学生の頃の話題が持ち上がるとトリンの胸は締め付けられる。
戦闘課の大半は明るい学生生活を送っており、話題に事欠かなかった。

「トリンはどんな学生だった?」

何気なく仲間から話題をふられる。

「……よく物を壊す子供でした」

トリンはようやくそれだけ言えた。

「昔から変わらないね」

仲間は悪気無く笑う。
トリンも必死で作り笑いをした。

「ルチルに学生の頃なんてあったのかな? ルチルは生まれた時からあの状態のような気がする」

いつもつるむジェイドとブライトと共に、トリンは飲み会から帰宅する。
ジェイドが酔っ払いながら呟いた。

「何言ってるんですか。そんなわけ無いじゃないですか」

ブライトは呆れながら笑っていた。

「あれだけ頭良ければ、余裕で首席だな」

「首席って何ですか?」

その質問に、ジェイドもブライトも驚いてトリンを見つめる。

「お前、マジか」

「首席とは、学年の中で学業が1位の人のことですよ。トリン先輩の学校にもいたはずですよ」

トリンは学校を卒業できないまま終わってしまった。
成績上位者のことなど覚えていない。
誤魔化すために頭を掻いた。

「全くお前は。ちなみに、俺も首席だからな! まあ、同率でもう一人いたけど……」

「え! ウソ!」

「お前、失礼な奴だな!」

トリンの率直な感想に、ジェイドは怒る。

「ジェイド先輩の学校は潜力に特化した特殊な学校でしたからね。でも、事務課の社員は国内トップレベルの頭脳集団ですよ。エネミーパニック以前は仕事が楽で給与が高い職種として人気でしたから、倍率もすごかったですし。正直今は給与と仕事量が割に合わないと思います。ルチルさんは転職とか考えたこと無いんですかね。すぐに次の職が決まると思う……」

ブライトがそこまで言うと、ジェイドが思いっきり睨みつけた。
ブライトが大袈裟に驚く。

「馬鹿野郎ブライト! あいつがいなかったら、管理局はぶっ潰れてんだよ。あいつは救世主だ。今後はお前、大天使ルチル様と呼べ」

「いや、それは向こうも嫌がると思います」

ジェイドとブライトは吹き出した。
その様子を見ていたトリンは、ルチルの学生時代を想像し胸を熱くさせる。
それと同時に、自分には語れる学生時代が無いことを寂しく思っていた。

ある日、トリンに転機が訪れる。
いつも通り出社し、更衣室でトレーニングウェアに着替えていた時のこと。
トリンは一番乗りだった。

「おはよう、トリン」

後から入って来た先輩に声をかけられた。

「おはようございます! カンナ先輩」

カンナというその女性社員は、ジェイドよりも先輩のベテランだった。
黄緑色の髪の毛を結わいて、頭の上でお団子にしている。

「ねえ、前から聞きたいことがあったんだけどいい?」

カンナは上着を脱ぎながらトリンに尋ねる。

「何でしょうか?」

「トリンってルチルさんのこと好きなの?」

唐突な質問にトリンは一瞬固まる。
自分の失敗をフォローしてもらったり、訓練の的確なアドバイスをしてくれるルチルを好意的に感じているのは確かだった。

「そうですね。いつもお世話になってますし」

「そうじゃなくて、恋してるかってこと」

カンナは下着姿で微笑んでいる。
恋という単語にトリンの頭がぐらつく。
意図せず頬に熱を帯びるのを感じた。

「やっぱりね!」

カンナはクスクスと笑った。

「ち、違います! そんなんじゃ。私なんかが恋なんて」

トリンは恋人どころか、管理局に入社するまで友達すらできたことがない。
恋をするという感覚が分からなかった。

「え~違うの? トリンがルチルさんと話している時、恋する乙女って感じの顔してたから。自覚症状は無い?」

「わ、私、恋したこと無いので分からないです」

トリンは恥ずかしさのあまり俯いた。

「じゃあ、初恋? いいじゃん!」

カンナが目を輝かせて身を乗り出してきた。
トリンの視界に、カンナのフリルがついた白いレースの下着が入り慌てる。

「いいな。いいな。甘酸っぱいな」

トリンが恋していると決めつけて、カンナは声を弾ませていた。

「あ、あの。恋するってどんな感覚ですか?」

「恋はね、気付いたら落っこっちゃっているものよ。その人のことを考えるとドキドキするし顔がほころんじゃって、その人の事をもっと知りたいと思っちゃうの。どう?」

トリンには思い当たる節があった。
急激に意識し始める。

「どうしよう」

「何で? 恋することは素敵なことよ」

「でも私なんかが、あんな凄い人に恋するなんて。なんていうか、おこがましいです」

カンナは溜息をつき、腰に手を当てた。

「恋することは自由よ。その人を想うことは、誰にも邪魔できないの。皆に与えられた権利なのよ。その先どうするかも自由」

「自由?」

「そう。このまま想いを秘めたまま隠すも良し。アタックして振り向かせるも良し。ルチルさんの場合は、伝えないと気づかないタイプだと思うけどね」

トリンの頭の中はパニック状態だった。

「ふふ。初恋ならそうなるのも仕方ないよね」

「カンナ先輩も、恋してますか? 恋人はいらっしゃいますか?」

カンナは微笑んだが、表情は少し憂いをおびている。

「恋人はいない。でも、恋してるよ」

「楽しいですか?」

「苦しいね」

トリンは呆気にとられた。
さっきまで恋することを楽しそうに語っていたのに、自分は苦しいという。

「じゃあ先輩として、後輩の背中を押すためにルチルさんの良い話してあげる」

ルチルの話と聞いて、トリンは興味をもった。

「私の同期にテイラーっていう社員がいたの。ジェイドと同じく、エネミーパニックの生き残りの一人。でも彼ね、足を切断して戦闘課に復帰できなくなってしまったわ」

カンナはトレーニングウェアを手に取る。

「心身ともに疲弊しきった彼は戦力外通告を余儀なくされた。けれど、ルチルさんは密かにテイラーを戦闘課に在籍させていたの。どうしてだと思う?」

トリンは首を横に振った。

「戦闘課に在籍していれば、医療費がタダなの。国内トップレベルの医療も優先的に受けられるし。でもそれは、ジェイドみたいに復帰できる見込みがある人に対しての恩恵なのよ。テイラーは本来切り捨てられるはずだった。当時は税金問題とかいろいろ叩かれていたし、上は少しでも費用を削減したかったはずなの。でも、ルチルさんだけはそうしなかった。上に内緒でね」

それを聞いたトリンは泣きそうになった。

「テイラーもすごく感謝してた。彼の代わりに私、ルチルさんにお礼を言ったの。そしたらね。訴訟防止しただけだから、感謝の必要は無いだって」

重症を負ったまま切り捨てられた社員が、後に訴訟を起こしたら管理局としてまた問題になる。
ルチルは後々問題になるくらいなら、テイラーが完治するまでは在籍させた方が良いと考えたのだった。
カンナは笑っている。

「真意はどうか分からないしルチルさんの言葉は冷たいけど、行動は優しいと思う。テイラーが助けられたことに変わりは無いし。もう一人の生き残りは結局退職しちゃったけど、社会復帰できるように推薦状を書いてくれたんだって。あの忙しい状況で、本当に冷たい人ならそこまでやらないでしょ。ジェイドがあんなに懐いているのが、何よりの証拠ね」

ジェイドがルチルを天使だと言って目を輝かせていたのをトリンは思い出す。

「ルチルさんって人に心を開かないけど、トリンみたいなタイプならもしかして上手くいくんじゃないかって思ったの。お節介だったらごめんね」

「い、いえ。貴重なお話をありがとうございます」

「久々に恋バナしたかっただけよ。エネミーパニックの後は、そんな空気じゃなかったからね」

学生時代の短い記憶の中で、同級生が好きな人について話しているのを思い出す。
自分は輪に入れなかったけれど、今初めて恋の話というものをしていることにトリンは感動した。

「私、初めて恋バナっていうのをしました! カンナ先輩の恋も応援します!」

カンナは着替え終わっていた。
トリンの言葉に眉毛が垂れる。

「ありがとう。私の恋は長くかかりそう。もう3年も片思いしてるの」

「3年!」

トリンは絶句した。

「実はテイラーと付き合っていたの。でも、エネミーパニックの後に振られちゃった」

「え、どうして」

「足を失った俺じゃ足手まといになるだって。ナメんじゃないわよ! 本当ムカつく!」

カンナはロッカーへ乱暴に着ていた服を放り込んだ。

「それから私は3年もテイラーに片思いするはめになったわけ。でも私、諦め悪いのよね」

カンナはトリンに振り向き微笑んだ。

「こんな馬鹿な恋している先輩もいるのよ。トリンにその気があるなら、一歩踏み出してみてもいいんじゃないかな」

「でも、何をどうすれば良いか」

「まずは接点を多くするのよ。いつもルチルさんに引っ付いてるジェイドに相談するのがいいかもね。私の調査では、今のところルチルさんを狙うライバルもいないからチャンスだと思う。あ、強いて言うならジェイドかも。なんちゃって。進展あれば教えて。また恋バナしよ」

カンナは手を振りながら出て行った。
トリンはそのまま制止し、自分がスポーツブラジャーを身につけたままの状態で立っていることに気づく。
慌ててトレーニングウェアに着替えた。

その日の帰り道、夕飯を買いに行ったお店で恋愛特集が載っている雑誌を買った。
一生自分には縁の無い世界だと思っていたが、その日からトリンの世界が一変する。
帰宅した後、食事を忘れて雑誌を読み漁る。
その時初めてダブルデートという存在を知り、トリンは驚愕した。
自分とルチルがどこかへ出かけるシーンを想像し顔がニヤける。
さらに自分にやっとできた仲の良い友人とその彼氏と一緒に遊びに行ければ、どんなに楽しいことだろう。
トリンはその日、雑誌を抱きながら幸せな眠りについた。

後日ジェイドに誘われ、ブライトと共に居酒屋へ入った。
テーブル席に案内され、トリンの隣にブライトが座り向かいにジェイドが腰掛けた。
そこでブライトは、受付嬢のダチュラという女性がなかなか自分に振り向いてくれないことを愚痴っていた。
ブライトとジェイドが事務課の女性と、合コンというものをしていたことをトリンは思い出す。
ブライトの真剣な恋愛相談に対し、ジェイドは適当に相槌を打っていた。
少し不安だったが、カンナのアドバイスを信じ、トリンもブライトに便乗して恋愛相談をしてみることにした。

「あのジェイド先輩、私も相談していいですか?」

「上官に叱られない方法か? そんなもん、お前が力の加減を覚えるしかねーだろ」

「いや、そうじゃなくて。恋愛相談なんですけど」

「は?」

ジェイドは目を見開いた。
ブライトも驚いて隣のトリンを見る。

「お前が? ウソだろ。相手は誰だよ」

トリンは顔を赤くさせる。
心拍数が上がる。

「る、ルチルさんです」

トリンにしては珍しく声が小さかった。

「マジで!」

それに比べて、ジェイドが店中に響き渡るくらいの声を上げる。

「声が大きいです!」

慌てるトリンに対し、ジェイドは腕を組んでニヤニヤし始めた。

「見る目あるじゃねーか。そうか、そうか」

トリンには一つ懸念していることがあった。

「ジェイド先輩も、ルチルさんのこと好きですよね?」

「おう。大好きだ」

ジェイドはしたり顔で酒をあおる。

「だったら、私は身を引くべきでしょうか」

「ん?」

「私もルチルさんのことを好きになってしまえば、ジェイド先輩とは恋のライバル関係に――」

そこまで言いかけたトリンに、ジェイドは盛大に酒を吹きかけた。
トリンの顔面は酒でずぶ濡れになる。

「これは、身を引けということでしょうか」

「違う! 馬鹿! 何でそういうことになってんだよ!」

ジェイドは身を乗り出した。

「だって、カンナ先輩がそう言ってたんで」

トリンはカンナが言っていた冗談を本気にしていた。
ジェイドは拳を握りしめる。

「あの女ぶっ飛ばす。そして、お前は笑いすぎだ!」

真っ赤になって笑いをこらえているブライトをジェイドは指さす。

「笑ってないじゃないですか。でも、事務課の女の子達も似たようなこと言ってましたよ。『ジェイドさんはルチル主任にしか興味無いんですか?』って」

ブライトはこらえきれず、笑い始めた。
ジェイドは頭を抱える。

「マジかよ。そんな風に見られてたなんて」

「違うんですか?」

トリンはおしぼりで顔を拭きながら聞く。

「違う! 俺の好きは友情的なあれだ。お前のそれとは違うんだよ」

目を吊り上げて怒っているジェイドを見て、トリンは胸をなでおろした。
日頃お世話になっている先輩と同じ人を好きになるのはさすがに申し訳無いと思っていた。
恋の争いが友情の亀裂を生むと、トリンが読んでいた雑誌にも載っていた。

「全く仕方ねーな。こうなったら、俺がキューピット役をかってやろう」

ジェイドは腕を組み唇を吊り上げる。

「ジェイド先輩、僕の方もお願いしますよ」

ブライトは手を上げた。

「よし! お前達弟分のために、この俺様が人肌脱ごうじゃないか!」

ジェイドとブライトは乾杯した。
自分のことを弟分と言ったジェイドの言葉は気になったが、トリンは今までにない興奮を味わっていた。

そして数日の後、ジェイドからルチルが参加する飲み会に誘われた。
トリンは緊張し、そのせいで再びマシーンを破壊してしまい、せっかくの飲み会に遅れる。
ジェイドはルチルの向かいの席を用意して待っており、トリンは心の中で感謝した。

ルチルはトリンの外見に対して肯定的な意見を述べたが、ルチルの横に座る受付嬢の女性社員と自分の違いに気づく。
今までも受付でダチュラとリアを見たことは何度もあった。
戦闘課でも噂されるだけあり、美人な上オシャレだった。
自分とは住む世界が違う人物だと思っていたが、トリンは生まれて初めて自分の外見を気にしだす。
恥を承知で、飲み会の帰りに2人を呼び止める。
そして、翌日自分磨きの手助けをお願いをすることになった。
2人は快く引き受け、リアとはお互い同盟を結ぶ。
そして、ダチュラとリアと共に繁華街へショッピングに出かけた。

初めて訪れるオシャレな街と店にトリンは右往左往する。
ダチュラとリアは慣れているようで、煌びやかな店内に進んで行き、すぐに洋服や化粧品を見繕う。

「こ、こんな歩きにくい靴何のために?」

トリンは初めて手に取るヒールが高い靴に混乱した。

「足が綺麗に見えるんですよ」

リアが次々と靴を持ってくる。
全てカラフルで、美しい装飾品が施されていた。
トリンは今まで歩きやすい運動靴ばかり履いていた。

「歩く為の物なのに、歩きにくいなんておかしくないですか? 私、人の靴なんて気にしたこと無いです」

「オシャレは我慢なんですよ。それに、靴がダメだとその人のファッションは台無しになるんです」

当たり前のように語るリアの言葉に、トリンはカルチャーショックを受けているような感覚になった。

「確かに歩きにくいものね。でも、好きな人に見てもらいたいと思うと、不思議と足が軽くなるものよ」

ダチュラが妖艶に微笑む。
彼女の言葉に、トリンの考え方が変わった。
並べられた色とりどりの靴が全て愛おしく見えてくる。

「さすが先輩」

リアがうっとりとダチュラを見つめた。
靴を選び終えると、トリンはリアに手を引かれランジェリー売り場までやってきた。
所狭しと並べられた下着を前にしてトリンは赤面する。

「ちょ、ちょっと! 下着も買うんですか? ま、まだ見せたりする状況じゃ無いんですけど!」

トリンは一刻も早く店から出たい衝動にかられる。

「見せる見せないって問題じゃないんですよ。見せない箇所をオシャレにするのが重要なんです」

リアは勝手にランジェリーを物色し始めた。
靴までは理解できたが、見せない下着に気を使うことは今度こそトリンには分からなかった。
やはりダチュラとリアは自分とは違う生物なのではないかと感じる。

「いや、いいですよ。そんなに胸も大きくないですし、スポブラで十分です」

「ダメですよ~。ここまできたら、下着も可愛くしたいじゃないですか」

「どうしてですか?」

「ぶっちゃけ、ファッションなんて自己満なんです。可愛い下着をつけてると、自分のテンションが上がるんです。誰かの為なんかじゃないんですよ」

ファッションとは他者からの承認を得るものだと考えていたトリンは驚く。
今日の目的は、ルチルに女性として認識されるためだった。
しかし、最後の最後にリアはファッションとは自分の為だと言う。

「ランジェリーは女の子の戦闘着です。自分に自信がつきます。自分のことを可愛いと思えなければ勝負できないでしょ?」

リアがにこやかな表情で、選んだランジェリーを差し出す。
トリン一人だったら一生選ばないであろう、ビビットカラーのセクシーな下着から、淡い色の可愛らしいレースの物まである。
自分の背中を押してくれたカンナも、訓練前にも関わらず可愛らしい下着をつけていたことを思い出した。
彼女の3年分の思いは、その胸の膨らみに詰まっているのかもしれない。
トリンはリアが選んでくれたものから、自分でも着れそうなものを購入した。
そして、ダチュラとリアが選んでくれた服を抱えてフィッティング室へ入った。
初めて身につける淡いピンク色のブラジャー姿の自分が鏡に映る。
少し恥ずかしい気持ちもしたが、リアが言っていた言葉の意味がその時分かった。
その上から白いブラウスと、水色のスカートを着る。
鏡に映ったトリンは、一人の女性だった。

「口紅は濃すぎてはいけないわ」

最後に化粧室で、ダチュラから化粧の仕方を教わった。
ファンデーションを塗り、頬紅をさし、アイラインを引き、口紅を塗る。
今まで化粧をしたことが無かったトリンは、作業の多さに眩暈を起こしそうだった。
世の女性達は、こんな作業を毎朝行っているのか。
初めてでさらに不器用なうえ、時間がかかってしまったが何とか化粧を終わらせた。
リアがトリンの髪を丁寧に櫛でとぐ。
改めて鏡を見ると、そこに今までの自分はいなかった。
正直、自分がここまで化けるとはトリン自身思っていなかった。

「トリンさん綺麗!」

リアが目を輝かせる。
綺麗と言われたことが無かった。
その短い言葉が、トリンの心へと深く染み込んでいく。
そして、ルチルにもいつか言われたいと願った。

「女性は小食の方が良いのでしょうか?」

トリンのコーディネートが終わり、3人で夕飯を食べることにした。
オシャレで女性に人気だというレストランに入る。
ジェイドやブライトと一緒に食事する居酒屋とは全く違う空間に、トリンは慣れない。
いつものように大量の注文をしてしまった後、後悔する。
一緒に食事をしているのは、戦闘課男性社員ではなく小柄で小食な事務課女性社員だったからだ。
ダチュラとリアが注文した料理は案の定少ない。
ダチュラの食事は、トリンのおやつにも満たない。

「相手によるんじゃないですか? 女性に幻想を抱いている男も多いですからね」

リアが人差し指を口元にあてて、考えるポーズをとる。
その所作が女性らしくて可愛いとトリンは思った。

「る、ルチルさんはどうなんでしょう?」

「主任は謎すぎて分かんないんですよね。どう思いますか先輩。私よりは長く一緒に関わっていますよね」

トリンは改めて目の前に座るダチュラを見た。
ブライトだけでなく、他の戦闘課男性社員もダチュラの容姿については話題にしている。
女性社員も憧れている者が多い。
今まで意識していなかったが、同じ女性という立場だったと自覚する。
昨日はダチュラの昇進祝いだった。
ルチルの補佐として共に仕事をする機会が増える。
不思議な焦りがトリンの心に生まれた。
ダチュラには、トリンが多少服装や髪形を変えただけでは太刀打ちできないと感じる。

「ルチル主任は男女差別をしない人よ。感情に流されず理論的。健康体で体を動かす仕事のトリンさんが、食事を多くとるのは当然だもの」

ダチュラは微笑を浮かべる。
その優しい言葉に、トリンはダチュラに芽生えた嫉妬心を恥じた。

「けれど、食事の量で女性の価値を判断するような男は避けた方がいいわ。女性を物として見ているということだもの。ちゃんと一人の人間として、一人の女として見てくれる男性と恋してほしいわ」

ダチュラは静かに語る。
ダチュラはきっと多くの恋をしてきたのだろうとトリンは思った。

「私は物として見られてもいいですよ。その為の自分磨きです」

リアが無邪気に笑った。

「まあ、そんなこと言わないの」

ダチュラが優しく注意する。
けれどトリンにはリアが言っていたことが分かる。
今日の行いは、自分が女性という物として認識されるためだった。
正直、化粧とは今までの顔を作り直す作業のように感じた。

「私なんかが今更見た目を変えたところで意味があったんでしょうか。今までの姿は見られてますし、今の顔は詐欺のような気がします」

トリンは徐々に自信を喪失させ、俯く。

「何がいけないの?」

ダチュラが低い声で囁いた。
トリンの背筋に寒いものが走り顔を上げる。
けれど、そこにあるダチュラの顔はいつもと同じく美しい。

「ありたい容姿になっていいのよ」

ダチュラは微笑んだ。
とても妖しい美しさだった。

「それに、尚更ルチル主任を好きになって良かったと思うわ」

「え?」

「あの人は、容姿に騙されるような愚かな男じゃないもの。人の本質を見抜いてしまう。どれだけ厚い化粧で隠してもね」

ダチュラが自嘲的に笑う。
その美しさにトリンは圧倒された。

「まあ、女なんて化粧を剥いだら皆化け物ですよ。男女関係は化かし合いです。だから、そんなに深刻に考えなくていいですよ。皆やってます」

リアが明るい声で言った。
ダチュラが肩をすくめる。
トリンはそんな2人の話に違う世界を見たような気がした。

その日の帰り道、生まれて初めてナンパされる経験をする。
自らの潜力を誇示し、か弱いリアを脅かそうとした男達を許せないとは思ったが、見ず知らずの男性に女性と認識され微かな喜びをトリンは感じていた。
リアやダチュラには悪いと思いながらも、トリンは少し自分の容姿に自信がついた。

「トリン先輩、どうしたんですか?」

あくる日、さっそく購入したばかりの洋服でトリンは出社した。
覚えたてのベースメイクもした。
戦闘課フロアでトリンの姿を目撃したブライトは驚きの声をあげる。

「昨日、ダチュラさんとリアさんに買い物に付き合ってもらったんです。コーディネートしてもらい、メイクも教わりました」

ブライトは口を開けたままトリンを見つめる。

「すごいとしか言えません。そして、ダチュラさんと買い物羨ましいです。今度は僕も誘ってください」

ブライトの興味がすぐにダチュラに向き、トリンは苦笑する。

「げ!」

フロアの入り口でジェイドが立ち竦み、声をあげた。
目が零れ落ちるのでは無いかと思う程見開かれている。
そして、足早にトリンのもとへ近づき両肩を強く掴んだ。
昨日、リアが言っていたことを思い出す。
ジェイドがトリンのことを好きになってしまったらどうしようと悩んでいた。
そんなことは世界が滅んでもあり得ないとトリンは思っていたが、もしかしたら現実になってしまうのかとよぎる。

「お前! 色気づいて訓練に支障きたしたら承知しないからな!」

ジェイドの発言にトリンは溜息をついた。

「ジェイド先輩、さすがに最低ですよ」

ブライトも呆れていた。
リアの心配は予想どおり完全なる杞憂だったとトリンは悟った。
けれど、女性社員からはトリンの服装は絶賛された。
特にカンナは終始かわいいという発言を連発し、恋の力だねと耳元で囁いた。
トリンは嬉しくてはにかんだ。

トリンは自分の姿をルチルに見てもらおうと考えた。
昼休みにトレーニングウェアから私服に着替え直し、メイクと髪型も直した。
甘い香りの制汗剤をふりかけ、事務課のフロアへと向かう。
緊張しているトリン一人では心配だと、ジェイドとブライトもついて行く。
そんな先輩と後輩にトリンは感謝した。
事務課のフロアへ着くとリアが駆け寄って来た。

「トリンさん本当にその服似合ってる!」

リアははしゃいでいた。

「昨日はありがとうございました。あの、ルチルさんはいますか?」

「えっと、先輩! 主任どこにいるか知ってます?」

リアはデスクで仕事をしているダチュラに尋ねる。
静かに振り向くダチュラは、その仕草一つとっても自分と違って美しいとトリンは思った。
隣にいるブライトも同じように感じたのか、笑顔で手を振る。

「ルチル主任は会議中で、もうすぐ終わるかと。そのまま休憩に入ると聞いていますので、休憩室で待っていれば会えると思います。いつもそこで短い休憩を取っていますから」

そう言ってダチュラはトリンに少し待つように言い、給湯室へと消える。
素早く戻り、カップに入れたコーヒーを2つトリンに渡してきた。
持ち運びしやすいように蓋もついている。

「ルチル主任と一緒に飲んでください」

ダチュラは優しく微笑んだ。
美しくそして気の利くダチュラの行動に、トリンは感動する。
トリンには差し入れを持っていくという発想が無かった。

「ありがとうございます!」

「さすが先輩」

リアは満面の笑みを浮かべている。

「頑張って」

ダチュラの応援に背中を押された。
トリンは勢い勇んで休憩室へと向かう。
ジェイドからは硬いぞ、肩が上がっているなど小言を言われる。
ブライトからは趣味の話など明るい話題をするようにアドバイスをもらう。
休憩室へ近づくにつれ、トリンは再び緊張し始めた。
そして、休憩室の扉の前に着く。
手がふさがっていたトリンの代わりに、ブライトが扉を開けた。
中を覗き込んでみたが誰もいない。
その休憩室は机と椅子しか置かれていない簡素なもので、他の社員もあまり利用しないようだった。
国家防衛管理局の建物周辺には、おいしくてオシャレなお店が多かったからだ。
ダチュラの言葉を信じ、3人で休憩室に入りルチルを待つことにした。
トリンはそわそわして落ち着かない。
 5分程経った頃、扉が開く音にトリンの背筋が伸びた。
その様子を見たジェイドが笑ったが、扉の方を見て硬直する。
つられて振り向いたトリンの目に飛び込んで来たのは、待ち望んでいたルチルの姿だったが。

「ルチル、どうしたんだそれ!」

ジェイドが立ち上がった。
その理由はルチルの髪型だった。
いつも長い前髪で遠めだと目元がほとんど見えないのだが、今はオールバックにしている。
目元どころか額が露になっていた。

「皆さんお揃いで。ここを使うのは珍しいですね」

ルチルの口調はいつもと同じだった。

「そんなことより、前髪どうした!」

ジェイドが一人興奮している。

「外部のお客様と打ち合わせをしておりましたので」

社内での仕事では前髪で目元が隠れていても問題は無かったが、お客を出迎える時は失礼にならないようにルチルは髪型を変えていた。
常識的な事柄にジェイドを含め3人が驚いている理由が、ルチルには分からない。

「そのままでいろよ!」

「いえ、後で戻します」

ルチルなりに拘りがあった。
ジェイドの提案をすぐに却下する。

「ルチルさん、その髪型かっこいいですよ。ねえ、トリン先輩」

先程から固まっているトリンに、ブライトは話題を振る。
トリンは引きつりながら首を縦に振るのが精一杯だった。

「すみません、お邪魔でしたね」

戦闘課3人で占領している休憩室に自分は場違いだと思ったルチルが出て行こうとした。
ブライトは慌てる。

「そんなことないです! 僕とジェイド先輩は用事があって出るところなんです。トリン先輩、それ」

ブライトはテーブルに置かれたコーヒーカップを指さした。
早くルチルに渡せとジェスチャーで促す。

「そ、そうでした。ルチルさん、宜しければ一緒にコーヒー飲みませんか?」

トリンの声はうわずる。
ルチルは首を傾げた。

「何故でしょうか」

ルチルのストレートな問にトリンは黙り込む。

「日頃の感謝に差し入れしたいんですよね。トリン先輩」

ブライトはすかさずフォローを入れた。

「お気遣い結構ですよ」

「そう言わず、もらってください。僕達は行きますので。ジェイド先輩早く」

ブライトはとても空気が読め気遣いもできる人物だった。

「用事って何だっけ?」

それに対し、すっとぼけるジェイドをブライトは睨む。

「何言ってるんですか! あれですよ」

ブライトはジェイドの腕を引っ張り休憩室から出る。
ルチルの髪型のせいで全てを忘れていたジェイドはようやく目的を思い出す。

「あ、そうだった。トリン頑張れよ!」

ジェイドは扉の向こう側からトリンに手を振った。

「余計なこと言わない!」

ブライトが怒りながらジェイドを引きずって行く。

そこまで広くもない休憩室に、トリンとルチル2人で残された。
トリンは緊張で震えそうだったが、せっかく後輩が作ってくれたチャンスを逃すまいとルチルにコーヒーを手渡す。
ルチルは短くお礼を言い、壁際のベンチに腰掛けてしまった。
さすがに隣には座れず、トリンは近くのテーブル席に腰掛ける。
そして沈黙した。
口数が少ないルチルから話しかけてこないことは分かり切っていた。
何か話題は無いかと必死で考える。

「あ、あの。ルチルさんって首席でしたか?」

トリンは先日ジェイドとブライトが話していた内容を思い出し、咄嗟に聞いてみた。

「はい」

当たり前だとでも言うように、短い返事が返って来た。
このまま会話が切れないようにトリンは粘る。

「やっぱり。すごいですね。私は勉強が苦手で落ちこぼれで」

「学校は勉強だけできても仕方ありません」

「いや、私にはできることが一つもありませんでした」

トリンは話題の選択を間違えたと思った。
ブライトから明るい話題を振れと言われていたにも関わらず、一番苦手な学生時代の話をしてしまった。

「学校に馴染めず、問題を起こして、最終的に引きこもりました。ちゃんと卒業できませんでした。私には、楽しい学生時代はありません」

けれど、トリンは話を止められなかった。
戦闘課の仲間にも話したことのない、引きこもり時代の話までしてしまった。
ルチルには良い印象を与えたいと思う反面、本当の自分を知ってもらいたいと思ってしまう。
心の中でせめぎ合い、秘密を洩らしてすぐに後悔する。

「学校が楽しい所とでも思っているのでしたら、それは幻想です。豚小屋の方がマシなくらいですよ」

ルチルの発言とは思えなかった。
トリンは驚いて凝視する。
ルチルは手に持ったコーヒーカップを見つめていた。

「ルチルさんは、学校が楽しくなかったんですか? 首席なのに」

「学校は辛く苦しく悲しい場所です。一つの箱に詰め込まれ、そこで生き残りゲームをやらされる。食うか食われるかです。僕は被食者だったので、捕食者から身を守ることだけを考えて生きていました。その結果がたまたま首席として現れたに過ぎません」

「どういうことですか?」

トリンには意味が全く分からなかった。

「ご存知だと思いますが、僕は潜力が極端に低いのです。僕のような人間はいじめの標的にされやすく、そうなれば抗うことができません。僕は身を守るために、少なくともクラス全員分の課題を肩代わりしていました。勉強なんて反復練習でどうにでもなります。その結果、成績だけは良かったというわけです」

トリンは呆気にとられた。
例え自分がルチルと同じ立場だったとしても、一人でクラス全員の課題を終わらすことは無理だと思った。
自分一人の宿題ですら手こずっていた記憶がある。

「でも、やっぱりすごい人ですよルチルさんは。最後まで闘い抜いたんですから。私は逃げました」

「逃げるが勝ちという言葉があります。自分に合わない環境に固執する必要はありません」

「でも、ルチルさんはそんな過酷な中逃げなかったじゃないですか!」

トリンは少し声を荒げる。

「それは僕が愚か者だったからでしょうね」

ルチルはいつものように淡々と呟く。
トリンには意味が分からず、黙って続きを話されるまで待つ。

「僕が学校に残り続けた理由は恨みです。こんな僕にもかつて友人が数名いました。僕と同じように潜力が低かった彼らは、辛酸ないじめを受けて去って行きました。幼かった僕は、学校に残り続けることでいつか復讐ができると思っていたんです。結局何もできませんでした。今から考えれば浅はかすぎて笑えます」

ルチルの表情に変化は無かったが、どこか寂しさをたたえている。
トリンは胸を締め付けられた。
自分の不用意な発言のせいで、ルチルに悲しい記憶を思い出させてしまった。

「僕は、かつての友人達が学校を去る決断を下したことを間違いだとは思いたくない。彼らは生きるために逃げたんです。それが、彼らの闘い方だったのだと思います。僕よりよっぽど賢い選択をしたんです」

ルチルの声は静かだった。
けれど、トリンにとっては声高らかな演説に匹敵する。
ルチルはトリンを慰めようとしているのかもしれないが、トリンは自分とルチルの友人が同じだとは思えなかった。

「私が学校から逃げた理由は、人を傷つけてしまうからです。私は潜力が高すぎて、不器用でコントロールできずクラスメイトに大怪我させてしまいました。他にも体育の授業は皆と合わせることができず、迷惑をかけてしまって。怖くなって逃げたんです」

自分は人に危害を与えてしまうから、学校から逃げたと白状した。
潜力が高い者達に脅かされていたルチルは自分をどう思うだろう。
トリンが恐る恐るルチルの顔色を伺う。
ルチルはトリンの顔をまじまじと見つめていた。
いつもより目を大きく開いている。
トリンの心臓は止まりかけた。

「そのような悩みを抱えている人もいたのですね。僕の視野はまだまだ狭かったようです」

ハモネーにとって潜力が高い者が有利となると考えていたルチルにとって、トリンの悩みは想像できていなかった。
どこか落ち込んでいる様子のルチルに、自分の昔話を語ることで心を軽くしてもらえるのではないかとトリンは考える。
今度は自分の過去でルチルを慰める番だと。

「そうなんですよ。私なんて先生から、君は生まれてくる時代を間違えたなんて言われちゃったんですから」

ルチルが突如目を吊り上げた。
いつもと違って表情が変わり、きつい形相になったルチルを見てトリンは絶句する。

「そんな三流教師の言葉を真に受ける必要はありません。その言葉は正しくない。生まれる時代を選ぶことなどできないのですから。もし生まれ方を選ぶことができるなら、僕だってこんな国に生まれてきません。まだその教師は教鞭をふるっているのですか? そんな者が教壇に立ち続けるなら、この国はもうじき終わるでしょう」

ルチルにしては強い口調でまくし立てる。
トリンは曖昧に頷くことしかできなかった。
いつの間にかコーヒーを飲み干していたルチルは立ち上がり、カップをゴミ箱へ捨てる。

「少々失言が多かったようです。休憩中にすみませんでした」

ルチルが頭を下げた。

「こ、こちらこそすみませんでした! 私が変な話をしてしまって。あ、でも、私はルチルさんのお話が聞けて良かったですよ。私のヘッポコ学生時代はどうでもいいですけど。ルチルさんの学生時代は、私から言わせればとても立派です!」

これはトリンの素直な気持ちだった。
ルチルは口元を綻ばせる。
髪型も表情もいつもとは違い、トリンが知っているルチルとは別人のようだった。
トリンは履いているスカートを握りしめる。

「第三者が聞いたら、どう思うのでしょうか。復讐のために学校に残り続けた僕と、人を傷つけない為に学校を去ったトリンさん。どちらが立派でしょうか」

トリンは何も答えられない。
その質問はずるいと思った。
ルチルは慣れた手つきで髪型を元に戻す。
いつもの姿にもどり、魔法が解ける。

「コーヒーご馳走様でした。お疲れ様です」

ルチルは一礼して去って行った。
トリンは緊張感から解放されたが、鼓動は早いままだった。
そして溜息をついた。
口ではルチルに敵わない。
結局自分はルチルをフォローできなかったと落ち込む。
けれど徐々に心の中が幸福で満たされた。

教師から言われた言葉に傷つき、泣きながら通学路を歩いていた自分。
華やかな服装で卒業式を迎えた同級生を尻目に、暗い部屋で毛布をかぶっていた自分。
そんな昔の自分を、好きになった人が肯定してくれた。
過去に戻って昔の自分に伝えてあげたい気持ちだった。
トリンはやっとコーヒーに口を付ける。
ブラックなのに、何故か甘みを感じた。

後日トリンは、リアからランチの誘いを受ける。
ダチュラは昇進した為、忙しいようだった。
リアとダチュラが気に入っているカフェに入った。

「この前、主任とどうでした?」

リアが口にケーキを運びながら目を輝かせてトリンに尋ねる。

「何だかルチルさんの違った一面を見たような気がします」

「主任いつもと違いましたか? やっぱり」

「やっぱり?」

「魔法のコーヒー効果ですね」

リアは含み笑いをする。

「え! 普通のブラックコーヒーじゃなかったんですか?」

トリンの声は大きかった。
リアは小さく笑う。

「先輩お手製の、魔法のコーヒーです。恋の魔法がかかっていたんですよ」

「ダチュラさん、そんなことができるんですか?」

「あの人は魔女ですからね。とても美しい魔女」

リアの冗談をトリンは本気にしていた。

「上手くいったなら良かったです。さて、本題に入りましょう! 情報交換です。まずはトリンさんからいいですよ。聞きたいこと何でもどうぞ」

リアとトリンは恋愛同盟を結んでいた。
ジェイドとルチルについて、情報交換をすることが今日の目的でもあった。

「こんなこと聞くのはどうかと思うのですが、ルチルさんとダチュラさんの仲はどうなんでしょうか? ダチュラさんはルチルさんの補佐ですし、あの美しさですから」

トリンは自分の質問を恥じる。
自分の恋を応援してくれたダチュラに対する感情として適さないと思った。
けれど、聞かずにおれない自分がいる。

「なるほど。確かに気になりますよね。トリンさんが心配する関係には今のところ発展していないと思います。主任から先輩に話しかけることはほとんどありませんから。仕事以外で」

「ダチュラさんから話しかけることはあるんですか?」

「主任からよりは先輩から話しかける方が多いですね。仕事の内容が多いですけど」

ダチュラは仕事ができて頭がいい。
賢い女が賢い男を好きになることは十分考えられる。
トリンよりも、ダチュラとルチルの方が釣り合うのでは無いかと不安になった。
リアがトリンのそんな感情を察する。

「あの二人似てますからね」

リアが頬杖をつきながら呟いた。
窓の外を見つめる。

「頭がいい所がですか?」

「それもありますけど、性格かな。闇が深い所とか」

「闇?」

トリンはルチルの学生時代の話を思い出す。
確かにルチルは過去を今も引きずっているように感じた。
あの美しく明るいダチュラにもそんな過去があるとはトリンには思えない。

「何だか二人共、人間の基本的欲求があんまり無いみたいで。常識人ですけど変わってるんです。心も開かないし、分厚い壁でいつも囲まれているみたいで」

リアがダチュラに対して壁を感じていることは、トリンにとって意外だった。
二人はよく一緒にいて、仲が良いように見えていたからだ。

「似ているから惹かれ合うこともあると思いますけど、恋愛にあまり興味が無くて性欲も無い二人だからそんなに焦る必要も無いと思いますよ。どうこうなる前に、トリンさんが主任の壁を破壊した方が早いんじゃないですかね」

リアがトリンに向き直り、微笑む。
その顔は愛らしい。

「壁ってどうやって壊すんでしょうか」

「告白しちゃったらどうですか?」

トリンの顔は引きつる。
リアは真顔でケーキを食べていた。

「 そ、そんな! 早くないですか?」

「相手によりますよ。じわじわ攻めた方が良いタイプと、ストレートに伝えちゃった方が良いタイプと。主任は言わないと気付かないし、気付こうとしないタイプだと思います」

カンナにも同じようなことを言われていた。
相手を好きになり、その後発展させたいと思った時点で告白をするというイベントが待ち受けていたことにトリンは今更気づいた。

新しい悩みができてしまったが、決めたことに直向きに突き進むトリンはその後もリアと何度か情報交換を重ね、告白方法を考える。
リアから貰った恋愛マニュアル本を何度も読み返した。
ジェイドは飲み会に何度もルチルを誘い、トリンとの仲を深める努力をしてくれた。
しかしジェイドは酔っぱらうと趣旨を忘れ、ルチルにからみ独占して話始める。
その様子をトリンとリアは顔を見合わせて呆れるしかなかった。
空気が読めるブライトはルチルからジェイドを引き剥がそうとしてくれるが、結局ジェイドに勝てず自らも絡めとられる。
ブライトもダチュラと親睦を深めたいと思っているのに、トリンとリアの為に奮闘してくれていた。
飲み会の帰り道では、トリン、リア、ブライトの3人で愚痴をこぼすことがしばしばあった。
ルチルへ告白する言葉も状況も定まらなかったが、トリンはこのメンバーの関係が好きだった。

その思いはジェイドがエネミーの攻撃を受けた時に発揮された。
戦闘課エースを打ちのめすエネミーを前にして、他の戦闘課社員も判断力が鈍り狼狽えてしまった。
そんな中トリンは、一人ジェイドを助けに向かう。
ジェイドを襲ったエネミーは今までのものより力が強かったが、トリンの全力には敵わない。
擦り傷程度で済んだ。
素早くジェイドを抱え、腰を抜かしたブライトを拾い輸送車へ駆け戻る。
ジェイドが病院へ運ばれた後は、トリンも傷の手当を受けたが彼女にとっては転んだ程度の怪我だった。
ジェイドが無事に目覚めた様子を確認し、やっとトリンの早送りされていた時間が元に戻る。
今までエネミーを他の社員程危惧していなかったトリンは、その時初めて危機感を覚えた。
自分が頑丈でも他の戦闘課が、仲間が脅かされるのを防がなければならないと強く誓う。
そんなトリンには、ジェイドに対するルチルの説教が心に響いた。
やはりルチルの戦略を無視したことは間違いで、自分もジェイドを止めなかったことを反省した。

「お前が助けてくれたんだってな」

数日後、トリンがジェイドの見舞いに行った時、ジェイドが唐突に言った。

「はい。あの時は夢中でした」

「ありがとうな。お前は俺のヒーローだな。先輩として情けないが鼻が高いよ」

ジェイドの感謝の言葉は、トリンを大いに喜ばせた。
幼き日の夢は英雄になることだった。
それが少しだけ叶ったと感じた。

「お前なら、俺の親友ルチルに相応しいよ。応援してやる」

「じゃあ、今度の飲み会では邪魔しないでくださいね」

ジェイドは生意気な奴めと軽口を叩いたが、二人は笑い合った。
トリンは先輩を守れたことを誇りに感じた。
好きな人がいる自分が嬉しかった。
その時のトリンは幸福だった。
自分に自信がついたトリンは、遂にルチルに自分の思いを伝えようと決心する。

リアからルチルの予定を教えてもらうことにした。
基本激務に追われているルチルは昼休みすら短かった。
比較的昼前後に仕事が詰まっていない日を見つけ、一緒に休憩室でコーヒーを飲もうと計画する。
人気がいない休憩室なら絶好の告白場所だと考えた。
リアは親身に相談に乗り、告白が上手くいくようにトリンを激励した。
ルチルとの仲が上手くいったら、リアに沢山のお礼をしようとトリンは思った。
そして当日、トリンは真っ白のワンピースを着た。
お気に入りのレースの下着を身につけた。
髪を下ろし、化粧も丁度良い。
今度は自分で入れたコーヒーを持って、事務課のフロアへ向かった。
緊張と幸福と何か分からない感情で渦巻く心臓を、ランジェリーが守ってくれているように感じる。
リアが言っていたことは正しかったと、フロアへ続く廊下を歩んだ。

事務課のフロアへ到着した時、丁度ルチルが足早に出てきた。
このタイミングは運命なのではないかと、トリンはロマンチックに感じ取る。

「る、ルチルさん。丁度良かった。休憩でしたら、一緒にコーヒー飲みませんか?」

トリンに気づき振り向いたルチルの表情はいつもよりも遥かに冷たい。
いつもルチルを見ていたトリンには感じ取ることができた。
いつもの無表情ではなく、表情が無かった。
冷たくも美しかったその瞳は、今は濁っている。

「何か、あったんですか」

如何なる状況でも冷静でいるルチルが、今は多少取り乱している。
余程の事態だろうとトリンは思った。
急な仕事が入ってしまったなら、告白は別の日に再調整しようと思った。
ルチルは目を固く閉じた後、トリンの目を真っ直ぐ見据えた。

「ブライトさんが亡くなったと、警察から連絡がありました」

その言葉は、トリンの耳には届いたが脳を素通りする。
ルチルの話はいつも難しく、何度か聞かなければトリンは理解できない。
ルチルはトリンが分からないと気づけば、分かりやすく説明し直してくれる。
それを待った。
けれどその後の簡単な説明も、全てトリンにはすぐに理解できなかった。

「すみません。僕はこれから警察に行ってきます。詳しいことは、分かり次第お伝えます」

いつもなら一礼するところを、ルチルはすぐに踵を返して去って行ってしまった。
ルチルの後ろ姿が見えなくなり、トリンはやっと我に返る。
その拍子にコーヒーを床にぶちまけてしまった。
真新しい白いワンピースが、コーヒーで染みだらけになっている。
何をどうすれば良いか分からず、棒立ちになっていたトリンの目の前にダチュラが現れた。

「ここは掃除しておきますので、トリンさんは行ってください」

ダチュラはしゃがんでコーヒーカップを拾い上げた。
トリンはただ頷きその場から歩き始める。
トリンは管理局から飛び出し、ジェイドの病室へ向かう。
無我夢中で走った。
病室へ飛び込み、ジェイドにルチルから聞いた内容を全て話す。
トリンにはその後のことは想定できていなかった。
しばらく大声を上げていたジェイドが急にピタリと黙り込んでしまった。
無反応になってしまったジェイドを見て、自分の行いを後悔した。
怪我をしているジェイドに伝えるべきでは無かったのでは無いかと。
けれど、ブライトが死んだことを一番最初に伝えるべき相手はジェイドだとも思った。

病院から出た後、勝手に業務を放棄しまったことに気づき管理局に戻る。
戦闘課のフロアは空気が重かった。
既に他の社員も悲報を聞いているようだった。
いたたまれなくなったトリンはトレーニングルームへ向かう。
更衣室で染みで汚れてしまったワンピースを脱ぎ捨てた。

トレーニングルームでは数名訓練をしている社員がいたが、誰しも覇気が無い。
その中で激しく拳を振るい、足を振り上げている社員がいた。
カンナだった。
トリンが近づいて来たことに気づき、カンナは訓練を中断させる。

「大丈夫なの?」

カンナはトリンをおもんばかった。
トリンは黙って頷く。

「ごめん、大丈夫なわけ無いよね。無理はしないで」

「大丈夫です。カンナ先輩は?」

カンナは首を横に振った。

「仲間の死はどんな状況でも辛いのね」

カンナは呟き、訓練を再開させた。
トリンは黙ってカンナの隣で訓練を始める。
何かをしている方が気分が紛れた。
カンナも同じ気持ちなのだろうと思った。

数日のうちにブライトの葬儀の日になった。
トリンは自宅で喪服に袖を通す。
髪を結う時に、以前ルチルが言った言葉を思い出した。
式典の時は身だしなみを整えなければいけないと。
トリンはいつもより丁寧に髪型を整えた。
控え目な化粧もした。
整えた自分の容姿が鏡に映った時、これから死者を送り出すということを自覚した。

トリンは初めて葬儀に参列した。
最後にブライトの顔を見ることは許されなかった。
顔の損傷が激しいとだけ聞いていた。
棺の中に本当にブライトが入っているのか信じられなかった。
棺が地中へ埋められて行く。
自分の失敗をかっこいいと言ってくれた、初めてできた後輩だった。
自分にはもったいないくらい、よくできた後輩だった。
トリンの恋を応援してくれた。
そんな非の打ち所が無い人物が、冷たく暗い土の下へ埋められてしまう。
その不条理な光景に、トリンはやっと涙が溢れた。
慣れてきた化粧は一瞬にして崩れる。
整った顔でブライトを送ってやりたかったが、それは叶わなかった。

葬儀が終わり、心ここにあらずだったトリンにルチルが声をかける。
その声だけには反応できた。
リアを送り、トリンもそのまま帰宅して良いと。
けれどルチルとダチュラはそのまま仕事に戻るという。
トリンもその横に並びたかった。
けれど今の状況では仕事にならないことも自覚していた。
ルチルとダチュラの背中を見つめ、自分は仕事から逃げ出すことにした。

道中、リアが今まで見たことも無いほど狼狽えている。
家に送り届けたが、そのまましばらく一緒に泊まってほしいと頼まれた。
リアは母親と同居していた。
彼女の母も美しい女性だった。
そして彼女の母から聞かされたのは、リアが怯えている原因だった。
リアとその母は、かつて強盗被害にあったという。
その頃の恐怖が、ブライトが殺されたことでよみがえってしまったようだった。
リアもルチルのように潜力の被害者だったのだと、トリンはその時思い知った。
潜力が低い者達の不安を知ったトリンは、しばらくリアの自宅に泊まることにした。

後日リアと共にジェイドの病室を訪れた。
ジェイドは泣いた。
自分を責めていた。
トリンはかける言葉を見つけることができず、自分も泣くことしかできなかった。
すすり泣きしか聴こえない病室に、ルチルが入って来る。
葬儀の日以来、ルチルの顔を見ていないことをトリンは思い出した。
ルチルの細い身体を抱きしめ、そして抱きしめられたい気持ちだった。
このような状況で何を考えているのか、トリンは自分を罰したくなった。
それでもルチルの顔を見て安心している自分がいた。

ルチルの表情は複雑だった。
自分達のように悲しんでいるだけではなく、何かを決意しているようだった。
そしてルチルの発言をまたもや理解できない自分に腹が立った。
リアがルチルを引っぱたき、ルチルを崇めていたジェイドが罵声を飛ばす。
けれど狼狽えず冷静であるルチルはやっぱりすごい人物だとトリンは思った。
一度では理解できなかったルチルの難しい話を、ちゃんと聞き返すことだけしかできないとトリンは自分で分かっていた。
ルチルはそれに答えてくれた。

自分の恋を応援してくれたが、少し羨ましいと感じていたダチュラという美しい女性。
その女性が犯人だとルチルは言った。
ルチルが取り出した見たことも聞いたことも無い機械から流れてきた、大切な後輩の声もダチュラが犯人だと言った。
ならば、トリンはそれを信じるしかなかった。

トリンには難しいことは分からない。
ただ、信じたい人の言葉を信じその為に自分の力を使うと決意する。
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