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第60話 「コーヨーは、どうしてほしい?」
しおりを挟む終わりかけの夏の夜空は、名残惜しそうに、薄く灰色の雲で月を覆っていた。
薄いショールのような灰色の雲は、月の光と夜空の藍色とともに、紫と白色が水彩絵の具を混ぜたパレットみたいな色を作り上げる。
それでも月の光は煌々と輝く。
夜空をただの暗闇に終わらせることはしない、夜の青さを照らすように。導くように。
飲み会も終わりに近づいていて、こっそり先に店から抜け出した。
このまま飲み会が終わってしまっては流れにのってしまうだけで、なんの覚悟もできず、自分が何を選ぶべきかもわからない。だから外の空気を吸って、もう一度ちゃんと考えたかった。
だいぶ涼しくなってきた夜風が、オーバーワークで熱を噴き出しそうな頭と肌を冷ましてくれる。
街灯を避けて、空を見あげれば、はっきりと少し欠けた月が見えた。
ともすれば黒に傾きそうな濃紺の空は、月の光の先で、なにもかも包み込みそうな花紺青色を広げる。暗くても、その深さはどんなことでも受け入れそうな、許容してしまいそうな、見惚れるような青。
いったいいつから、夜の青色に、あのひとを重ねるようになっただろうか。
真夏の青空のようなひとだと、ずっとそう思っていた。
ただ、見ているだけしかできないころは。
見ていただけのものに、実際に触れられるようになってからは、ただの憧れだったものが形のある、現実味のある存在として認識しだした。
学食のテーブルに置かれていた大きな手をよく見ていた。バスケットボールを簡単につかめそうなしっかりした手。指先の爪は、恋人がいるときはマメに切っていた。
だけど。実際に触れられたら、簡単に頭を包んでしまうくらいの大きさだと知って。髪に触りながらでも、耳朶に届くほどの長さの指と知って。
ただの爪切りじゃなくて、わざわざひっぱりだしてきたヤスリで滑らかにされた爪の先。そうして身体の輪郭をなぞっていった、指先。
先輩がただの先輩じゃなくて、僕にとって特別な先輩になった日。宅飲みで観た映画。
ふだんは無邪気な好青年らしい笑顔を見せていた先輩が、静かに観ていた。暗い部屋のなかで、まっすぐ映画を見つめる横顔。暗い部屋でポツリと、誰に聞かせるわけでもないように「こういう悲しいの、なんか、やだな」と呟いた言葉。
そんないつもと違う顔を、もっと知っていった。やわらかい夏の木漏れ日みたいな、とても嬉しそうな微笑みを見たり。そう思えば、穏やかなものではない、なにかを乞うような、耐えるような目。悪戯をしかけるように笑いながら、やさしく触れる唇の感触。
見ていたけど、僕の知らなかった青葉先輩のいろんなところ。
知れば知るほど。ひとつひとつ丁寧に心の宝物箱にしまっていった。心の区画に用意してある宝物庫は、誕生日ケーキのロウソクのようにきらめいて。確かなぬくもりと一緒のもので溢れて。先輩と会うたびに、宝物が増えていって今にも零れてしまいそうだから、心を専有するスペースは大きくなるばかりでで。
机の上に置かれたままの、ピアスをいれるだけのケースとは大違いだ。
耳に触れれば、あるのは丸い曲線を描く、硬い石。
硬い、なんて当たり前のことすら、不思議に思ってしまう。
だって先輩は、壊れ物を扱うように、ていねいにていねいに触れていたから。
慎重に扱わないと壊れるような、宝物みたいな、触り方で。
先輩に触られたときの指の感触と、さっき見た、自分のピアスを触る青葉先輩を思い出して、ゾクリと身体が震える。
「なー次どこいくのか決まってんのー? 幹事ー?」
急にがやがやと騒がしくなって、ハッとする。
ふりむけば、店内から飲み会メンバーがだらだらと外に出てきていた。
「わっ。思ったより冷えてんなー」
「さっさと飲み直そうぜ」
二次会へとうつろうとしていく学生たちの中で、その人はすぐに見つけられた。
黒い短髪に、高い身長。
薄暗がりでもわかる、深めの赤色のパーカー。
「なあ、青葉も行くだろ?」
「いや、オレは……」
青葉先輩は誘ってきた同級生のほうを見ずに、視界を巡らす。
そして、離れたところにいる、僕を見た。
今日、はじめて。
ようやく、交わった視線。
まっすぐこちらを射貫く、目。
思わず息を止めて、左耳のピアスを握り込んでいた。
先輩は「二次会には参加しない」とあらかじめ連絡してくれていた。
だけど、それについて僕は「わかりました」としか返事をしていなかった。具体的なことは何も告げていない。
ただ漠然と、言わなきゃいけないと、思っていた。
もう、これ以上、この関係を続けるのはやめよう、と。
そう決めていた。覚悟していた。
青葉先輩がゆっくり、目線を外さないまま、こっちへ近づいてくる。
一歩一歩、距離が縮まるのにあわせて、僕の心臓はどんどん早くなる。
言わなきゃ。言わないと。
でも何を言えばいいんだ? なんて伝えればいいんだ?
いきなりここで言い出すのもおかしい。「話があるんです」って?
でも、そこで。
いったいぼくは、なにを、言うべきなんだ?
干上がっていく喉はなんの言葉も発せない。一音たりとも音を紡げない。
そもそも何を口にしたらいいのか、混乱が終わってない頭は、何の結論もでてない。
反射的に逃げたくなって、足を引きそうになる。
でも、ずっと僕を捉える目のせいで、動くこともできない。
近づくにつれて、周りの街灯や飲食店の看板の灯りと、薄雲の月の光で薄ぼんやりとしていた姿がよく見えてくる。
それでも、もともと店から離れたところにいたから、みんながいるあちら側は明るいけど、僕のいるところは、暗い。
こちらに近づいてくるにつれて、はっきりと先輩の姿が見えてくるけれど、近づくほどに、髪や鼻梁がつくる影が濃くなる。そんな陰影をつくりだすさまはいつもの太陽みたいな様子とは違って。
紅葉色のパーカーが店の看板に照らされて、鮮やかにその赤色を見せつけて。けれどパーカーの皺がつくる影すら濃くなっていく。
なによりも、先輩はまっすぐ口を引き結んで、笑顔もなにも浮かべていない。真剣な顔つき。なにを考えているか、ちっともわからない。
一ミリも動けなくなった僕から、三歩くらい離れたところで先輩は立ち止まる。街灯で照らされた先輩と、境界があるみたいに影のなかにいる僕。
手を伸ばせば届きそうな距離。でも、逆に言えばそうでもしなきゃ届かないような距離。
「……コーヨー」
小さいけれど、絶対に聞き逃すことなんてない声が僕を呼ぶ。
先輩はまっすぐ僕を見つめたまま、もう一度口を開こうとする。
「コーヨーは、」
思考回路がストップした僕に向かって、先輩が何か言おうとしたとき。
先輩の向こう側からした声がそれを遮る。
「青葉―! お前も二次会行くだろー?」
明るくて軽い呼び声。ケイタさんが青葉先輩に向かって叫ぶ。
二次会へ行くであろうメンバーがかたまっていて、その中からケイタさんが先輩に呼びかけていた。
その声でようやく先輩は僕から目をそらす。後ろを振り返ったからだ。
「いや、オレは――」
先輩が向いた視線につられてケイタさんたちがいる集団を見る。
そして、心臓が跳ねた。
「あおばぁー、次のお店いこうよー。もっと聞きたいことあるし」
親し気に、楽しそうに、ゆるやかな髪をたなびかせて、水色のストールをまとったエミさんが笑顔で手を振っている。
跳ねた心臓が凍りつく。いや、ずっと心臓の中に残っていた、氷の欠片が内側からグサリと心臓の内側を刺したみたいだった。
そこにいて、まるで当たり前のような存在。
明るくて可愛くて社交的で、なによりも、女性のひと。
エミさんたちがいるところはちょうど店の前だから、夜でも明るくて。街灯の白い光が照らしている。
網膜にエフェクトがかかったみたいに、コントラストが強くなって一層まぶしく見える、あちら側。
ああ、そうだ。本当は先輩がいるべきは、『あちら』側だ。
こっちじゃない。こんな風にうじうじと悩んで、街灯の光からすら避けて、影の中にいる『こっち』とは。
後ろめたいことなんて何ひとつない、明るい、光のなかで堂々と笑っていられる『あちら』側。
ヘンな嘘もつく必要もない、ただ『普通』に笑うことが許されている。
――だから、先輩を『あちら』側に戻ってもらおうと、決めたんだろう?
例え今。その明るさをやり過ごそうと目をつぶっても。どうせまた同じような光景を見ることになる。
そのたびに先輩の優しさにつけこんで、自分の心臓にささった氷の欠片を見ないフリして過ごしていくのか。
そんなこといつか破綻する。
それなら。
まだ、いまなら、もしかしたらただの『先輩』と『後輩』として、もう一度元に戻れるのかもしれないから。
そうだ、なにを恐れる必要がある。
元に戻る、それだけだ。
この夏のあいだが、イレギュラーだっただけ。あるべきところに戻るだけ。
それでキリキリと胸のどこかがきしむ音を上げていても。呼吸すらままならない冷たさが襲ってきていても。
それなら、僕が言うべきことは。
「――コーヨー」
凍えた心臓の血が全身に広がって、指先まで冷え切ったとき。
『あちら』側を見ていた先輩が、こっちへ振り返る。
光に照らされて。だけど、その分、ハイライトが強すぎて、影が濃くなって。先輩の横顔の半分は影に覆われて。
まるで、『あちら』と『こっち』の境目に、立っているのを表すみたいに。
「コーヨーは、どうしてほしい?」
静かに。けれどはっきりと。
軽薄さも軽率さもなく。
先輩はまっすぐに、僕に問いかけてきた。
「――っ、ぼく、は」
言えばいい。聞かれたのだから、素直に。明快に。
――僕のことは気にしなくていいから、あっちへ行ってください。
――それで、いまみたいな関係は、この先は。この後は。これからは。
口にしたらいい。言えばいい。
なのにおかしい。舌がもつれて、唇は震えて動かない。
「コーヨーは、どうしたい?」
青葉先輩が重ねて問いかけてくる。
こんな時なのに、ああ、背が高いから、見下ろす形になっている先輩の睫毛がキレイだな、なんて、思ってしまう。
どう、したい?
僕が、先輩に、なにをしてほしいか、って?
ドクドクと鳴るなにかがうるさい。
それはきっと、激しくなる心音が頭に鳴り響いているせいだけど。そんなことにかまっている場合じゃなかった。今更、心臓のひとつやふたつ破裂するくらいどうでもいい。
それよりも。先輩に聞かれてるんだから、ちゃんと答えなきゃ。
言わなきゃ。
「ぼく、は」
震える舌と口をなんとか動かす。自分のものじゃないみたいだ。
ああ、そういえば。
この舌と唇を、先輩の唇と舌で食まれたら、まるで自分の体の一部じゃなくなったような錯覚を思い出す。
ふいに。
先輩の右耳のピアスが、やけにはっきりと煌めいて見えた気がした。
瞬間。怒涛のように思い出す。
泣いたときに優しくあやしてくれた大きな手。マーキングだなんて言って渡された黒のパーカー。ワザと泣かせようと悪趣味じみた思惑で見せられた映画。冗談みたいにかすめとられた唇。キス魔なのかと疑うほど何度もされたキス。僕の身体をいちから作り直そうとするように触れてくる指先。
それにつられて浮かんでくる先輩の言葉。
――オレは思うよ。触りたい、って
――コーヨーの嫌なことを、無理してしたくないし
――オレは、お前を甘やかす権利がほしい
そんな上質なリキュールを注ぎ込んで酩酊させるような言葉たち。
それと一緒に投げかけられた言葉。
――コーヨーが、してほしいことは、ちゃんと言ってほしい
ああ、そうか。
青葉先輩は、ずっと僕に聞いてたのか。
その答えを、待って、いた、のか。
「ねー! 青葉ー!」
離れたとこで聞こえる、青葉先輩を呼ぶ声。
同じようなことがあった花火大会の時も、学食の時も。
怖くて。嘘をとりつくろって、その場から逃げ出した。
でも、今。先輩から聞かれているのは。
心臓が体のすべてになったみたいに、バクバクとうるさい。
――ぼくが、せんぱいに、のぞむこと。
「……あー、ちょっと待っ、て…」
あちらを振り向こうとした青葉先輩。
だけど。その言葉も動きも中途半端に止まった。
それは、手を伸ばさないと届かない距離を。
その距離を埋めるように、手を伸ばしたから。
先輩のパーカーの裾を、僕が、つかんだから。
驚いたように僕を振り返る青葉先輩。
とっさに伸ばしてしまった手。そんなつもりのなかった行為。
思考放棄した頭は純粋な衝動のまま突き動かされた。
「……いや、です」
そして唐突に沸き上がった衝動は、自分でも自覚していなかった言葉を吐き出させた。
「あっちに、行ったら、イヤ、です」
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