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第57話 「準備できてんの、まだ?」

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 夕闇。
 夏の大きな雲が沈む夕焼けへと流れていって、どんどん細くなるオレンジが混ざる紫色の水平線。オレンジ色が沈んでいくほどに、薄暗い灰色と紺色の雲が夜に広がる。

 見惚れるような、沈んでいく夕焼けを覆い隠すような、どんよりとした雲が、まるで自分の心情のようだった。
 大学近くの、学生向けの居酒屋が多い通り。今日の飲み会の会場である店の前に、ほとんど知らない人のなかにいくつかの知った顔がまざった集団が集まっている。
 さっとその集まっている面子を見る。その中に青葉先輩がいないことに気づいて、いつのまにか緊張で強張っていた肩の力がゆるんだ。

「あ、コーヨー。こっちこっち」
「……ケイタさん、おつかれさまです」
「コーヨーさん、こんばんはー」

 映研メンバーで集まっているのはケイタさんとサカイさんが先だったようだ。
 他には名前も知らない人たちが多い。きっと、エミさんのところのゼミのひとと、演劇部や、そうしたゼミなどの関係者だろう。
 まだ、青葉先輩がきていない、ということに内心でホッとしてしまう自分に、自己嫌悪する。

 結局、飲み会がはじまるまで連絡をとることができなかった。
 こういうとき「話がある」とか言ったほうがいいんだろう、と思っていても、話す内容が内容だけに、なんと切り出せばいいかわからなかった。
 わからなかったし、問題を先送りにしようとしていた。
 こわいことから、目をそらしてくて。

 だけど。輝いていた太陽が、ゆっくりと橙色の姿を消して、ひたり、ひたりと、夜がくるように。
 紫の混じった藍色の空が広がるころに、声が聞こえた。

「――おー、もうけっこう集まってんな」

 心臓が跳ねた。
 振り向かなくても、その声の持ち主が誰かなんてわかる。
 ケイタさんが、僕の頭越しに青葉先輩に話しかける。

「おっ青葉、きたか。いまから人数数えるとこだぞー。あれ? なに、一緒に来たんですか!?」

 跳ねた心臓が口からゴロリと転がり出そうになる。
 一緒に? だれと? 青葉先輩ひとりできたんじゃないのか。

 一緒に来た人が、エミさんだったら。

 そう考えただけで、身体が動かなくなってすべての覚悟も意地も崩れてしまう。
 呼吸が浅くなる。
 ああ、もう、こわくて、振り向きたくない。

「おひさしぶり、合宿以来……かな?」

 だけど予想に反して、後ろから聞こえてきた声は涼やかな、凛とした声だった。

「いやぁナツメさんおひさしぶりです! 今日きてもらってうれしいです! 青葉と一緒にきたんですか?」
「ケイタくん、お誘いありがとう。青葉くんはさっき、あそこのコンビニで一緒になったから、たまたま。コーヨーくんも、久しぶり!」

 ぽん、と気軽に叩かれた肩。横を見ればサラリと流れる、まっすぐな黒髪。
 モデルみたいなキレイな顔立ち。
 なんで忘れていたのか。
 飲み会に参加すると、聞いていたのに。
 そして一緒にきたのがこの人で、どこかでホッとしている自分がいる。

「ナツメ、さん」

 ナツメさんは悪戯が成功したみたいな顔をしていたけど、その目には心配そうな色がうつっていた。

「……ねえ、コーヨーくん、」
「――ケイタ、もう店にはいる準備できてんの、まだ?」

 ナツメさんが何かを言おうとしたとき、ナツメさんごしに横を通ったひとがいた。


 会うのが、見るのが、怖いと思っていたその人は、あっさりと僕の視界にはいってきた。
 グレーのシャツに、黒のスラックス。よく見えないけど、手には暗い色のパーカーを着ている。全体的にモノトーンで構成された恰好。ともすれば、夜に溶けてしまいそうな。
 そんな青葉先輩は、こちらをチラリとも見なかった。
 そのまま横を通り過ぎて、まっすぐ歩いていく。
 振り向くこともなく。


 ――今日まで避けていたのは自分自身だ。
 ――つい数秒前だって、その姿を目にするのが怖かったのは自分だ。

 なのに。
 少しも目線があわないことも。話しかけられないことも。
 コーヨー、と、あの笑顔で呼ばれないことが。
 こんなにツラいことだなんて。
 おかしい。まだ、夏のはずなのに。
 なんで身体の中心からこんなに、凍えているんだろう。

 夏の終わりの風が、涼しさを超えていっそ寒気を呼ぶように、一つ吹いた。

「……コーヨーくん」
「……」
「コーヨーくん! 飲み会はじまる前にちょっといい?」
「……えっ? あ、えっと、はい」

 放心していてナツメさんの呼びかけに気づかなかった。そんな僕をナツメさんは眉を寄せて見ている。
 きっと今の僕は血の気が引いて、顔は青ざめていることだろう。
 少しずつ、集まっていた人が店の中にはいっていく。その流れには乗らないで、ナツメさんはこっそりと店の裏手へと進む。僕もぎこちない足でそれについていった。
 裏手にくれば、一気に喧騒も遠くなる。他の人から見えない角度なのを確かめてから、ナツメさんは僕に向き合った。

「……コーヨーくん、大丈夫?」
「え、はい、大丈夫、です」

 反射的に答えれば、ナツメさんはキレイな顔を困ったように曇らせる。

「ごめん、もしかして私が参加するっていったから……二人とも参加することになっちゃった?」

 二人、というのが、僕と青葉先輩だということはすぐにわかった。
 確かにナツメさんが参加するなら、ということで、了承したところはある。
 でも、もしナツメさんがいなかったら。青葉先輩だけが参加していた、かも、しれない。

「いえ……そういうわけじゃ、ない、です」
「このあいだ会った時に、青葉くんの元カノの話が出たから、気になって参加することにしたんだけど……なんかそれどころじゃないみたい、ね」

 はあ、とナツメさんが大きなため息を吐き出す。

「――青葉くんとうまくいってないの?」

 直球で聞かれた質問に、すぐに答えられなかった。
 うまくいっているのか、いないのか。
 そもそも青葉先輩と僕のつきあいかたは、なにがうまくいってて、なにがうまくいってないのだろう。
 ただ。つきあうのをやめようと、話すことを決めているのは、きっと、うまくいっているわけではない。

 その逡巡を肯定と受け取ったのか、ナツメさんは心配そうに眉を寄せた。

「さっき青葉くんに会った時に、コーヨーくんのこと聞いたら、はぐらかされたし……お店についてもコーヨーくんに声かけないし、コーヨーくんは今にも飛び降りそうな顔してるし」
「えっ、僕そんな顔してます、か?」

 まずい。そんな明らかに顔にでていたのか。
 それは困る。だって、周りには。普通の後輩の顔をしないと。
 ナツメさんは横に首を振る。

「ううん、別になにも知らなかったら、ちょっと元気ないなって思うくらいだけど。元カノさん……エミさんだっけ? なにかあったの?」
「……いえ、エミさんとは。別に、なにも、ないです」
「青葉くんがそんなことするとは思わないけど、もしもコーヨーくんよりエミさんのこと優先するようだったら……私と三木センパイで、青葉くん殴りに行くよ?」
「いえっ! それは! しなくて、いいので!」
「ええ、ほんとうに……?」
「本当にです、大丈夫です」

 少しでもためらったら、本当にいまにも三木センパイも呼んで、殴りに行きそうな気配を感じて慌てて反論した。どこか悔しそうにしているのは、きっと気のせいだろう。たぶん。

「じゃあ、とりあえず今は殴りにいかないでおくけど……もしも青葉くんに何かされたり、イヤなことあったらすぐに言ってね? 私はコーヨーくんの味方だからね」

 ハッキリとそう告げるナツメさんの言葉に、ほんのすこし、体があたたかくなる。
 ここ数日。ずっと思考の袋小路にいて、一人で痛みを抱えていたから。
 まっすぐに向けられた言葉が、じんわりと、氷柱をとかす陽射しのように思える。

「……僕のほう、ですか。僕が悪いことしているかもしれないんですよ?」
「それでも。たぶん三木センパイもコーヨーくんの味方につくよ」
「ははっ……三木センパイとナツメさんが味方についてくれてるなら、セコンドは安心ですね」

 三木センパイは青葉先輩の従兄弟だから、青葉先輩の味方につくんじゃないかと思ったけど、この間会った時に意気揚々と「殴りにいくか」と話している姿を思い出したら、もしかしたらこっちの味方についてくれるかもしれないな、なんて思う。
 強力すぎる二人の味方を思うと、ようやくまともに息ができるようになる。
 だけど。僕がこれからしようとしているのは、二人の気持ちを裏切ることになるかもしれないのに。
 そういえばあの時に、最近の青葉先輩のことは三木センパイより僕のほうがわかるんじゃないか、と言われたけど。
 わかったのは、一年経っても臆病なままで変わらない自分だった。

「青葉くんにイヤなことされたら、すぐに言ってよ」
「大丈夫、です。青葉先輩は……僕がイヤがることは、しない、ので」

 困ったり、恥ずかしいことはあっても、青葉先輩は僕が本当にイヤなことは、しない。
 それに何度も言われた。「コーヨーのイヤなことはしたくない」と。
 優しくて、丁寧で、誠実な青葉先輩。
 そう、だから、青葉先輩はそういって。
 むしろ「してほしいことはちゃんと言ってほしい」とまで、何度か――。

 あれ? と、その時、ふいに、疑問が浮かび上がった。

 青葉先輩はときどき意地悪で、強引だけど。
 したいことは、と聞いていた。
 甘えられないなら甘やかす、とまで宣言して。
 だけど。先輩から、そうやって尋ねられるたびに。
 僕はそのたび、なんて答えていたろうか。

「――あっ、さすがにそろそろ行かなきゃマズイかも。行ける? コーヨーくん」

 もう飲み会がはじまる時間になって、考えが途中で打ち消される。頷いて、ナツメさんと一緒にお店の中にはいっていった。
 店に入る間際。ナツメさんがつぶやいた。

「――でもやっぱり、コーヨーくんはもっと……自惚れていいと思うよ? あんな風に、アピールするくらいだし」

 後半の言葉の意味がわからなくて、だけど聞き返す前に、飲み会前の賑やかな声に紛れた。


 ◆


「それじゃエミちゃんの留学帰還祝いとーあとーそれ以外にもいろいろーあとちょっとの夏休みにーかんぱーい!」

 知らない上級生の音頭で、飲み会がはじまった。
 一応、エミさんのいるゼミ主体らしいけど、半分くらいは僕みたいに誘われてついてきた無関係な学生たちだろう。学年も性別も所属もごっちゃごちゃで、知らない人ばかりだ。
 僕のテーブルは二年生やサカイさんみたいな下級生が集まっている。
 それからテーブルを一つはさんで向こう側に、知っている顔ぶれが並んでいる。

「――ナツメさんに会えるなんてうれしいー! うちの学部でも、すっごいきれいな人がいるって有名だったんですよ!」
「そうなの? 恥ずかしいなあ」
「もう、青葉、なんでナツメさんと知り合いって教えてくれなかったのー?」
「わざわざ言うことじゃないだろ」

 エミさんの横に青葉先輩が、青葉先輩の前にナツメさんが座っている。
 エミさんは今日も、色鮮やかな水色のストールをつけていた。
 青葉先輩は淡々と返答してビールを飲んでいる。
 ぶっきらぼうに見えるけど、それでもそんな態度が許されるくらいに親しい仲なのかと。ギリ、と奥歯を噛み締める音がする。

 会話の内容が全部聞こえるわけじゃない。
 ただ、時折、気安くエミさんの白い手が青葉先輩の肩や腕に触れる。
 ぱっと明るい雰囲気のエミさんは肌が白くて、ゆるくパーマのかかった髪がハーフアップにまとめあげられて、白い首筋が見える。

 白くて華奢なその首筋を見てから、ふいにビールのグラスをつかむ自分の手を見れば、違いに呆れてしまう。
 少し焼けて、大きすぎるわけでもないけど、それでも確かに男の手で。華奢とか可憐とは程遠い。

 血が頭から、胸元から、どんどん足へと下がっていく。
 
 ああ、やっぱり、こなきゃよかった。
 わかっていたくせに。違いをまざまざと見せつけられるだけだって。
 もし。青葉先輩がほんとうに「フリー」になったその時に、隣にいるのは、エミさんではないかもしれない。
 だけど。やっぱり「お似合いだ」と思ってしまう自分がいて。

 かわいらしい、やわらかい、白い肌の女性が青葉先輩の隣にいるのを見て。
 どうやって、自惚れられるというんだろう。

「――えっ? サカイちゃんって恋人いるの?」
「へへ、いますよー。というかできたてほやほやです!」

 血の気がひいた意識の中で、目の前のサカイさんに座っているサカイさんが嬉しそうに笑っている。

「へえ、そうだったんだ」

 何事もないように、ただの先輩として変じゃないように答える。飲むと吐きそうだから、ほとんど飲むフリをしているだけのビールに口をつける。
 サカイさんの隣にいる、二年の女子生徒が「どこのひと?」「きっかけは?」と興味津々に聞いている。飲み会に恋バナは盛り上がるいいネタだ。
 つきあいたてということもあってサカイさんも話したいことがいろいろあるんだろう。楽しそうに、バイト先の先輩で、とか、でもあんまり連絡マメにくれなくて、と話している。

 それすらも、ああ、こうやってひとがいるところで、キラキラと恋人のことを話せるなんて、うらやましいな、と妬む自分がイヤだ。

 純粋に、新しい恋人ができたことを祝って、からかいながら惚気を聞くことができればよかったのに。

 醜い感情に汚染された今の僕では、どろどろとしたヘドロが喉につっかえて、笑顔を貼りつけるだけで精一杯だ。

 そうしながら、視界の端で青葉先輩とエミさんを捉えている。
 目の前のキラキラした様子と、視界にうつる青葉先輩とお似合いの女性が並んでいる姿が、まるで閃光弾みたいにまぶしすぎる光が僕を襲う。

 光はぐっちゃぐちゃの感情に埋もれた僕の影を濃くして、胃の底から這い出てきた醜い気持ちが、指の先まで黒く染めていくようだ。

 その時。ふいにエミさんが、青葉先輩の胸あたりに目を止めて。
 内緒話をするように、青葉先輩の耳に手をそえてなにかしゃべった。

 あまりにも近い距離に「ああもうだめだ」とビールのジョッキをテーブルに置いた。

 もうこれ以上は、たえられない。
 ただの後輩の顔をしているのも。
 青葉先輩の様子を盗み見て、それに一喜一憂するのも。
 そうしながら、ちらとでもいいから、自分の方を見てくれないかと期待して、交わらない目線に落ち込むのも。

 もう、もう、むりだ。

 申し訳ないけど、帰ろう。
 先輩とちゃんと話すべきだ、と残った冷静な部分の自分がいうけど、そんなこと耐えられない。
 こっそり合鍵をポストにいれて、「もうつきあうのはやめましょう」とメッセージで送ろう。
 それでおしまい。あとはもう、先輩に近づかないようにすれば、それでいい。

 これ以上、ここにいたら
 さらけ出しちゃいけない感情が、爆発して、止まらなくなりそうだから。

 ずきずきと痛む心臓を無視して、気づかれないようにこっそり飲み会を抜け出そう、と決めたとき。

「でもなんだかんだ言ってラブラブなんじゃない? ほらココ、見えてるよー」
「え、うそ!?」
「残念、そっちじゃなくて反対だよ」

 慌てたサカイさんが首筋を抑える。そして他の女生徒が指摘したように、抑えた反対側にそれがあった。

 赤い、点のような印。

 照れて顔を赤くしたサカイさんが「気づかなかった恥ずかしい」と言っているそれは、キスマークだった。

 それを見て、前に先輩につけられた心臓の真ん中がズキリと痛む。

 その痛みと一緒に。過去の光景が脳裏を巡って。
 思い出して、「あれ?」と疑問が浮かんで、立ち上がろうとする体が止まった。



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