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第8章 冬が来ます
第193話【閑話】ある村娘の幸運
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私はノノと申します。今年十三、いえ、年が改まりましたので十四歳になりました。
町にお住まいの方は教会に暦があるので、誕生日を基準に年齢を数えるそうですが。
私が生まれた農村では、暦なんてものは無く生まれた年で年齢を数えます。
生まれた年が一歳で、年が改まるごとに一つずつ歳を取ります。
まあ、暦があったとしても、村の者全員が文字の読み書きができないのです。
当然、誕生日を書き留めて置くことなどできません。
結局は今の様に歳を数えるしかなかったのだと思います。
私が生まれた村はとても貧乏な村でした。
その中でも私の家は輪をかけて貧乏で、日々の食べ物にも事欠く有様です。
貧乏の理由は、子供の私でも分かるのですけどね…。
何故か、私の家は子供が多いのです。
私の両親は村長さんの牧場で雇われて牛の世話やチーズを作る仕事などをしています。
うちの親はというより、村人のほとんどがそうなのですが。
私の生まれた村は村長さんの営む牧場で生活が支えられていました。
働きや役に応じて稼ぎの差はありますが、みんなが村長さんに雇われているのです。
給金に余り差はありません。
貧乏かどうかは、もっぱら子供の数によるところが大きいのです。
うちは私を筆頭になんと五人も子供がいます。
村全体が貧乏という事は両親の稼ぎも多かろうはずがありません。
両親の少ない稼ぎで子供五人を養うという事に無理があるのです。
ご近所さんはの子供はだいたい一人か二人、多くて三人です。
「おまえには月のモノが来たら娼館に働きに出てもらう。」
私は小さな頃からそう言われて育ちました。
娼館というところがどんなところか知りませんが、そうなんだと小さな頃から思っていたのです。
この村では、娘が娼館に稼ぎに出るのは珍しいことでは無かったですし。
数年前、良く私の面倒をみてくれた近所のお姉ちゃんも娼館に稼ぎに出ました。
その日、私を可愛がってくれていたお姉ちゃんは私を抱きしめて言ったのです。
「もう会うことは出来ないだろうけど、何時までも元気でいてね。」
お姉ちゃんは、とても悲しそうで目に涙を溜めていました。
後で聞いた話ですが、娼館に稼ぎに出た娘で村に戻ってきた者はいないそうです。
お姉ちゃんの涙が気になった私は、娼館ではどんな仕事をするのと、周りの大人に聞いたのですが…。
『寝台に横になって、天井のシミを数えるのが仕事だよ。』
みんな、口を揃えたように言います。
絶対に大人達は何か誤魔化しています。
そんな仕事でお姉ちゃんがあんな辛そうな顔をするはずありません。
ただ、話を聞くうちに分かったこともありました。
稼ぎに出るというは建前も良いところ、実際は売られるのです。
娘が娼婦になると、両親は娘の稼ぎの数年分のお金を前借として受け取ります。
娘はその借金を背負わされて年季があけるまでタダ同然で働かされるのです。
年季は十年にも及ぶことがあるそうです。
それを聞いた時、私は両親を疑いました、『お金に換えるために子供をたくさん作ったのではないか』と。
とはいえ、私が稼ぎに出ることで幼い妹や弟がひもじい思いをしないで済むのならそれも仕方がないかと半ば諦めていました。
そして、私が十二歳になった一昨年の秋の事です。
その年は、夏場の天候が悪く牛の生育状況が良くなかったのです。
当然、両親の稼ぎも減る訳で、この冬私は予定を早めて娼館に働きに出ることになりました。
ですが、その寸前で私の運命を一変させる出来事が起こったのです。
もう来月には人買いがやって来るという時期になって、この村を初めて領主様が訪れます。
どうやら領主様は、私が娼婦として売りに出されるという事を村長から耳にしたようです。
私の家にお越しになった領主様は、私が売り出されることの真偽を尋ねました。
父さんがそれを認めると、領主様は言ったのです。
「そうですか。
では、そのノノさんを私が館の下働きとして雇い入れたいと思います。」
最初、その申し出に父さんが難色を示しました。
父さんは人買いが置いて行く前借金を当てにしていました。
下働きの払いは日当が普通だそうで、日々もらえる給金では冬越しにとても間に合わないのです。
すると、領主様は、冬越しの物資を購入するために、特別に五ヶ月分の給金銀貨千枚を先払いしてくださると言うのです。
どうやら、父さんとってそれは予想以上の金額だったようで、私は領主様のもとで下働きをすることになったのです。
私はいったい幾らで売られる予定だったのでしょうか…。
**********
その日から私の生活は一変しました。
この年、下働きとして雇い入れられたのは十人、みな貧しい家の娘達です。
それぞれ、手の足りない所にばらばらに割り当てられました。
私が割り当てられたのは厨房でした。
主な仕事は、水汲み、湯沸かし、野菜の皮むき、道具と食器洗い、そして厨房の掃除です。
仕事を割り当てられたその日、さっそく厨房へ行くと料理長に言われました。
「おまえ、小汚い格好をしているな。
ここは領主様に召し上がっていただく料理を作る場所だ。
そんな汚いナリで入って来るな。
まずは、そこの釜から桶にお湯を汲んで自室で体を洗ってこい。
部屋に下働き用の服を用意してあるはずだからそれに着替えろよ。
あっ、それから部屋に石鹸を置いてある、体はそれで洗うんだぞ。」
料理長の話では不潔な格好で食材に触れると、それを使った料理でお腹を壊すことがあるそうです。
万が一にも、領主様にそんなことがあったら許されないので、清潔にするように心掛けろと言われました。
それから毎日、体を清潔に保つのが私の日課となりました。
そのために用意された石鹸なんて、平民では滅多に使えない贅沢品です。
これが無償で支給されるなんて、嘘のようです。
それに、下働き用のお仕着せの服だって、毎日替えるようにと六着も用意されてました。
領主様のもとで働く者の中では一番粗末な格好だそうですが、…。
ぶっちゃけ、私が村で着ていた継ぎはぎだらけの服より数段上等です。
領主様のもとで働くことになって、最初のうち一番うれしかったのは食事です。
朝晩、お腹いっぱいごはんが食べられるなんて夢の様でした。
しかも、噂でしか聞いたことが無い小麦で出来たパンが食べられるのです。
村ではパンなんて贅沢品で、ライ麦の粉を練った物をスープに入れて食べるのが主食でした。
そうでなければ、茹でた豆か、ジャガイモですね。
パンなんて、年に何回食べることが出来たか…。
それも、ライ麦で作った黒っぽくて、酸っぱくて、固いパンです。
白くて、柔らかい、しかも甘い香りがするパンなんて、お伽噺の中でしかないものだと思っていました。
他にも、野菜たっぷりのスープが毎食付くほか、魚料理か肉料理が一品付くのです。
食べられる物は雑草でも食べると言う生活をしていた私は、心の底からここに来てよかったと思いました。
私達下働きは全員が五ヶ月分の給金を前借りしてしまい、当面五ヶ月は給金は支払われません。
当然ですね。
ですが、給金とは別に食事はお腹いっぱい食べられますし、お仕着せの服も支給されます。
住む部屋も無償なんですよ。
私達は給金の出ない五ヶ月の間も何一つ不自由はありませんでした。
**********
あっ、食べることばかりになってしまいましたね。
肝心の仕事ですが、調理場の朝は早いです。
私は朝五時に起きて、釜でお湯を沸かすための水汲みをします。
領館の中庭にある井戸から桶に水を汲んで毎朝五往復ほど大釜に水を足すのです。
最初は私みたいな子供が水運びなどできるのかと調理場の皆さんが心配していました。
農村の小娘を馬鹿にしてはいけませんよ、水汲みは子供の仕事です。
毎朝、村に一つしかない井戸から私が水を汲んでいたのですから。
第一、この館の井戸には手押しポンプというものが付いています。
これにはビックリしました、大した力も要らずに水が汲めるのですもの。
村の井戸なんか、縄の先についた桶を井戸に投げ込んで引っ張り上げるんですよ。
それに比べたらどんだけ楽な仕事かって。
道具洗いや食器洗いだって苦になりません、沸かしたお湯を使って良いのですもの。
むしろ、寒い冬にはご褒美です。
仕事の内容はどれも苦になるものは無く、まじめに取り組めば何とかなるものばかりでした。
ただ、強いて言えば、出来る出来ないよりも戸惑うことがありました。
それは、調理場に限らないのですが、掃除です。
最初、掃除を命じられてやってみたら、料理長から酷く叱られました。
「最初に言ったが、ここは領主様に召し上がっていただく食事を作る場所だ。
料理に埃一つ入ることも許さない。
なのに、なんだ、この掃除のザマは。
床にはゴミが残っているし、作業台の上にも細かい野菜屑が落ちているじゃないか。」
と料理長は言います。
料理長の指さす先を見ると爪の先程の小さな野菜屑が作業台に付着していました。
『えっ、これすら許されないのですか』、それが私の正直な感想です。
だって、村ではロクに掃除なんてしないのですよ。
常にきれいにしているのは、牛が病気になったら困る牛舎くらいなものです。
そもそも、村では地面に落ちた食べ物でもそのまま拾って食べるのです。
埃一つ入ることが許されないなんて、想像も出来ません。
結局、初日は料理長の監視のもと三回も掃除をやり直しさせられたのです。
「よし、これで良いだろう。
これから、毎朝仕事を始める前と毎晩仕事を終える前にこの通りに掃除をするんだ。
よく覚えているように。
ああ、それからお前の自室、同じような心構えで掃除をしておけよ。
普段から身の回りを清潔にしておくことが、調理場で働く者の心構えだ。
時々、抜き打ちでチェックするからな。」
ヘトヘトに疲れた私に無情にも料理長はそう言ったのです。
まあ、慣れればそれも大した苦にはならなくなりましたが、料理長の清潔さに対する拘りには戸惑わされました。
**********
仕事の時間ですが、普通、領主の館で働く者の就労時間は朝八時から夕方六時迄です。
ただ、今回雇われた下働きは朝八時から夕方四時までの就労時間となっています。
給金が安いから時間が短いのではありません。
領主の館で働く者は、文字の読み書きや計算が出来ないと困るそうです。
そうでないと、本当に小間使いにしかならないから。
私達十人は全員極貧の生まれです。文字の読み書きなど出来るはずありません。
という事で、夕方四時から読み書き計算の修得の時間です。
領主様は、私達のために王都から領主様の家庭教師をされていた方をお招きしたのです。
この国では、読み書き計算ができるのは貴族様と一部のお金持ちだけです。
私の生まれた村では、読み書きが出来たのは村長だけした。
村でも、読み書き計算が出来ないから町から来た行商人にボラれたという話を聞いてます。
読み書き計算が出来るという事はそれだけで生きていく上で有利なのです。
そんな読み書き計算を無償で教えて頂けるなんて、なんて有り難いことなのだろう。
私は領主様に心から感謝しました。
ところが、期待は裏切られます。
私が働く厨房は勤務時間が他の人と違うのです。
私の勤務時間は、朝の五時から八時、昼の十一時から午後一時、それに午後四時から七時です。
読み書き計算の修得の時間は、夕食の準備と後片付けをしているのです。
私は泣く泣く読み書き計算の修得を諦めようとしていました。
それがとんでもない幸運なことだと知らずに…。
町にお住まいの方は教会に暦があるので、誕生日を基準に年齢を数えるそうですが。
私が生まれた農村では、暦なんてものは無く生まれた年で年齢を数えます。
生まれた年が一歳で、年が改まるごとに一つずつ歳を取ります。
まあ、暦があったとしても、村の者全員が文字の読み書きができないのです。
当然、誕生日を書き留めて置くことなどできません。
結局は今の様に歳を数えるしかなかったのだと思います。
私が生まれた村はとても貧乏な村でした。
その中でも私の家は輪をかけて貧乏で、日々の食べ物にも事欠く有様です。
貧乏の理由は、子供の私でも分かるのですけどね…。
何故か、私の家は子供が多いのです。
私の両親は村長さんの牧場で雇われて牛の世話やチーズを作る仕事などをしています。
うちの親はというより、村人のほとんどがそうなのですが。
私の生まれた村は村長さんの営む牧場で生活が支えられていました。
働きや役に応じて稼ぎの差はありますが、みんなが村長さんに雇われているのです。
給金に余り差はありません。
貧乏かどうかは、もっぱら子供の数によるところが大きいのです。
うちは私を筆頭になんと五人も子供がいます。
村全体が貧乏という事は両親の稼ぎも多かろうはずがありません。
両親の少ない稼ぎで子供五人を養うという事に無理があるのです。
ご近所さんはの子供はだいたい一人か二人、多くて三人です。
「おまえには月のモノが来たら娼館に働きに出てもらう。」
私は小さな頃からそう言われて育ちました。
娼館というところがどんなところか知りませんが、そうなんだと小さな頃から思っていたのです。
この村では、娘が娼館に稼ぎに出るのは珍しいことでは無かったですし。
数年前、良く私の面倒をみてくれた近所のお姉ちゃんも娼館に稼ぎに出ました。
その日、私を可愛がってくれていたお姉ちゃんは私を抱きしめて言ったのです。
「もう会うことは出来ないだろうけど、何時までも元気でいてね。」
お姉ちゃんは、とても悲しそうで目に涙を溜めていました。
後で聞いた話ですが、娼館に稼ぎに出た娘で村に戻ってきた者はいないそうです。
お姉ちゃんの涙が気になった私は、娼館ではどんな仕事をするのと、周りの大人に聞いたのですが…。
『寝台に横になって、天井のシミを数えるのが仕事だよ。』
みんな、口を揃えたように言います。
絶対に大人達は何か誤魔化しています。
そんな仕事でお姉ちゃんがあんな辛そうな顔をするはずありません。
ただ、話を聞くうちに分かったこともありました。
稼ぎに出るというは建前も良いところ、実際は売られるのです。
娘が娼婦になると、両親は娘の稼ぎの数年分のお金を前借として受け取ります。
娘はその借金を背負わされて年季があけるまでタダ同然で働かされるのです。
年季は十年にも及ぶことがあるそうです。
それを聞いた時、私は両親を疑いました、『お金に換えるために子供をたくさん作ったのではないか』と。
とはいえ、私が稼ぎに出ることで幼い妹や弟がひもじい思いをしないで済むのならそれも仕方がないかと半ば諦めていました。
そして、私が十二歳になった一昨年の秋の事です。
その年は、夏場の天候が悪く牛の生育状況が良くなかったのです。
当然、両親の稼ぎも減る訳で、この冬私は予定を早めて娼館に働きに出ることになりました。
ですが、その寸前で私の運命を一変させる出来事が起こったのです。
もう来月には人買いがやって来るという時期になって、この村を初めて領主様が訪れます。
どうやら領主様は、私が娼婦として売りに出されるという事を村長から耳にしたようです。
私の家にお越しになった領主様は、私が売り出されることの真偽を尋ねました。
父さんがそれを認めると、領主様は言ったのです。
「そうですか。
では、そのノノさんを私が館の下働きとして雇い入れたいと思います。」
最初、その申し出に父さんが難色を示しました。
父さんは人買いが置いて行く前借金を当てにしていました。
下働きの払いは日当が普通だそうで、日々もらえる給金では冬越しにとても間に合わないのです。
すると、領主様は、冬越しの物資を購入するために、特別に五ヶ月分の給金銀貨千枚を先払いしてくださると言うのです。
どうやら、父さんとってそれは予想以上の金額だったようで、私は領主様のもとで下働きをすることになったのです。
私はいったい幾らで売られる予定だったのでしょうか…。
**********
その日から私の生活は一変しました。
この年、下働きとして雇い入れられたのは十人、みな貧しい家の娘達です。
それぞれ、手の足りない所にばらばらに割り当てられました。
私が割り当てられたのは厨房でした。
主な仕事は、水汲み、湯沸かし、野菜の皮むき、道具と食器洗い、そして厨房の掃除です。
仕事を割り当てられたその日、さっそく厨房へ行くと料理長に言われました。
「おまえ、小汚い格好をしているな。
ここは領主様に召し上がっていただく料理を作る場所だ。
そんな汚いナリで入って来るな。
まずは、そこの釜から桶にお湯を汲んで自室で体を洗ってこい。
部屋に下働き用の服を用意してあるはずだからそれに着替えろよ。
あっ、それから部屋に石鹸を置いてある、体はそれで洗うんだぞ。」
料理長の話では不潔な格好で食材に触れると、それを使った料理でお腹を壊すことがあるそうです。
万が一にも、領主様にそんなことがあったら許されないので、清潔にするように心掛けろと言われました。
それから毎日、体を清潔に保つのが私の日課となりました。
そのために用意された石鹸なんて、平民では滅多に使えない贅沢品です。
これが無償で支給されるなんて、嘘のようです。
それに、下働き用のお仕着せの服だって、毎日替えるようにと六着も用意されてました。
領主様のもとで働く者の中では一番粗末な格好だそうですが、…。
ぶっちゃけ、私が村で着ていた継ぎはぎだらけの服より数段上等です。
領主様のもとで働くことになって、最初のうち一番うれしかったのは食事です。
朝晩、お腹いっぱいごはんが食べられるなんて夢の様でした。
しかも、噂でしか聞いたことが無い小麦で出来たパンが食べられるのです。
村ではパンなんて贅沢品で、ライ麦の粉を練った物をスープに入れて食べるのが主食でした。
そうでなければ、茹でた豆か、ジャガイモですね。
パンなんて、年に何回食べることが出来たか…。
それも、ライ麦で作った黒っぽくて、酸っぱくて、固いパンです。
白くて、柔らかい、しかも甘い香りがするパンなんて、お伽噺の中でしかないものだと思っていました。
他にも、野菜たっぷりのスープが毎食付くほか、魚料理か肉料理が一品付くのです。
食べられる物は雑草でも食べると言う生活をしていた私は、心の底からここに来てよかったと思いました。
私達下働きは全員が五ヶ月分の給金を前借りしてしまい、当面五ヶ月は給金は支払われません。
当然ですね。
ですが、給金とは別に食事はお腹いっぱい食べられますし、お仕着せの服も支給されます。
住む部屋も無償なんですよ。
私達は給金の出ない五ヶ月の間も何一つ不自由はありませんでした。
**********
あっ、食べることばかりになってしまいましたね。
肝心の仕事ですが、調理場の朝は早いです。
私は朝五時に起きて、釜でお湯を沸かすための水汲みをします。
領館の中庭にある井戸から桶に水を汲んで毎朝五往復ほど大釜に水を足すのです。
最初は私みたいな子供が水運びなどできるのかと調理場の皆さんが心配していました。
農村の小娘を馬鹿にしてはいけませんよ、水汲みは子供の仕事です。
毎朝、村に一つしかない井戸から私が水を汲んでいたのですから。
第一、この館の井戸には手押しポンプというものが付いています。
これにはビックリしました、大した力も要らずに水が汲めるのですもの。
村の井戸なんか、縄の先についた桶を井戸に投げ込んで引っ張り上げるんですよ。
それに比べたらどんだけ楽な仕事かって。
道具洗いや食器洗いだって苦になりません、沸かしたお湯を使って良いのですもの。
むしろ、寒い冬にはご褒美です。
仕事の内容はどれも苦になるものは無く、まじめに取り組めば何とかなるものばかりでした。
ただ、強いて言えば、出来る出来ないよりも戸惑うことがありました。
それは、調理場に限らないのですが、掃除です。
最初、掃除を命じられてやってみたら、料理長から酷く叱られました。
「最初に言ったが、ここは領主様に召し上がっていただく食事を作る場所だ。
料理に埃一つ入ることも許さない。
なのに、なんだ、この掃除のザマは。
床にはゴミが残っているし、作業台の上にも細かい野菜屑が落ちているじゃないか。」
と料理長は言います。
料理長の指さす先を見ると爪の先程の小さな野菜屑が作業台に付着していました。
『えっ、これすら許されないのですか』、それが私の正直な感想です。
だって、村ではロクに掃除なんてしないのですよ。
常にきれいにしているのは、牛が病気になったら困る牛舎くらいなものです。
そもそも、村では地面に落ちた食べ物でもそのまま拾って食べるのです。
埃一つ入ることが許されないなんて、想像も出来ません。
結局、初日は料理長の監視のもと三回も掃除をやり直しさせられたのです。
「よし、これで良いだろう。
これから、毎朝仕事を始める前と毎晩仕事を終える前にこの通りに掃除をするんだ。
よく覚えているように。
ああ、それからお前の自室、同じような心構えで掃除をしておけよ。
普段から身の回りを清潔にしておくことが、調理場で働く者の心構えだ。
時々、抜き打ちでチェックするからな。」
ヘトヘトに疲れた私に無情にも料理長はそう言ったのです。
まあ、慣れればそれも大した苦にはならなくなりましたが、料理長の清潔さに対する拘りには戸惑わされました。
**********
仕事の時間ですが、普通、領主の館で働く者の就労時間は朝八時から夕方六時迄です。
ただ、今回雇われた下働きは朝八時から夕方四時までの就労時間となっています。
給金が安いから時間が短いのではありません。
領主の館で働く者は、文字の読み書きや計算が出来ないと困るそうです。
そうでないと、本当に小間使いにしかならないから。
私達十人は全員極貧の生まれです。文字の読み書きなど出来るはずありません。
という事で、夕方四時から読み書き計算の修得の時間です。
領主様は、私達のために王都から領主様の家庭教師をされていた方をお招きしたのです。
この国では、読み書き計算ができるのは貴族様と一部のお金持ちだけです。
私の生まれた村では、読み書きが出来たのは村長だけした。
村でも、読み書き計算が出来ないから町から来た行商人にボラれたという話を聞いてます。
読み書き計算が出来るという事はそれだけで生きていく上で有利なのです。
そんな読み書き計算を無償で教えて頂けるなんて、なんて有り難いことなのだろう。
私は領主様に心から感謝しました。
ところが、期待は裏切られます。
私が働く厨房は勤務時間が他の人と違うのです。
私の勤務時間は、朝の五時から八時、昼の十一時から午後一時、それに午後四時から七時です。
読み書き計算の修得の時間は、夕食の準備と後片付けをしているのです。
私は泣く泣く読み書き計算の修得を諦めようとしていました。
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